金史

本紀第十二: 章宗四

四年春正月乙丑の朔、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。丁卯、外方の使人が刀を佩いて宮中に入ることを許さぬよう諭した。庚午、王永成の邸に幸して病を見舞う。辛未、光春宮に如きて春水を行う。壬申、陰霧あり、木氷す。丁丑、行尚書省が奏す、宋の賀正使が還るに至り慶都にて卒す。詔して防禦使女奚烈元を遣わして往き祭らしめ、賻として絹布各二百二十匹を致し、仍て命じて送伴使張雲に喪を護らしめて帰らしむ。豫王永成薨ず。辛卯、高麗國王王𧦬没し、嗣子韺、使者を遣わして来り哀を告ぐ。

二月乙未の朔、宮に還る。丁酉、山東・河北の旱を以て、詔して東・北の二嶽に雨を祈らしむ。己亥、命じて豫王永成の遺文を購求せしむ。庚戌、初めて三皇・五帝・四王を祭る。癸丑、詔して刺史に、州郡に宣聖廟の学なき者は並びに之を増修せしむ。

三月丁卯、日昏くして光無く、大風宣陽門の鴟尾を毀つ。癸酉、命じて大興府に雨を祈らしむ。戊寅、太極宮に幸す。詔して前代の帝王合せて祭るべき者を定む。尚書省奏す:「三皇・五帝・四王は、既に三年一祭の礼を行えり。若し夏の太康、殷の太甲・太戊・武丁、周の成王・康王・宣王、漢の高祖こうそ・文帝・景帝・武帝・宣帝・光武帝・明帝・章帝、唐の高祖・文皇の一十七君を祭るを宜しとす。」之に従う。乙酉、北郊にて雨を祈る。丁亥、萬甯宮に如く。壬辰、社稷にて雨を祈る。遼陽府判官民斜卯劉家、上書して朝臣を論列するを以て、官一階を削り、之を罷む。

夏四月丙申、詔して県令以下の考課法を定む。己亥、太廟にて雨を祈る。庚子、関防奸細の格を増定す。丙午、衣服の制を定む。雨を祈るを以て、北郊にて嶽鎮海瀆を望祀す。癸丑、社稷にて雨を祈る。甲寅、久旱を以て、下詔して躬を責め、直言を求め、正殿を避け、膳を減じ楽を撤き、禦廄の馬を省み、旱災の州県の徭役及び今年の夏税を免ず。使者を遣わして囚を審にし、冤獄を理す。乙卯、宰臣、表を上して罪を待つ。詔して答えて曰く:「朕が徳に愆有り、上天異を示す。卿等各々乃の職に趨き、朕が懐に副わんことを思え。」戊午、西上閣門使張偁等を以て故高麗國王王𧦬の敕祭使と為し、東上閣門使石愨等を以て高麗國王王韺の慰問起複横賜使と為す。庚申、太廟にて雨を祈る。壬戌、萬甯宮の端門災有り。

五月乙丑、北郊にて雨を祈る。有司雩を請う、詔して三たび嶽瀆社稷宗廟に祷り、雨降らざれば、乃ち之を行わしむ。癸酉、平章政事徒單鎰・尚書左丞完顏匡罷む。甲戌、雨降る。乙亥、百官表を上して正殿に御し、常儀に復するを請う。乙酉、宗廟にて雨を謝す。丁亥、社稷に報祀す。随朝の冗官を汰す。省令史の公務を関決し、詭りて已に稟すと称し、擅に六部・大理寺の法状を退け及び妄りに更易有る者の罪を定む。辛卯、嶽鎮海瀆に報謝す。

六月壬辰の朔、兼官の俸給を罷む。壬寅、吏目移転の法を行うを復す。乙巳、初めて中溜を祭る。戊申、惠・川・高三州、秀岩・灤陽・徽川・咸甯・金安・利民の六県、及び北京の宮苑使を罷む。諸の群牧提挙、居庸・紫荊・通会の三関使、西北路鎮防の十三千戸、諸路の医学博士を罷む。壬子、司天臺の長行張冀『天象伝』を進む。

秋七月丁卯、盗賊を申報する制を定む。戊辰、衍慶宮に朝献す。庚午、望京甸に幸す。壬申、萬甯宮に如く。甲戌、限銭法を罷む。甲申、鎬王永中を威州に改葬す。

八月、大理丞姬端修・司直溫敦按帶、知大興府事紇石烈執中を論奏し、言う所当たらずに坐し、各々一官を削り、職を罷む。丁酉、尚書右丞相宗浩を以て左丞相と為し、右丞僕散揆を平章政事と為し、参知政事孫即康を尚書右丞と為し、御史大夫僕散端を左丞と為し、吏部尚書獨吉思忠を参知政事と為す。庚子、詔して完顏綱・喬宇・宋元吉等に陳言の文字を編類せしむ、其の言宮庭に渉るもの、若し大臣・省台・六部は、各々類を以て従い、凡そ二千巻。辛丑、西京留守崇肅を以て御史大夫と為す。癸卯、閣門祗候の出職格を更定す。先ず旱天を以て詔して直言を求む。是に至り尚書省奏す:「河南府盧顯達・汝州王大材の陳ずる所、言不遜に渉る、請う情理切害を以て其の罪を論ず。」之に従い、仍て遍く中外に諭す。諸路の学校の生徒少なき者は教授を罷め、止だ本州・府の文資官を以て之を提控せしむ。丁未、安州軍事判官劉常の言を以て、諸の按察司体訪実ならず、輒ち糾劾を加うる者は、故に出入人罪を論ずるに従い、仍て停勒す。若し事私曲に渉れば、各々本法に従う。辛亥、宮に還る。乙卯、知真定府事完顏昌等を以て賀宋生日使と為す。丁巳、太極宮に幸す。囲場の遠地の禁を弛め、民に耕捕樵采を縦す。教坊の長行五十人を減じ、渤海教坊の長行三十人を減じ、文繡署の女工五十人を減ず。宮女百六十人を出す。

九月庚申の朔、天寿節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。丙寅、薊州の秋山に如く。壬申、屯田戸の自種及び租佃の法を定む。

冬十月甲午、私鹼の法を定む。丙申、詔して親軍三十五以下に『孝経』・『論語』を習わしむ。癸卯、秋山より至る。甲寅、提点尚衣局完顏燮を以て夏国生日使と為す。

十一月丁卯、殿前右副都点検烏林答毅等を以て賀宋正旦使と為す。癸酉、木氷す、凡そ三日。丁丑、承応人を収補する格を定む。

十二月己丑の朔、新平等県に虸蚄蟲生ず。己亥、左丞相宗浩等、上尊号を請う。許さず。辛丑、陝西・河南の饑民の鬻ぐ男女を、官を以て之を贖わしむるを敕す。乙卯、百官再び表を上して尊号を受くるを乞う。許さず。

五年春正月己未の朔、大雪。宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。庚申、衍慶宮に謁す。乙丑、太極宮に幸す。丁卯、光春宮に如きて春水を行う。壬申、衍慶宮に朝献す。乙亥、有司に詔す:「泰和三年より郡県三たび行幸し、民嘗て供億せし者より、今年の租税の半を賜う。」丁丑、州に次ぐ。山東・河北の軍夫を調発して漕渠を改治せしむ。

二月己丑朔(一日)、按察司に諭して曰く、「近時の制度は、鎮静にして大體を知るを称職とし、苛細にして大體に暗きを不称とす。これにより諸路の按察は因循を事とし、挙刺を思うこと莫く、郡縣は貪黜を相尚え、畏戢すること能わず。今より若し糾察実を得て、民に冤滯無く、能く一路を鎮静せしむる者は称職とす。其れ或いは煩紊して民をして伸訴を得しめざる者は、是れ曠廢なり」と。癸巳、鞫勘官の飲宴を受くる者の罪を定む。己亥、建春宮に如く。甲寅、盗用及び偽造の都門契の罪を制し、宮城門より一等を減ずるに視る。

三月庚申、宮に還る。癸亥、両税の輸限を更めて定む。乙丑、宋兵秦川界に入る。庚午、親王・百官尊号を上るを請う、許さず。甲戌、有司に諭し、進士の名に孔子の諱に犯す者有らば之を避けしめ、仍って令と為すを著す。諸寺に米を給し、十月十五日より次年正月十五日に至るまで糜を作りて以て貧民を食わしむるを命ず。戊寅、獄空銭を罷む。辛巳、宋失って鞏州来遠鎮に入る。唐州宋の諜者を得、韓侂胄兵を鄂・嶽に屯し、将に北侵を謀らんとすと言う。

四月戊子朔(一日)、萬甯宮に如く。癸巳、枢密院に命じ文を宋人に移し、誓約に依り新兵を撤し、境に入るを縦す毋からしむ。壬子、随路転運司及び府官の庫物を毎季検視する法を定む。

五月甲子、平章政事僕散揆を以て河南宣撫使と為し、諸道の兵を籍して以て宋に備う。癸酉、詔して遼東邑社の人数を定む。戊寅、検・知法の勒留格を更めて定む。己卯、慶甯宮に如く。司属丞の凡そ父母の喪に遭う者は卒哭の假を給するに止むるを制し、永制と為す。甲申、宋人漣水県に入る。

六月戊子、漣水県を復す。丁酉、本朝の婚禮を制定す。米麵を外界に入れて鬻ぐ法を更めて定む。己酉、鎮防軍の逃亡して辺事の失錯を致し、戸口を陷敗せしむる者の罪を制す。甲寅、詔して禮を拝するに本朝に依らざる者は罰す。諸大臣を召して宋に備うるの策を問う、皆設備して悪を養うを言と為す。上は南北和好四十餘年、民兵を知らず、先に発するを忍びず。

七月戊辰、錦屏山に如く。壬申、衍慶宮に朝献す。乙亥、宣撫使揆奸細の罪賞法を奏して定む。丙子、圍場に誤って中人を射る罪を定む。壬午、諸県の盗賊多く選注する所の巡尉を招く。

八月辛卯、詔して宣撫司を罷む。時に宋の殿帥郭倪・濠州守将田俊邁虹県の民蘇貴等を誘いて間と為し、河南の将臣も屡々諜を縦し、往々俊邁の賂に利し、反って遊説と為す。皆宋の戍を増すは、本他盜に虞うに在り、及び行台の建つを聞き、益々畏懾して備えを去る敢えずと言う。且つ兵皆白丁、自ら糧糒を裹き、窮蹙饑疫し、死者十二三、是れにより中外之を信ず。宣撫司宋の三省・枢密院及び盱眙軍の牒を以て来り上るも、又皆邊臣を鐫点するを辞と為す。宣撫使揆因りて司を罷むるを請い、之に従う。揆又臨洮・徳順・秦・鞏の新たに置く弓箭手を罷むるを奏す。

閏月乙卯朔(一日)、典衛司を罷む。丙子、宮に還る。

九月甲申朔(一日)、天壽節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。戊子、西北方黒雲の間に赤気有り火の色の如く、次いで西南・正南・東南路の方皆赤く、白気其の中を貫き、中夜に至り、赤気天に満ち、四更にして乃ち散ず。河南路統軍使紇石烈子仁等を以て賀宋生日使と為す。戊戌、宋兵三百比陽寺莊を攻め、副巡檢阿雷根寺家奴之に死す。甲辰、宋人黄澗を焚き、巡檢高顥を虜う。

冬十月庚申、刑部員外郎李元忠を以て高麗生日使と為す。丁丑、宋人比陽を襲う。唐州軍事判官撒睹之に死す。

十一月乙酉、宋人内郷に入り、洛南の固県を攻む。商州司獄壽祖丹河に追い至り、之を撃ち破る。己丑、太常卿趙之傑等を以て賀宋正旦使と為す。癸巳、山東食を闕き、錢三萬貫を賜いて以て之を賑う。乙未、初めて武挙格を定む。丁酉、詔して山東・陝西の帥臣士卒を訓練し、以て非常に備う。仍って銀十五萬兩を以て邊帥に分給し、民を募りて偵伺せしむ。復た武衛軍副都指揮使完顏太平・殿前右衛副将軍蒲察阿裏を邊に遣わし、其の入るを伺い、伏兵を以て之を掩う。戊戌、大雪、朝参を免ず。己亥、宮中の局・署承應の收補格を更めて定む。宋の呉曦衆を擁して興元に在り、関・隴を窺わんと欲し、皇甫斌益々兵を募りて淮北を擾し、掠る所の物即ち之を与え、自ら戦わしむ。

六年春正月癸未朔(一日)、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。丁亥、宋使陳克俊等朝辞す。御史大夫孟鑄を遣わし就館して克俊等に諭して曰く、「大定初、世宗皇帝宋に世々侄国たるを許し、朕遺法を遵守し、和好今に至る。豈図らんや爾国屡々盗賊有りて我が邊境を犯し、此を以て大臣を遣わし河南軍民を宣撫す。及び爾国の有司の公移を得るに、已に邊臣を罷黜し、兵卒を抽去せりと称す。朕方に天下を度と為し、小嫌を介さず、遂に宣撫司を罷む。未だ幾ばくもせず、盗賊前日に甚だしく、比来群臣屡々爾国の盟を渝つるを言と為す。朕惟うに和好歳久しく、委曲涵容す。恐らくは侄宋皇帝或いは未だ詳らかに知らざるかと。若し前の如く息まず、臣下或いは復た言わば、朕兼ねて生霊を愛すと雖も、事亦豈に終に已むる能わんや。卿等帰国し、当に朕意を以て具に之を言わん汝が主に」と。辛卯、衍慶宮に朝享す。丙申、宋興元守将呉曦兵を遣わし抹熟龍堡を囲み、部将蒲鮮長安ちょうあん之を撃ち走らせ、其の将を斬る。辛丑、保伍法を更めて定む。癸卯、初めて沿河の県官を以て兼ねて管勾漕河事と為し、州・府官を以て兼ねて提控と為す。丁未、春水に如く。庚戌、宋人撒牟穀に入る。陝西統軍判官完顏摑剌・鞏州兵馬鈐轄完顏七斤宋の西和州守将と境上に会するを約す。俄かに伏発ち、為に襲われ、木波部長趙彦雄等七人焉に死す。摑剌馬淖中に陷り、流矢に中り、七斤僅かに身を以て免る。

二月甲戌、御史中丞孟鑄言う、「提刑を改めて按察司と為し、又官を差し覆察せしむれば、権削げて望軽く、便ならず」と。参知政事賈鉉曰く、「按察司既に監察を差し体訪せしめ、復た官を遣わし之を覆察せしむるは、誠に繁冗なり。請う自今監察を差す時に即ち官を遣わし之と俱にせしめ、更に覆察せざらん」と。之に従う。

三月甲午、尚書省が奏上した。商州刺史烏古論袞州が、南兵と戦って戦死した押軍官の葬儀費用を請うたこと、また右振肅蒲察五斤の官職を遷すことを奏上した。いずれもこれに従った。明昌初年、五斤はかつて奉禦となり、山東に出使し、河間に至った。百姓が飢えているのを見て、ただちに提刑司に移文して倉を開きこれを賑済し、帰還して詳細に報告した。上は初め甚だ喜んだ。太傅徒単克寧が言うには、「陛下が大政を親しくされる始めに、近侍の者に権力を仮すべきではありません。専擅の罪を正すことを請います。」詔してこれを杖二十に処した。克寧がまたこれを言上したので、ついにこれを罷免した。後に上はこれを思い、泰州都軍から召して振肅とした。己亥、萬甯宮に行幸した。甲辰、尚書省に勅した。「祖父母・父母に侍養する者がなく、子孫が遠く遊び出て一年を経る者は、風化を甚だ傷つける。旧来に二年の徒刑の罪があるが、あまりに軽すぎるようである。前の律を考証し、再び議して奏聞せよ。」己酉、宋人が霊璧を攻め、南京按察使が行部して県に至ったが、民家に匿れて難を免れた。

四月丙辰、宋人が寿春を包囲した。寿春が亳に急を告げると、同知防禦使賢聖奴が歩騎六百を率いてこれに赴き、ついに退却させた。癸亥、尚書省が奏上した。「河南統軍司が言うには、統軍使紇石烈子仁らが厳整・閻忠・周秀らを襄陽に入らせ、敵の陰事を窺わせた。帰還して言うには、皇甫斌が兵四万を派遣して鄧を奪取しようと謀り、我が叛人田元を郷導とし、三万人を派遣して唐を奪取しようと謀り、張真・張勝を郷導とし、いずれも統領官を授けたので、備えを怠ることができない。そこで鄭・汝・陽翟の兵を昌武に集め、南京副留守兼兵馬副都総管紇石烈毅にこれを統率させ、亳・陳・襄邑の兵を帰徳に集め、河南路副統軍徒単鐸にこれを統率させ、自らは配下の兵を率いて汴に駐屯した。また山東東・西路の軍七千を擬して統軍紇石烈執中に付し大名に駐屯させ、河北東・西路の軍一万七千を河南に駐屯させ、いずれも馬を与え、老弱者があればその者を交代させた。」いずれもこれに従った。甲子、宋人が天水界を攻め、乙丑、東柯谷に入ったが、部将劉鐸がこれを撃破した。丙寅、詔して平章政事僕散揆に行省を汴に置かせ、便宜処置を許した。諸道の統軍司を兵馬都統府に昇格させ、山東東・西路統軍使紇石烈執中を山東西路兵馬都統使とし、定海軍節度使・副都統軍使完顔撒剌をその副とし、陝西統軍使充を陝西五路兵馬都統使とし、通遠軍節度使胡沙・知臨洮府事石抹仲溫をその副とした。河南は従来通り揆の節制を聴くこととした。諸道の籍兵をことごとく徴発した。辛未、宋の呉曦が来遠鎮の蘭家嶺を攻めた。丙子、内外の職官に命じて馬を納めさせ、それぞれ定数があった。丁丑、宋人が新息・内郷に入り、また泗州に入った。戊寅、褒信に入った。己卯、虹県に入った。庚辰、潁上に入った。

五月壬午、宋の李爽が寿州を包囲し、田俊邁が蘄県に入り、秦詵が蔡州を攻めた。防禦使完顔佛住がこれを破った。また金城海口に入り、長山尉を殺し、二巡検を捕らえて去った。甲申、太白星が昼間に現れた。丙戌、宋が盟約に背いて出兵したことを以て、天地・太廟・社稷に告げた。丁亥、親しく衍慶宮に告げた。戊子、平章政事僕散揆を左副元帥兼ねさせ、陝西兵馬都統使充を元帥右監軍とし、知真定府事烏古論誼を元帥左都監とした。辛卯、南征を以て中外に詔した。唐州刺史吾古孫兀屯・総押鄧州軍馬事完顔江山に爵各二級を賜い、蔡州防禦使完顔佛住に爵一級を賜い、その他賞賜に差等があった。また厳整が上変しなければ必ず誤らされるところであったとして、整を嵩州巡検使に任じ、爵八級・銭二百万を賜った。上は宋兵の勢いが盛んなこと、東北から新たに徴発した兵が未だ集まらず、河南の兵衆では支えきれないと考え、河北・大名・北京・天山の兵一万五千に命じて真定・河間・清・献などに駐屯させて応援とした。壬辰、尚書省に諭した。「今、国家に多事あり、凡そ軍国の利害を言う者は、五品以上の官は順次奏陳し、朕が親しくこれを問う。六品以下の者は則ち帖子を具して進上せよ。」癸巳、山東路に災害があり、死罪以下を赦した。枢密副使完顔匡を右副元帥とした。宋の田俊邁が宿州を攻めると、安国軍節度副使納蘭邦烈らが出兵してこれを撃った。邦烈は流れ矢に当たり、宋の郭悼・李汝翼が大軍を率いて続いて到着し、ついに宿州を包囲した。壬寅、納蘭邦烈らがこれを撃破し、俊邁は蘄に退いて守った。癸卯、蘄において俊邁を捕らえた。甲辰、皇甫斌が唐州を攻めると、刺史吾古孫兀屯がこれを防いだ。行省が泌陽副巡検納合軍勝を派遣して来援させ、ついにこれを撃破した。庚戌、太白星が天を経た。

六月辛亥朔、左丞僕散端が母の喪により罷免された。平章政事揆が蘄の捷報を報告し、併せて捕獲した宋将田俊邁を闕下に送った。上は詔を下して褒め諭し、紇石烈貞・納蘭邦烈・史扢搭らに爵賞を賜い差等があった。宋将李爽が兵を率いて寿州を包囲すると、刺史徒単羲が防ぎ守り、一月を過ぎても陥落させることができなかった。壬子、河南統軍判官乞住及び買哥らが兵を率いて来援し、羲が出兵してこれに応じ、爽は大敗し、同知軍州事蒲烈古が流れ矢に当たって死んだ。乙卯、初めて急遞鋪を設置し、腰鈴を以て転送し、日に三百里を行き、軍期・河防でなければ馬を起すことを許さなかった。軍前における差発の贓罪を受けることを定めた。飛蝗が国境に入り、たとえ苗稼を損なわなくても罪に坐する法を除いた。丁巳、彰徳府に詔し、宋の韓侂冑の祖父韓琦の墳墓を損壊してはならず、なお樵採を禁じた。庚申、右翼都統完顔賽不が溱水において宋の曹統制を破った。辛酉、有司に詔し、宋の宗族の居住する所を、それぞれ具して奏聞せよ。長官は常にこれを提控せよ。壬戌、平章政事揆が寿州の捷報を報告した。戊辰、詔して寿州を防禦に昇格させ、今年の租税諸科名銭を免じ、死罪以下を釈放した。徒単羲を防禦使とした。蒲烈古に昭勇大将軍を追贈し、銭三百貫を賜い、その子図剌に官職を与えた。乞住を同知昌武軍節度使事に抜擢し、買哥を河南路統軍判官とした。都統賽不・副統蒲鮮万奴に各々爵一級を進め、金幣を賜い差等があった。辛未、木星が昼間に現れ、七月戊申に至るまで天を経た。乙亥、宋の呉曦が塩川を攻めたが、戍将完顔王喜がこれを破った。

秋七月癸未、宋の商榮がまた東海を攻めたが、県令完顔卞僧がまたこれを破った。帰還の途中、伏兵の矢に当たって死んだので、海州刺史を追贈し、銀五百両・絹百匹をその家に給し、なおその一子に官職を与えた。甲申、衍慶宮に朝献した。丁亥、翰林直学士陳大任に勅し、本職を妨げず専ら『遼史』を修撰させた。甲午、宋の統制戚春が舟師を率いて邳州を攻めたが、刺史完顔従正がこれを破り、春は水に赴いて死に、その副将夏統制を斬った。呉曦の兵五万が秦州に入ったが、陝西路都統副使承裕らがこれを破った。丙申、夏国王李純佑が廃され、甥の安全が立ち、使者を派遣して表を奉じて来告した。詔して馬を外境に売ることを禁じ、ただ国境に至って売ろうとして捕らえられた者は即ち死罪に論ずることとした。

八月庚戌、山東の帥が邳州の捷報を報告した。辛亥、木星が朝に現れた。乙卯、羌の酋長青宜可を壘州副都総管とした。己未、太白が昼間に現れた。丙寅、左丞僕散端が前職に復帰した。平南諸将軍を設置する詔を下した。辛未、宋の程松が方山原を襲撃して奪取したが、蒲察貞がこれを撃破して退けた。壬申、太白が昼間に現れ、天を経過した。甲戌、万寧宮より帰還した。乙亥、唐・鄧・潁・蔡・宿・泗の六州を赦し、来年の租税の三分の一を免除した。

九月己卯朔、天寿節、高麗が使者を遣わして来賀した。辛巳、元帥右都監蒲察貞が和尚原を奪取し、臨洮の蕃部遵寧が芻粟・戦馬を献じて軍を助けた。乙酉、五鼓のころ、北方に赤白の気数道あり、王良の下より起こり、北斗の開陽・揺光の東に至るまで行った。丙戌、香山に行幸した。庚寅、行尚書省に勅し、方略衆に抜きん出で、武藝絶倫、才幹事を弁じ、工巧人に過ぐる者あれば、これを招選すべしとした。甲午、参知政事賈鉉が致政を乞うたが、許さなかった。戊戌、尚書左丞僕散端が汴に行省した。己亥、尚書戸部侍郎梁鏜が山東において六部尚書事を行った。辛丑、尚書左司郎中温蒂罕思敬を遣わして李安全を夏国王に冊封した。甲辰、宋の呉曦の将馮興・楊雄・李圭らが秦州に入ったが、陝西都統副使承裕らがこれを撃破し、楊雄・李珪を斬った。

冬十月戊申朔、平章政事僕散揆が諸道の兵を督して宋を伐った。庚戌、揆は行省兵三万を率いて潁・寿より出撃し、河南路統軍使紇石烈子仁は兵三万を率いて渦口より出撃し、元帥匡は兵二万五千を率いて唐・鄧より出撃し、左監軍紇石烈執中は山東兵二万を率いて清口より出撃し、右監軍充は関中兵一万を率いて陳倉より出撃し、右都監蒲察貞は岐・隴兵一万を率いて成紀より出撃し、しょく漢路安撫使完顔綱は漢・蕃の歩騎一万を率いて臨潭より出撃し、臨洮路兵馬都総管石抹仲温は隴右の歩騎五千を率いて塩川より出撃し、隴州防禦使完顔璘は本部兵五千を率いて来遠より出撃した。甲子、近郊で狩猟した。

十一月戊寅朔、諸州府の物力差役の式を定める詔を下した。壬午、完顔匡が棘陽を攻め落とした。乙酉、屯田軍戸が居住する民と婚姻することを聴許する詔を下した。丁亥、僕散揆が安豊軍を攻略し、霍丘県を奪取した。紇石烈執中が淮陰を攻略し、ついで楚州を包囲した。己丑、尚書省が奏上し、朝官及び承応人の月俸折支銭を減じた。庚寅、完顔匡が光化軍及び神馬坡を攻略した。壬辰、僕散揆が盧江に駐屯した。宋の督視江淮兵馬事丘灊が劉祐を遣わして和を乞うた。紇石烈子仁が定遠県を攻略した。乙未、完顔匡が随州を奪取した。丙申、紇石烈子仁が滁州を攻略した。戊戌、諸路で小鈔を用いる詔を下した。完顔匡が徳安を包囲し、別に兵を以て安陸・応城・雲夢・孝感・漢川・荊山等の県を巡行して降した。庚子、日が傾き、流星二つあり、光芒炬の如く、ほぼ一丈に及び、東北より起こり東南に没した。初めて茶禁を定めた。完顔綱が祐州を包囲し、これを降した。宋の丘灊が林拱を遣わし書を持たせて和を乞うた。辛丑、完顔匡が襄陽を攻撃し、その外城を破った。僕散揆が含山を攻略し、蒲察貞が天水を攻略し、紇石烈子仁が来安・全椒の二県を巡行して降した。壬寅、完顔綱が荔川・閭川等の城を巡行して降した。癸卯、丘灊がまた宋顕等を遣わし書幣を持たせて和を乞うた。乙巳、完顔綱が宕昌を攻略した。丙午、蒲察貞が西和州を攻略した。

十二月丁未朔、完顔匡が宜城を攻略し、僕散揆が和州を攻撃したが、史乂搭が流れ矢に当たって死んだ。壬子、完顔綱が大潭県に駐屯し、これを降した。蒲察貞が成州を攻略した。癸丑、宋の太尉・昭信軍節度使・四川宣撫副使呉曦が完顔綱に帰順を申し出た。戊午、右監軍充が大散関を攻め落とした。己未、紇石烈子仁が真州を攻略し、丘灊がまた陳璧等を遣わし書を奉じて和を乞うた。辛酉、右監軍充が兀顔抄合を遣わし兵を率いて鳳州に向かわせたところ、城は潰えてこれに入った。完顔綱が京兆録事張仔を遣わし、興州の置口において呉曦と会見させた。曦は帰朝する所以の意を詳しく述べ、仔は告身を以て報とすべく請うたので、ことごとく出してこれに与え、さらに階州を献じた。乙丑、初めて都提控急遞鋪官を設置した。平章政事僕散揆が班師した。完顔綱が朝命を以て、太倉使馬良顯に仮に詔書・金印を持たせ、呉曦を蜀王に立てさせた。戊辰、蒲察貞が西和・天水等の捷報を報告した。完顔匡が掠めた女子百人を進上した。己巳、曦がその果州団練使郭澄・提挙仙人関使任辛を遣わし、表及び蜀地図志・呉氏譜牒を奉じて来上した。壬申、完顔匡に尚書右丞を権行し、行省事・右副元帥はもと通りとする詔を下した。紇石烈執中が部下を放任して掠奪させたため、近臣を遣わしてその経歴阿裏不孫等を杖罰し、なお詔して掠めたものを還すべしとした。

七年春正月丁丑朔、高麗・夏が使者を遣わして来賀した。完顔匡が襄陽を攻撃した。戊寅、宰臣に材幹の官を挙げて南征の事を同議するよう勅した。辛巳、御史大夫崇肅・同判大睦親府事徒単懐忠・吏部尚書范楫・戸部尚書高汝礪・礼部尚書張行簡・知大興府事温蒂罕思斉等十四人を慶和殿において同対せしめる詔を下した。壬午、百官及び前の十四人を広仁殿において同対せしめる詔を下した。甲申、衍慶宮において朝献した。乙酉、故寿州死節の軍士魏全に宣武将軍・蒙城令を追贈し、その妻を郷君に封じ、子は年十五に至るを俟って八貫石正班局分承応に収充し、なお銭百万を賜った。初め、李爽が寿州を包囲したとき、刺史羲が人を募って敵営を斬りに行かせたところ、全は選中にあり、敵に捕らえられた。敵は羲を罵れば免ずと命じたが、全は陽に許し、城下に至ると、反って敵を罵り、ついにこれを殺された。死に至るまで罵声絶えず、故にこの恩典があった。戊子、完顔綱を召して闕に赴かせた。庚寅、僕散揆が下蔡に還り駐屯して病んだ。丙申、左丞相宗浩を兼ねて都元帥とし、南京に行省して揆に代わらせた。己亥、有司が茶禁を更定することを奏上した。辛丑、完顔匡が穀城を奪取した。

二月丙辰、鳳・成・西和・階・山の五州を赦した。丁巳、永中・永蹈の王爵を追復する詔を下した。宋の知枢密院張厳が方信孺を遣わし書を持たせて平章政事揆・左丞端のもとに赴き和を乞うた。己未、近郊で狩猟した。完顔匡が荊門軍を攻略した。癸亥、建春宮に行幸した。呉曦が使者を遣わし三表を奉じて来た。封爵を謝し、誓言を陳べ、全蜀の内附を賀するものである。丙寅、宮に還った。戊辰、平章政事兼左副元帥僕散揆が軍中で薨去した。癸酉、同知府事朮虎高琪等を遣わし呉曦を蜀国王に冊封した。判平陽府事衛王永済を武定軍節度使に改め、兼ねて奉聖州管内観察使とした。この月、蜀国王呉曦が宋の臣安丙に殺された。

三月戊子、太極宮に幸す。庚寅、陝西の軍士を撫でることを詔す。壬辰、初めて蝗虫が発生した土地の主及び隣接する主の首が申告しなかった罪を定む。宋が再び階州を攻め破る。癸巳、再び西州を攻め破る。乙未、宣撫副使完顔綱が鳳翔に至り、五州の兵を撤収し要害を分かち守ることを詔し、綱は諸軍を召し還す。庚子、完顔匡を左副元帥と為す。壬寅、萬甯宮に如く。甲辰、西園に幸す。

夏四月壬子、宮籍副監楊序を遣わして横賜高麗王使と為す。癸丑、宋人が散関を攻め破り、鞏州鈐轄兀顔阿失死す。丙辰、紇石烈子仁を右副元帥と為す。戊辰、元帥府に詔して諸将を分遣し淮南諸州を遊奕せしむ。癸酉、再び散関を下す。

五月己卯、東園に幸し柳を射る。己丑、玉泉山に幸す。丙申、宋の知枢密院事張厳が再び方信孺を遣わし書を以て都元帥府に至り、歳幣を増やして和を乞う。四川安撫使安丙が西和州安撫使李孝羲を遣わし歩騎三万を率いて秦州を攻め、皁角堡を囲む。朮虎高琪が兵を以てこれに赴き、七戦してその囲みを解く。是の月、宮女二十人を放つ。

六月乙巳朔、朝官六品・外官五品以上及び親王に詔し、通銭穀官一人を挙げしむ。挙げざる者は罰し、挙げて当たらざる者は律の如く論ず。己酉、山東の盗賊に因り、同党が自ら殺害捕縛し出首する官賞法を制す。戊午、烏古論誼を元帥左監軍と為し、完顔撒剌を元帥左都監と為す。乙丑、使者を遣わし蝗を捕えしむ。

秋七月庚辰、衍慶宮に朝献す。壬午、民間の交易・典質において、一貫以上は全て交鈔を用い、銭を用いるなからしむることを詔す。乙酉、尚書省に勅す:「今より初めて監察を受くる者に利害の帖子を進めしめ、以て召見を待たしむ。」甲午、左副元帥匡が許州より至る。乙未、西夏の人口を核実し、全て贖い放還すべし、敢えて蔵匿する者は違制を以て論ずることを詔す。

八月戊申、宋の張厳が再び方信孺を遣わし、その主の誓書草稿を齎して来たり和を乞う。庚戌、汝州襄城県を許州に割く。戊辰、萬甯宮より至る。

九月甲戌朔、天寿節、高麗・夏が使者を遣わし来賀す。左丞相兼都元帥宗浩、軍中に薨ず。甲申、定西・北京、遼東の塩司判官諸場管勾の増減升降の格を定む。尚書左丞僕散端を平章政事と為し申国公に封じ、左副元帥完顔匡を平章政事兼左副元帥と為し定国公に封ず。丙戌、近郊に狩す。壬辰、宮に還る。戊戌、制を受けて忘誤し及び誤って制書を書き事重きは加等の罪を更めて定む。壬寅、女直人は漢姓に改め及び南人の装束を学ぶべからざることを勅す。

冬十月甲辰、廕を受くべきの家に詔し、傍正の廕足るれば、その正廕の者未だ官に出でずして亡きは、一人を補廕することを許す。辛亥、武庫令朮甲法心を高麗生日使と為す。丙辰、近郊に狩す。己巳、軍に随い遷賞する格を定むることを詔す。辛未、陝西宣撫使徒単鎰が副統把回海を分遣し蘇嶺関を攻め下す。是の月、南征将士の功賞格を定む。

十一月癸酉、新たに定めた学令の内より薛居正の『五代史』を削り去り、只だ欧陽修の撰する所を用いることを詔す。是の日、都統押剌が鶻嶺関・新道口を取り、副統回海が小湖関・敖倉を取り、進んで営口鎮に至り、遂にその城を取る。丙子、宋の韓侂冑が左司郎中王柟を遣わし書を以て来たり和を乞い、伯と称することを請い、再び歳幣・犒軍銭を増やし、蘇師旦を誅しその首を函に収めて献ぜんとす。丙戌、上、陝州防禦使紇石烈孛孫が民の糶を禁ずるを聞き、尚書省に命じてこれを罪せしむ。壬辰、宋の参知政事銭象祖が韓侂冑を誅するを以て行省に書を移す。甲午、近郊に狩す。戊戌、参知政事賈鉉罷む。完顔匡に詔して宋に檄し、侂冑の首を函に収めて以て淮南の故地を贖わしむ。

十二月壬寅朔、『遼史』成る。丙午、符宝郎烏古論福齢を夏国生日使と為す。戊午、策論進士の弓箭・撃球の試験を免ずることを詔す。庚申、尚書右丞孫即康を左丞と為し、参知政事獨吉思忠を右丞と為し、中都路都転運使孫鐸を参知政事と為す。

八年春正月辛未朔、高麗・夏が使者を遣わし来賀す。壬申、衍慶宮に朝謁す。癸酉、大鈔を収め毀ち、小鈔を行ふ。元帥左都監完顔撒剌を参知政事と為す。乙亥、宋の安丙が兵を遣わし鶻嶺関を襲わしむ、副統把回海・完顔摑剌これを撃ち走らせ、その将景統領を斬る。丙子、左司郎中劉昂・通州刺史史粛・監察御史王宇・吏部主事曹元・吏部員外郎徒単永康・太倉使馬良顕・順州刺史唐括直思白が蒲陰令大中と私に朝政を議するに坐し、皆これを杖す。癸未、春水に如く。丙戌、光春宮に如く。

二月乙巳、宋の参知政事銭象祖が王柟を遣わし来たり、書を以て行省に上り、再び川・陝の関隘を請う。甲寅、建春宮に如く。庚申、有司に諭して曰く:「方に農作の時なれば、禁地に在りと雖も亦た耕種せしむべし。」己巳、宮に還る。

三月丁亥、瀛王の第に幸し疾を視る。庚寅、宋と和するに因り、尚書省に諭す。壬辰、宰臣上表して罪を謝す。甲午、瀛王従憲薨ず。乙未、上親しく臨み祭る。

夏四月癸卯、日暈三重、皆内黄外赤。戊申、太廟に禘す。庚戌、萬甯宮に如く。甲寅、北辺に事無きを以て、尚書省に勅す:「東北路招討司に命じて還り泰州を治めしめ、就いて節度使を兼ねしむ、その副招討は仍く辺に置く。」有司に詔諭して曰く:「苗稼方に興るを以て、宜しく速やかに官を遣わし分道して農事を巡行し、以て蝗虫に備うべし。」猛安謀克の承襲程試の格を更めて定むることを詔す。宋の銭象祖が再び王柟を遣わし書を以て行省に上る。庚申、諸路按察司の歳公用銭を詔す。

閏月辛未、尚書省に諭して曰く:「翰林侍請学士蒲察畏也言う、宋に使する官は当に人を選ぶべし、その言甚だ当たり。彼の通謝使は未だ闕に到らざるも、その報聘人は当に行い議択すべし。此れ乃ち更始にして、凡そ礼数有るは、皆奉使に在り。今既に行われ、遂に永例と為る、慎しまざるべからざるなり。」甲戌、諸州府司県の造作は、諸色の人匠を役することを得ざるを制す。違う者は私役の律に准じ、備を計りて以て監臨の財物を受くるを論ず。甲申、承応人の収補年甲の格を定む。甲午、雹ふる。保甲軍が南軍の官を殺獲する賞を定む。乙未、宋、韓侂冑等の首を元帥府に献ず。

五月丁未、応天門に臨み、横麾立杖を備え、親王文武の合班に起居せしむ。中路兵馬提控・平南撫軍上將軍紇石烈貞、宋の賊臣韓侂冑・蘇師旦の首級を以て献じ、並びに元帥府の露布を奉じて聞かしむ。その首級並びに画像を市に懸け、露布を中外に頒布す。丙辰、平章政事匡、軍より至る。己未、元帥府を改めて樞密院と為す。癸亥、詔して天壽節を十月十五日に移す。丁卯、使者を遣わし分路して蝗を捕えしむ。

六月癸酉、宋の通謝使朝議大夫・試禮部尚書許奕、福州觀察使・右武衛上將軍呉衡等、その主の書を奉じて入見す。甲戌、衍慶宮に謁謝す。癸未、宋の平定を許すを以て、中外に詔す。河南・山東・陝西等六路の今年の夏税を免じ、河東・河北・大名等五路はその半を免ず。丁亥、元帥左都監烏古論誼を以て御史大夫と為す。戊子、飛蝗京畿に入る。乙未、服飾の明金象金の制を定む。丁酉、左副都點檢完顔侃を以て宋諭成使と為し、禮部侍郎喬宇之を副えしむ。

秋七月戊戌朔、太白昼に見ゆ。庚子、詔して蝗蟲生発の坐罪法を更定す。乙巳、衍慶宮に朝献す。詔して『捕蝗図』を中外に頒布す。戊申、宋使朝辞し、答通謝書及び誓書を宋主に致す。

八月壬申、遼東行の鈔法を更定す。癸酉、建春宮に如く。己丑、戸部尚書高汝礪等を以て宋生日使と為す。庚寅、秋山に如く。

九月甲子、吏部尚書賈守謙等一十三人を遣わし、諸路の按察司官と共に民戸の物力を推排せしむ。乙丑、秋山より至る。

冬十月辛未、吏部郎中郭郛を以て高麗生日使と為す。辛巳、宋・高麗・夏、使者を遣わし来賀す。夏国に兵有り、使者を遣わし来告す。癸未、安泊強窃盗の罪格を更定す。辛卯、軍民共に誉むるを以て廉能官の条を善最法に附す。

十一月丁酉朔、詔して諸路の按察使並びに転運使を兼ねしむ。初めて三司使を設け、塩鉄・度支・勧農事を掌判せしむ。樞密使紇石烈子仁を以て三司使を兼ねしむ。癸卯、詔して尚書省を戒諭して曰く、「国家の治は、紀綱に在り。紀綱の先とする所は、賞罰必ず信なるに在り。今乃ち上は省部の重より、下は司県の間に逮ぶまで、律度に循わず、私懐自便なり。遷延して歳を曠し、苟且にして風を成し、此れを習うて恒と為し、何に従って理を致さんや。朝廷は百官の本、京師は諸夏の儀なり。其れ今より勖めよ、各おの已往を懲らし、縄に遵い法を奉じ、力を竭くして功に赴かしめよ。枉げ撓げて情に循い、依違して勢を避くること無く、一に正に帰し、以て乃ち民を範とせよ。」是の日、臨武殿に臨み護衛を試む。丁未、臨潢泰州路兵馬都総管承裔等に勅諭して辺備を修めしむ。

乙卯、上豫せず。丙辰、福安殿に崩ず。年四十一。大安元年春正月、諡して憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝と曰し、廟号を章宗とす。二月甲申、道陵に葬る。

賛に曰く、章宗在位二十年、世宗の治平を承くること久しく、宇内小康なり。乃ち礼楽を正し、刑法を修め、官制を定め、典章文物燦然として一代の治規を成す。又た数たび群臣に漢宣の名実を綜核し、唐代の考課の法を問う。蓋し遼・宋を跨ぎて漢・唐に比跡せんと欲するなり。亦た謂うべし、治に志有る者と。然れども婢寵朝を擅にし、塚嗣未だ立たず、宗室を疏忌して伝授人に非ず。向に所謂維持鞏固を久遠にせんとする者は、徒らに文具と為りて、後世の子孫の一日の用と為すを得ず。金源氏此より衰う。昔揚雄氏に云えり、「秦の有司は秦の法度に負い、秦の法度は聖人の法度に負う」と。蓋し以て然る有らん。