金史

列傳第五十七:粘葛奴申、劉天起、完顏婁室三人、烏古論鎬、張天綱、完顏仲德

粘葛奴申

粘葛奴申は、任子(蔭位)によって官に入り、あるいは策論進士であったという。天興の初め、開封府の判官を務め、厳格で有能と称された。その年の五月、陳州防禦使に抜擢された。当時は兵乱が荒れ狂い、道路は通じていなかったが、奴申は命を受け、毅然として単騎で間道を進んで赴任した。陳州は兵乱が起こって以来、軍民は皆他郡に避難しており、奴申はこれに官吏を選任し、号令を明らかにし、城郭を修築し、家屋を建て、倉庫を満たし、器械を整備した。間もなく、流亡の民数十万口を集め、米一斛の値段が白金四両となり、市場は賑わい、汴京の市街のようであった。京城の危難に陥った民衆が望んで帰ってくる者が絶えず、ここを以て東南の生路と指すようになった。

翌年、哀宗が帰徳に逃れると、陳州を金興軍と改め、急使を馳せて褒賞の詔を伝え、奴申を節度使とした。間もなく参知政事に任じられ、陳州において行尚書省を執り行った。ここにおいて、奴申は五都尉を立ててその兵を率いさせ、建威の来豬糞、虎威の蒲察合達、振武の李順児、振威の王義、果毅の完顏某とし、凡そ招撫司から来た者は皆都尉司に隷属させた。

この時、交戦は一日もなく、州に駐屯する軍は十万余りであった。奴申は官属と謀って言った。「大軍が日に日に迫るが、我が州の糧食には限りがある。どうすればよいか。」そこで軍への支給を減らし、月一斛五斗を一斛とし、さらに八斗とし、さらに六斗とした。将領には支給しなかった。人心は次第に怨みを抱いた。故に李順児、崔都尉はこれによって異心を抱き、劉提控及び完顏不如哥提控がこれに加わった。奴申はその謀り事を知り、常に兵で自らを防いだ。大元の兵が硃仙鎮で交易に向かったと聞くと、奴申は五都尉の軍から各二百人ずつを、李順児と副都尉の崔某に率いさせ、項城寨を襲撃させた。孫鎮撫という者に命じて順児を召し出し軍事を議させた。孫がその家に至ると、順児は既に甲冑を着けており、孫がその刀を見ようとすると、順児は抜いて見せた。孫は顔色を変え、すぐに門を出て逃走した。順児は追いかけてこれを殺し、馬に乗り、兵二百人を率いて省(行尚書省)に入り、軍士に説いて言った。「行省は軍糧を減らしている。汝らが飽食したいなら我に従え、したくなければ行省に従え。」ここにおいて、省中の軍士は皆座ったまま起き上がらなかった。奴申は変事を聞いて後堂に逃げたが、追いかけて殺された。提控の劉某が加害し、その虎符を解いて順児に与え、併せてその子・甥・婿及び同郷の王都尉を殺した。順児は五都尉の軍に皆甲冑を着けさせ、街路を守らせた。自ら行省を称し、元帥、都尉を任命した。劉提控が言葉に従わなかったので、座中で斬った。翌日、遂に克石烈正之を遣わして汴京に降伏を申し入れた。崔立はその弟の倚を遣わして順児に淮陽軍節度使を加え、行省は元の通りとした。

間もなく、虎威都尉の蒲察合達と高元帥という者が順児の徒党をことごとく殺し、城を挙げて蔡州に逃れた。大軍が気づき、孫家林まで追い付き、老幼数十万のうち脱出した者は僅かであった。

初め、奴申は崔立の変事を聞き、人を遣わしてその事情を探らせたが、順児、崔都尉も密かに人を遣わして崔立と結託しようとし、丁度奴申の遣わした者と同行し、共に帰還した。順児はその謀り事が漏れることを恐れ、故に事を起こすのを一層急いだ。奴申もその謀り事を知っていたので、故に項城襲撃を命じ、その出陣に乗じて襲撃殺害しようとしたが、既に先手を打たれていたのである。

劉天起

劉天起という者は、一介の平民から身を起こし、初めは甚だ凡庸で卑しい者であった。汴京が戒厳令下にあった時、君相に上書して働きかけ、暫く一職を仮に授けられて自らの力を尽くしたいと願った。常に戦国の兵法を語り、平章の白撒らはこれを信じ、景德寺に革車三千両の監造を命じた。天興元年、都招撫使に任じられ、金符を佩用した。召見され、陳州へ糧食を運搬したいと乞うと、上はこれを許し、一時は皆その僥倖を密かに嘲笑した。陳州に至ると、行軍に大いに方略があり、出戦する度に、幾度も功績を挙げ、陳州の人々は甚だこれを頼り重んじた。順児の変事に際し、天起は傲慢に従わず、殺害された。同時に唐括招撫という者も屈服せずに死んだ。

完顏大婁室、完顏中婁室、完顏小婁室

完顏婁室三人は、皆内族(皇族)である。当時その名が同じであったため、各々長幼によって区別した。

正大八年、慶山奴が京兆を放棄した時、丁度鷹揚都尉の大婁室が軍器を運搬して白鹿原に至り、大軍と遭遇して戦い、兵刃が尽きると、絛(紐)で金牌を結び付け、力戦して死んだ。

九年正月、大軍が襄城に至ると、元帥の中婁室、小婁室が馬軍三千を率いて汝墳でこれと遭遇した。当時大軍は三四十騎で襄城に入り、駅馬を駆り出し、また東営に入り、一千夫長を殺し、金人はようやくこれに気づいた。両婁室は正月元旦に将校と酒宴を開き、皆酔って軍を整えることができず、遂に敗れ、許州に退走した。折しも中使が召し出して京師に入った。天興二年正月、河朔の軍が潰え、哀宗が帰徳に逃れると、中婁室は北面総帥となり、小婁室は左翼元帥となり、潰走した兵卒及び将軍の夾谷九十を収容して蔡州に奔った。蔡州の帥(長官)烏古論栲栳はその横暴で従わぬことを知り受け入れず、遂に息州に走り、息州の帥石抹九住がこれを受け入れた。当時白華が上命により虎符を九住に送り、息州行帥府事とした。九住は近侍(側近)の出身で、自らを飾り立てることを好み、従者が道に満ちた。三人の者はこれを妬み、各々勤王の軍士を招集することを名目として、五六百人を得、州は甲冑兵器を支給した。久しくして、次第に猜疑と離反が生じ、九住もまた行商人や仲買人数百人を招集して「虎子軍」とし、夜は甲冑を着けて備えた。ある日、九住が一万戸に城巡りをさせると、三帥はこれを捕らえて追い立て、「西門を開けて反逆しようとする我の真似をするな!」と大声で叫ばせ、即座に斬った。そこで九住を召し出した。九住は行きたくなかったが、州人が禍を受けることを恐れ、三百人の兵卒を従えて行った。三帥は甲士に街路を守らせ、九住の従者が通ると、各所でこれを捕らえた。九住は独りで入ると、三帥は「お前は何故反逆しようとするのか」と問うた。九住は「私にどうして反逆の縁があるというのか」と言った。三帥は怒り、長らく殺そうとした。小婁室の気持ちが少し和らぎ、大いに救護したため、殺されずに済み、人に命じて鎖をかけた。夾谷九十を帥とし、兼ねて息州の権限を執らせた。

蔡州の帥栲栳は九住が三帥に誣告されたと聞き、上奏して弁明した。三帥もまた九住の過失を拾い集めて上聞した。朝廷は栲栳の弁明を支持し、かつ三帥を正しいとしなかった。六月、赦書が蔡州に至ると、栲栳は九住が三帥に誅殺されることを恐れ、兵卒二人を急ぎ遣わして詔書を息州に送らせ、ようやく免れることができた。上(哀宗)が蔡州に行幸しようとした時、密かに中婁室を召して兵を率いて迎えに来させた。婁室は長らく躊躇した後、ようやく招集した兵卒を率いて奉迎した。七月、上は近侍局使を息州に遣わして馬を徴発させ、即座に九住を召し出した。九住が至ると、中婁室と御前で論争した。当時中婁室は既に同簽樞密院事に任じられており、上は彼らに終始争わせることを望まず、九住の帥職を罷免し、戸部郎中に任じ、烏古論忽魯を息州刺史とした。

時に土豪の劉禿兒・馬安撫なる者が蔡より帰還し、軍需の供給が足りぬことを以て叛きて宋に入り、州の北関は彼らに焼き払われた。この時城中の兵は僅かであり、日に日に叛去する者があり、かつ宋人が息州を窺う意図があることを探知したので、息州の帥は懼れ、上奏して兵を増やして備えとすることを請うた。朝廷は参知政事抹撚兀典を行省事として息州に派遣し、中婁室は同簽樞密院事を以て総帥と為し、小婁室は副点検を以て元帥と為し、王進を弾圧帥と為し、夾穀九十を都尉と為し、忠孝馬軍二百・歩軍五百をこれに属させ、行省・院を息州に置いた。出発に際し、上は彼らに諭して曰く、「北兵が常に全勝を取る所以は、北方の馬力を恃み、中国の技巧に就くによるのみ、我は実にこれと敵し難し。宋人に至っては、何ぞ足らんや。朕が甲士三千を得ば、江・淮の間を縦横するに余力あらん。卿らは勉めよ。」

八月壬辰、行省は人を遣わして中渡店の捷を奏上した。初め、兀典らが息州に赴き、到着した夜、密かに忠孝軍百余騎を遣わして中渡の宋営を襲撃した。我が軍は皆北語を用い、また散漫な様子もそれに似ており、宋人はこれを見て驚愕し奔潰し、斬獲甚だ多かった。また元帥張閏が約束に従わず、軍士を失亡したことを奏上し、典刑に正すことを乞うた。婁室は張閏に罪なしと上表し、上は人を遣わしてこれを赦したが、到着する頃には、既に獄中で死んでいた。蓋し張閏は婁室の腹心であり、九住の獄は皆張閏がこれを発したのである。兀典はその事実を察知し、彼の軍律違反を因ってこれを誅したのである。九月、忽魯が退縮し、撫禦することができず、民多く叛去したことを以て、その職を奪い、夾谷九十に息州の事を権攝させた。

十一月、宋人が軍二万を以て来攻した。城中の食糧が尽き、乃ち和糴を行い、既にしてこれを徴発し、毎石一斗のみを留め、併せて金帛・衣物を徴発したので、城中は皆無聊となった。前の二ヶ月、蔡州が軍を以て老幼一万口を護り食糧を求めに来たが、北兵がこれを察知し、二十里の外で追い及び、息州に至った者は僅か十余人であった。この時までに、蔡州との連絡は不通となった。行省及び諸帥は日々歌酒を事とし、声楽絶えず。下は軍士に及び、寡婦・幼女を強娶し、人理を絶滅し、至らざる所無かった。

三年甲午正月、蔡州の凶報が至り、諸帥はこれを殺して口を滅ぼしたが、然れども民間にも頗る知る者があった。初め、諸帥は北に降らんと欲したが、互いに猜忌し、敢えて先に発する者無し。数日後、蔡州からの情報が哄然となり、諸帥は人を屏いて集まり議し、皆言うに、款を南中(宋)に送るが便なりと。時に李裕は睦親府同僉桓端の国信使の下の経歴官であったが、乃ち彼をして宋に款を送らしめた。遂に発喪して祭を設け、哀宗を諡して昭宗と曰う。州民は行省を奉じて領省と為し、丞相・総帥・左平章は皆婦を娶った。十三日、挙城して南遷し、宋人は州の楼櫓を焼いた。州民の老幼は淮を渡り南行し、羅山に入り、迂回して信陽に至った。北兵は火の起るを見て、追い及び、免れる者無く、且つ行省以下の官属を宋に誅索した。宋人は官属を城に入れ、犒賞を託し、万戸以上六七百人を皆殺し、軍中にも命を奪われて敵に死する者あった。宋人は諸軍に諭し、行省以下は罪有り既に処置せり、汝らは迷魂寨に就き安屯せよと、遂に軍を以てこれを防いだ。既にして北軍と接し、南軍は収斂して避け、一軍悉くこれに殺された。

烏古論鎬

烏古論鎬は、本名を栲栳といい、東北路招討司の人である。護衛より起身し、累官して慶陽総管となった。天興の初め、蔡・息・陳・潁等州便宜総帥に遷った。二年、哀宗が帰徳に在った時、蒲察官奴・国用安は上をして海州に幸せんと欲したが、決せず。時に鎬が米四百余斛を餫送して帰徳に至り、且つ蔡に幸することを請うたので、上の意遂に決した。先に直学士烏古論蒲鮮を蔡に遣わし、蔡の人に臨幸の意を告げさせた。六月、蔡・息の軍馬を徴発して迎えさせたが、蔡は重鎮であり、且つ不測の事を慮り、詔して鎬に遠迎せざることを命じた。

辛卯、車駕は帰徳を発した。時に長雨が続き、朝士の扈従する者は泥水中を徒行し、青棗を掇って糧と為し、数日にして足脛尽く腫れ、参政の天綱もまた然り。壬辰、亳に至る。上は黄衣に皁笠、金の兔鶻帯をし、青黄の旗二つを以て前を導き、黄傘を以て後を擁し、従う者二三百人、馬五十余匹のみであった。行って城中に次ぐ、僧道父老が道左に拝伏す。上は近侍を遣わして諭して曰く、「国家が汝らを涵養すること百有余年、今朕に徳無く、汝らを塗炭に令す。朕もまた言うに足るもの無し、汝ら祖宗の徳を忘るる無かれ可なり。」皆万歳を呼び、泣下す。一日留まり、亳の南六十里に進み、双溝寺中に雨を避く。蒿艾目に満ち、一人の跡無し。上は太息して曰く、「生靈尽きたり。」これが為に一たび慟哭す。この日、小婁室が息より来迎し、馬二百を得た。己亥、蔡に入る。蔡の父老千人が道に羅列して拝し、上の儀衛の蕭条たるを見て、感泣せざる者無く、上もまた久しく歔欷す。

七月、鎬を御史大夫と為し、総帥は元の如し。初め、鎬が蔡を守った時、門禁甚だ厳しく、男女の樵采には必ず墨を以てその面に識し、人に銭を持ち出す者あれば、十に一分半を取って以て軍を贍った。上が蔡に至り、或る者その不便を言うや、即ちその禁を弛めた。時に大兵は遠く去り、商販頗る集まり、小民鼓舞し、以て太平を再び見たりと為し、公私の宿醸は一日にして俱に尽きた。

郾城の土豪盧進がその長吏を殺し、自ら招撫使と称し、以前の関・陝帥府経歴範天保を副と為した。この時に至り、天保が来見し、麦三百石及び麞鹿の脯・茶・蜜等の物を進めた。遂に盧進に金牌を賜い、天保の官を加え、これより物を進める者踵を接して至った。既にして内侍殿頭宋珪と鎬の妻を遣わして室女を選び後宮に備えさせ、既に数人を得た。右丞忽斜虎諫めて曰く、「小民無知、陛下の駐蹕以来、恢復の遠略を聞かずして、先ず処女を求めて以て久居を示さんと謂わん。民は愚かなれども神なり、畏れざるべからず。」上曰く、「朕は六宮散失し、左右人無きを以て、故に采択せしむ。今規誨を承り、敢えて敬って従わざらんや。文義を解する者一人を留め止め、余は皆放遣せよ。」

この時、従官近侍は皆窮乏しており、すべて鎬に供給を求めたが、鎬もまた各人の欲望を満たすことができず、日夜皇帝に讒言を交わし、特に尚食の供給が欠けていることを言上した。皇帝は怒り、大夫に抜擢したものの、召見は特に疎遠になった。小婁室が息州にいた時、石抹九住と不和があり、鎬が九住のために曲直を弁明したことを怨んでいた。皇帝が蔡に幸した時、婁室は雙溝で謁見し、厚く鎬の罪を誣告したので、皇帝はこれをかなり信じた。鎬は自ら讒言を受けたことを知り、憂憤鬱抑して、常に病と称して出仕しなかった。ちょうど前参知政事石盞女魯歡の甥の大安が来て、女魯歡に反状がなく、官奴に殺されたことを、尚書省に訴えて改正を求めたので、尚書省はこれを上聞した。皇帝は言った、「朕はかつて女魯歡が謀反したと言ったが、跡を尋ねることはできなかった。謀反しなかったと言えば、朕が暴露している時に、人を遣わして援兵を徴発したのに、彼は精鋭を自衛のために留め、疲弊した者を発して来させた。睢陽に到着すると、彼は厚く自らを養い、朕に醤油が欠けるようにさせた。朕は人君として、このような細事を語るべきではないが、四海の郡県で、国家の所有でないものがあろうか。一城を守ることは、臣子の本分である。彼は自ら恃んで驕り、君上に対して驕慢な心を持った。謀反でなくて何であろうか。しかし朕は今、人材を駕馭して艱難を救おうとしている。功を録して過ちを忘れるのはこの時である。これを厘正せよ。」群臣は皇帝の意が鎬にあることを知り、しばしば右丞仲德に言った。仲德は皇帝に謁見するたびに、必ず鎬の功業を称え、機務に参与させるべきであると言い、また自らの代わりに推薦したので、皇帝の怒りは少し解けた。参政抹撚兀典が息州に行省となると、鎬は御史大夫をもって参知政事を権行した。

九月、大軍が蔡を包囲した。鎬は南面を守り、忠孝軍元帥蔡八児がこれを補佐した。間もなく城は陥落し、捕らえられた。息州を招降できなかったため、殺された。

烏古論先生という者は、もと貴人の家奴で、全真師となった。狂態を装い、裸で頭を露わし足を出し、麻を綴って衣とし、人もまた「麻帔先生」と呼んだ。宣宗はかつて召し入れて宮中に招き、秘術を問うた。大長主の家に出入りし、甚だ穢らわしい跡があったので、皇帝は微かにこれを聞き、有司に命じて掩捕させたが、すでに逃げ去っていた。正大末年、鎬に従って汝南に官として来た。人々は皆、その妻と通じていることを知っていたが、鎬は知らなかった。先生は自ら安からず、出ることを求めたので、鎬は道宇を営み、自ら僧道を率いて送り、住まわせた。車駕が蔡に至らんとする時、先生は遁れる所がなく、自ら軍士に服気させて糧食を費やさないようにできると言った。右丞仲德はその虚妄を知り、奏上して言った、「田単が神師を仮りて敵を退けた故事のように、一つの真人の号を授け、直ちに奇計を出させれば、北兵は巫を信じ必ずこれを駭異し、あるいは成功することができるかもしれない。」参政天綱は不可であるとして、遂に止めた。また入見を求め、詭計があって敵を退けることができると言った。謁見すると、長揖して拝礼せず、かつ大言を多くし、大帥噴盞を説いて脱身の計としようとした。時に郎中移剌克忠、員外郎王鶚がかつての「麻帔」のことをことごとく言上したので、皇帝は怒ってこれを殺した。

賛に曰く、晋の劉越石は撫納に長じ、駕馭に短く、以て故に敗を取った。粘葛奴申の陳州の事は、殆どこれに類する。三婁室は皆、金の内族であるが、ただ大婁室は死を得る所を得た。その両婁室は讒賊の人である。襄城の事が急な時、酔って軍を統率できず、かえって一死を免れた。金の政刑の失いは、このようにまでなった。烏古論鎬の蔡に幸する請いは、至謀ではなかったが、区区として忠を効し、讒によって忌まれた。哀宗の明は、蓋し知ることができる。

張天綱

張天綱、字は正卿、州益津の人である。至寧元年、詞賦の進士となった。性格は寛厚で端直、議論は醇正で、造次にも少しも変わらなかった。累官して咸寧・臨潼の令となり、入って尚書省令史を補し、監察御史に拝され、鯁直をもって聞こえた。戸部郎中に昇り、左右司員外郎を権行した。哀宗が東幸すると、左右司郎中に遷り、帰徳まで扈従し、吏部侍郎に改めた。元帥官奴に反状あることを知り、しばしば皇帝に言上したが、皇帝は従わず、官奴は果たして変を起こした。そこで天綱を参知政事権行に抜擢した。皇帝に従って蔡に遷るとき、亳州に留まった。ちょうど軍変があり、天綱は便宜により作乱者に官を授け、州はこれによって安んじた。蔡に至ると、御史中丞に転じ、なお参政を権行した。

扶溝県招撫司知事劉昌祖が封事を上り、大挙して宋を伐つことを請い、その要旨は「官軍を前にし、飢民を後ろにして、南は江・惟を践み、西は邑・しょくに入る」というものであった。頗る皇帝の意に合った。皇帝は天綱に命じてその蘊蓄を面詰させた。召して語らせると取るべきところがなかったが、重ねて上命に背くことを恐れ、かつ言路を閉塞することを恐れて、尚書省委差官とすることを奏上した。護衛女奚烈完出、近侍局直長粘合斜烈、奉禦陳謙、権近侍局直長内族泰和の四人が、食が供給されないため怨言を出し、陳州に行って食を求めることを請うた。天綱は監して門を出させ、往く所に任せるよう奏上した。出て汝南岸に及ぶや、北兵に遇い皆殺された。時人はこれを快とした。妖人烏古論先生という者が自ら軍士に服気させて糧食を費やさないようにできると言った。右丞仲德は田単の故事を引き、その術を仮りて敵を駭えさせようとした。語は『烏古論鎬伝』にある。皇帝は頗るこれを然しとしたが、天綱は力辨して不可であるとしたので、遂に止めた。かつ言った、「向も張天綱がなければ、幾ばくかこの賊に誑かされるところであった。」軍吏石抹虎児という者が仲徳に求見し、自ら奇計があって敵を退けることができると言い、馬の面具を出して獅子の状の如くにして悪しく、別に青麻布を制して足・尾とし、因って言った、「北兵の恃むところは馬のみである。その人を制せんと欲すれば、先ずその馬を制すべし。もし我が軍が進戦し、少し退却すれば、彼は必ず来て追うであろう。我は馴騎百余を以て皆この状とし、なお大鈴を頸に繋ぎ、壮士がこれに乗り、以て彼の騎兵を突けば、騎兵は必ず驚いて逸るであろう。我が軍は鼓噪してその後を継げば、これが田単が燕を破った所以である。」天綱は言った、「不可である。彼は衆く我は寡ない。これは恃むに足らず、仮に驚いて去ったとしても、その再び来らざることを安んずることができようか。恐らく徒らに工物を費やすだけで、ただ敵人の笑いを取るのみである。」乃ちこれを罷めた。

蔡城が陥落し、宋将孟珙に捕らえられ、檻車に載せられて臨安に護送され、礼を備えて宗廟に告げた。既にして、臨安知府薛瓊に命じて問わせて言った、「何の面目あってここに到ったのか。」天綱は答えて言った、「国の興亡は、何の代にないことがあろうか。我が金の亡びは、汝らの二帝に比べてどうか。」瓊は大いに叱して言った、「曳き去れ。」明日、遂にその語を奏上した。宋主は召して問うて言った、「天綱は真に死を畏れないのか。」答えて言った、「大丈夫は死が節に中らぬことを患うのみである。何の畏れることがあろうか。」因って死を祈ること已まなかった。宋主は聞き入れなかった。初め、有司が供状を命じて必ず虜主と書かせようとした。天綱は言った、「殺すなら殺せ。何ぞ状を用いんや。」有司は屈服させることができず、その供する所に任せた。天綱はただ故主と書いたのみである。聞く者はこれを憐れんだ。後、その終わりを知らない。

完顔仲徳

完顔仲徳、本名は忽斜虎、合懶路の人である。幼少より穎悟にして群を抜き、書を読み策論を習い、文武の才があった。初め親衛軍に試補され、宿衛を備えながらも学業を怠らなかった。泰和三年に進士第に及第し、州県に歴仕した。貞祐の用兵の時、辟かれて軍職に充てられ、嘗て大元の兵に捕らえられたが、一年を過ぎずしてその言葉をことごとく解し、間もなく諸降人万余を率いて来帰した。宣宗は召見し、これを奇とし、邳州刺史・兼従宜を授けた。城壁を増築し、水を匯してこれを環らせ、州はこれによって守ることができた。哀宗が即位すると、遥かに同知帰徳府事を授け、同簽枢密院事とし、徐州に行院した。徐州城は東西北の三面は皆黄河であり、南だけが平陸であった。仲徳は石を積んで基とし、城をその半ば増し、また濠を浚って水を引き固めとしたので、民はこれによって安んじた。

正大五年、詔して関陝以南に行元帥府事を行わしめ、小関及び扇車回を備えしむ。時に北兵関を叩く、仲徳適たまさに前帥奥屯阿裏不と酒を酌み代を更むるに、兵猝然として至る、遂に駆られて東す。阿裏不素より守禦の策無く、有司に劾せられ、罪死に当たる。仲徳上書して咎を引き、以て謂う「北兵関を越ゆるの際、符印已に交わる、安んぞ前帥に罪を帰せん、臣請う戮を受けん。」と。上之を義とし、止むるに阿裏不を杖ちて其の死を赦す。

六年、移り鞏昌府を知り、兼ねて行総帥府事を行ふ。時に陝西諸郡已に残破す、仲徳散亡を招集し、軍数万を得、山に依りて柵と為し、屯田して穀を積み、人多く帰す。一方独り小康を得、号令明らかにして肅し、路に遺物を拾はざるに至る。八年四月、詔して仲徳に鞏昌行省及び虎符・銀印を授く。天興元年九月、工部尚書・参知政事に拝し、尚書省事を陝州に行ふ。時に兀典新たに敗れ、陝州残破す、仲徳復た山寨を立て、軍民を安撫す。会す上蠟丸書を以て諸道の兵を徴し入援せしむるに、行省院帥府往々観望して進まず、或いは中道兵に遇ひて潰ゆ、惟だ仲徳孤軍千人を提げ、秦・藍・商・鄧を歴て、果菜を擷みて食と為し、間関百死して汴に至る。至るの日、適たまさに上東遷す。妻子京師に在ること五年なり、仲徳其の家に入らず、趨りて上に宋門に於て見え、東幸の意を問ふ。北渡せんと欲するを知り、力諫して云ふ「北兵河南に在り、而上遠く河北に徇かんとす、万一功無くんば、完く帰るを得んや?国の存亡、此の一挙に在り、願くは審察を加へよ。臣嘗て屡人を遣はし奏す、秦・鞏の間山岩深固にして、糧餉豊贍なり。西幸するに若かず、険固に依りて居り、帥臣を命じて分道出戦せしめ、然る後に興元を進取し、巴蜀はしょくを経略せん、此れ万全の策なり。」と。上已に白撒と議定し、従はず、然れども素より仲徳を重んじ、且つ其の難に赴くを嘉し、進めて尚書省右丞・兼樞密副使を拝し、軍黄陵岡に次る。

二年正月、車駕帰徳に至る、仲徳を以て尚書省を徐州に行はしむ。既に至り、人を遣はし国用安と通問す。はい県の卓翼・孫璧沖なる者初め用安に投ず、用安翼を封じて東平郡王と為し、璧沖を博平公と為し、沛県を源州に升す。已にして翼・璧沖来帰す、仲徳之に旧職を畀へ、河北諸砦を統べしめ、源州帥府事を行はしむ。用安累檄を王徳全に入援せしむるも、赴かず。仲徳徐に至る、徳全大いに恐れ、帰徳に赴かんことを求む。仲徳之を留め、人を遣はし奏帖を納れて云ふ「徐州重地、徳全宜しく鎮を離るべからず。」と。仲徳州廨を虚しくして居らず、亦た兵衛自防する無く、日を以て書を観るを事と為す、而して徳全自ら疑ひ愈甚し。

二月、魚山総領張曁献乱を作し、元帥完顔胡土を殺し北に降る。仲徳累議して之を討たんとす、徳全従はず、即ち麾下十許人を領し、親しく民兵を勧めて三百人を得、径ちに魚山に往く、而して従宜厳祿已に曁献を誅し反正す、仲徳軍民を撫慰して還る。曹総領なる者有り、御馬を盗み東行す、制旨行省に諭して之を討たしむ、仲徳既に賊を殺す、徳全功を己に出さんと欲し、曹党四十八人を殺す。

三月、阿術魯蕭県を攻め、游騎徐に至る、徳全の馬悉く為に邀へらる。仲徳時に宿州に往く、徳全馬を失へる故を以て、始めて蕭県を救はんことを議し、張元哥・苗秀昌を遣はし騎八百を率ひて以て往かしむ。未だ交戦に及ばず、元哥退走し、北兵之を掩ひ、皆為に擒へられ殺さる、蕭県遂に破る。四月、仲徳陽に関糧を以て邳州に往き、州官出迎す、就きて徳全並びに其の子を執へて殺す、余党の外、一も問ふ所無く、闔郡快と称す。

初め、完顔胡土遙授徐州節度を以て、往きて厳祿の軍を永州北の保安鎮に帥ふ。時に祿已に従宜と為り、碭山に数年、又た士心を得たり。忽土到る、軍士悦ばず、二月辛卯の夜、遂に総領張曁献・崔振の為に害せらる。吏部郎中張敏修、忽土の下の経歴官、乃ち軍変を以て厳祿を脅し北に降らしむ。祿佯ひて之に応じ、陰に永州守陳立・副招撫郭升を召し、諸義軍を会して保安鎮に赴き作乱者を誅す。軍夜に至る、祿敏修を遣はし曁献・振を召して事を計らしむ、二人疑はず、介胄して至る、及其の党与皆祿の為に殺さる。徐州保安を去ること百里、行省之を聞き来たり討たんとす、会す祿已に反正す、乃ち便宜を以て祿に行元帥左都監を授け、就きて忽土の虎符を佩かしむ。朝廷復た祿に遙領帰德知府・兼行帥府事を授く。未だ幾ばくもせず、大元の将阿術魯兵保安に至る、祿夜遁す。後ち祿官奴の変を聞き、一軍徐・宿の間に頓すること幾一月、遂に漣水に投ず、敏修徐に入る。

五月、詔して仲徳を行在に赴かしむ。時に官奴已に変す、官属紿かさるるを懼れ、往く勿からんことを勧む。仲徳曰く「君父の命、豈に真偽を辨ぜんや?死すとも亦た当に行くべし。」と。尋ぬるに使者至る、果たして官奴の詐なり。六月、官奴誅せらる、詔して仲徳に蔡に遷らんことを議せしむ、仲徳雅に上を奉じて西幸せんと欲し、因りて之を賛成す。蔡に及び、省院を領し、事の巨細なる無く、率ね親しく之を為し、士を選び馬を括り、甲兵を繕治し、未だ嘗て一日も西志無きこと無し。近侍左右久しく睢陽に困しみ、幸ひに汝陽の安に即かんとし、皆妻を娶り業を営み、遷徙を願はず、日夕上に西行の便ならざるを言ふ。未だ幾ばくもせず、大兵路を梗み、竟に行はれず。仲徳毎に深居燕坐し、瞑目太息し、西遷を得ざるを以て恨みと為す。

是の月、上蔡に至り、有司を命じて見山亭及び同知衙を修め、遊息の所と為す。仲徳諫めて曰く「古より人君難に遭ひ、外に播越するは、必ず痛く自ら刻苦貶損し、然る後に以て旧物を克復すべし。況んや今諸郡残破し、保完するは独り一蔡のみ。蔡の公廨固より宮闕の万一に及ばず、之を野処露宿に方ぶれば則ち加ふること有り。且つ上初め行幸し、已に嘗て民を労して葺治せしむ、今又た土木の役を興して安逸を求めんとす、恐らくは人心解弛し、以て大事を済すに足らざらん。」と。上遽に之を止むるを命ず。

七月、進馬遷賞の格を定む。毎に甲馬一匹或いは二匹以上に、遷賞差有り。是より、西山の帥臣范真・姬汝作等各馬を以て進め、凡そ千余匹を得、抹撚阿典を以て之を領せしむ。又た使を分ち詣り諸道に徴兵して蔡に赴かしめ、精鋭万人を得。又た器甲完からざるを以て、工部侍郎術甲咬住を命じて監督修繕せしめ、一月を踰えずして告成す。軍威稍く振ひ、扈従諸人一時の安を苟くし、遂に蔡を以て守る可しと為す。

魯山元帥元志軍千余を領して来援す。時に諸帥往々兵を擁して自ら固くす、志独り険を冒し数百里、且つ戦ひ且つ行き、比べ蔡に至るに、幾く其の半を喪ふ。上表を異とし、大信牌を賜ひ、総帥に升す。息州忠孝軍帥蔡八兒・王山兒亦た来援す。

壬午の日、忠孝軍の提控李徳が十余人を率いて馬に乗り省中に乱入し大声で叫び、月糧が優遇されないことを理由に、ほとんど罵詈に及んだ。郎中移剌克忠がこれを仲徳に報告すると、仲徳は大いに怒り、徳を堂下に縛り付け、六十回杖打った。上(哀宗)は仲徳に諭して言った、「この軍は力があり、まさに頼みに用いようとしているところである。卿はどうしてこれを容認し忍ぶことができず、このように責め罰するのか」。仲徳は言った、「時世はまさに多難である。功績を記録し過失を隠すのは、陛下のご仁徳である。しかし将帥の職務についてはそうではない。小さな違犯ならば裁決し、大きな違犯ならば誅殺する。強兵悍卒は、一日たりとも紀律の外にあってはならない。そもそも小人の情は放任すれば驕り、驕れば制御し難くなる。睢陽の禍(蒲察官奴の乱)は、官奴一人の罪のみであろうか、役人が彼を放任しすぎたことにもある。今、前の轍を改めようとするならば、その威厳を愛惜すべきではない。賞は必ず中央から出し、罰は臣がその責を負う」。軍士らはこれを聞き、国が滅びるまで敢えて違犯する者はなかった。

九月、蔡城は戒厳となった。行六部尚書蒲察世達は大軍がまさに到来しようとしていることを理由に、民に命じて遅い田の収穫を一斉に行い、間に合わないものは踏み潰してしまい、敵に資することを許さないよう請うた。制可された。丙辰の日、詔して冗員を削減し、冗軍を淘汰し、官吏・軍兵の月俸を定め、宰執以下から皁隸に至るまで、人月六斗を支給することとした。初め、役人が減糧を定めたため、人々は大いに怨んだ。上はこれを聞き、軍を三つに分け、上軍は月八斗、中軍は七斗、下軍は六斗を与えようとしたが、人々は再び不均等を怨んだ。そこで射的の規準を立てると、上軍・中軍は多く賞を受けるようになり、連続して命中する者には時に面と向かって酒を賜り、人々はますます励むようになった。しかも密かに増給される部分があり、人々はそれと知らなかった。これは仲徳の謀略であった。甲子の日、軍を分けて四面を防守させた。

十月壬申朔、大軍の壕塁が完成し、城下に兵を耀かせ、旗幟は天を蔽った。城中は驚き恐れた。暮れになると、四つの関を焼き、その塀を平らげて退いた。十一月辛丑の日、大軍が攻城具を城に付けた。役人は民丁を全て徴発して防守に当たらせ、足りなければ健壮な婦女を徴発し、男子の衣冠を着せて木石を運ばせた。蔡城が包囲を受けると、仲徳は防備の計画を練り、一度も自宅に帰ることはなく、軍士を慰撫し存問して、その歓心を得られない者はなく、将校で戦死した者があれば、自ら賻祭を行い、哀悼の涙を尽くした。己丑の日、西城が破られた。城中は事前に柵を築き濠を浚って備えていたため、たとえ陥落させても入城することはできなかった。ただ城上に柵を立て、南北百余歩離れただけである。仲徳は三面の精鋭を選抜して日夜戦い防ぎ、ついに陥落させられることはなかった。

三年正月庚子朔、大軍は正月元旦に宴会を開き、鼓吹の音が響き渡った。城中は飢え窮し、愁歎するばかりであった。城が包囲されて以来、戦死した者は四帥・三都尉に及び、その他の総帥以下の者は数え切れない。この時には、禁近の者まで全て出動させ、舍人・牌印・省部掾属に至るまで、皆役務に供した。戊申の日、大軍は西城を穿って五つの門とし、軍を整えて進入した。督軍は激戦を繰り広げ、暮れになってようやく退いた。明日また集まると声言した。己酉の日、大軍は果たして再び来襲した。仲徳は精兵一千を率いて巷戦し、卯の刻から巳の刻まで戦った。やがて子城に火の手が上がるのを見、上(哀宗)が自縊したと聞くと、将士に言った、「我が君は既に崩御された。我々は何のために戦おうか。私は乱兵の手にかかって死ぬことはできない。私は汝水に赴き、我が君に従おう。諸君は善く計らうがよい」。言い終わると、水に赴いて死んだ。将士は皆言った、「相公が死ねるなら、我々だけができないことがあろうか」。ここにおいて、参政孛術魯婁室・兀林答胡土、総帥元志、元帥王山児・紇石烈柏壽・烏古論恆端及び軍士五百余人が、皆これに従って死んだ。

仲徳の容貌は常人を超えるものではなかったが、平生喜怒を妄りに発することはなく、人の過ちを聞けば、常にこれを庇い隠した。軍旅にあっても、手から書物を離さず、門生故吏には常に名分をもって教えた。家は元より貧しく、粗末な衣服と粗末な食事であったが、生涯を通じて平然としていた。賓客を好み、人材を推薦することに熱心で、人に一寸の長所があれば、口を極めて称賛した。軍務を掌るにあたっては、賞罰は明らかで信義があり、号令は厳正で整然としていた。故に赴くところ軍民はこれを用い、危急死生の際に至っても、一人として異心を抱く者はなかった。南渡以後、将相文武の臣で、忠誠明らかで終始瑕のない者は、仲徳ただ一人であった。

賛して言う。金の滅亡は、人材がいなかったとは言えない。完顔仲徳・張天綱のような者は、まさに将相の器ではなかったか。昔、智伯は死に後継者もなく、その臣讓は国士の報いを忘れず、君子は彼が何の為すところもなくしてこれを為したと評し、真の義士であるとした。金は滅びた。仲徳・天綱ら諸臣はその守るところを変えなかった。これで古の義士に恥じることがあろうか。