金史

列傳第六十三: 文藝上 韓昉 蔡松年 吳激 馬定國 任詢 趙可 郭長倩 蕭永祺 胡礪 王競 楊伯仁 鄭子聃 党懷英

列傳第六十三 文藝上 ○韓昉 蔡松年(子 珪) 吳激 馬定國 任詢 趙可 郭長倩 蕭永祺 胡礪 王競 楊伯仁 鄭子聃 党懷英

金の初めには文字がなかった。世祖以来、次第に条教を立てた。太祖が興ると、遼の旧人を得てこれを用い、使者を往来させたが、その言葉はすでに文飾されていた。太宗が統を継ぐと、選挙の法を行い、宋を伐つに及んで、汴京の経籍図書を取ったので、宋の士人の多くが帰順した。熙宗は先聖に拝謁し、北面して弟子の礼をとった。世宗・章宗の世には、儒風が大いに変わり、学校が日に盛んとなり、士人が科第によって位を宰輔に至らしめる者が続いた。当時の儒者は、専門名家の学はなかったけれども、朝廷の典策や隣国への書命は、あざやかに見るべきものがあった。金は武力をもって国を得たことは、遼と異なることはなかったが、一代の制作は、唐・宋の間に自ら樹立することができ、遼の世に及ばないところがあったのは、文をもってし、武をもってしなかったからである。『伝』に曰く、「言に文あらざれば、行わるること遠からず」と。文治は人の家国に補うところがあり、豈に一日の効であろうか。『文藝傳』を作る。

韓昉

韓昉は、字を公美といい、燕京の人である。遼に仕え、累世通顕であった。昉は五歳で父を喪い、哭泣してよく哀しみを尽くした。天慶二年、進士第一に及第した。右拾遺を補し、史館修撰に転じた。累遷して少府少監・乾文閣待制となった。衛尉卿を加えられ、知制誥となり、高麗国信使を充てた。高麗は旧より通好していたが、天会四年、表を奉って藩と称しながらも誓表を進めることを肯んぜず、累次使者を遣わして要約したが、皆要領を得なかった。そこで昉が再び高麗に至り、再三督促した。高麗は国中の書を読み古今を知る者を徴し、辞旨を商榷して、応答専対させた。およそ十日を経てようやく対することになり、昉に謂って曰く、「小国は遼・宋に事えること二百年、誓表なくして、未だ藩臣の礼を失わなかった。今上国に事えるには、遼・宋に事えると同じ礼とすべきである。而して屡盟は長乱であり、聖人の与せざるところ、必ずや誓表を用いることを敢えてしない」と。昉曰く、「貴国が必ず古礼を用いようと欲するならば、舜は五載に一たび巡狩し、群后は四朝した。周は六年に五服一朝し、また六年にして王は時に巡り、諸侯は各々方嶽に朝した。今天子はまさに西狩に事としている。則ち貴国は朝会に従うべきであろう」と。高麗人は答えることがなく、乃ち曰く、「徐にこれを議せん」と。昉曰く、「誓表と朝会とは、一言で決するのみである」と。ここにおいて高麗は乃ち誓表を約の如く進め、昉は乃ち還った。宗幹は大いに喜んで曰く、「卿でなくして誰かよくこれを弁えようか」と。因って執事者に謂って曰く、「今より出疆の使は、皆人を択ぶべし」と。

明年、昭文館直学士を加えられ、堂後官を兼ねた。さらに諫議大夫を加えられ、翰林侍講学士に遷った。礼部尚書に改められ、翰林学士に遷り、太常卿・修国史を兼ね、尚書はもとの如くであった。昉は天会十二年より礼部に入り、在職すること凡そ七年であった。当時、朝廷はまさに礼を議し、制度は因ることもあれば革することもあったので、故に昉は礼部にて太常を兼ねること甚だ久しかったという。済南尹を除され、参知政事を拝した。皇統四年、表を上って致仕を乞うたが、許されなかった。六年、再び表を上って致仕を乞うたので、乃ち汴京留守を除し、鄆国公に封ぜられた。再び初めの如く請うたので、儀同三司をもって致仕した。天徳初め、開府儀同三司を加えられた。薨じた。年六十八。

昉の性は仁厚で、物に接するに甚だ寛大であった。家奴が昉が馬の資を以て叛人を送り出したと誣告したが、これを考証しても事実無根であり、有司は奴を昉に還したが、昉は初めの如くこれに接し、曰く、「奴が主人を罪に誣いるのは、良とならんことを求めるのみ、何ぞ怪しむに足らんや」と。人はその長者たるを称えた。昉は貴い身分であったが、読書を手から離さず、文をよくし、最も詔冊に長じ、『太祖睿徳神功碑』を作り、当世に称えられた。高麗より使いして帰って後、高麗の使者が至るごとに、必ず昉の安否を問うたという。

蔡松年

蔡松年は、字を伯堅という。父の靖は、宋の宣和末年に燕山を守った。松年は父に従って来て、管勾機宜文字となった。宗望の軍が白河に至り、郭薬師が敗れると、靖は燕山府を以て降り、元帥府は松年を辟いて令史とした。天会年中、遼・宋の旧官ある者は皆換授され、松年は太子中允となり、真定府判官を除され、ここより真定の人となった。

嘗て元帥府に従って斉とともに宋を伐った。この時、真定西山の群盗を初めて平定したばかりで、山中の居民で賊に汚された者が千余家あり、松年は力を尽くして弁論し、ついに罪に坐せられることを免れた。斉国が廃され、行台尚書省を汴に置くと、松年は行台刑部郎中となり、都元帥宗弼が行台事を領し、宋を伐つに及び、松年は軍中六部事を兼ねて総べた。宋が臣を称し、師が還ると、宗弼は入朝して左丞相となり、松年を刑部員外郎に推薦した。皇統七年、尚書省令史の許霖が田玨の党の事を告げた。松年は平素より玨と仲が良くなかった。この時宗弼が国政を執り、玨の性は剛正で、人物を評論することを好み、その党は皆君子であり、韓企先が宰相としてこれを愛重した。而して松年・許霖・曹望之は玨と結ぼうとしたが、玨はこれを拒んだ。ここより怨みを構えた。故に松年・許霖は玨等の罪状を構成し、宗弼を勧めてこれを誅させ、君子の党は熄んだ。この歳、松年は左司員外郎に遷った。

松年は以前宗弼の府におり、海陵は宗室の子として宗弼の軍中に任使されていたので、これにより厚く善しとした。天徳初め、吏部侍郎に抜擢され、俄かに戸部尚書に遷った。海陵が中都に遷都すると、榷貨物を移して都城を実にし、また鈔引法を復したが、皆松年よりこれを啓いた。海陵は宋を伐たんと謀り、松年が家世宋に仕えたので、故に急に顕位に抜擢して南人の観聴を聳えさせ、遂に松年を以て賀宋正旦使とし、使いより還って吏部尚書に改め、尋いで参知政事を拝した。この年、崇徳大夫より銀青光禄大夫に進み、尚書右丞に遷った。未だ幾ばくもせず、左丞となり、郜国公に封ぜられた。

初め、海陵は宋の使人の山呼の声を愛し、神衛軍にこれを習わせた。及んで孫道夫が正隆三年の正旦を賀するに及び、入見したが、山呼の声が往年の来たる者に類しなかった。道夫が退くと、海陵は宰臣に謂って曰く、「宋人は我が神衛軍にその声を習わせたことを知った。これは必ず蔡松年・胡礪がこれを漏らしたのだ」と。松年は惶恐して対えて曰く、「臣もしこの心を懐かば、便ち族滅に当たるべきです」と。

久しくして、右丞相に進拝され、儀同三司を加えられ、衛国公に封ぜられた。正隆四年に薨じた。年五十三。海陵はこれを悼惜し、その第に奠し、命じて祭文を作らせて意を見せた。呉国公に加封し、諡して文簡といった。その子の三河主簿珪を起復して翰林修撰とし、璋には進士第を賜った。翰林待制の蕭籲を遣わしてその喪を護送させ、真定に帰葬せしめ、四品以下の官は都城を離れること十里これを送り、道路の費用は皆官より給した。

松年は継母に事えること孝をもって聞こえ、親党を周恤することを喜び、性また豪侈で、家の有無を計らなかった。文詞は清麗で、特に楽府に工み、呉激と斉名し、時に「呉蔡体」と号した。集が世に行われた。子に珪あり。

子は珪。

珪は字を正甫という。進士第に及第し、調任を求めず、久しくして澄州軍事判官に除され、三河主簿に遷る。父の喪に服し、起復して翰林修撰、同知制誥となる。職に在ること八年、戸部員外郎に改め、太常丞を兼ねる。珪は辨博と号され、凡そ朝廷の制度の損益は、珪が編類詳定檢討刪定官となった。

初め、両燕王の墓は旧く中都東城外にあり、海陵が京城を拡張して囲むと、墓は東城内となった。先に嘗て盗賊がその墓を発掘したことがあり、大定九年に詔して城外に改葬す。俗に六国の時の燕王及び太子丹の葬ると伝え、壙を啓くと、その東の墓の柩に題するに其の和に「燕霊王舊」と曰う。「舊」は古い「柩」の字、通用す。乃ち西漢高祖こうその子劉建の葬る所なり。その西の墓は、蓋し燕康王劉嘉の葬る所なり。珪は『両燕王墓弁』を作り、葬制・名物・款刻に拠ること甚だ詳しい。

安国軍節度判官高元鼎は監臨奸事に坐し、太常博士田居実・大理司直呉長行・吏部主事高震亨・大理評事王元忠に援けを求む。震亨はこれを鞠問官御史臺典事李仲柔に嘱し、仲柔これを発す。珪は刑部員外郎王翛・宛平主簿任詢・前衛州防禦判官閻恕・承事郎高復亨・文林郎翟詢・敦武校尉こうい王景晞・進義校尉任師望と、居実等と転相伝教し、或いは元鼎をして逃避せしめた罪に坐し、居実・長行・震亨・元忠は各々杖八十、翛・珪・詢・恕・復亨・霍詢は各々笞四十、景晞・師望は各々徒二年、官贖の外並びに的決せらる。

久しくして、河東北路転運副使に除され、復た入りて修撰となり、礼部郎中に遷り、真定県男に封ぜらる。珪は既に風疾を得て、失音し言う能わず、乃ち濰州刺史に除せらる。同輩は既に奏謝すれども、珪独り入見することができず。世宗、右丞唐括安礼・参政王蔚を譲りて曰く、「卿等書史を閲す、亦た言う能わざるの人に政に従うべき者あらんや」と。又た中丞劉仲誨に謂いて曰く、「蔡珪風疾にして奏謝す能わず、卿等何ぞこれを糾さざる。人の言うに卿等相い党蔽すと、今果然なるか」と。珪乃ち致仕す。尋いで卒す。

珪の文に『補正水経』五篇あり、沈約・蕭子顕・魏収の宋・斉・北魏志を合わせて『南北史志』三十巻、『続金石遺文跋尾』十巻、『晋陽志』十二巻、『文集』五十五巻を作る。『補正水経』・『晋陽志』・『文集』は今存し、余は皆亡ぶ。

呉激

呉激は、字を彦高といい、建州の人。父は拭、宋の進士、官は終に朝奉郎・蘇州知事。激は、米芾の婿なり。詩を工み文能くし、字画俊逸、芾の筆意を得る。特に楽府に精しく、造語清婉、哀しみて傷まず。宋の命を将いて金に至り、知名を以て留め遣わさず、翰林待制に命ぜらる。皇統二年、出でて深州を知り、官に到ること三日にして卒す。詔して其の子に銭百万・粟三百斛・田三頃を賜い以て其の家を周済す。『東山集』十巻世に行わる。「東山」は其の自号なり。

馬定国

馬定国は字を子卿といい、茌平の人。少より志趣群を同じくせず。宣和・政和の末に酒家の壁に詩を題し、坐して譏訕し罪を得、亦た因りて以て知名となる。阜昌の初め、歴下に遊び、詩を以て斉王劉を撼かし、豫大いに悦び、監察御史を授け、官は翰林学士に至る。『石鼓』は唐以来定論無く、定国は字画を以てこれを考うるに、宇文周の時に造ると云い、弁を万余言作り、伝記に出入し、引拠甚だ明らか、学者は以て蔡正甫の『燕王墓弁』に比す。初め、詩を学ぶに入る処無く、夢に其の父方寸の白筆を与うるを見、是より文章大いに進む。集世に伝わる。

任詢

任詢は、字を君謨といい、易州軍市の人。父は貴、才幹有り、画を善くし、兵を談ずるを喜び、宣和・政和の間江・浙に遊ぶ。詢は虔州に生る。人となり慷慨大節多し。書は当時第一と為し、画も亦た妙品に入る。評する者は画は書より高く、書は詩より高く、詩は文より高いと謂う。然れども王庭筠独り其の才具を以て之を許す。正隆二年進士第に登る。歴て益都都勾判官、北京塩使。年六十四にして致仕し、郷里に優遊し、家に法書名画数百軸を蔵す。年七十にして卒す。

趙可

趙可は、字を献之といい、高平の人。貞元二年進士。官は翰林直学士に至る。博学高才、卓犖不羈。天徳・貞元の間、場屋に声有り。後に翰林に入り、一時の詔誥多く其の手に出づ、流輩其の典雅を服す。其の歌詩楽府特に工み、『玉峰散人集』と号す。

郭長倩

郭長倩は、字を曼卿といい、文登の人である。皇統丙寅の経義乙科に及第した。官は秘書少監に至り、礼部郎中を兼ね、起居注を修めた。施朋望・王無競・劉岩老・劉無党と親しく交わった。著した『石決明伝』は当時の人々に称賛された。『昆侖集』が世に行われている。

蕭永祺

蕭永祺は、字を景純といい、本名は蒲烈である。幼少より学問を好み、契丹の大小の字に通じた。広寧尹耶律固が詔を奉じて書を訳すこととなり、蕭永祺はその門下に置かれたため、その学業をことごとく伝授された。耶律固が没すると、蕭永祺は門弟を率いて斉衰の喪に服した。耶律固が『遼史』を撰して未完成であったが、蕭永祺がこれを継ぎ、紀三十巻・志五巻・伝四十巻を作り、朝廷に上った。宣武将軍を加えられ、太常丞に任じられた。

海陵王が中京留守であった時、蕭永祺は特に親しく礼遇された。天徳初年、左諫議大夫に抜擢され、翰林侍講学士に転じ、国史を同修し、さらに翰林学士に転じた。翌年、承旨に転じた。尚書左丞耶律安礼が南京を守るために出向することとなり、海陵王は蕭永祺をこれに代えようとし、内閣に召し出して旨意を諭したが、蕭永祺は辞して言うには、「臣が才識卑下であり、執政の任を辱めるには足りません」と。海陵王は言った、「今、天下は事なく、朕はまさに文治をもって臨もうとしている。卿はこれに優れている」。蕭永祺は固く辞した。退出した後、ある者が尋ねて言うには、「公は人主の知遇に遇い、爵位を進め、道をもって時に佐けるのに、どうしてこれほど辞退なさるのか」と。蕭永祺は言った、「執政は天下の休戚にかかわる。たとえ栄寵を貪り求めたくとも、民衆をどうするというのか」。海陵王はかつて廷臣十人を選んで諮問に備えさせたが、蕭永祺のみが議論が寛厚で、当時、長者と称された。五十七歳で没した。

胡礪

胡礪は、字を元化といい、磁州武安の人である。幼少より学問に熱中した。天会年間、大軍が河北を攻め下した時、胡礪は兵士に掠め取られ、燕まで行き、香山寺に逃れて匿れ、雇い人らと雑居した。韓昉がこれを見て異才を感じ、詩を賦して志を示すよう命じたところ、胡礪は筆を執ってたちまち作り上げ、趣きが清らかで婉麗であったので、韓昉は大いに喜び、そこで門下に住まわせ、自分の子と同様に教育し、これより学業は日々進んだ。韓昉はかつて人に言った、「胡生の才器は一日千里、他日必ず世に名を成すであろう」。十年、進士の第一に挙げられ、右拾遺に任じられ、権翰林修撰を兼ねた。久しくして、定州観察判官に改めた。定州の学校は河朔で第一であり、士子が集まって住む者は常に百数を数えたが、胡礪は倦まずに教育を監督し、指導を受けた者は皆、科挙の上位者となり、その模範的文章を「元化格」と称した。

皇統初年、河北西路転運都勾判官となった。胡礪の性格は剛直で屈することがなかった。行台平章政事高楨が汴に行く途中、真定を通り、漕司で宴を開いた。胡礪が着席しようとすると、高楨がこれを責めたので、胡礪は言った、「公が政府にあれば礼は百僚を絶つが、今日の会には賓主の礼がある」。高楨は言った、「汝、他日に省吏となったらどうするか」。胡礪は言った、「官に任じられて行動するのみで、何を避けようか」。高楨はその言葉を雄壮と感じ、改めて謝した。

同知深州軍州事に改め、朝奉大夫を加えられた。郡守が暴虐で、僚属を蔑視したが、胡礪は常に礼をもってこれを折り、郡守は恥じて服し、郡の事はすべて胡礪に委ねた。州は五県を管轄し、例として弓手百余を置き、少ない所でもなお六七十人おり、毎年、民から五千余万の銭を徴収して雇い賃としていた。その者らは皆、市井の無頼の徒で、盗賊を探る名目で、至る所で民を煩わせていた。胡礪はその弊害を知り、ことごとく廃止した。その後、流言が飛んで言うには、「ある日に賊が起こり、通守を殺すであろう」と。ある者が備えを請うたが、胡礪は言った、「盗賊が求めるのは財貨のみ。我はかくも貧しいのに、何を備えようか」。その夜、官署の門の閂を外すよう命じたが、結局何事もなかった。

再び翰林修撰に補され、礼部郎中に転じ、一時、典礼の多くを裁定した。海陵王が平章政事に任じられた時、百官が廟堂で祝賀したが、胡礪のみが跪かなかった。海陵王がその理由を問うと、胡礪は法令をもって答え、かつ言った、「朝服して跪くのは、君父に対する礼であります」。海陵王は深く彼を器重した。天徳初年、再び侍講学士に転じ、国史を同修した。母の喪により官を去った。喪中に召し出されて宋国歳元副使となり、刑部侍郎白彦恭が正使となった。海陵王は胡礪に言った、「彦恭の官は卿より下であるが、その旧功により、卿を副使としたのである」。翰林学士に転じ、刑部尚書に改めた。扈従して汴に至り病を得たが、海陵王はたびたび使者を遣わして見舞わせた。没し、深く悼み惜しまれた。五十五歳。

王競

王競は、字を無競といい、彰徳の人である。機敏で学問を好んだ。十七歳で蔭により官に補された。宋の宣和年間、太学で二度試験に合格し、屯留主簿に任じられた。本朝に入り、大寧令に任じられ、宝勝塩官を歴任し、河内令に転じた。当時、凶作で盗賊が起こったが、王競は方略を設けて賊を懸賞し、数ヶ月でことごとく捕らえた。夏秋の頃、沁水が氾濫し、毎年、民を発して堤防を築かせていたが、豪民や狡猾な役人がこれに乗じて不正を行っていた。王競はこれを実査し、費用をほぼ半減させた。県民はこのことを謡って言った、「西山から河岸まで、県官は二人半」。これは前任の韓希甫と王競が相次いで県を治め、いずれも有能であり、絳州正平令の張元も治績があったがやや及ばなかったため、このように言ったのである。

天眷元年、固安令に転じた。皇統初年、参政韓昉に推薦され、権応奉翰林文字に召され、太常博士を兼ねた。詔により『金源郡王完顔婁室墓碑』を作ることとなり、王競は行状にその実を尽くしたため、国史に刑正を請い、当時の人々はこれを規範とした。二年、館閣の試験があり、王競の文章が最上となり、そこで真の官となった。

尚書礼部員外郎に転じた。当時、海陵王が国政を執り、政は己より出で、百官に堂諱を避けさせようとしたが、王競は人臣に公諱はないと進言し、そこで止んだ。蕭仲恭が太傅として三省事を領し王に封ぜられ、遼の故事に依拠して、親王に紫羅傘を用いようとした。事が礼部に下ると、王競と郎中翟永固が明らかにその非を言い、事はついに行われず、海陵王はこれにより彼を重んじた。天徳初年、翰林待制に転じ、翰林直学士に転じ、礼部侍郎に改め、翰林侍講学士に転じ、太常卿に改め、国史を同修し、礼部尚書に抜擢され、国史同修はもとの通りであった。大定二年春、太傅張浩に従って京師に朝し、詔により再び礼部尚書となった。この年、睿宗の山陵を奉遷することとなり、儀注が典礼に応じなかったため、王競は官を二階削られた。詔により五龍車を新造することとなり、翰林学士承旨を兼ね、国史を修した。四年、官のまま没した。

王競は博学で文を作ることができ、草書・隷書をよくし、大字を巧みにし、両都の宮殿の扁額の題字は皆、王競の書であり、士林では第一と推されたという。

楊伯仁

楊伯仁は、字を安道といい、伯雄の弟である。天性孝友にして、書を読めば一遍で暗誦した。皇統九年の進士第に及第し、親に仕えて官職を求めなかった。天徳二年、応奉翰林文字に任じられた。初めは伯英と名乗っていたが、太子光英の諱を避けて、今の名に改めた。海陵帝が夜に召して詩を賦させ、伝達が甚だ急であったが、二更前に十詠を奏上すると、海陵帝は喜び、衣を解いて賜った。海陵帝が烏を射ると、伯仁は『獲烏詩』を献じて諷諫した。父の喪に服し、起復して金帯と襲衣を賜り、また白金を賜って母に仕えさせた。左拾遺に改めた。進士の呂忠翰は廷試で既に第一であったが、唱名されないうちに、海陵帝は忠翰の程文を伯仁に示し、その優劣を問うと、伯仁は「優等にあるべきです」と答えた。海陵帝は「これは今度の試みの状元である」と言った。伯仁は忠翰の姓名が第一であることを知ったので、諫省に宿直し、唱名されてから出たので、海陵帝はその慎重さを賞賛した。翰林修撰に転じた。孟宗献が発解で第一となり、伯仁はその程文を読み、「この人は必ず大名を成すであろう」と称賛した。この年、宗献は府試・省試・廷試すべて第一となり、「孟四元」と号され、当時の論は伯仁を文を知る者とした。故事では、状元の官は従七品、階は承務郎であったが、世宗は宗献が特に異等であるとして、従六品とし、階を奉直大夫に授けた。

著作郎に改めた。母の喪に服し、喪が明けると、鎮西節度副使に転じた。入朝して起居注兼左拾遺となり、時務について六事を上書して論じた。大名少尹に改めた。郡中の豪民が甚だ横暴で、制することができず、民はその害を受けたが、伯仁はその徒党を徹底的に追及し、四境は平穏となった。館陶の大辟を審理してその冤状を得たので、館陶の人は祠を立てた。府尹の荊王文が贓罪で封を削られ、德州防禦使に降格されると、同知の裴満子寧および伯仁・判官の謝奴は皆、匡正できなかったとして解職された。伯仁は南京留守判官に降格され、同知安化軍節度使に改められたが、着任して三日で、太子右諭徳兼侍御史に召され、翰林待制に改め、再び右諭徳を兼ねた。

濱州刺史に任じられた。郡の風習として、奴隷を逃亡させて捕らえ、賞金を図る者があったが、伯仁が着任すると、その主人を責めて奴隷を杖殺し、このような者が数輩いたが、その弊害は止んだ。入朝して左諫議大夫となり、礼部侍郎・翰林直学士を兼ねた。故事では、諫官や詞臣は禁中に入直したが、上はその労を憐れみ、特に入直を免除した。吏部侍郎に改め、直学士はもとのままとした。鄭子聃が卒すると、宰相が伯仁を推挙して代えさせたので、侍講兼礼部侍郎に遷った。

伯仁は久しく翰林に在り、文詞は典麗であった。上は言った、「韓昉・張鈞の後には翟永固があり、近ごろでは張景仁・鄭子聃があり、今では伯仁のみである。その次には文を能くする者を見ない。呂忠翰が『降海陵庶人詔』を起草したが、点竄を重ねても、終に朕の意に尽くせなかった。状元は詞賦で天下に甲たるも、辞命に至っては必ずしも皆能くするとは限らない。凡そ進士は外補させ、文を能くする者を考えて召し用いるべし」と。数か月も経たず、左諫議大夫を兼ね、まもなく太常卿を兼ねた。大臣が起居注を修めるに足る者を数人挙げたが、上は伯仁にこれを領させた。上京に従駕したが、伯仁は病多く、臨潢に至り、地寒のために疾を感じ、中都に還った。翌年、上が中都に還幸すると、使者を遣わして労問し、丹剤を賜った。この年、卒した。

鄭子聃

鄭子聃は、字を景純といい、大定府の人である。父の宏は、遼の金源令であり、二子の子京・子聃があった。楊丘行は嘗て人に言った、「金源の二子は、鳳毛である。小さい方は特に特達で、後必ず世に名を成すであろう」と。子聃は冠すると、賦を能くする名声があった。天徳三年、丘行が太子左衛率府率であった時、廷試の翌日、海陵帝は子聃の程文を丘行に示すと、答えて言った、「甲乙に入るべし」と。及んで巻を拆くと、果たして第一甲第三人であった。翼城丞に転じ、贊皇令に遷り、書画直長に召された。

子聃は頗る才望を以て自ら負い、常に第一甲第一人となれなかったことを慊としていた。正隆二年、会試が終わると、海陵帝は第一人の程文を子聃に問うと、子聃はこれを軽んじた。海陵帝が賦を作るのはどうかと問うと、答えて言った、「甚だ易しい」と。因って自ら矜り、且つ他人は己に及ばないと謂った。海陵帝は悦ばず、乃ち子聃をして翰林修撰の綦戩・楊伯仁・宣徽判官の張汝霖・応奉翰林文字の李希顔と同進士を雑試させた。七月癸未、海陵帝は宝昌門に臨軒して試みを観、『不貴異物民乃足』を賦題とし、『忠臣猶孝子』を詩題とし、『憂國如饑渴』を論題とした。上は読巻官の翟永固に謂って言った、「朕が賦題を出すのは、言える者或いは行える者、未だ知るべからざるなり。詩・論題は、庶くは臣下を戒めんとするなり」と。丁亥、便殿に臨んで親しく試巻を覧、中第する者七十三人、子聃は果たして第一となり、海陵帝はこれを奇とした。しばらくして、官階三階を進め、翰林修撰に任じた。侍御史に改めた。

京畿が旱魃となると、詔して子聃に囚人を決断させたところ、遂に慈雨が降り、人は顔真卿に比した。待制に遷り、吏部郎中を兼ね、秘書少監に改めた。翰林直学士に遷り、太子左諭徳を兼ね、顕宗は深く器重した。疾を以て外補を求めたので、遂に沂州防禦使となり、皇太子は幣贐を甚だ厚くし、安輿に乗せて赴任させた。召還されて左諫議大夫兼直学士となった。吏部侍郎・同修国史に改め、直学士はもとのままとした。侍講兼修国史に遷り、上は言った、「『海陵実録』を修めるには、その詳しさを知る者は子聃に如く者なし」と。蓋し史事を専らに責めたのである。二十年、卒し、年五十五。子聃は英俊にして直気あり、その文もまた然りであった。平生著した詩文二千余篇。

党懐英

党懐英は、字を世傑といい、故宋の太尉進の十一代孫、馮翊の人である。父の純睦は、泰安軍録事参軍で、官に卒し、妻子は帰ることができず、因ってここに家した。応挙して意を得ず、遂に世務を脱略し、山水の間に放浪した。簞瓢屡空と雖も、晏如たり。大定十年、進士第に及第し、莒州軍事判官に転じ、累遷して汝陰県令・国史院編修官・応奉翰林文字・翰林待制兼同修国史となった。

懐英は文を属することを能くし、篆籀に巧みで、当時第一と称され、学者はこれを宗とした。大定二十九年、鳳翔府治中の郝俁と共に『遼史』刊修官となり、応奉翰林文字の移剌益・趙渢ら七人を編修官とした。凡そ民間の遼時の碑銘墓誌及び諸家の文集、或いは遼の旧事を記憶するものは、悉く官に上送させた。この時、章宗が初めて即位し、文辞を好尚し、旁らに文学の士を求めて侍従に備え、宰臣に謂って言った、「翰林に人を欠くは如何にすべきか」と。張汝霖が奏して言った、「郝俁は文を属することを能くし、宦業もまた佳し」と。上は言った、「近ごろの制詔は惟だ党懐英が最も善し」と。移剌履が進みて言った、「進士は第を擢げた後は吏事を習うのみで、更に書を読まず、近ごろ始めて学を為すことを知りました」と。上は言った、「今時の進士は甚だ滅裂で、『唐書』中の事も多く知らず、朕は殊に喜ばない」と。上は宰臣に謂って言った、「郝俁は賦詩頗る佳し、旧時は劉迎がこれを能くし、李晏は及ばなかった」と。

明昌元年、懐英は再び国子祭酒に遷った。二年、侍講学士に遷った。翌年、辺防の濠塹を開くことを議し、懐英ら十六人はその役の罷止を請い、詔してこれに従った。翰林学士に遷った。七年、南郊に事あり、中書侍郎を摂り祝冊を読み、上曰く、「冊を読むに朕の名に至り、声微かに下る、君を尊ぶとは曰えども、然れども郊廟に在りては、礼宜しき所に非ず、平らにこれを読むべし」と。承安二年、致仕を乞い、泰寧軍節度使に改めた。翌年、召されて翰林学士承旨となす。泰和元年、『遼史』の増修に編修官三員を増し、詔して紀・志・列伝に分かち刊修官とし、改除ある者は書を以て自ら随う。久しくして、致仕した。大安三年卒す、年七十八、諡して文獻という。懐英の致仕後、章宗は直学士陳大任に詔して『遼史』を継ぎ成さしめたという。