金史

列傳第五十八: 世戚 石家奴 裴滿達 忽睹 徒單恭 烏古論蒲魯虎 唐括德溫 烏古論粘沒曷 蒲察阿虎迭 烏林答暉 蒲察鼎壽 徒單思忠 徒單繹 烏林答復 烏古論元忠 唐括貢 烏林答琳 徒單公弼 徒單銘 徒單四喜

列傳第五十八 世戚 ○石家奴 裴滿達 忽睹 徒單恭 烏古論蒲魯虎 唐括德溫 烏古論粘沒曷 蒲察阿虎迭 烏林答暉 蒲察鼎壽 徒單思忠 徒單繹 烏林答復 烏古論元忠(子誼) 唐括貢 烏林答琳 徒單公弼 徒單銘 徒單四喜

金の昭祖が徒單氏を娶り、后妃の族はここより始めて見ゆ。世祖の時、烏春が難を為し、世祖は婚姻を求めてその歓心を結ばんと欲す。烏春曰く、「女直と胡里改は豈に婚姻を為すべけんや」と。世宗の時、夾穀清臣の族に国人と同じきを賜う。清臣は胡里改の人なり。然らば則ち四十七部の中にも婚姻を通ぜざる者あり。その故は則ち詰むること能わざるなり。国家ある者は、婚姻に恒族ありて、風気を淳固にし、親義を渝えず、而して貴賤等威別あり。蓋し良法なるか。『世戚傳』を作る。

石家奴

石家奴は蒲察部の人、世々案出虎水に居る。祖父斛魯短は世祖の外孫なり。桓赧・散達の乱に、昭肅皇后の父母兄弟皆敵境に在りしを、斛魯短は計を以て迎え還す。石家奴は幼少の時より太祖の家に撫養せられ、及び長ずるに及び、太祖は女を以て妻とす。年十五にして、甯江州を攻むるに従い、遼主の親軍を破り、臨潢府を攻めて皆功あり、謀克を襲ぐ。その後、山西より斉国王謀良虎の喪を護りて上京に帰る。道は興中を由る。是の時、方に興中を攻めて未だ下らず。石家奴は柩を駅に置き、その率いる猛安兵を率いて王師を助け、遂にその城を破る。

宗望に従い張覚を討つ。再び宗翰に従い宋を伐つ。宗翰は宗望の軍すでに汴を囲むと聞き、石家奴を遣わして事を計らしむ。平定軍に抵りて敵兵数万に遇い、これを破り、遂に宗望に見ゆ。已に還りて報ず。宗翰その平定の戦を聞き、甚だこれを嘉す。明年、再び宋を伐ち、石家奴は婁室の軍に隷す。婁室陝西を討ちて未だ下らず、石家奴はその部の兵を領いてこれを援く。既にして、本部を以て西京に屯戍す。会に契丹の大石出奔す。余睹を元帥とし、石家奴を副とし、諸部族を襲いて還る。未だ幾ばくもなく、疾あり、郷里に退居す。

天眷年間、侍中・駙馬都尉を授かる。再び都統として辺部を定め、熙宗は御書を賜いてこれを嘉奨す。蘭陵郡王に封ぜらる。東京留守を除かれ、病を以て致仕す。卒す。年六十三。加えて鄖王を贈らる。正隆に王爵を奪われ、魯国公に封ぜらる。

裴滿達

裴滿達、本名は忽撻、婆盧木部の人。人となり淳直孝友なり。天輔六年、蒲家奴に従い叛寇を鉄呂川に追い、力戦して功あり。熙宗は忽達の女を娶る。是れ悼平皇后なり。天眷元年、世襲猛安を授かる。明年、皇后の父として太尉に拝され、徐国公に封ぜらる。皇統元年、会寧牧を除かる。数年居りて、太尉として朝請を奉ず。九年、悼后死す。間もなく、海陵は熙宗をしいし、衆誉を邀えんと欲し、熙宗の過悪を揚げ、悼后の死は罪に非ざるを以て、ここにおいて忽撻を王に封ず。天徳三年(1151年)、薨ず。子の忽睹は燕京留守となり、罪を以て免ぜられ、中都に居る。海陵は命じて馳驛を以てこれに赴かしむ。及び葬るに、秘書監納合椿年を使わして祭を致し、賻として銀五百両を賜う。

忽睹

忽睹、天眷三年に猛安を権め、皇統元年に行軍猛安となる。横海・崇義軍節度使を歴任し、後戚として勢いを恃み贓汙不法なり。その横海に在りし時は、富人を父として拝し、及び死するや、その喪に服してその資を分かつ。崇義に在りし時は、寺僧に諷して斎を設けしめ、その施しを受く。及び中京を留守するに及び、益々驕恣にして、苟も財を得べくんば為さざるなし。諸猛安の富人子弟を選びて紮野と為し、財物を規取す。時に「閑郎君」と号す。朝廷は忽睹と徒單恭等の汚濫甚だしきを以て、秉徳に命じて天下の官吏を黜陟せしむ。忽睹は贓を以て罷めらる。海陵は忽睹の至る所に家奴を縦して民を擾わすを以て、乃ち外官の任所における閑雑人の条約を定む。天徳三年、復た起用されて鄭州防禦使となり、安国軍節度使に改む。卒す。年三十九。

徒單恭

徒單恭、本名は斜也。天眷二年、奉国上将軍となる。呉十の反事を告げるを以て、超えて龍虎衛上将軍を授かる。戸部侍郎となり、出でて済南尹となり、遷りて会寧牧となり、譚国公に封ぜらる。復た出でて太原尹となる。斜也は貪鄙にして、工をして一の仏像を繪かしめ、自ら嘗て仏を見たりと称し、その像かくの如し、当に金を以てこれを鑄すべしとす。遂に属県に金を賦し、而して未だ嘗て仏を鑄せず、尽くその家に入る。百姓これを「金総管」と号す。秉徳は官吏を廉訪し、斜也は贓を以て免ぜらる。

海陵の篡立するや、海陵の后徒單氏は斜也の女なり。ここより復た用いられて会寧牧となり、王に封ぜらる。未だ幾ばくもなく、平章政事に拝せらる。海陵は胡剌渾水に猟す。斜也は圍場を編列し、凡そ平素相能わざる者を輒ち杖つ。海陵は宰相に謂いて曰く、「斜也を相と為すは、朕私するに非ず。今聞く、軍国の大事凡そ斜也の言う所、卿等一も取ること無し。豈に千慮一得無からんや」と。他の宰相対する無く、温都思忠数事を挙げて対えて曰く、「某の事は本当にこの如くあるべきに、斜也は輒ちあれの如しと為す。皆妄かに異議を生じ、事宜に達せず。臣は康宗に逮事し、累朝の宰相未だ嘗て斜也の如く専恣する者無し」と。海陵は黙然たり。斜也、都堂にて令史馮仲尹を脊杖す。御史臺これを劾す。海陵はこれを二十杖つ。斜也の猛安部の人撒合出なる者、斜也の強いて部人の財物を率取するを言う。海陵は侍御史保魯に命じてこれを鞫せしむ。保魯は実を以て鞫せず。海陵は保魯を杖ち、而して撒合出を符宝祗候と為し、合紮猛安に改めて隷せしむ。

斜也の兄定哥は太祖の長女兀魯を娶ったが、定哥は死に子がなかったので、末弟の子查剌を後嗣とした。斜也はその兄の家財を奪おうと謀り、兀魯を強いて妻室としたが仲睦まじくならず、兀魯はかつて斜也を怨み罵った。斜也の妾忽撻は兀魯と不和であり、そこで兀魯を海陵后徒単氏に讒して言うには、「兀魯は上(海陵)がその兄宗敏を殺したことを怨み、不満の言葉があります」と。時に韓王亨が広寧尹に改任され、諸公主や宗婦がその母を祝賀に赴いたが、兀魯は言葉を以て亨の母を慰め、忽撻もまた不満を抱き誹謗したとして兀魯を誣告した。海陵は蕭裕にこれを審理させたが、忽撻は徒単后に寵愛されており、証人たちは皆敢えて言わず、遂に兀魯を殺し、斜也はこれによって查剌の家財をことごとく奪った。大定年間にこれらは全て追って正された。海陵は兀魯に不満の言葉があったのに、斜也が奏上しなかったことを以て、遂に斜也を杖罰し、現職を免じた。まもなく、また司徒しととなり、進んで太保に拝され、三省事を領し、勧農使を兼ねた。さらに進んで太師となり、梁晋国王に封ぜられた。

貞元二年(1154年)九月、斜也は海陵に従って順州で狩猟した。狩猟中、斜也の薨去を聞き、即日に狩猟を中止し、その喪に臨み、自ら葬地を選び、使者を遣わして葬儀を営ませた。葬送の際には轀輬車を賜り、上(海陵)及び后は百官を率いて祭り、諡を忠と賜った。正隆年間、趙国王に改封され、さらに進んで斉国公となった。

その妻は斜也より先に卒去しており、海陵はかつてその葬所に至り祭礼を致し、その子の率府率吾裏補を諫議大夫として起復させた。大定年間、海陵が庶人に降格され、徒単氏が庶人の妻となると、斜也も特進鞏国公に降格された。

烏古論蒲魯虎

烏古論蒲魯虎、父は當海、国初に功があった。蒲魯虎は契丹の大小字に通じ、宋王宗望の女昭寧公主什古を娶った。熙宗の初め、護衛となり、牌印に改め、常に左右に侍した。通進に転じた。父の謀克を襲い、再遷して臨海軍節度使となり、衛州防禦使に改めた。海陵は内殿で食事を賜り、彼に言うには、「衛州の風土は甚だ佳い。防禦使を降格と見なすな」と。これに対し、「衛州の官署は守者に不利と聞くことが多い」と答えた。即日に汾陽軍節度使に改め、衣服・佩玉・帯剣を賜った。入朝して太子詹事となり、卒去、年四十一。海陵は親しく臨んで哭し、后妃も皆弔祭し、賻贈は甚だ厚かった。有司が喪事を給し、特進駙馬都尉を追贈した。正隆の例により光禄大夫を贈られた。

唐括徳温

唐括徳温、本名は阿里、上京率河の人である。曾祖の石古は、太祖に従って臘醅・麻産を平定し、謀克を領した。祖の脱孛魯は、その父の謀克を領し、太祖に従って遼を伐ち、寧江・泰州を攻めて戦功があった。父の撻懶は、康宗の女を娶り、宋王宗望に従って軍二万を以て平州を収め、城東十里余りで敵兵甚だ衆多に遇い、これを撃破した。太祖は賞賜甚だ厚く、行軍猛安を授けた。皇統初め、龍虎衛上将軍に遷り、興平・臨海等軍節度使を歴任した。

徳温は射術に優れ、睿宗皇帝の女楚国長公主を娶った。天眷三年、宣武将軍を授かる。皇統元年、都元帥宗弼に従って南征し、突撃戦に長じたことで広威将軍に遷る。六年、定遠大将軍に遷る。七年、殿前右副都点検を授かる。天徳初め、殿前左副都点検に改め、兵部尚書に遷る。出て大名尹兼本路兵馬都総管となり、横海軍節度使に改め、延安尹兼鄜延路兵馬都総管となる。世宗即位、道国公に封ぜられ、殿前都点検・駙馬都尉となった。大定二年、父祖の功により按出虎猛安の管轄する世襲謀克を授かる。三年九月九日、世宗は故事に従って出猟し、徳温に言うには、「扈従の軍士二千、飲食や秣が百姓を煩わせぬようできるか」と。厳しく規制し、なお銭一万貫を分けて与えた。四年、勧農使となり、出て西京留守となり、犀弓・玉帯を賜り、召し入れて皇太子太傅となったが卒去した。上は朝を廃し、親しく喪に臨み奠祭し、賻贈は甚だ厚かった。

十八年、その父撻懶および徳温の前後の功績を追録し、その長子の駙馬都尉鼎に世襲の西北路没裏山猛安を授け、泰州に移して隷属させた。

烏古論粘沒曷

烏古論粘沒曷、上京胡剌温屯の人で、河間に移屯した。祖の喚端は、太祖が遼を伐つ時、常に左右に侍し、遼主延禧を追撃し、夏人の援兵を退けることなど皆功があり、世襲謀克を授かった。父の歡睹は、官は広威将軍に至った。粘沒曷は睿宗の女冀国長公主を娶り、初め護衛となり、天徳二年に謀克を襲った。海陵が宋を伐つ時、押軍猛安となった。世宗即位、軍が帰還すると、侍衛親軍歩軍都指揮使を授かり、駙馬都尉を加えられた。左副点検を歴任し、禁直中に酒に酔って鍵の点検を親しく行わず、杖四十に処された。右宣徽使・勧農使に遷り、出て興平軍節度使となった。広寧尹に改め、銭三千貫を賜った。粘沒曷が広寧に至ると、酒を嗜み政務を視ず、上は兵部員外郎宗安を少尹とし、詔して宗安にこれを戒め諭させ、上は宗安に言うには、「汝が前政を継ぎ修めることができれば、朕は汝を忘れぬ、努めよ」と。大定年中、粘沒曷は卒去した。上はこれを聞き、その子の駙馬都尉公説を駅馬で馳せさせて喪に赴かせ、銭三千貫を賜り、沿路の祭物は全て官から給した。

蒲察阿虎迭

蒲察阿虎迭、初め信武将軍を授かり、海陵の姉の遼国長公主迪缽を娶り、駙馬都尉となった。遼国が薨じると、継いで鄧国長公主崔哥を娶った。皇統三年、右副点検となる。五年、宋に使いして賀正旦使となり、左副点検、礼部・工部尚書、広寧・咸平・臨潢尹、武定軍節度使に改まり、葛王に封ぜられた。薨去、年二十八。海陵は親しく葬儀に臨み、譚王を追贈した。正隆の例により特進楚国公を贈られた。

烏林答暉

烏林答暉、本名は謀良虎、明徳皇后の兄である。天眷初め、護衛に充てられ、宗磐・宗雋を捕らえた功により忠勇校尉こういを授かり、明威将軍に遷った。宗弼に従って北征し、広威将軍に遷り、金幣・尚廄の撃球馬を賞賜された。久しくして、殿中侍御史に除され、再び蒲速碗群牧使に除された。牧畜を謹み、遊宴に事せず、繁殖は盛んとなり、進んで秩を加えられ、特満群牧使に改まった。世宗即位、行在所に召し見えて中都兵馬都指揮使に除された。世宗が中都に至り、宋に使者を遣わそうとし、暉を使者とした。世宗は言うには、「暉はかつて官銭五百貫を私用した」と。そこでその罪を数えてこれを罷免し、高忠建を遣わした。宰臣に因って言うには、「朕は賞罰において、毫髪たりとも仮借することはない。もし公廉で事を治めるならば、平素から好きでなくとも必ず昇擢を加え、もし公法に抵触冒瀆するならば、至親といえども少しも容赦しない」と。都点検・兼侍衛親軍副都指揮使に遷り、卒去した。官を遣わして祭礼を致し、皇太子・諸王・百官が会喪し、銀千両・重彩四十端・絹四十匹を賻した。詔して暉の第三子天錫に納隣河猛安親管謀克を世襲させた。

蒲察鼎壽

蒲察鼎壽は、本名を和尚といい、上京曷速河の人で、欽懐皇后の父である。性質は沈着温厚にして明らかな識見があり、契丹文字と漢字に通じ、吏事に長じていた。熙宗の娘鄭国公主を娶る。貞元三年(1155年)、海陵王の妹慶宜公主の子として定遠大将軍を加えられ、尚衣局使となり、累官して器物局使となった。大定二年、駙馬都尉を加えられ、職はもとのまま。符宝郎・蠡州刺史・浚州防禦使を歴任し、恵みある政治を行い、両州の百姓は石に刻んでこれを記念した。泰寧軍節度使に遷り、東平府・横海軍を歴任し、入朝して右宣徽使となり、左宣徽使に改め、中都路昏得渾山猛安曷速木単世襲謀克を授けられた。河間尹に改まる。号令は必ず行われ、豪族は影を潜めた。宗室で河間に住む者がおり、住民を侵奪していたので、鼎壽はその一族を平州に移すよう上奏し、郡内は大いに治まった。官において卒す。上(世宗)はこれを聞き深く悼惜された。喪が香山に至ると、皇太子が往きて奠し、百官が祭り、銀・彩絹を贈った。明昌三年、皇后の父として太尉・越国公を追贈された。

鼎壽は代々姻戚と連なり、娘は皇后となり、長子の辞不失は定国・景国・道国の三公主を娶った。その寵遇はこのようなものであったが、富貴を以て人に驕ることなく、当時は外戚の第一とされた。

徒単思忠

徒単思忠は、字を良弼といい、本名は寧慶である。曾祖父の賽補は、景祖の娘を娶った。太祖に従って遼を伐ち、臨潢の渾河で戦死した。父の賽一は、熙宗の妹を娶った。正隆末、颭碗群牧使となり、契丹の賊窩斡が北辺を擾乱した際、賽一はこれと戦って死んだ。大定初、金吾衛上将軍を追贈された。

思忠は聡明で才があり、経史にかなり通じていた。世宗が潜邸におられた時、これを養育された。性質は寛厚であった。十二歳の時、上(世宗)に従って済南におり、ある日、姻戚の公子らと近郊に出遊したところ、酔った者が弓矢を腰に帯び馬を駆って突如通り過ぎた。諸公子は怒ってこれを鞭打とうとしたが、思忠は言った、「酔人は昏昧である、また何ぞ責めんとするに足らん」と。そこでこれを釈放した。その人は数十歩行くと、突然弓矢を執った。思忠は人を傷つけようとするのを恐れ、速やかにその傍らに馳せ至り、その弓を奪い、弦を弛めてこれを返した。上はこれを聞き、識見と度量があることを嘉し、これより常に側近く侍らせた。皇弟(世宗の弟)の第二女唐国公主を娶る。大定初、世宗は思忠をして南征の万戸高忠建・完顔福寿を遼口に迎えさせ、その去就を察させた。思忠はその誠意を知り、ともに東京に至った。世宗が即位し、中都に行かれる時、思忠は従行し、軍国庶事において補益するところ大いに多かった。大定元年十月、殿前左衛将軍に拝され、二年、駙馬都尉を加えられ、卒した。上は朝をめ、喪所に臨んで奠し、有司に命じて礼を備えてこれを葬らせ、営葬の費用は官から支給させた。

十九年、上は思忠の輔弼の功を追念し、驃騎衛上将軍を追贈し、その子の鐸に武功将軍・世襲中都路烏独渾謀克を授けた。

徒単繹

徒単繹は、本名を術輩といい、その先祖は上京按出虎達阿の人である。祖父の撒合懣は、国初に功があり、隆安府路合紮謀克・奪古阿鄰猛安を授けられた。繹は姿容が美しく、諸国の言語に通じた。熙宗の第七女沈国公主を娶る。符宝祗候に充てられ、御院通進に遷り、符宝郎を授けられた。宣徳・泰安・淄州刺史を歴任し、廉潔の名があった。同知広寧府事に改まるが、母の鄂国公主の喪に服し、赴任しなかった。世宗は特に憂制(喪中)のうちに父の封を襲ぐことを許された。服喪が終わり、同知済南府事を授けられた。二十六年、棣州防禦使に遷り、政跡をもって聞こえ、臨海軍節度使に昇進し、卒した。

繹の家は代々貴寵であり、会祖父の照から繹に至るまで公主を娶った者は四世に及んだ。

烏林答復

烏林答復は、本名を阿裏剌といい、東平の人である。奉御の出身で、大定七年に世宗の第七女宛国公主を娶り、駙馬都尉を授けられた。引進使・兼符宝郎に改まり、出て蠡州刺史となり、三遷して帰徳軍節度使となった。明昌三年、興中府事を知ることに転じ、久しくして、曷懶路兵馬都総管となった。承安四年、絳陽軍節度使に拝された。卒した。

烏古論元忠

烏古論元忠は、本名を訛里也といい、その先祖は上京独抜古の人である。父の訛論は、太祖の娘畢国公主を娶った。元忠は幼少より秀異で、世宗が潜邸におられた時、長女を妻とし、後に魯国大長公主に封ぜられた。正隆末、海陵王に従って南伐した。世宗が遼陽で即位した時、太保の昂が海陵王の左領軍大都督ととくであったが、元忠を行在所に遣わして朝見させ、そこで定遠大将軍を授け、符宝郎に抜擢した。諭して言われた、「朕が即位したばかりで、親密な者は汝に如く者はない。侍従宿衛にあたり、不慮の事に備えよ」と。大定二年、駙馬都尉を加えられ、近侍局使に除かれ、殿前左衛将軍に遷った。世宗の狩猟に従い、上が虎を射ようとされた時、元忠は諫めてこれを止めさせた。殿前右副都点検に進み、賀宋正旦使となり、還って左副都点検に転じた。家奴が民税を結託して取り立てた罪に坐し、免官となった。十一年、旧職に復した。翌年、都点検に昇進した。十五年、北辺が献上物を進めたので、元忠を遣わしてこれを受けさせ、還った時、詔を下して諭された、「朕は卿が宿直する度に、その寝は必ず安らかである。今夏景明宮に行幸した時、卿が去って久しく、朕は甚だこれを思った」と。

ちょうど大興府の守臣が欠員となったので、元忠を以て知府事とした。僧が法を犯し、吏がようやく獄に置こうとした時、皇姑梁国大長公主が釈放するよう頼んだが、元忠は聞き入れなかった。公主がこのことを上奏すると、世宗は召して言われた、「卿が情にしたがわないのは、甚だ嘉すべきである。京をこのように治めるならば、朕はまた何を憂えようか」と。任期が満ちて、吏部尚書を授けられた。その子の誼が顕宗の長女薛国公主を娶った。十八年、御史大夫に抜擢され、撒巴山世襲謀克を授けられた。世宗が左丞相の紇石烈良弼に誰を丞相とすべきかと問うと、良弼は元忠を以て答えた。そこで平章政事に拝し、任国公に封ぜられ、尚書右丞相に進んだ。策論進士の科が設けられた時、元忠はこれを賛成した。世宗が会寧に行幸しようとされると、元忠は諫めたが聞き入れられず、出て真定府知事となり、まもなく再び詔されて右丞相となった。

世宗は上京の城壁を煉瓦で築こうとしたが、元忠は言った。「この地は正隆年間の軍事動員に遭い、民衆は疲弊しております。陛下が二十余年も休養を施されましたが、まだ完全には回復していません。まして土質が粗悪で、煉瓦造りでは長持ちせず、風雨で損壊すれば、毎年修繕を重ねることになり、民はますます困窮するでしょう。」皇帝の東幸が長引き帰還が遅れたので、元忠は上奏した。「御輿が当地に駐留してすでに一年を過ぎ、倉庫の蓄えは日々減り、市場での買い物は次第に高騰しております。禁衛軍や諸局署の者たちが多く逃亡しており、役人が法に基づき捕らえれば、陛下の仁愛の御心を傷つける恐れがあります。」世宗はこれを称えて受け入れた。

まもなく出向して北京留守となったが、世宗は責めて諭した。「汝は強情で独りよがりであり、権力を専らにして近臣と結託する。汝の心は測り難い。速やかに任地に赴け。」後に左丞張汝弼が奏上した際、世宗はその迎合を嫌い、側近に言った。「卿らは何事にも依違し、安易に回避して、敢えて言い尽くそうとしない。高い爵位と厚い俸禄にどうしてふさわしいと言えようか。烏古論元忠が宰相であった時は、剛直で敢言、義のためには身をも顧みず、誠に尊ぶべきであった。」そこで、真定府知事に改め、後に河間府知事に移った。明昌二年、広寧府知事となる。河間で球場を修築して民を煩わせたため、赦令が下った折に、順義軍節度使に任じられた。致仕を乞うたが許されず、特旨をもって開府儀同三司・北京留守を加えられた。済南府知事に転じ、宮廷を通過する際には宴会に参加を許され、その席次は平章政事の上位に置かれた。承安二年、南京留守に移り、まもなく彰徳府知事に改め、そこで没した。訃報が届くと、皇帝は宣徽使白琬を遣わして焼飯の儀を行わせ、贈り物は非常に手厚かった。元忠は平素から高貴であり、性格は粗野で豪放ながら内心は猜疑心が深く、世宗からしばしば責められた。また、赴任先でいつも奴僕を統制できず、世間はこれを非難したという。子に誼がいる。

子の誼。

誼は本名を雄名という。大定八年、海陵王の娘を娶った。宗室および六品以上の官とその夫人を招いて宴を催し、皇帝は言った。「この娘も太祖の曾孫であり、朕の娘同然である。その父が廃されて滅んだのは、娘の罪ではない。」海陵王の娘が亡くなると、大定二十一年、顕宗の娘である広平郡主を娶った。誼は宮衛の職を歴任し、人となりは粗野で豪放、その父に似ていた。二十六年、皇帝は原王に言った。「元忠が再び宰相となることは望むな。雄名はまたその父に及ばない。朕はかつて寛大に扱ったが、恩を知るどころではない。汝はその人となりを知っておくがよい。」平章政事の襄に言った。「雄名は外官に補任せよ。今後、宮中の官で既に外補の旨がある者は、朝廷での正式な任命に至るまで、宮中に入らせてはならない。」そこで、誼は同知澄州軍州事に任じられた。章宗が即位すると、広平郡主は鄴国長公主に進封され、誼は順天軍節度副使に改められ、駙馬都尉を加えられた。承安元年、累進して秘書監兼吏部侍郎となり、刑部侍郎に改め、工部尚書に昇った。泰和元年、父の元忠の喪に服した。二年、本官のまま喪中起復した。三年、東平府知事となり、真定府知事に改められた。六年、宋を征伐し、元帥左都監に昇った。七年、左監軍に転じた。八年、御史大夫に任じられた。大安年間、大名府知事となった。至寧初年、謀反の罪により誅殺された。

唐括貢。

唐括貢は、本名を達哥といい、太傅阿裏の子である。世宗の第四皇女である呉国公主を娶り、駙馬都尉を授けられ、奉御を充てられた。特旨をもって拱衛直副都指揮使を授けられ、五度の昇進を経て刑部侍郎となったが、職務を離れた罪で官位一階を削られ、出向して德州防禦使となった。順天軍節度使に昇進し、横海軍に移鎮した。召還されて左宣徽使となり、兵部尚書に昇り、吏部尚書に改め、礼部尚書兼大理卿に転じた。先に、大理卿の欠員があった際、世宗が宰相に適任者を選ばせたところ、左丞張汝弼が西京副留守の楊子益を法律に詳しく明らかであると推挙した。皇帝は言った。「子益は法に明るいが、心が正しくない。どうして天下の是非を判別する職に任じられようか。大理は公正な人物を用いねばならぬ。」左丞粘割斡特剌が貢を挙げ、閑職の部署を兼任させてこの職を領せしめることができると述べたので、貢をこれに任じた。二十八年、枢密副使に任じられた。章宗が立つと、御史大夫となった。ある時貢の誕生日に、右丞相の襄、参知政事の劉瑋、吏部郎中の肼、中都兵馬都指揮使の和喜が貢を祝賀し、夜禁を犯した。和喜は兵士を遣わして襄を邸宅まで送らせた。監察御史の徒単徳勝がこの事を弾劾し、刑部に下って肼らを捕らえて事情を尋ねさせた。皇帝は襄と瑋を大臣として釈放し、貢らはそれぞれ解任させた。まもなく大興府知事となり、再び枢密副使となった。致仕を乞うたが許されず、枢密使に進み、莘国公に封じられ、後に蕭国公に改封された。再び上表して退任を願い出たので、皇帝は言った。「以前にも既に告げたが、続いて外任を望む意向を知った。今また告げるというのは、今度はどうするつもりか。」ついに優詔をもってこれを許した。まもなく起用されて真定府知事となった。泰和二年、薨去した。

烏林答琳。

烏林答琳は、本名を留住という。郜国公主を娶り、駙馬都尉を加えられた。貞祐元年、静難軍節度使となった。夏人が邠州を侵犯した際、琳は降伏した。折しも延安府が通事の張福孫を夏国に派遣し、夏人が福孫に琳に会わせた。その時琳はすでに中風を患っており、公主は人に命じて状況を書き記した文書を福孫に託し、朝廷に懇願して、早く太平になり故郷に帰れることを願う旨を伝えるよう依頼した。福孫は詳細を報告したので、詔により薬物を賜った。

徒単公弼。

徒単公弼は、本名を習烈といい、河北東路算主海猛安の人である。父の府君奴は、熙宗の娘を娶り、駙馬都尉を加えられ、武定軍節度使の任で終わった。公弼は初め奉御を充てられ、大定二十七年、世宗の娘である息国公主を娶り、定遠大将軍・駙馬都尉を加えられ、器物局直長に改められた。副使に転じ、近侍局直長を兼ねた。父の喪に服したが、喪中起復して本局の副使となった。章宗が秋山で虎を射て当てると、虎は怒って突進してきたが、侍衛は皆逃げ去った。公弼は動かず、虎もやがて倒れた。詔により侍衛らは責められ、公弼は慰労された。濱州刺史に任じられ、再び昇進して兵部侍郎となり、累進して大名府知事となった。この時、宋征伐の軍が起こり、役人が未納の租税や牛頭税の徴収を急いだので、公弼は上奏した。「軍士は従軍し、民もまた疲弊しております。徴収を緩めて民力を休めるべきです。」朝廷はこれに従った。大安初年、大興府知事となり、武清県の盗賊事件を審理し、冤罪の疑いがあるとした。後に果たして真犯人が捕らえられた。一年余りして参知政事に任じられ、右丞に進み、左丞に転じた。至寧初年、平章政事に任じられ、定国公に封じられた。貞祐初年、右丞相に進み、罷免されて中山府知事となった。この時、中都が包囲されて危急で出発できず、包囲が解けると、宣宗は言った。「中山は新たに戦禍を受けたばかりである。河中府の方が良いであろう。」そこで河中府知事に改めた。定国軍節度使事、太孫太師、同判大睦親府事を歴任した。興定五年に薨去し、宣宗は朝儀を中止し、贈り物を賜り、諡を恪願といった。

徒単銘。

徒単銘は、字を国本といい、顕宗が名を重泰と賜った。祖父の貞は別に伝がある。父は特進・涇国公である。性質は沈黙寡言で、経史を粗く通じ、母に仕えて孝を尽くした。大定の末、奉御を充たす。章宗が即位すると、特に中都路渾特山の猛安を襲うことを勅した。明昌五年、尚醖署直長を授かり、累遷して侍儀司令・宿直将軍・尚衣局使・兵部郎中となり、大理評事孫人鑒とともに採訪使となり、提刑司の事を覆按した。右衛将軍に改め、左衛に転じ、出て永定軍節度使となり、河東北路按察使・転運使に移る。大安三年、大名府の知事に改め、就いて河北東西・大名路安撫使に昇る。大名は飢饉が重く困窮したので、銘は大いに交鈔を出してこれを賑うことを乞うた。崇慶の初め、真定府の知事に移り、また河北東西・大名路宣撫使を充たす。至寧元年九月、彰徳府において宣宗を奉迎し、俄かに尚書右丞を拝し、出て北京留守となるが、路が阻まれて赴くことができなかった。貞祐二年、卒す。

賛に曰く、天子が后を娶り、王姫が下嫁することは、豈に重からざらんや。秦・漢以来、世々甥舅の家は無し。『関雎』の道欠け、外戚驕盈し、『何彼穠矣』作らず、王姫の粛雝の義幾希なり。蓋し古は異姓の世爵公侯は天子と婚姻を為し、他姓は参ずるを得ざりき。女は王后となり、己は王姫をし、而して自ら其の貴きを貴び、富厚は加わらず、寵栄は与からず。漢・唐に此の道を行わしめば、則ち呂氏・王氏・武氏の難無く、公主の下嫁各其の分に安んじ、各其の所を得ん。金の徒単・拿懶・唐括・蒲察・裴満・紇石烈・僕散は皆貴族なり、天子后を娶るには必ず是に於てし、公主下嫁するには必ず是に於てし、周の斉・紀と異ならず、此れ婚礼の最も宜しきを得たる者にして、漢・唐に盛んなり。

徒単四喜

徒単四喜は、哀宗の皇后の弟なり。天興二年正月辛酉の夜、四喜・内侍馬福恵は帰徳より至る。時に河朔は既に利を失い、京城は猶未だ知らず、二人は旨を被りて両宮を迎え、遂に捷を報ずるに託し、小黄旗を執りて入り、至れば則ち両宮に奏して奉迎の意を以てす。是の日、二相を召し入れて議し、二相及び烏古孫奴申は行くべからざるを諫む。四喜色を為して曰く、「我制旨を奉じて両宮を迎う。敢えて行かざるを言う者有らば、当に別勅を以て事に従うべし」と。二相復た敢えて言わず、行の議遂に決す。制旨の取る所は両宮・柔妃裴満氏及び令人張秀蕊・都轄・承御・湯薬・皇乳母鞏国夫人等十余人の外は、皆放遣す。又宮中の宝物を取り、馬蹄金四百杖・大珠栗黄の如き者七千杖・生金山一・龍脳板二及び信瑞御璽を、仍て忠孝軍に両宮随行の物の半を賜うことを許す。

壬寅、太后仁安殿に御し、錠金及び七宝金洗を出して忠孝軍に分賜す。是の夜、両宮騎して出で、陳留に至り、城外二三箇所火の起こるを見て、兵有るを疑い、遅回する間に、奴申初め行かんと欲せず、即ち太后の旨を承けて馳せ還る。癸卯、京に入り四喜の家に頓す。少頃、宮に還る。復議して是の夜再び往かんとす。太后鞍馬に憊れて動く能わず、遂に止む。

明日、崔立変ず。四喜・術甲塔失不及塔失不の父咬住・四喜の妻完顔氏は、忠孝卒九十七騎を以て曹門を奪いて出で、将に帰徳に往かんとす。出づるを得ず、陳州門に転ずるも、亦門卒に止めらる。門帥裕州防禦使阿不罕斜合は已に遁去し、経歴官完顔合住が権めて帥職を執り、門卒を麾して塔失不等を放ち去らしめ、且つ曰く、「罪は我に在り、汝等の過に非ず」と。明日、立数十騎を以て合住を召す。合住自ら必ず死すと分ち、衣冠を易えて往く。立の左右腕を扼して刃を加えんと欲す。立遥かに見て問う、「汝は忠孝軍を放ち門を出ださしめし者か」と。合住曰く、「然り。天子の使命、某実に之を放つ。罪は某に在り」と。立忽ち若し省る所有るが如く、群卒を顧みて言う、「此の官人我之を識る。前に裏城を築く時我と同事す。我が部する所の十余卒官木を盗み罪死に当たる。此の官人之を問わず、但だ数十を笞するのみ。此の家は人を殺し能く、人を救い能くす」と。因りて好みて合住に謂う、「業已に放出せり。吾汝を罪せず」と。

四喜等帰徳に至る。上驚き問う「両宮は何如」と。二人奏す「京城軍変し、宮に入るに及ばず」と。上曰く、「汝が父汝が妻独り出づるを得しや」と。之を獄に下し、皆市に斬る。

賛に曰く、四喜両宮を奉迎し、而して崔立の変に値う。智者此に居りては、両宮と兵間に周旋し、以て事変の定まるを俟ちて徐かに之を図らん。万一然らずとも、一死を以て之に殉ずるのみ。他に策無し。四喜其の私親を奉じて帰り、而して人主の其の死を貸すを望む。豈に愚ならざらんや。