金史

列傳第六十九:宦官(梁珫・宋珪・潘守恆) 方伎(劉完素・張從正・李慶嗣・紀天錫・張元素・馬貴中・武禎・李懋・胡德新)

列傳第六十九:宦官(梁珫・宋珪・潘守恆) 方伎(劉完素・張從正・李慶嗣・紀天錫・張元素・馬貴中・武禎・李懋・胡德新)

宦官

原文宦者

古来の宦官は皆、刑罰を受けた者から出た。刑余の身は士庶の列に加えられないので、宮寺の事を掌ることを「婦寺」と称した。東漢以来、宦官は養子を以て世を継がせた。唐代には、継ぐ者は皆、閹人であった。その初めに進むや、性質は多く巧みで慧く、便佞で、よく恩寵を固めることを善くし、その志を得るに及んで、徒党を組み糾結して制することができなかった。東漢は宦官によって亡び、唐はさらに甚だしかった。世の儒者が宦官の害を論ずるのは、毒薬や猛虎のようで救いようがないというのである。金の法は近侍局を置き、嘗て政事に関与したが、宦官は少なからず関与した。ただ海陵王の時に梁珫がおり、章宗の時に梁道・李新喜が政を幹き、二君は彼らに誤らされることが多かった。世に伝えるところでは、梁道が章宗に李妃を後宮に納れるよう勧めたというが、金史には梁道の始末を載せておらず、論じて次ぐことができない。ただ宋珪・潘守恆はよく宣宗・哀宗を諷諫し、時に補益するところがあった。これは傭の中の佼佼者、鉄の中の錚錚者と言えよう。ここに『宦者傳』を作る。

原文古之宦者皆出於刑人,刑余不可列於士庶,故掌宮寺之事,謂之「婦寺」焉。東漢以來,宦者養子以繼世。唐世,繼者皆為閹人,其初進也,性多巧慧便僻、善固恩寵,及其得志,黨比糾結不可制。東漢以宦者亡,唐又甚焉。世儒論宦者之害,如毒藥猛虎之不可拯也。金法置近侍局,嘗與政事,而宦者少與焉。惟海陵時有梁珫,章宗時有梁道、李新喜幹政,二君為所誤多矣。世傳梁道勸章宗納李妃後宮,金史不載梁道始末,弗得而論次之。惟宋珪、潘守恆頗能諷諫宣、哀,時有裨益,蓋傭之佼佼、鐵之錚錚者也。作《宦者傳》。

梁珫

原文梁珫

梁珫は、元来は大抃の家奴であり、元妃に随って宮中に入り、閹豎として海陵王に仕えた。珫は性質が便佞で、迎合することを善くし、特に寵信を受けた。旧制では、宦官は掖廷宮闈の事を掌るのみであった。天徳三年、初めて王光道を内蔵庫使とし、衛愈・梁安仁は皆、宦官として内蔵を領した。海陵王は光道らに言った、「人言に宦官は用いるべからずというが、朕はそうは思わない。後唐の荘宗は張承業に軍を委ね、遂に大功を立てた。この中にどうして人無からんや。卿らはこの意をよく理解すべきである。帑蔵の物は皆、民力から出たものであり、十を費やして一を得るに過ぎぬ。奸弊を糾察し、犯す者は必ず罰し、赦すことなかれ」と。宦官が初めて政事に関与し、珫の委任は特に甚だしく、累官して近侍局使となった。南京の宮室を営建するに及び、海陵王はしばしば珫を使わして工役を視察させた。この時、一殿の費用は既に数え切れないほどであったが、珫が未だ善からずと言うと、即ち全て撤去した。丞相の張浩でさえも、彼に曲意して事え、彼と均しい礼を交わした。

原文梁珫,本大抃家奴,隨元妃入宮,以閹豎事海陵。珫性便佞,善迎合,特見寵信,舊制,宦者惟掌掖廷宮闈之事。天德三年,始以王光道為內藏庫使,衛愈、梁安仁皆以宦官領內藏。海陵謂光道等曰:「人言宦者不可用,朕以為不然。後唐莊宗委張承業以軍,竟立大功,此中豈無人乎。卿等宜悉此意。帑藏之物皆出民力,費十致一,當糾察奸弊,犯者必罰無赦。」宦者始與政事,而珫委任尤甚,累官近侍局使。及營建南京宮室,海陵數數使珫往視工役。是時,一殿之費已不可勝計,珫或言其未善,即盡撒去。雖丞相張浩亦曲意事之,與之均禮。

海陵王は宋を伐たんと欲し、珫はそこで極言して宋の劉貴妃が絶色で国を傾けると説いた。海陵王は大いに喜び、南征に将いて行かんとする時、県君の高師姑児に命じて新しく清潔な衾褥を貯えさせ、劉貴妃を得た時に用いさせた。議する者は、珫が宋と通謀し、帝に宋を伐つよう勧め、天下の兵を徴発して中国を疲弊させようとしていると言った。

原文海陵欲伐宋,珫因極言宋劉貴妃絕色傾國。海陵大喜,及南征將行,命縣君高師姑兒貯衾褥之新潔者俟得劉貴妃用之。議者言珫與宋通謀,勸帝伐宋,征天下兵以疲弊中國。

海陵王が和州に至り、珫が宋人と交通し、状有ることを聞き、珫に言った、「汝が宋国と交通し、事情を伝え漏らしていると聞く。汝は元来奴隷であるのに、朕がここまで抜擢したのに、敢えてこのようなことをするのか。もし江南に至って実跡を尋ね得たら、汝を殺すのも未だ遅くはない」と。また校書郎の田与信に言った、「汝の面目もまた疑わしい。必ずや珫と同謀している者であろう」と。皆、軍中に拘束することを命じた。海陵王が弑されると、珫・与信は皆、乱軍に殺された。

原文海陵至和州,聞珫與宋人交通有狀,謂珫曰:「聞汝與宋國交通,傳泄事情。汝本奴隸,朕拔擢至此,乃敢爾耶。若至江南詢得實跡,殺汝亦未晚也。」又謂校書郎田與信曰:「爾面目亦可疑,必與珫同謀者。」皆命執於軍中。海陵遇弑,珫、與信皆為亂軍所殺。

宋珪

原文宋珪

宋珪は、本名を乞奴といい、燕の人である。内侍殿頭となった。宣宗が嘗て元夕に灯戯を見ようと欲し、乞奴に監作を命じた。乞奴が誶語して言うには、「社稷を中都に棄てておきながら、南京で灯戯を作っても何を見るというのか」と。宣宗は微かにこれを聞き、彼を二十回杖ったが、既にしてこれを悔い、旨を宣諭した。

原文宋珪,本名乞奴,燕人也。為內侍殿頭。宣宗嘗以元夕欲觀燈戲,命乞奴監作,乞奴誶語雲:「社稷棄之中都,南京作燈戲有何看耶。」宣宗微聞之,杖之二十,既而悔之,有旨宣諭。

哀宗が後苑で鷂を放したところ、鷂が逸れ去った。近侍に命じて追訪させた。市中に一人の農民がこの鷂を臂に止めていた。近侍は宮中から逸れた者であるとは敢えて言わず、あらゆる方法でこれを求めると、農民は与えず、物の代価を与えて、ようやく得た。事が聞こえ、哀宗はその人を有司に送ろうとした。乞奴が傍らから諫めて言った、「畜を貴び人を賤しむなど、どうして四方に宣示できましょうか」と。哀宗はその大いに人をあばくことを嫌い、また彼を杖ったが、尋ねてまた悔い、物を賜って慰め遣わした。

原文哀宗放鷂後苑,鷂逸去,敕近侍追訪之,市中一農民臂此鷂,近侍不敢言宮中所逸者,百方索之,農民不與,與之物直,僅乃得。事聞,哀宗欲送其人於有司,乞奴從旁諫曰:「貴畜賤人,豈可宣示四方。」哀宗惡其大訐,又仗之,尋亦悔,賜物慰遣之。

哀宗が帰徳に至ると、馬軍元帥の蒲察ほさつ官奴が変を起こし、左丞の李蹊・参政の石盞女魯歓以下、従官三百余人を殺した。倉皇の際、哀宗は已むなく、官奴を権参知政事としたが、既に彼に制せられ、恨みを含んで誅しようとしたができなかった。官奴が亳州へ往った時、珪は密かに奉禦の吾古孫愛実・納蘭忔答、護衛の女奚烈完出・范陳僧・王山児らと謀り、彼を誅しようとした。官奴が亳から戻ると、哀宗は臨漪亭に御し、参政の張天綱及び官奴を召して議事した。官奴が入見すると、珪らは即ち傍らから彼を殺し、その党の阿裏合・白進・習顕をも殺した。蔡城が破れ、哀宗が幽蘭軒で自縊すると、珪は完顔かんがん斜烈・焦春和らと共に皆、従死した。

原文及哀宗至歸德,馬軍元帥蒲察官奴為變,殺左丞李蹊、參政石盞女魯歡以下從官三百餘人。倉皇之際,哀宗不得已,以官奴權參知政事,既為所制,含恨欲誅之未能也。及官奴往亳州,珪陰與奉禦吾古孫愛實、納蘭忔答,護衛女奚烈完出、范陳僧、王山兒等謀誅之。官奴自亳還,哀宗禦臨漪亭,召參政張天綱及官奴議事。官奴入見,珪等即從旁殺之,及其党阿裏合、白進、習顯。及蔡城破,哀宗自縊于幽蘭軒,珪與完顏斜烈、焦春和等皆從死。

潘守恆

原文潘守恆

潘守恆という者もまた内侍であり、平素から書に通じていると称され、南遷後は規益することが甚だ多かった。哀宗が蒲城から帰徳へ走る時、道すがら民家に寄った。守恆が櫛を進めて言った、「願わくは陛下が還宮の日、この草廬の中を忘れず、さらに儉素を加え、以て大業を済されますように」と。上はその言を聞き、淒惋としてしばらく嘆息した。

原文有潘守恆者亦內侍也,素稱知書,南遷後規益甚多。及哀宗自蒲城走歸德,道次民家,守恆進櫛,曰:「願陛下還宮之日無忘此草廬中,更加儉素,以濟大業。」上聞其言,淒惋咨嗟久之。

方伎

原文方伎

太史公は九流を叙し、『日者』『龜策』『扁鵲倉公列傳』を述べた。劉歆は中秘書を校し、術数・方伎を以て『七略』に載せた。後世の史官が『方伎傳』を作るのは、蓋しその意を祖述したものである。或いは曰く、『素問』『内経』は天道の消長・気運の贏縮を言い、医術を仮り、岐黄に託して、その秘奥を伝えたに過ぎぬと。秦人は至って『周易』を卜筮の列に置いたが、これは豈に易しく言えようか。ただ古の術を行う者は、吉凶を以て人を導き善を為さしめ、後世の術者は、或いは休咎を以て人を導き不善を為さしむ。古の医を行う者は、人を活かすことを功とし、後世の医者は、或いは利を為すに因りて人を誤って殺す。故に天下に政を為すには、方伎の事と雖も、必ずその職掌を慎み、務めてその賢否を旌別すべきである。金の世、武禎・武亢の如きは信じて誣わず、劉完素・張元素の如きは治療に通変し、その術を学ぶ者は皆これを師尊した。記さざるべからざるなり。

原文太史公敘九流,述《日者》、《龜策》、《扁鵲倉公列傳》。劉歆校中秘書,以術數、方伎載之《七略》。後世史官作《方伎傳》,蓋祖其意焉。或曰《素問》、《內經》言天道消長、氣運贏縮,假醫術,托岐黃,以傳其秘奧耳。秦人至以《周易》列之卜筮,斯豈易言哉!第古之為術,以吉凶導人而為善,後世術者,或以休咎導人為不善,古之為醫,以活人為功,後世醫者,或因以為利而誤殺人。故為政於天下,雖方伎之事,亦必慎其所職掌,而務旌別其賢否焉。金世,如武禎、武亢之信而不誣,劉完素、張元素之治療通變,學其術者皆師尊之,不可不記雲。

劉完素

原文劉完素

劉完素、字は守真、河間の人。嘗て異人陳先生に遇い、酒を以て守真に飲ませ、大いに酔わしめ、覚めた時には医術に洞達し、授けられた者の如きものがあった。乃ち『運気要旨論』『精要宣明論』を撰し、庸医の或いは妄説を出すを慮り、又『素問玄機原病式』を著し、特に二百八十八字を挙げ、二万余言を注した。然し涼剤を好んで用い、心火を降ろし腎水を益することを主とした。自ら「通元処士」と号す。

原文劉完素,字守真,河間人。嘗遇異人陳先生,以酒飲守真,大醉,及寤洞達醫術,若有授之者。乃撰《運氣要旨論》、《精要宣明論》,慮庸醫或出妄說,又著《素問玄機原病式》,特舉二百八十八字,注二萬餘言。然好用涼劑,以降心火、益腎水為主。自號「通元處士」雲。

張従正

原文張從正

張従正、字は子和、睢州考城の人。医に精しく、『難経』『素問』の学を貫穿し、その法は劉守真を宗とし、薬を用いるに多く寒涼とし、然し疾を起し死を救うに多く効を取る。古医書に『汗下吐法』あり、亦た汗すべからざる者を汗すれば則ち死し、下すべからざる者を下せば則ち死し、吐すべからざる者を吐せば則ち死す、各々経絡脈理有り、世に伝うる黄帝・岐伯の為す所の書なり。従正これを用いること最も精しく、「張子和汗下吐法」と号す。妄庸浅術の者その方剤を習い、脈を察し病を原るを知らず、往々にして人を殺す、これ庸医の其の伝を失う過ちなり。その著する所に「六門・二法」の目有り、世に存す。

原文張從正,字子和,睢州考城人。精於醫,貫穿《難》、《素》之學,其法宗劉守真,用藥多寒涼,然起疾救死多取效。古醫書有《汗下吐法》,亦有不當汗者汗之則死,不當下者下之則死,不當吐者吐之則死,各有經絡脈理,世傳黃帝、岐伯所為書也。從正用之最精,號「張子和汗下吐法」。妄庸淺術習其方劑,不知察脈原病,往往殺人,此庸醫所以失其傳之過也。其所著有「六門、二法」之目,存於世雲。

李慶嗣

原文李慶嗣

李慶嗣、洺の人。少くして進士に挙げられ第せず、棄てて医を学び、『素問』諸書を読み、その義を洞曉す。天徳年間、歳大いに疫し、広平特に甚だしく、貧者は往々にして闔門して病に臥す。広嗣、薬と米を携えて分ちて之に遺し、全活する者衆し。慶嗣、年八十余、疾無くして終わる。著する所『傷寒纂類』四巻、『改證活人書』三巻、『傷寒論』三巻、『針経』一巻、世に伝わる。

原文李慶嗣,洺人。少舉進士不第,棄而學醫,讀《素問》諸書,洞曉其義。天德間,歲大疫,廣平尤甚,貧者往往闔門臥病。廣嗣攜藥與米分遺之,全活者眾。慶嗣年八十餘,無疾而終。所著《傷寒纂類》四卷、《改證活人書》三卷、《傷寒論》三卷、《針經》一卷,傳於世。

紀天錫

原文紀天錫

紀天錫、字は斉卿、泰安の人。早く進士の業を棄て、医を学び、その技に精しく、遂に医を以て世に名有り。『難経』を集注し五巻、大定十五年その書を上す、医学博士を授けられる。

原文紀天錫,字齊卿,泰安人。早棄進士業,學醫,精於其技,遂以醫名世。集注《難經》五卷,大定十五年上其書,授醫學博士。

張元素

原文張元素

張元素、字は潔古、易州の人。八歳にして童子挙を試みる。二十七にして経義進士を試み、廟諱いみなを犯し下第す。乃ち去って医を学び、名を知る者無し、夜夢に人有り大斧長鑿を用いて心を鑿り竅を開き、数巻の書をその中に納る、是より自らその術を洞徹す。河間の劉完素、傷寒に病み八日、頭痛脈緊し、嘔逆して食まず、為す所を知らず。元素往きて候う、完素壁に面して顧みず、元素曰く「何ぞ見待することの卑きこと此の如きや」と。既に脈を診り、これに謂いて脈病云々と曰い、曰く「然り」。「初め某薬を服し、某味を用いし乎」と曰えば、曰く「然り」。元素曰く「子誤れり。某味性寒く、下降して太陰に走り、陽亡して汗出ず。今脈此の如し、某薬を服すべし則ち効あらん」と。完素大いに服し、其の言の如くにして遂に癒ゆ、元素此よりより顕名す。平素病を治するに古方を用いず、その説に曰く「運気斉しからず、古今軌を異にす、古方新病相能わず」と。自ら家法と為す。

原文張元素,字潔古,易州人。八歲試童子舉。二十七試經義進士,犯廟諱下第。乃去學醫,無所知名,夜夢有人用大斧長鑿鑿心開竅,納書數卷於其中,自是洞徹其術。河間劉完素病傷寒八日,頭痛脈緊,嘔逆不食,不和所為。元素往候,完素面壁不顧,元素曰:「何見待之卑如此哉。」既為診脈,謂之曰脈病云云,曰:「然。」「初服某藥,用某味乎?」曰:「然。」元素曰:「子誤矣。某味性寒,下降走太陰,陽亡汗不能出。今脈如此,當服某藥則效矣。」完素大服,如其言遂愈,元素自此顯名。平素治病不用古方,其說曰:「運氣不齊,古今異軌,古方新病不相能也。」自為家法雲。

馬貴中

原文馬貴中

馬貴中、天徳年間、司天提点と為る。校書郎高守元と天象災異を奏して旨に忤い、海陵皆これを杖ち、貴中を大同府判官に貶す。久しくして、司天監に遷る。正隆三年三月辛酉朔、日食すべし。是の日、これを候うも食せず、海陵貴中に謂いて曰く「自今より凡そ日食に遇うは皆面して奏せよ、内外に頒示する須い無し」と。

原文馬貴中,天德中,為司天提點。與校書郎高守元奏天象災異忤旨,海陵皆杖之,黜貴中為大同府判官。久之,遷司天監。正隆三年三月辛酉朔,日當食。是日,候之不食,海陵謂貴中曰:「自今凡遇日食皆面奏,不須頒示內外。」

海陵、宋を伐たんとし、問うて曰く「朕自ら将として宋を伐たんと欲す、天道如何」と。貴中対えて曰く「去年十月甲戌、熒惑順行して太微に入り、屏星に至り、留まり退き西に出づ。『占書』に、熒惑は常に十月に太微庭に入り、制を受けて出でて無道の国を伺うと。十二月、太白昼に見え天を経る、占うに兵喪・不臣・更主と為し、又兵有れば兵罷み、兵無ければ兵起るを主る」と。鎮戎軍地震大風す、海陵以て問う、貴中対えて曰く「伏陰陽を逼る、故に震うるなり」と。又問うて曰く「震うべし、大風は何ぞや」と。対えて曰く「土その性を失えば則ち地震い、風は号令と為り、人君命令厳急なれば則ち烈風及び物の災有り」と。六年二月甲辰朔、日に暈珥戴背有り、海陵問う「近日天道如何」と。貴中対えて曰く「前年八月二十九日、太白太微右掖門に入り、九月二日、端門に至り、九日、左掖門より出で、並びに左右執法を歴る。太微は天子の南宮と為り、太白は兵将の象、その占い、兵天子の廷に入る」と。海陵曰く「今将に征伐せんとし而して兵将太微に出入す、正に其事なり」と。貴中又曰く「端門を当てて出づ、その占い受制と為り、左右執法を歴るは受事と為り、此れ当に出使者有るべく、或いは兵と為り、或いは賊と為る」と。海陵曰く「兵興の際、小盗固より無き能わざるなり」と。及び揚州に於いて害せらるるに及び、貴中の言皆験す。

原文海陵伐宋,問曰:「朕欲自將伐宋,天道何如?」貴中對曰:「去年十月甲戌,熒惑順入太微,至屏星,留、退、西出。《占書》,熒惑常以十月入太微庭,受制出伺無道之國。十二月,太白晝見經天,占為兵喪、為不臣、為更主,又主有兵兵罷、無兵兵起。」鎮戎軍地震大風,海陵以問,貴中對曰:「伏陰逼陽,所以震也。」又問曰:「當震,大風何也?」對曰:「土失其性則地震,風為號令,人君命令嚴急,則有烈風及物之災。」六年二月甲辰朔,日有暈珥戴背,海陵問:「近日天道何如?」貴中對曰:「前年八月二十九日,太白入太微右掖門,九月二日,至端門,九日,至左掖門出,並曆左右執法。太微為天子南宮,太白兵將之象,其占,兵入天子之廷。」海陵曰:「今將征伐而兵將出入太微,正其事也。」貴中又曰;「當端門而出,其占為受制,曆左右執法為受事,此當有出使者,或為兵,或為賊。」海陵曰:「兵興之際,小盜固不能無也。」及被害於揚州,貴中之言皆驗。

大定八年、世宗常武殿に於いて球を撃たる。貴中上疏して諫めて曰く「陛下天下の主と為り、宗廟社稷の重きを守る、囲猟撃球皆危き事なり。前日皇太子馬より墜つ、以て戒めと為すべし、臣願わくは一切之を罷めん」と。上曰く「祖宗武を以て天下を定む、豈に承平に因りて遽かに之を忘れんや。皇統嘗て此の事を罷めしも、当時の人皆以て非と為す、朕親しく見る所なり、故に天下に武を習わしむるを示すのみ」と。

原文大定八年,世宗擊球于常武殿,貴中上疏諫曰:「陛下為天下主,守宗廟社稷之重,圍獵擊球皆危事也。前日皇太子墜馬,可以為戒,臣願一切罷之。」上曰:「祖宗以武定天下,豈以承平遽忘之邪。皇統嘗罷此事,當時之人皆以為非,朕所親見,故示天下以習武耳。」

十年十一月、皇太子の誕生日に、世宗は百官を東宮にて宴した。上は酒を飲みて甚だ歓び、貴中は酒に酔い、前に跪きて事を言わんと欲するも、錯乱して次第を失い、上は之を罪せず、ただ扶け出さしむ。

原文十年十一月,皇太子生日,世宗宴百官於東宮。上飲歡甚,貴中被酒,前跪欲言事,錯亂失次,上不之罪,但令扶出。

武禎

原文武禎

武禎は、宿州臨渙の人である。祖父は太史の官にあり、靖康の後は農を業とし、後に画界して金に属す。禎は数学に深く通ず。貞祐年間、行樞密院僕散安貞その名を聞き、召して徐州に至らしめ、上客の礼をもって之を遇し、毎に出師するには必ず資るところとした。その占いは響くが如し。正大初め、征されて汴京に至り、東華門に待詔す。その友王鉉、禎に問うて曰く、「朝廷若し国祚の修短を問わば、子何を以て対せん」と。禎曰く、「当に実を以て之に告うべし。但だ更に周は其の暦を過ぎ、秦は期に及ばずと言うも、亦た徳を修むるに在るのみ」と。時に久しく旱魃し祈祷応ぜず、朝廷之を憂う。禎忽ち鉉に謂いて曰く、「足下今日早く帰らば、恐らくは雨に阻まれん」と。鉉曰く、「万里雲無く、赤日此の如し、安んぞ雨有らん」と。禎笑いて曰く、「若し是くの如くならば、則ち天誠ならず。天何ぞ嘗て誠ならざらん」と。既にして東南に雲気有り、須臾にして天を蔽い、平地雨注ぎて二尺、衆皆驚歎す。尋いで司天臺管勾を除く。

原文武禎,宿州臨渙人。祖官太史,靖康後業農,後畫界屬金。禎深數學。貞祐間,行樞密院僕散安貞聞其名,召至徐州,以上客禮之,每出師必資焉。其占如響。正大初,征至汴京,待詔東華門。其友王鉉問禎曰:「朝廷若問國祚修短,子何以對?」禎曰:「當以實告之,但更言周過其曆,秦不及期,亦在修德耳。」時久旱祈禱不應,朝廷為憂,禎忽謂鉉曰:「足下今日早歸,恐為雨阻。」鉉曰:「萬里無雲,赤日如此,安得有雨?」禎笑曰:「若是,則天不誠也。天何嘗不誠。」既而東南有雲氣,須臾蔽天,平地雨注二尺,眾皆驚歎。尋除司天臺管勾。

子 亢

原文子 亢

子亢は、言笑寡く、妄りに交わらず。嘗て一学生と終日相対し、籌を握りて画を布き、目炯々として営む所有るが若く、見る者測る莫し。哀宗蔡州に至り、右丞完顔仲徳其の術を薦む。召し至らしめ、人を屏して語らしむるに、大いに悦び、司天長行を除き、賞賚甚だ厚し。上書して曰く、「比者星変有り周・楚の分に、彗星すいせい大角の西より起り、軫の左軸を掃う。蓋し旧を除き新を布くの象なり」と。又言う、「鄭・楚・周の三分野当に赤地千里、兵凶大いに起こり、王者居るべからざるなり」と。又曰く、「蔡城に兵喪の兆有り、楚に亡国の征有り、三軍苦戦すること西垣の前後日に及べり。城壁傾頹し、内に見糧無く、外に応兵無く、君臣数尽くるの年なり」と。聞く者悚然として気を奪われ、哀宗惟だ嗟歎すること良久く、此を以て罪せず。性頗る倨傲にして、朝士此を以て之を非とす。

原文子亢,寡言笑,不妄交。嘗與一學生終日相對,握籌布畫,目炯炯若有所營,見者莫測也。哀宗至蔡州,右丞完顏仲德薦其術。召至,屏人與語,大悅,除司天長行,賞賚甚厚。上書曰:「比者有星變于周、楚之分,彗星起於大角西,掃軫之左軸,蓋除舊佈新之象。」又言:「鄭、楚、週三分野當赤地千里,兵凶大起,王者不可居也。」又曰:「蔡城有兵喪之兆,楚有亡國之征,三軍苦戰於西垣前後有日矣。城壁傾頹,內無見糧,外無應兵,君臣數盡之年也。」聞者悚然奪氣,哀宗惟嗟歎良久,不以此罪。性頗倨傲,朝士以此非之。

天興二年九月、蔡州囲まれ、亢奏して曰く、「十二月三日必ず城を攻めん」と。期に及んで然り。末帝問うて曰く、「囲み解くは当に何の日か」と。対えて曰く、「明年正月十三日、城下に一人一騎も無からん」と。帝其の由を知らず、乃ち囲み解くに期有るを喜び、日但だ密かに糧草を計り、其の日に至るまで欠くる無きを給せしむ。明年甲午正月十日、蔡州破れ、十三日、大元の兵退く。是の日、亢水に赴きて死すと云う。

原文天興二年九月,蔡州被圍,亢奏曰:「十二月三日必攻城。」及期果然。末帝問曰:「解圍當在何日?」對曰:「明年正月十三日,城下無一人一騎矣。」帝不知其由,乃喜圍解有期,日但密計糧草,使可給至其日不闕者。明年甲午正月十日,蔡州破,十三日,大元兵退。是日,亢赴水死雲。

李懋

原文李懋

李懋は、何れの許の人なるかを知らず。異術有り。正大年間、京兆に遊び、行省完顔合達其の術を愛し、俱に汴京に至り、哀宗に薦む。近侍を遣わし密かに国運の否泰を問わしむるに、言に忌避無し。之を繁台寺に居らしむ。朝士日々走りて之を問う。或いは隠事及び吉凶の変を道う能く、人以て神と為す。帝其の言の太だ泄るるを悪み、使者を遣わして之を殺さしむ。使者乃ち酒肴を持ちて寺に入る。懋出で迎え、笑いて曰く、「是れなり」と。使者曰く、「何を謂うぞ」と。懋曰く、「我が数当に今日に尽くべし。尚復何をか言わん」と。遂に酒を索め、痛飲して就死す。

原文李懋,不知何許人。有異術。正大間,遊京兆,行省完顏合達愛其術,與俱至汴京,薦于哀宗。遣近侍密問國運否泰,言無忌避。居之繁台寺,朝士日走問之,或能道隱事及吉凶之變,人以為神。帝惡其言太泄,遣使者殺之。使者乃持酒肴入寺,懋出迎,笑曰:「是矣。」使者曰:「何謂也?」懋曰:「我數當盡今日,尚複何言。」遂索酒,痛飲就死。

胡德新

原文胡德新

胡德新は、河北の士族なり。南陽に寓居し、宛・葉の間を往来し、酒を嗜み落魄羈絆せず、禍福を言うに奇験有り。正大七年夏、燕人の王鉉と葉県の村落中に邂逅す。鉉と初め相識らず、坐中謬りに兵官と対す。胡曰く、「此の公は吾が法中に当に科甲に登るべし。何を以て之を兵官と謂うや」と。衆愕然とし、遂に実を以て告ぐ。二人相得ること甚だ歓び、即ち家人に命じて鶏酒を具えて以て待たしむ。酒酣え、大白を挙げて相属して曰く、「君此れ去りて事業甚だ遠し。必ずしも置き問うに及ばず。某見る所有り、久しく敢えて人に対して言わず、今子に告げんと欲す」と。遂に野田に邀え、密かに謂いて曰く、「某去年より来たり、宛・葉の道中を行くに、往来する者十にして且つ八九死気有るを見る。今春陳・許の間に至り、其の人亦た大半当に死すべきを見る。若し吾が目用うべくんば、則ち時事知るべし」と。鉉驚きて応験の遅速を問う。曰く、「歳月の間に過ぎず。某も亦た此の厄を逃れず。請う密かに之を志せ」と。明年、大元の兵金・房より入り、峭石灘を取って漢を渡り、過ぐる所廬舍蕭然たり。胡も亦た挙家難に及び、其の精験此の如し。

原文胡德新,河北士族也。寓居南陽,往來宛、葉間,嗜酒落魄不羈,言禍福有奇驗。正大七年夏,與燕人王鉉邂逅於葉縣村落中。與鉉初不相識,坐中謬以兵官對,胡曰:「此公在吾法中當登科甲,何以謂之兵官。」眾愕然,遂以實告。二人相得甚歡,即命家人具雞酒以待,酒酣、舉大白相屬曰:「君此去事業甚遠,不必置問。某有所見,久不敢對人言,今欲告子。」遂邀至野田,密謂曰:「某自去年來,行宛、葉道中,見往來者十且八九有死氣。今春至陳、許間,見其人亦有大半當死者。若吾目可用,則時事可知矣。」鉉驚問應驗遲速,曰:「不過歲月間耳,某亦不逃此厄,請密志之。」明年,大元兵由金、房入,取峭石灘渡漢,所過廬舍蕭然,胡亦舉家及難,其精驗如此。