金史

列傳第五十八: 世戚 石家奴 裴滿達 忽睹 徒單恭 烏古論蒲魯虎 唐括德溫 烏古論粘沒曷 蒲察阿虎迭 烏林答暉 蒲察鼎壽 徒單思忠 徒單繹 烏林答復 烏古論元忠 唐括貢 烏林答琳 徒單公弼 徒單銘 徒單四喜

列傳第五十八: 世戚 石家奴 裴滿達 忽睹 徒單恭 烏古論蒲魯虎 唐括德溫 烏古論粘沒曷 蒲察阿虎迭 烏林答暉 蒲察鼎壽 徒單思忠 徒單繹 烏林答復 烏古論元忠 唐括貢 烏林答琳 徒單公弼 徒單銘 徒單四喜

列傳第五十八 世戚 ○石家奴 裴滿達 忽睹 徒單恭 烏古論蒲魯虎 唐括德溫 烏古論粘沒曷 蒲察阿虎迭 烏林答暉 蒲察鼎壽 徒單思忠 徒單繹 烏林答復 烏古論元忠(子誼) 唐括貢 烏林答琳 徒單公弼 徒單銘 徒單四喜

金の昭祖が徒單氏を娶り、后妃の族はここより始めて見ゆ。世祖の時、烏春が難を為し、世祖は婚姻を求めてその歓心を結ばんと欲す。烏春曰く、「女直じょちょくと胡里改は豈に婚姻を為すべけんや」と。世宗の時、夾穀清臣の族に国人と同じきを賜う。清臣は胡里改の人なり。然らば則ち四十七部の中にも婚姻を通ぜざる者あり。その故は則ち詰むること能わざるなり。国家ある者は、婚姻に恒族ありて、風気を淳固にし、親義を渝えず、而して貴賤等威別あり。蓋し良法なるか。『世戚傳』を作る。

原文金昭祖娶徒單氏,后妃之族,自此始見。世祖時,烏春為難,世祖欲求昏以結其歡心,烏春曰:「女直與胡里改豈可為昏。」世宗時,賜夾穀清臣族同國人。清臣,胡里改人也。然則四十七部之中亦有不通昏因者矣,其故則莫能詰也。有國家者,昏因有恆族,能使風氣淳固,親義不渝,而貴賤等威有別焉,蓋良法也歟。作《世戚傳》。

石家奴

原文石家奴

石家奴は蒲察部の人、世々案出虎水に居る。祖父斛魯短は世祖の外孫なり。桓赧・散達の乱に、昭肅皇后の父母兄弟皆敵境に在りしを、斛魯短は計を以て迎え還す。石家奴は幼少の時より太祖の家に撫養せられ、及び長ずるに及び、太祖は女を以て妻とす。年十五にして、甯江州を攻むるに従い、遼主の親軍を破り、臨潢府を攻めて皆功あり、謀克ぼうこくを襲ぐ。その後、山西より斉国王謀良虎の喪を護りて上京に帰る。道は興中を由る。是の時、方に興中を攻めて未だ下らず。石家奴は柩を駅に置き、その率いる猛安もうあん兵を率いて王師を助け、遂にその城を破る。

原文石家奴,蒲察部人,世居案出虎水。祖斛魯短,世祖外孫。桓赧、散達之亂,昭肅皇后父母兄弟皆在敵境,斛魯短以計迎還之。石家奴自幼時撫養于太祖家,及長,太祖以女妻之。年十五,從攻甯江州,敗遼主親軍,攻臨潢府皆有功,襲謀克。。其後,自山西護齊國王謀良虎之喪歸上京,道由興中。是時,方攻興中未下,石家奴置柩于驛,率其所領猛安兵助王師,遂破其城。

宗望に従い張覚を討つ。再び宗翰に従い宋を伐つ。宗翰は宗望の軍すでに汴を囲むと聞き、石家奴を遣わして事を計らしむ。平定軍に抵りて敵兵数万に遇い、これを破り、遂に宗望に見ゆ。已に還りて報ず。宗翰その平定の戦を聞き、甚だこれを嘉す。明年、再び宋を伐ち、石家奴は婁室ろうしつの軍に隷す。婁室陝西を討ちて未だ下らず、石家奴はその部の兵を領いてこれを援く。既にして、本部を以て西京に屯戍す。会に契丹の大石出奔す。余睹を元帥とし、石家奴を副とし、諸部族を襲いて還る。未だ幾ばくもなく、疾あり、郷里に退居す。

原文從宗望討張覺。再從宗翰伐宋。宗翰聞宗望軍已圍汴,遣石家奴計事,抵平定軍遇敵兵數萬,敗之,遂見宗望。已還報,宗翰聞其平定之戰,甚嘉之。明年,復伐宋,石家奴隸婁室軍。婁室討陝西未下,石家奴領所部兵援之。既而,以本部屯戍西京,會契丹大石出奔,以余睹為元帥,石家奴為副,襲諸部族以還。未幾,有疾,退居鄉里。

天眷年間、侍中・駙馬都尉を授かる。再び都統として辺部を定め、熙宗は御書を賜いてこれを嘉奨す。蘭陵郡王に封ぜらる。東京留守を除かれ、病を以て致仕す。卒す。年六十三。加えて鄖王を贈らる。正隆に王爵を奪われ、魯国公に封ぜらる。

原文天眷間,授侍中、駙馬都尉。再以都統定邊部,熙宗賜御書嘉獎之。封蘭陵郡王。除東京留守,以病致仕。卒,年六十三,加贈鄖王。正隆奪王爵,封魯國公。

裴滿達

原文裴滿達

裴滿達、本名は忽撻、婆盧木部の人。人となり淳直孝友なり。天輔六年、蒲家奴ほかどに従い叛寇を鉄呂川に追い、力戦して功あり。熙宗は忽達の女を娶る。是れ悼平皇后なり。天眷元年、世襲猛安を授かる。明年、皇后の父として太尉に拝され、徐国公に封ぜらる。皇統元年、会寧牧を除かる。数年居りて、太尉として朝請を奉ず。九年、悼后死す。間もなく、海陵は熙宗を弑し、衆誉を邀えんと欲し、熙宗の過悪を揚げ、悼后の死は罪に非ざるを以て、ここにおいて忽撻を王に封ず。天徳三年(1151年)、薨ず。子の忽睹は燕京留守となり、罪を以て免ぜられ、中都に居る。海陵は命じて馳驛を以てこれに赴かしむ。及び葬るに、秘書監納合椿年を使わして祭を致し、賻として銀五百両を賜う。

原文裴滿達,本名忽撻,婆盧木部人。為人淳直孝友。天輔六年,從蒲家奴追叛寇于鐵呂川,力戰有功。熙宗娶忽達女,是為悼平皇后。天眷元年,授世襲猛安。明年,以皇后父拜太尉,封徐國公。皇統元年,除會寧牧。居數歲,以太尉奉朝請。九年,悼后死。無何,海陵弑熙宗,欲邀眾譽,揚熙宗過惡,以悼后死非罪,於是封忽撻為王。天德三年(1151年),薨。子忽睹,為燕京留守,以罪免,居中都,海陵命馳驛赴之。及葬,使秘書監納合椿年致祭,賻銀五百兩。

忽睹

原文忽睹

忽睹、天眷三年に猛安を権め、皇統元年に行軍猛安となる。横海・崇義軍節度使を歴任し、後戚として勢いを恃み贓汙不法なり。その横海に在りし時は、富人を父として拝し、及び死するや、その喪に服してその資を分かつ。崇義に在りし時は、寺僧に諷して斎を設けしめ、その施しを受く。及び中京を留守するに及び、益々驕恣にして、苟も財を得べくんば為さざるなし。諸猛安の富人子弟を選びて紮野と為し、財物を規取す。時に「閑郎君」と号す。朝廷は忽睹と徒單恭等の汚濫甚だしきを以て、秉徳に命じて天下の官吏を黜陟せしむ。忽睹は贓を以て罷めらる。海陵は忽睹の至る所に家奴を縦して民を擾わすを以て、乃ち外官の任所における閑雑人の条約を定む。天徳三年、復た起用されて鄭州防禦使となり、安国軍節度使に改む。卒す。年三十九。

原文忽睹,天眷三年權猛安,皇統元年為行軍猛安。曆橫海、崇義軍節度使,以後戚怙勢贓汙不法。其在橫海,拜富人為父,及死,為之行服而分其資。在崇義,諷寺僧設齋而受其施。及留守中京,益驕恣,苟可以得財無不為者。選諸猛安富人子弟為紮野,規取財物,時號「閑郎君」。朝廷以忽睹與徒單恭等汙濫至甚,命秉德黜陟天下官吏,忽睹以贓罷。海陵以忽睹所至縱家奴擾民,乃定禁外官任所閒雜人條約。天德三年,復起為鄭州防禦使,改安國軍節度使。卒,年三十九。

徒單恭

原文徒單恭

徒單恭、本名は斜也しゃや。天眷二年、奉国上将軍となる。呉十の反事を告げるを以て、超えて龍虎衛上将軍を授かる。戸部侍郎となり、出でて済南尹となり、遷りて会寧牧となり、譚国公に封ぜらる。復た出でて太原尹となる。斜也は貪鄙にして、工をして一の仏像を繪かしめ、自ら嘗て仏を見たりと称し、その像かくの如し、当に金を以てこれを鑄すべしとす。遂に属県に金を賦し、而して未だ嘗て仏を鑄せず、尽くその家に入る。百姓これを「金総管」と号す。秉徳は官吏を廉訪し、斜也は贓を以て免ぜらる。

原文徒單恭,本名斜也。天眷二年,為奉國上將軍。以告吳十反事,超授龍虎衛上將軍。為戶部侍郎,出為濟南尹,遷會甯牧,封譚國公。復出為太原尹。斜也貪鄙,使工繪一佛像,自稱嘗見佛,其像如此,當以金鑄之。遂賦屬縣金,而未嘗鑄佛,盡入其家,百姓號為「金總管」。秉德廉訪官吏,斜也以贓免。

海陵の篡立するや、海陵の后徒單氏は斜也の女なり。ここより復た用いられて会寧牧となり、王に封ぜらる。未だ幾ばくもなく、平章政事に拝せらる。海陵は胡剌渾水に猟す。斜也は圍場を編列し、凡そ平素相能わざる者を輒ち杖つ。海陵は宰相に謂いて曰く、「斜也を相と為すは、朕私するに非ず。今聞く、軍国の大事凡そ斜也の言う所、卿等一も取ること無し。豈に千慮一得無からんや」と。他の宰相対する無く、温都思忠数事を挙げて対えて曰く、「某の事は本当にこの如くあるべきに、斜也は輒ちあれの如しと為す。皆妄かに異議を生じ、事宜に達せず。臣は康宗に逮事し、累朝の宰相未だ嘗て斜也の如く専恣する者無し」と。海陵は黙然たり。斜也、都堂にて令史馮仲尹を脊杖す。御史臺これを劾す。海陵はこれを二十杖つ。斜也の猛安部の人撒合出なる者、斜也の強いて部人の財物を率取するを言う。海陵は侍御史保魯に命じてこれを鞫せしむ。保魯は実を以て鞫せず。海陵は保魯を杖ち、而して撒合出を符宝祗候と為し、合紮猛安に改めて隷せしむ。

原文海陵篡立,海陵後徒單氏,斜也女,由是復用為會甯牧,封王。未幾,拜平章政事,海陵獵于胡剌渾水,斜也編列圍場,凡平日不相能者輒杖之。海陵謂宰相曰:「斜也為相,朕非私之。今聞軍國大事凡斜也所言,卿等一無取,豈千慮無一得乎?」他宰相無以對,溫都思忠舉數事對曰:「某事本當如此,斜也輒以為如彼,皆妄生異議,不達事宜。臣逮事康宗,累朝宰相未嘗有如斜也專恣者。」海陵默然。斜也於都堂脊杖令史馮仲尹,御史臺劾之,海陵杖之二十。斜也猛安部人撒合出者,言斜也強率取部人財物。海陵命侍御史保魯鞫之。保魯鞫不以實,海陵杖保魯,而以撒合出為符寶祗候,改隸合紮猛安。

斜也の兄定哥は太祖の長女兀魯を娶ったが、定哥は死に子がなかったので、末弟の子查剌を後嗣とした。斜也はその兄の家財を奪おうと謀り、兀魯を強いて妻室としたが仲睦まじくならず、兀魯はかつて斜也を怨み罵った。斜也の妾忽撻は兀魯と不和であり、そこで兀魯を海陵后徒単氏に讒して言うには、「兀魯は上(海陵)がその兄宗敏を殺したことを怨み、不満の言葉があります」と。時に韓王亨が広寧尹に改任され、諸公主や宗婦がその母を祝賀に赴いたが、兀魯は言葉を以て亨の母を慰め、忽撻もまた不満を抱き誹謗したとして兀魯を誣告した。海陵は蕭裕にこれを審理させたが、忽撻は徒単后に寵愛されており、証人たちは皆敢えて言わず、遂に兀魯を殺し、斜也はこれによって查剌の家財をことごとく奪った。大定年間にこれらは全て追って正された。海陵は兀魯に不満の言葉があったのに、斜也が奏上しなかったことを以て、遂に斜也を杖罰し、現職を免じた。まもなく、また司徒となり、進んで太保に拝され、三省事を領し、勧農使を兼ねた。さらに進んで太師となり、梁晋国王に封ぜられた。

原文斜也兄定哥尚太祖長女兀魯,定哥死無子,以季弟之子查剌為後。斜也謀取其兄家財,強納兀魯為室而不相能,兀魯嘗怨詈斜也。斜也妾忽撻與兀魯不葉,乃譖兀魯於海陵後徒單氏曰:「兀魯怨上殺其兄宗敏,有怨望語。」會韓王亨改廣甯尹,諸公主宗婦往賀其母,兀魯以言慰亨母,忽撻亦以怨望指斥誣兀魯。海陵使蕭裕鞫之,忽撻得幸于徒單後,左驗皆不敢言,遂殺兀魯,斜也因而盡奪查剌家財。大定間皆追正之。海陵以兀魯有怨望語,斜也不奏,遂杖斜也,免所居官。俄,復為司徒,進拜太保,領三省事,兼勸農使。再進太師,封梁晉國王。

貞元二年(1154年)九月、斜也は海陵に従って順州で狩猟した。狩猟中、斜也の薨去を聞き、即日に狩猟を中止し、その喪に臨み、自ら葬地を選び、使者を遣わして葬儀を営ませた。葬送の際には轀輬車を賜り、上(海陵)及び后は百官を率いて祭り、諡を忠と賜った。正隆年間、趙国王に改封され、さらに進んで斉国公となった。

原文貞元二年(1154年)九月,斜也從海陵獵於順州。方獵,聞斜也薨,即日罷獵,臨其喪,親為擇葬地,遣使營治。及葬,賜轀輬車,上及后率百官祭之,賜諡曰忠。正隆間,改封趙國王,再進齊國公。

その妻は斜也より先に卒去しており、海陵はかつてその葬所に至り祭礼を致し、その子の率府率吾裏補を諫議大夫として起復させた。大定年間、海陵が庶人に降格され、徒単氏が庶人の妻となると、斜也も特進鞏国公に降格された。

原文其妻先斜也卒,海陵嘗至其葬所致祭,起復其子率府率吾裏補為諫議大夫。大定間,海陵降為庶人,徒單氏為庶人妻,斜也降特進鞏國公。

烏古論蒲魯虎

原文烏古論蒲魯虎

烏古論蒲魯虎、父は當海、国初に功があった。蒲魯虎は契丹の大小字に通じ、宋王宗望の女昭寧公主什古を娶った。熙宗の初め、護衛となり、牌印に改め、常に左右に侍した。通進に転じた。父の謀克を襲い、再遷して臨海軍節度使となり、衛州防禦使に改めた。海陵は内殿で食事を賜り、彼に言うには、「衛州の風土は甚だ佳い。防禦使を降格と見なすな」と。これに対し、「衛州の官署は守者に不利と聞くことが多い」と答えた。即日に汾陽軍節度使に改め、衣服・佩玉・帯剣を賜った。入朝して太子詹事となり、卒去、年四十一。海陵は親しく臨んで哭し、后妃も皆弔祭し、賻贈は甚だ厚かった。有司が喪事を給し、特進駙馬都尉を追贈した。正隆の例により光禄大夫を贈られた。

原文烏古論蒲魯虎,父當海,國初有功。蒲魯虎通契丹大小字,娶宋王宗望女昭甯公主什古。熙宗初,為護衛,改牌印,常侍左右。轉通進。襲父謀克,再遷臨海軍節度使,改衛州防禦使。海陵賜食內殿,謂之曰:「衛州風土甚佳,勿以防禦為降也。」對曰:「頗聞衛州官署不利守者。」即日改汾陽軍節度使,賜衣服、佩玉、帶劍。入為太子詹事,卒,年四十一。海陵親臨哭之,后妃皆弔祭,賻贈甚厚。有司給喪事,贈特進駙馬都尉。正隆例贈光祿大夫。

唐括徳温

原文唐括德溫

唐括徳温、本名は阿里、上京率河の人である。曾祖の石古は、太祖に従って臘醅・麻産を平定し、謀克を領した。祖の脱孛魯は、その父の謀克を領し、太祖に従って遼を伐ち、寧江・泰州を攻めて戦功があった。父の撻懶たつらんは、康宗の女を娶り、宋王宗望に従って軍二万を以て平州を収め、城東十里余りで敵兵甚だ衆多に遇い、これを撃破した。太祖は賞賜甚だ厚く、行軍猛安を授けた。皇統初め、龍虎衛上将軍に遷り、興平・臨海等軍節度使を歴任した。

原文唐括德溫,本名阿里,上京率河人也。曾祖石古,從太祖平臘醅麻產,領謀克。祖脫孛魯,領其父謀克,從太祖伐遼,攻甯江、泰州戰有功。父撻懶,尚康宗女,從宋王宗望以軍二萬收平州,至城東十里許遇敵兵甚眾,戰敗之,太祖賞賚甚厚,授行軍猛安。皇統初,遷龍虎衛上將軍,歷興平、臨海等軍節度使。

徳温は射術に優れ、睿宗皇帝の女楚国長公主を娶った。天眷三年、宣武将軍を授かる。皇統元年、都元帥宗弼に従って南征し、突撃戦に長じたことで広威将軍に遷る。六年、定遠大将軍に遷る。七年、殿前右副都点検を授かる。天徳初め、殿前左副都点検に改め、兵部尚め書に遷る。出て大名尹兼本路兵馬都総管となり、横海軍節度使に改め、延安尹兼鄜延路兵馬都総管となる。世宗即位、道国公に封ぜられ、殿前都点検・駙馬都尉となった。大定二年、父祖の功により按出虎猛安の管轄する世襲謀克を授かる。三年九月九日、世宗は故事に従って出猟し、徳温に言うには、「扈従の軍士二千、飲食や秣が百姓を煩わせぬようできるか」と。厳しく規制し、なお銭一万貫を分けて与えた。四年、勧農使となり、出て西京留守となり、犀弓・玉帯を賜り、召し入れて皇太子太傅となったが卒去した。上は朝を廃し、親しく喪に臨み奠祭し、賻贈は甚だ厚かった。

原文德溫善射,尚睿宗皇帝女楚國長公主。天眷三年,授宣武將軍。皇統元年,從都元帥宗弼南征,以善突戰遷廣威將軍。六年,遷定遠大將軍。七年,授殿前右副都點檢。天德初,改殿前左副都點檢,遷兵部尚書。出為大名尹兼本路兵馬都總管,改橫海軍節度使,延安尹兼鄜延路兵馬都總管。世宗即位,封道國公,為殿前都點檢、駙馬都尉。大定二年,以父祖功授按出虎猛安所管世襲謀克。三年九月九日,世宗以故事出獵,謂德溫曰:「扈從軍士二千,飲食芻秣能無擾百姓乎。」嚴為約束,仍以錢一萬貫分給之。四年,為勸農使,出為西京留守,賜犀弓玉帶,召入為皇太子太傅,卒。上輟朝,親臨喪奠祭,賻贈甚厚。

十八年、その父撻懶および徳温の前後の功績を追録し、その長子の駙馬都尉鼎に世襲の西北路没裏山猛安を授け、泰州に移して隷属させた。

原文十八年,追錄其父撻懶並德溫前後功,授其長子駙馬都尉鼎世襲西北路沒裏山猛安,徙隸泰州。

烏古論粘沒曷

原文烏古論粘沒曷

烏古論粘沒曷、上京胡剌温屯の人で、河間に移屯した。祖の喚端は、太祖が遼を伐つ時、常に左右に侍し、遼主延禧を追撃し、夏人の援兵を退けることなど皆功があり、世襲謀克を授かった。父の歡睹は、官は広威将軍に至った。粘沒曷は睿宗の女冀国長公主を娶り、初め護衛となり、天徳二年に謀克を襲った。海陵が宋を伐つ時、押軍猛安となった。世宗即位、軍が帰還すると、侍衛親軍歩軍都指揮使を授かり、駙馬都尉を加えられた。左副点検を歴任し、禁直中に酒に酔って鍵の点検を親しく行わず、杖四十に処された。右宣徽使・勧農使に遷り、出て興平軍節度使となった。広寧尹に改め、銭三千貫を賜った。粘沒曷が広寧に至ると、酒を嗜み政務を視ず、上は兵部員外郎宗安を少尹とし、詔して宗安にこれを戒め諭させ、上は宗安に言うには、「汝が前政を継ぎ修めることができれば、朕は汝を忘れぬ、努めよ」と。大定年中、粘沒曷は卒去した。上はこれを聞き、その子の駙馬都尉公説を駅馬で馳せさせて喪に赴かせ、銭三千貫を賜り、沿路の祭物は全て官から給した。

原文烏古論粘沒曷,上京胡剌溫屯人也,移屯河間。祖喚端,太祖伐遼,常侍左右,追遼主延禧、卻夏人援兵皆有功,授世襲謀克。父歡睹,官至廣威將軍。粘沒曷尚睿宗女冀國長公主,初為護衛,天德二年襲謀克。海陵伐宋,為押軍猛安。世宗即位,軍還,授侍衛親軍步軍都指揮使,加駙馬都尉。曆左副點檢,禁直被酒不親視扃鐍,杖四十。遷右宣徽使、勸農使,出為興平軍節度使。改廣甯尹,賜錢三千貫。粘沒曷至廣寧,嗜酒不視事,上以兵部員外郎宗安為少尹,詔宗安戒諭之,上謂宗安曰:「汝能繼修前政,朕不忘汝,勉之。」大定中,粘沒曷卒。上聞之,遣其子駙馬都尉公說馳驛奔喪,賜錢三千貫,沿路祭物並從官給。

蒲察阿虎迭

原文蒲察阿虎迭

蒲察阿虎迭、初め信武将軍を授かり、海陵の姉の遼国長公主迪缽を娶り、駙馬都尉となった。遼国が薨じると、継いで鄧国長公主崔哥を娶った。皇統三年、右副点検となる。五年、宋に使いして賀正旦使となり、左副点検、礼部・工部尚書、広寧・咸平・臨潢尹、武定軍節度使に改まり、葛王に封ぜられた。薨去、年二十八。海陵は親しく葬儀に臨み、譚王を追贈した。正隆の例により特進楚国公を贈られた。

原文蒲察阿虎迭,初授信武將軍,尚海陵姊遼國長公主迪缽,為駙馬都尉。遼國薨,繼尚鄧國長公主崔哥。皇統三年,為右副點檢。五年,使宋為賀正旦使,改左副點檢,禮部、工部尚書,廣甯、咸平、臨潢尹,武定軍節度使,封葛王。薨年二十八。海陵親臨葬,贈譚王。正隆例贈特進楚國公。

烏林答暉

原文烏林答暉

烏林答暉、本名は謀良虎、明徳皇后の兄である。天眷初め、護衛に充てられ、宗磐・宗雋を捕らえた功により忠勇校尉を授かり、明威将軍に遷った。宗弼に従って北征し、広威将軍に遷り、金幣・尚廄の撃球馬を賞賜された。久しくして、殿中侍御史に除され、再び蒲速碗群牧使に除された。牧畜を謹み、遊宴に事せず、繁殖は盛んとなり、進んで秩を加えられ、特満群牧使に改まった。世宗即位、行在所に召し見えて中都兵馬都指揮使に除された。世宗が中都に至り、宋に使者を遣わそうとし、暉を使者とした。世宗は言うには、「暉はかつて官銭五百貫を私用した」と。そこでその罪を数えてこれを罷免し、高忠建を遣わした。宰臣に因って言うには、「朕は賞罰において、毫髪たりとも仮借することはない。もし公廉で事を治めるならば、平素から好きでなくとも必ず昇擢を加え、もし公法に抵触冒瀆するならば、至親といえども少しも容赦しない」と。都点検・兼侍衛親軍副都指揮使に遷り、卒去した。官を遣わして祭礼を致し、皇太子・諸王・百官が会喪し、銀千両・重彩四十端・絹四十匹を賻した。詔して暉の第三子天錫に納隣河猛安親管謀克を世襲させた。

原文烏林答暉,本名謀良虎,明德皇后兄也。天眷初,充護衛,以捕宗磐、宗雋功授忠勇校尉,遷明威將軍。從宗弼北征,遷廣威將軍,賞以金幣、尚廄擊球馬。久之,除殿中侍御史,再除蒲速碗群牧使,謹畜牧,不事遊宴,孳產蕃息,進秩,改特滿群牧使。世宗即位,召見行在,除中都兵馬都指揮使。世宗至中都,將遣使于宋,以暉為使。世宗曰:「暉嘗私用官錢五百貫。」乃數其罪而罷之,遣高忠建往。因謂宰臣曰:「朕於賞罰,豪發無所假借。果公廉辦治,雖素所不喜,必加升擢,若抵冒公法,雖至親不少恕。」遷都點檢、兼侍衛親軍副都指揮使,卒。遣官致祭,皇太子諸王百官會喪,賻銀千兩、重彩四十端、絹四十匹。詔以暉第三子天錫世襲納鄰河猛安親管謀克。

蒲察鼎壽

原文蒲察鼎壽

蒲察鼎壽は、本名を和尚といい、上京曷速河の人で、欽懐皇后の父である。性質は沈着温厚にして明らかな識見があり、契丹文字と漢字に通じ、吏事に長じていた。熙宗の娘鄭国公主を娶る。貞元三年(1155年)、海陵王の妹慶宜公主の子として定遠大将軍を加えられ、尚衣局使となり、累官して器物局使となった。大定二年、駙馬都尉を加えられ、職はもとのまま。符宝郎・蠡州刺史・浚州防禦使を歴任し、恵みある政治を行い、両州の百姓は石に刻んでこれを記念した。泰寧軍節度使に遷り、東平府・横海軍を歴任し、入朝して右宣徽使となり、左宣徽使に改め、中都路昏得渾山猛安曷速木単世襲謀克を授けられた。河間尹に改まる。号令は必ず行われ、豪族は影を潜めた。宗室で河間に住む者がおり、住民を侵奪していたので、鼎壽はその一族を平州に移すよう上奏し、郡内は大いに治まった。官において卒す。上(世宗)はこれを聞き深く悼惜された。喪が香山に至ると、皇太子が往きて奠し、百官が祭り、銀・彩絹を贈った。明昌三年、皇后の父として太尉・越国公を追贈された。

原文蒲察鼎壽,本名和尚,上京曷速河人,欽懷皇后父也。賦性沉厚有明鑒,通契丹、漢字,長於吏事。尚熙宗女鄭國公主。貞元三年(1155年),以海陵女弟慶宜公主子加定遠大將軍,為尚衣局使,累官器物局使。大定二年,加駙馬都尉,職如故。曆符寶郎、蠡州刺史、浚州防禦使,有惠政,兩州百姓刻石紀之。遷泰甯軍節度使,歷東平府、橫海軍,入為右宣徽使,改左宣徽,授中都路昏得渾山猛安曷速木單世襲謀克。改河間尹。號令必行,豪右屏跡。有宗室居河間,侵削居民,鼎壽奏徙其族于平州,郡內大治。卒官。上聞之深加悼惜。喪至香山,皇太子往奠,百官致祭,賻銀彩絹。明昌三年,以皇后父贈太尉、越國公。

鼎壽は代々姻戚と連なり、娘は皇后となり、長子の辞不失は定国・景国・道国の三公主を娶った。その寵遇はこのようなものであったが、富貴を以て人に驕ることなく、当時は外戚の第一とされた。

原文鼎壽既世連姻戚,女為皇后,長子辭不失凡三尚定國、景國、道國公主。其寵遇如此,未嘗以富貴驕人,當時以為外戚之冠云。

徒単思忠

原文徒單思忠

徒単思忠は、字を良弼といい、本名は寧慶である。曾祖父の賽補は、景祖の娘を娶った。太祖に従って遼を伐ち、臨潢の渾河で戦死した。父の賽一は、熙宗の妹を娶った。正隆末、颭碗群牧使となり、契丹の賊窩斡が北辺を擾乱した際、賽一はこれと戦って死んだ。大定初、金吾衛上将軍を追贈された。

原文徒單思忠,字良弼,本名甯慶。曾祖賽補,尚景祖女。從太祖伐遼,戰歿於臨潢之渾河。父賽一,尚熙宗妹。正隆末,為颭碗群牧使,契丹賊窩斡擾北邊,賽一與戰死之。大定初,贈金吾衛上將軍。

思忠は聡明で才があり、経史にかなり通じていた。世宗が潜邸におられた時、これを養育された。性質は寛厚であった。十二歳の時、上(世宗)に従って済南におり、ある日、姻戚の公子らと近郊に出遊したところ、酔った者が弓矢を腰に帯び馬を駆って突如通り過ぎた。諸公子は怒ってこれを鞭打とうとしたが、思忠は言った、「酔人は昏昧である、また何ぞ責めんとするに足らん」と。そこでこれを釈放した。その人は数十歩行くと、突然弓矢を執った。思忠は人を傷つけようとするのを恐れ、速やかにその傍らに馳せ至り、その弓を奪い、弦を弛めてこれを返した。上はこれを聞き、識見と度量があることを嘉し、これより常に側近く侍らせた。皇弟(世宗の弟)の第二女唐国公主を娶る。大定初、世宗は思忠をして南征の万戸高忠建・完顔かんがん福寿を遼口に迎えさせ、その去就を察させた。思忠はその誠意を知り、ともに東京に至った。世宗が即位し、中都に行かれる時、思忠は従行し、軍国庶事において補益するところ大いに多かった。大定元年十月、殿前左衛将軍に拝され、二年、駙馬都尉を加えられ、卒した。上は朝を輟やめ、喪所に臨んで奠し、有司に命じて礼を備えてこれを葬らせ、営葬の費用は官から支給させた。

原文思忠通敏有才,頗通經史。世宗在潛邸,撫養之。賦性寬厚。十有二歲從上在濟南,一日,與姻戚公子出遊近郊,有醉人腰弓矢策馬突過,諸公子怒欲鞭之,思忠曰:「醉人昏昧,又何足責。」遂釋之。其人行數十步,忽執弓矢,思忠恐欲傷人,速馳至其傍,奪其弓,弛而還之。上聞之,嘉有識量,由是常使侍側。尚皇弟二女唐國公主。大定初,世宗使思忠迎南征萬戶高忠建、完顏福壽於遼口,察其去就,思忠知其誠意,乃與俱至東京。世宗即位,如中都,思忠從行,軍國庶事補益弘多。大定元年十月,拜殿前左衛將軍,二年,加駙馬都尉,卒。上為輟朝,即喪所臨奠,命有司備禮葬之,營費從官給。

十九年、上は思忠の輔弼の功を追念し、驃騎衛上将軍を追贈し、その子の鐸に武功将軍・世襲中都路烏独渾謀克を授けた。

原文十九年,上追念思忠輔立功,贈驃騎衛上將軍,乃授其子鐸武功將軍、世襲中都路烏獨渾謀克。

徒単繹

原文徒單繹

徒単繹は、本名を術輩といい、その先祖は上京按出虎達阿の人である。祖父の撒合懣は、国初に功があり、隆安府路合紮謀克・奪古阿鄰猛安を授けられた。繹は姿容が美しく、諸国の言語に通じた。熙宗の第七女沈国公主を娶る。符宝祗候に充てられ、御院通進に遷り、符宝郎を授けられた。宣徳・泰安・淄州刺史を歴任し、廉潔の名があった。同知広寧府事に改まるが、母の鄂国公主の喪に服し、赴任しなかった。世宗は特に憂制(喪中)のうちに父の封を襲ぐことを許された。服喪が終わり、同知済南府事を授けられた。二十六年、棣州防禦使に遷り、政跡をもって聞こえ、臨海軍節度使に昇進し、卒した。

原文徒單繹,本名術輩,其先上京按出虎達阿人。祖撒合懣,國初有功,授隆安府路合紮謀克、奪古阿鄰猛安。繹美姿儀,通諸國語。尚熙宗第七女沈國公主。充符寶祗候,遷御院通進,授符寶郎。曆宣德、泰安、淄州刺史,有廉名。改同知廣寧府事,以母鄂國公主憂,不赴。世宗特許以憂制中襲父封。服闕,授同知濟南府事。二十六年,遷棣州防禦使,以政跡聞,升臨海軍節度使,卒。

繹の家は代々貴寵であり、会祖父の照から繹に至るまで公主を娶った者は四世に及んだ。

原文繹家世貴寵,自會祖照至繹尚公主者凡四世云。

烏林答復

原文烏林答復

烏林答復は、本名を阿裏剌といい、東平の人である。奉御の出身で、大定七年に世宗の第七女宛国公主を娶り、駙馬都尉を授けられた。引進使・兼符宝郎に改まり、出て蠡州刺史となり、三遷して帰徳軍節度使となった。明昌三年、興中府事を知ることに転じ、久しくして、曷懶路兵馬都総管となった。承安四年、絳陽軍節度使に拝された。卒した。

原文烏林答復,本名阿裏剌,東平人也。奉御出身,大定七年尚世宗第七女宛國公主,授駙馬都尉。改引進使、兼符寶郎,出為蠡州刺史,三遷歸德軍節度使。明昌三年,轉知興中府事,久之,為曷懶路兵馬都總管。承安四年,拜絳陽軍節度使。卒。

烏古論元忠

原文烏古論元忠

烏古論元忠は、本名を訛里也といい、その先祖は上京独抜古の人である。父の訛論は、太祖の娘畢国公主を娶った。元忠は幼少より秀異で、世宗が潜邸におられた時、長女を妻とし、後に魯国大長公主に封ぜられた。正隆末、海陵王に従って南伐した。世宗が遼陽で即位した時、太保の昂が海陵王の左領軍大都督ととくであったが、元忠を行在所に遣わして朝見させ、そこで定遠大将軍を授け、符宝郎に抜擢した。諭して言われた、「朕が即位したばかりで、親密な者は汝に如く者はない。侍従宿衛にあたり、不慮の事に備えよ」と。大定二年、駙馬都尉を加えられ、近侍局使に除かれ、殿前左衛将軍に遷った。世宗の狩猟に従い、上が虎を射ようとされた時、元忠は諫めてこれを止めさせた。殿前右副都点検に進み、賀宋正旦使となり、還って左副都点検に転じた。家奴が民税を結託して取り立てた罪に坐し、免官となった。十一年、旧職に復した。翌年、都点検に昇進した。十五年、北辺が献上物を進めたので、元忠を遣わしてこれを受けさせ、還った時、詔を下して諭された、「朕は卿が宿直する度に、その寝は必ず安らかである。今夏景明宮に行幸した時、卿が去って久しく、朕は甚だこれを思った」と。

原文烏古論元忠,本名訛里也,其先上京獨拔古人。父訛論,尚太祖女畢國公主。元忠幼秀異,世宗在潛邸以長女妻之,後封魯國大長公主。正隆末,從海陵南伐。世宗即位遼陽,時太保昂為海陵左領軍大都督,遣元忠朝於行在,遂授定遠大將軍,擢符寶郎。諭之曰:「朕初即位,親密無如汝者,侍從宿衛,宜戒不虞。」大定二年,加駙馬都尉,除近侍局使,遷殿前左衛將軍。從世宗獵,上欲射虎,元忠諫止之。進殿前右副都點檢,為賀宋正旦使,還,轉左副都點檢。坐家奴結攬民稅,免官。十一年,復舊職。明年,升都點檢。十五年,北邊淮獻,命元忠往受之,及還,詔諭曰:「朕每遇卿直宿,其寢必安。今夏幸景明宮,卿去久,朕甚思之。」

ちょうど大興府の守臣が欠員となったので、元忠を以て知府事とした。僧が法を犯し、吏がようやく獄に置こうとした時、皇姑梁国大長公主が釈放するよう頼んだが、元忠は聞き入れなかった。公主がこのことを上奏すると、世宗は召して言われた、「卿が情に徇したがわないのは、甚だ嘉すべきである。京をこのように治めるならば、朕はまた何を憂えようか」と。任期が満ちて、吏部尚書を授けられた。その子の誼が顕宗の長女薛国公主を娶った。十八年、御史大夫に抜擢され、撒巴山世襲謀克を授けられた。世宗が左丞相の紇石烈良弼に誰を丞相とすべきかと問うと、良弼は元忠を以て答えた。そこで平章政事に拝し、任国公に封ぜられ、尚書右丞相に進んだ。策論進士の科が設けられた時、元忠はこれを賛成した。世宗が会寧に行幸しようとされると、元忠は諫めたが聞き入れられず、出て真定府知事となり、まもなく再び詔されて右丞相となった。

原文會大興府守臣闕,遂以元忠知府事。有僧犯法,吏甫得置獄,皇姑梁國大長公主屬使釋之,元忠不聽,主奏其事,世宗召謂曰:「卿不徇情,甚可嘉也,治京如此,朕復何憂。」秩滿,授吏部尚書。以其子誼尚顯宗長女薛國公主。十八年,擢御史大夫,授撒巴山世襲謀克。世宗問左丞相紇石烈良弼孰可相者,良弼以元忠對,乃拜平章政事,封任國公,進尚書右丞相。策論進士之科設,元忠贊成之。世宗將幸會寧,元忠進諫不聽,出知真定府,尋復詔為右丞相。

世宗は上京の城壁を煉瓦で築こうとしたが、元忠は言った。「この地は正隆年間の軍事動員に遭い、民衆は疲弊しております。陛下が二十余年も休養を施されましたが、まだ完全には回復していません。まして土質が粗悪で、煉瓦造りでは長持ちせず、風雨で損壊すれば、毎年修繕を重ねることになり、民はますます困窮するでしょう。」皇帝の東幸が長引き帰還が遅れたので、元忠は上奏した。「御輿が当地に駐留してすでに一年を過ぎ、倉庫の蓄えは日々減り、市場での買い物は次第に高騰しております。禁衛軍や諸局署の者たちが多く逃亡しており、役人が法に基づき捕らえれば、陛下の仁愛の御心を傷つける恐れがあります。」世宗はこれを称えて受け入れた。

原文世宗欲甓上京城,元忠曰:「此邦遭正隆軍興,百姓凋弊,陛下休養二十餘年,尚未完復。況土性疏惡,甓之恐難經久,風雨摧壞,歲歲繕完,民將益因矣。」駕東幸久之未還,元忠奏曰:「鸞輿駐此已閱歲,倉儲日少,市買漸貴,禁衛暨諸局署多逃者,有司捕置諸法恐傷陛下仁愛。」世宗嘉納之。

まもなく出向して北京留守となったが、世宗は責めて諭した。「汝は強情で独りよがりであり、権力を専らにして近臣と結託する。汝の心は測り難い。速やかに任地に赴け。」後に左丞張汝弼が奏上した際、世宗はその迎合を嫌い、側近に言った。「卿らは何事にも依違し、安易に回避して、敢えて言い尽くそうとしない。高い爵位と厚い俸禄にどうしてふさわしいと言えようか。烏古論元忠が宰相であった時は、剛直で敢言、義のためには身をも顧みず、誠に尊ぶべきであった。」そこで、真定府知事に改め、後に河間府知事に移った。明昌二年、広寧府知事となる。河間で球場を修築して民を煩わせたため、赦令が下った折に、順義軍節度使に任じられた。致仕を乞うたが許されず、特旨をもって開府儀同三司・北京留守を加えられた。済南府知事に転じ、宮廷を通過する際には宴会に参加を許され、その席次は平章政事の上位に置かれた。承安二年、南京留守に移り、まもなく彰徳府知事に改め、そこで没した。訃報が届くと、皇帝は宣徽使白琬を遣わして焼飯の儀を行わせ、贈り物は非常に手厚かった。元忠は平素から高貴であり、性格は粗野で豪放ながら内心は猜疑心が深く、世宗からしばしば責められた。また、赴任先でいつも奴僕を統制できず、世間はこれを非難したという。子に誼がいる。

原文尋出為北京留守,責諭之曰:「汝強悍自用,顓權而結近密。汝心叵測,其速之官。」後左丞張汝弼奏事,世宗惡其阿順,謂左右曰:「卿等每事依違苟避,不肯盡言,高爵厚祿何以勝任。如烏古論元忠為相,剛直敢言,義不顧身,誠可尚也。」於是,改知真定府事,移知河間。明昌二年,知廣寧府。以河間修築球場擾民,會赦下,除順義軍節度使。乞致仕不許,特加開府儀同三司、北京留守。徙知濟南府,過闕,令預宴,班平章政事之上。承安二年,移守南京,尋改知彰德府,卒。訃聞,上遣宣徽使白琬燒飯,賻物甚厚。元忠素貴,性粗豪而內深忌,世宗嘗責之。又所至不能戢奴僕,世以此為訾云。子誼。

子の誼。

原文子誼

誼は本名を雄名という。大定八年、海陵王の娘を娶った。宗室および六品以上の官とその夫人を招いて宴を催し、皇帝は言った。「この娘も太祖の曾孫であり、朕の娘同然である。その父が廃されて滅んだのは、娘の罪ではない。」海陵王の娘が亡くなると、大定二十一年、顕宗の娘である広平郡主を娶った。誼は宮衛の職を歴任し、人となりは粗野で豪放、その父に似ていた。二十六年、皇帝は原王に言った。「元忠が再び宰相となることは望むな。雄名はまたその父に及ばない。朕はかつて寛大に扱ったが、恩を知るどころではない。汝はその人となりを知っておくがよい。」平章政事の襄に言った。「雄名は外官に補任せよ。今後、宮中の官で既に外補の旨がある者は、朝廷での正式な任命に至るまで、宮中に入らせてはならない。」そこで、誼は同知澄州軍州事に任じられた。章宗が即位すると、広平郡主は鄴国長公主に進封され、誼は順天軍節度副使に改められ、駙馬都尉を加えられた。承安元年、累進して秘書監兼吏部侍郎となり、刑部侍郎に改め、工部尚書に昇った。泰和元年、父の元忠の喪に服した。二年、本官のまま喪中起復した。三年、東平府知事となり、真定府知事に改められた。六年、宋を征伐し、元帥左都監に昇った。七年、左監軍に転じた。八年、御史大夫に任じられた。大安年間、大名府知事となった。至寧初年、謀反の罪により誅殺された。

原文誼本名雄名。大定八年,尚海陵女。宴宗室及六品以上官,命婦預焉,上曰:「此女亦太祖之曾孫,猶朕之女,乃父廢亡,非其女之罪也。」海陵女卒,大定二十一年,尚顯宗女廣平郡主。誼歷仕宮衛,為人粗豪類其父。二十六年,上謂原王曰:「元忠勿望其可復相也。雄名又不及乃父,朕嘗宥待,殊不知恩,汝宜知其為人。」謂平章政事襄曰:「雄名可令補外。自今宮掖官已有旨補外者,比及廷授,即毋令入宮。」於是,誼除同知澄州軍州事。章宗即位,廣平郡主進封鄴國長公主,誼改順天軍節度副使,加駙馬都尉。承安元年,累遷秘書監兼吏部侍郎,改刑部,遷工部尚書。泰和元年,遇父元忠憂。二年,以本官起復。三年,知東平府事,改知真定府事。六年,伐宋,遷元帥左都監。七年,轉左監軍。八年,拜御史大夫。大安中,知大名府。至甯初,以謀逆伏誅。

唐括貢。

原文唐括貢

唐括貢は、本名を達哥といい、太傅阿裏の子である。世宗の第四皇女である呉国公主を娶り、駙馬都尉を授けられ、奉御を充てられた。特旨をもって拱衛直副都指揮使を授けられ、五度の昇進を経て刑部侍郎となったが、職務を離れた罪で官位一階を削られ、出向して德州防禦使となった。順天軍節度使に昇進し、横海軍に移鎮した。召還されて左宣徽使となり、兵部尚書に昇り、吏部尚書に改め、礼部尚書兼大理卿に転じた。先に、大理卿の欠員があった際、世宗が宰相に適任者を選ばせたところ、左丞張汝弼が西京副留守の楊子益を法律に詳しく明らかであると推挙した。皇帝は言った。「子益は法に明るいが、心が正しくない。どうして天下の是非を判別する職に任じられようか。大理は公正な人物を用いねばならぬ。」左丞粘割斡特剌が貢を挙げ、閑職の部署を兼任させてこの職を領せしめることができると述べたので、貢をこれに任じた。二十八年、枢密副使に任じられた。章宗が立つと、御史大夫となった。ある時貢の誕生日に、右丞相の襄、参知政事の劉瑋、吏部郎中の肼、中都兵馬都指揮使の和喜が貢を祝賀し、夜禁を犯した。和喜は兵士を遣わして襄を邸宅まで送らせた。監察御史の徒単徳勝がこの事を弾劾し、刑部に下って肼らを捕らえて事情を尋ねさせた。皇帝は襄と瑋を大臣として釈放し、貢らはそれぞれ解任させた。まもなく大興府知事となり、再び枢密副使となった。致仕を乞うたが許されず、枢密使に進み、莘国公に封じられ、後に蕭国公に改封された。再び上表して退任を願い出たので、皇帝は言った。「以前にも既に告げたが、続いて外任を望む意向を知った。今また告げるというのは、今度はどうするつもりか。」ついに優詔をもってこれを許した。まもなく起用されて真定府知事となった。泰和二年、薨去した。

原文唐括貢,本名達哥,太傅阿裏之子也。尚世宗第四女吳國公主,授駙馬都尉,充奉御。特授拱衛直副都指揮使,五遷刑部侍郎,坐擅離職削官一階,出為德州防禦使。升順天軍節度使,移鎮橫海。召為左宣徽使,遷兵部尚書,改吏部,轉禮部尚書、兼大理卿。先是,大理卿闕,世宗命宰臣選可授者,左丞張汝弼舉西京副留守楊子益法律詳明。上曰:「子益雖明法,而用心不正,豈可任之以分別天下是非也?大理須用公正人。」左丞粘割斡特剌舉貢可任以閑簡部分而兼領是職,遂以貢為之。二十八年,拜樞密副使。章宗立,為御史大夫。會貢生日,右丞相襄、參知政事劉瑋、吏部郎中肼、中都兵馬都指揮使和喜為貢壽,遂犯夜禁,和喜遣軍人送襄至第。監察御史徒單德勝劾其事,下刑部逮肼等問狀。上以襄、瑋大臣釋之,而貢等各解職。尋知大興府事,復為樞密副使。乞致仕不許,進樞密使,封莘國公,改封蕭。復上表乞退,上曰:「向已嘗告,續知意欲外除,今之告將復若何。」遂優詔許之。尋起知真定府事。泰和二年,薨。

烏林答琳。

原文烏林答琳

烏林答琳は、本名を留住という。郜国公主を娶り、駙馬都尉を加えられた。貞祐元年、静難軍節度使となった。夏人が邠州を侵犯した際、琳は降伏した。折しも延安府が通事の張福孫を夏国に派遣し、夏人が福孫に琳に会わせた。その時琳はすでに中風を患っており、公主は人に命じて状況を書き記した文書を福孫に託し、朝廷に懇願して、早く太平になり故郷に帰れることを願う旨を伝えるよう依頼した。福孫は詳細を報告したので、詔により薬物を賜った。

原文烏林答琳,本名留住。尚郜國公主,加駙馬都尉。貞祐元年為靜難軍節度使。夏人犯邠州,琳降。會延安府遣通事張福孫至夏國,夏人使福孫見琳,時已中風,公主令人以狀付福孫,屬以懇禱朝廷,冀早太平得還鄉之意。福孫具以聞,詔賜以藥物。

徒単公弼。

原文徒單公弼

徒単公弼は、本名を習烈といい、河北東路算主海猛安の人である。父の府君奴は、熙宗の娘を娶り、駙馬都尉を加えられ、武定軍節度使の任で終わった。公弼は初め奉御を充てられ、大定二十七年、世宗の娘である息国公主を娶り、定遠大将軍・駙馬都尉を加えられ、器物局直長に改められた。副使に転じ、近侍局直長を兼ねた。父の喪に服したが、喪中起復して本局の副使となった。章宗が秋山で虎を射て当てると、虎は怒って突進してきたが、侍衛は皆逃げ去った。公弼は動かず、虎もやがて倒れた。詔により侍衛らは責められ、公弼は慰労された。濱州刺史に任じられ、再び昇進して兵部侍郎となり、累進して大名府知事となった。この時、宋征伐の軍が起こり、役人が未納の租税や牛頭税の徴収を急いだので、公弼は上奏した。「軍士は従軍し、民もまた疲弊しております。徴収を緩めて民力を休めるべきです。」朝廷はこれに従った。大安初年、大興府知事となり、武清県の盗賊事件を審理し、冤罪の疑いがあるとした。後に果たして真犯人が捕らえられた。一年余りして参知政事に任じられ、右丞に進み、左丞に転じた。至寧初年、平章政事に任じられ、定国公に封じられた。貞祐初年、右丞相に進み、罷免されて中山府知事となった。この時、中都が包囲されて危急で出発できず、包囲が解けると、宣宗は言った。「中山は新たに戦禍を受けたばかりである。河中府の方が良いであろう。」そこで河中府知事に改めた。定国軍節度使事、太孫太師、同判大睦親府事を歴任した。興定五年に薨去し、宣宗は朝儀を中止し、贈り物を賜り、諡を恪願といった。

原文徒單公弼,本名習烈,河北東路算主海猛安人。父府君奴,尚熙宗女,加駙馬都尉,終武定軍節度使。公弼初充奉御,大定二十七年,尚世宗女息國公主,加定遠大將軍、駙馬都尉,改器物局直長。轉副使、兼近侍局直長。丁父憂,起復本局副使。章宗秋山射中虎,虎怒突而前,侍衛皆避去,公弼不動,虎亦隨斃。詔責侍衛而慰諭公弼。除濱州刺史,再遷兵部侍郎,累除知大名府事。是時,伐宋軍興,有司督逋租及牛頭稅甚急,公弼奏:「軍士從戎,民亦疲弊,可緩徵以紓民。」朝廷從之。大安初,知大興府事,讞武清盜,疑其有冤,已而果獲真盜。歲餘拜參知政事,進右丞,轉左丞。至甯初,拜平章政事,封定國公。貞祐初,進拜右丞相,罷知中山府事。是時,中都圍急不可行,圍解,宣宗曰:「中山新被兵,不如河中善。」乃改知河中府。曆定國軍節度使事、太孫太師、同判大睦親府事。興定五年薨,宣宗輟朝,賻贈,諡恪願。

徒単銘。

原文徒單銘

徒単銘は、字を国本といい、顕宗が名を重泰と賜った。祖父の貞は別に伝がある。父は特進・涇国公である。性質は沈黙寡言で、経史を粗く通じ、母に仕えて孝を尽くした。大定の末、奉御を充たす。章宗が即位すると、特に中都路渾特山の猛安を襲うことを勅した。明昌五年、尚醖署直長を授かり、累遷して侍儀司令・宿直将軍・尚衣局使・兵部郎中となり、大理評事孫人鑒とともに採訪使となり、提刑司の事を覆按した。右衛将軍に改め、左衛に転じ、出て永定軍節度使となり、河東北路按察使・転運使に移る。大安三年、大名府の知事に改め、就いて河北東西・大名路安撫使に昇る。大名は飢饉が重く困窮したので、銘は大いに交鈔を出してこれを賑うことを乞うた。崇慶の初め、真定府の知事に移り、また河北東西・大名路宣撫使を充たす。至寧元年九月、彰徳府において宣宗を奉迎し、俄かに尚書右丞を拝し、出て北京留守となるが、路が阻まれて赴くことができなかった。貞祐二年、卒す。

原文徒單銘,字國本,顯宗賜名重泰。祖貞,別有傳。父特進、涇國公。性重默寡言,粗通經史,事母盡孝。大定末,充奉御。章宗即位,特敕襲中都路渾特山猛安。明昌五年,授尚醖署直長,累遷侍儀司令、宿直將軍、尚衣局使、兵部郎中,與大理評事孫人鑒為採訪使,覆按提刑司事。改右衛將軍,轉左衛,出為永定軍節度使,移河東北路按察使、轉運使。大安三年,改知大名府,就升河北東西、大名路安撫使。大名薦饑重困,銘乞大出交鈔以賑之。崇慶初,移知真定府,復充河北東西、大名路宣撫使。至甯元年九月,奉迎宣宗於彰德府,俄拜尚書右丞,出為北京留守,以路阻不能赴。貞祐二年,卒。

賛に曰く、天子が后を娶り、王姫が下嫁することは、豈に重からざらんや。秦・漢以来、世々甥舅の家は無し。『関雎』の道欠け、外戚驕盈し、『何彼穠矣』作らず、王姫の粛雝の義幾希なり。蓋し古は異姓の世爵公侯は天子と婚姻を為し、他姓は参ずるを得ざりき。女は王后となり、己は王姫を尚し、而して自ら其の貴きを貴び、富厚は加わらず、寵栄は与からず。漢・唐に此の道を行わしめば、則ち呂氏・王氏・武氏の難無く、公主の下嫁各其の分に安んじ、各其の所を得ん。金の徒単・拿懶・唐括・蒲察・裴満・紇石烈・僕散は皆貴族なり、天子后を娶るには必ず是に於てし、公主下嫁するには必ず是に於てし、周の斉・紀と異ならず、此れ婚礼の最も宜しきを得たる者にして、漢・唐に盛んなり。

原文贊曰:天子娶后,王姬下嫁,豈不重哉。秦、漢以來,無世世甥舅之家。《關雎》之道缺,外戚驕盈,《何彼穠矣》不作,王姬肅雝之義幾希矣。蓋古者異姓世爵公侯與天子為昏因,他姓不得參焉。女為王后,己尚王姬,而自貴其貴,富厚不加焉,寵榮不與焉。使漢、唐行此道,則無呂氏、王氏、武氏之難,公主下嫁各安其分、各得其所矣。金之徒單、拿懶、唐括、蒲察、裴滿、紇石烈、僕散皆貴族也,天子娶後必於是,公主下嫁必於是,與周之齊、紀無異,此昏禮之最得宜者,盛于漢、唐矣。

徒単四喜

原文徒單四喜

徒単四喜は、哀宗の皇后の弟なり。天興二年正月辛酉の夜、四喜・内侍馬福恵は帰徳より至る。時に河朔は既に利を失い、京城は猶未だ知らず、二人は旨を被りて両宮を迎え、遂に捷を報ずるに託し、小黄旗を執りて入り、至れば則ち両宮に奏して奉迎の意を以てす。是の日、二相を召し入れて議し、二相及び烏古孫奴申は行くべからざるを諫む。四喜色を為して曰く、「我制旨を奉じて両宮を迎う。敢えて行かざるを言う者有らば、当に別勅を以て事に従うべし」と。二相復た敢えて言わず、行の議遂に決す。制旨の取る所は両宮・柔妃裴満氏及び令人張秀蕊・都轄・承御・湯薬・皇乳母鞏国夫人等十余人の外は、皆放遣す。又宮中の宝物を取り、馬蹄金四百杖・大珠栗黄の如き者七千杖・生金山一・龍脳板二及び信瑞御璽を、仍て忠孝軍に両宮随行の物の半を賜うことを許す。

原文徒單四喜,哀宗皇后之弟也。天興二年正月辛酉夜,四喜、內侍馬福惠至自歸德,時河朔已失利,京城猶未知,二人被旨迎兩宮,遂託以報捷,執小黃旗以入,至則奏兩宮以奉迎之意。是日,召二相入議,二相及烏古孫奴申諫不可行。四喜作色曰:「我奉制旨迎兩宮,有敢言不行者,當以別敕從事矣。」二相不復敢言,行議遂決。制旨所取兩宮、柔妃裴滿氏及令人張秀蕊、都轄、承御、湯藥、皇乳母鞏國夫人等十餘人外,皆放遣之。又取宮中寶物,馬蹄金四百杖、大珠如栗黃者七千杖、生金山一、龍腦板二及信瑞御璽,仍許賜忠孝軍以兩宮隨行物之半。

壬寅、太后仁安殿に御し、錠金及び七宝金洗を出して忠孝軍に分賜す。是の夜、両宮騎して出で、陳留に至り、城外二三箇所火の起こるを見て、兵有るを疑い、遅回する間に、奴申初め行かんと欲せず、即ち太后の旨を承けて馳せ還る。癸卯、京に入り四喜の家に頓す。少頃、宮に還る。復議して是の夜再び往かんとす。太后鞍馬に憊れて動く能わず、遂に止む。

原文壬寅,太后御仁安殿,出錠金及七寶金洗分賜忠孝軍。是夜,兩宮騎而出,至陳留,見城外二三處火起,疑有兵,遲回間,奴申初不欲行,即承太后旨馳還。癸卯,入京頓四喜家,少頃,還宮。復議以是夜再往,太后憊于鞍馬不能動,遂止。

明日、崔立変ず。四喜・術甲塔失不及塔失不の父咬住・四喜の妻完顔氏は、忠孝卒九十七騎を以て曹門を奪いて出で、将に帰徳に往かんとす。出づるを得ず、陳州門に転ずるも、亦門卒に止めらる。門帥裕州防禦使阿不罕斜合は已に遁去し、経歴官完顔合住が権めて帥職を執り、門卒を麾して塔失不等を放ち去らしめ、且つ曰く、「罪は我に在り、汝等の過に非ず」と。明日、立数十騎を以て合住を召す。合住自ら必ず死すと分ち、衣冠を易えて往く。立の左右腕を扼して刃を加えんと欲す。立遥かに見て問う、「汝は忠孝軍を放ち門を出ださしめし者か」と。合住曰く、「然り。天子の使命、某実に之を放つ。罪は某に在り」と。立忽ち若し省る所有るが如く、群卒を顧みて言う、「此の官人我之を識る。前に裏城を築く時我と同事す。我が部する所の十余卒官木を盗み罪死に当たる。此の官人之を問わず、但だ数十を笞するのみ。此の家は人を殺し能く、人を救い能くす」と。因りて好みて合住に謂う、「業已に放出せり。吾汝を罪せず」と。

原文明日,崔立變。四喜、術甲塔失不及塔失不之父咬住、四喜妻完顏氏,以忠孝卒九十七騎奪曹門而出,將往歸德,不得出,轉陳州門,亦為門卒所止。門帥裕州防禦使阿不罕斜合已遁去,經歷官完顏合住權帥職,麾門卒放塔失不等去,且曰:「罪在我,非汝等之過。」明日,立以數十騎召合住,合住自分必死,易衣冠而往。立左右扼腕欲加刃。立遙見,問:「汝是放忠孝軍出門者耶?」合住曰:「然。天子使命,某實放之,罪在某。」立忽若有所省,顧群卒言:「此官人我識之,前築裏城時與我同事。我所部十餘卒盜官木罪當死,此官人不之問,但笞數十而已。此家能殺人,能救人。」因好謂合住曰:「業已放出,吾不汝罪也。」

四喜等帰徳に至る。上驚き問う「両宮は何如」と。二人奏す「京城軍変し、宮に入るに及ばず」と。上曰く、「汝が父汝が妻独り出づるを得しや」と。之を獄に下し、皆市に斬る。

原文四喜等至歸德,上驚問「兩宮何如?」二人奏「京城軍變,不及入宮。」上曰:「汝父汝妻獨得出耶?」下之獄,皆斬於市。

賛に曰く、四喜両宮を奉迎し、而して崔立の変に値う。智者此に居りては、両宮と兵間に周旋し、以て事変の定まるを俟ちて徐かに之を図らん。万一然らずとも、一死を以て之に殉ずるのみ。他に策無し。四喜其の私親を奉じて帰り、而して人主の其の死を貸すを望む。豈に愚ならざらんや。

原文贊曰:四喜奉迎兩宮,而值崔立之變,智者居此,與兩宮周旋兵間,以俟事變之定而徐圖之。萬一不然,以一死徇之耳,他無策也。四喜奉其私親以歸,而望人主貸其死,豈非愚乎!