趙渢
周昂
周昂、字は徳卿、真定の人である。父の伯祿は字を天錫といい、大定の進士で、同知沁南軍節度使に至った。昂は二十四歳で及第した。南和の主簿に任じられ、異政があった。良郷の令に遷り、召されて監察御史に拝された。路鐸が言事により排斥されたとき、昂は詩を送り、言葉が誹謗に及んだため、罪に坐して選任を停められた。久しくして、隆州都軍として起用され、辺功により再び召されて三司の官となった。大安の兵が起こると、権行六部員外郎を務めた。
その甥の王若虚はかつて昂に学び、昂はこれを教えて言った、「文章が外に巧みで内に拙いものは、四筵を驚かすことはできても独坐に適することはできず、口称を得ることはできても首肯を得ることはできない」と。また言った、「文章は意を主とし、言語を役とす。主強くして役弱ければ、令に従わざるはない。今の人は往々にしてその役を驕らせ、跋扈して制し難きに至り、甚だしきは反ってその主を役する。極めて辞語の工を尽くすとも、豈に文の正なることがあろうか」と。
昂は孝友を尽くし、名節を喜び、学術は醇正で、文筆は高雅であり、諸儒は皆これを師尊した。既に台省を歴たが、人に排擠され、ついに詩の罪に坐し、東海の地に十数年謫居した。初めて翰林に入り、言事はますます切直であった。三司を佐けるために出ることは好むところではなく、宗室承裕の軍に従った。承裕が利を得ず、上谷に跳走すると、衆は直ちに帰ろうとしたが、昂ひとり従わず、城が陥落し、その従子の嗣明とともに難に死んだ。嗣明は字を晦之という。
王庭筠
王庭筠、字は子端、遼東の人である。生まれて一年に満たず、書を見て十七字を識った。七歳で詩を学び、十一歳で全題を賦した。稍々長ずると、涿郡の王翛が一見して、国士と期した。大定十六年の進士に及第した。恩州軍事判官に任じられ、政に臨むや早くも名声があった。郡民の鄒四という者が不軌を謀り、事が覚ると、千余人を逮捕したが、鄒四は竄匿して得ることができなかった。朝廷は大理司直の王仲軻を遣わしてその獄を治めさせたが、庭筠は計略をもって鄒四を獲、誤って連座した者を分別し、預謀に坐した者は十二人だけであった。再び館陶の主簿に任じられた。
五年八月、上は宰執を顧みて言った、「応奉の王庭筠を、朕は詔誥を委ねようと思う。その人材もまた豈に易く得られようか。近ごろ党懐英が『長白山冊文』を作ったが、甚だ工ならず。聞くところでは文士は多く庭筠を妬み、その文を論ぜず、かえって行いを誹るという。大抵読書人は口頰が多く、あるいは徒党を組む。昔、東漢の士が宦官と分朋したのは、固より怪しむに足らぬ。唐の牛僧孺・李徳裕、宋の司馬光・王安石の如きは、皆儒者であるのに、互いに排毀するのは何故か」と。遂に庭筠を翰林修撰に遷した。
庭筠は儀表秀偉で、談笑を善くし、外見は簡貴のようであったので、人は初め敢えて接することができなかった。既に会えば、和気が顔の間に溢れ、殷勤に慰藉して及ばざるを恐れるほどであり、少しでも取るべきところがあれば極口に称道し、他日たとえ百回背かれても恨まなかった。従游する者は韓溫甫、路元亨、張進卿、李公度の如く、その薦引した者は趙秉文、馮璧、李純甫の如く、皆一時の名士であり、世は人を知ることを許した。文を作るに能く言わんとする所を道い、暮年は詩律深厳で、七言長篇は特に険韻を工とした。『藂辨』十巻、文集四十巻がある。書法は米元章に学び、趙渢・趙秉文とともに名家とされたが、庭筠は特に山水墨竹を善くした。
子の曼慶もまた詩と書を能くし、行省右司郎中に至り、自ら「淡遊」と号したという。
劉昂
劉昂、字は之昂、興州の人である。大定十九年の進士。曾祖父・高祖父以下七世にわたり科挙に及第した。昂は天資が聡明で悟りが早く、律賦は一家を成し、詩を作るには晩唐体を得て、特に絶句に巧みであった。李純甫の『故人外傳』によると、昂は早くに官途につき、三十三歳で尚書省掾となり、平涼路転運副使に転じた。時に術士が昂の官位は五品に止まると言ったが、昂は信じなかった。やがて母の喪により職を去り、十年間不遇が続き、洛陽に居を定めて終焉の志を抱いた。その才能を章宗に推薦する者があり、泰和の初め、国子司業から左司郎中に抜擢された。時に掌書の大中と賈鉉が除授の事を漏らしたため、言官に弾劾され、獄辞が昂に連座した。章宗は激怒した。一時の名士たる史粛・李著・王宇・宗室の従鬱らは皆譴責され追放され、鉉もまもなく政務を罷免された。昂は上京留守判官に降格され、赴任途中で卒去し、果たして術者の言の如くとなった。
李経
李経、字は天英、錦州の人である。詩を作るに極めて刻苦し、奇抜な語句を出すのを好み、前人を蹈襲しなかった。李純甫がその詩を見て曰く、「真に今世の太白なり」と。これにより名声大いに震う。再び挙げられて及第せず、衣を払って去った。南渡後、その郷里の将帥が朝廷に上表したところ、士大夫がこれを識って曰く、「これは天英の筆跡なり」と。朝議は武功をもってその州の倅に任じようとしたが、後に行方が知れず終わった。
劉従益
従益は博学強記で、経学に精しかった。文章は詩に長け、五言詩に特に巧みで、『蓬門集』がある。
子の祁、字は京叔。太学生となった。甚だ文名があった。金末の喪乱に値し、『帰潜志』を作って金朝の事を記し、『金史』の編修に多く採用された。
呂中孚 張建
呂中孚、字は信臣、冀州南宮の人。張建、字は吉甫、蒲城の人。ともに詩名があった。中孚に『清漳集』がある。建は明昌の初めに絳州教官を授けられ、召されて宮教・応奉翰林文字となった。老齢を理由に致仕を請うたが、章宗はその純朴な素質を愛し、去らせたくないと思い、同知華州防禦使を授け、なお詩を賜ってこれを寵した。自ら「蘭泉」と号し、文集が世に行われた。
李純甫
純甫は人となり聡敏で、少時よりその才能を自負し、功名は俯して拾うべしと謂い、『矮柏賦』を作り、諸葛孔明・王景略をもって自ら期した。小官より万言書を上奏し、宋を引き合いに出して証とし、甚だ切実であったが、当路者は迂闊として抑圧した。中年、その道の行われぬことを悟り、ますます酒に縦して自ら放縦し、仕進の意無し。官を得ても考課を成さず、直ちに帰隠した。日々禅僧・士子と交遊し、文酒を事とし、嘯歌し袒裼して礼法の外に出で、あるいは数ヶ月飲んで醒めぬこともあった。人が酒を以て招けば、貴賤を択ばず必ず往き、往けば輒ち酔い、たとえ深く酔っても未だ著書を廃したことはなかった。然れども晚年は仏を喜び、力を尽くしてその奥義を探った。自らその文を分類し、凡そ性理を論じ及び仏老の二家に関わるものを「内稿」と号し、その他の応物の文字を「外稿」とした。また『楞厳経』・『金剛経』・『老子』・『荘子』を解した。また『中庸集解』・『鳴道集解』があり、「中国の心学、西方の文教」と号した。数十万言に及び、この故をもって名教より貶せられたという。
王郁
王郁、字は飛伯、大興の人。体つきは魁偉で奇抜、眼光は鷹の如し。若くして釣台に住み、門を閉ざして書を読み、人事に接せず。久しくして、文章の法は柳宗元に学び、雄大にして奇古、動輒数千言に及ぶ。歌詩は俊逸、李白に倣う。嘗て『王子小伝』を作りて自らを叙す。天興初元、汴京囲まれし時、上書して事を言うも、報いられず。四月、囲み稍々解け、身を挺して突出すも、兵士に捕らえられる。その将は彼を甚だ厚く遇すも、鬱は行いに機防なく、その部下に忌まれ、殺さる。臨終、懐中より書を出して曰く、「是れ吾が平生の著述、中州の士大夫に伝え付けて曰え、王鬱死せりと。」年三十余。同時に詩を以て鳴る者は、雷琯・侯冊・王元粹など。
宋九嘉
龐鑄
龐鑄、字は才卿、遼東の人。若くして第に擢でられ、仕えて声あり。南渡後、翰林待制となり、戸部侍郎に遷る。貴戚の家に遊びしに坐し、出でて東平に倅し、京兆路転運使に改め、卒す。博学能文、詩に工み、造語奇健凡ならず、世多くこれを伝う。
李献能
李献能、字は欽叔、河中の人。先世に金吾衛上将軍となれる者あり、時に「李金吾家」と号す。献能の昆弟に至りて皆文学を以て名あり、従兄の献卿・献誠・従弟の献甫相継いで第を擢で、故に李氏に「四桂堂」あり。
献能、人となり眇小にして黒色、頗る髯あり。談論を善くし、毎に今古を敷説して、声鏗亮として聴くに堪えたり。詩を作るに風雅を志し、また楽章に刻意す。翰院に在りて、機に応じて敏捷、得体を得たりと号せらる。趙秉文・李純甫嘗て曰く、「李献能は天、今世の翰苑の材を生む。」故に毎にこれを薦め、館を出ださしめず。家は故に財に饒けり、貞祐の乱に尽き、京師に在りて自ら資するものなし。その母は素より豪奢、自ら奉ずること厚く、小しくも意に如かざれば必ず呵譴す。人これを見て殆ど憂いを堪えざるに視るも、献能これを処するに自若たり。時に人、純孝を以てこれを称す。嘗て人に謂いて云う、「吾幼くして官五品に至り、寿五十に至らざる夢を見たり。」後竟にその言の如し。
王若虚
金亡び、微服して北に鎮陽に帰る。渾源の劉郁と東に泰山に遊び、黄峴峰に至り、萃美亭に憩い、同遊に顧みて謂いて曰く、「塵土の中に汩没すること一生、晚年に乃ち仙府に造ることを意えず。誠にこの山に終老するを得ば、志願畢れり。」乃ち子の忠をして先に帰らしめ、子の恕を遣わして前に行きて夷険を視しむ。因りて足を垂れて大石に坐し、良久しくして目を瞑じて逝く。年七十。著すところの文章、号して『慵夫集』若干巻・『滹南遺老』若干巻、世に伝わる。
王元節
弟の元德もまた進士に及第し、当時に能吏としての名声があり、終に南京路提刑使に至った。
孫の國綱
麻九疇
九疇は初め経義によって『易』を学び、後に邵堯夫の『皇極書』を喜び、因って算数を学び、また卜筮・射覆の術を好んだ。晩年は更に医を好み、名医張子和と交遊し、その学を尽く伝えられ、且つその著書を潤色した。文を為すに精密奇健で、詩は特に工致であった。後、謗りと忌みを避けて戒めを保ち、作らなかった。明昌以来、神童と称せられた者は五人、太原の常添壽は四歳で詩を作り、劉滋・劉微・張漢臣は後皆称するものなく、ただ知幾のみ能く自ら樹立し、耆旧の趙秉文の如きも、征君として目して名を呼ばなかった。
李汾
汾の平生の詩は甚だ多かったが、自ら収集せず、世に伝わるものは十の二三に過ぎない。
元德明
元德明、系は拓拔魏に出で、太原秀容の人。幼より書を読むことを嗜み、口に世俗の鄙事を言わず、楽易にして畦畛なく、布衣蔬食もこれを自若として処し、家人は敢えて生業の事を以て累わすことはしなかった。累次挙げられたが及第せず、山水の間に放浪し、余酒賦詩して自ら適とした。年四十八で卒した。『東岩集』三巻あり。子の好問、最も知名。
子 元好問
好問、字は裕之。七歳で詩を作ることができた。年十四にして、陵川の郝晉卿に従い学び、挙業に事とせず、経伝百家に淹貫し、六年にして業成った。太行を下り、大河を渡り、『箕山』『琴台』等の詩を作った。礼部の趙秉文がこれを見て、近代に此の作無しと為した。ここにおいて名は京師に震うた。興定五年に及第し、内郷令を歴任した。正大年中、南陽令となった。天興初、尚書省掾に抜擢され、間もなく左司都事を除かれ、行尚書省左司員外郎に転じた。金の滅亡後、仕えなかった。
文を為すに繩尺あり、衆体を備える。その詩は奇崛にして雕劌を絶ち、巧縟にして綺麗を謝す。五言は高古沈鬱。七言楽府は古題を用いず、特に新意を出す。歌謠は慷慨で、幽・并の気を挾む。その長短句は、新声を揄揚し、以て恩怨を写すものまた数百篇。兵乱の後、故老皆尽き、好問は蔚んとして一代の宗工となり、四方の碑板銘志は、尽くその門に趨った。その著すところの文章詩若干巻、『杜詩学』一巻、『東坡詩雅』三巻、『錦禨』一巻、『詩文自警』十巻。
晚年は特に著作を以て自ら任じ、金源氏が天下を有し、典章法度は漢・唐に幾づいたが、国亡びて史を作るは、己の当に任ずべきところと為した。時に金国の実録は順天の張万戸の家に在った。乃ち張に言って、撰述を願ったが、既にして楽夔に沮まれて止んだ。好問は曰く、「一代の跡を泯びて伝わらしむべからず」と。乃ち家に亭を構え、その上に著述し、因って名を「野史」と曰う。凡そ金源君臣の遺言往行、聞くところを采摭し、得るところあれば直ちに寸紙細字を以て記録し、百余万言に至った。今伝わるものに『中州集』及び『壬辰雑編』若干巻あり。年六十八で卒した。『金史』を纂修するに、多くその著すところに本づくという。
賛して曰く、韓昉・呉激は、楚の材を晋が用いたるが如く、亦た以て一代の文を為すに足る。蔡珪・馬定国の該博、胡礪・楊伯仁の敏贍、鄭子聃・麻九疇の英俊、王郁・宋九嘉の邁往。三李は卓犖たり、純甫は道を知り、汾は気を任せ、献能は特に純孝を以て称せらる。王庭筠・党懐英・元好問は自ら異代に名を知らしむるに足る。王競・劉従益・王若虚の吏治は、文その長を掩うず。蔡松年は文芸中、爵位最も重き者なり、金人の利を言う道、党獄を興し、田玨を殺すは、文その短を掩う能わざる者か。継母に事うるに至行有り、その死するや家に余貲無し、取るに足るもの有りと云う。