金史

卷一百三十四 列傳第七十二 外國上 西夏

夏國王李乾順。その先祖は托跋思恭といい、唐の僖宗の時、夏・綏・銀・宥の節度使となり、李茂貞・李克用らとともに黄巣を破り、京師を回復し、李氏の姓を賜わった。唐末、天下大いに乱れ、藩鎮兵を連ねるも、ただ夏州のみは未だ嘗て唐の患いとならなかった。五代を経て宋に至り、数世伝わりて元昊に至り、始めて帝を称した。遼人は公主を李氏に下嫁せしめ、世に朝貢を修めて絶えず、事は遼史に具わる。

天輔六年、金は遼兵を破り、遼主は陰山に走る。夏の将李良輔は兵三万を将いて遼を救わんと来たり、天徳境の野谷に次ぐ。斡魯・婁室はこれを宜水に敗り、野谷に追い至る。澗水暴かに至り、漂没する者勝ち計うべからず。宗望は陰山に至り、便宜を以て夏国と和を議し、その書に曰く、「詔を奉じて之を有す。夏王は、遼の自ら出ずる所、終始を渝えず、危難相救う。今茲已に遼国を挙ぐ。若し能く遼に事うるの日の如くにして職貢を効うれば、まさにその来るを聴くべし、疑貳を致すなかれ。若し遼主彼に至らば、執送せしむべし」と。天会二年、始めて誓表を奉じ、遼に事うるの礼を以て藩と称し、割賜の地を受くるを請う。宗翰は制を承け、下寨以北・陰山以南・乙室耶刮部吐祿濼の西を割きて、これを賜う。

天会二年三月、乾順は把里公亮らを遣わして来たり誓表を上る。曰く、「臣乾順言う。今月十五日、西南・西北両路都統は左諫議大夫王介儒らを遣わし牒を齎し奉宣す。若し夏国前非を追悔し、遼主を捕送し、盟を立て表を上り、仍って遼国の旧制及び賜誓詔に依り、将来或いは虞らざる有らば、交いに相救援せんと。臣は遼国と世に姻契を通じ、名は藩臣に係る。輒く援を為して以て端を啓き、曾て威を犯して以て釁を結ぶ。既に天に違うの咎を速め、果たして敗績の憂いに罹る。徳音を降して以て前罪を寛うし、仍って土地を賜いて以て藩籬を広むるを蒙る。載せて含垢の恩を惟い、常に戴天の望を切にす。今より已後、凡そ歳時の朝賀・貢進の表章・使人の往復等の事、一切永く臣が遼国に事うる旧例に依る。その契丹の昏主は今臣の境に在らず。至りて奔竄ここに到り、復た存泊せずんば、即ち当に執献すべし。若し大朝その所在を知り、兵を以て追捕せば、敢えて地と為す及び前に依り援助すること無からん。其れ或いは兵を徴すれば、即ち当に応に依るべし。至りて殊方異域天闕に朝覲し、当国の道路を経るを合するも、亦た阻節せず。以上に叙する数事、臣誓ってこの誠を固くし、伝嗣変えず。苟くも或いは渝う有らば、天地鑑察し、神明これを戛し、禍子孫に及び、国を享くことを克さず」と。所謂西北・西南両路都統とは宗翰なり。蓋し宗望は太祖の命を以てこれと書を通じ、而して宗翰は便宜を以て地を割き和を議すと云う。

太宗は王阿海・楊天吉を使わして往き誓詔を賜う。曰く、「維れ天会二年歳次甲辰、閏三月戊寅朔、皇帝は誓詔を夏国王乾順に賜う。先皇帝駿命を誕膺し、鴻図を肇啓す。而して卿の国は夏台に拠り、境は遼右に連なり、以て昏主に力を効い、王師に釁を結ぶに致す。先皇帝以って忠する所の事に謂い、務めて恩を施して過を釈せんとす。迨び眇躬の纂紹に及び、遺訓を仰ぎて以て遵行す。卿乃ち深く前非を念い、内附に楽従し、使軺を飭して以て貢を奉じ、臣節を効して以て藩と称す。寵光を載せ錫し、用いて復好を彰す。所有の割賜地土・使聘礼節・相い援助等の事、一切恭しく先朝の制詔に依る。その応に依り兵を徴するは、請う所宜しく允すべし。三辰上に在り、朕豈に言を食らわんや。苟くも或いは変渝せば、亦た卿の誓の如くせん。遠く戒諭を垂れ、厥の誠を替えるなかれ」と。

ここにおいて、宋人と夏人と俱に山西の地を受く。宋人はこれを侵取す。乾順は使いを遣わし表して誓詔を賜わったことを謝し、并せて宋の侵す所の地を論ず。詔して曰く、「上る所の表を省み、悉くす。已に西南・西北両路都統府に命じ、宜しきに従い定奪せしむ」と。是の時、宗翰は京師に朝して未だ還らず。夏国の奏を録し権都統斡魯に付す。宋人の新たに受くる疆土を侵略し、及び使人王阿海の儀物を争う事、夏と通問して便宜を以てこれを決す。

初め、山西九州を以て宋人に与う。而して天徳は遠く一隅に在り、緩急及ぶべからず。割きて以て夏に与う。後に宋都を破り二帝を獲、乃ち陝西を画きて分界す。麟府路洛陽溝より東は黄河西岸に距り、西は暖泉堡を歴り、鄜延路米脂谷より累勝寨に至り、環慶路威辺寨より九星原を過ぎ委布谷口に至り、涇原路威川寨より古蕭関を略し北谷川に至り、秦鳳路通懷堡より古会州に至り、ここより直ちに黄河に距り、見今の流行に依り熙河路を尽くし西辺を以て封域を限る。復た陝西北鄙を分かち以て天徳・雲内に易え、河を以て界とす。

及び婁室陝西を定む。婆盧火は兵を率いて先ず威戎城を取る。軍威戎の東に至り敵と遇い、これを撃ち走らしめ、二人を生致す。これを問うに、乃ち知る夏の将李遇の威戎を取るなりと。乃ちその人を還し而して李遇と通問す。李遇は軍を威戎の西にし、蒲察は軍を威戎の東にし、而して使いをして事を婁室に議わしむ。婁室報じて曰く、「元帥府の約束す、若し兵夏境に近づけば、則ち夏人と相い掎角を為し、相い侵犯することなかれ」と。李遇は人を使わして来たりて曰く、「夏国既に天徳・雲内を以て大国に帰す。大国は我に陝西北鄙の地を許す。ここを以てここに至る」と。蒲察ら遂に軍を旋す。睿宗既に陝西を定む。元帥府は陝西北鄙を以て夏国に与うるを欲せず。詔して曰く、「卿ら審らかに処する所の宜しきに従い事を為せ」と。

天眷二年、国王乾順薨ず。子仁孝立つ。使いを遣わし冊命し、開府儀同三司上柱国を加う。皇統元年、榷場を置くことを請う。これを許す。

初め、王阿海らは太宗の誓詔を以て夏国に賜う。乾順は契丹の旧儀を以て使者に見ゆ。阿海肯わずして曰く、「契丹と夏国は甥舅なり。故に国王坐して受け、使者は礼を以て進む。今大金と夏国は君臣なり。大国の使者を見るは当に儀の如くすべし」と。数日争いて決すること能わず。ここにおいて始めて起立して受けしむ。厥れ後生日使を賜うことを遣わさず。ここに至り始めて使いを遣わしてこれを賜う。

初め、慕洧は環州を以て降る。及び陝西・河南を割きて宋人に与う。洧は夏国に奔る。夏人は以て山訛の首領と為す。及び撒離喝再び陝西を定む。洧は帰るを思う。夏人これを知り、遂に洧を族し、以て表して聞かしむ。詔書これを責譲す。及び海陵熙宗を弑し、使いを遣わし報諭して境上に至る。夏人問うて曰く、「聖徳皇帝何を為して見廃せらるる」と。肯わずして納れず。朝廷乃ち有司をして以て廃立の故を移文しこれを報わしむ。天徳二年七月、夏使い御史中丞雜辣公済ら来たり賀す。旧礼の如し。

正隆の末に宋を伐つ。宋人は秦・隴に入り、夏もまた隙に乗じて盪羌・通峡・九羊・会川等の城寨を攻め取り、宋もまた夏の境に侵入した。世宗が即位すると、夏人は再び城寨を以て来帰し、且つ兵を乞うて宋の侵地を回復せんとし、詔書を以て嘉奨し、仍って吏部郎中完顔達吉を遣わして陝西の利害を体究せしむ。辺吏が奏上するに、夏人は既に城寨を帰したが、侵掠した人口財畜は未だ還さず、これを索むるを請う。大定四年二月甲申、夏はその武功大夫紐臥文忠等を遣わして万春節を賀し、入見して、附状を以て奏告し、略して曰く、「衆軍破蕩の時、幸いに免るる者十に一二無く、継いて凍餒死亡し、その存する幾何ぞ。兼ねて夏国と宋兵と交わり、人畜の被る俘僇も亦多し。連歳勤動し、士卒暴露し、勢皆朘削す。又坐して宋人の牽制と為り、忠誠の節を自ら達するに繇無からしむ。中外咸く知る。願わくは理索を止約し、臣が言を聴納せられ、下国の幸い勝えざらんことを」と。その後屡これを以て請う。詔してこれを許す。

久しくして、その臣任得敬が国政を専らにし、夏国を分割せんと欲す。大定八年正旦を賀するに因り、奏告使殿前太尉芭里昌祖等を遣わして仁孝の章を以て良医を乞い、得敬の疾を治さしむ。詔して保全郎王師道に銀牌を佩かしめて往かしむ。詔して師道に曰く義「病勢療むべからざるが如くは、則ち治むること勿れ。治むべしと如くは、期一月にして帰れ」と。得敬の疾瘳ゆ。謝恩使任得聰を遣わして来たり、得敬も亦附表を進めて礼物す。上曰く、「得敬は自ら定分有り、附表礼物は皆受くべからず」と。併せてこれを却く。

初め、仁孝が位を嗣ぐ。その臣屡乱を作す。任得敬抗禦して功有り、遂に夏国に相すること二十余年、陰に異志を蓄え、夏国を図らんと欲し、宗親大臣を誣殺し、その勢漸く逼る。仁これを制す能わず。大定十年、乃ち西南路及び霊州囉龐嶺の地を分かちて得敬に与え、自ら国と為し、且つ表を上りて得敬の封を求む。世宗、宰相を以て問う。尚書令李石等曰く、「事は彼の国に係る。我何ぞ預からん。因ってこれを許すに如かず」と。上曰く、「国を有つ主、豈に故無くして国を人に分かつことを肯んぜんや。此れ必ず権臣の逼奪にして、夏王の本意に非ざるなり。況んや夏国藩を称すること歳久しく、一旦賊臣に迫らる。朕四海の主と為り、寧く此れを容さんや。若し彼自ら正す能わざれば、則ち兵を以てこれを誅すべし。許すべからず」と。乃ちその貢物を却き、仁孝に詔を賜いて曰く、「我が国家中原を戡定し、西土を懐柔してより、始め則ち乃父に画疆し、継いで爾が躬に錫命す。恩一方に厚く、年三紀に垂る。藩臣の礼既に践修を務め、先業の伝うる所も亦当に固守すべし。今茲命を請う、事頗る靡常なり。措意の由来を知らず、続いて使を遣わして爾を詢わん。所有の貢物は、已に発回せしむ」と。

得敬密かに宋人に通じて助けを求め、宋は蠟丸書を以て得敬に答う。夏人これを得る。得敬始め医を求めて附表を進め礼物するに因り、以て世宗を嘗試せんと欲す。既に行うべからず、而して封を求むるも又得べからず。仁孝乃ち謀りてこれを誅す。八月の晦、仁孝得敬及びその党与を誅す。表を上りて謝し、併せて執する所の宋人及び蠟丸書を来上す。その謝表に曰く、「得敬初め分土を受けたる後、曾て使を遣わして大朝に赴き代わりて封建を求め、詔書を蒙りて兪納せられず。此れ朝廷の憐愛の恩にして、夏国感戴に勝えず。夏国妄りに朝廷を煩わし、冒して賊臣の封建を求め、深く礼節を虧く。今既に賊臣誅訖す。大朝用て使を遣わして詢問せず。得敬の分かつ所の地は大朝の熙秦路と境を接す。自ら分地して以来別に生事有るを恐れ、已に根勘禁約す。朝廷も亦禁約を行わんことを乞う」と。

十二年、上宰臣に謂いて曰く、「夏国珠玉を以て我が絲帛を易う。是れ以て無用を以て我が有用を易うなり」と。乃ち保安・蘭州の榷場を減罷す。

仁孝深く世宗の恩厚きを念い、十七年、本国の造る所の百頭帳を献ず。上曰く、「夏国の貢献自ら方物有り。却くべし」と。仁孝再び表を以て上りて曰く、「進むる所の帳本より珍異に非ず。使人も亦已に辺に到る。若し包納を蒙らざれば、則ち下国の深誠展效する所無く、四方の鄰国以て夏国大朝の眷愛の数に預からずと為し、将に何をか安んぜん」と。乃ち正旦使と同来することを許す。

先に、尚書奏す、「夏国と陝西の辺民と私に相越境し、財畜を盗竊し、姦人榷場貿易に名を託し、以て往来を得、辺患と為るを恐る。使人の入境して富商と相易するも、亦禁止すべし」と。ここに於て、復た綏徳の榷場を罷め、止だ東勝・環州を存するのみと為す。仁孝表を上りて請う、蘭州・保安・綏徳の榷場を復置して旧の如くせんとし、併せて使人の入界して相易用物することを乞う。詔して曰く、「保安・蘭州の地は絲枲無く、惟だ綏徳に関市を建てて以て貨財を通ず。使副往来し、都亭に留まり貿易するを聴す」と。章宗即位し、詔して曰く、「夏使の舘内貿易且く已めよ」と。明昌二年、旧に復す。

頃くのうちに、夏人肆牧を鎮戎の境に行い、邏卒これを逐う。夏人邏卒を執して去る。辺将阿魯帶兵を率いてこれを詰む。夏の廂官呉明契・信陵都・卜祥・徐餘立等、澗中に伏兵三千し、阿魯帶口中に流矢して死し、その弓甲を取って去る。詔して阿魯帶を殺す者を索む。夏人徒刑を以て処す。詔して索むること已まず。夏人乃ち明契等を殺す。

明昌四年、仁孝薨ず。子純佑嗣ぎ立つ。承安二年、復た蘭州・保安の榷場を置く。承安五年、純佑の母病風して医を求む。詔して太醫判官時徳元及び王利貞を往かしめ、仍って御薬を賜う。八月、再び医薬を賜う。泰和六年三月、仁孝の弟仁友の子安全、純佑を廃し自ら立ち、再び月を閲て廃所に死す。七月、純佑の母羅氏をして表と為さしめ、純佑能く嗣守せずと言い、大臣と定議して安全を立てて王と為し、使を遣わして奏告す。夏使私に館伴官に問う、「奏告の事詔許すか」と。館伴官曰く、「此れ当に問うべからず」と。夏使曰く、「明日当に諸の客省に問わん。若し又答えざれば、則ち殿に升り奏請せん」と。上これを聞き、客省をして以て祈る所を許すの意を諭さしむ。乃ち羅氏に詔を賜いてその意を詢わしむ。夏人復た羅氏の表を以て来たり、乃ち安全を封じて夏国王と為す。

大安三年、安全薨ず。族子遵頊立つ。遵頊先に状元及び第し、大都督府主を充つ。立つは安全の薨ずる前一月なり。衞紹王実録無く、その故を知らず。然れども是の時金兵会河堡に敗績し、夏人その兵敗に乗じて辺境を侵略す。而して通使は旧の如し。

崇慶元年三月、葭州を攻む。至寧元年六月、保安州を攻む。貞祐元年十一月、会州を攻む。都統徒単醜兒これを撃ち走らす。十二月、涇州を陥す。

二年八月、帰国の人喬成、夏国の書を齎す。大概に金の辺吏の侵略を言い、禁戢を乞う。詔して移文をしてこれに答う。宰臣言う、「既に公牒に非ず。今将に責問せんとす。彼必ず詞を飾り、徒らに虚文を為し、事に益無し」と。乃ち止む。未だ幾ばくも無く、夏人慶原・延安・積石州を攻む。乃ち詔して有司に移文をして責問せしむ。十一月、蘭州の訳人程陳僧、夏人と結びて州を以て叛く。辺将その兵三千を敗る。

三年正月、夏の兵が武延川を攻撃した。宣宗は言った、「これは心配に足らず、他の道から侵入することを恐れるのみである」と。やがて辺境の官吏が夏の境を侵したと聞き、夏人はそこで環州を攻撃した。詔して辺境の官吏の罪を治めさせた。夏の兵が積石州を攻撃し、都統姜伯通がこれを破った。夏の兵が安郷関に入り、都統曹記僧と萬戸忽三十がこれを退けた。二月、環州を攻撃し、刺史烏古論延壽が境上においてこれを破った。三月、詔して夏を討つことを議わせた。陝西宣撫司が奏上した、「かつて夏人が我が環州・慶州を侵したとき、河州・蘭州・積石州が兵をもってこれに応じたが、皆遁走し、急いで巣穴に帰ったのは、我が備えのためである。今、蘭州の潰兵は未だ集まらず、軍需物資は多く完備せず、辺境の地は寒く、春草がようやく生じたばかりで、まだ放牧はできず、両界に煙火のないところ三百余里、軽挙すべきではない」と。これに従った。四月、詔して河州提控曹記僧と通遠軍節度使完顔狗児に程陳僧を討たせた。夏人がこれを救援した。九月、ついに西関堡を陥落させた。夏人が再び第五将城を攻撃し、萬戸楊再興がこれを撃退した。詔して陝西宣撫司および沿辺の諸将に、空名の宣命・勅命を下賜し、陣中で功を立てた者、五品以下はすべて昇任を聴許した。十月、保安および延安を攻撃し、都統完顔國家奴がこれを破った。やがて深く臨洮に侵入し、総管陀満胡土門が防ぐことができず、陝西宣撫副使完顔胡失来が臨洮を救援したが、渭源堡において大敗し、城は陥落し、胡失来は捕らえられた。十一月、夏の兵は克戎寨で敗れ、さらに熟羊寨で敗れた。宰相が入朝して賀した。宣宗は言った、「これは忠賢の力である」と。夏の兵が進んで臨洮を包囲したが、陀満胡土門がこれを破った。

四年四月、夏の葩俄族総管汪三郎が衆を率いて来降し、羊千頭を進上した。詔してこれを受け入れ、その価を優遇して与えた。来遠鎮が間諜を捕らえ、宋と夏が結んで来攻すると言った。詔して陝西行省に備えさせた。夏が来羌城の界河に折橋を架けた。元帥右都監完顔賽不がこれを焼き、斬首・捕虜は甚だ多かった。六月、鄜延路が奏上した。夏人が牒報を用いて彼らの国の光定年号を用いると。詔してその牒を封じて返還させた。閏月、慶陽総管慶山奴が夏を討ち、環州から出撃した。陝西行省がその軍を中分することを請い、慶山奴に第三将の懐安寨から出撃させ、環州刺史完顔胡魯に環州から出撃させようとした。宣宗は言った、「夏人がその王城を備えるために軍を移動させたと聞く。なお我を欺くことを恐れる。その計略に陥るな」と。提控完顔狗児が蘭州西関堡に到着し、旧部曲九人を招き寄せ、阿彌湾において夏の兵を急襲し、その将兵百余りを殺した。八月、左監軍烏古論慶壽が安塞堡において夏の兵を破った。右都監賽不が結耶觜川において夏の兵を撃退し、さらに車児堡においてこれを破った。十一月、提控石盞合喜と楊斡烈が定西の包囲を解いた。十二月丙寅、宣宗が皇太子と夏討伐を議した。左監軍陀満胡土門と延安総管古里甲石倫が塩州・宥州・夏州を攻撃し、慶陽総管慶山奴と知平涼府移剌荅不也が威州・霊州・安州・会州などを攻撃した。

興定元年正月、夏の兵三万が寧州から帰還するのを、慶山奴が兵をもって邀撃し、これを破った。詔して河東行省胥鼎に兵三万五千を選び、陀満胡土門に付けて夏を討たせようとした。胥鼎が急ぎ上奏して不可とし、ついに中止した。その言葉は胥鼎伝にある。右都監完顔仲元が西夏に試兵することを請い、その不意を突けば必ず全勝を得、兵威が既に振るえば、国力はますます充実するとした。詔して尚書省・枢密院に議させた。夏人福山が俘虜の戸をもって来降し、同知沢州軍州事に任じられた。五月、夏の兵が大北岔に入り、都統紇石烈猪狗が急襲し、これを破った。宣宗が夏と和議を結ぼうとした。右都監慶山奴が延安に駐屯し、奏上した、「夏国は決して和を肯んじず、ただ欺かれるのみである」と。やがて間諜を捕らえて言うには、遵頊が大金が和を約そうとしていると聞き、将士に西辺を犯すなと戒め諭したという。宰臣が奏上した、「たとえこの通りであっても、辺境の備えも弛めるべきではない」と。宣宗はこれを然りとした。右都監完顔閭山が黄鶴岔において夏の兵を破った。夏人が羊狼寨を包囲した。都統党世昌がこれと戦い、完顔狗児が都統夾谷瑞を遣わして夜に夏の陣営を斬り込み、ついにその包囲を解いた。なお近地に駐屯していたので、左都監白撒が定西の精鋭兵と龕谷副統包孝成の緋翮翅軍を発し、合撃してこれを退けた。八月、安定堡馬家平総押李公直が夏の兵三千を破った。九月、都統羅世暉が克戎寨において夏の兵を退けた。

興定二年三月、右都監慶山奴が奏上した、「夏人に和を乞う意向あり。保安・綏徳・葭州で文報を得て、互市を復活し、旧盟を尋ね求めると。臣の観るところ、これは遵頊の出したものであり、辺境の官吏が専断できるものではない」と。朝廷はこれを然りとしなかった。五月、夏人が葭州に入り、慶山奴が馬吉峰においてこれを破った。七月、龕谷を侵犯し、夾谷瑞と趙防がこれを破り、質孤堡まで追撃した。

三年閏月、夏人が通秦寨を陥落させたが、提控納合買住がこれを撃破し、葭蘆川から遁走した。華州元帥完顔合達が安寨堡から出撃して隆州に至り、その兵二千を破った。隆州を攻撃し、その西南を陥落させたが、日が暮れたので引き揚げた。十二月、詔して有司に夏国への移文をさせた。

四年二月、夏人が鎮戎を侵犯し、金の軍は敗績した。夏人の公文書の言葉が不遜であったので、詔して詞臣に牒文を起草させてこれを論破させた。四月、夏の兵が辺境を侵犯した。元帥石盞合喜が鹿児原でこれと遭遇し、提控烏古論世顯が別働隊をもってこれを破った。都統王定が新泉城においてその衆を再び破った。元帥慶山奴が宥州を攻撃し、神堆府を包囲し、その城に穴を穿ち、士卒に登る者あり。援兵が到着し、これを撃退し、二千の首級を斬り、百余人を捕虜とし、雑畜三千余を獲た。八月、夏人が会州を陥落させ、刺史烏古論世顯が降伏した。再び龕谷を侵犯したが、夾谷瑞が連戦してこれを破り、夏人は去った。この月、詔して有司に移文して和議を議わせたが、事はついに成らなかった。夏人三万が高峰鎮から出て定西を包囲したが、刺史愛申阿失剌と提控烏古論長壽・温敦永昌がこれを撃退した。九月、夏人が綏平寨と安定堡を包囲した。間もなく西寧州を陥落させ、ついに定西を攻撃したが、烏古論長壽がこれを撃退した。そこで鞏州を襲撃したが、石盞合喜が迎撃し、一日に十余戦して、ついに解囲して去った。

五年正月、詔して枢密院に夏の事を議わせた。奏上した、「夏人が境上に兵を集め、会州から侵入しようとしている。すでに行省白撒に険要の地に伏兵を置いてこれを待たせた。鄜延元帥府が機会を窺って兵を発し、その背後を牽制すれば、憂い無きに足る」と。二月、寧遠軍節度使夾谷海壽が搜嵬堡において夏の兵を破った。三月、再び来羌城を奪取した。十月、龕谷を攻撃し、白撒が連戦してこれを破った。

元光元年正月、夏人が大通城を陥落させたが、再びこれを奪取した。三月、提控李師林が永木嶺において夏の兵を破った。八月、寧安寨を攻撃し、十月、神林堡を攻撃し、十二月、質孤堡に入ったが、提控唐括昉がこれを破った。

二年、遵頊はその太子徳任をして来伐せしむ。徳任諫めて曰く、「彼の兵勢は尚ほ強し、之と約和するに如かず」と。遵頊笑ひて曰く、「是れ爾の知る所に非ず。彼は蘭州を失ひて竟に復する能はず、何の強きかあらん」と。徳任固く諫めて従はざるを以て、太子の位を避けんことを乞ひ、僧たらんことを願ふ。遵頊怒りて、之を霊州に幽し、人を遣はして将を代へしむ。天旱に会ひて果たさず。是の歳、大元の兵夏国に罪を問ふ。延安・慶原元帥府は夏人の困弊に乗じて之を伐たんと欲す。陝西行省白撒・合達は以て不可と為し、乃ち止む。隴安軍節度使完顔阿隣は日々将士と宴飲し、軍事を治めず。夏人これに乗じ、民五千余口・牛羊雑畜数万を掠めて去る。天会の議和より以来、八十余年夏人と未だ兵革の事あらざりしが、貞祐の初めに及びて、小に侵掠あり、以て難を構へ十年解けず、一勝一負して精鋭皆尽き、而して両国倶に弊ふ。是の歳、遵頊子の徳旺に位を伝ふ。

正大元年、和議成り、兄弟の国と自称す。

三年二月、遵頊死す。七月、徳旺死す。嗣立する者は史に其の名を失ふ。

明年、夏国亡ぶ。

先づ是れ、夏の使い精方匭匣使王立之来聘す。未だ復命せざるに国已に亡び、詔して京兆に安置し、宣差弾圧に充て、夏国の降戸を主管せしむ。八年五月、立之の妻子三十余口環州に至る。詔して以て立之に帰し、幣帛を賜ふ。立之上言す、先世本より申州の人なり、仕へざるを乞ひ、申州に居らんと。詔して請ふ所の如くし、本官を以て申州に居り、唐・鄧・申・裕等の処の夏国降戸を主管せしめ、唐・鄧総帥府の節制を聴き、上田千畝・牛具農作を給すと云ふ。

賛に曰く、夏の立国すること旧し。其の臣羅世昌世次を譜叙して称ふ、元魏衰微し、松州に居る者因りて旧姓を以て托跋氏と為すと。按ずるに唐書党項八部に托跋部有り、党項より銀・夏の間に居る者は号して平夏部と為す。托跋思恭黄巢を破るの功を以て姓を李氏と賜はり、兄弟相継ぎて節度使と為り、夏州に居り、河南に在り。継遷再び国を立て、元昊始めて大なり。乃ち河を北に渡り、興州に城して之に都す。

其の地初め夏・綏・銀・宥・霊・塩等の州有り、其の後遂に武威・張掖・酒泉・燉煌郡の地を取り、南は横山に界し、東は西河に距る。土は三種に宜しく、水草に善く、畜牧に宜し。所謂涼州の畜牧天下に甲たりとは是れなり。土は堅腴、水は清冽、風気は広莫、民俗は強梗にして気を尚び、然諾を重んじ、敢へて戦鬭す。漢・唐より水利を以て穀を積み辺兵に食はしむ。興州には漢・唐の二渠有り、甘・涼も亦各灌溉有り。土境は小なれども、以て富強たる能ふは、地勢然らしむるなり。

五代の際、朝興り夕替はり、制度礼楽灰燼に蕩す。唐の節度使には鼓吹有り、故に夏国の声楽は清厲頓挫し、猶ほ鼓吹の遺音有り。然れども能く儒術を崇尚し、孔子を帝号を以て尊び、其の文章辞命観るべき者有り。立国二百余年、遼・金・宋三國に抗衡し、郷に偭きて常無く、三國の勢の強弱を視て以て異同を為す。故に近代の学者西北の地理を記すこと、往々皆臆度を以て之を言ふ。聖神作有り、天下一に会し、驛道往来東西の州と視る。