金史

列傳第六十六:循吏(盧克忠、牛德昌、范承吉、王政、張奕、李瞻、劉敏行、傅慎微、劉煥、高昌福、孫德淵、趙鑒、蒲察鄭留、女奚烈守愚、石抹元、張彀、趙重福、武都、紇石烈德、張特立、王浩)

列傳第六十六 循吏 ○盧克忠、牛德昌、范承吉、王政、張奕、李瞻、劉敏行、傅慎微、劉煥、高昌福、孫德淵、趙鑒、蒲察鄭留、女奚烈守愚、石抹元、張彀、趙重福、武都、紇石烈德、張特立、王浩

金は穆宗の時、諸部に号令して都孛堇(トボギン)と称することを禁じ、ここに諸部は初めて統属の列に並んだ。太祖は三百戸を謀克(ムク)とし、十謀克を猛安(ミンガン)と定め、郡県に官吏を置く法と全く同じくした。太宗は中原を有するに及び、封疆を画定し、守令を分建した。熙宗は廉察の使を遣わして四方を巡行させた。世宗は海陵王の凋弊の後に承け、生息を休養し、明昌・承安の間に至って、民物は滋殖し、循吏が相次いで現れた。泰和の兵を用いるに及び、郡県は多く事変が起こり、吏治は衰えた。宣宗は刀筆の習いを尚び、考核の法を厳しくし、能吏は乏しからなかったが、豈弟(カイテイ、穏やかで思いやりのある)の政は称述されることが稀であった。金の百有余年の吏治は、始めから終わりまで考証することができ、ここに『循吏傳』を作る。

盧克忠

盧克忠は、貴德州奉集の人である。高永昌が遼陽を占拠した時、克忠は金源郡王の斡魯(オル)の陣営に走り詣でて降伏し、そこで撒屋出(サオチュ)を郷導とした。斡魯が東京を攻略すると、永昌は長松島に逃れたが、克忠は渤海人の撻不也(タブヤ)と共に追跡してこれを捕らえた。收国二年、世襲謀克を授けられた。その後、燕を定め宋を伐つこと皆功に与かり、登州刺史に除され、澶州刺史に改められた。天徳年間、保大軍節度使同知となった。綏德州の軍卒数人が道すがら鄜城を通り、民家に宿を求めたが、その夜に賊が主人の財物を掠奪して去った。役人が仮宿した兵卒を捕らえ、獄に繋ぎ拷問して誣服させた。克忠はその冤罪を察し、ただ一人署名を肯んぜず、間もなく果たして賊を捕らえ、仮宿の兵卒は釈放された。大定二年、北京副留守に除された。時に民が食糧に苦しんだので、克忠は凡そ蓄積のある民は一年分を計って留め置き、残りは全てその価を平らかにして買い入れさせた。これによって餓死者の憂いは無かった。陳州防禦使に転じ、後に静難軍節度使として致仕し、卒した。

牛德昌

牛德昌は、字を彦欽といい、蔚州定安の人である。父の鐸は、遼の将作大監であった。德昌は幼くして孤となり、その母が学問を教えた。蔭位に就くよう勧める者があったが、その母は言った、「大監の遺命は承奉(下級役人)にさせないことである」。皇統二年の進士丙科に及第し、礬山の主簿に調ぜられた。万泉令に遷った。時に蒲州・陝州が凶饉に襲われ、群盗が充満し、州県の城門は昼も閉ざされていた。德昌が官に着くと、即日に城門を開いて百姓の出入りを許し、榜示して言った、「民は饑寒に苦しみ、郷里を掠奪して旦夕の命を繋いでいるのは、甚だ憐れむべきである。自ら新たにすることができる者は一切問わない」。賊は皆感激して解散し、県内は安寧となった。府尹の王伯龍はこれを賞賛し、礼遇して甚だ厚かった。累官して刑部侍郎・吏部侍郎・中都路都転運使・広寧尹・太原尹となった。卒し、中奉大夫を贈られた。

范承吉

范承吉は、字を寵之という。学問を好み、遼の末世に盗賊が起こった際も、避難地にあっても書を廃さなかった。天慶八年に進士丙科に及第し、秘書省校書郎を授かり、大定府金源令に至った。帰朝して御前承応文字となった。天会初年、殿中少監に遷る。四年、太原攻めに従い、少府監に遷る。五年、宗翰が宋を攻略し、得た金珠を承吉がその出納を司ったが、毫髪の欺きもなく、帰還の際には牛車に書史を載せたのみであった。間もなく昭文館直学士に遷り、絳州知州となった。

先に、軍事が起こり、将士に掠奪され逃げ帰った民がいたが、承吉は役人に命じて広く諭させ、自ら実情を申告させ、凡そ数千人について元帥府に詳細に報告し、自ら贖って良民となることを許し、貧しく資金の無い者には公厨が代わって納入させた。六年、河東北路転運使に改まる。時に宋末の弊を承け、民賦は繁重で不当であったが、承吉は経画を立て、立法を簡便にし、収入は十数万斛増加し、官は足りて民に余剰が生じた。同知平陽尹・西京副留守を歴任し、河東南路転運使に遷り、同簽燕京留守事・順天軍節度使に改まる。時に地震が起こり民家が崩壊したが、先を争って修繕しようとする者がおり、工匠が過分な代価を取ったので、承吉は官属に命じてその工事を監督させ、順序に従って先後を定め、貧富を問わず、民はこれによって費用を節約することができた。

鎮西軍節度使・行台礼部尚書・泰寧軍節度使を歴任し、再び順天を鎮守した。奚人の兵卒が境内に散居し、数千人を率いて盗賊となる者が多かったが、承吉は法をもってこれを糾し少しも容赦せず、彼らは恐れて敢えて犯さなかった。貞元二年、光禄大夫をもって致仕し、卒した。享年六十六。

王政

王政は、辰州熊嶽の人である。その先祖は渤海及び遼に仕え、皆顕職にあった。政は遼の末世の乱に当たり、州里に浮沈していた。高永昌が遼東を占拠し、政の才略を知り、これを用いようとした。政はその成り立たぬことを見抜き、辞謝して就かなかった。永昌が敗れると、渤海人は争って永昌を縛り功績としようとしたが、政はただ逡巡して退いた。呉王の闍母(ジョウム)はこれを聞いて異とし、太祖に言上して、盧州渤海軍謀克を授けた。白嵆を破り、燕雲を下すことに従軍した。金兵が宋を伐つに及び、滑州が降伏すると、政を留めて安撫使とした。これ以前に数州が降伏しながらも、また守将を殺して宋に帰し守っていたので、人々は政の身を憂いた。政は言った、「もし国家に利あらば、死すとも何を避けよう」。宋王の宗望はその壮挙を称え、「身を王事に没し、利を子孫に及ぼす、汝の言う通りである」と言った。政は数騎を従えて州に入った。この時、民は多く饑饉のために盗賊となり、罪に坐して繋がれていた。政は皆これを釈放し、倉庫を開いて貧困者を救済した。ここにおいて州民は皆喜び、再び叛かなかった。傍らの郡もこれを聞き、多く降伏する者があった。宋王は政を轅門に召し寄せ、その背を撫でて言った、「我は汝が死んだかと思ったが、果たして成功したのか」。長く慰労の言葉をかけた。

天会四年、燕京都曲院同監となった。間もなく、同知金勝軍節度使事に除された。権侍衛親軍都指揮使に改まり、兼ねて軍資を掌った。この時、軍旅はようやく定まり、管庫の紀綱は未だ立っておらず、掌吏は皆縁故を頼って奸を行っていた。政はただ一人会計を明らかにし、局鐍(倉庫の鍵)を厳重にし、金帛は山のように積まれても出納に錙銖の過失も無かった。呉王の闍母は戯れて言った、「汝は官に久しいが、貧しさが富に加わらないのは何故か」。答えて言った、「政は楊震の四知(天知・神知・我知・子知)をもって自らを守り、どうして貧しくならぬことがあろうか」。呉王は笑って言った、「先の言葉は戯れであった」。黄金百両・銀五百両及び乗っていた馬を贈った。六年、左監門将軍を授かり、安州刺史・檀州軍州事・戸吏房主事を歴任した。天眷元年、保静軍節度使に遷り、致仕して卒した。享年六十六。

政は本名を南撒裏といい、かつて高麗に使いし、これにより名を政と改む。子に遵仕・遵義・遵古あり。遵古の子庭筠は伝あり。

張奕

張奕、字は彥微、その先祖は澤州高平の人なり。蔭により官を補し、齊に仕えて歸德府通判となる。齊國廢されたる時、郡に在りし齊兵二萬人亂を謀り、夜半に舉燎して相應するを約す。奕これを知り、市人の丁壯を選び兵を授け、陣を結びて要巷を扼し、小南門を開きて生路を示す。亂作するを得ず、比明するに亡匿略盡し、その首惡を擒えて誅す。後五日、都統完顏阿魯補軍を率いて歸德に至り、餘黨を根株せんと欲す。奕は闔門を以て郡人に他なきを保し、遂に止む。行台承制して同知歸德尹を除す。

天眷元年、河南を宋に與ふるに及び、同知沂州防禦使事に改む。三年、宗弼また河南を取り、奕を行省に征し赴かしむ。汴京定まりし後、汴京副留守を授く。陳・秦州防禦使を歴任し、同知太原尹となる。晉甯軍より夏人の界を侵すを報ず。詔して奕をしてこれを征せしむ。奕境上に至り、籍に按じ各々侵したる所の土を歸し、還りて奏して曰く、「折氏は世々麟府を守り、以て夏人に抗す。本朝その地有ち遂に夏に與ふ。夏人は折氏の墳壟を夷しその屍を戮す。折氏の怨み骨髓に入りて報ゆるを得ざるなり。今また晉寧を守らしむるは、故に夏人を激怒して鼠侵せしめ、その罪を條上し、苟も邊釁を開きて私仇を雪がんと欲するのみ。獨り折氏を他郡に徙すべし、然らば夏人自ら安んず。」朝廷これに從ひ、遂に折氏をして青州を守らしむ。正隆の間、同知西京留守事となり、河東北路轉運使に遷る。大定二年、戸部尚書に征ぜらる。甫く視事するや、疾を得て卒す。

李瞻

李瞻、薊州玉田の人なり。遼の天慶二年進士となり、平州望雲令となる。張覺平州に據りて叛く。瞻をして従事せしむ。宗望また平州を平ぐ。覺亡去し、城中また叛く。瞻城を踰えて出で降る。その子出づるを得ず、賊の害する所となる。宋王宗望これを嘉す。承制して興平府判官となす。天會三年、大理少卿に遷り、宗望に従ひ南伐し、漢軍糧料使となる。四年、金兵汴を圍む。宋人河北三鎮の割譲を請ふ。瞻は禮部侍郎李天翼とともに河北東・西兩路を安撫し、略く懷・浚・衛等の州、衛・湯陰等の縣を定む。七年、寧州を知り、累遷して德州防禦使となる。政を爲すこと寬平にして、民その惠を懷ひ、相率いて京師に詣で留めんことを請ふ者數百千人なり。貞元三年、濟州路轉運使に遷り、忠順軍節度使に改む。正隆末、盜賊蜂起す。瞻は城壘を増築して備へと爲し、蔚人はこれに賴りて以て安んず。大定初、官にて卒す。

劉敏行

劉敏行、平州の人なり。天會三年進士に登る。太子校書郎を除され、累遷して肥鄉令となる。歳大饑し、盜賊人を掠めて食とす。諸縣の老弱郡城に入り保ち、敢へて耕種せず、農事廢れ、畎畝荒蕪す。敏行州に白し、軍士三十を借りて縣民を護り出で耕さしめ、多く旗幟を張りて疑兵と爲し、敏行軍を率ひ巡邏し、日暮れば則ち民を閱して城に入らしむ。これにより盜敢へて犯さずして耕稼滋殖す。高平令に轉ず。縣城圮壞し久しく修せず、大盜橫恣し、縣鎮を掠めて禦ぐ能はざりき。敏行己が俸を出だし、僚吏を率ひ錢を出だして役を顧ひ繕治す。百姓欣然としてこれに從ひ、凡そ二千人を用ひ、版築遂に完し。鄉村の百姓入り保つ。賊至るも犯す能はず。凡そ九遷し、河北東路轉運使となる。致仕す。卒す。

傅慎微

傅慎微、字は幾先。その先祖は秦州沙溪の人、後に建昌に徙る。慎微長安ちょうあんに遷り居す。宋末進士に登り、累官して河東路經制使となる。宗翰既に汴京を克ち、婁室をして陝西を定めしむ。慎微衆を率ひ迎戰す。兵敗れて獲らる。元帥府に送らる。元帥宗翰その才學を愛し、殺さず、歸化州に羈置す。希尹これを收めて門下に置く。宗弼また河南の地を取り、慎微を起して陝西經略使と爲し、尋いで同州節度使事を權む。明年、陝西大旱し、饑死する者十の七八。慎微を以て京兆・鄜延・環慶三路經濟使と爲し、便宜を許す。慎微民を募りて粟に入らしめ、二十余萬石を得、養濟院を立てて餓者を飼ひ、全活すること甚だ衆し。同知京兆尹に改め、陝西諸路轉運使を權む。復た三白・龍首等の渠を修して以て田を溉ぎ、民を募りて屯種せしめ、牛及び種子を貸して以てこれを濟ひ、民その利に賴る。中京副留守に轉ず。廉を用ひらるるにより、忻州刺史に改め、累遷して太常卿となり、定武軍節度使を除かれ、靜難軍に移る。用事者に忤ひ、蘇保衡これを救ひて免る。大定初、復た太常卿となり、禮部尚書に遷り、翰林侍講學士徒單子溫・翰林待制移剌熙載とともに同修國史を兼ぬ。官にて卒す。年七十六。

慎微は學に博くして著書を喜び、嘗て《興亡金鏡錄》一百卷を奏す。性純質にして、古を篤くし兵を談ずるを喜ぶ。時人これを以て迂闊なりと云ふ。

劉煥

劉煥、字は德文、中山の人なり。宋末兵を起す。城中久しく食乏し。煥尚ほ幼く、糠核を煮てこれを食ひ、自らはその清き者を飲み、醲厚なる者をその母に供す。鄉里これを異とす。稍く長じて學に就き、天寒くして糞火を擁して讀書し怠らず。天德元年進士に登る。任丘尉に調ぜらる。縣令貪污す。煥每たびこれを規正す。秩滿するや、令は杯酒を持して謝して曰く、「尉廉慎にして、我をして考を獲しむ。」中都市令に調ぜらる。樞密使僕散忽土の家に絛結工あり、市に利を牟り、市籍の役に從はんことを肯はざる。煥これを繫ぐ。忽土煥を召す。煥往かず、工の罪を暴きてこれを笞す。煥初め市令を除さるるや、鄉人吏部侍郎石琚に過ぎて謝す。琚悅ばずして曰く、「京師は浩穰にして、外郡と同じからず。簡を棄てて煩に就く、吾の曉らざる所なり。」ここに至りて始めてこれを重んず。

廉を以て京兆推官に升り、再び遷りて北京警巡使となる。二惡少を捕へて庭中に杖し、これを戒めて曰く、「孝弟敬慎なれば則ち君子となる。暴戾隱賊なれば則ち小人となる。今以往より、故習に狃ることなかれ。國に明罰あり、吾私すを得ず。」これより、衆皆畏憚し、敢へて犯す者なし。監察禦使に召さる。父老數百人、或は車下に臥し、或はその靴鐙を挽きて曰く、「我また使君を留めて期年せんと欲す、得べからず。」

本官を以て戶部員外郎を攝り、代州錢監に雜青銅を以て錢を鑄る。錢色惡しく、鐵錢に類す。民間盜鑄し、罪に抵る者衆し。朝廷これを患ひ、尚書省に下して議せしむ。煥奏して曰く、「錢寶は純かに黃銅を用ひ精しくこれを治め、中に錫を以て濡す。若し青銅鑄す可きは、歷代用ひざる緣故なし。代州より二分と四六分を取り、青黃雜糅し、務めて銅を省きて功の易く就くを爲す。これにより、民間盜鑄し、罪に陷る者衆し。朝廷の意に非ず。必ず天下の利を爲さんと欲せば、宜しく純かに黃銅を用ひ、數少なくして利遠きを得べし。その新錢既に流行する者は、宜しく數を驗して輸納し准換すべし。」これに從ふ。

再び管州刺史に遷り、耆老数百人がその著しい事跡十一事を記した上書を携えて節鎮に赴き、煥を留めるよう請い、曰く「刺史は職を守り法を奉じている。どうか留めてほしい」と。廉により鄭州防禦使に昇進し、官一階を遷り、同知北京留守事に転ず。世宗が上京に幸した際、通過する州郡は大いに民夫を徴発して橋梁や馳道を整備し、恩賞を希求したが、煥の管轄する地域はただ平らに整えて良くするのみであった。上はその心意を嘉し、遼東路轉運使に遷し、卒す。

高昌福

高昌福は中都宛平の人である。父の履は遼の御史中丞を致仕し、太宗はその名を聞いて召したが、入見に及ばずして卒した。特詔により昌福は喪服を脱いで応挙させられた。天会十年の進士に及第し、枢密院令史に補せられた。翌年、元帥府令史に辟せられる。皇統初め、宗弼が河南を回復すると、元帥府は汴に治め、疑わしいと見なされて捕らえられた者は皆、宋の諜者と目されて即座に殺された。昌福が審理して実情を得、釈放して去らせた者は多かった。許州都統の韓常は法を厳しくし、人を殺すことを好み、介を遣わして囚人を汴に送らせたが、ある者は途中で逃亡した。監吏は囚人を失ったことを恐れて罪を得ることを思い、諸囚を皆殺しにして口を滅ぼそうとした。昌福は監吏の意図を見抜き、その状況を徹底的に究明し、死者を免れた者は十のうち七、八に及び、諸吏は遂に昌福を怨み、害を構えようとした。この時、ちょうど用兵中であり、梁・楚の間は夜多く陰雨であった。元帥府は人を選んで宋兵の動静を偵察させたが、諸吏は昌福を遣わした。昌福は辞さず即座に出発し、敵軍の虚実をことごとく得て元帥府に報告した。師が還ると、震武軍節度副使に除され、行台礼部員外郎に転ず。天徳年間、行台が廃止されると、絳陽軍節度副使に改められ、入朝して兵部員外郎となり、河間少尹に改められる。

世宗が即位すると、上書して便宜の事を陳べた。上は再三披閲し、侍臣に謂って曰く「内外の官は皆上書して事を言う。これによって人材の優劣を知ることができる。そうでなければ、朕は何によって知ることができようか」と。三たび同知東京留守事に除され、治績最も優れ、山東西路轉運使・工部尚書に遷り、彰徳軍節度使に改められる。上書して賦税が重すぎると言う。上は翰林学士張景仁に問うて曰く「税法は近代に比べて軽いのに、重いとするのはなぜか」と。景仁曰く「今の税は殊に軽い。もしさらに軽くすれば、国用はまさに不足するであろう」と。事は遂に止む。累遷して河中尹となり、致仕して卒す。

孫徳淵

孫徳淵は字を資深とし、興中府の人である。大定十六年に進士となり、石州軍事判官・淶水丞に調され、廉を察されて沙河令に遷る。秋桑を盗む者がおり、主が逐捕すると、盗人は叉をもって自らその足の面を刺し、「秋桑は例によって採ることを禁じない。汝はどうして私を刺すのか」と言った。主は恐れ、賄賂して免れようと求めたが、盗人は従わず、県に訴えた。徳淵曰く「もし逐捕されて傷ついたなら、傷は必ず後ろにあるはずだ。今は前にある。これは自ら刺したのである」と。盗人は遂に服罪した。尚書省令史に選ばれたが、就かず。父の憂いにより官を去ると、民は石を刻んで祠を建てた。廉を察され、起復して北京轉運司都勾判官となり、累薦により中都左警巡使・監察御史・山東東路轉運副使に遷り、累官して大理丞・兼左拾遺となる。審官院が奏上して徳淵は剛正で幹能あり、繁劇な任に堪えるとし、遂に再任された。母の憂いに服し、喪が明けると特恩により恩州刺史に遷り、入朝して右司郎中となり、滕州刺史となり、同知河間府事に遷る。大興治中・同知府事を歴任する。大安初め、盤安軍節度使に遷り、河北西路按察轉運使に改められ、昭義軍節度使に改められる。潞州が破られて捕らえられたが、やがて前に拝する者がおり、皆沙河の旧民であった。密かに徳淵を護り、これによって脱することができた。貞祐二年、工部尚書に拝され、御史中丞を摂す。この時、山東は兵糧が乏しく、有司は恩例挙人を売ることを請い、喪中にある者も銭を納めて就試することを許した。徳淵が奏上して、これは名教を大いに傷つけるとし、事は遂に止む。まもなく致仕する。監察御史許古が徳淵を論じて「忠亮明敏にして、大用に堪える。近ごろ告老を許されたが、士大夫はひそかに歎いている。朝廷が起復することを望む。必ず建明して国家に利するであろう」と。宣宗は嘉して納れた。用いるに及ばずして卒す。

趙鑒

趙鑒は字を擇善とし、済南章丘の人である。宋の建炎二年に進士となり、廬州司理参軍に調される。この時、江・淮はちょうど用兵中であり、鑒は官を棄てて郷里に還った。斉国が建つと、歴城丞に除され、長清令に転ず。皆、劇邑で治め難く、鑒の政績は甚だ著しかった。劉が召見し、直秘閣・提挙涇原路弓箭手・兼提点本路刑獄公事に遷し、戒めて曰く「辺将は多く法を守らず、痛くこれを縛せよ」と。原州守将は武悍で自らを用い、鑒を年少として軽んじた。鑒はその奸を発し、守将は坐して免ぜられ、郡県は風を聞いて敢えて犯す者はいなかった。斉が廃されると、城陽軍知事に除され、山東東路轉運副使に改められ、行台左司郎中を摂す。行台宰相が故宋の宦官に権都水監を任せようとしたが、鑒曰く「国を誤った閹豎を、汴人は寇讐と見なしている。美官を付ければ、人望を失うであろう」と。遂に用いられなかった。母の憂いにより職を解く。天徳初め、起用されて済州刺史となり、涿州に移る。海陵が鑒を召し入朝させたが、応対が旨に失したため、郡に還らせた。まもなく火山軍知事に除されるが、病により免ぜられる。大定初め、起用されて寧海軍知事となる。秋禾がちょうど熟す時、子方虫が発生した。鑒は城を出て巡視すると、虫は自ら死んだ。再び鎮西軍節度使に遷り、河北西路轉運使に改められ、致仕して卒す。

蒲察鄭留

蒲察鄭留は字を文叔とし、東京路斡底必剌猛安の人である。大定二十二年に進士となり、高苑主簿・浚州司候に調され、尚書省令史に補せられ、鑒察御史に除され、累遷して北京・臨潢按察副使・戸部侍郎となる。御史台が奏上して鄭留が前任の北京で職に称したとし、陝西路按察使に遷し、順義軍節度使に改められる。西京の人李安兄弟が財産を争い、府県は決することができず、按察司は鄭留に移して平らに理めるよう命じた。一ヶ月余り問わなかったが、ちょうど釈奠して孔子廟に祀る際、鄭留は李安兄弟を引き連れて諸生と年齢順に叙し、列座して酒を会し、古の友悌の事を数件陳説した。李安兄弟は感悟し、謝して曰く「節使は父母である。誓って再び争わない」と。乃ち相譲って帰った。朔州には盗賊が多かったが、鄭留は遊食を禁絶し、多く兵器を蓄え、春の巡行に因って撫諭すると、盗賊は衰え息み、獄は空になった。錫宴銭を賜ってこれを褒めた。利涉軍節度使に改められる。詔して馬を徴発する。鄭留は百姓に飼養させて待たせたが、御史がこれを弾劾した。まもなく宋を伐つこととなり、諸路の徴発した馬は皆痩せていたが、ただ隆州の馬だけは肥えていた。乃ち鄭留を釈放した。大安初め、安国軍に徙す。二年、慶陽府事を知る。三年、夏人が辺境を犯すと、鄭留はこれを撃退した。至寧元年、平涼府知事に改める。この時、平涼は新たに兵災を受け、夏人がまた来攻した。鄭留は潰卒を招集して防禦の計を立て、夏兵が退くと、官四階を遷る。貞祐二年、東京留守に改め、致仕する。貞祐四年、卒す。

鄭留は重厚で笑いを寡くし、人はその喜怒を見ることがなかった。臨終に奏稿をことごとく取り出して焼いた。

女奚烈守愚

女奚烈守愚、字は仲晦、本名は胡裏改門、真定府路吾直克猛安の人なり。六歳にして読書を知る。既に齔(歯の生え替わる年頃)に及び、或いは肉を食えば神識を昏ますと謂うあり、乃ち戒めて食わず。性至孝にして、父没する時年十五、葬を営むこと礼の如く、家を治むるに法あり、郷人これを称す。明昌二年の進士に中る。深沢主簿に調じ、治績声あり。懐仁令に遷り、弘文校理に改め、秩満して臨沂令となる。不逞の輩五百人あり、党社を結び、大いに境内を擾わす。守愚下車するや、その党散ず。いなご莒・密の間に起こるも、独り臨沂の境に入らず。先に、朝廷河朔・山東の地を括り、隠匿する者は没入して官とす。告げる者には賞を与う。莒州刺史その奴に教えて臨沂人の地を冒すを告げしめ、賞銭三百万を積み、先ず官鏹(官銭)を与えて乃ち民に征す。民甚だこれを苦しむ。守愚その冤状を列ねて州に白すも、州理せず。即ち戸部に聞えてこれを征還し、流民帰業す。県人その事を石にきざむ。

秘書郎に改む。母喪に遭い、勺飲(わずかな飲み物)も口に入れず三日、喪終わるまで未だ内寝に至らず。太常寺・勧農司交えて守愚をすも、皆聴かず。服除け、同知登聞検院を除かれ、著作郎・永定軍節度副使に改む。泰和の宋伐に、守愚は山東行六部員外郎となり、大興都総管判官に改む。大安元年、修起居注を除かれ、刑部員外郎・戸部郎中・太子左諭徳に転ず。貞祐初め、戸部侍郎を除かれ、数月にして諫議大夫・提点近侍局を拝す。二年、保大軍節度使を除かれ、翰林学士・参議陝西路安撫司事に改む。安撫完顔弼その人となりを重んじ、毎事諮りて後に行う。未幾、疾あり、詔して御薬を賜う。三年、卒す。

守愚人となり忠実にして華なく、孜孜として公に勤む、蓋し天性然り。

石抹元

石抹元、字は希明、懿州路胡土虎猛安の人なり。七歳にして父に喪い、号泣して食わざること数日。十三にして母に喪うこと成人の如し。嘗て撃鞠(馬球)の戯れを為すに、馬踣たおる。歎いて曰く、「生まれながら兄弟無く、而して数たびこの険に乗る。設い不測あらば、奈何いかんせん」と。ここより終身復たこれを為さず。枢密院尚書省訳史を補し、同知恩州軍州事に調じ、監察御史に遷り、同知淄州軍州事となる。劇盗劉奇久しく民患たり。一日捕獲し、方に訊鞫(尋問)せんとするに、赦将に至らんとするを聞き、すみやかに命じて杖殺す。郡を挙げて快しと称す。大興府判官に改め、沂王府司馬・沁南軍節度副使となる。河内の民家に美橙多き者あり、歳に厚利を獲たり。仇家夜に入りてこれを残毀す。主人捕え得て、乃ち劫財を以てその人を誣う。仇家服を引き、ぞう得べからず。元州事をり、其の情を得て究む。尋いで河北西路転運副使に改め、累遷して山東西路按察転運使となる。貞祐初め、黄摑吾典東平に兵を徴し、衆を擁して進まず、大いに民財を括り、衆皆忿怨す。副統僕散掃合座において吾典を殺し、その符を取って佩き、ほしいままにすること尤も甚だし。元密かに疏を上って掃合の近臣をほしいままに殺し、上無くして不道なるを劾す。掃合誅に坐す。済南府知事に移り、官に到ること六月にして卒す。

元生平寡言笑、節倹をたっとび、官に居て自ら守り、権要に交わらず、人これを以て称す。

張彀

張彀、字は伯英、許州臨潁の人なり。大定二十八年進士、甯陵県主簿に調ず。泰定軍節度判官に改む。儒士を率いて郷飲酒礼を行わしむ。同州観察判官に改む。是の時、兵を出して辺に備え、州箭十万を征す。限りを以て雕雁の羽をこれと為す。その価翔躍(高騰)して得べからず。彀曰く、「矢は去る物なり、何の羽か不可ならん」と。節度使曰く、「当に省に報ずべし」と。彀曰く、「州京師に距ること二千里、民の急なるに如何せん。万一責めあらば、下官身を以てその咎を任せん」と。一日の間、価数倍減ず。尚書省竟ついに請う所の如し。尚書省令史を補し、同知鄭州防禦使事を除かれ、北京塩使に改む。父憂に遭い、服除け、再び遷って監察御史となる。宋伐に従い、武寧軍節度副使に遷る。母憂に居る。貞祐二年、惠民司令に改め、河南治中・顕州刺史・刑部郎中・同知河南府事を歴任し、河東南路転運使・権行六部尚書、安撫使に遷る。興定元年、疾を以て卒す。

彀天性孝友にして、任子(蔭位の子)悉く諸弟に先んじ、俸入の所得も亦その弟に委ねてこれを掌らしめ、未だ嘗て有無を問わずと云う。

趙重福

趙重福、字は履祥、豊州の人なり。女直大小字に通じ、試みに補せられて女直誥院令史となる。兵部訳史・陝西提刑知法に転じ、陝西東路都勾判官・右蔵庫副使・同知陳州防禦事に遷る。宋の諜人蘇泉河南に入る。重福これを跡し、魚台に至り将に河を渡らんとするに、前の一舟且に渡らんとするを見て、従者に命じて大いに泉の姓名を呼ばしむ。前舟の中忽ち蒼惶あわて失措する者あり。これを執るに果たして泉なり。滄州塩副使に改む。歳饑え、民煮鹵しおして塩と為し売りて食を給す。塩官往々にしてこれを杖殺す。重福曰く、「寧ろ課を殿おくらしめんも、人を殺すに忍びず」と。歳満ち、課殿して当に降すべし。尚書右丞完顔匡・三司使按出虎その事を知り、乃ち歳荒を以てその罰を薄くし、織染署令を除く。大安三年、戸部尚書張煒を佐けて古北口に兵食を調え、都水少監に遷り、西北路六部郎中を行い、密雲県を治め、にわかに戸部員外郎を兼ぬ。貞祐二年、密雲を守る功を以て同知河間府事に遷り、六部侍郎を行い、権清州防禦使、摂河北東路兵馬都総管となる。三年、河間囲まれる。劉中という者嘗て重福と密雲にて聯事し、重福に出降を勧むるも、重福聴かず。是の時、河間兵少なく、多く羸疾るいしつにして戦に任ぜず、げ去らんと欲す。重福その父老を勧めてその子弟を率い、強者は戦い、弱者は守らしむ。会うこと久雨、囲み乃ち解けて去る。河東北路転運使に遷り、致仕す。元光二年、卒す。

武都

武都は、字を文伯といい、東勝州の人である。大定二十二年に進士となり、陽穀主簿に任じられ、商水令に遷った。県はもとより盗賊が多く、凡そ奸民で嘗て放火や強盗、人殺しや墓暴きを働いた者は、武都は皆その姓名を探り出し、大通りに掲示し、再犯せぬことを約束させると、悉く他境へ逃げ去った。廉潔を察せられ、南京路転運支度判官に遷り、累遷して中都路都転運副使となった。親が老いたため、弟の監察御史武鬱と共に侍養を乞うた。間もなく喪に服した。喪が明けて、太原治中に任じられ、再び都転運副使となり、灤州刺史に遷った。宣差北京路規措官を充てられ、武都は散逸した官銭百万を徴収した。入朝して戸部郎中となり、権右司郎中を兼ね、奏事が上意に適った。詔により海路で遼東の粟を漕送し山東を賑済することを命じられ、武都は価格を高くして人を募り粟を納めさせ、海商の船を招いてこれを運ばせた。三度遷って中都・西京按察副使となった。大安三年、宣差行六部侍郎を充てられ、労により本路按察使に遷り、行西南路六部尚書を兼ね、元帥抹撚盡忠を補佐して西京を防備し、功労があり、召されて戸部尚書となり、銀二百両・絹百匹を賞賜された。宣宗が即位し、衛紹王の降封を議し、その言葉は『衛紹王紀』にある。間もなく、中都が戒厳となり、武都は大興府知事となり、虎符を佩び便宜行事を許され、中外の軍民を弾圧した。武都は酒に酔って褻衣のまま詔使に会い、この罪により解任された。起用されて刑部尚書となった。中都の包囲が解け、河東路宣撫使となったが、間もなく参知政事胥鼎に代えられた。興定元年、病により卒した。

紇石烈德

紇石烈德は、字を廣之といい、真定路山春猛安の人である。明昌二年に進士となり、南京教授に任じられた。廉能を察せられ、厭次令に遷り、尚書省令史を補し、除かれて同知泗州防禦事・監察御史・大名治中・安・曹・裕三州刺史となり、歴任して同知臨潢・大興府事となった。貞祐二年、肇州防禦使に遷った。この年、肇州は武興軍節度に昇格し、徳は節度使宣撫司署都提控となった。肇州が包囲され危急となり、食糧が将に尽きようとした時、三百船の糧食が鴨子河にあり、州から五里の距離にあるが運べなかった。徳は濠を浚い城壁を増築し、甬道を築いて濠の水を河に導いた。陷馬阱を穿ち、その傍に伏兵を置いて守りを固め、一日に数度兵が接戦し、兵士は必死に戦った。水路が完成し、船が城下に至り、兵糧が足りると、包囲は解けた。遼東路転運使に改められ、軍民が道を遮って引き留めたが、夜間に乗じてようやく去ることができた。蒲鮮萬奴が上京に迫ると、徳は部将劉子元と共に戦ってこれを退けた。東京留守に遷り、歴任して保静・武勝軍節度使となった。興定二年、本官のまま行六部事を兼ねた。三年、節度使として権元帥右都監となり、左都監単州経略使完顔仲元と共に宿州で元帥府を執り行った。四年、工部尚書に遷った。明年、召還されて中都に帰った。この年、卒した。

張特立

張特立は、字を文舉といい、曹州東明の人である。泰和三年に進士に及第し、宣徳州司候に任じられた。郡には皇族や豪族が多く、特立は法をもってこれを律し、全境が粛然とした。萊州節度判官に転じたが赴任せず、杞の圉城で躬耕し、経学を以て自ら楽しんだ。正大初め、左丞侯摯・参政師安石がその才能を推薦し、洛陽らくよう令を授かった。四年、監察御史に拝された。上章して言うには、「鎬王・厲王の二宅は、久しく禁錮を加えられ、棘の囲いと警柝で、寇盗を防ぐが如くである。近く赦恩が降ったが、謀反大逆ですら皆雪がれている。彼らは独り何の罪があって、かくも幽囚されているのか。世宗の神霊が天に在らせられる、その心を傷つけずにはおられまい。聖嗣が未だ立てられぬは、必ずしもこれによらぬとも限らない。」また言うには、「方今三面より敵を受け、百姓は凋弊し、宰執は才なく、臣は恐れる、中興の功は歳月を期して成し得ぬであろうと。」また言うには、「尚書右丞顔盞世魯はその奴を遣わして小民と田を争わせ、大臣の体を失っている。参知政事徒單兀典は近習に諂事し、その位を得ている。皆罷免すべきである。」当路の者はその直諫を忌み、密かにこれを排斥する策を弄した。省掾高楨らが請託を受け、娼家で飲んだことを弾劾したためである。時に平章政事白撒が陝西で軍を犒労して帰還する途中、楨らが道で泣いて訴え、当時同席した者に省掾王賓がおり、張はその進士であったため弾劾しなかったという。白撒はそれが私情かつ事実でないとして、特立及び王賓を共に処罰した。特立は左遷されて邳州軍事判官となり、杖五十を加えられ、王賓もまた停職を命じられた。士論は皆特立の去るを惜しんだ。後に癸丑の年に卒し、年七十五であった。

王浩

王浩は、吏から身を起こし、初め涇陽令に辟召され、廉白で関輔第一と称された。時に西台が州県に檄を飛ばし棗や果樹を増植させ、督責が厳急で、民は甚だ擾乱されたが、浩だけは何も問わず、主司が罪に坐そうとしたところ、浩は言った、「この県の植えたものは既にその数に満ちている。もし増やそうとすれば、必ず他人の所有を盗むことになり、彼を取って此に置く、その利を見ない。」その民を愛する多くはこの類であった。所在に善政があり、民から絲毫も犯されず、秦人は生祠を立て、歳時にこれを思った。南遷後、扶溝令となった。開興元年正月、民の銭大亨らが県官を捕らえて北朝に降ったが、大亨は浩が民に恩があるため刃を加えるに忍びず、日々知人を遣わして降るよう勧めたが、浩は終に聞き入れず、そこでこれを殺したが、血は流れなかった。主簿劉坦・尉宋乙も共に害された。屍を道路に棄てたが、春から夏にかけて、独り浩の屍は儼然として生けるが如く、目は尚瞑らず、烏や犬も敢えて近づかず、殆ど神の護るがあるかのようであった。

初め、辟挙法が行われ、県官は甚だ多く適材を得た。例えば咸寧令張天綱・長安令李獻甫・洛陽令張特立の三人は伝がある。その他、興平の師夔・臨潼の武天禎・氾水の党君玉・偃師の王登庸・高陵の宋九嘉・登封の薛居中・長社の李天翼・河津の孫鼎臣・郟城の李無党・滎陽けいようの李過庭・尉氏の張瑜・長葛の張子玉・猗氏の安德璋・三原の蕭邦傑・藍田の張德直・葉県の劉從益らは皆清廉で慎重、才敏であり、一時の選りすぐりであって、能く百年の将に傾かんとする国祚を扶持したのも、また吏に其人を得た故であると言えよう。