金史

列傳第六十四: 文藝下 趙渢 周昂 王庭筠 劉昂 李經 劉從益 呂中孚・張建 李純甫 王郁 宋九嘉 龐鑄 李獻能 王若虛 王元節 孫國綱 麻九疇 李汾 元德明

列傳第六十四 文藝下 ○趙渢 周昂 王庭筠 劉昂 李経 劉從益 呂中孚・張建 李純甫 王郁 宋九嘉 龐鑄 李獻能 王若虛 王元節 孫國綱 麻九疇 李汾 元德明(子 元好問)

趙渢

趙渢、字は文孺、東平の人である。大定二十二年の進士となり、礼部郎中に至った。性格は淡泊で、学道して得るところがあった。特に書をよくし、自ら「黄山」と号した。趙秉文は言う、「渢の正書は顔真卿と蘇軾の体を兼ね、行草は諸家の体を備え、その超放はまた楊凝式に似て、蘇軾・黄庭堅の伯仲の間に位置すべきである」と。党懐英の小篆は、李陽冰以来及ぶ者が稀であったが、当時の人は渢をこれに配し、「党趙」と号した。『黄山集』が世に行われている。

周昂

周昂、字は徳卿、真定の人である。父の伯祿は字を天錫といい、大定の進士で、同知沁南軍節度使に至った。昂は二十四歳で及第した。南和の主簿に任じられ、異政があった。良郷の令に遷り、召されて監察御史に拝された。路鐸が言事により排斥されたとき、昂は詩を送り、言葉が誹謗に及んだため、罪に坐して選任を停められた。久しくして、隆州都軍として起用され、辺功により再び召されて三司の官となった。大安の兵が起こると、権行六部員外郎を務めた。

その甥の王若虚はかつて昂に学び、昂はこれを教えて言った、「文章が外に巧みで内に拙いものは、四筵を驚かすことはできても独坐に適することはできず、口称を得ることはできても首肯を得ることはできない」と。また言った、「文章は意を主とし、言語を役とす。主強くして役弱ければ、令に従わざるはない。今の人は往々にしてその役を驕らせ、跋扈して制し難きに至り、甚だしきは反ってその主を役する。極めて辞語の工を尽くすとも、豈に文の正なることがあろうか」と。

昂は孝友を尽くし、名節を喜び、学術は醇正で、文筆は高雅であり、諸儒は皆これを師尊した。既に台省を歴たが、人に排擠され、ついに詩の罪に坐し、東海の地に十数年謫居した。初めて翰林に入り、言事はますます切直であった。三司を佐けるために出ることは好むところではなく、宗室承裕の軍に従った。承裕が利を得ず、上谷に跳走すると、衆は直ちに帰ろうとしたが、昂ひとり従わず、城が陥落し、その従子の嗣明とともに難に死んだ。嗣明は字を晦之という。

王庭筠

王庭筠、字は子端、遼東の人である。生まれて一年に満たず、書を見て十七字を識った。七歳で詩を学び、十一歳で全題を賦した。稍々長ずると、涿郡の王翛が一見して、国士と期した。大定十六年の進士に及第した。恩州軍事判官に任じられ、政に臨むや早くも名声があった。郡民の鄒四という者が不軌を謀り、事が覚ると、千余人を逮捕したが、鄒四は竄匿して得ることができなかった。朝廷は大理司直の王仲軻を遣わしてその獄を治めさせたが、庭筠は計略をもって鄒四を獲、誤って連座した者を分別し、預謀に坐した者は十二人だけであった。再び館陶の主簿に任じられた。

明昌元年三月、章宗は学士院に諭旨して言った、「王庭筠の試した文は、句が長すぎる。朕はこれを喜ばず、また四方がこれを倣うことを恐れる」と。また平章の張汝霖に謂って言った、「王庭筠の文芸は頗る佳いが、語句が健やかでない。その人の才は高く、改めることも難しくないであろう」と。四月、庭筠を召して館職を試させ、中選した。御史台が言うには、庭筠は館陶において嘗て贓罪を犯したことがあり、館閣に処すべきではないと、遂に罷免された。そこで彰徳に居を卜し、隆慮に田を買い、黄華山寺で読書し、因って自ら号とした。この年十二月、上は学士について語り、その人材の乏しさを歎いた。参政の守貞が言った、「王庭筠がその人です」と。三年、応奉翰林文字に召され、秘書郎の張汝方とともに法書・名画を品第することを命じられ、遂に入品のものを五百五十巻に分けた。

五年八月、上は宰執を顧みて言った、「応奉の王庭筠を、朕は詔誥を委ねようと思う。その人材もまた豈に易く得られようか。近ごろ党懐英が『長白山冊文』を作ったが、甚だ工ならず。聞くところでは文士は多く庭筠を妬み、その文を論ぜず、かえって行いを誹るという。大抵読書人は口頰が多く、あるいは徒党を組む。昔、東漢の士が宦官と分朋したのは、固より怪しむに足らぬ。唐の牛僧孺・李徳裕、宋の司馬光・王安石の如きは、皆儒者であるのに、互いに排毀するのは何故か」と。遂に庭筠を翰林修撰に遷した。

承安元年正月、趙秉文の上書の事に坐し、一官を削られ、六十の杖を受け、職を解かれた。語は秉文伝にある。二年、鄭州防禦判官に降授された。四年、応奉翰林文字として起用された。泰和元年、再び翰林修撰となり、秋山に扈従し、応制して詩三十余首を賦し、上は甚だこれを嘉した。明年、卒した。年四十七。上は平素よりその貧しさを知っており、詔して有司に命じ、賻銭八十万を給して喪事に充てさせ、生前の詩文を求めて秘閣に蔵めた。また御製の詩をその家に賜り、その引に言う、「王遵古は朕の故人である。その子の庭筠は、また才をもって選ばれ、禁林に直ること首尾十年、今ここに亡ぶ。玉堂・東観に、再びこの人無し」と。

庭筠は儀表秀偉で、談笑を善くし、外見は簡貴のようであったので、人は初め敢えて接することができなかった。既に会えば、和気が顔の間に溢れ、殷勤に慰藉して及ばざるを恐れるほどであり、少しでも取るべきところがあれば極口に称道し、他日たとえ百回背かれても恨まなかった。従游する者は韓溫甫、路元亨、張進卿、李公度の如く、その薦引した者は趙秉文、馮璧、李純甫の如く、皆一時の名士であり、世は人を知ることを許した。文を作るに能く言わんとする所を道い、暮年は詩律深厳で、七言長篇は特に険韻を工とした。『藂辨』十巻、文集四十巻がある。書法は米元章に学び、趙渢・趙秉文とともに名家とされたが、庭筠は特に山水墨竹を善くした。

子の曼慶もまた詩と書を能くし、行省右司郎中に至り、自ら「淡遊」と号したという。

劉昂

劉昂、字は之昂、興州の人である。大定十九年の進士。曾祖父・高祖こうそ父以下七世にわたり科挙に及第した。昂は天資が聡明で悟りが早く、律賦は一家を成し、詩を作るには晩唐体を得て、特に絶句に巧みであった。李純甫の『故人外傳』によると、昂は早くに官途につき、三十三歳で尚書省掾となり、平涼路転運副使に転じた。時に術士が昂の官位は五品に止まると言ったが、昂は信じなかった。やがて母の喪により職を去り、十年間不遇が続き、洛陽らくように居を定めて終焉の志を抱いた。その才能を章宗に推薦する者があり、泰和の初め、国子司業から左司郎中に抜擢された。時に掌書の大中と賈鉉が除授の事を漏らしたため、言官に弾劾され、獄辞が昂に連座した。章宗は激怒した。一時の名士たる史粛・李著・王宇・宗室の従鬱らは皆譴責され追放され、鉉もまもなく政務を罷免された。昂は上京留守判官に降格され、赴任途中で卒去し、果たして術者の言の如くとなった。

李経

李経、字は天英、錦州の人である。詩を作るに極めて刻苦し、奇抜な語句を出すのを好み、前人を蹈襲しなかった。李純甫がその詩を見て曰く、「真に今世の太白なり」と。これにより名声大いに震う。再び挙げられて及第せず、衣を払って去った。南渡後、その郷里の将帥が朝廷に上表したところ、士大夫がこれを識って曰く、「これは天英の筆跡なり」と。朝議は武功をもってその州の倅に任じようとしたが、後に行方が知れず終わった。

劉従益

劉従益、字は雲卿、渾源の人である。その高祖父の捴は天会元年の詞賦進士で、子孫多く科第により官に入った。従益は大安元年の進士に及第し、累官して監察御史となったが、当路者と曲直を弁じて罪を得て去職した。久しくして起用され葉県令となり、学を修め俗を励まし、古の良吏の風があった。葉県は兵乱以来、戸数が三分の一に減り、不毛の田が一万七千余畝あるのに、その歳入は七万石のまま変わらなかった。従益は大司農に請うて一万石を減免させ、民は大いにこれを頼み、流亡より帰る者四千余家。未幾、召還されると、百姓は尚書省に赴き留任を乞うたが、聞き入れられなかった。入朝して応奉翰林文字を授けられたが、一月余りで病により卒去、年四十四。葉県の民はこれを聞き、端午に酒宴を止めて位牌を設けて哭し、かつ石碑を立てて徳を頌し、哀思を致した。

従益は博学強記で、経学に精しかった。文章は詩に長け、五言詩に特に巧みで、『蓬門集』がある。

子の祁、字は京叔。太学生となった。甚だ文名があった。金末の喪乱に値し、『帰潜志』を作って金朝の事を記し、『金史』の編修に多く採用された。

呂中孚 張建

呂中孚、字は信臣、冀州南宮の人。張建、字は吉甫、蒲城の人。ともに詩名があった。中孚に『清漳集』がある。建は明昌の初めに絳州教官を授けられ、召されて宮教・応奉翰林文字となった。老齢を理由に致仕を請うたが、章宗はその純朴な素質を愛し、去らせたくないと思い、同知華州防禦使を授け、なお詩を賜ってこれを寵した。自ら「蘭泉」と号し、文集が世に行われた。

李純甫

李純甫、字は之純、弘州襄陰の人。祖父の安上はかつて西京進士の魁となった。父の采は益都府治中で卒去した。純甫は幼少より異常に穎悟で、初め詞賦を学んだが、『左氏春秋』を読んで大いにこれを愛し、経義学に改めた。承安二年の経義進士に擢でられた。文章の法は荘周・列禦寇・左氏・『戦国策』に学び、後進多くこれを宗とした。また兵談を好み、慨然として経世の志を抱いた。章宗の南征に際し、二度上疏してその勝敗を献策し、上はこれを奇とし、軍中に送り届けさせたが、後多くその予測の如くであった。宰執はその文を愛し、翰林に推薦した。大元の兵が起こると、また上疏して時事を論じたが、報いられなかった。宣宗が汴に遷ると、再び翰林に入った。時に丞相の高琪が威福の権を擅にし、左司都事に抜擢されたが、純甫はその必ず敗れることを察し、母老を理由に辞去した。やがて高琪が誅されると、再び翰林に入り、連続して貢挙を掌った。正大の末、人材を取るに新格を超えたことで罪を得て、坊州の倅に出された。赴任せず、京兆府判官に改められた。汴において卒去、年四十七。

純甫は人となり聡敏で、少時よりその才能を自負し、功名は俯して拾うべしと謂い、『矮柏賦』を作り、諸葛孔明・王景略をもって自ら期した。小官より万言書を上奏し、宋を引き合いに出して証とし、甚だ切実であったが、当路者は迂闊として抑圧した。中年、その道の行われぬことを悟り、ますます酒に縦して自ら放縦し、仕進の意無し。官を得ても考課を成さず、直ちに帰隠した。日々禅僧・士子と交遊し、文酒を事とし、嘯歌し袒裼して礼法の外に出で、あるいは数ヶ月飲んで醒めぬこともあった。人が酒を以て招けば、貴賤を択ばず必ず往き、往けば輒ち酔い、たとえ深く酔っても未だ著書を廃したことはなかった。然れども晚年は仏を喜び、力を尽くしてその奥義を探った。自らその文を分類し、凡そ性理を論じ及び仏老の二家に関わるものを「内稿」と号し、その他の応物の文字を「外稿」とした。また『楞厳経』・『金剛経』・『老子』・『荘子』を解した。また『中庸集解』・『鳴道集解』があり、「中国の心学、西方の文教」と号した。数十万言に及び、この故をもって名教より貶せられたという。

王郁

王郁、字は飛伯、大興の人。体つきは魁偉で奇抜、眼光は鷹の如し。若くして釣台に住み、門を閉ざして書を読み、人事に接せず。久しくして、文章の法は柳宗元に学び、雄大にして奇古、動輒数千言に及ぶ。歌詩は俊逸、李白に倣う。嘗て『王子小伝』を作りて自らを叙す。天興初元、汴京囲まれし時、上書して事を言うも、報いられず。四月、囲み稍々解け、身を挺して突出すも、兵士に捕らえられる。その将は彼を甚だ厚く遇すも、鬱は行いに機防なく、その部下に忌まれ、殺さる。臨終、懐中より書を出して曰く、「是れ吾が平生の著述、中州の士大夫に伝え付けて曰え、王鬱死せりと。」年三十余。同時に詩を以て鳴る者は、雷琯・侯冊・王元粹など。

宋九嘉

宋九嘉、字は飛卿、夏津の人。人となり剛直豪邁、少くして太学に遊び、賦に能ありて声あり。長じて李純甫に従い書を読み、文に奇気あり、雷淵・李経と伯仲す。至甯元年進士に及第す。藍田・高陵・扶風・三水の四県令を歴任し、皆能ありと称せらる。入りて翰林応奉となる。正大中、疾を以て去る。癸巳の難に没す。

龐鑄

龐鑄、字は才卿、遼東の人。若くして第に擢でられ、仕えて声あり。南渡後、翰林待制となり、戸部侍郎に遷る。貴戚の家に遊びしに坐し、出でて東平に倅し、京兆路転運使に改め、卒す。博学能文、詩に工み、造語奇健凡ならず、世多くこれを伝う。

李献能

李献能、字は欽叔、河中の人。先世に金吾衛上将軍となれる者あり、時に「李金吾家」と号す。献能の昆弟に至りて皆文学を以て名あり、従兄の献卿・献誠・従弟の献甫相継いで第を擢で、故に李氏に「四桂堂」あり。

献能は苦学博覧、文において特に四六に長ず。貞祐三年、特賜詞賦進士、廷試第一人、宏詞優等。応奉翰林文字を授かる。翰苑に在ること凡そ十年、出でて鄜州観察判官となる。推薦者を用いて再び応奉となり、俄かに修撰に遷る。正大末、鎮南軍節度副使を以て河中帥府経歴官を充てる。大元の兵河中を破り、陝州に奔る。行省、左右司郎中を以てこれに郐雚す。趙三三の軍変に値い遇害す。年四十三。

献能、人となり眇小にして黒色、頗る髯あり。談論を善くし、毎に今古を敷説して、声鏗亮として聴くに堪えたり。詩を作るに風雅を志し、また楽章に刻意す。翰院に在りて、機に応じて敏捷、得体を得たりと号せらる。趙秉文・李純甫嘗て曰く、「李献能は天、今世の翰苑の材を生む。」故に毎にこれを薦め、館を出ださしめず。家は故に財に饒けり、貞祐の乱に尽き、京師に在りて自ら資するものなし。その母は素より豪奢、自ら奉ずること厚く、小しくも意に如かざれば必ず呵譴す。人これを見て殆ど憂いを堪えざるに視るも、献能これを処するに自若たり。時に人、純孝を以てこれを称す。嘗て人に謂いて云う、「吾幼くして官五品に至り、寿五十に至らざる夢を見たり。」後竟にその言の如し。

王若虚

王若虚、字は従之、槁城の人。幼くして穎悟、夙昔文字の間に在るが如し。承安二年経義進士に擢でらる。鄜州録事に調じ、管城・門山の二県令を歴任し、皆恵政あり。秩満ちて、老幼攀送し、数日にして乃ち行くを得。推薦に用いられて入り、国史院編修官となり、応奉翰林文字に遷る。夏国に奉使し、還りて同知泗州軍州事を授かり、留まって著作佐郎となる。正大初、『宣宗実録』成り、平涼府判官に遷る。未だ幾ばくもせず、召されて左司諫となり、後に延州刺史に転じ、入りて直学士となる。

元興元年、哀宗帰徳に走る。明年春、崔立の変。群小附和し、立の為に功德碑を建つることを請う。翟奕、尚書省の命を以て若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩は勢いに恃み威を作し、人少しくも忤らば、則ち讒構して直ちに屠滅を見る。若虚自ら必ず死すと分ち、私に左右司員外郎元好問に謂いて曰く、「今我を召して碑を作らしむ。従わざれば則ち死す。これを作れば則ち名節地を掃う。死するに若かざるなり。然りと雖も、我姑く理を以てこれを諭さん。」乃ち奕の輩に謂いて曰く、「丞相の功德碑は当に何事を指して言と為すべきか。」奕の輩怒りて曰く、「丞相、京城を以て降り、生霊百万を活かす。功德に非ずや。」曰く、「学士は王言に代わる。功德碑これを王言に代わると謂うべきか。且つ丞相既に城を以て降る、則ち朝官皆その門より出づ。古より豈に門下の人主帥の為に功德を誦して後世に信ぜらるべきことあらんや。」奕の輩奪うこと能わず、乃ち太学生劉祁・麻革の輩を召して省に赴かしめ、好問・張信之これに立碑の事を諭して曰く、「衆議二君に属す。且つ已に鄭王に白せり。二君其れ譲る無かれ。」祁ら固く辞して別る。数日、促迫已まず、祁即ち草定を為し、好問に付す。好問意未だ愜わず、乃ち自らこれを為す。既に成り、若虚に示す。乃ち共に数字を刪定す。然れども只だ直ちにその事を叙するのみ。後、兵城に入り、果たして立たず。

金亡び、微服して北に鎮陽に帰る。渾源の劉郁と東に泰山に遊び、黄峴峰に至り、萃美亭に憩い、同遊に顧みて謂いて曰く、「塵土の中に汩没すること一生、晚年に乃ち仙府に造ることを意えず。誠にこの山に終老するを得ば、志願畢れり。」乃ち子の忠をして先に帰らしめ、子の恕を遣わして前に行きて夷険を視しむ。因りて足を垂れて大石に坐し、良久しくして目を瞑じて逝く。年七十。著すところの文章、号して『慵夫集』若干巻・『滹南遺老』若干巻、世に伝わる。

王元節

王元節、字は子元、弘州の人。祖父は山甫、遼の戸部侍郎。父は詡、海陵朝、左司員外郎。元節幼くして穎悟、家世貴顯と雖も、学に従うこと甚だ謹みあり。渾源の劉捴その才俊を愛し、女を以てこれに妻せしめ、遂にその賦学を伝え、天徳三年詞賦進士に登第す。気節を雅尚し、時に随い俯仰すること能わず、故に仕えて顕れず。密州観察判官に遷り、既に罷むるや、即ち郷里に逍遥し、詩酒を以て自ら娯しみ、号して「遁斎」と曰う。年五十余にして卒す。詩集世に行わる。

弟の元德もまた進士に及第し、当時に能吏としての名声があり、終に南京路提刑使に至った。

孫の國綱

孫國綱、字は正之。儒術を修め、特に吏事に長じていた。人となりは端正で重厚、楽易であり、或いはさからう者があっても少しも争わず、また未だ怒色を形に表したことはなかった。大安三年、試補で尚書吏部掾となり、間もなく御史台令史に転じた。宣宗はその材幹を聞き、興定三年に特に召して近侍とし、奉職承応として仕え、甚だ寵遇を受け、勒留して凡そ三考を経て、出て同知申州事となった。間もなく、召されて筆硯直長となり、監察御史に抜擢され、秩満したが、勅命で留任を命じられ再任した。その材器を知っていたからである。開興元年、関陝の完顏総帥が河中府に屯し、大元軍と戦って敗績した。哀宗は國綱に上廄馬を乗り継がせ、直ちに河中に赴かせて敗軍の由縁を問わしめた。還る途中、大兵に遭遇して殺害された。時に年四十四。

麻九疇

麻九疇、字は知幾、易州の人。三歳で文字を識り、七歳で草書ができ、数尺にも及ぶ大字を書き、一時神童と目された。章宗が召見し、「汝は宮殿に入っても、やはり懼れ怯えるか」と問うと、対して「君臣は父子の如きものです。子がどうして父を懼れましょうか」と答えた。上は大いにこれを奇とした。弱冠で太学に入り、文名があった。南渡後、郾・蔡の間に寓居し、遂平の西山に入り、初めて古学をもって自ら努めた。博く『五経』に通じ、特に『易』『春秋』に長じていた。興定末、開封府で試みられ、詞賦は第二、経義は第一となった。再び南省で試みられ、また同様であった。声譽大いに振るい、婦人小児に至るまでその名を知った。廷試に及んで、誤りによりしりぞけられ、士論は惜しんだ。やがて隠居し、科挙を図らなかった。正大初、門人の王説・王采苓が共に及第した。上はその年幼なのを怪しんで問うたところ、嘗て九疇に師事したことを知った。平章政事侯摯・翰林学士趙秉文が相次いで上章してこれを推薦し、特に盧亞榜の進士第を賜った。病のため、官に拝せず告帰した。再び太常寺太祝を授けられ、権博士となり、間もなく応奉翰林文字に遷った。九疇の性質は野逸で、高蹇として自ら便とし、人と交わるに一言合わなければ直ちに去って顧みなかった。自らはかるに終に世と合わぬと、間もなく、また病を謝して去った。郾城に居たが、天興元年、大元兵が河南に入ると、家を携えて確山に走ったが、兵士に捕らえられ、広平に駆り立てられ、病没した。年五十。

九疇は初め経義によって『易』を学び、後に邵堯夫の『皇極書』を喜び、因って算数を学び、また卜筮・射覆の術を好んだ。晩年は更に医を好み、名医張子和と交遊し、その学を尽く伝えられ、且つその著書を潤色した。文を為すに精密奇健で、詩は特に工致であった。後、謗りと忌みを避けて戒めを保ち、作らなかった。明昌以来、神童と称せられた者は五人、太原の常添壽は四歳で詩を作り、劉滋・劉微・張漢臣は後皆称するものなく、ただ知幾のみ能く自ら樹立し、耆旧の趙秉文の如きも、征君として目して名を呼ばなかった。

李汾

李汾、字は長源、太原平晉の人。人となりは気節を尚び、跌宕としてとらわれない。性は褊躁で、触れれば直ちに怒り、以て多く人の悪むところとなった。史を読むことを喜んだ。詩に工みで、雄健として法があった。乱を避けて関中に入り、京兆尹の子容はその才を愛し、門下に招致した。二年留まって去り、涇州に至り、左丞張行信におとずれ、一見して即ち上客の礼をもって遇した。元光年間、大梁に遊び、進士に挙げられたが及第せず、推薦により史館書写となった。書写は、特に書き写す小史に過ぎず、凡そ編修官が日録を得て、纂述が定まれば、稿を書写に授け、書写は清書した浄本を翰長に呈する。汾は既にこれとなり、甚だ自らいささかならず。時に趙秉文が学士となり、雷淵・李獻能が皆院におり、刊修の際、汾は傍らに正襟危坐し、太史公・左丘明の一篇を読み、或いは数百言、音吐は洪暢で、傍若無人であった。読み終わると、四座を顧みてそぞろに一言「見よ」と言った。筆を執る諸人は積もって不平とし、而して雷・李は特に切歯し、乃ち官長を嫚罵したとして有司に訟えた。然れども時論にも雷・李をただしとせぬ者もあった。間もなく罷められて関中に入った。明年、京師に来たり、上書して時事を言ったが合わず、去って唐・鄧の間に客寓した。恒山公武仙が行尚書省講議官に署した。既にして仙は参知政事完顏思烈と意見を異にし、頗る自らの安泰を謀り、汾の言論を懼れ、これを除かんとした。汾は覚り、泌陽に遁れたが、仙は総帥王德に命じて追い獲らせ、養馬平に鎖し、絶食して死んだ。年未だ四十ならず。

汾の平生の詩は甚だ多かったが、自ら収集せず、世に伝わるものは十の二三に過ぎない。

元德明

元德明、系は拓拔魏に出で、太原秀容の人。幼より書を読むことを嗜み、口に世俗の鄙事を言わず、楽易にして畦畛けいしんなく、布衣蔬食もこれを自若として処し、家人は敢えて生業の事を以てわずらわすことはしなかった。累次挙げられたが及第せず、山水の間に放浪し、余酒賦詩して自ら適とした。年四十八で卒した。『東岩集』三巻あり。子の好問、最も知名。

子 元好問

好問、字は裕之。七歳で詩を作ることができた。年十四にして、陵川の郝晉卿に従い学び、挙業に事とせず、経伝百家に淹貫し、六年にして業成った。太行を下り、大河を渡り、『箕山』『琴台』等の詩を作った。礼部の趙秉文がこれを見て、近代に此の作無しと為した。ここにおいて名は京師に震うた。興定五年に及第し、内郷令を歴任した。正大年中、南陽令となった。天興初、尚書省掾に抜擢され、間もなく左司都事を除かれ、行尚書省左司員外郎に転じた。金の滅亡後、仕えなかった。

文を為すに繩尺あり、衆体を備える。その詩は奇崛にして雕劌を絶ち、巧縟にして綺麗を謝す。五言は高古沈鬱。七言楽府は古題を用いず、特に新意を出す。歌謠は慷慨で、幽・へいの気を挾む。その長短句は、新声を揄揚し、以て恩怨を写すものまた数百篇。兵乱の後、故老皆尽き、好問はさかんとして一代の宗工となり、四方の碑板銘志は、尽くその門に趨った。その著すところの文章詩若干巻、『杜詩学』一巻、『東坡詩雅』三巻、『錦禨』一巻、『詩文自警』十巻。

晚年は特に著作を以て自ら任じ、金源氏が天下を有し、典章法度は漢・唐にちかづいたが、国亡びて史を作るは、己の当に任ずべきところと為した。時に金国の実録は順天の張万戸の家に在った。乃ち張に言って、撰述を願ったが、既にして楽夔にはばまれて止んだ。好問は曰く、「一代の跡をほろびて伝わらしむべからず」と。乃ち家に亭を構え、その上に著述し、因って名を「野史」と曰う。凡そ金源君臣の遺言往行、聞くところを采摭し、得るところあれば直ちに寸紙細字を以て記録し、百余万言に至った。今伝わるものに『中州集』及び『壬辰雑編』若干巻あり。年六十八で卒した。『金史』を纂修するに、多くその著すところに本づくという。

賛して曰く、韓昉・呉激は、楚の材を晋が用いたるが如く、亦た以て一代の文を為すに足る。蔡珪・馬定国の該博、胡礪・楊伯仁の敏贍、鄭子聃・麻九疇の英俊、王郁・宋九嘉の邁往。三李は卓犖たり、純甫は道を知り、汾は気を任せ、献能は特に純孝を以て称せらる。王庭筠・党懐英・元好問は自ら異代に名を知らしむるに足る。王競・劉従益・王若虚の吏治は、文その長を掩うず。蔡松年は文芸中、爵位最も重き者なり、金人の利を言う道、党獄を興し、田玨を殺すは、文その短を掩う能わざる者か。継母に事うるに至行有り、その死するや家に余貲無し、取るに足るもの有りと云う。