金史

列傳第六十七: 酷吏(高閭山、蒲察合住) 佞幸(蕭肄、張仲軻、李通、馬欽、高懷貞、蕭裕、胥持國)

列傳第六十七: 酷吏(高閭山、蒲察合住) 佞幸(蕭肄、張仲軻、李通、馬欽、高懷貞、蕭裕、胥持國)

列傳第六十七

酷吏 ○高閭山 蒲察合住

原文酷吏 ○高閭山 蒲察合住

佞幸 ○蕭肄 張仲軻 李通 馬欽 高懷貞 蕭裕 胥持國

原文佞幸 ○蕭肄 張仲軻 李通 馬欽 高懷貞 蕭裕 胥持國

酷吏

原文酷吏

太史公(司馬遷)が言う、「法家は厳しくして恩情に乏しい」と。誠にこの言葉の通りである。金の法は厳密で、律文は前代に因りながらも増減したが、おおむね重い法典を基準とすることが多かった。熙宗は次々と大獄を起こし、海陵王は宗室を滅ぼし、こじつけや無理なつじつま合わせをし、奸を告げ変事を上申する者には破格の賞を与えた。ここにおいて中外の風俗は一変し、皆威圧と残虐を事功として尊び、讒言と害悪が行われた。その毒は遠近に流れ、惨憺たるものであった。金史は欠落が多いが、その旧録により二人を得た。ここに『酷吏傳』を作る。

原文太史公有言:「法家嚴而少恩。」信哉斯言也。金法嚴密,律文雖因前代而增損之,大抵多准重典。熙宗迭興大獄,海陵翦滅宗室,鉤棘傅會,告奸上變者賞以不次。於是中外風俗一變,咸尚威虐以為事功,而讒賊作焉。流毒遠邇,慘矣。金史多闕逸,據其舊錄得二人焉。作《酷吏傳》。

高閭山

原文高閭山

高閭山は、澄州析木の人である。選ばれて護衛に充てられ、順義軍節度副使に転じ、唐括、移剌都颭詳穩を経て、震武軍節度副使、曹王府尉、大名治中に改められた。汝州刺史に遷り、単州に改められた。制令で法に依らず杖を用いて人を決することを禁じたが、閭山はそれを見て笑い、「これも実行は難しい」と言った。その日、わざと大杖を用いて部民の楊仙を杖死させ、官を一等削られて職を解かれた。久しくして、鳳翔治中に降格し、原州、済州、泗州刺史を歴任し、鄭州防禦使に改められ、蒲与路節度使に遷り、臨海軍、盤安軍、寧昌軍に移った。貞祐二年、城が破られて死んだ。

原文高閭山,澄州析木人。選充護衛,調順義軍節度副使,轉唐括、移剌都颭詳穩,改震武軍節度副使、曹王府尉,大名治中。遷汝州刺史,改單州。制禁不依法用杖決人者,閭山見之笑曰:「此亦難行。」是日,特用大杖杖死部民楊仙,坐削一官,解職。久之,降鳳翔治中,曆原州、濟州、泗州刺史,改鄭州防禦使,遷蒲與路節度使,移臨海軍、盤安軍、寧昌軍。貞祐二年,城破死之。

蒲察合住

原文蒲察合住

蒲察合住は、吏から身を起こし、長く宣宗に信頼され、声勢が赫々とし、性格はまた残忍で酷薄で、人々は彼が国を蝕むことを知りながら敢えて言う者がなかった。その子は護衛に充てられていたが、先に追い出された。その後、合住は恆州刺史となり、近県で順番を待った。後に大軍が陝西に入り、関中が震動した。ある者が合住が恆州へ赴くのは北へ逃げる計画であると言い、朝廷は開封にその親族を拘束するよう命じた。合住は怨み言を吐いて、「私を殺してしまえば太平になるのだ」と言った。まもなく御史に弾劾され、初めは笞刑で贖罪とする議があったが、宰相は道理に悖るとし、開封府の門の下で斬られた。故に当時、宣宗朝の三賊という評があり、王阿裏、蒲察咬住を指し、合住はその一人であった。

原文蒲察合住,以吏起身,久為宣宗所信,聲勢烜赫,性複殘刻,人知其蠹國而莫敢言。其子充護衛,先逐出之。繼而合住為恆州刺史,需次近縣。後大兵入陝西,關中震動。或言合住赴恆州為北走計,朝廷命開封羈其親屬,合住出怨言曰:「殺卻我即太平矣。」尋為禦史所劾,初議笞贖,宰相以為悖理,斬於開封府門之下。故當時有宣朝三賊之目,謂王阿裏、蒲察咬住,合住其一也。

興定年間、駙馬僕散阿海の獄事において、京師で審理が宣せられた場所は七十余りに及び、阿裏の輩は時機に乗じて事を起こしその毒をふるい、朝士はおののき自らを保つことができなかった。ただ獨吉文之だけが開封府の幕下にあり、彼が謀反しないことを明らかにし、ついに署名せず、阿海が誅殺された後も、文之は何ら問われることはなかった。

原文興定中,駙馬僕散阿海之獄,京師宣勘七十余所,阿裏輩乘時起事以肆其毒,朝士惴惴莫克自保,惟獨吉文之在開封府幕,明其不反,竟不署字,阿海誅,文之亦無所問。

咬住は、正大初年に致仕し、睢陽に居住したが、潰走した軍の変乱に遭い、その家族と共に殺害された。

原文咬住,正大初致仕,居睢陽,潰軍變,與其家皆被殺。

初め、宣宗は刑罰を好み、朝士はしばしば笞打たれ、言論者を刀杖で決殺するに至った。高琪が権力を握り、威刑をほしいままにした。南渡(開封遷都)の後、この風習が定着し、士大夫でさえもこれに染まり、例えば徒單右丞思忠は麻椎で人を打つのを好み、「麻椎相公」と号された。李運使特立は「半截剣」と号され、その短小で鋭利なことを言った。馮内翰璧は「馮劊」と号された。雷淵が御史となり、蔡州に至って奸豪を得て、五百人を杖殺し、「雷半千」と号された。また完顏麻斤出がおり、皆残酷で知られ、合住、王阿裏、李渙の徒は、胥吏の中でも特に狡猾で酷薄な者であった。

原文初,宣宗喜刑罰,朝士往往被笞楚,至用刀杖決殺言者。高琪用事,威刑自恣。南渡之後,習以成風,雖士大夫亦為所移,如徒單右丞思忠好用麻椎擊人,號「麻椎相公」。李運使特立號「半截劍」,言其短小鋒利也。馮內翰璧號「馮劊」。雷淵為禦史,至蔡州得奸豪,杖殺五百人,號曰「雷半千」。又有完顏麻斤出,皆以酷聞,而合住、王阿裏、李渙之徒,胥吏中尤狡刻者也。

佞幸

原文佞幸

世に嗜欲ある者は、何れか其の害を受けざらんや。龍は天下の至神なるものなり、一たび嗜欲あれば、人に見制せらる、故に人君も亦然り。嗜欲は独り柔曼の傾意のみにあらず、征伐・畋獵・土木・神仙、彼佞なる者は皆以て其の好む所に投ずる有り。金主は内に声色に蠱され、外に好んで大功を喜び、熙宗・海陵に甚しきは莫く、章宗は之に次ぐ。『金史』は蕭肄より胥持國に至り、佞臣の尤なる者七人を得、皆寵遇を三君の朝に被り、以て其身を亡ぼし、以て其の国を蠹し、其の禍皆此より始まる、戒めざるべけんや。『佞幸傳』を作る。

原文世之有嗜欲者,何嘗不被其害哉。龍,天下之至神也,一有嗜欲,見制于人,故人君亦然。嗜欲不獨柔曼之傾意也,征伐、畋獵、土木、神仙,彼為佞者皆有以投其所好焉。金主內蠱聲色,外好大喜功,莫甚于熙宗、海陵,而章宗次之。《金史》自蕭肄至胥持國,得佞臣之尤者七人,皆被寵遇於三君之朝,以亡其身,以蠹其國,其禍皆始於此,可不戒哉。作《佞幸傳》。

蕭肄

原文蕭肄

蕭肄は、本は奚人にして、熙宗に寵せられ、復た悼後に諂い事え、累官して参知政事に至る。皇統九年四月壬申の夜、大風雨有り、雷電寝殿の鴟尾を震壊し、火有り外より入り、内寝の幃幔を焼く。帝は別殿に徙りて之を避け、詔を下して己を罪せんと欲す。翰林学士張鈞に草を視させしむ。鈞の意は天戒に奉答せんと欲し、当に深く自ら貶損すべく、其の文に曰く「惟だ徳類に弗く、上つて天威を幹す」及び「顧みるに此の寡昧眇たる予小子」等の語有り。肄訳して奏して曰く「弗類は是れ大なる無道、寡は孤独にして親無く、昧は則ち人事に於いて曉らざるなり、眇は則ち目に見る所無く、小子は嬰孩の称、此れ漢人の文字を托して以て主上を詈るなり」と。帝大いに怒り、衛士を命じて鈞を殿下に拽き下し、数百榜し、死せず。手を以て剺に其の口を剺きて之を醢にす。肄に通天犀帯を賜う。恩幸を憑恃し、同列を倨視し、遂に海陵と悪有り。及び篡立し、大臣の官爵を加うるに、例として銀青光禄大夫を加う。数日、肄を召して詰えて曰く「学士張鈞は何の罪有りて誅せられ、爾は何の功有りて賞を受く」と。肄対ふる能はず。海陵曰く「朕が汝を殺すは難き事に非ず、人或は我が私怨を報ずるを以てす」と。是に於て、詔して名を除き、田里に放ち帰し、百里の外に出づるを得ざるを禁錮す。

原文蕭肄,本奚人,有寵于熙宗,複諂事悼後,累官參知政事。皇統九年四月壬申夜,大風雨,雷電震壞寢殿鴟尾,有火自外入,燒內寢幃幔。帝徙別殿避之,欲下詔罪己。翰林學士張鈞視草。鈞意欲奉答天戒,當深自貶損,其文有曰:「惟德弗類,上幹天威」及「顧茲寡昧眇予小子」等語。肄譯奏曰:「弗類是大無道,寡者孤獨無親,昧則於人事弗曉,眇則目無所見,小子嬰孩之稱,此漢人托文字以詈主上也。」帝大怒,命衛士拽鈞下殿,榜之數百,不死。以手劍剺其口而醢之。賜肄通天犀帶。憑恃恩幸,倨視同列,遂與海陵有惡。及篡立,加大臣官爵,例加銀青光祿大夫。數日,召肄詰之曰:「學士張鈞何罪被誅,爾何功受賞?」肄不能對。海陵曰:「朕殺汝無難事,人或以我報私怨也。」於是,詔除名,放歸田裏,禁錮不得出百里外。

張仲軻

原文張仲軻

張仲軻は、幼名を牛児と曰い、市井の無頼にして、伝奇小説を説き、俳優の詼諧語を雑えて以て業と為す。海陵之を左右に引き、以て戯笑を資とす。海陵岐国王に封ぜられ、以て書表と為し、及び即位し、秘書郎と為る。海陵嘗て仲軻と妃嬪に対し褻瀆す、仲軻但だ死罪を称し、敢へて仰ぎ視ず。又嘗て仲軻に令して倮形を以て之を観させしむ、侍臣往々に令して倮褫せしめ、徒単貞と雖も亦此を免れず。兵部侍郎完顔かんがん普連・大興少尹李惇皆贓を以て敗る、海陵之を要近に置く。伶人于慶児官五品・大氏の家奴王之彰を秘書郎と為す。之彰の睾珠偏僻なるを、海陵親しく之を視、以て褻と為さず。唐括辯の家奴和尚・烏帯の家奴葛温・葛魯、皆宿衛に置き、僥倖して一品に至る者有り。左右或は官職無き人、或は名を以て之を呼べば、即ち顕階を授く、海陵其の人に語りて曰く「爾復た能く之を名づくべけんや」と。常に黄金を茵褥の間に置き、之を喜ぶ者に令して自ら之を取らしむ、其の濫賜此の如し。宋の余唐弼宝位登賀し、且つ還らんとす、海陵玉帯を以て附し宋帝に賜い、使をして宋帝に謂わしめて曰く「此の帯は卿の父の常に服せし所、今以て賜う、卿をして父を見るが如くせしめ、当に朕が意を忘れざらしむべし」と。使退き、仲軻曰く「此れ希世の宝、惜しむべく軽く賜う」と。上曰く「江南の地は、他日当に我が有と為すべく、此れ外府に置くのみ」と。是より海陵に南伐の意有るを知る。

原文張仲軻,幼名牛兒,市井無賴,說傳奇小說,雜以俳優詼諧語為業。海陵引之左右,以資戲笑。海陵封岐國王,以為書表,及即位,為秘書郎。海陵嘗對仲軻與妃嬪褻瀆,仲軻但稱死罪,不敢仰視。又嘗令仲軻倮形以觀之,侍臣往往令倮褫,雖徒單貞亦不免此。兵部侍郎完顏普連、大興少尹李惇皆以贓敗,海陵置之要近。伶人于慶兒官五品、大氏家奴王之彰為秘書郎。之彰睾珠偏僻,海陵親視之,不以為褻。唐括辯家奴和尚、烏帶家奴葛溫、葛魯,皆置宿衛,有僥倖至一品者。左右或無官職人,或以名呼之,即授以顯階,海陵語其人曰:「爾複能名之乎?」常置黃金茵褥間,喜之者令自取之,其濫賜如此。宋余唐弼賀登寶位,且還,海陵以玉帶附賜宋帝,使謂宋帝曰:「此帶卿父所常服,今以為賜,使卿如見而父,當不忘朕意也。」使退,仲軻曰:「此希世之寶,可惜輕賜。」上曰:「江南之地,他日當為我有,此置之外府耳。」由是知海陵有南伐之意。

俄に秘書丞に遷り、少監に転ず。是の時、燕京宮室を営建す、有司真定府潭園の材木を取る、仲軻間に乗じて其の中の材木用ふべからずと言ふ、海陵仲軻の請托を受くると意し、仲軻の官を免ず。未だ幾ばくもあらず、復た用ひて少監と為す。海陵途你山に獵し、鐸瓦に次ぎ、天に酹して拝し、群臣に謂ひて曰く「朕幼時に射を習ひ、一門の下に至り、黙して祝して曰く『若し我れ異日大貴あらば、当に一矢をして横に門脊に加はらしめん』と。及び射す、果たして横に門脊に加はる。後に中京留守と為り、嘗て此の地に大獵し、囲未だ合はざるに、禱りて曰く『我れ若し大位有らば、百歩の内に当に三鹿を獲ん。若し止めて公相と為らば、一を獲るのみ』と。是に於て百歩に及ばずして連ねて三鹿を獲る。又祝して曰く『若し海内を統一せば、当に復た一大鹿を獲ん』と。是に於て果たして一大鹿を獲る。此事嘗て蕭裕と之を言ふ、朕今復た此の地に至る、故に拝奠す」と。海陵江南を取らんと意し、故に先づ禨祥を設けて以て群臣を諷す、是を以て仲軻毎に先づ其の意に逢ひ、之を導きて南伐せしむ。

原文俄遷秘書丞,轉少監。是時,營建燕京宮室,有司取真定府潭園材木,仲軻乘間言其中材木不可用,海陵意仲軻受請托,免仲軻官。未幾,複用為少監。海陵獵於途你山,次於鐸瓦,酹天而拜,謂群臣曰:「朕幼時習射,至一門下,默祝曰:'若我異日大貴,當使一矢橫加門脊上。'及射,果橫加門脊上。後為中京留守,嘗大獵於此地,圍未合,禱曰:'我若有大位,百步之內當獲三鹿。若止為公相,獲一而已。'於是不及百步連獲三鹿。又祝曰:'若統一海內,當複獲一大鹿。' 於是果獲一大鹿。此事嘗與蕭裕言之,朕今複至此地,故拜奠焉。」海陵意欲取江南,故先設禨祥以諷群臣,是以仲軻每先逢其意,導之南伐。

貞元二年正月、宋の賀正旦使施巨朝辞す、海陵左宣徽使敬嗣暉をして施巨に問はしめて曰く「宋国は幾科に士を取る」と。対へて曰く「詩賦・経義・策論兼ね行ふ」と。又問ふ「秦檜は何の官を作し、年今幾何ぞ」と。対へて曰く「檜は尚書左僕射中書門下平章事と為り、年六十五なり」と。復た之に謂ひて曰く「我れ秦檜の賢なるを聞く、故に之を問ふ」と。

原文貞元二年正月,宋賀正旦使施巨朝辭,海陵使左宣徽使敬嗣暉問施巨曰:「宋國幾科取士?」對曰:「詩賦、經義、策論兼行。」又問:「秦檜作何官,年今幾何?」對曰:「檜為尚書左僕射中書門下平章事,年六十五矣。」複謂之曰:「我聞秦檜賢,故問之。」

正隆二年、仲軻左諫議大夫と為り、起居注を修め、但だ諫議の俸を食み、事を言ふを得ず。三年正月、宋の賀正使孫道夫陛辞す、海陵左宣徽使敬嗣暉をして之を諭さしめて曰く「帰りて爾が帝に白せ、我が上国に事ふるに多く誠ならず、今略二事を挙ぐ:爾が民我が境に逃入する者有れば、辺吏皆即ち発還す、我が民逃叛して爾が境に入る者有れば、有司之を索むるに往々託辞して発せず、一なり。爾は沿辺に於いて鞍馬を盗買し、戦陣を備ふ、二なり。且つ馬は人を待ちて後用ふ可く、若し其の人無くば、馬百万を得るとも亦奚を以てせん。我れ亦豈に備無からんや。且つ我れ爾が国を取らざれば則ち已む、若し取らんと欲せば、固より難き事に非ず。我れ接納叛亡・盗買鞍馬は、皆爾が国楊太尉の為す所、常に俘獲に因りて其の人を知り問ふ、能為す無き者なり」と。又曰く「秦檜已に死せりと聞く、果たして然りや」と。道夫対へて曰く「檜実に死せり、陪臣も亦檜の薦用する所なり」と。又曰く「爾が国比来の行事、殊に秦檜の時に似ざるは何ぞ」と。道夫曰く「容へて陪臣還国し、一一具に宋帝に聞かしめん」と。海陵蓋し南伐せんと欲し、故に先づ納叛亡・盗買馬の二事を設け、而して他辞を雑えて以て之を言ふ。

原文正隆二年,仲軻為左諫議大夫,修起居注,但食諫議俸,不得言事。三年正月,宋賀正使孫道夫陛辭,海陵使左宣徽使敬嗣暉諭之曰:「歸白爾帝,事我上國多有不誠,今略舉二事:爾民有逃入我境者,邊吏皆即發還,我民有逃叛入爾境者,有司索之往往託辭不發,一也。爾於沿邊盜買鞍馬,備戰陣,二也。且馬待人而後可用,如無其人,得馬百萬亦奚以為?我亦豈能無備。且我不取爾國則已,如欲取之,固非難事。我聞接納叛亡、盜買鞍馬,皆爾國楊太尉所為,常因俘獲問知其人,無能為者也。」又曰:「聞秦檜已死,果否?」道夫對曰:「檜實死矣,陪臣亦檜所薦用者。」又曰:「爾國比來行事,殊不似秦檜時何也?」道夫曰:「容陪臣還國,一一具聞宋帝。」海陵蓋欲南伐,故先設納叛亡、盜買馬二事,而雜以他辭言之。

海陵王は仲軻、右補闕の馬欽、校書郎の田與信、直長の習失を召し、便殿に侍坐させた。海陵王は仲軻と『漢書』を論じ、仲軻に謂って曰く、「漢の封疆は七八千里に過ぎず、今わが国の幅員は万里、大であると謂えよう」と。仲軻曰く、「本朝の疆土は大なれども、天下に四主あり、南に宋、東に高麗、西に夏あり、若しこれを一にすることができれば、乃ち大と為るのみ」と。海陵王曰く、「彼らは何の罪あって伐つべきか」と。仲軻曰く、「臣聞く、宋人は馬を買い器械を修め、山東の叛亡を招納すと、豈に無罪と為すべけんや」と。海陵王喜んで曰く、「向者梁珫嘗て朕に言う、宋に劉貴妃なる者あり、姿質豔美にして、蜀の華蕊、吳の西施の及ぶところにあらずと。今一挙にして両得す、俗に謂う'行きながら手を振るう'なり。江南、わが挙兵を聞けば、必ず遠く竄くのみ」と。欽と與信、俱に対いて曰く、「海島、蠻越、臣等皆な道路を知る、彼将に安くにか往かん」と。欽また曰く、「臣、宋に在りし時、嘗て軍を帥いて蠻を征す、故に知るなり」と。海陵王、習失に謂いて曰く、「汝敢えて戦わんか」と。対えて曰く、「恩を受くる日久しく、死すとも何ぞ避けん」と。海陵王曰く、「汝、彼の出兵を敢えてするか否かを料らん、彼若し出兵せば、汝果たして能く敵に死せんか」と。習失良久くして曰く、「臣懦弱なれども、亦将に之と敵を為さん」と。海陵王曰く、「彼将に何れの地に出兵せん」と。曰く、「淮上に過ぎざるのみ」と。海陵王曰く、「然らば則ち天の我に与うるなり」と。既にして曰く、「朕挙兵して宋を滅ぼし、遠くも二三年を過ぎず、然る後高麗、夏国を討平せん。一統の後、功を論じて秩を遷し、将士に分賞せば、彼必ず労を忘れん」と。

原文海陵召仲軻、右補闕馬欽、校書郎田與信、直長習失入便殿侍坐。海陵與仲軻論《漢書》,謂仲軻曰:「漢之封疆不過七八千里,今吾國幅員萬里,可謂大矣。」仲軻曰:「本朝疆土雖大,而天下有四主,南有宋,東有高麗,西有夏,若能一之,乃為大耳。」海陵曰:「彼且何罪而伐之?」仲軻曰:「臣聞宋人買馬修器械,招納山東叛亡,豈得為無罪?」海陵喜曰:「向者梁珫嘗為朕言,宋有劉貴妃者姿質豔美,蜀之華蕊、吳之西施所不及也。今一舉而兩得之,俗所謂'因行掉手'也。江南聞我舉兵,必遠竄耳。」欽與與信俱對曰:「海島、蠻越,臣等皆知道路,彼將安往?」欽又曰:「臣在宋時,嘗帥軍征蠻,所以知也。」海陵謂習失曰:「汝敢戰乎?」對曰:「受恩日久,死亦何避。」海陵曰:「汝料彼敢出兵否,彼若出兵,汝果能死敵乎?」習失良久曰:「臣雖懦弱,亦將與之為敵矣。」海陵曰:「彼將出兵何地?」曰:「不過淮上耳。」海陵曰:「然則天與我也。」既而曰:「朕舉兵滅宋,遠不過二三年,然後討平高麗、夏國。一統之後,論功遷秩,分賞將士,彼必忘勞矣。」

四年三月、仲軻死す。冬至の前の一夕、海陵王夢みに仲軻酒を求む、既に覚めて、嗟悼すること良久く、使者を遣わして其の墓に奠せしむ。

原文四年三月,仲軻死。冬至前一夕,海陵夢仲軻求酒,既覺,嗟悼良久,遣使者奠其墓。

李通

原文李通

李通は、便辟側媚を以て海陵王に寵幸を得た。累官して右司郎中に至り、吏部尚書に遷る。請謁賄賂其の門に輻湊す。正隆二年正月乙酉、詔して左右司禦史中丞以下に便殿にて奏事せしめ、海陵王曰く、「子を知ること父に若くは莫く、臣を知ること君に若くは莫し、朕嘗て之を試みたり。朕人材に及んで詢ねば、汝等若し同類を挙げずんば、必ず其の相善き者を挙ぐ。朕聞く、女直じょちょく、契丹の仕進する者は、必ず刑部尚書烏帯、簽書樞密遙設に頼りて之が先容を為さしめ、左司員外郎阿裏骨列其の事を任ずと。渤海、漢人の仕進する者は、必ず吏部尚書李通、戸部尚書許霖に頼りて之が先容を為さしめ、左司郎中王蔚其の事を任ずと。凡そ仕版に在る者、朕識る者は寡く、識らざる者は衆し、人臣に非ざるは莫し、豈に遠近親疏の異有らんや。苟も職を奉じて愆無くんば、尚書侍郎節度使便ち得べし、万一罪を獲ば、必ず罰して赦さじ」と。頃之、参知政事を拝す。

原文李通,以便辟側媚得幸於海陵。累官右司郎中,遷吏部尚書。請謁賄賂輻輳其門。正隆二年正月乙酉,詔左右司禦史中丞以下奏事便殿,海陵曰:「知子莫若父,知臣莫若君,朕嘗試之矣。朕詢及人材,汝等若不舉同類,必舉其相善者。朕聞女直、契丹之仕進者,必賴刑部尚書烏帶、簽書樞密遙設為之先容,左司員外郎阿裏骨列任其事。渤海、漢人仕進者,必賴吏部尚書李通、戶部尚書許霖為之先容,左司郎中王蔚任其事。凡在仕版,朕識者寡,不識者眾,莫非人臣,豈有遠近親疏之異哉。苟奉職無愆,尚書侍郎節度使便可得,萬一獲罪,必罰無赦。」頃之,拜參知政事。

海陵王は累世の強盛を恃み、大いに征伐を肆にして、以て天下を一にせんと欲し、嘗て曰く、「天下一家、然る後以て正統と為すべし」と。通其の意を揣み知り、遂に張仲軻、馬欽、宦者梁珫近習の群小輩と、江南の富庶、子女玉帛の多きを盛んに談じ、其の意に逢いて先ず之を道う。海陵王其の言を信じ、通を以て謀主と為し、遂に兵を興して江南を伐たんと議す。四年二月、海陵王宰相に諭して曰く「宋国は臣服すと雖も、誓約有りて誠実無し、比来辺に沿いて馬を買い及び叛亡を招納するを聞く、備えざるべからず」と。使者を遣わし諸路の猛安もうあん部族、及び州県の渤海丁莊を籍して軍に充て、仍く諸道の民馬を括る。ここに於て、使者を分遣して上京、速頻路、胡裏改路、曷懶路、蒲與路、泰州、咸平府、東京、婆速路、曷蘇館、臨潢府、西南招討司、西北招討司、北京、河間府、真定府、益都府、東平府、大名府、西京路に往かしめ、凡そ年二十以上、五十以下なる者は皆な之を籍し、親老いて丁多しと雖も、一子を求めて留め侍らしむるも、亦聴かず、五年十一月、益都尹京等三十一人をして諸路の軍器を押し、軍行の要会する処に安置せしめ、軍の至るを俟って分給せしむ。其の分給の余りと繕完及びばざるものは、皆な聚めて之を焚く。

原文海陵恃累世強盛,欲大肆征伐,以一天下,嘗曰:「天下一家,然後可以為正統。」通揣知其意,遂與張仲軻、馬欽、宦者梁珫近習群小輩,盛談江南富庶,子女玉帛之多,逢其意而先道之。海陵信其言,以通為謀主,遂議興兵伐江南。四年二月,海陵諭宰相曰「宋國雖臣服,有誓約而無誠實,比聞沿邊買馬及招納叛亡,不可不備。」遣使籍諸路猛安部族、及州縣渤海丁莊充軍,仍括諸道民馬。於是,遣使分往上京、速頻路、胡裏改路、曷懶路、蒲與路、泰州、咸平府、東京、婆速路、曷蘇館、臨潢府、西南招討司、西北招討司、北京、河間府、真定府、益都府、東平府、大名府、西京路,凡年二十以上、五十以下者皆籍之,雖親老丁多,求一子留侍,亦不聽,五年十一月,使益都尹京等三十一人押諸路軍器於軍行要會處安置,俟軍至分給之。其分給之餘與繕完不及者,皆聚而焚之。

六年正月、海陵王通をして旨を諭し宋使徐度等に曰く、「朕昔梁王に従い嘗て南京に居し、其の風土を楽しまり。帝王の巡狩、古より之あり。淮右に隙地多し、其の間で校獵せんと欲し、従兵万人を踰えず。汝等帰りて汝が主に告げ、有司をして朕が意を宣諭せしめ、淮南の民をして疑懼無からしめよ」と。二月、通進みて右丞を拝し、詔して曰く、「卿繕完兵械を典領す、今已に功を畢ぬ、朕卿が忠謹を嘉し、故に是の命有り、江南の事畢るを俟ち、別に当に旌賞せん」と。

原文六年正月,海陵使通諭旨宋使徐度等曰:「朕昔從梁王嘗居南京,樂其風土。帝王巡狩,自古有之。淮右多隙地,欲校獵其間,從兵不逾萬人。汝等歸告汝主,令有司宣諭朕意,使淮南之民無懷疑懼。」二月,通進拜右丞,詔曰:「卿典領繕完兵械,今已畢功,朕嘉卿忠謹,故有是命,俟江南事畢,別當旌賞。」

四月、簽書樞密院事高景山を宋帝生日使と為し、右司員外郎王全之に副えしむ、海陵王全に謂いて曰く、「汝宋主に見え、即ち面して其の南京宮室を焚き、辺に沿いて馬を買い、叛亡を招致する罪を数え、当に大臣某々をして此れに来たらしめ、朕将に親しく詰問せんとし、且つ漢、淮の地を索めよ、若し従わずんば、即ち厲声を以て之を詆責せよ、彼必ず敢えて汝を害せじ」と。海陵王蓋し王全をして宋主を激怒せしめ、将に以て南伐の名と為さんとす。景山に謂いて曰く、「帰日の際、全の言う所を以て奏聞せよ」と。全宋に至り、一も海陵王の言う如く宋主を詆責す、宋主全に謂いて曰く、「公北方の名家なるを聞く、何ぞ乃ち是の如くなる」と。全復た曰く、「趙桓今已に死せり」と。宋主遽かに起ち哀を発して罷む。海陵王南京に至り、宋使いを遣わして遷都を賀せしむ、海陵王韓汝嘉をして境上に就きて之を止めしめて曰く、「朕始めて此れに至る、比来北方小警有るを聞き、復た中都に帰らんと欲す、来賀する無庸」と。宋使乃ち還る。

原文四月,簽書樞密院事高景山為賜宋帝生日使,右司員外郎王全副之,海陵謂全曰:「汝見宋主,即面數其焚南京宮室、沿邊買馬、招致叛亡之罪,當令大臣某人某人來此,朕將親詰問之,且索漢、淮之地,如不從,即厲聲詆責之,彼必不敢害汝。」海陵蓋使王全激怒宋主,將以為南伐之名也。謂景山曰:「回日,以全所言奏聞。」全至宋,一如海陵之言詆責宋主,宋主謂全曰:「聞公北方名家,何乃如是?」全複曰:「趙桓今已死矣。」宋主遽起發哀而罷。海陵至南京,宋遣使賀遷都,海陵使韓汝嘉就境上止之曰:「朕始至此,比聞北方小警,欲複歸中都,無庸來賀。」宋使乃還。

ここに於て、天下の騾馬を大いに括り、官七品に至るまで一馬を留むるを聴し、等しく而して之に上る。並びに旧く籍したる民馬、其の東に在る者は西軍に給し、西に在る者は東軍に給し、東西交相に往来し、昼夜絡繹として絶えず、死者道に狼籍す。其の亡失多き者は、官吏罪を懼れて或いは自殺す。過ぐる所民田を蹂踐し、牽馬夫役を調発す。詔して河南州県の貯する糧米を以て大軍に備え、他に用うるを得ざらしむ、而して騾馬の至る所当に芻粟を給すべし、給すべき無く、有司以て請う、海陵王曰く、「此の方比歳民間の儲畜尚ほ多し、今禾稼野に満つ、騾馬就きて田の中に牧すべし、借令ふ再歳獲ること無くとも、亦何ぞ傷かんや」と。及び諸道の工匠を徴発して京師に至らしむるに、疫死する者勝えず数うべからず、天下始めて騷然とす。諸路の馬を調うるに戸口を以て率と為し、富室六十匹に至る者有り。凡そ馬五十六万余匹を調え、仍く本家に養飼せしめ、以て師期を俟つ。

原文於是,大括天下騾馬,官至七品聽留一馬,等而上之。並舊籍民馬,其在東者給西軍,在西者給東軍,東西交相往來,晝夜絡繹不絕,死者狼籍于道。其亡失多者,官吏懼罪或自殺。所過蹂踐民田,調發牽馬夫役。詔河南州縣所貯糧米以備大軍,不得他用,而騾馬所至當給芻粟,無可給,有司以為請,海陵曰:「此方比歲民間儲畜尚多,今禾稼滿野,騾馬可就牧田中,借令再歲不獲,亦何傷乎。」及徵發諸道工匠至京師,疫死者不可勝數,天下始騷然矣。調諸路馬以戶口為率,富室有至六十匹者。凡調馬五十六萬餘匹,仍令本家養飼,以俟師期。

海陵王は狩猟に出たついでに、通州に至り戦船の建造を視察し、諸路の水手を徴発して三万余りを得た。また東海県の張旺・徐元が反乱を起こすと、都水監徐文らに軍を率いさせ海を渡って討伐させ、海陵王は言った、「朕の意は一邑にあるにあらず、舟師を試さんとするのみ。」ここにおいて民は命に堪えず、盗賊が蜂起ほうきし、大なるものは城邑を連ね、小なるものは山沢に保ち、護衛普連ら二十四人を派遣し、各々に甲士こうし五十人を与え、山東・河北・河東・中都等路の節鎮州郡に分かれて屯駐させ、盗賊を捕捉させた。護衛頑犀を定武軍節度副使とし、尚賢を安武軍節度副使とし、蒲甲を昭義軍節度副使とし、皆に銀牌を与え、督責させた。この時、山東の賊が沂州を犯し、臨沂県令胡撒は力戦して死んだ。大名府の賊王九らが城を占拠して叛き、その衆は数万に至った。契丹の辺六斤・王三らは皆、十数騎で旗幟を掲げ、白昼公然と行き、官軍は誰何することを敢えず、過ぎる州県において、府庫の物を開いて劫掠し市中に置き、人に奪い取らせた。小人は皆賊の来ることを喜び、良民はその害に堪えなかった。太府監高彦福・大理正耶律道・翰林待制大穎が使節として還朝し、皆盗賊のことを言上した。海陵王は聞くことを厭い、怒って彼らを杖刑に処し、大穎はさらに除名された。ここより以後、人は再び敢えて言わなくなった。

原文海陵因出獵,遂至通州觀造戰船,籍諸路水手得三萬餘人。及東海縣人張旺、徐元反,遣都水監徐文等率師浮海討之,海陵曰:「朕意不在一邑,將試舟師耳。」於是民不堪命,盜賊蜂起,大者連城邑,小者保山澤,遣護衛普連二十四人,各授甲士五十人,分往山東、河北、河東、中都等路節鎮州郡屯駐,捕捉盜賊。以護衛頑犀為定武軍節度副使,尚賢為安武軍節度副使,蒲甲為昭義軍節度副使,皆給銀牌,使督責之。是時,山東賊犯沂州,臨沂令胡撒力戰而死。大名府賊王九等據城叛,眾至數萬。契丹邊六斤、王三輩皆以十數騎張旗幟,白晝公行,官軍不敢誰何,所過州縣,開劫府庫物置於市,令人攘取之,小人皆喜賊至,而良民不勝其害。太府監高彥福、大理正耶律道、翰林待制大穎出使還朝,皆言盜賊事。海陵惡聞,怒而杖之,穎仍除名,自是人人不復敢言。

海陵王は自ら将となり、諸道の兵を分けて神策・神威・神捷・神鋭・神毅・神翼・神勇・神果・神略・神鋒・武勝・武定・武威・武安・武捷・武平・武成・武毅・武鋭・武揚・武翼・武震・威定・威信・威勝・威捷・威烈・威毅・威震・威略・威果・威勇の三十二軍とし、都総管・副総管を各々一員置き、左右領軍大都督ととく及び三道都統制府に分属させた。諸軍巡察使・副を各々一員置いた。乙太保奔睹を左領軍大都督とし、通を副大都督とした。海陵王は奔睹が旧将であるため、諸軍を率いさせて人望に従わせたが、実は通にその事を専掌させたのである。

原文海陵自將,分諸道兵為神策、神威、神捷、神銳、神毅、神翼、神勇、神果、神略、神鋒、武勝、武定、武威、武安、武捷、武平、武成、武毅、武銳、武揚、武翼、武震、威定、威信、威勝、威捷、威烈、威毅、威震、威略、威果、威勇三十二軍,置都總管、副總管各一員,分隸左右領軍大都督及三道都統制府。置諸軍巡察使、副各一員。乙太保奔睹為左領軍大提督,通為副大都督。海陵以奔睹舊將,使帥諸軍以從人望,實使通專其事。

海陵王は諸将を召して方略を授け、尚書省において宴を賜った。海陵王は言った、「太師梁王は連年南伐し、歳月を淹留した。今挙兵すれば必ず彼の如くならず、遠くても百日、近ければ旬月に止まるであろう。ただ爾ら将士は征行を労とするなかれ、戮力一心して大功を成し遂げよ。厚く旌賞を加えるべし。もし弛慢する者あれば、刑はこれに赦さず。」海陵王は糧運が続かないことを恐れ、諸軍に命じて江を渡るに僮僕を従えさせず、聞く者は皆怨み嘆いた。徒単后と太子光英を居守させ、尚書令張浩・左丞相蕭玉・参知政事敬嗣暉を留めて省事を治めさせた。

原文海陵召諸將授方略,賜宴於尚書省。海陵曰:「太師梁王連年南伐,淹延歲月。今舉兵必不如彼,遠則百日,近止旬月。惟爾將士無以征行為勞,戮力一心,以成大功,當厚加旌賞,其或弛慢,刑茲無赦。」海陵恐糧運不繼,命諸軍渡江無以僮僕從行,聞者莫不怨咨。徒單後與太子光英居守,尚書令張浩、左丞相蕭玉、參知政事敬嗣暉留治省事。

九月甲午、海陵王は戎服を着て馬に乗り、武具を整えて出発した。翌日、妃嬪は皆行き、宮中では長く慟哭した。十月乙巳、天候が陰晦で道を失い、この夜二更になってようやく蒙城に至った。丁未、大軍は淮を渡り、中流に至って、海陵王は拝礼して酒を地に注いだ。宿営地に至り、繚垣を築く者を見て、四方館使張永鈐を殺した。廬州に将到する時、白兎を見て、馳せて射たが当たらなかった。やがて後軍がこれを捕らえて進上すると、海陵王は大いに喜び、金帛を賜り、顧みて李通に言った、「昔、武王が紂を伐つ時、白魚が舟中に躍った。今朕がこれを獲たのは、これも吉兆であろう。」癸亥、海陵王は和州に至り、百官が起居を奉る表を上奏した。海陵王はその使者に言った、「汝らは我が動静を窺おうとするのか。今後再び来るな。江南を平定してから賀表を進上せよ。」

原文九月甲午,海陵戎服乘馬,具裝啟行。明日,妃嬪皆行,宮中慟哭久之。十月乙巳,陰晦失路,是夜二更始至蒙城。丁未,大軍渡淮,至中流,海陵拜而酹之。至宿次,見築繚垣者,殺四方館使張永鈐。將至廬州,見白兔,馳射不中。既而後軍獲之以進,海陵大喜,以金帛賜之,顧謂李通曰:「昔武王伐紂,白魚躍於舟中。今朕獲此,亦吉兆也。」癸亥,海陵至和州,百官表奉起居,海陵謂其使:「汝等欲伺我動靜邪?自今勿複來,俟平江南始進賀表。」

この時、梁山濼の水が涸れ、先に造った戦船は進むことができず、そこで李通に命じて新たに戦船を造らせ、督責は苛酷で急を要し、将士は七八日昼夜休むことができず、城中の民家を壊して材木とし、死人の膏を煮て油として用いた。そこで江上に台を築き、海陵王は金甲を着て台に登り、黒馬を殺して天を祭り、一羊一豕を江中に投じた。都督昂・副都督蒲盧渾を召して言った、「舟楫は既に備わった。江を渡ることができる。」蒲盧渾は言った、「臣が観るに宋の舟は甚だ大きく、我が舟は小さくて行きが遅い。恐らく渡ることはできまい。」海陵王は怒って言った、「爾は昔、梁王に従って趙構を海島まで追ったが、あれは皆大船だったのか。明日、汝と昂は先に渡れ。」昂は自分が渡江を命じられたと聞き、悲しみ恐れて逃亡しようとした。暮れに至り、海陵王は人を遣わして昂に言わせた、「先の言葉は一時の怒りであった。先に渡江する必要はない。」翌日、武平軍都総管阿鄰・武捷軍副総管阿撒に舟師を率いさせ先に渡らせた。宿直将軍温都奥剌・国子司業馬欽・武庫直長習失は皆従軍した。海陵王は岸上に黄旗と紅旗を置き、進退を号令し、紅旗が立てば進み、黄旗が倒れれば退いた。既に江を渡り、二隻の舟が先に南岸に迫ったが、水が浅くて進めず、宋兵と相対して射合うこと久しく、二隻の舟は矢が尽き、遂に捕らえられ、一猛安・軍士百余りを失った。海陵王は遂に和州に還った。

原文是時,梁山濼水涸,先造戰船不得進,乃命通更造戰船,督責苛急,將士七八日夜不得休息,壞城中民居以為材木,煮死人膏為油用之。遂築台于江上,海陵被金甲登臺,殺黑馬以祭天,以一羊一豕投于江中。召都督昂、副都督蒲盧渾謂之曰:「舟楫已具,可以濟江矣。」蒲盧渾曰:「臣觀宋舟甚大,我舟小而行遲,恐不可濟。」海陵怒曰:「爾昔從梁王追趙構入海島,豈皆大舟邪?明日汝與昂先濟。」昂聞令己渡江,悲懼欲亡去。至暮,海陵使謂昂曰:「前言一時之怒耳,不須先渡江也。」明日,遣武平軍都總管阿鄰、武捷軍副總管阿撒率舟師先濟。宿直將軍溫都奧剌、國子司業馬欽、武庫直長習失皆從戰。海陵置黃旗紅旗於岸上,以號令進止,紅旗立則進,黃旗僕則退。既渡江,兩舟先逼南岸,水淺不得進,與宋兵相對射者良久,兩舟中矢盡,遂為所獲,亡一猛安、軍士百余人。海陵遂還和州。

ここにおいて尚書省は右司郎中吾補可・員外郎王全に奏報させた、世宗が東京で即位し、元号を大定と改めたと。海陵王はこれより前に既に護衛謀良虎・特離補を東京に派遣し、世宗を害そうとしていた。行って遼水に至り、世宗の詔使撒八に遇い、これを捕らえて殺し、遂に軍中に還った。海陵王は股を叩いて嘆いて言った、「朕は本来、江南を平定して元号を大定と改めようとした。これ天にあらずや。」そこで平素より書いていた「一戎衣を取って天下大定」と元号を改める事を出して、群臣に示した。遂に諸将帥を召して北帰を謀り、かつ兵を分けて渡江させた。

原文於是尚書省使右司郎中吾補可、員外郎王全奏報:世宗即位于東京,改元大定。海陵前此已遣護衛謀良虎、特離補往東京,欲害世宗。行至遼水,遇世宗詔使撒八,執而殺之,遂還軍中。海陵拊髀歎曰:「朕本欲平江南改元大定,此豈非天乎!」乃出素所書取一戎衣天下大定改元事,以示群臣。遂召諸將帥謀北歸,且分兵渡江。

議が定まり、李通が再び入奏して言った、「陛下は親師を率いて異境に深入りし、功無くして還らんとすれば、もし衆が前に散じ、敵が後に乗ずれば、万全の計にあらず。もし兵を留めて渡江させ、車駕が北還すれば、諸将もまた解体せん。今、燕北の諸軍で遼陽に近い者は異志を有する恐れあり。宜しく先に兵を発して渡江させ、舟を収めて焚き、その帰望を絶つべし。然る後に陛下は北還し、南北ともに指日にして平定されましょう。」海陵王はこれを然りとし、翌日遂に揚州に向かった。烏江県を過ぎ、項羽祠を観て、嘆いて言った、「かくの如き英雄にして天下を得られなかったのは、誠に惜しいことだ。」

原文議定,通複入奏曰:「陛下親師深入異境,無功而還,若眾散於前,敵乘於後,非萬全計。若留兵渡江,車駕北還,諸將亦將解體。今燕北諸軍近遼陽者恐有異志,宜先發兵渡江,斂舟焚之,絕其歸望。然後陛下北還,南北皆指日而定矣。」海陵然之,明日遂趨揚州。過烏江縣,觀項羽祠,歎曰:「如此英雄不得天下,誠可惜也。」

海陵王は揚州に至り、符宝耶律沒答に神果軍を率いさせて淮の渡しを扼させ、凡そ軍中より還って淮上に至る者で、都督府の文書なき者は皆殺させた。そこで内箭を出して金龍で飾り、「御箭」と題し、その上に帛書を結びつけ、人に舟に乗せて南岸に射させた。その書には「宋国が人を遣わして南京の宮室を焚毀し、及び沿辺で馬を買い、軍民を招誘す。今師を興して罪を問い、義は吊伐に在り。大軍の至る所、必ず秋毫も犯すこと無からん。」とあり、これをもって宋人を招諭した。ここにおいて、宋将王権もまた捕らえた金の軍士三人を釈し、書を携えさせて海陵王の罪を数えさせた。李通がその書を奏上すると、即座に命じてこれを焼かせた。

原文海陵至揚州,使符寶耶律沒答護神果軍扼淮渡,凡自軍中還至淮上,無都督府文字皆殺之。乃出內箭飾以金龍,題曰禦箭,系帛書其上,使人乘舟射之南岸,其書言「宋國遣人焚毀南京宮室、及沿邊買馬、招誘軍民,今興師問罪,義在吊伐,大軍所至,必無秋毫之犯。」以此招諭宋人。於是,宋將王權亦縱所獲金軍士三人,齎書數海陵罪,通奏其書,即命焚之。

海陵王は怒り、急いで渡江しようとした。驍騎高僧がその党を誘って逃亡しようとしたが、事が発覚し、命じて衆刃で切り刻ませた。そこで令を下し、軍士が逃亡すればその蒲裏衍を殺し、蒲裏衍が逃亡すればその謀克ぼうこくを殺し、謀克が逃亡すればその猛安を殺し、猛安が逃亡すればその総管を殺すと、これにより軍士はますます危惧した。甲午、軍中に命じて鴉鶻船及び糧船を瓜州渡に運ばせ、明日を期して渡江し、敢えて後れる者は死と定めた。

原文海陵怒,亟欲渡江。驍騎高僧欲誘其黨以亡,事覺,命眾刃剉之。乃下令,軍士亡者殺其蒲裏衍,蒲裏衍亡者殺其謀克,謀克亡者殺其猛安,猛安亡者殺其總管,由是軍士益危懼。甲午,令軍中運鴉鶻船及糧船於瓜州渡,期以明日渡江,敢後者死。

乙未、完顔元宜らが兵を率いて御営を犯し、海陵王は弑逆に遇った。都督府は南伐の計は皆李通らが賛成したものであり、徒単永年はその姻戚であり、郭安国は衆の共に憎む者であるとして、皆殺した。大定二年、詔して李通の官爵を削ぎ、人心はようやく快した。

原文乙未,完顏元宜等以兵犯禦營,海陵遇弑。都督府以南伐之計皆通等贊成之,徒單永年乃其姻戚,郭安國眾所共惡,皆殺之。大定二年,詔削通官爵,人心始快。

馬欽

原文馬欽

馬欽は幼名を韓哥といい、かつて江南に仕えたことがあったので、江南の道路を知ることができた。正隆三年、海陵王が南伐しようとしたとき、ついに馬欽を召し用い、貴徳県令から右補闕とした。馬欽は人となりが軽率で大體をわきまえず、海陵王がたびたび召見して語ると、馬欽は宮中を出るとすぐに人に語って言うには、「上は私とある事を論じられ、これを実行しようとされている」と。その海陵王を見る様は、まるで同僚友人のようであった。累遷して國子司業となった。海陵王が和州に至り、蒲盧渾に長江を渡らせようとしたとき、蒲盧渾が船が小さく渡れないと言ったので、海陵王は人をやって馬欽を召し、まず左右に戒めて言った、「馬欽もし船が小さくて長江を渡れないと言えば、ただちにこれを殺せ」と。馬欽が至ると、問うて言った、「この船で長江を渡れるか」と。馬欽は言った、「臣は筏を得ても渡ることができます」と。大定二年、除名された。この日、前翰林待制の大穎を起用して秘書丞とした。大穎は正隆年間に山東の盗賊について言上したことがあり、海陵王はその言を憎み、杖刑に処して除名していた。世宗は大穎の忠直を嘉し、馬欽の巧佞を憎んだので、故に大穎を再び用い、馬欽を放逐したのである。

原文馬欽,幼名韓哥,嘗仕江南,故能知江南道路。正隆三年,海陵將南伐,遂召用欽,自貴德縣令為右補闕。欽為人輕脫不識大體,海陵每召見與語,欽出宮輒以語人曰:「上與我論某事,將行之矣。」其視海陵如僚友然。累遷國子司業。海陵至和州,欲遣蒲盧渾渡江,蒲盧渾言舟小不可濟,海陵使人召欽,先戒左右曰:「欽若言舟小不可渡江,即殺之。」欽至,問曰:「此舟可渡江否?」欽曰:「臣得筏亦可渡也。」大定二年,除名。是日,起前翰林待制大穎為秘書丞。穎在正隆間嘗言山東盜賊,海陵惡其言,杖之除名。世宗嘉穎忠直,惡欽巧佞,故複用穎而放欽焉。

高懷貞

原文高懷貞

高懷貞は尚書省令史となり、平素より海陵王と昵懇であった。海陵王は久しく臣下に止まらぬ心を抱いており、かつて高懷貞とそれぞれ志を語り合ったことがあり、海陵王は言った、「我が志に三つある。國家の大事はすべて我より出ること、これが一つ。師を帥いて國を伐ち、その君長を執って前に罪を問うこと、これが二つ。天下の絶色を得てこれを妻とすること、これが三つ」と。ここより小人佞夫は皆その志を知り、争って諂諛の説を進めた。大定県丞の張忠輔が海陵王に言うには、「公が帝と球を撃たれる夢を見ました。公が馬に乗ってこれを突き過ぎ、帝は馬から墜ち落ちられました」と。海陵王はこれを聞いて大いに喜んだ。時に熙宗が在位久しく、政事を大臣に委ねており、海陵王は近親として宰相となり、威福の権柄を専らにしたので、ついに弑逆の計を成し遂げたが、これらは皆、高懷貞の輩の小人が従臾して導いたのである。海陵王が簒立すると、高懷貞を修起居注とし、高懷貞の故父である濱州刺史に中奉大夫を追贈した。高懷貞は累遷して禮部侍郎となった。大定二年、奉政大夫に降格され、田裏に放逐された。五年、許霖とともに起複を賜り、高懷貞は定國軍節度使となった。上はこれを戒めて言った、「汝らは正隆の時にあって、奸佞貪私であり、世論は汝らを卑しんだ。朕は、終身齒することなきならば自新の道なしと考える。もし旧悪を恃んで悔い改めなければ、必ず汝らを赦さぬであろう」と。

原文高懷貞,為尚書省令史,素與海陵狎昵。海陵久蓄不臣之心,嘗與懷貞各言所志,海陵曰:「吾志有三:國家大事皆自我出,一也。帥師伐國,執其君長問罪於前,二也。得天下絕色而妻之,三也。」由是小人佞夫皆知其志,爭進諛說。大定縣丞張忠輔謂海陵曰:「夢公與帝擊球,公乘馬沖過之,帝墜馬下。」海陵聞之大喜。會熙宗在位久,委政大臣,海陵以近屬為宰相,專威福柄,遂成弑逆之計,皆懷貞輩小人從臾導之。海陵篡立,以懷貞為修起居注,懷貞故父濱州刺史贈中奉大夫。懷貞累遷禮部侍郎。大定二年,降奉政大夫,放歸田裏。五年,與許霖俱賜起複,懷貞為定國軍節度使。上戒之曰:「汝等在正隆時,奸佞貪私,物論鄙之。朕念沒身不齒則無以自新。若怙舊不悛,必不貸汝矣。」

蕭裕

原文蕭裕

蕭裕は本名を遙折といい、奚人である。初め猛安として中京に居住し、海陵王が中京留守となったとき、蕭裕と結び交わり、たびたび天下の事を論じ合った。蕭裕は海陵王に覬覦の心あることを推し量り、密かに海陵王に言った、「留守(海陵王)の先太師(完顔宗幹)は、太祖の長子であられます。德望このようであり、人心天意はまさに帰属すべきところがあります。誠に大事を挙げる志があれば、力を尽くして従います」と。海陵王は喜んでこれを受け入れ、ついに謀議ぼうぎを共にした。海陵王がついに弑逆の謀を成し遂げたのは、蕭裕がこれを啓発したのである。

原文蕭裕,本名遙折,奚人。初以猛安居中京,海陵為中京留守,與裕相結,每與論天下事。裕揣海陵有覬覦心,密謂海陵曰:「留守先太師,太祖長子。德望如此,人心天意宜有所屬,誠有志舉大事,顧竭力以從。」海陵喜受之,遂與謀議。海陵竟成弑逆之謀者,裕啟之也。

海陵王が左丞となると、蕭裕を兵部侍郎とし、同知南京留守事に改め、さらに北京に改めた。海陵王が行台尚書省事を領し、道すがら北京を通ったとき、蕭裕に言った、「私は河南の兵に就いて位號を立て、まず兩河を定め、兵を挙げて北進しようと思う。君は我のために諸猛安を結集して我に応ぜよ」と。約を定めて去った。海陵王は良郷から召還されたため、約のようにはできなかったが、ついに熙宗を弑して簒立し、蕭裕を秘書監とした。

原文海陵為左丞,除裕兵部侍郎,改同知南京留守事,改北京。海陵領行台尚書省事,道過北京,謂裕曰:「我欲就河南兵建立位號,先定兩河,舉兵而北。君為我結諸猛安以應我。」定約而去。海陵雖自良鄉召還,不能如約,遂弑熙宗篡立,以裕為秘書監。

海陵王は心の中で太宗の諸子を忌み、これを除こうと思い、蕭裕と密謀した。蕭裕は傾險巧詐であり、よって太傅宗本・秉德らの反状を構え致し、海陵王は宗本を殺し、唐括辯を使者として遣わし秉德・宗懿及び太宗の子孫七十余人、秦王宗翰の子孫三十余人を殺させた。宗本が既に死ぬと、蕭裕は宗本の門客蕭玉を求め、詳しい反状を備えるよう教え、主名として上變させるようにした。海陵王が既に天下に詔すると、天下の人はこれを冤とした。海陵王は宗本誅殺の功を賞し、蕭裕を尚書左丞とし、儀同三司を加え、猛安を授け、錢二千萬、馬四百匹、牛四百頭、羊四千口を賜った。さらに一月を経て、平章政事・監修國史とした。旧制では、首相が監修國史を務めたが、海陵王は蕭裕にこれを命じ、蕭裕に言った、「太祖は神武をもって天命を受け、豐功茂烈は四海に光り輝く。史官に遺逸あることを恐れるので、故に卿に命ずる」と。久しくして、蕭裕は右丞相・兼中書令となった。蕭裕が相位にあるとき、職務を任せ事を用いること頗る専恣で、威福は己に在り、勢いは朝廷を傾けた。海陵王はこれを倚信し、他の宰相は成るに任せるのみであった。

原文海陵心忌太宗諸子,欲除之,與裕密謀。裕傾險巧詐,因構致太傅宗本、秉德等反狀,海陵殺宗本,唐括辯遣使殺秉德、宗懿及太宗子孫七十余人、秦王宗翰子孫三十餘人。宗本已死,裕乃求宗本門客蕭玉,教以具款反狀,令作主名上變。海陵既詔天下,天下冤之。海陵賞誅宗本功,以裕為尚書左丞,加儀同三司,授猛安,賜錢二千萬,馬四百匹、牛四百頭、羊四千口。再閱月,為平章政事、監修國史。舊制,首相監修國史,海陵以命裕,謂裕曰:「太祖以神武受命,豐功茂烈光于四海,恐史官有遺逸,故以命卿。」久之,裕為右丞相、兼中書令。裕在相位,任職用事頗專恣,威福在己,勢傾朝廷。海陵倚信之,他相仰成而已。

蕭裕は高藥師と親善であり、かつて海陵王の密語を高藥師に告げたことがあり、高藥師はその言葉を海陵王に奏上し、かつ言った、「蕭裕に怨望の心があります」と。海陵王は蕭裕を召して戒諭したが、罪とはしなかった。あるいは蕭裕が権を擅にする者ありと言う者がいたが、海陵王は蕭裕を忌む者が多いと考え、これを信じなかった。また、人が蕭裕の弟蕭祚が左副點檢となり、妹婿の耶律辟離剌が左衛將軍となり、勢位が相憑藉するのを見て、忌嫉を生じたと考え、ついに蕭祚を出して益都尹とし、辟離剌を甯昌軍節度使として、衆人の疑いを絶とうとした。蕭裕は海陵王の意を知らず、急に親族が外補に出され、己に知らせないのを見て、これより深く思い悩み、海陵王が己を疑うのではないかと恐れた。海陵王の弟である太師袞が三省事を領し、共に相位にあったが、蕭裕が多く自らを用いることを以って、頗るこれを防閑したので、蕭裕は海陵王が袞に備えさせたのだと思った。しかして海陵王は猜忍嗜殺であり、蕭裕は禍が及ぶことを恐れ、ついに前真定尹蕭馮家奴・前御史中丞蕭招折・博州同知遙設・蕭裕の女婿遏剌補と謀り、亡遼の豫王延禧の孫を立てようとした。蕭裕は親信の蕭屯納を遣わして西北路招討使蕭好胡(蕭懷忠)を結ぼうとした。蕭懷忠は依違して未だ決せず、蕭屯納に言った、「これは大事である。汝は帰って重い人を一人遣わせ」と。蕭裕はついに蕭招折を遣わした。蕭招折は以前中丞であったが、罪により免官されており、これによって蕭懷忠に詣でることができた。蕭懷忠は蕭招折に、謀を共にする者にまた何人がいるかと問うと、蕭招折は言った、「五院節度使耶律朗もまたこれです」と。蕭懷忠は旧より耶律朗と隙があり、かつ蕭招折がかつて撻懶たつらんの變事を上奏したことがあったので、蕭招折が反復することを疑い、よって蕭招折を捕らえ、耶律朗を収めて獄に繫ぎ、使者を遣わして上變した。遙設もまた筆硯令史の白答に書を送り、白答に蕭裕を助けて富貴を取らせようとしたが、白答はその書を奏上した。海陵王は蕭裕を疑わず信じ、白答がこれを構誣したと言い、白答を市で殺すことを命じた。白答を執って宣華門を出ると、點檢の徒單貞が蕭懷忠の上變事を得て入奏し、白答に出會い、その故を問うて、よってこれを止めた。徒單貞が既に變事を奏し、白答のことを請うと、海陵王は急いでこれを釈放させた。

原文裕與高藥師善,嘗以海陵密語告藥師,藥師以其言奏海陵,且曰:「裕有怨望心。」海陵召裕戒諭之,而不以為罪也。或有言裕擅權者,海陵以為忌裕者眾,不之信。又以為人見裕弟蕭祚為左副點檢,妹夫耶律辟離剌為左衛將軍,勢位相憑藉,遂生忌嫉,乃出祚為益都尹,辟離剌為甯昌軍節度使,以絕眾疑。裕不知海陵意,遽見出其親表補外,不令己知之,自是深念恐海陵疑己。海陵弟太師袞領三省事,共在相位,以裕多自用,頗防閑之,裕乃謂海陵使袞備之也。而海陵猜忍嗜殺,裕恐及禍,遂與前真定尹蕭馮家奴、前禦史中丞蕭招折、博州同知遙設、裕女夫遏剌補謀立亡遼豫王延禧之孫。裕使親信蕭屯納往結西北路招討使蕭好胡,好胡即懷忠。懷忠依違未決,謂屯納曰:「此大事,汝歸遣一重人來。」裕乃使招折往。招折前為中丞,以罪免,以此得詣懷忠。懷忠問招折與謀者複有何人,招折曰:「五院節度使耶律朗亦是也。」懷忠舊與朗有隙,而招折嘗上撻懶變事,懷忠疑招折反復,因執招折,收朗繫獄,遣使上變。遙設亦與筆硯令史白答書,使白答助裕以取富貴,白答奏其書。海陵信裕不疑,謂白答構誣之,命殺白答於市。執白答出宣華門,點檢徒單貞得蕭懷忠上變事入奏,遇見白答,問其故,因止之。徒單貞已奏變事,以白答為請,海陵遽使釋之。

海陵王は宰相に裕を問わせたところ、裕は即座に罪を認めた。海陵王は大いに驚愕し、なおも信じ切れず、裕を引見して自ら問うた。裕は言った、「大丈夫のなすところ、事ここに至ってまたどうして隠せようか」。海陵王はさらに問うて言った、「汝は朕に何の怨みがあってこのことをなしたのか」。裕は言った、「陛下は何事も臣と議されたのに、祚らを除くことについては臣に知らせられなかった。領省國王は何事につけても臣が専権していると言い、かなり警戒しており、おそらくは陛下のご意向を得ているのであろう。陛下は唐括辯及び臣と生死を共にすると約束されたが、辯は強情で果敢であったために死地に至り、臣は皆知っている。死に場所を得られないことを恐れ、これによって謀反を起こし、幸いにも一時の免れを願ったまでです。太宗の子孫は罪なく、皆臣の手にかかって死んだ。臣の死も遅きに過ぎます」。海陵王はさらに裕に言った、「朕が天子として、もし汝に疑いがあれば、たとえ汝の弟たちが朝廷にあっても、どうして処置できぬことがあろうか。これをもって朕を疑うとは、汝は実に誤っている。太宗の諸子はどうして汝一人のためであろうか、朕は国家のために計らったのだ」。また彼に言った、「元来汝と仲が良かった。この罪はあるが、汝の命は許そう。ただ宰相にはなれぬ。汝に終身汝の祖先の墳墓を守らせる」。裕は言った、「臣下がこのような罪逆を犯した以上、何の面目あって天下の人に会えましょう。ただ絞首刑に処せられ、残りの不忠なる者を戒めたいと願います」。海陵王は遂に刀で左腕を刺し、血を取って裕の顔に塗り、彼に言った、「汝が死んだ後、朕が本来汝を疑う心がなかったことを知るだろう」。裕は言った、「久しく陛下の並々ならぬご寵遇を蒙り、仰ぎ慕う思いは切なるものでしたが、自ら過ちを犯したと知り、たとえ後悔したところでどうして及ぶことがありましょう」。海陵王は泣きながら裕を門の外まで送り、殺した。遙設及び馮家奴をも併せて誅した。馮家奴の妻は豫王の娘であり、その子の穀も皆謀反に与しており、併せて殺した。護衛の龐葛を西北路招討司に遣わして朗及び招折を誅させた。屯納と遏剌補は皆逃げ出したが、屯納を捕えて市で斬り、遏剌補は自縊して死んだ。

原文海陵使宰相問裕,裕即款伏。海陵甚驚愕,猶未能盡信,引見裕,親問之。裕曰:「大丈夫所為,事至此又豈可諱。」誨陵複問曰:「汝何怨於朕而作此事?」裕曰:「陛下凡事皆與臣議,及除祚等乃不令臣知之。領省國王每事謂臣專權,頗有提防,恐是得陛下旨意。陛下與唐括辯及臣約同生死,辯以強忍果敢致之死地,臣皆知之,恐不得死所,以此謀反,幸苟免耳。太宗子孫無罪,皆死臣手,臣之死亦晚矣。」海陵複謂裕曰:「朕為天子,若于汝有疑,雖汝弟輩在朝,豈不能施行,以此疑我,汝實錯誤。太宗諸子豈獨在汝,朕為國家計也。」又謂之曰:「自來與汝相好,雖有此罪,貸汝性命,惟不得作宰相,令汝終身守汝祖先墳壟。」裕曰:「臣子既犯如此罪逆,何面目見天下人,但願絞死,以戒其餘不忠者。」海陵遂以刀刺左臂,取血塗裕面,謂之曰:「汝死之後,當知朕本無疑汝心。」裕曰:「久蒙陛下非常眷遇,仰戀徒切,自知錯繆,雖悔何及。」海陵哭送裕出門,殺之,並誅遙設及馮家奴。馮家奴妻,豫王女也,與其子穀皆與反謀,並殺之。遣護衛龐葛往西北路招討司誅朗及招折,而屯納、遏剌補皆出走,捕得屯納棄市,遏剌補自縊死。

屯納が逃げ出し、河間少尹の蕭之詳のところを通り過ぎた。之詳は初め裕のことを知らず、三日間留めた。屯納が之詳の茶紮の家に行くと、茶紮は人を之詳のもとに遣わして公引を告げさせ、之詳は屯納を得て、彼を別の所に遣わした。茶紮の家奴がこの事を発覚させ、吏部侍郎の窊産がこれを取り調べた。之詳は言った、「屯納は二晩泊まって去った」。法家は之詳がその間を隠し、尚書省を欺いたとして、贖罪に当たるとした。海陵王は怒り、之詳を殺すことを命じ、窊産及び法を議した者を杖刑に処し、茶紮は四百の杖を受けて死んだ。

原文屯納出走,過河間少尹蕭之詳,之詳初不知裕事,留之三日。屯納往之詳茶紮家,茶紮遣人詣之詳告公引,得之,付屯納遣之他所。茶紮家奴發其事,吏部侍郎窊產鞫之,之祥曰:「屯納宿二日而去。」法家以之詳隱其間,欺尚書省,罪當贖。海陵怒,命殺之,杖窊產及議法者,茶紮杖四百死。

龐葛が招折らを殺し、併せて罪のない四人をも殺したが、海陵王は問わず、ただ五十の杖を加えたのみであった。裕らの罪をもって天下に詔し、変事を上告した功を賞した。懷忠は枢密副使に遷り、白答を牌印雲とした。高薬師は起居注に遷り、階を進めて顕武将軍となった。薬師はかつて裕に怨望があると奏したことがあり、ここに至ってこれを賞したという。

原文龐葛殺招折等,並殺無罪四人,海陵不問,杖之五十而已。以裕等罪詔天下。賞上變功,懷忠遷樞密副使,以白答為牌印雲。高藥師遷起居注,進階顯武將軍。藥師嘗奏裕有怨望,至是賞之雲。

胥持國

原文胥持國

胥持國、字は秉鈞、代州繁畤の人である。経童の出身で、累次転調して博野県丞となった。上書する者が民間が官地を不法に占有している、例えば「太子務」「大王莊」などは私家が有すべきではないと述べた。部は持國にこれを調査させた。持國は帰って言った、「この地は異代よりすでに民有となっており、取り上げることはできません」。事はそこで立ち消えとなった。まもなく太子司倉に任じられ、掌飲令に転じ、司倉を兼ねた。皇太子は彼を知り、祗應司令に抜擢した。章宗が即位すると、宮籍副監に除かれ、宮籍庫の銭五十万と宅一区を賜った。ほどなく同簽宣徽院事・工部侍郎に改め、宮籍監を兼ねた。三ヶ月を経て、工部尚書に遷り、宋に使した。明昌四年、参知政事に拝され、孫用康の榜下進士の及第を賜った。ちょうど黄河が陽武で決壊したので、持國は役事を監督することを請い、遂に尚書省事を行った。翌年、尚書右丞に進んだ。

原文胥持國,字秉鈞,代州繁畤人。經童出身,累調博野縣丞。上書者言民間冒占官地,如「太子務」、「大王莊」,非私家所宜有。部委持國按核之。持國還言「此地自異代已為民有,不可取也。」事遂寢。尋授太子司倉,轉掌飲令,兼司倉。皇太子識之,擢祗應司令,章宗即位,除宮籍副監,賜宮籍庫錢五十萬、宅一區。俄改同簽宣徽院事、工部侍郎,並領宮籍監。閱三月,遷工部尚書,使宋。明昌四年,拜參知政事,賜孫用康榜下進士第。會河決陽武,持國請督役,遂行尚書省事。明年,進尚書右丞。

持國は人となり柔和で諂うが智術があった。初め、李妃は微賤より起こり、上(章宗)の寵愛を得た。持國は久しく太子宮におり、もとより上(章宗)が色を好むことを知っており、ひそかに秘術をもってこれに干渉し、また多く妃の側近の用事人に賄賂を贈った。妃もまた自ら門地の薄いことを嫌い、外廷を頼りとして重きをなそうとし、しばしば持國の有能さを称えた。これによって大いに上に信任され、妃と表裏をなして朝政を専断した。鄭王永蹈・鎬王永中を誅し、完顏守貞らを罷黜した事などは、皆李妃・持國に起因する。利を好み躁進する士は皆その門下に趨走した。四方これがために語って言った、「経童が宰相となり、監婢が妃となる」。その卑賤で庸俗なことを憎んだのである。

原文持國為人柔佞有智術。初,李妃起微賤,得幸於上。持國久在太子宮,素知上好色,陰以秘術幹之,又多賂遺妃左右用事人。妃亦自嫌門地薄,欲藉外廷為重,乃數稱譽持國能,由是大為上所信任,與妃表裏,筦擅朝政。誅鄭王永蹈、鎬王永中,罷黜完顏守貞等事,皆起于李妃、持國。士之好利躁進者皆趨走其門下。四方為之語曰:「經童作相,監婢為妃。」惡其卑賤庸鄙也。

承安三年、御史台が劾奏した、「右司諫の張複亨、右拾遺の張嘉貞、同知安豊軍節度使事の趙樞、同知定海軍節度使事の張光庭、戸部主事の高元甫、刑部員外郎の張岩叟、尚書省令史の傅汝梅・張翰・裴元・郭郛は、皆権門に趨走し、人は戯れて'胥門十哲'と言う。複亨・嘉貞は特に卑しく諂って苟も進み、諫職にふさわしくない。皆罷黜すべきである」。詔は可とした。ここにおいて持國は通奉大夫をもって致仕し、嘉貞らは皆外補された。

原文承安三年,禦史台劾奏:「右司諫張複亨、右拾遺張嘉貞、同知安豐軍節度使事趙樞、同知定海軍節度使事張光庭、戶部主事高元甫、刑部員外郎張岩叟、尚書省令史傅汝梅、張翰、裴元、郭郛,皆趨走權門,人戲謂'胥門十哲'。複亨、嘉貞尤卑佞苟進,不稱諫職。俱宜黜罷。」奉可。於是持國以通奉大夫致仕,嘉貞等皆補外。

まもなく、大名府事を起知せしめられたが、赴任せず、枢密副使に改め、枢密使の襄を補佐して北京で軍を治めた。ある日、上は翰林修撰の路鐸を召して他の事を問うたが、ついで董師中と張萬公の優劣について語った。鐸は言った、「師中は胥持國に附いて進みました。持國は奸邪の小人であり、軍馬を統べるに適しません。臣が推し量るに、人望に允なるのみならず、必ずや軍心を服させることもできず、もし帰還の日再び宰相となれば、必ず天下を乱すでしょう」。上は言った、「人臣が人を進退するは難く、人君が人を進退するは易い。朕はどうしてこの人を再び宰相とせんや。ただ官階を二階進め、致仕させるのみである」。まもなく軍中で卒した。諡は「通敏」。後に上は平章政事の張萬公に問うて言った、「持國は今すでに死んだが、その人となりは結局どうであったか」。萬公は答えて言った、「持國は平素の行いが純粋で謹厳ではなく、例えば平楽楼で酒を売った一件などから知ることができます」。上は言った、「これもまた利を好むというわけではない。馬琪が参政の位にありながら、ひそかに省醖(官製の酒)を売ったようなのが、利を好むというのである」。子の鼎は別に伝がある。

原文頃之,起知大名府事,未行,改樞密副使,佐樞密使襄治軍於北京。一日,上召翰林修撰路鐸問以他事,因語及董師中、張萬公優劣,鐸曰:「師中附胥持國進。持國奸邪小人,不宜典軍馬,以臣度之,不惟不允人望,亦必不能服軍心,若回日再相,必亂天下。」上曰:「人臣進退人難,人君進退人易,朕豈以此人複為相耶。第遷官二階,使之致仕耳。」尋卒於軍,諡曰「通敏」。後上問平章政事張萬公曰:「持國今已死,其為人竟如何?」萬公對曰:「持國素行不純謹,如貨酒平樂樓一事,可知矣。」上曰:「此亦非好利。如馬琪位參政,私鬻省醖,乃為好利也。」子鼎,別有傳。