金の初めには文字がなかった。世祖以来、次第に条教を立てた。太祖が興ると、遼の旧人を得てこれを用い、使者を往来させたが、その言葉はすでに文飾されていた。太宗が統を継ぐと、選挙の法を行い、宋を伐つに及んで、汴京の経籍図書を取ったので、宋の士人の多くが帰順した。熙宗は先聖に拝謁し、北面して弟子の礼をとった。世宗・章宗の世には、儒風が大いに変わり、学校が日に盛んとなり、士人が科第によって位を宰輔に至らしめる者が続いた。当時の儒者は、専門名家の学はなかったけれども、朝廷の典策や隣国への書命は、あざやかに見るべきものがあった。金は武力をもって国を得たことは、遼と異なることはなかったが、一代の制作は、唐・宋の間に自ら樹立することができ、遼の世に及ばないところがあったのは、文をもってし、武をもってしなかったからである。『伝』に曰く、「言に文あらざれば、行わるること遠からず」と。文治は人の家国に補うところがあり、豈に一日の効であろうか。『文藝傳』を作る。
韓昉
昉の性は仁厚で、物に接するに甚だ寛大であった。家奴が昉が馬の資を以て叛人を送り出したと誣告したが、これを考証しても事実無根であり、有司は奴を昉に還したが、昉は初めの如くこれに接し、曰く、「奴が主人を罪に誣いるのは、良とならんことを求めるのみ、何ぞ怪しむに足らんや」と。人はその長者たるを称えた。昉は貴い身分であったが、読書を手から離さず、文をよくし、最も詔冊に長じ、『太祖睿徳神功碑』を作り、当世に称えられた。高麗より使いして帰って後、高麗の使者が至るごとに、必ず昉の安否を問うたという。
蔡松年
蔡松年は、字を伯堅という。父の靖は、宋の宣和末年に燕山を守った。松年は父に従って来て、管勾機宜文字となった。宗望の軍が白河に至り、郭薬師が敗れると、靖は燕山府を以て降り、元帥府は松年を辟いて令史とした。天会年中、遼・宋の旧官ある者は皆換授され、松年は太子中允となり、真定府判官を除され、ここより真定の人となった。
嘗て元帥府に従って斉とともに宋を伐った。この時、真定西山の群盗を初めて平定したばかりで、山中の居民で賊に汚された者が千余家あり、松年は力を尽くして弁論し、ついに罪に坐せられることを免れた。斉国が廃され、行台尚書省を汴に置くと、松年は行台刑部郎中となり、都元帥宗弼が行台事を領し、宋を伐つに及び、松年は軍中六部事を兼ねて総べた。宋が臣を称し、師が還ると、宗弼は入朝して左丞相となり、松年を刑部員外郎に推薦した。皇統七年、尚書省令史の許霖が田玨の党の事を告げた。松年は平素より玨と仲が良くなかった。この時宗弼が国政を執り、玨の性は剛正で、人物を評論することを好み、その党は皆君子であり、韓企先が宰相としてこれを愛重した。而して松年・許霖・曹望之は玨と結ぼうとしたが、玨はこれを拒んだ。ここより怨みを構えた。故に松年・許霖は玨等の罪状を構成し、宗弼を勧めてこれを誅させ、君子の党は熄んだ。この歳、松年は左司員外郎に遷った。
松年は以前宗弼の府におり、海陵は宗室の子として宗弼の軍中に任使されていたので、これにより厚く善しとした。天徳初め、吏部侍郎に抜擢され、俄かに戸部尚書に遷った。海陵が中都に遷都すると、榷貨物を移して都城を実にし、また鈔引法を復したが、皆松年よりこれを啓いた。海陵は宋を伐たんと謀り、松年が家世宋に仕えたので、故に急に顕位に抜擢して南人の観聴を聳えさせ、遂に松年を以て賀宋正旦使とし、使いより還って吏部尚書に改め、尋いで参知政事を拝した。この年、崇徳大夫より銀青光禄大夫に進み、尚書右丞に遷った。未だ幾ばくもせず、左丞となり、郜国公に封ぜられた。
久しくして、右丞相に進拝され、儀同三司を加えられ、衛国公に封ぜられた。正隆四年に薨じた。年五十三。海陵はこれを悼惜し、その第に奠し、命じて祭文を作らせて意を見せた。呉国公に加封し、諡して文簡といった。その子の三河主簿珪を起復して翰林修撰とし、璋には進士第を賜った。翰林待制の蕭籲を遣わしてその喪を護送させ、真定に帰葬せしめ、四品以下の官は都城を離れること十里これを送り、道路の費用は皆官より給した。
松年は継母に事えること孝をもって聞こえ、親党を周恤することを喜び、性また豪侈で、家の有無を計らなかった。文詞は清麗で、特に楽府に工み、呉激と斉名し、時に「呉蔡体」と号した。集が世に行われた。子に珪あり。
子は珪。
珪は字を正甫という。進士第に及第し、調任を求めず、久しくして澄州軍事判官に除され、三河主簿に遷る。父の喪に服し、起復して翰林修撰、同知制誥となる。職に在ること八年、戸部員外郎に改め、太常丞を兼ねる。珪は辨博と号され、凡そ朝廷の制度の損益は、珪が編類詳定檢討刪定官となった。
初め、両燕王の墓は旧く中都東城外にあり、海陵が京城を拡張して囲むと、墓は東城内となった。先に嘗て盗賊がその墓を発掘したことがあり、大定九年に詔して城外に改葬す。俗に六国の時の燕王及び太子丹の葬ると伝え、壙を啓くと、その東の墓の柩に題するに其の和に「燕霊王舊」と曰う。「舊」は古い「柩」の字、通用す。乃ち西漢高祖の子劉建の葬る所なり。その西の墓は、蓋し燕康王劉嘉の葬る所なり。珪は『両燕王墓弁』を作り、葬制・名物・款刻に拠ること甚だ詳しい。
久しくして、河東北路転運副使に除され、復た入りて修撰となり、礼部郎中に遷り、真定県男に封ぜらる。珪は既に風疾を得て、失音し言う能わず、乃ち濰州刺史に除せらる。同輩は既に奏謝すれども、珪独り入見することができず。世宗、右丞唐括安礼・参政王蔚を譲りて曰く、「卿等書史を閲す、亦た言う能わざるの人に政に従うべき者あらんや」と。又た中丞劉仲誨に謂いて曰く、「蔡珪風疾にして奏謝す能わず、卿等何ぞこれを糾さざる。人の言うに卿等相い党蔽すと、今果然なるか」と。珪乃ち致仕す。尋いで卒す。
珪の文に『補正水経』五篇あり、沈約・蕭子顕・魏収の宋・斉・北魏志を合わせて『南北史志』三十巻、『続金石遺文跋尾』十巻、『晋陽志』十二巻、『文集』五十五巻を作る。『補正水経』・『晋陽志』・『文集』は今存し、余は皆亡ぶ。
呉激
馬定国
馬定国は字を子卿といい、茌平の人。少より志趣群を同じくせず。宣和・政和の末に酒家の壁に詩を題し、坐して譏訕し罪を得、亦た因りて以て知名となる。阜昌の初め、歴下に遊び、詩を以て斉王劉豫を撼かし、豫大いに悦び、監察御史を授け、官は翰林学士に至る。『石鼓』は唐以来定論無く、定国は字画を以てこれを考うるに、宇文周の時に造ると云い、弁を万余言作り、伝記に出入し、引拠甚だ明らか、学者は以て蔡正甫の『燕王墓弁』に比す。初め、詩を学ぶに入る処無く、夢に其の父方寸の白筆を与うるを見、是より文章大いに進む。集世に伝わる。
任詢
趙可
郭長倩
郭長倩は、字を曼卿といい、文登の人である。皇統丙寅の経義乙科に及第した。官は秘書少監に至り、礼部郎中を兼ね、起居注を修めた。施朋望・王無競・劉岩老・劉無党と親しく交わった。著した『石決明伝』は当時の人々に称賛された。『昆侖集』が世に行われている。
蕭永祺
蕭永祺は、字を景純といい、本名は蒲烈である。幼少より学問を好み、契丹の大小の字に通じた。広寧尹耶律固が詔を奉じて書を訳すこととなり、蕭永祺はその門下に置かれたため、その学業をことごとく伝授された。耶律固が没すると、蕭永祺は門弟を率いて斉衰の喪に服した。耶律固が『遼史』を撰して未完成であったが、蕭永祺がこれを継ぎ、紀三十巻・志五巻・伝四十巻を作り、朝廷に上った。宣武将軍を加えられ、太常丞に任じられた。
海陵王が中京留守であった時、蕭永祺は特に親しく礼遇された。天徳初年、左諫議大夫に抜擢され、翰林侍講学士に転じ、国史を同修し、さらに翰林学士に転じた。翌年、承旨に転じた。尚書左丞耶律安礼が南京を守るために出向することとなり、海陵王は蕭永祺をこれに代えようとし、内閣に召し出して旨意を諭したが、蕭永祺は辞して言うには、「臣が才識卑下であり、執政の任を辱めるには足りません」と。海陵王は言った、「今、天下は事なく、朕はまさに文治をもって臨もうとしている。卿はこれに優れている」。蕭永祺は固く辞した。退出した後、ある者が尋ねて言うには、「公は人主の知遇に遇い、爵位を進め、道をもって時に佐けるのに、どうしてこれほど辞退なさるのか」と。蕭永祺は言った、「執政は天下の休戚にかかわる。たとえ栄寵を貪り求めたくとも、民衆をどうするというのか」。海陵王はかつて廷臣十人を選んで諮問に備えさせたが、蕭永祺のみが議論が寛厚で、当時、長者と称された。五十七歳で没した。
胡礪
皇統初年、河北西路転運都勾判官となった。胡礪の性格は剛直で屈することがなかった。行台平章政事高楨が汴に行く途中、真定を通り、漕司で宴を開いた。胡礪が着席しようとすると、高楨がこれを責めたので、胡礪は言った、「公が政府にあれば礼は百僚を絶つが、今日の会には賓主の礼がある」。高楨は言った、「汝、他日に省吏となったらどうするか」。胡礪は言った、「官に任じられて行動するのみで、何を避けようか」。高楨はその言葉を雄壮と感じ、改めて謝した。
同知深州軍州事に改め、朝奉大夫を加えられた。郡守が暴虐で、僚属を蔑視したが、胡礪は常に礼をもってこれを折り、郡守は恥じて服し、郡の事はすべて胡礪に委ねた。州は五県を管轄し、例として弓手百余を置き、少ない所でもなお六七十人おり、毎年、民から五千余万の銭を徴収して雇い賃としていた。その者らは皆、市井の無頼の徒で、盗賊を探る名目で、至る所で民を煩わせていた。胡礪はその弊害を知り、ことごとく廃止した。その後、流言が飛んで言うには、「ある日に賊が起こり、通守を殺すであろう」と。ある者が備えを請うたが、胡礪は言った、「盗賊が求めるのは財貨のみ。我はかくも貧しいのに、何を備えようか」。その夜、官署の門の閂を外すよう命じたが、結局何事もなかった。
再び翰林修撰に補され、礼部郎中に転じ、一時、典礼の多くを裁定した。海陵王が平章政事に任じられた時、百官が廟堂で祝賀したが、胡礪のみが跪かなかった。海陵王がその理由を問うと、胡礪は法令をもって答え、かつ言った、「朝服して跪くのは、君父に対する礼であります」。海陵王は深く彼を器重した。天徳初年、再び侍講学士に転じ、国史を同修した。母の喪により官を去った。喪中に召し出されて宋国歳元副使となり、刑部侍郎白彦恭が正使となった。海陵王は胡礪に言った、「彦恭の官は卿より下であるが、その旧功により、卿を副使としたのである」。翰林学士に転じ、刑部尚書に改めた。扈従して汴に至り病を得たが、海陵王はたびたび使者を遣わして見舞わせた。没し、深く悼み惜しまれた。五十五歳。
王競
王競は、字を無競といい、彰徳の人である。機敏で学問を好んだ。十七歳で蔭により官に補された。宋の宣和年間、太学で二度試験に合格し、屯留主簿に任じられた。本朝に入り、大寧令に任じられ、宝勝塩官を歴任し、河内令に転じた。当時、凶作で盗賊が起こったが、王競は方略を設けて賊を懸賞し、数ヶ月でことごとく捕らえた。夏秋の頃、沁水が氾濫し、毎年、民を発して堤防を築かせていたが、豪民や狡猾な役人がこれに乗じて不正を行っていた。王競はこれを実査し、費用をほぼ半減させた。県民はこのことを謡って言った、「西山から河岸まで、県官は二人半」。これは前任の韓希甫と王競が相次いで県を治め、いずれも有能であり、絳州正平令の張元も治績があったがやや及ばなかったため、このように言ったのである。
楊伯仁
著作郎に改めた。母の喪に服し、喪が明けると、鎮西節度副使に転じた。入朝して起居注兼左拾遺となり、時務について六事を上書して論じた。大名少尹に改めた。郡中の豪民が甚だ横暴で、制することができず、民はその害を受けたが、伯仁はその徒党を徹底的に追及し、四境は平穏となった。館陶の大辟を審理してその冤状を得たので、館陶の人は祠を立てた。府尹の荊王文が贓罪で封を削られ、德州防禦使に降格されると、同知の裴満子寧および伯仁・判官の謝奴は皆、匡正できなかったとして解職された。伯仁は南京留守判官に降格され、同知安化軍節度使に改められたが、着任して三日で、太子右諭徳兼侍御史に召され、翰林待制に改め、再び右諭徳を兼ねた。
濱州刺史に任じられた。郡の風習として、奴隷を逃亡させて捕らえ、賞金を図る者があったが、伯仁が着任すると、その主人を責めて奴隷を杖殺し、このような者が数輩いたが、その弊害は止んだ。入朝して左諫議大夫となり、礼部侍郎・翰林直学士を兼ねた。故事では、諫官や詞臣は禁中に入直したが、上はその労を憐れみ、特に入直を免除した。吏部侍郎に改め、直学士はもとのままとした。鄭子聃が卒すると、宰相が伯仁を推挙して代えさせたので、侍講兼礼部侍郎に遷った。
伯仁は久しく翰林に在り、文詞は典麗であった。上は言った、「韓昉・張鈞の後には翟永固があり、近ごろでは張景仁・鄭子聃があり、今では伯仁のみである。その次には文を能くする者を見ない。呂忠翰が『降海陵庶人詔』を起草したが、点竄を重ねても、終に朕の意に尽くせなかった。状元は詞賦で天下に甲たるも、辞命に至っては必ずしも皆能くするとは限らない。凡そ進士は外補させ、文を能くする者を考えて召し用いるべし」と。数か月も経たず、左諫議大夫を兼ね、まもなく太常卿を兼ねた。大臣が起居注を修めるに足る者を数人挙げたが、上は伯仁にこれを領させた。上京に従駕したが、伯仁は病多く、臨潢に至り、地寒のために疾を感じ、中都に還った。翌年、上が中都に還幸すると、使者を遣わして労問し、丹剤を賜った。この年、卒した。
鄭子聃
京畿が旱魃となると、詔して子聃に囚人を決断させたところ、遂に慈雨が降り、人は顔真卿に比した。待制に遷り、吏部郎中を兼ね、秘書少監に改めた。翰林直学士に遷り、太子左諭徳を兼ね、顕宗は深く器重した。疾を以て外補を求めたので、遂に沂州防禦使となり、皇太子は幣贐を甚だ厚くし、安輿に乗せて赴任させた。召還されて左諫議大夫兼直学士となった。吏部侍郎・同修国史に改め、直学士はもとのままとした。侍講兼修国史に遷り、上は言った、「『海陵実録』を修めるには、その詳しさを知る者は子聃に如く者なし」と。蓋し史事を専らに責めたのである。二十年、卒し、年五十五。子聃は英俊にして直気あり、その文もまた然りであった。平生著した詩文二千余篇。
党懐英
党懐英は、字を世傑といい、故宋の太尉進の十一代孫、馮翊の人である。父の純睦は、泰安軍録事参軍で、官に卒し、妻子は帰ることができず、因ってここに家した。応挙して意を得ず、遂に世務を脱略し、山水の間に放浪した。簞瓢屡空と雖も、晏如たり。大定十年、進士第に及第し、莒州軍事判官に転じ、累遷して汝陰県令・国史院編修官・応奉翰林文字・翰林待制兼同修国史となった。