漢の成帝の時、劉向が初めて三代の賢妃淑女、及び淫泆奢僭、興亡盛衰の由る所を述べ、匯分し類別して、『列女傳』と号し、以て諷諫とした。范曄が初めてこれを漢史に載せた。古、女子は生まれて十年にして女師あり、漸く長ずれば、麻枲絲繭の事あり、祭祀助奠の事あり。既に嫁しては、職は中饋に在るのみ、故に非無く儀無きを以て賢と為す。若し嫠居寡処し、患難顛沛するは、是れ皆婦人の不幸なり。一たび不幸に遇い、卓然として能く自ら樹立し、烈丈夫の風有るは、是を以て君子之を異とす。
阿鄰の妻
李寶信の妻
韓慶民の妻
韓慶民の妻は、何れの人なるかを知らず、亦其の姓氏を知らず。慶民遼に事へ宜州節度使と為る。天会中、宜州を攻破し、慶民屈せずして死す。其の妻を以て将士に配せんとす。其の妻誓死して従はず、遂に自殺す。世宗『太宗実録』を読み、慶民夫婦の事を見て、歎じて曰く、「此の如き節操は、難しと謂うべし」と。
雷の婦師氏
雷の婦師氏、夫亡く、舅姑に孝養す。姑病み、臂の肉を刲きて之に飼う。姑即ち愈ゆ。舅姑既に歿す。兄師逵と夫の侄其の財産を規り、乃ち偽り謀證を立てて之を官に致し、必ず之を嫁がしめんと欲す。県官能く曲直を辨ぜず。師氏逼るるを畏れ、乃ち県署の井中に投じて死す。詔して有司に其の墓を祭らしめ、諡して「節」と曰うて賜う。
康住住
康住住は、鄜州の人なり。夫早く亡し、服闋す。父之を取って家に帰し、厳沂に許して妻と為さんとす。康氏誓死して聴かず、夫の家に還らんと欲すも得べからず、乃ち崖に投じて死す。詔して有司に其の墓に致祭せしむ。
李文の妻
李文の妻史氏は、同州白水の人である。夫が亡くなり、喪が明けた後、死を誓って再嫁しないと決めた。父が強いて彼女を連れ帰り、邑人姚乙に嫁がせようとした。史氏は聞き入れず、姚が官に訴え、彼女は捕らえられ、ついに自縊して死んだ。詔により有司がその墓に祭礼を行った。
李英の妻
相琪の妻
阿魯真
撒合輦の妻
許古の妻
許古の妻劉氏は、定海軍節度使劉仲洙の娘である。貞祐の初め、古は家族を連れて蒲城に寄寓し、劉氏母子を蒲に留まらせ、朝廷に仕えた。その後、兵が蒲を包囲した。劉は二人の娘に言った、「汝らの父は朝廷におり、兵勢がこのようでは、事態は保てない。もし城が破れて駆り立てられ、一人でも汚されたらどうしようか?共に死んで自ら全うするに如くはない。」やがて、城攻めがますます激しくなると、劉氏は二人の娘と相次いで自尽した。有司が朝廷に上奏したところ、四年五月、劉氏を郡君に追封し、「貞潔」と諡し、その長女には「定薑」、次女には「肅薑」と諡し、その事績を史館に付した。
馮妙真
馮妙真は、刑部尚書馮延登の娘である。十八歳で進士張慥に嫁いだ。興定五年、慥は洛川主簿となった。大元の兵が葭州・綏徳を破り、ついに鄜延に入った。鄜の人は震え恐れて守備を整え、守臣は西路からの秣粟の輸送が時を過ぎても至らないので、慥に檄を飛ばして平涼に赴き監督させた。当時、延登は平涼行省の員外郎であった。慥は妙真を連れて行こうとしたが、妙真は辞して言った、「舅姑は年老いている。叔母(姉嫁)はいるが、私が安んじていられようか。あなたは行きなさい。私は留まってお仕えします。」十一月、洛川が破られ、妙真は舅姑と共に窟室に隠れたが、兵が探し出した。妙真は泣いて舅姑と別れを告げて言った、「婦として生まれた時が悪く、終わりまで箕帚を執ることができません。義として辱めに従うことはできません。」すぐに三人の子を連れて井戸に身を投げて死んだ。県人がそれに従って死んだ者は数十人に及んだ。翌年の春、慥が井戸を掘って遺体を得、県の東郭外に葬った。死んだ時二十四歳であった。
蒲察氏
蒲察氏、字は明秀、鄜州の帥訥申の娘で、完顔長楽の妻である。哀宗が帰徳に遷都する時、長楽を総領とし、兵を率いて扈従させた。出発に際し、蒲察氏に言い含めて言った、「他に言うことはない。夫人はくれぐれもこの身を辱しめないように。」明秀は言った、「あなたはただ一身を捧げて上に事え、私のことを気にかけないでください。私は必ず辱めを受けません。」長楽の一人の子は幼く、先妻柴氏の生んだ子であったが、明秀は己が子のように育てた。崔立の変が起こり、従官の妻子を省中に駆り立て、一人一人検分した。蒲察氏はこれを聞き、幼子を婢僕に託し、かつ金幣を与え、自ら衣類・棺・祭物を整え、家人と別れを告げて言った、「崔立は道に外れ、人の妻女を強いる。兵が城下にいる。私はどこへ逃れよう。ただ一死をもって我が夫に背かないだけだ。汝らはただ善く幼子を養え。」ついに自縊して死んだ。欣然として死を難事としないかのようであった。時に二十七歳。
烏古論氏
烏古論氏は、伯祥の妹で、臨洮総管陀満胡土門の妻である。伯祥は朝廷の貴人の中で名声が甚だ高く、胡土門は王事のために死んだ。崔立の変の際、衣冠の家の婦女は多く汚されることがあったが、烏古論氏は家人に言うには、「我が夫は朝廷を辱めなかった。私はどうして我が兄及び我が夫を辱めようか」と。即ち自縊した。一人の婢が従って死んだ。
素蘭妻
参政完顔素蘭の妻、その姓氏は失われている。崔立の変の際、親しい者に言うには、「我が夫は天下に重い名声がある。私はどうして衆に随って身を陷れ、我が夫を辱めようか。今日一死するのは固より当然であるが、ただ名無しに死ぬことはできず、また我が家を離れて死ぬこともできない」と。即ち室の中で自縊した。
忙哥妻
溫特罕氏、夫は完顔忙哥、五朵山宣差提控回裏不の子で、蕭王の系譜を出す。忙哥の叔父益都は、秦州を節度し、大元の兵に攻められ、たまたま病んで軍を統べることができず、忙哥が提控となり、独りで一方を担当した。兵が退き益都が死ぬと、忙哥は城守の功により謀克を世襲し、奉禦に収め充てられた。崔立の変の際、忙哥は義によって辱めを受けず、その妻と訣別した。妻は言うには、「君は国家のために死ぬことができる。私は君のために死ぬことができないだろうか」と。一人の婢が言うには、「主が死ねば、婢はどこに帰ろうか」と。この日、夫婦は一本の縄で共に縊れ、婢もそれに従った。
尹氏
白氏
聶孝女
聶孝女、字は舜英、尚書左右司員外郎天驥の長女である。年二十三、進士張伯豪に嫁ぐ。伯豪が卒すると、父母の家に帰った。哀宗が帰徳に遷ると、天驥は汴に留まった。崔立が宰相を劫殺すると、天驥は創を負い甚だしく、日夜悲泣し、即時に死ななかったことを恨んだ。舜英は医を謁して救療を百方し、その股を刲いて他肉に雑えて進めるに至ったが、天驥は竟に死んだ。時に京城は囲まれて久しく食尽き、閭巷の間に妻を嫁がせて一飽に易える者があり、重ねて崔立の変があり、剽奪暴淩し、再び人理が無かった。舜英は頗る書を読み義理を知り、自ら年尚ほ少艾であり、夫は既に亡く、父は又非命に死に、兵に汚されるよりは、どうして我が父に地下に従わんかと思った。その父を葬った明日、脰を絶って死んだ。一時士女はこれを賢しとし、泣下する者がある。その家は舜英を張伯豪の墓に合葬した。
仲德妻
完顔仲徳の妻、その族氏は知らない。崔立の変の際、妻は自らその容服を毀ち、妾及び二子を携え、采蔬と偽って、汴より蔡に走った。蔡が囲まれると、丁男は皆城に乗って拒守し、仲徳に言うには、「事勢此の如し。丈夫は国のために力を出すことができる。婦人は独りできないのか」と。諸命婦を率いて自ら一軍を作り、親しく城下で矢石を運び、城中の婦女は争い出てこれに継いだ。城が破れると自尽した。
宝符李氏
哀宗の宝符李氏は、国亡びて後妃に従い北遷し、宣德州に至り、摩訶院に居し、日夜仏殿の中に寝起きし、幡旆を作る。やがて龍庭に赴くべき時となり、発せんとす、即ち仏像の前において自縊して死し、且つ自ら門の紙に書きて曰く「宝符禦侍此処にて身故す」と。後人その処に至り、その遺跡を見て、憐れみ哀しむ。
張鳳奴
正大・天興の際、婦人の節義知るべき者は特数人のみ。鳳奴の事は別史にこれを録す。蓋し亦た激する所あればなり。