金史

列傳第五十九: 忠義一(胡沙補、特虎、僕忽得、粘割韓奴、曹珪、溫蒂罕蒲睹、訛里也、納蘭綽赤、魏全、鄯陽、夾穀守中、石抹元毅、伯德梅和尚、烏古孫兀屯、高守約、和速嘉安禮、王維翰、移剌古與涅、宋扆、烏古論榮祖、烏古論仲溫、九住、李演、劉德基、王毅、王晦、齊鷹揚、朮甲法心、高錫)

列傳第五十九 忠義一 ○胡沙補、特虎、僕忽得、粘割韓奴、曹珪、溫蒂罕蒲睹、訛里也、納蘭綽赤、魏全、鄯陽、夾穀守中、石抹元毅、伯德梅和尚、烏古孫兀屯、高守約、和速嘉安禮、王維翰、移剌古與涅、宋扆、烏古論榮祖、烏古論仲溫、九住、李演、劉德基、王毅、王晦、齊鷹揚、朮甲法心、高錫

欒共子曰く、「民生は三にあり、これを事うること一の如し。ただその所在するところに従い、則ちこれに致死す」と。公卿大夫その位に居り、その祿を食む者、国家に難あれば、朝廷に在る者はその官に死し、郡邑を守る者は城郭に死し、軍旅を治むる者は行陣に死す。市井草野の臣、憤りを発して死するも、皆その然るべきところなり。故に死してその所を得れば、則ち欲する所は生に甚だしき者有り。金代、死節の臣を褒め、既に官爵を贈り、仍ってその子孫を録用す。貞祐以来、その礼加わり、祠を立て碑を樹て、歳時祭を致す。至れりと謂うべし。聖元、遼・金・宋史を修めよと詔し、史臣凡例を議す。凡そ前代のその事に忠なる者は、請うらくはこれを書いて諱ること無からんことを。朝廷これに従う。嗚呼、仁なるかな聖元の政たるや。司馬遷、讓の趙襄子に対する言を記して曰く、「人主は人の美を掩わず、而して忠臣に成名の義有り」と。至言なるかなこの言、聖元の政たるや、以て万世の訓たり足る。『忠義傳』を作る。

胡沙補

胡沙補は、完顔部の人なり。三十五歳にして軍に従い、頗る任用を見る。太祖、僕刮剌をして遼国に往きて阿竦を請わしむ。実にその形勢を観察せしむるなり。僕刮剌還りて言う、遼兵その数を知らずと。太祖これを疑い、胡沙補をして往かしむ。還りて報じて曰く、「遼兵兵を調べ、未だ大いに集まらず」と。及び統軍に謁見し、その孫をして甲を被りて傍に立たしむ。統軍曰く、「人の謂う、汝輩且く反せんと、故に備えを為すのみ」と。及び道中にて、渤海軍に遇う。渤海軍、胡沙補に向かって且つ笑い且つ言う、「女直の乱を為さんと欲すと聞く、汝輩は是れか」と。具に以て太祖に告ぐ。又曰く、「今大事を挙ぐるに、時に後るるべからず。若し河の凍るを俟てば、則ち遼兵盛んに集まり来たりて攻めん。その未だ集まらざるに乗じて早くこれを伐てば、志を得べし」と。太祖深くこれを然りとす。及び甯江州を破り、達魯古城に戦いて、皆功有り。旗鼓並びに禦器械を賜う。高永昌和を請う。胡沙補往きてこれを招く。胡突古を取って以て帰る。高永昌、詐りて斡魯に降る。斡魯、胡沙補・撒八をして往きて報ぜしむ。会うに高楨降り、永昌真の降る者に非ざるを言う。斡魯乃ち兵を進む。永昌怒り、遂に胡沙補・撒八を殺す。皆これを支解す。胡沙補執わるるに及び、神色自若たり。永昌を罵って曰く、「汝は君に叛き天に逆らう。今日我を殺すも、明日は汝に及ばん」と。罵り絶えず口にし、死に至る。年五十九。天会中、撒八と俱に遙鎮節度使を贈らる。

特虎

特虎は、雅撻瀾水の人なり。軀幹雄偉にして、敢えて戦闘す。達魯古城の役、活女敵に陥る。特虎これを救い出す。照散城を攻む。遼兵三千来たりて拒ぐ。特虎先登し、これを敗る。盧葛営を攻む。麻吉馬より墮つ。特虎独り遼兵数輩を殺し、掖えてこれを出だす。賞賚渥きに逾ゆ。臨潢より班師し、遼河に至る。餘睹来たりて襲う。婁室已に引き去る。特虎独り殿す。馬憊れて乃ち歩いて闘う。婁室数騎を率いて来たりて救わんとす。特虎止めて曰く、「我一死を以て敵を捍ぐ。公来る勿れ。俱に毙れて益無し」と。遂に陣に没す。皇統間、明威将軍を贈らる。

僕忽得

僕忽得は、宗室の子なり。初め国相撒改に事え、蕭海里を伐つに功有り。酬斡と俱に、燭偎水部族を招降す。酬斡は謀克と為り、僕忽得は行軍千戸を領す。黄龍府を破り、達魯古城に戦いて、皆功有り。甯江州の渤海人乙塞補叛く。僕忽得これを追い復す。天輔五年九月、酬斡・僕忽得、鱉古河に往きて軍馬を籍す。燭偎水部の実里古達等七人、酬斡・僕忽得を殺し、その屍を水中に投ず。俱に年四十三。太祖悼み惜しみ、使を遣わして吊賻を加え等を加う。六年正月、斡魯、実里古達を石里罕河に伐つ。合撻剌山に追い及び、四人を殺し、余衆を撫定す。詔して斡魯に酬斡・僕忽得の屍を求めて以て葬らしむ。天眷中、酬斡に奉国上将軍を、僕忽得に昭義大将軍を贈る。

酬斡も亦た宗室の子なり。十五歳にして軍に隷し、太祖に従い遼を伐つ。濤温路の兵を率い、三坦・石里很・跋苦三水の鱉古城邑を招撫し、皆これを降す。室韋五百を阿良葛城に敗り、その民眾を獲る。ここに至りて死す。

粘割韓奴

粘割韓奴は、護衛を以て宗弼に従い征伐し、鎧甲弓矢戦馬を賜う。初め、太祖居庸関に入る。遼の林牙耶律大石、古北口より亡び去り、その衆を以て来たりて奉聖州を襲い、龍門の東二十五里に壁す。婁室往きてこれを取り、大石を獲て並びにその衆を降す。宗望、遼主の輜重を青塚に襲うに、大石を以て郷導と為す。詔して曰く、「遼の趙王習泥烈・林牙大石・北王喝里質・節度使訛里刺・孛堇赤狗兒・招討迪六・祥穩六斤・同知海里及び諸官民、並びにその罪を釈す」と。また詔して斡魯に曰く、「林牙大石は降附に非ざれども、その郷導として労有り。明らかにこれを諭すべし」と。時に天輔六年なり。既にして亡び去り、往く所を知らず。

天会二年、遼の詳穩撻不野が来降し、大石が北方において王を称し、南北面の官僚を署置し、戦馬万匹を有し、畜産甚だ衆しと言う。詔して曰く、「遼主を追襲するには、必ず事の宜しきを酌みて行うべし。大石を攻討するには、報下を俟つべし」と。三年、都統完顔希尹言う、夏人が耶律大石と約して曰く、「大金既に遼主を獲たり、諸軍皆将に帰せんとす、宜しく兵を合して以て山西諸部を取るべし」と聞くと。詔して答えて曰く、「夏人或いは大石と合謀して釁を為すこと有らん、察せざるべからず、其れ厳に之を備えよ」と。七年、泰州路都統婆盧火奏す、「大石已に北部二営を得たり、後難制せんことを恐れ、且つ群牧に近し、宜しく屯戍を列ぬべし」と。詔して答えて曰く、「二営の故を以て兵を発せば、諸部必ず擾る、当に謹んで斥候するのみ」と。八年、耶律余睹・石家奴・抜離速を遣わして大石を追討せしめ、諸部に兵を徴す。諸部従わず、石家奴は兀納水に至りて還る。余睹、元帥府に報じて曰く、「耶律大石が和州の域に在るを聞く、夏人と合するを恐る、当に使を遣わして之を索すべし」と。夏国報じて曰く、「小国は和州と壤地相接せず、且つ大石の往く所を知らず」と。皇統四年、回紇使を遣わして入貢し、大石が其の国と相隣り、大石已に死すと言う。詔して韓奴を遣わし其の使と俱に往かしめ、因りて其の国の風俗を観しめ、武義将軍を加え、大石に奉使せしむ。韓奴去りて後復た聞問せず。

大定年間に、回紇の移習覽なる三人が西南招討司に至り貿易し、自ら言うには、「本国は回紇鄒括番部にて、居住する城の名は骨斯訛魯朵、俗に兵器なく、田を以て業とし、収穫の十分の一を官に納む。耆老の伝えるところによれば、先年契丹が至りて拒む能わず、因ってこれに臣す。契丹の居住する屯営は、馬に乗りて朝より日中に至りて始めて周匝す。近年契丹はその女婿阿本斯に兵五万を領かせて北進し葉不輦等の部族を攻むるも、克たずして還り、今に至るまで相攻やまず」と。詔して曰く、「この者は朝廷に隷せざる番部の者なり、発遣するを須いず、咸平府の旧来よりある回紇人の中に安置し、失所せしむることなかれ」と。

この年、粘抜恩の君長撒里雅寅特斯は康里部の長孛古を率いて戸三万餘を以て内附を求め、以前大石の降した牌印を納め、朝廷の牌印を受けることを乞うた。詔して西南招討司に人を遣わして慰問せしめ、且つその意を観察せしむ。禿里餘睹・通事阿魯帶がその国に至り撒里雅に会い、朝廷に帰順せんことを願い、牌印を降すことを乞うて、他意なきことを具に言う。因りて曰く、「往年、大国嘗て粘割韓奴を和州より遣わして大石に使わす。既にその境に入るや、大石は野に適わんとし、韓奴と相遇う。韓奴が何人なるかを問いて敢えて下馬せざるに、韓奴曰く、『我は上国の使なり、天子の命を奉じて汝を招き降さんとす。汝は下馬して詔を聴くべし』と。大石曰く、『汝は単使として来たり、口舌を事とせんとするか』と。人をして捽じ下らしめ、韓奴を跪かしむ。韓奴罵して曰く、『反賊よ、天子は爾に兵を加うるに忍びず、汝を招かしむ。爾は縦え面を縛して闕下に請罪する能わずとも、亦た天子の使を尽く敬すべきに、乃ち敢えて反って辱を加えんとするか』と。大石怒り、乃ち之を殺す。此時、大石林牙は既に死し、子孫相継ぎ、西方諸部は仍って大石を以て之を呼ぶ」と。余睹・阿魯帶還りて奏し、並びに韓奴の事を奏す。世宗、韓奴の忠節を嘉し、昭毅大将軍を贈り、その子永和県商酒都監詳古・汝州巡検婁室を召して之に諭して曰く、「汝が父は万里に使いを奉じ、君命を辱めず、能く死節を尽くせり。朕甚だ之を閔む」と。詳古を尚輦局直長と為し、武義将軍に遷し、婁室を武器署直長と為す。

曹珪

曹珪は徐州の人である。大定四年、州人江志が乱を起こし、珪の子弼が賊党の中にいたので、珪は志を誅殺することを謀り、弼をも併せて殺した。尚書省が議して、二官を補い雑班に叙すべきであるとした。詔して曰く、「圭は赤心を国に尽くし、大義親を滅す、古より未だ聞かざるなり。法は是の如しと雖も、然れども未だ其の功に当たるに足らず、更に一官を進め、正班を用いよ」と。

溫迪罕蒲睹

溫蒂罕蒲睹は兀者群牧使であった。西北路の契丹人撒八らが反乱を起こすと、諸群牧は皆これに応じた。蒲睹は乱の起こるを聞き、家奴の中から材勇ある者数十人を選び、兵仗を与えて、密かに備えを為した。賊は発動することができず、乃ち諸奴に欺いて曰く、「官が兵器を検閲するので、兵仗を借りて検閲に応じたい」と。諸奴はこれを真実と以為い、遂にこれを借り与えた。明くる朝、賊が至ると、蒲睹はこれを防ぐ術がなかった。賊は蒲睹を捕らえて之に問うて曰く、「今、反を欲するか未だか」と。蒲睹曰く、「吾が家は代々国より厚恩を受け、子や孫は皆仕宦している。汝らに従って反し、吾が族を累わすことはできない」と。賊は怒り、臠にして之を殺し、子と孫は皆害に与かった。

この時、迪斡群牧使の徒單賽里、副使の赤盞胡失答、耶魯瓦群牧使の鶴壽、歐里不群牧使の完顏朮里骨、副使の完顏辭不失、卜迪不部副使の赤盞胡失賴、速木典颭詳穩の加古買住、胡睹颭詳穩の完顏速沒葛、轄木颭詳穩の高彭祖等は皆、害に遇った。

鶴壽は、鄆王昂の子であり、本名は吾都不である。五院部の老和尚が衆を率いて来て鶴壽を招き、共に反乱を起こそうとしたが、鶴壽は言った、「私は宗室の子であり、国より厚い恩恵を受けている。私を殺すとも、賊と共に反乱を起こすことはできない」と。かくて二子と共に皆殺害された。

訛里也

訛里也は契丹の人である。尚廄局の直長となった。大定の初め、契丹を招諭した際、窩斡は訛里也に跪拝を命じて叱ったが、訛里也は従わず、言うには、「我は朝廷の使者である。どうして汝に節を屈することができようか。汝ら早く降伏すれば命を全うできるが、もし大軍が至れば、汝らは後悔しても及ばないであろう」と。窩斡は怒って言うには、「汝はもともと契丹の人であるのに、我に従わず、よくもこのような言葉を口にしたな」と。そこで彼を害した。従行したぎょう騎軍士の閏孫・史大・習馬小底の頗答は皆害された。三年、訛里也を宣武将軍に追贈し、その子阿不沙を外帳小底に任用した。閏孫・史大は皆修武校尉こういに追贈された。頗答は忠翊校尉に追贈された。

納蘭綽赤

納蘭綽赤は、咸平路伊改河猛安の人である。契丹の括里が人を遣わして彼を招いたが、綽赤は従わなかった。括里の兵が将に至らんとしたので、綽赤は遂に近傍の村寨を団結させて兵と為し、家の馬百余匹を出してこれを給し、戦陣の撃刺の法を教え、相与に括里を伊改の渡口に拒ぎ、これにより賊の衆は月余り進むことを得なかった。既にして括里の兵四万人が大いに至り、綽赤は拒戦したが、賊兵は十倍であり、遂に捕らえられ、臠にされて殺された。詔して官を二階贈り、二子は皆蔭を用いることを得た。

魏全

魏全は寿州の人である。泰和六年、宋の李爽が寿州を包囲したとき、刺史の徒単羲は城中の兵民および部曲・廝役をことごとく籍に載せて三千余人を得、機に応じて拒み守り、堅固であった。羲は撫御に長じ、衆情を得て、婦人に至るまで皆喜んで用いられた。同知の蒲烈古が流れ矢に当たって卒すると、羲はますます励んで衰えず、爽の営を斬りに行く者を募った。全はその選中にあり、爽の兵に捕らえられた。爽は全に言う、「もし我がために金主を罵れば、汝の死を免じよう」。全は城下に至り、かえって宋主を罵ったので、爽はこれを殺したが、死に至るまで罵り口を絶たなかった。

僕散揆は河南統軍判官の乞住及び買哥らに騎兵二千人を率いて寿州を救援させ、寿州から十余里の地点で爽の軍勢と遭遇した。乞住は両翼に分かれて爽の軍勢を挟撃し、これを大破し、首級一万余を斬り、敗走する敵を城下まで追撃し、その三つの柵を抜き、浮橋を焼き払った。羲が兵を出してこれに応じたため、爽の軍勢は大いに潰走し、淮水に赴いて死ぬ者が甚だ多かった。爽とその副将の田林は辛うじて身を逃れたのみで、残りの兵で脱出した者は十のうち四であった。詔して羲を防禦使に、乞住を同知昌武軍節度使事に、買哥を河南路統軍判官に遷任させた。

蒲烈古に昭勇大将軍を追贈し、その子の図剌に官職を与えた。

全に宣武将軍・蒙城県令を追贈し、その妻を郷君に封じ、州の官舎三間と銭百万を賜い、その子が年十五歳に至ったならば収めて八貫石正班局分承応に充て、追贈された官の蔭位を用い、なお全が節を死守したことを史館に送り、版を刻んで天下に頒諭させた。

鄯陽

鄯陽は宗室の子である。符宝祗候となった。完顔石古乃は護衛十人長となった。至寧元年八月、紇石烈執中が乱を起こし、通玄門より入った。この日、変事は倉卒に起こり、朝廷内外は如何すべきかを知らず、鄯陽と石古乃は天王寺へ赴き大漢軍五百人を召して難に赴き、執中と東華門外で戦った。執中は声高に言った、「大漢軍が反逆した、一人を殺す者には銀一錠を賞す」と。執中の兵は多く、大漢軍は少なく、二人は勝てずして死んだ。間もなく、執中の兵は五百人を殆ど殺し尽くした。

執中が死ぬと、詔して官爵を削いだ。詔して言った、「宣武将軍・護衛十人長完顔石古乃、修武校尉・符宝祗候鄯陽は、忠孝勇果にして王事に没した。石古乃に鎮国上将軍・順州刺史を、鄯陽に宣武将軍・順天軍節度副使を追贈する。かつて従って戦った猛安には銭五百貫、謀克には三百貫、蒲輦散軍には二百貫を賞し、各々二階を遷任する。戦没した者は、追贈と賞賜をその家に付与する。石古乃の子は尚幼いので、八貫石の俸給を与え、年十五に至ったならば上聞するように」と。

夾穀守中

夾穀守中は咸平の人で、本名は阿土古である。大定二十二年に進士となり、清池・聞喜の主簿を歴任し、尚書省令史を補し、刑部主事・監察御史・修起居注に除された。礼部員外郎・大名治中に転じ、嵩琢・北京・臨洮路按察副使を歴任した。憂いにより官を去り、起復して同知曷懶路兵馬都総管府事となり、事に坐して韓州刺史に謫され、尋いで同知平涼府事に復した。大安二年、秦州防禦使となり、通遠軍節度使に遷った。至寧の末、彰化軍に移るが、未だ赴任せず、夏兵数万が鞏州に入った。守中は城に乗じて守備したが、兵少なく支えられず、城は陥落し、官吏は皆降ったが、守中一人は屈しなかった。夏人はこれを壮とし、且つ誘い且つ脅したが、守中は益々堅く、遂に載せて西へ向かった。平涼に至り、府の人を招降するよう要請すると、守中は偽って承諾し、城下に至るや即ち大声で呼んだ、「外兵は矢が尽きて且つ逃げ去ろうとしている、慎んで降るなかれ」と。夏人は刃を交えて彼を殺した。

興定元年、監察御史郭著が秦中を巡行し、その事跡を得て上聞した。詔して資善大夫・東京留守を追贈し、なおその子の兀母を筆硯承奉に収めた。

石抹元毅

石抹元毅は本名を神思といい、咸平府路酌赤烈猛安莎果歌仙謀克の人である。蔭補により吏部令史となった。再び景州寧津令に調され、凶悪な盗賊が白昼恣に劫略して民の害となる者がいたが、元毅は術をもって防禦し、賊は散り去った。入朝して大理知法となり、同知亳州防禦使事に除され、省檄を受け、陝右五路の刑獄を録して、冤れる者無し。再び委せられて宋の歳幣を受け取ったが、故事に私的な贈り物があったが、元毅は一切受け取らなかった。明昌初め、駅伝で召されて大名等路提刑判官となり、最上の評判により遷って汾陽軍節度副使となった。時に石州・嵐州の間に賊党が嘯聚し、恣に剽掠を行い、朝廷は元毅にこれを捕らえることを命じたが、賊は畏れて遁走した。元毅は追襲し、これを悉く殪し、二境は以て安んじた。同知武勝軍節度使事に遷り、別郡に人を殺した者がおり、屡々鞠問しても服さなかったが、元毅が訊問すること数語ならずして、即ち服罪した。河東北路の田は多く山坂磽瘠であり、大比の時に上賦と定められ、民力は久しく困窮していたが、朝廷は地相を見て賦を改めることを命じ、元毅は三壤の法をもってこれを平らかにし、民はその利に頼った。彰徳府治中に改め、尋いで辺境の警報により撫州刺史を授かった。時に辺将が守りを失い、芻糧馬牛が焚剽されて殆ど尽き、元毅は吏卒三十余人を率いて州を出て軍餉を経画したが、卒然として敵と遭遇した。州の倅及び従吏は固く還ることを請うたが、元毅は言った、「我らは辺境を守る責任を負い、敵に遇って奔るならば、百姓を如何にせん。仮に自ら安んずるを得たとしても、復た何の面目あって朝廷を見ようか」と。遂に弓矢を執って衆を督した。衆はその忠に感じ、争って死を効した。元毅は力戦し、射るに中らざるは無かった。敵は去ってまた合し、元毅の気は愈々厲しく、鏖戦すること久しく、衆寡敵せず、遂に害に遇った。時に年四十七。事が上聞され、上は深く驚悼し、信武将軍を追贈し、その子の世勣を召して侍儀司承応に用いた。

世勣は後に進士第に登り、奏名の日、上は宰臣に謂って言った、「これは神思の子か」と。歎賞すること久しかった。元毅の性質は沈厚で、武勇は人に過ぎ、書を読む毎に古人の忠義の事跡を見れば、未だ嘗て嗟歎賞慕せず、喜びを顔色に動かさざるは無く、故に臨難にしてその事に死すことが出来たという。

伯徳梅和尚

伯徳梅和尚は泰州の人である。性質は鯁直で、気節を尚んだ。正隆五年、収めて護衛に充て、曷魯碗群牧副使を授かった。間もなく、再び召されて護衛十人長となり、尚廄局副使に改め、本局使に遷り、右衛将軍拱衛使に転じた。尚廄を典すること十余年、労を積んで特に官二階を遷し、復州刺史に除された。明昌初め、西北路副招討となり、泰州防禦使を収め、武勝軍節度使に昇った。六年、崇義軍に移鎮した。時に北辺に事有り、左丞相夾谷清臣が臨潢に行省し、檄を以って副統とした。敵が臨潢に入るに会い、梅和尚及び護衛の辟合土らは軍を領いてこれを逆撃した。敵は陣を積んで待ち受け、梅和尚は直ちにその陣を搗き、殺傷すること甚だ多かった。敵は孤軍に継ぎ無きを知り、兵を聚めてこれを囲んだ。免れ難きを度り、乃ち馬を下りて背を合わせて射、また百余人を殺し、矢尽きても尚弓を以って提げて撃ち、流れ矢に中たって死んだ。辟合土らは皆没した。

上はこれを聞いて震悼し、詔して龍虎衛上将軍を追贈し、十階を躐って遷し、特に銭二十万を賜い、礼を以って葬ることを命じ、費用は全て官が給し、その子の都奴を軍前猛安とし、中奴に喪を護らせ、就いて権同知臨潢府事李達可を差して勅祭使とし、同知徳昌軍節度使事石抹和尚を勅葬使とした。承安五年、上は尚書省に諭して言った、「梅和尚は王事に死し、その子の都奴は軍に従うこと久しく功有り、その酬い方を議せよ」と。乃ち典署丞に任ずることを命じた。

烏古孫兀屯、

烏古孫兀屯は上京路の人である。大定末年に猛安を襲封した。明昌七年、本兵をもって万戸に充てられ、辺境を守備して功績があり、帰徳軍節度副使に任ぜられ、盤安軍に改められ、廉察を経て、同知速頻路節度使事に遷った。憂により官を去ったが、起復して帰徳府治中となり、唐州刺史に遷った。泰和六年四月、宋の皇甫斌が歩騎一万人をもって唐州を侵した。兀屯の兵は甚だ少なく、泌陽尉の白散不と巡検の蒲閑に各々五十人を率いさせて城に乗り守備させた。兀屯は城東北にいる宋兵が撃破できると見て、軍事判官の撒虎帯に精兵百人を率いさせて西門より出て、東北の宋兵営の背後を迂回して掩撃させ、数十百人を殺し、宋兵は大いに乱れ、夜に至って遁走した。五月、皇甫斌が再び兵数万をもって攻めてきた。行省は泌陽副巡検の納合軍勝を遣わして唐州を救援させた。兀屯は兵を出して軍勝と城東北で合流し、伏兵を設けて待ち受けた。騎兵を三つに分け、一隊は出て一隊は入り、宋兵を誘致した。宋兵は泥沼に陥り、伏兵が発動し、宋兵を中央で二つに分断したため、遂に大いに潰走した。湖陽まで追撃し、首級一万余を斬り、馬三百匹を獲た。宋の別将が兵三千をもって襲来し、竹林寺で遭遇してこれを殲滅した。納合軍勝は自ら宋将を殺し、その金帯と印章を取って献上した。詔して兀屯を同知河南府事に遷し、軍勝を梁県令に遷し、各々二階を進めた。兀屯は銀三百五十両、重彩十端を賞賜され、右副元帥完顔匡の右翼都統となった。匡が棗陽を取ると、兀屯を遣わして神馬坡を襲撃させた。宋兵五万人が水を挟んで陣を敷き、強弩で岸を拒んだ。兀屯は兵を分けてその三つの橋を奪い、辰の刻から午の刻にかけて連続して十三の柵を抜き、遂に神馬坡を取った。襄陽攻撃に従い、漢江に至り、兀屯は流れを乱して直ちに渡った。さらに一階を進められ、平南虎威将軍の号を賜った。宋人が和を請うと、河南副統軍に遷った。大安初年、昌武軍節度使に遷り、副統軍は元の如しであった。西南路招討使に遷った。兀屯は部下を統御するに厳酷で、兵士が多く逃亡したため、杖六十に処せられた。同知上京留守事に任ぜられた。大安三年、兵二万を率いて中都に入衛し、元帥右都監に遷り、左都監に転じ、北京留守を兼ねた。功績があり、金吐鶻と重彩十端を賜った。元帥左監軍に遷り、留守は元の如しであった。貞祐元年閏月、兵を率いて中都に入衛し、詔により兵一万六千人をもって定興を守ったが、軍敗れ、兀屯は戦死した。

高守約、

高守約は字を従簡といい、遼陽の人である。大定二十八年の進士に及第し、累官して観州刺史となった。大元の兵が河朔の地を攻略し、郭邦献が既に帰順し、城下に従って来て、守約に呼びかけて言った。「従簡は全家のことを考えるべきである。」守約は顧みず、再三に及んだが、守約は厲声で言った。「私はお前を知らぬ。」城が破られて捕らえられ、跪くよう命じられたが、守約は屈せず、遂に死んだ。詔して崇義軍節度使を追贈し、諡して忠敬といった。

和速嘉安礼、

和速嘉安礼は字を子敬といい、本名は酌、大名路の人である。穎悟で博学、経史に通暁していた。大定二十八年の進士に及第した。至寧末年に泰安州刺史となった。貞祐初年、山東が兵乱に遭い、郡県は風を望んで遁走した。ある者が安礼に去るよう勧めたが、安礼は言った。「私が去れば、城を誰が守るのか。かつ難を避けて国家の恩に背くことができようか。」そこで団練を組織し城を修繕し、防禦の計画を立てた。やがて大元の兵が至り、十日間戦っても陥落させられず、安礼に言った。「これは孤城である。内に糧食の備蓄なく、外に兵の援けもない。降伏しなければ一人も残らないであろう。」安礼は聞き入れなかった。城が破られて捕らえられ、初めは誰であるか分からなかったが、ある者が妄りに酒監と答えた。安礼は言った。「私は刺史である。何を隠すことがあろうか。」跪くよう命じられたが、安礼は屈せず、遂に戈でその胸を突いて殺した。詔して泰定軍節度使を追贈し、諡して堅貞といった。

王維翰、

王維翰は字を之翰といい、利州龍山の人である。父の庭は、遼の末年に県人を率いて県の東山に拠り、後に衆を率いて降った。維翰は学を好み倦まず、大定二十八年の進士に及第した。貴徳州軍事判官に任じられ、廉察を経て永県令に遷った。県の豪族が維翰を試そうとし、事を設けて訴え出た。維翰は徹底的に追及し、遂にその詐りを明らかにして、杖殺したため、健訟の風が衰えた。弘政・獲嘉県令を歴任し、胥持国を補佐して黄河の決壊を治め、功労があり一階を進めた。北京転運戸籍判官に改められ、尚書省令史を補した。同知保静軍節度使事に任ぜられ、戸籍を検括して一郡に公平と称された。属県に奴がその主人を殺し、主人の弟が殺したと誣告する事件があった。刑部は疑ったが、維翰が審理し、微行して様子を探り、その実状を得たので、奴は遂に服罪した。中都転運副使に改められ、侍御史を摂行し、殿中で奏事した。章宗は言った。「佳き御史である。」そのまま侍御史に任ぜられた。左司員外郎に改められ、右司郎中に転じた。僕散揆が宋を伐つとき、維翰は行省左右司郎中を務めた。泰和七年、河南は旱魃と蝗害に見舞われ、詔して維翰に田禾の被害状況を調査して報告させた。七月、雨が降り、再び維翰に詔して言った。「雨は十分に降ったが、秋の種蒔きは時期を過ぎている。多く野菜を植えさせれば、なお荒れ地よりはましであろう。蝗の幼虫が残した子は、どうすれば絶やせるか。」旧来蝗のあった所は来年は豆や麦を植えるのがよい。百姓に知らせよ。」

八年、宋人が盟約を受け入れ、維翰は右司郎中に還り、官一階を進めた。上は問うた。「宋人は和を請うたが、再び盟約に背くことがあろうか。」維翰は答えて言った。「宋の主は政事に怠り、南兵は軽弱である。両淮は兵乱の後千里にわたり蕭条としており、その臣は韓侂冑・蘇師旦のことを戒めとして、再びその咎を執る者はいません。憂うるに足りません。ただ北方こそ聖慮を煩わすべきです。」久しくして、大理卿・潞王傅を兼ね、同知審官院事に遷った。新格により、教坊の楽工の官階が四品に至ると、文武の正資に換え、金紫の服を着ることができた。維翰は奏上した。「伶優の賤工が縉紳の服を着ることは、朝廷を尊ぶことではありません。」従われた。大安初年、権右諫議大夫となり、三司が間架税を課そうとしたが、維翰は諫めて聞き入れられなかった。御史中丞に転じ、間もなく工部尚書・大理卿を兼ね、刑部尚書に改められ、参知政事に拝された。

貞祐初年、罷免されて定海軍節度使となった。この時、道路は不通で、維翰は舟で行く途中盗賊に遭った。呼びかけて言った。「お前たちは本来良民である。乱によってここに至ったのだ。財物は惜しまぬ。我が家を恐れるな。」盗賊はその言葉に感じて去った。鎮に至ると、兵備がなく、隣郡は皆風を望んで奔潰した。維翰は吏民に言った。「孤城は守れぬ。この州は山に阻まれ海に浮かび、生き延びる地があるはずだ。皆魚肉となることはない。」そこで百姓に避難することを許した。維翰は従うことを願う吏民を率いて東北の山に奔り、営堡を結んで自守したが、力尽きて捕らえられ、降伏を肯んじなかった。妻の姚氏も屈せず、維翰と共に死んだ。詔して中奉大夫を追贈し、姚氏には芮国夫人を追贈し、諡して貞潔といった。

移剌古與涅、

移剌古與涅は安化軍節度使であった。貞祐初年、大元の兵が密州を取ったとき、古與涅は兵力を率いて奮戦し、流れ矢が連続してその頸に当たり、抜き去った後またその頬に当たり、そこで死んだ。貞祐三年、詔して安遠大将軍・知益都府事を追贈した。

宋扆

宋扆は、中都宛平の人である。正隆五年の進士。辰州・寧化州の軍事判官、曹王府記室参軍を歴任した。陝西西路転運都勾判官。尚書省令史に補され、武定軍節度副使・中都右警巡使に除された。時に固安県丞の劉昭が部民の裴原と隣接する田地の買い取りを争い、扆は劉昭に属する者を用い、裴原を抑えて争わせなかった。御史台が劾奏し、一官を奪い、解職し、広寧府推官に降格した。遼東路塩使に改める。父の喪に服し、喪中に起用されて吏部員外郎となり、薊・曹・景州刺史を歴任し、中都路転運使事を同知し、北京・臨潢等路按察使に遷った。安国軍節度使・河東南路転運使に改める。御史がその前任の按察使として民家を侵したことを弾劾し不称職として、沂州防禦使に降格し、浚州に移り、山東西路転運使に遷り、定海軍節度使に改めた。貞祐二年、沁南軍に改め、正月、大元の兵が懐州に至り、城は陥落してそこで死んだ。扆は天性刻薄酷烈で、任地において人々を受け容れず、これによって世間に蹉跌したという。

烏古論栄祖

烏古論栄祖は、本名を福興といい、河間の人である。明昌二年の進士。官を歴任し尚書省令史に補され、都転運司都勾判官に除され、弘文校理に転じ、中都総管府判官に昇進し、廉察により震武軍節度副使・彰徳府司馬に除され、累遷して戸部員外郎・寧海州刺史となった。貞祐二年に城が陥落し、栄祖はなおも力戦し、そこで死んだ。安武軍節度使を追贈され、諡を毅勇と賜った。

烏古論仲温

烏古論仲温は、本名を胡剌といい、蓋州按春猛安の人である。大定二十五年の進士。累官して太学助教・応奉翰林文字・河東路提刑判官となり、河北東路転運副使に改めた。御史が前任の提刑として称職であったことを推薦し、順天軍節度使事を同知する官に遷り、上京・東京等路按察司事を簽し、肇州漕運を提挙し、武興軍節度使事を兼ねて同知し、東勝州刺史となった。以前上京において不称職であったことを坐し、鎮寧軍節度副使に降格した。滑州刺史・河東南路按察副使・寿州防禦使に改める。貞祐初め、鎮西軍節度使に遷った。この時、中都が包囲され、そこで太原に至り、安撫使の賈益謙に文書を送り、郷兵をもって中都を救援することを約した。そこで駅伝を馳せて平陽の如くにし、絳において益謙と会おうとしたが、進むことができず、平陽に到着して帰還した。仲温はかつて平陽を治めたことがあり、吏民が争って留めようとしたが、仲温は「平陽は大鎮であり、守りやすい。私の計らいとしてはそれでよいが、嵐州はどうするのか」と言った。そこで鎮に戻った。やがて大元の兵が大挙して到来し、城は陥落し、屈せずに死んだ。資徳大夫・婆速路兵馬都総管を追贈され、諡を忠毅とし、毎年祭祀を行った。

九住

九住は、宗室の子であり、武州刺史となり、唐括孛果速が軍事判官となった。貞祐二年十一月、大元の兵が九住の子や甥を捕らえて城下に至り、これに言うには「山東・河北は今みな我に降った。汝の家族も我が得たところである。もし速やかに降らなければ、これを殺すであろう」と。九住は「国に報いるに死をもってすべきであり、家を憂える暇があろうか」と言った。まもなく城は陥落し、力戦して死に、孛果速もまた屈せずに死んだ。詔して九住に臨海軍節度使を追贈し、驃騎衛上将軍を加えた。孛果速に建州刺史を追贈し、鎮国上将軍を加えた。なお碑を建てさせ、毎年祭祀を行った。

李演

李演は、字を巨川といい、任城の人である。泰和六年の進士第一。応奉翰林文字に除された。再び父母の喪に服し、郷里に居住した。貞祐初め、任城が兵乱に遭い、演は喪服のまま墨染めで済州刺史となり、守禦の策を練った。州人を召集して兵とした。三日間奮戦したが、兵士は皆市井の人で戦うことができず、逃げ散った。演は捕らえられ、大将はその冠服が普通でないのを見て、かつその名を知り、これを問うて言うには「汝は李応奉ではないか」と。演は答えて「私がそうです」と言った。跪かせようとしたが、肯じず、好言をもって慰撫しても、これも聞き入れず、官禄を与えると約束したが、演は「私は書生である。本朝が私に何を負うたというのか。人の官禄を利するなどあろうか」と言った。大将は怒り、その脛を打ち折り、遂に引きずり出して殺した。時に年三十余であった。済州刺史を追贈し、詔して有司に碑を建てさせたという。

劉徳基

劉徳基は、大興の人である。貞祐元年、特旨により同進士出身を賜った。辺境の邑を守る官にあった。夏の兵が城を攻め、徳基は査事に座し、その傍らに薪を積み、家人に言うには「城が破れたら直ちに私を焼け」と。城が破れた時、その家人は火を放つに忍びず、遂に捕らえられた。脅して跪いて降伏させようとしたが、徳基は屈しなかった。同僚の旧友が夏人を欺いて言うには「この人は元来狂気の病があり、故に敢えてこのようにするのです」と。徳基は「臣子たる者はこのようであるべきであり、私がどうして狂気であろうか」と言った。夏人はその義を壮とし、そこで獄に繋ぎ、その考えを改めさせようと期待した。やがて召し出して問うと、徳基は大いに罵り、終に従うことができず、「私がどうして苟くも生きようか」と言った。遂にこれを害した。朝列大夫・通遠軍節度使事を同知する官を追贈した。

王毅

王毅は、大興の人である。経義進士。累官して東明県令となった。貞祐二年、東明の包囲が切迫し、毅は民兵で戦おうとする者数百人を率いて守りを拒んだ。城が破れ、毅はなおも衆を率いて抗戦し、力尽きて捕らえられ、県人の王八ら四人とともに城外に駆り立てられた。先に二人を殺し、王八はすぐに前に進み跪いて降伏しようとした。毅は足でこれを蹴倒し、声を厲して言うには「忠臣は二主に仕えず、汝は降伏するのか」と。毅を駆り立てる者が刃でその脛を斬りつけたが、毅は屈せずに死んだ。曹州刺史を追贈した。

王晦

王晦は、字を子明といい、沢州高平の人である。若い頃より気概を負い自らを誇り、常に張詠の為人を慕った。友人の妻が人と私通し、晦は自ら刃をもってこれを殺した。明昌二年の進士に及第し、長葛主簿に調され、能吏の名声があった。廉察により遼東路転運司都勾判官に除され、提刑司がその才能を挙薦し、北京転運戸籍判官に転じた。安陽県令に遷り、累遷して陝西西路按察司事を簽する官に除され、平涼治中に改めた。少府少監に召され、戸部郎中に遷った。貞祐初め、中都が戒厳となり、ある者が晦に将帥の才があると推挙し、人を募って自ら将となり、死士万余を得てこれを統率させた。率いる所の兵を率いて通州の粟を中都に護送し、功があり、霍王傅に遷った。部兵をもって順州を守った。通州の包囲が切迫し、晦は牛欄山を攻めて通州の包囲を解いた。賜賚は優渥で、翰林侍読学士に遷り、勧農使を加えた。九月、順州が兵を受け、晦は別部を滄州・景州に有し、人を遣わして包囲を突破してこれを召したが、衆は皆躍り上がって奮おうと思ったが、主たる者は発しようとしなかった。王臻は、晦の旧部曲であり、冑を脱いで出て会い、かつ拝して言うには「事は急を要します。自ら苦しむのは何のためですか。もし従うことができれば、富貴を失わずに済みます」と。晦は「朝廷が汝に何を負うたというのか」と言った。臻は「私は国に背いても、公に背くに忍びません」と言い、涙を流した。晦は叱して「私は六十歳で、位は三品に至った。死は私の本分である。どうして汝に従おうか」と言った。これを射ようとすると、臻は涙を押し隠して去った。まもなく、将士が城から縋り降りて降伏し、晦は捕らえられ、降伏を肯ぜず、遂に死に就いた。

初め、晦が捕らえられた時、その愛将の牛鬥に言うには、「汝は死ぬことができるか」と。牛鬥は言うには、「鬥は公に知遇を得て、どうして忍んで独り生きようか」と。共に殺された。詔して、栄禄大夫・枢密副使を追贈し、なお有司に命じて碑を立て、歳時に祭祀を行わせた。その子の汝霖を筆硯承奉に任用した。

斉鷹揚

斉鷹揚は、淄州軍事判官であった。楊敏中は、屯留県尉を致仕していた。張乞驢は、淄州の民であった。貞祐の初め、大元の兵が淄州を取ると、鷹揚らは兵を募って防備し、城が陥落すると、衆を率いて巷戦した。鷹揚ら三人は重傷を負って捕らえられ、降伏させようとしたが、鷹揚は守衛の者が少し油断したのを見て、即座に立ち上がり、槊を奪って数人を殺し、敏中・乞驢と共に屈せずして死んだ。詔して、鷹揚に嘉議大夫・淄州刺史を追贈し、なお州に廟を立て、時を定めて祭祀を行わせた。敏中には昭勇大将軍・同知横海軍節度使事を追贈した。乞驢には特に宣武将軍・同知淄州軍州事を追贈した。

朮甲法心

朮甲法心は、薊州猛安の人である。官は北京副留守に至った。貞祐二年、提控となり、同知順州軍州事の温迪罕咬査剌と共に密雲県を守った。法心の家族は薊州にいたが、大元の兵がこれを捕らえ、法心に示して言うには、「もし速やかに降伏すれば、汝に渡そう。さもなければ殺す」と。法心は言うには、「私は本朝に仕えて厚恩を受けている。戦うならば速やかに戦うのみで、終に降伏することはできない。どうして家族の生死を考慮しようか」と。城が陥落し、陣中で死んだ。咬査剌は捕らえられ、やはり屈せずして死んだ。

盤安軍節度判官の蒲察颭舍は、鶏沢県令の温迪罕十方奴と共に薊州を守ったが、衆が潰走して出奔する中、颭舍・十方奴はこれに殉じて死んだ。

詔して、法心に開府儀同三司・枢密副使を追贈し、宿国公に封じ、咬査剌に鎮国上将軍・順州刺史を、颭舍に金紫光禄大夫・薊州刺史を、十方奴に鎮国上将軍・薊州刺史を追贈した。なお碑を立てさせ、時を定めて祭祀を行わせた。

高錫

高錫は、字を永之といい、徳基の子である。蔭補により官に就いた。功労を積んで淄州酒使に転じ、課税の成績が最も優れた。平郷県令に遷った。廉察により遼東路転運支度判官・太倉使・法物庫使・兼尚林置直長・提挙都城所に遷り、北京・遼東転運副使・同知南京路転運使事を歴任した。貞祐の初め、累遷して河北東路按察転運使となった。城が陥落すると、遂に自ら城下に投身して死んだ。