金史

列傳第六十七: 酷吏(高閭山、蒲察合住) 佞幸(蕭肄、張仲軻、李通、馬欽、高懷貞、蕭裕、胥持國)

列傳第六十七

酷吏 ○高閭山 蒲察合住

佞幸 ○蕭肄 張仲軻 李通 馬欽 高懷貞 蕭裕 胥持國

酷吏

太史公(司馬遷)が言う、「法家は厳しくして恩情に乏しい」と。誠にこの言葉の通りである。金の法は厳密で、律文は前代に因りながらも増減したが、おおむね重い法典を基準とすることが多かった。熙宗は次々と大獄を起こし、海陵王は宗室を滅ぼし、こじつけや無理なつじつま合わせをし、奸を告げ変事を上申する者には破格の賞を与えた。ここにおいて中外の風俗は一変し、皆威圧と残虐を事功として尊び、讒言と害悪が行われた。その毒は遠近に流れ、惨憺たるものであった。金史は欠落が多いが、その旧録により二人を得た。ここに『酷吏傳』を作る。

高閭山

高閭山は、澄州析木の人である。選ばれて護衛に充てられ、順義軍節度副使に転じ、唐括、移剌都颭詳穩を経て、震武軍節度副使、曹王府尉、大名治中に改められた。汝州刺史に遷り、単州に改められた。制令で法に依らず杖を用いて人を決することを禁じたが、閭山はそれを見て笑い、「これも実行は難しい」と言った。その日、わざと大杖を用いて部民の楊仙を杖死させ、官を一等削られて職を解かれた。久しくして、鳳翔治中に降格し、原州、済州、泗州刺史を歴任し、鄭州防禦使に改められ、蒲与路節度使に遷り、臨海軍、盤安軍、寧昌軍に移った。貞祐二年、城が破られて死んだ。

蒲察合住

蒲察合住は、吏から身を起こし、長く宣宗に信頼され、声勢が赫々とし、性格はまた残忍で酷薄で、人々は彼が国を蝕むことを知りながら敢えて言う者がなかった。その子は護衛に充てられていたが、先に追い出された。その後、合住は恆州刺史となり、近県で順番を待った。後に大軍が陝西に入り、関中が震動した。ある者が合住が恆州へ赴くのは北へ逃げる計画であると言い、朝廷は開封にその親族を拘束するよう命じた。合住は怨み言を吐いて、「私を殺してしまえば太平になるのだ」と言った。まもなく御史に弾劾され、初めは笞刑で贖罪とする議があったが、宰相は道理に悖るとし、開封府の門の下で斬られた。故に当時、宣宗朝の三賊という評があり、王阿裏、蒲察咬住を指し、合住はその一人であった。

興定年間、駙馬僕散阿海の獄事において、京師で審理が宣せられた場所は七十余りに及び、阿裏の輩は時機に乗じて事を起こしその毒をふるい、朝士はおののき自らを保つことができなかった。ただ獨吉文之だけが開封府の幕下にあり、彼が謀反しないことを明らかにし、ついに署名せず、阿海が誅殺された後も、文之は何ら問われることはなかった。

咬住は、正大初年に致仕し、睢陽に居住したが、潰走した軍の変乱に遭い、その家族と共に殺害された。

初め、宣宗は刑罰を好み、朝士はしばしば笞打たれ、言論者を刀杖で決殺するに至った。高琪が権力を握り、威刑をほしいままにした。南渡(開封遷都)の後、この風習が定着し、士大夫でさえもこれに染まり、例えば徒單右丞思忠は麻椎で人を打つのを好み、「麻椎相公」と号された。李運使特立は「半截剣」と号され、その短小で鋭利なことを言った。馮内翰璧は「馮劊」と号された。雷淵が御史となり、蔡州に至って奸豪を得て、五百人を杖殺し、「雷半千」と号された。また完顏麻斤出がおり、皆残酷で知られ、合住、王阿裏、李渙の徒は、胥吏の中でも特に狡猾で酷薄な者であった。

佞幸

世に嗜欲ある者は、何れか其の害を受けざらんや。龍は天下の至神なるものなり、一たび嗜欲あれば、人に見制せらる、故に人君も亦然り。嗜欲は独り柔曼の傾意のみにあらず、征伐・畋獵・土木・神仙、彼佞なる者は皆以て其の好む所に投ずる有り。金主は内に声色に蠱され、外に好んで大功を喜び、熙宗・海陵に甚しきは莫く、章宗は之に次ぐ。『金史』は蕭肄より胥持國に至り、佞臣の尤なる者七人を得、皆寵遇を三君の朝に被り、以て其身を亡ぼし、以て其の国を蠹し、其の禍皆此より始まる、戒めざるべけんや。『佞幸傳』を作る。

蕭肄

蕭肄は、本は奚人にして、熙宗に寵せられ、復た悼後に諂い事え、累官して参知政事に至る。皇統九年四月壬申の夜、大風雨有り、雷電寝殿の鴟尾を震壊し、火有り外より入り、内寝の幃幔を焼く。帝は別殿に徙りて之を避け、詔を下して己を罪せんと欲す。翰林学士張鈞に草を視させしむ。鈞の意は天戒に奉答せんと欲し、当に深く自ら貶損すべく、其の文に曰く「惟だ徳類に弗く、上つて天威を幹す」及び「顧みるに此の寡昧眇たる予小子」等の語有り。肄訳して奏して曰く「弗類は是れ大なる無道、寡は孤独にして親無く、昧は則ち人事に於いて曉らざるなり、眇は則ち目に見る所無く、小子は嬰孩の称、此れ漢人の文字を托して以て主上を詈るなり」と。帝大いに怒り、衛士を命じて鈞を殿下に拽き下し、数百榜し、死せず。手を以て剺に其の口を剺きて之を醢にす。肄に通天犀帯を賜う。恩幸を憑恃し、同列を倨視し、遂に海陵と悪有り。及び篡立し、大臣の官爵を加うるに、例として銀青光禄大夫を加う。数日、肄を召して詰えて曰く「学士張鈞は何の罪有りて誅せられ、爾は何の功有りて賞を受く」と。肄対ふる能はず。海陵曰く「朕が汝を殺すは難き事に非ず、人或は我が私怨を報ずるを以てす」と。是に於て、詔して名を除き、田里に放ち帰し、百里の外に出づるを得ざるを禁錮す。

張仲軻

張仲軻は、幼名を牛児と曰い、市井の無頼にして、伝奇小説を説き、俳優の詼諧語を雑えて以て業と為す。海陵之を左右に引き、以て戯笑を資とす。海陵岐国王に封ぜられ、以て書表と為し、及び即位し、秘書郎と為る。海陵嘗て仲軻と妃嬪に対し褻瀆す、仲軻但だ死罪を称し、敢へて仰ぎ視ず。又嘗て仲軻に令して倮形を以て之を観させしむ、侍臣往々に令して倮褫せしめ、徒単貞と雖も亦此を免れず。兵部侍郎完顔普連・大興少尹李惇皆贓を以て敗る、海陵之を要近に置く。伶人于慶児官五品・大氏の家奴王之彰を秘書郎と為す。之彰の睾珠偏僻なるを、海陵親しく之を視、以て褻と為さず。唐括辯の家奴和尚・烏帯の家奴葛温・葛魯、皆宿衛に置き、僥倖して一品に至る者有り。左右或は官職無き人、或は名を以て之を呼べば、即ち顕階を授く、海陵其の人に語りて曰く「爾復た能く之を名づくべけんや」と。常に黄金を茵褥の間に置き、之を喜ぶ者に令して自ら之を取らしむ、其の濫賜此の如し。宋の余唐弼宝位登賀し、且つ還らんとす、海陵玉帯を以て附し宋帝に賜い、使をして宋帝に謂わしめて曰く「此の帯は卿の父の常に服せし所、今以て賜う、卿をして父を見るが如くせしめ、当に朕が意を忘れざらしむべし」と。使退き、仲軻曰く「此れ希世の宝、惜しむべく軽く賜う」と。上曰く「江南の地は、他日当に我が有と為すべく、此れ外府に置くのみ」と。是より海陵に南伐の意有るを知る。

俄に秘書丞に遷り、少監に転ず。是の時、燕京宮室を営建す、有司真定府潭園の材木を取る、仲軻間に乗じて其の中の材木用ふべからずと言ふ、海陵仲軻の請托を受くると意し、仲軻の官を免ず。未だ幾ばくもあらず、復た用ひて少監と為す。海陵途你山に獵し、鐸瓦に次ぎ、天に酹して拝し、群臣に謂ひて曰く「朕幼時に射を習ひ、一門の下に至り、黙して祝して曰く『若し我れ異日大貴あらば、当に一矢をして横に門脊に加はらしめん』と。及び射す、果たして横に門脊に加はる。後に中京留守と為り、嘗て此の地に大獵し、囲未だ合はざるに、禱りて曰く『我れ若し大位有らば、百歩の内に当に三鹿を獲ん。若し止めて公相と為らば、一を獲るのみ』と。是に於て百歩に及ばずして連ねて三鹿を獲る。又祝して曰く『若し海内を統一せば、当に復た一大鹿を獲ん』と。是に於て果たして一大鹿を獲る。此事嘗て蕭裕と之を言ふ、朕今復た此の地に至る、故に拝奠す」と。海陵江南を取らんと意し、故に先づ禨祥を設けて以て群臣を諷す、是を以て仲軻毎に先づ其の意に逢ひ、之を導きて南伐せしむ。

貞元二年正月、宋の賀正旦使施巨朝辞す、海陵左宣徽使敬嗣暉をして施巨に問はしめて曰く「宋国は幾科に士を取る」と。対へて曰く「詩賦・経義・策論兼ね行ふ」と。又問ふ「秦檜は何の官を作し、年今幾何ぞ」と。対へて曰く「檜は尚書左僕射中書門下平章事と為り、年六十五なり」と。復た之に謂ひて曰く「我れ秦檜の賢なるを聞く、故に之を問ふ」と。

正隆二年、仲軻左諫議大夫と為り、起居注を修め、但だ諫議の俸を食み、事を言ふを得ず。三年正月、宋の賀正使孫道夫陛辞す、海陵左宣徽使敬嗣暉をして之を諭さしめて曰く「帰りて爾が帝に白せ、我が上国に事ふるに多く誠ならず、今略二事を挙ぐ:爾が民我が境に逃入する者有れば、辺吏皆即ち発還す、我が民逃叛して爾が境に入る者有れば、有司之を索むるに往々託辞して発せず、一なり。爾は沿辺に於いて鞍馬を盗買し、戦陣を備ふ、二なり。且つ馬は人を待ちて後用ふ可く、若し其の人無くば、馬百万を得るとも亦奚を以てせん。我れ亦豈に備無からんや。且つ我れ爾が国を取らざれば則ち已む、若し取らんと欲せば、固より難き事に非ず。我れ接納叛亡・盗買鞍馬は、皆爾が国楊太尉の為す所、常に俘獲に因りて其の人を知り問ふ、能為す無き者なり」と。又曰く「秦檜已に死せりと聞く、果たして然りや」と。道夫対へて曰く「檜実に死せり、陪臣も亦檜の薦用する所なり」と。又曰く「爾が国比来の行事、殊に秦檜の時に似ざるは何ぞ」と。道夫曰く「容へて陪臣還国し、一一具に宋帝に聞かしめん」と。海陵蓋し南伐せんと欲し、故に先づ納叛亡・盗買馬の二事を設け、而して他辞を雑えて以て之を言ふ。

海陵王は仲軻、右補闕の馬欽、校書郎の田與信、直長の習失を召し、便殿に侍坐させた。海陵王は仲軻と『漢書かんじょ』を論じ、仲軻に謂って曰く、「漢の封疆は七八千里に過ぎず、今わが国の幅員は万里、大であると謂えよう」と。仲軻曰く、「本朝の疆土は大なれども、天下に四主あり、南に宋、東に高麗、西に夏あり、若しこれを一にすることができれば、乃ち大と為るのみ」と。海陵王曰く、「彼らは何の罪あって伐つべきか」と。仲軻曰く、「臣聞く、宋人は馬を買い器械を修め、山東の叛亡を招納すと、豈に無罪と為すべけんや」と。海陵王喜んで曰く、「向者梁珫嘗て朕に言う、宋に劉貴妃なる者あり、姿質豔美にして、しょくの華蕊、吳の西施の及ぶところにあらずと。今一挙にして両得す、俗に謂う'行きながら手を振るう'なり。江南、わが挙兵を聞けば、必ず遠く竄くのみ」と。欽と與信、俱に対いて曰く、「海島、蠻越、臣等皆な道路を知る、彼将に安くにか往かん」と。欽また曰く、「臣、宋に在りし時、嘗て軍を帥いて蠻を征す、故に知るなり」と。海陵王、習失に謂いて曰く、「汝敢えて戦わんか」と。対えて曰く、「恩を受くる日久しく、死すとも何ぞ避けん」と。海陵王曰く、「汝、彼の出兵を敢えてするか否かを料らん、彼若し出兵せば、汝果たして能く敵に死せんか」と。習失良久くして曰く、「臣懦弱なれども、亦将に之と敵を為さん」と。海陵王曰く、「彼将に何れの地に出兵せん」と。曰く、「淮上に過ぎざるのみ」と。海陵王曰く、「然らば則ち天の我に与うるなり」と。既にして曰く、「朕挙兵して宋を滅ぼし、遠くも二三年を過ぎず、然る後高麗、夏国を討平せん。一統の後、功を論じて秩を遷し、将士に分賞せば、彼必ず労を忘れん」と。

四年三月、仲軻死す。冬至の前の一夕、海陵王夢みに仲軻酒を求む、既に覚めて、嗟悼すること良久く、使者を遣わして其の墓に奠せしむ。

李通

李通は、便辟側媚を以て海陵王に寵幸を得た。累官して右司郎中に至り、吏部尚書に遷る。請謁賄賂其の門に輻湊す。正隆二年正月乙酉、詔して左右司禦史中丞以下に便殿にて奏事せしめ、海陵王曰く、「子を知ること父に若くは莫く、臣を知ること君に若くは莫し、朕嘗て之を試みたり。朕人材に及んで詢ねば、汝等若し同類を挙げずんば、必ず其の相善き者を挙ぐ。朕聞く、女直、契丹の仕進する者は、必ず刑部尚書烏帯、簽書樞密遙設に頼りて之が先容を為さしめ、左司員外郎阿裏骨列其の事を任ずと。渤海、漢人の仕進する者は、必ず吏部尚書李通、戸部尚書許霖に頼りて之が先容を為さしめ、左司郎中王蔚其の事を任ずと。凡そ仕版に在る者、朕識る者は寡く、識らざる者は衆し、人臣に非ざるは莫し、豈に遠近親疏の異有らんや。苟も職を奉じて愆無くんば、尚書侍郎節度使便ち得べし、万一罪を獲ば、必ず罰して赦さじ」と。頃之、参知政事を拝す。

海陵王は累世の強盛を恃み、大いに征伐を肆にして、以て天下を一にせんと欲し、嘗て曰く、「天下一家、然る後以て正統と為すべし」と。通其の意を揣み知り、遂に張仲軻、馬欽、宦者梁珫近習の群小輩と、江南の富庶、子女玉帛の多きを盛んに談じ、其の意に逢いて先ず之を道う。海陵王其の言を信じ、通を以て謀主と為し、遂に兵を興して江南を伐たんと議す。四年二月、海陵王宰相に諭して曰く「宋国は臣服すと雖も、誓約有りて誠実無し、比来辺に沿いて馬を買い及び叛亡を招納するを聞く、備えざるべからず」と。使者を遣わし諸路の猛安部族、及び州県の渤海丁莊を籍して軍に充て、仍く諸道の民馬を括る。ここに於て、使者を分遣して上京、速頻路、胡裏改路、曷懶路、蒲與路、泰州、咸平府、東京、婆速路、曷蘇館、臨潢府、西南招討司、西北招討司、北京、河間府、真定府、益都府、東平府、大名府、西京路に往かしめ、凡そ年二十以上、五十以下なる者は皆な之を籍し、親老いて丁多しと雖も、一子を求めて留め侍らしむるも、亦聴かず、五年十一月、益都尹京等三十一人をして諸路の軍器を押し、軍行の要会する処に安置せしめ、軍の至るを俟って分給せしむ。其の分給の余りと繕完及びばざるものは、皆な聚めて之を焚く。

六年正月、海陵王通をして旨を諭し宋使徐度等に曰く、「朕昔梁王に従い嘗て南京に居し、其の風土を楽しまり。帝王の巡狩、古より之あり。淮右に隙地多し、其の間で校獵せんと欲し、従兵万人を踰えず。汝等帰りて汝が主に告げ、有司をして朕が意を宣諭せしめ、淮南の民をして疑懼無からしめよ」と。二月、通進みて右丞を拝し、詔して曰く、「卿繕完兵械を典領す、今已に功を畢ぬ、朕卿が忠謹を嘉し、故に是の命有り、江南の事畢るを俟ち、別に当に旌賞せん」と。

四月、簽書樞密院事高景山を宋帝生日使と為し、右司員外郎王全之に副えしむ、海陵王全に謂いて曰く、「汝宋主に見え、即ち面して其の南京宮室を焚き、辺に沿いて馬を買い、叛亡を招致する罪を数え、当に大臣某々をして此れに来たらしめ、朕将に親しく詰問せんとし、且つ漢、淮の地を索めよ、若し従わずんば、即ち厲声を以て之を詆責せよ、彼必ず敢えて汝を害せじ」と。海陵王蓋し王全をして宋主を激怒せしめ、将に以て南伐の名と為さんとす。景山に謂いて曰く、「帰日の際、全の言う所を以て奏聞せよ」と。全宋に至り、一も海陵王の言う如く宋主を詆責す、宋主全に謂いて曰く、「公北方の名家なるを聞く、何ぞ乃ち是の如くなる」と。全復た曰く、「趙桓今已に死せり」と。宋主遽かに起ち哀を発して罷む。海陵王南京に至り、宋使いを遣わして遷都を賀せしむ、海陵王韓汝嘉をして境上に就きて之を止めしめて曰く、「朕始めて此れに至る、比来北方小警有るを聞き、復た中都に帰らんと欲す、来賀する無庸」と。宋使乃ち還る。

ここに於て、天下の騾馬を大いに括り、官七品に至るまで一馬を留むるを聴し、等しく而して之に上る。並びに旧く籍したる民馬、其の東に在る者は西軍に給し、西に在る者は東軍に給し、東西交相に往来し、昼夜絡繹として絶えず、死者道に狼籍す。其の亡失多き者は、官吏罪を懼れて或いは自殺す。過ぐる所民田を蹂踐し、牽馬夫役を調発す。詔して河南州県の貯する糧米を以て大軍に備え、他に用うるを得ざらしむ、而して騾馬の至る所当に芻粟を給すべし、給すべき無く、有司以て請う、海陵王曰く、「此の方比歳民間の儲畜尚ほ多し、今禾稼野に満つ、騾馬就きて田の中に牧すべし、借令ふ再歳獲ること無くとも、亦何ぞ傷かんや」と。及び諸道の工匠を徴発して京師に至らしむるに、疫死する者勝えず数うべからず、天下始めて騷然とす。諸路の馬を調うるに戸口を以て率と為し、富室六十匹に至る者有り。凡そ馬五十六万余匹を調え、仍く本家に養飼せしめ、以て師期を俟つ。

海陵王は狩猟に出たついでに、通州に至り戦船の建造を視察し、諸路の水手を徴発して三万余りを得た。また東海県の張旺・徐元が反乱を起こすと、都水監徐文らに軍を率いさせ海を渡って討伐させ、海陵王は言った、「朕の意は一邑にあるにあらず、舟師を試さんとするのみ。」ここにおいて民は命に堪えず、盗賊が蜂起し、大なるものは城邑を連ね、小なるものは山沢に保ち、護衛普連ら二十四人を派遣し、各々に甲士五十人を与え、山東・河北・河東・中都等路の節鎮州郡に分かれて屯駐させ、盗賊を捕捉させた。護衛頑犀を定武軍節度副使とし、尚賢を安武軍節度副使とし、蒲甲を昭義軍節度副使とし、皆に銀牌を与え、督責させた。この時、山東の賊が沂州を犯し、臨沂県令胡撒は力戦して死んだ。大名府の賊王九らが城を占拠して叛き、その衆は数万に至った。契丹の辺六斤・王三らは皆、十数騎で旗幟を掲げ、白昼公然と行き、官軍は誰何することを敢えず、過ぎる州県において、府庫の物を開いて劫掠し市中に置き、人に奪い取らせた。小人は皆賊の来ることを喜び、良民はその害に堪えなかった。太府監高彦福・大理正耶律道・翰林待制大穎が使節として還朝し、皆盗賊のことを言上した。海陵王は聞くことを厭い、怒って彼らを杖刑に処し、大穎はさらに除名された。ここより以後、人は再び敢えて言わなくなった。

海陵王は自ら将となり、諸道の兵を分けて神策・神威・神捷・神鋭・神毅・神翼・神勇・神果・神略・神鋒・武勝・武定・武威・武安・武捷・武平・武成・武毅・武鋭・武揚・武翼・武震・威定・威信・威勝・威捷・威烈・威毅・威震・威略・威果・威勇の三十二軍とし、都総管・副総管を各々一員置き、左右領軍大都督ととく及び三道都統制府に分属させた。諸軍巡察使・副を各々一員置いた。乙太保奔睹を左領軍大都督とし、通を副大都督とした。海陵王は奔睹が旧将であるため、諸軍を率いさせて人望に従わせたが、実は通にその事を専掌させたのである。

海陵王は諸将を召して方略を授け、尚書省において宴を賜った。海陵王は言った、「太師梁王は連年南伐し、歳月を淹留した。今挙兵すれば必ず彼の如くならず、遠くても百日、近ければ旬月に止まるであろう。ただ爾ら将士は征行を労とするなかれ、戮力一心して大功を成し遂げよ。厚く旌賞を加えるべし。もし弛慢する者あれば、刑はこれに赦さず。」海陵王は糧運が続かないことを恐れ、諸軍に命じて江を渡るに僮僕を従えさせず、聞く者は皆怨み嘆いた。徒単后と太子光英を居守させ、尚書令しょうしょれい張浩・左丞相蕭玉・参知政事敬嗣暉を留めて省事を治めさせた。

九月甲午、海陵王は戎服を着て馬に乗り、武具を整えて出発した。翌日、妃嬪は皆行き、宮中では長く慟哭した。十月乙巳、天候が陰晦で道を失い、この夜二更になってようやく蒙城に至った。丁未、大軍は淮を渡り、中流に至って、海陵王は拝礼して酒を地に注いだ。宿営地に至り、繚垣を築く者を見て、四方館使張永鈐を殺した。廬州に将到する時、白兎を見て、馳せて射たが当たらなかった。やがて後軍がこれを捕らえて進上すると、海陵王は大いに喜び、金帛を賜り、顧みて李通に言った、「昔、武王が紂を伐つ時、白魚が舟中に躍った。今朕がこれを獲たのは、これも吉兆であろう。」癸亥、海陵王は和州に至り、百官が起居を奉る表を上奏した。海陵王はその使者に言った、「汝らは我が動静を窺おうとするのか。今後再び来るな。江南を平定してから賀表を進上せよ。」

この時、梁山濼の水が涸れ、先に造った戦船は進むことができず、そこで李通に命じて新たに戦船を造らせ、督責は苛酷で急を要し、将士は七八日昼夜休むことができず、城中の民家を壊して材木とし、死人の膏を煮て油として用いた。そこで江上に台を築き、海陵王は金甲を着て台に登り、黒馬を殺して天を祭り、一羊一豕を江中に投じた。都督昂・副都督蒲盧渾を召して言った、「舟楫は既に備わった。江を渡ることができる。」蒲盧渾は言った、「臣が観るに宋の舟は甚だ大きく、我が舟は小さくて行きが遅い。恐らく渡ることはできまい。」海陵王は怒って言った、「爾は昔、梁王に従って趙構を海島まで追ったが、あれは皆大船だったのか。明日、汝と昂は先に渡れ。」昂は自分が渡江を命じられたと聞き、悲しみ恐れて逃亡しようとした。暮れに至り、海陵王は人を遣わして昂に言わせた、「先の言葉は一時の怒りであった。先に渡江する必要はない。」翌日、武平軍都総管阿鄰・武捷軍副総管阿撒に舟師を率いさせ先に渡らせた。宿直将軍温都奥剌・国子司業馬欽・武庫直長習失は皆従軍した。海陵王は岸上に黄旗と紅旗を置き、進退を号令し、紅旗が立てば進み、黄旗が倒れれば退いた。既に江を渡り、二隻の舟が先に南岸に迫ったが、水が浅くて進めず、宋兵と相対して射合うこと久しく、二隻の舟は矢が尽き、遂に捕らえられ、一猛安・軍士百余りを失った。海陵王は遂に和州に還った。

ここにおいて尚書省は右司郎中吾補可・員外郎王全に奏報させた、世宗が東京で即位し、元号を大定と改めたと。海陵王はこれより前に既に護衛謀良虎・特離補を東京に派遣し、世宗を害そうとしていた。行って遼水に至り、世宗の詔使撒八に遇い、これを捕らえて殺し、遂に軍中に還った。海陵王は股を叩いて嘆いて言った、「朕は本来、江南を平定して元号を大定と改めようとした。これ天にあらずや。」そこで平素より書いていた「一戎衣を取って天下大定」と元号を改める事を出して、群臣に示した。遂に諸将帥を召して北帰を謀り、かつ兵を分けて渡江させた。

議が定まり、李通が再び入奏して言った、「陛下は親師を率いて異境に深入りし、功無くして還らんとすれば、もし衆が前に散じ、敵が後に乗ずれば、万全の計にあらず。もし兵を留めて渡江させ、車駕が北還すれば、諸将もまた解体せん。今、燕北の諸軍で遼陽に近い者は異志を有する恐れあり。宜しく先に兵を発して渡江させ、舟を収めて焚き、その帰望を絶つべし。然る後に陛下は北還し、南北ともに指日にして平定されましょう。」海陵王はこれを然りとし、翌日遂に揚州に向かった。烏江県を過ぎ、項羽こうう祠を観て、嘆いて言った、「かくの如き英雄にして天下を得られなかったのは、誠に惜しいことだ。」

海陵王は揚州に至り、符宝耶律沒答に神果軍を率いさせて淮の渡しを扼させ、凡そ軍中より還って淮上に至る者で、都督府の文書なき者は皆殺させた。そこで内箭を出して金龍で飾り、「御箭」と題し、その上に帛書を結びつけ、人に舟に乗せて南岸に射させた。その書には「宋国が人を遣わして南京の宮室を焚毀し、及び沿辺で馬を買い、軍民を招誘す。今師を興して罪を問い、義は吊伐に在り。大軍の至る所、必ず秋毫も犯すこと無からん。」とあり、これをもって宋人を招諭した。ここにおいて、宋将王権もまた捕らえた金の軍士三人を釈し、書を携えさせて海陵王の罪を数えさせた。李通がその書を奏上すると、即座に命じてこれを焼かせた。

海陵王は怒り、急いで渡江しようとした。ぎょう騎高僧がその党を誘って逃亡しようとしたが、事が発覚し、命じて衆刃で切り刻ませた。そこで令を下し、軍士が逃亡すればその蒲裏衍を殺し、蒲裏衍が逃亡すればその謀克を殺し、謀克が逃亡すればその猛安を殺し、猛安が逃亡すればその総管を殺すと、これにより軍士はますます危惧した。甲午、軍中に命じて鴉鶻船及び糧船を瓜州渡に運ばせ、明日を期して渡江し、敢えて後れる者は死と定めた。

乙未、完顔元宜らが兵を率いて御営を犯し、海陵王はしいしいぎゃくに遇った。都督府は南伐の計は皆李通らが賛成したものであり、徒単永年はその姻戚であり、郭安国は衆の共に憎む者であるとして、皆殺した。大定二年、詔して李通の官爵を削ぎ、人心はようやく快した。

馬欽

馬欽は幼名を韓哥といい、かつて江南に仕えたことがあったので、江南の道路を知ることができた。正隆三年、海陵王が南伐しようとしたとき、ついに馬欽を召し用い、貴徳県令から右補闕とした。馬欽は人となりが軽率で大體をわきまえず、海陵王がたびたび召見して語ると、馬欽は宮中を出るとすぐに人に語って言うには、「上は私とある事を論じられ、これを実行しようとされている」と。その海陵王を見る様は、まるで同僚友人のようであった。累遷して國子司業となった。海陵王が和州に至り、蒲盧渾に長江を渡らせようとしたとき、蒲盧渾が船が小さく渡れないと言ったので、海陵王は人をやって馬欽を召し、まず左右に戒めて言った、「馬欽もし船が小さくて長江を渡れないと言えば、ただちにこれを殺せ」と。馬欽が至ると、問うて言った、「この船で長江を渡れるか」と。馬欽は言った、「臣は筏を得ても渡ることができます」と。大定二年、除名された。この日、前翰林待制の大穎を起用して秘書丞とした。大穎は正隆年間に山東の盗賊について言上したことがあり、海陵王はその言を憎み、杖刑に処して除名していた。世宗は大穎の忠直を嘉し、馬欽の巧佞を憎んだので、故に大穎を再び用い、馬欽を放逐したのである。

高懷貞

高懷貞は尚書省令史となり、平素より海陵王と昵懇であった。海陵王は久しく臣下に止まらぬ心を抱いており、かつて高懷貞とそれぞれ志を語り合ったことがあり、海陵王は言った、「我が志に三つある。國家の大事はすべて我より出ること、これが一つ。師を帥いて國を伐ち、その君長を執って前に罪を問うこと、これが二つ。天下の絶色を得てこれを妻とすること、これが三つ」と。ここより小人佞夫は皆その志を知り、争って諂諛の説を進めた。大定県丞の張忠輔が海陵王に言うには、「公が帝と球を撃たれる夢を見ました。公が馬に乗ってこれを突き過ぎ、帝は馬から墜ち落ちられました」と。海陵王はこれを聞いて大いに喜んだ。時に熙宗が在位久しく、政事を大臣に委ねており、海陵王は近親として宰相となり、威福の権柄を専らにしたので、ついに弑逆の計を成し遂げたが、これらは皆、高懷貞の輩の小人が従臾して導いたのである。海陵王がさん立すると、高懷貞を修起居注とし、高懷貞の故父である濱州刺史に中奉大夫を追贈した。高懷貞は累遷して禮部侍郎となった。大定二年、奉政大夫に降格され、田裏に放逐された。五年、許霖とともに起複を賜り、高懷貞は定國軍節度使となった。上はこれを戒めて言った、「汝らは正隆の時にあって、奸佞貪私であり、世論は汝らを卑しんだ。朕は、終身齒することなきならば自新の道なしと考える。もし旧悪を恃んで悔い改めなければ、必ず汝らを赦さぬであろう」と。

蕭裕

蕭裕は本名を遙折といい、奚人である。初め猛安として中京に居住し、海陵王が中京留守となったとき、蕭裕と結び交わり、たびたび天下の事を論じ合った。蕭裕は海陵王に覬覦の心あることを推し量り、密かに海陵王に言った、「留守(海陵王)の先太師(完顔宗幹)は、太祖の長子であられます。德望このようであり、人心天意はまさに帰属すべきところがあります。誠に大事を挙げる志があれば、力を尽くして従います」と。海陵王は喜んでこれを受け入れ、ついに謀議を共にした。海陵王がついに弑逆の謀を成し遂げたのは、蕭裕がこれを啓発したのである。

海陵王が左丞となると、蕭裕を兵部侍郎とし、同知南京留守事に改め、さらに北京に改めた。海陵王が行台尚書省事を領し、道すがら北京を通ったとき、蕭裕に言った、「私は河南の兵に就いて位號を立て、まず兩河を定め、兵を挙げて北進しようと思う。君は我のために諸猛安を結集して我に応ぜよ」と。約を定めて去った。海陵王は良郷から召還されたため、約のようにはできなかったが、ついに熙宗を弑して簒立し、蕭裕を秘書監とした。

海陵王は心の中で太宗の諸子を忌み、これを除こうと思い、蕭裕と密謀した。蕭裕は傾險巧詐であり、よって太傅宗本・秉德らの反状を構え致し、海陵王は宗本を殺し、唐括辯を使者として遣わし秉德・宗懿及び太宗の子孫七十余人、秦王宗翰の子孫三十余人を殺させた。宗本が既に死ぬと、蕭裕は宗本の門客蕭玉を求め、詳しい反状を備えるよう教え、主名として上變させるようにした。海陵王が既に天下に詔すると、天下の人はこれを冤とした。海陵王は宗本誅殺の功を賞し、蕭裕を尚書左丞とし、儀同三司を加え、猛安を授け、錢二千萬、馬四百匹、牛四百頭、羊四千口を賜った。さらに一月を経て、平章政事・監修國史とした。旧制では、首相が監修國史を務めたが、海陵王は蕭裕にこれを命じ、蕭裕に言った、「太祖は神武をもって天命を受け、豐功茂烈は四海に光り輝く。史官に遺逸あることを恐れるので、故に卿に命ずる」と。久しくして、蕭裕は右丞相・兼中書令となった。蕭裕が相位にあるとき、職務を任せ事を用いること頗る専恣で、威福は己に在り、勢いは朝廷を傾けた。海陵王はこれを倚信し、他の宰相は成るに任せるのみであった。

蕭裕は高藥師と親善であり、かつて海陵王の密語を高藥師に告げたことがあり、高藥師はその言葉を海陵王に奏上し、かつ言った、「蕭裕に怨望の心があります」と。海陵王は蕭裕を召して戒諭したが、罪とはしなかった。あるいは蕭裕が権を擅にする者ありと言う者がいたが、海陵王は蕭裕を忌む者が多いと考え、これを信じなかった。また、人が蕭裕の弟蕭祚が左副點檢となり、妹婿の耶律辟離剌が左衛將軍となり、勢位が相憑藉するのを見て、忌嫉を生じたと考え、ついに蕭祚を出して益都尹とし、辟離剌を甯昌軍節度使として、衆人の疑いを絶とうとした。蕭裕は海陵王の意を知らず、急に親族が外補に出され、己に知らせないのを見て、これより深く思い悩み、海陵王が己を疑うのではないかと恐れた。海陵王の弟である太師袞が三省事を領し、共に相位にあったが、蕭裕が多く自らを用いることを以って、頗るこれを防閑したので、蕭裕は海陵王が袞に備えさせたのだと思った。しかして海陵王は猜忍嗜殺であり、蕭裕は禍が及ぶことを恐れ、ついに前真定尹蕭馮家奴・前御史中丞蕭招折・博州同知遙設・蕭裕の女婿遏剌補と謀り、亡遼の王延禧の孫を立てようとした。蕭裕は親信の蕭屯納を遣わして西北路招討使蕭好胡(蕭懷忠)を結ぼうとした。蕭懷忠は依違して未だ決せず、蕭屯納に言った、「これは大事である。汝は帰って重い人を一人遣わせ」と。蕭裕はついに蕭招折を遣わした。蕭招折は以前中丞であったが、罪により免官されており、これによって蕭懷忠に詣でることができた。蕭懷忠は蕭招折に、謀を共にする者にまた何人がいるかと問うと、蕭招折は言った、「五院節度使耶律朗もまたこれです」と。蕭懷忠は旧より耶律朗と隙があり、かつ蕭招折がかつて撻懶の變事を上奏したことがあったので、蕭招折が反復することを疑い、よって蕭招折を捕らえ、耶律朗を収めて獄に繫ぎ、使者を遣わして上變した。遙設もまた筆硯令史の白答に書を送り、白答に蕭裕を助けて富貴を取らせようとしたが、白答はその書を奏上した。海陵王は蕭裕を疑わず信じ、白答がこれを構誣したと言い、白答を市で殺すことを命じた。白答を執って宣華門を出ると、點檢の徒單貞が蕭懷忠の上變事を得て入奏し、白答に出會い、その故を問うて、よってこれを止めた。徒單貞が既に變事を奏し、白答のことを請うと、海陵王は急いでこれを釈放させた。

海陵王は宰相に裕を問わせたところ、裕は即座に罪を認めた。海陵王は大いに驚愕し、なおも信じ切れず、裕を引見して自ら問うた。裕は言った、「大丈夫のなすところ、事ここに至ってまたどうして隠せようか」。海陵王はさらに問うて言った、「汝は朕に何の怨みがあってこのことをなしたのか」。裕は言った、「陛下は何事も臣と議されたのに、祚らを除くことについては臣に知らせられなかった。領省國王は何事につけても臣が専権していると言い、かなり警戒しており、おそらくは陛下のご意向を得ているのであろう。陛下は唐括辯及び臣と生死を共にすると約束されたが、辯は強情で果敢であったために死地に至り、臣は皆知っている。死に場所を得られないことを恐れ、これによって謀反を起こし、幸いにも一時の免れを願ったまでです。太宗の子孫は罪なく、皆臣の手にかかって死んだ。臣の死も遅きに過ぎます」。海陵王はさらに裕に言った、「朕が天子として、もし汝に疑いがあれば、たとえ汝の弟たちが朝廷にあっても、どうして処置できぬことがあろうか。これをもって朕を疑うとは、汝は実に誤っている。太宗の諸子はどうして汝一人のためであろうか、朕は国家のために計らったのだ」。また彼に言った、「元来汝と仲が良かった。この罪はあるが、汝の命は許そう。ただ宰相にはなれぬ。汝に終身汝の祖先の墳墓を守らせる」。裕は言った、「臣下がこのような罪逆を犯した以上、何の面目あって天下の人に会えましょう。ただ絞首刑に処せられ、残りの不忠なる者を戒めたいと願います」。海陵王は遂に刀で左腕を刺し、血を取って裕の顔に塗り、彼に言った、「汝が死んだ後、朕が本来汝を疑う心がなかったことを知るだろう」。裕は言った、「久しく陛下の並々ならぬご寵遇を蒙り、仰ぎ慕う思いは切なるものでしたが、自ら過ちを犯したと知り、たとえ後悔したところでどうして及ぶことがありましょう」。海陵王は泣きながら裕を門の外まで送り、殺した。遙設及び馮家奴をも併せて誅した。馮家奴の妻は豫王の娘であり、その子の穀も皆謀反に与しており、併せて殺した。護衛の龐葛を西北路招討司に遣わして朗及び招折を誅させた。屯納と遏剌補は皆逃げ出したが、屯納を捕えて市で斬り、遏剌補は自縊して死んだ。

屯納が逃げ出し、河間少尹の蕭之詳のところを通り過ぎた。之詳は初め裕のことを知らず、三日間留めた。屯納が之詳の茶紮の家に行くと、茶紮は人を之詳のもとに遣わして公引を告げさせ、之詳は屯納を得て、彼を別の所に遣わした。茶紮の家奴がこの事を発覚させ、吏部侍郎の窊産がこれを取り調べた。之詳は言った、「屯納は二晩泊まって去った」。法家は之詳がその間を隠し、尚書省を欺いたとして、贖罪に当たるとした。海陵王は怒り、之詳を殺すことを命じ、窊産及び法を議した者を杖刑に処し、茶紮は四百の杖を受けて死んだ。

龐葛が招折らを殺し、併せて罪のない四人をも殺したが、海陵王は問わず、ただ五十の杖を加えたのみであった。裕らの罪をもって天下に詔し、変事を上告した功を賞した。懷忠は枢密副使に遷り、白答を牌印雲とした。高薬師は起居注に遷り、階を進めて顕武将軍となった。薬師はかつて裕に怨望があると奏したことがあり、ここに至ってこれを賞したという。

胥持國

胥持國、字は秉鈞、代州繁畤の人である。経童の出身で、累次転調して博野県丞となった。上書する者が民間が官地を不法に占有している、例えば「太子務」「大王莊」などは私家が有すべきではないと述べた。部は持國にこれを調査させた。持國は帰って言った、「この地は異代よりすでに民有となっており、取り上げることはできません」。事はそこで立ち消えとなった。まもなく太子司倉に任じられ、掌飲令に転じ、司倉を兼ねた。皇太子は彼を知り、祗應司令に抜擢した。章宗が即位すると、宮籍副監に除かれ、宮籍庫の銭五十万と宅一区を賜った。ほどなく同簽宣徽院事・工部侍郎に改め、宮籍監を兼ねた。三ヶ月を経て、工部尚書に遷り、宋に使した。明昌四年、参知政事に拝され、孫用康の榜下進士の及第を賜った。ちょうど黄河が陽武で決壊したので、持國は役事を監督することを請い、遂に尚書省事を行った。翌年、尚書右丞に進んだ。

持國は人となり柔和で諂うが智術があった。初め、李妃は微賤より起こり、上(章宗)の寵愛を得た。持國は久しく太子宮におり、もとより上(章宗)が色を好むことを知っており、ひそかに秘術をもってこれに干渉し、また多く妃の側近の用事人に賄賂を贈った。妃もまた自ら門地の薄いことを嫌い、外廷を頼りとして重きをなそうとし、しばしば持國の有能さを称えた。これによって大いに上に信任され、妃と表裏をなして朝政を専断した。鄭王永蹈・鎬王永中を誅し、完顏守貞らを罷黜した事などは、皆李妃・持國に起因する。利を好み躁進する士は皆その門下に趨走した。四方これがために語って言った、「経童が宰相となり、監婢が妃となる」。その卑賤で庸俗なことを憎んだのである。

承安三年、御史台が劾奏した、「右司諫の張複亨、右拾遺の張嘉貞、同知安豊軍節度使事の趙樞、同知定海軍節度使事の張光庭、戸部主事の高元甫、刑部員外郎の張岩叟、尚書省令史の傅汝梅・張翰・裴元・郭郛は、皆権門に趨走し、人は戯れて'胥門十哲'と言う。複亨・嘉貞は特に卑しく諂って苟も進み、諫職にふさわしくない。皆罷黜すべきである」。詔は可とした。ここにおいて持國は通奉大夫をもって致仕し、嘉貞らは皆外補された。

まもなく、大名府事を起知せしめられたが、赴任せず、枢密副使に改め、枢密使の襄を補佐して北京で軍を治めた。ある日、上は翰林修撰の路鐸を召して他の事を問うたが、ついで董師中と張萬公の優劣について語った。鐸は言った、「師中は胥持國に附いて進みました。持國は奸邪の小人であり、軍馬を統べるに適しません。臣が推し量るに、人望に允なるのみならず、必ずや軍心を服させることもできず、もし帰還の日再び宰相となれば、必ず天下を乱すでしょう」。上は言った、「人臣が人を進退するは難く、人君が人を進退するは易い。朕はどうしてこの人を再び宰相とせんや。ただ官階を二階進め、致仕させるのみである」。まもなく軍中で卒した。諡は「通敏」。後に上は平章政事の張萬公に問うて言った、「持國は今すでに死んだが、その人となりは結局どうであったか」。萬公は答えて言った、「持國は平素の行いが純粋で謹厳ではなく、例えば平楽楼で酒を売った一件などから知ることができます」。上は言った、「これもまた利を好むというわけではない。馬琪が参政の位にありながら、ひそかに省醖(官製の酒)を売ったようなのが、利を好むというのである」。子の鼎は別に伝がある。