宦官
古来の宦官は皆、刑罰を受けた者から出た。刑余の身は士庶の列に加えられないので、宮寺の事を掌ることを「婦寺」と称した。東漢以来、宦官は養子を以て世を継がせた。唐代には、継ぐ者は皆、閹人であった。その初めに進むや、性質は多く巧みで慧く、便佞で、よく恩寵を固めることを善くし、その志を得るに及んで、徒党を組み糾結して制することができなかった。東漢は宦官によって亡び、唐はさらに甚だしかった。世の儒者が宦官の害を論ずるのは、毒薬や猛虎のようで救いようがないというのである。金の法は近侍局を置き、嘗て政事に関与したが、宦官は少なからず関与した。ただ海陵王の時に梁珫がおり、章宗の時に梁道・李新喜が政を幹き、二君は彼らに誤らされることが多かった。世に伝えるところでは、梁道が章宗に李妃を後宮に納れるよう勧めたというが、金史には梁道の始末を載せておらず、論じて次ぐことができない。ただ宋珪・潘守恆はよく宣宗・哀宗を諷諫し、時に補益するところがあった。これは傭の中の佼佼者、鉄の中の錚錚者と言えよう。ここに『宦者傳』を作る。
梁珫
海陵王は宋を伐たんと欲し、珫はそこで極言して宋の劉貴妃が絶色で国を傾けると説いた。海陵王は大いに喜び、南征に将いて行かんとする時、県君の高師姑児に命じて新しく清潔な衾褥を貯えさせ、劉貴妃を得た時に用いさせた。議する者は、珫が宋と通謀し、帝に宋を伐つよう勧め、天下の兵を徴発して中国を疲弊させようとしていると言った。
海陵王が和州に至り、珫が宋人と交通し、状有ることを聞き、珫に言った、「汝が宋国と交通し、事情を伝え漏らしていると聞く。汝は元来奴隷であるのに、朕がここまで抜擢したのに、敢えてこのようなことをするのか。もし江南に至って実跡を尋ね得たら、汝を殺すのも未だ遅くはない」と。また校書郎の田与信に言った、「汝の面目もまた疑わしい。必ずや珫と同謀している者であろう」と。皆、軍中に拘束することを命じた。海陵王が弑されると、珫・与信は皆、乱軍に殺された。
宋珪
宋珪は、本名を乞奴といい、燕の人である。内侍殿頭となった。宣宗が嘗て元夕に灯戯を見ようと欲し、乞奴に監作を命じた。乞奴が誶語して言うには、「社稷を中都に棄てておきながら、南京で灯戯を作っても何を見るというのか」と。宣宗は微かにこれを聞き、彼を二十回杖ったが、既にしてこれを悔い、旨を宣諭した。
哀宗が後苑で鷂を放したところ、鷂が逸れ去った。近侍に命じて追訪させた。市中に一人の農民がこの鷂を臂に止めていた。近侍は宮中から逸れた者であるとは敢えて言わず、あらゆる方法でこれを求めると、農民は与えず、物の代価を与えて、ようやく得た。事が聞こえ、哀宗はその人を有司に送ろうとした。乞奴が傍らから諫めて言った、「畜を貴び人を賤しむなど、どうして四方に宣示できましょうか」と。哀宗はその大いに人をあばくことを嫌い、また彼を杖ったが、尋ねてまた悔い、物を賜って慰め遣わした。
哀宗が帰徳に至ると、馬軍元帥の蒲察官奴が変を起こし、左丞の李蹊・参政の石盞女魯歓以下、従官三百余人を殺した。倉皇の際、哀宗は已むなく、官奴を権参知政事としたが、既に彼に制せられ、恨みを含んで誅しようとしたができなかった。官奴が亳州へ往った時、珪は密かに奉禦の吾古孫愛実・納蘭忔答、護衛の女奚烈完出・范陳僧・王山児らと謀り、彼を誅しようとした。官奴が亳から戻ると、哀宗は臨漪亭に御し、参政の張天綱及び官奴を召して議事した。官奴が入見すると、珪らは即ち傍らから彼を殺し、その党の阿裏合・白進・習顕をも殺した。蔡城が破れ、哀宗が幽蘭軒で自縊すると、珪は完顔斜烈・焦春和らと共に皆、従死した。
潘守恆
潘守恆という者もまた内侍であり、平素から書に通じていると称され、南遷後は規益することが甚だ多かった。哀宗が蒲城から帰徳へ走る時、道すがら民家に寄った。守恆が櫛を進めて言った、「願わくは陛下が還宮の日、この草廬の中を忘れず、さらに儉素を加え、以て大業を済されますように」と。上はその言を聞き、淒惋としてしばらく嘆息した。
方伎
太史公は九流を叙し、『日者』『龜策』『扁鵲倉公列傳』を述べた。劉歆は中秘書を校し、術数・方伎を以て『七略』に載せた。後世の史官が『方伎傳』を作るのは、蓋しその意を祖述したものである。或いは曰く、『素問』『内経』は天道の消長・気運の贏縮を言い、医術を仮り、岐黄に託して、その秘奥を伝えたに過ぎぬと。秦人は至って『周易』を卜筮の列に置いたが、これは豈に易しく言えようか。ただ古の術を行う者は、吉凶を以て人を導き善を為さしめ、後世の術者は、或いは休咎を以て人を導き不善を為さしむ。古の医を行う者は、人を活かすことを功とし、後世の医者は、或いは利を為すに因りて人を誤って殺す。故に天下に政を為すには、方伎の事と雖も、必ずその職掌を慎み、務めてその賢否を旌別すべきである。金の世、武禎・武亢の如きは信じて誣わず、劉完素・張元素の如きは治療に通変し、その術を学ぶ者は皆これを師尊した。記さざるべからざるなり。
劉完素
劉完素、字は守真、河間の人。嘗て異人陳先生に遇い、酒を以て守真に飲ませ、大いに酔わしめ、覚めた時には医術に洞達し、授けられた者の如きものがあった。乃ち『運気要旨論』『精要宣明論』を撰し、庸医の或いは妄説を出すを慮り、又『素問玄機原病式』を著し、特に二百八十八字を挙げ、二万余言を注した。然し涼剤を好んで用い、心火を降ろし腎水を益することを主とした。自ら「通元処士」と号す。
張従正
張従正、字は子和、睢州考城の人。医に精しく、『難経』『素問』の学を貫穿し、その法は劉守真を宗とし、薬を用いるに多く寒涼とし、然し疾を起し死を救うに多く効を取る。古医書に『汗下吐法』あり、亦た汗すべからざる者を汗すれば則ち死し、下すべからざる者を下せば則ち死し、吐すべからざる者を吐せば則ち死す、各々経絡脈理有り、世に伝うる黄帝・岐伯の為す所の書なり。従正これを用いること最も精しく、「張子和汗下吐法」と号す。妄庸浅術の者その方剤を習い、脈を察し病を原るを知らず、往々にして人を殺す、これ庸医の其の伝を失う過ちなり。その著する所に「六門・二法」の目有り、世に存す。
李慶嗣
李慶嗣、洺の人。少くして進士に挙げられ第せず、棄てて医を学び、『素問』諸書を読み、その義を洞曉す。天徳年間、歳大いに疫し、広平特に甚だしく、貧者は往々にして闔門して病に臥す。広嗣、薬と米を携えて分ちて之に遺し、全活する者衆し。慶嗣、年八十余、疾無くして終わる。著する所『傷寒纂類』四巻、『改證活人書』三巻、『傷寒論』三巻、『針経』一巻、世に伝わる。
紀天錫
紀天錫、字は斉卿、泰安の人。早く進士の業を棄て、医を学び、その技に精しく、遂に医を以て世に名有り。『難経』を集注し五巻、大定十五年その書を上す、医学博士を授けられる。
張元素
張元素、字は潔古、易州の人。八歳にして童子挙を試みる。二十七にして経義進士を試み、廟諱を犯し下第す。乃ち去って医を学び、名を知る者無し、夜夢に人有り大斧長鑿を用いて心を鑿り竅を開き、数巻の書をその中に納る、是より自らその術を洞徹す。河間の劉完素、傷寒に病み八日、頭痛脈緊し、嘔逆して食まず、為す所を知らず。元素往きて候う、完素壁に面して顧みず、元素曰く「何ぞ見待することの卑きこと此の如きや」と。既に脈を診り、これに謂いて脈病云々と曰い、曰く「然り」。「初め某薬を服し、某味を用いし乎」と曰えば、曰く「然り」。元素曰く「子誤れり。某味性寒く、下降して太陰に走り、陽亡して汗出ず。今脈此の如し、某薬を服すべし則ち効あらん」と。完素大いに服し、其の言の如くにして遂に癒ゆ、元素此よりより顕名す。平素病を治するに古方を用いず、その説に曰く「運気斉しからず、古今軌を異にす、古方新病相能わず」と。自ら家法と為す。
馬貴中
海陵、宋を伐たんとし、問うて曰く「朕自ら将として宋を伐たんと欲す、天道如何」と。貴中対えて曰く「去年十月甲戌、熒惑順行して太微に入り、屏星に至り、留まり退き西に出づ。『占書』に、熒惑は常に十月に太微庭に入り、制を受けて出でて無道の国を伺うと。十二月、太白昼に見え天を経る、占うに兵喪・不臣・更主と為し、又兵有れば兵罷み、兵無ければ兵起るを主る」と。鎮戎軍地震大風す、海陵以て問う、貴中対えて曰く「伏陰陽を逼る、故に震うるなり」と。又問うて曰く「震うべし、大風は何ぞや」と。対えて曰く「土その性を失えば則ち地震い、風は号令と為り、人君命令厳急なれば則ち烈風及び物の災有り」と。六年二月甲辰朔、日に暈珥戴背有り、海陵問う「近日天道如何」と。貴中対えて曰く「前年八月二十九日、太白太微右掖門に入り、九月二日、端門に至り、九日、左掖門より出で、並びに左右執法を歴る。太微は天子の南宮と為り、太白は兵将の象、その占い、兵天子の廷に入る」と。海陵曰く「今将に征伐せんとし而して兵将太微に出入す、正に其事なり」と。貴中又曰く「端門を当てて出づ、その占い受制と為り、左右執法を歴るは受事と為り、此れ当に出使者有るべく、或いは兵と為り、或いは賊と為る」と。海陵曰く「兵興の際、小盗固より無き能わざるなり」と。及び揚州に於いて害せらるるに及び、貴中の言皆験す。
大定八年、世宗常武殿に於いて球を撃たる。貴中上疏して諫めて曰く「陛下天下の主と為り、宗廟社稷の重きを守る、囲猟撃球皆危き事なり。前日皇太子馬より墜つ、以て戒めと為すべし、臣願わくは一切之を罷めん」と。上曰く「祖宗武を以て天下を定む、豈に承平に因りて遽かに之を忘れんや。皇統嘗て此の事を罷めしも、当時の人皆以て非と為す、朕親しく見る所なり、故に天下に武を習わしむるを示すのみ」と。
十年十一月、皇太子の誕生日に、世宗は百官を東宮にて宴した。上は酒を飲みて甚だ歓び、貴中は酒に酔い、前に跪きて事を言わんと欲するも、錯乱して次第を失い、上は之を罪せず、ただ扶け出さしむ。
武禎
武禎は、宿州臨渙の人である。祖父は太史の官にあり、靖康の後は農を業とし、後に画界して金に属す。禎は数学に深く通ず。貞祐年間、行樞密院僕散安貞その名を聞き、召して徐州に至らしめ、上客の礼をもって之を遇し、毎に出師するには必ず資るところとした。その占いは響くが如し。正大初め、征されて汴京に至り、東華門に待詔す。その友王鉉、禎に問うて曰く、「朝廷若し国祚の修短を問わば、子何を以て対せん」と。禎曰く、「当に実を以て之に告うべし。但だ更に周は其の暦を過ぎ、秦は期に及ばずと言うも、亦た徳を修むるに在るのみ」と。時に久しく旱魃し祈祷応ぜず、朝廷之を憂う。禎忽ち鉉に謂いて曰く、「足下今日早く帰らば、恐らくは雨に阻まれん」と。鉉曰く、「万里雲無く、赤日此の如し、安んぞ雨有らん」と。禎笑いて曰く、「若し是くの如くならば、則ち天誠ならず。天何ぞ嘗て誠ならざらん」と。既にして東南に雲気有り、須臾にして天を蔽い、平地雨注ぎて二尺、衆皆驚歎す。尋いで司天臺管勾を除く。
子 亢
子亢は、言笑寡く、妄りに交わらず。嘗て一学生と終日相対し、籌を握りて画を布き、目炯々として営む所有るが若く、見る者測る莫し。哀宗蔡州に至り、右丞完顔仲徳其の術を薦む。召し至らしめ、人を屏して語らしむるに、大いに悦び、司天長行を除き、賞賚甚だ厚し。上書して曰く、「比者星変有り周・楚の分に、彗星大角の西より起り、軫の左軸を掃う。蓋し旧を除き新を布くの象なり」と。又言う、「鄭・楚・周の三分野当に赤地千里、兵凶大いに起こり、王者居るべからざるなり」と。又曰く、「蔡城に兵喪の兆有り、楚に亡国の征有り、三軍苦戦すること西垣の前後日に及べり。城壁傾頹し、内に見糧無く、外に応兵無く、君臣数尽くるの年なり」と。聞く者悚然として気を奪われ、哀宗惟だ嗟歎すること良久く、此を以て罪せず。性頗る倨傲にして、朝士此を以て之を非とす。
李懋
李懋は、何れの許の人なるかを知らず。異術有り。正大年間、京兆に遊び、行省完顔合達其の術を愛し、俱に汴京に至り、哀宗に薦む。近侍を遣わし密かに国運の否泰を問わしむるに、言に忌避無し。之を繁台寺に居らしむ。朝士日々走りて之を問う。或いは隠事及び吉凶の変を道う能く、人以て神と為す。帝其の言の太だ泄るるを悪み、使者を遣わして之を殺さしむ。使者乃ち酒肴を持ちて寺に入る。懋出で迎え、笑いて曰く、「是れなり」と。使者曰く、「何を謂うぞ」と。懋曰く、「我が数当に今日に尽くべし。尚復何をか言わん」と。遂に酒を索め、痛飲して就死す。
胡德新
胡德新は、河北の士族なり。南陽に寓居し、宛・葉の間を往来し、酒を嗜み落魄羈絆せず、禍福を言うに奇験有り。正大七年夏、燕人の王鉉と葉県の村落中に邂逅す。鉉と初め相識らず、坐中謬りに兵官と対す。胡曰く、「此の公は吾が法中に当に科甲に登るべし。何を以て之を兵官と謂うや」と。衆愕然とし、遂に実を以て告ぐ。二人相得ること甚だ歓び、即ち家人に命じて鶏酒を具えて以て待たしむ。酒酣え、大白を挙げて相属して曰く、「君此れ去りて事業甚だ遠し。必ずしも置き問うに及ばず。某見る所有り、久しく敢えて人に対して言わず、今子に告げんと欲す」と。遂に野田に邀え、密かに謂いて曰く、「某去年より来たり、宛・葉の道中を行くに、往来する者十にして且つ八九死気有るを見る。今春陳・許の間に至り、其の人亦た大半当に死すべきを見る。若し吾が目用うべくんば、則ち時事知るべし」と。鉉驚きて応験の遅速を問う。曰く、「歳月の間に過ぎず。某も亦た此の厄を逃れず。請う密かに之を志せ」と。明年、大元の兵金・房より入り、峭石灘を取って漢を渡り、過ぐる所廬舍蕭然たり。胡も亦た挙家難に及び、其の精験此の如し。