八年十一月、武定軍より入朝した。この時、章宗は既に嗽疾を患っており、衛王が辞去しようとしたが、章宗は意図的にこれを留めた。章宗の初年、諸王を殊に愛し、王傅府尉の官を置いて徳義を導かせた。永中・永蹈の誅殺後は、これにより宗室を疎んじ忌むようになり、遂に王傅府尉をもって王家を検制させ、苛酷に厳密にし、門戸の出入りにも皆籍を設けた。ところが衛王は永蹈の同母弟であり、柔弱で知能に乏しかったので、章宗はこれを愛した。既に継嗣がなく、諸叔兄弟は多くいたが、章宗は皆立つことを肯んぜず、ただ衛王を立てようと欲したので、辞去の際にこれを留めたのである。ほどなく、章宗の病状が大いに篤くなり、元妃李氏・黄門李新喜・平章政事完顔匡が策を定めた。章宗が崩御すると、匡らは遺詔を伝え、衛王を立てた。衛王は固く辞譲したが、遂に詔を承けて哀を挙げ、柩前で皇帝の位に即いた。翌日、群臣が大安殿で朝見した。詔して路府州県に大行皇帝のため七日間の服をさせた。
二月乙丑朔、太白が昼間に現れ、天を経た。壬辰、章宗の内人范氏がその遺腹を損じたことを、詔をもって内外に知らせた。初め、章宗の遺詔に「内人に娠ある者二人あり、男を生めば則ち儲貳に立てよ」とあった。ここに至り平章政事僕散端らが奏上して言うには、「承御賈氏は十一月に免乳すべきところ、今は既に三月を出ている。范氏の産期は正月に合うべきところ、医師が胎気に損ありと称し、薬を用いて調治したが、脈息は和らぐも、胎形は既に失せた。范氏は願わくは髪を削ぎ尼とならんとす。」皇子六人を封じて王とした。
三月甲辰、道陵の礼が成り、大赦を行った。詔して曰く、「今より朕の名に連続せず、及び昶・詠等の字は、別に改むるを須いず。」平章政事僕散端を右丞相とした。
四月庚辰、章宗の元妃李氏及び承御賈氏を殺した。平章政事完顔匡を尚書令とした。
五月、高麗が即位を賀した。宏詞科を試みた。
七月、海王莊に幸し、魯国公主を臨奠した。
八月、万秋節、宋が使いを遣わして来賀した。
九月、大房山に詣で、睿陵・裕陵・道陵を謁奠した。百官が表を奉って儲君を立てることを請うたが、許さなかった。
十月、歳星が左執法を犯した。己卯、詔して風俗を戒め励ました。
十一月、平陽で地震があり、声雷の如く、西北より来た。
十二月、詔して平陽の地震に際し、人戸で三人死者ある者は租税を一年免じ、二人及び傷者は一年を免じ、貧民の死者には葬銭五千を給し、傷者には三千を給すとす。尚書令申王完顔匡薨ず。右丞相僕散端を左丞相と為し、兄の郢王永功を進めて譙王に封じ、御史大夫張行簡を太保と為す。
二月、客星紫微垣に入り、光散じて赤龍と為る。地大いに震い、声雷の如し。礼部侍郎耿端義を以て参知政事と為す。
四月、『大金儀礼』を校す。北方に黒気有り、大道の如く、東西天に亙る。徐・邳州にて河清ること五百余里、以て宗廟社稷に告ぐ。
五月、詔して儒臣に『続資治通鑑』を編せしむ。
六月、大旱す。詔を下し己を罪し、貧民の食を闕く者を振恤す。西京・太原両路の雑犯を曲赦し、死罪は一等を減じ、徒以下は免ず。丙寅、地震す。
七月、地震す。
八月、地震す。乙丑、子の胙王従恪を立てて皇太子と為す。万秋節、宋使いを遣わして来賀す。近郊に猟す。夏人葭州を侵す。
九月、地大いに震う。乙未、詔して直言を求め、勇敢を招き、流亡を撫す。庚子、使いを遣わし宣德行省の軍士を慰撫す。丙午、京師戒厳す。上日を出でて巡撫し、百官朝視を請うも、允さず。辛亥、宣德行省罷む。癸丑、詔して中都・西京・清・滄の兵に被る民戸を撫諭す。
十一月、近郊に猟す。中都大悲閣の東渠内に火自ら出で、旬を逾えて乃ち滅す。閣南の刹竿下の石罅中に火自ら出で、人これに近づけば即ち滅し、俄かに復た出づ、是の如き者復た旬日。中都火民居を焮す。
十二月乙卯朔、日食有り。是歳大饑す。百姓に辺事を伝説することを得ざるを禁ず。
二月、熒惑房宿を犯す。大風北より来たり、屋を発き木を折り、通玄門の重関折れ、東華門の重関折る。
閏月、熒惑鍵閉星を犯す。
三月、大悲閣災し、延いて民居に及ぶ。黒気北方に起り、広長大堤の若く、内に三つの白気之を貫き、龍虎の状の如し。民間の馬を括り、職官に馬を出さしむること差有り。
四月、我が大元の太祖法天啓運聖武皇帝が征討に来る。西北路招討使粘合合打を遣わして和を乞わしむ。平章政事獨吉千家奴、参知政事胡沙に行省事を行わせて辺備を整えしむ。西京留守紇石烈胡沙虎に行樞密院事を行わしむ。参知事奧屯忠孝を尚書右丞と為す。戸部尚書梁𤨠を参知政事と為す。
六月壬寅、軍前の賞罰格を改めて定む。
八月、行省官を詔して奨諭し、軍士を慰撫す。千家奴、胡沙、撫州より退軍し、宣平に駐る。河南大名路の軍逃げ帰る、詔を下してこれを招撫す。
九月、千家奴、胡沙、会河堡にて敗績し、居庸関失守す。男子の輒く中都城門を出づることを得ざるを禁ず。大元の前軍中都に至る、中都戒厳す。参知政事梁𤨠、京城を鎮撫す。
十月、毎夜初更の正に、東、西北天明るくして月の初めて出づるが如く、月を経て乃ち滅す。熒惑、壘壁陣を犯す。上京留守徒單鎰、同知烏古孫兀屯を遣わし兵二万を将いて中都を衛わしむ。泰州刺史朮虎高琪、通玄門外に屯す。上、諸軍を巡撫す。宣德行省を罷む。
十一月、河南の陳言人郝贊を殺す。上京留守徒單鎰を以て右丞相と為す。中都の在城軍に簽す。紇石烈胡沙虎、西京を棄て、走って京師に還る、即ち以て右副元帥と為し、権尚書左丞と為す。是の時、徳興府、弘州、昌平、懐来、縉山、豊潤、密雲、撫寧、集寧、東は平・灤を過ぎ、南は清・滄に至り、臨潢より遼河を過ぎ、西南は忻・代に至るまで、皆大元に帰す。初め、徒單鎰、桓・昌・撫の百姓を内に徒らしむるを請う。上、梁𤨠の議を信じ、以て鎰を責めて曰く、「是れ自ら境土を蹙むるなり」と。大元已に三州を定むるに及び、上これを悔ゆ。是に至り、鎰復た請う、行省事を東京に置き、不虞に備えんことを。上悦ばずして曰く、「故なくして大臣を遣わし、人心を動揺せしむ」と。未だ幾ばくもせず、東京守られず、上乃ち大いに悔ゆ。右副元帥胡沙虎、兵二万を請いて宣徳に屯せんことを請う、詔して三千人を与えて媯川に屯せしむ。平章政事千家奴、参知政事胡沙、全軍を覆すに坐し、千家奴は除名せられ、胡沙は責めて咸平路兵馬総管に授く。万戸𠇗頭、古北口に屯す。
十二月、陝西両路の漢軍五千人に簽し中都に赴かしむ。太保張行簡、左丞相僕散端、禁中に宿して軍事を議す。左丞相僕散端罷む。
三月、大旱し、使いを遺わして李遵頊を冊し夏国王と為す。御史大夫福興を以て参知政事と為す。参知政事孟鑄を御史大夫と為す。夏人葭州を犯す、延安路兵馬総管完顏奴婢之を撃つ。
五月、陝西の勇敢軍二万人、射糧軍一万人に簽し、中都に赴かしむ。陝西の馬を括る。安武軍節度使致仕賈鉉を起復して参知政事と為す。参知政事福興を尚書左丞と為す。詔して空名の敕牒を売る。河東、陝西大いに饑え、斗米銭数千、流莩野に満つ。南京留守僕散端を以て河南・陝西安撫使と為し、軍馬を提控せしむ。
七月、風東より来たり、帛一段を吹き、高さ数十丈、飛動すること龍形の如く、拱辰門に墜つ。
八月、万秋節、兵事を以て宴を設けず。
十月、西京、遼東、北京を曲赦す。
十一月、河東南路、南京路、陝西東路、山東西路、衛州の旱災を賑恤す。
十二月、夏国王李遵頊、封冊を謝す。
二月、詔して遼東を撫諭す。大名府事知事烏古論誼、不軌を謀り、誅せらる。
三月、太陰・太白と日並び見え、相去ること尺餘。
五月、元号を改む。詔して咸平路契丹部人の嘯聚する者を諭す。胡沙虎を起用して復た右副元帥と為し、武衛軍三千人を率いて通玄門外に屯す。陝西大旱す。
六月、夏人保安州を犯し、刺史を殺し、慶陽府を犯し、同知府事を殺す。戸部尚書胥鼎・刑部尚書王維翰を以て参知政事と為す。
八月、尚書左丞完顏元奴兵を将いて辺備す。詔して軍官・軍士に賜賚有差。大霧、晝晦。治中福海別に兵を将いて城北に屯す。辛卯、胡沙虎詔を矯り以て反者を誅すと称し、福海を招き執いて之を殺し、其の兵を奪う。壬辰、自ら通玄門より入り、知大興府事徒単南平・刑部侍郎徒単沒拈を広陽門西にて殺す。福海の男符寶鄯陽・都統石古乃衆を率いて拒戦し、之に死す。胡沙虎東華門を叩き、人を遣わして守直親軍百戸冬児・五十戸蒲察六斤を呼ばしむ、応ぜず。世襲猛安三品官職を以て許すも、亦応ぜず。都点検徒単渭河縋りて出で、護衛斜烈鎖を掊ち門を啓く、胡沙虎兵を以て宮に入り、尽く衛士を逐い、其の党を以て代え、自ら監国都元帥と称す。癸巳、上を逼りて宮を出さしむ。素車を以て故邸に載せ至り、武衛軍二百人を以て錮守す。尚宮左夫人鄭氏内職に在り、宝璽を掌る、難を聞き、端居して璽所に変を待つ。胡沙虎黄門を遣わし入りて璽を収めしむ、鄭曰く「璽は天子の用うる所、胡沙虎人臣なり、取りて将に何を為さん」と。黄門曰く「今天時大変し、主上猶ほ且つ保たず、況んや璽をや。御侍自脱の計を思うべし」と。鄭厲声に罵りて曰く「若輩宮中の近侍、恩遇尤も隆し、君難に死を以て之に報いず、反って逆豎の為に璽を奪わんとするか。我が死は必せり、璽は必ず与えず」と。遂に瞑目して語らず。黄門出づ、胡沙虎遂に「宣命之宝」を取り、偽りに其の党醜奴を除して德州防禦使と為し、烏古論奪剌を順天軍節度使と為し、提控宿直將軍徒単金寿を永定軍節度使と為し、及び其の余の党凡そ数十人、皆官を遷す。遂に宦者李思中をして邸に於いて上を害せしむ。奉御和尚を誘いて書を作り急ぎ其の父左丞元奴を召し議事せしむ、元奴軍を以て来たり、並びに其の子を皆殺す。
九月甲辰、宣宗即位す。丁未、邸に詣り臨奠し、伏哭して哀を尽くす。礼を以て改葬するを敕す。胡沙虎廃して庶人と為すを請う、詔して百官をして朝堂に議せしむ、議する者三百余人。太子少傅奧屯忠孝・侍読学士蒲察思忠廃黜に従うを請い、戸部尚書武都・拾遺田庭芳等三十人王侯に降すを請う。太子太保張行簡漢の昌邑王・晋の海西公の故事を用うるを請い、侍郎史完顏訛出等十人復た王封に降すを請う。胡沙虎固より前議を執り、宣宗已むを得ず、乃ち降封して東海郡侯と為す。道陵元妃李氏・承御賈氏を昭雪す。
十月辛亥、元帥右監軍朮虎高琪胡沙虎を其の第に於いて殺す。胡沙虎とは、紇石烈執中なり。宣宗乃ち詔を下し其の官爵を削る。石古乃に順州刺史を贈り、鄯陽に順天軍節度副使を贈り、凡そ二人に従い拒戦したる者、千戸は銭五百貫を賞し、謀克は三百貫、蒲輦散軍は二百貫、各官を両階遷し、戦没したる者は贈賞を其の家に付す。冬児に龍虎衛上将軍を加え、再び宿進将軍に遷す。蒲察六斤に定遠大将軍・武衛軍鈐轄を加う。石古乃の子尚ほ幼く、俸八貫石を給し、有司に敕し、其の年十五を俟ち以て聞かしむ。貞祐四年、詔して衛王を追復し諡して紹と曰う。