金史

列傳第五十六:苗道潤 王福 移剌眾家奴 武仙 張甫・張進 靖安民 郭文振 胡天作 張開 燕寧

苗道潤

苗道潤は、貞祐の初めに河北義軍隊長となった。宣宗が汴に遷都すると、河北の土人はしばしば団結して兵となり、あるいは群盗となった。道潤は勇略があり、敢然と戦闘し、衆心を得ることができた。戦うごとに功があり、城邑を平定し、人を遣わして南京に赴き官爵を求めた。宰相はこれを難事としたが、宣宗は河南転運使王拡を召して問うて曰く、「卿は智慮がある。朕のために道潤の事を決せよ。今その衆を以て将と為す。終始我がために尽力するであろうか」と。拡対えて曰く、「天下を兼ね制する者は、天下を以て度量とす。道潤は衆を得、功があるゆえにこれを封じ、自ら守らしめ、羈縻して使うは、策の上なり。今許さざれば、彼はその衆を恃み、何を為さざらん」と。宣宗、宰執を顧みて曰く、「王拡の言は、実に朕の心に契う」と。ここにおいて道潤を宣武将軍・同知順天軍節度使事に除す。貞祐四年、また功により遷って懐遠大将軍・同知中山府事となる。さらに一月を閲し、また戦って功あり、遷って驃騎上将軍・中都路経略使・兼知中山府事となる。まもなく、中都留守・兼経略使を加えられる。道潤は前後五十余城を撫定した。

興定元年、詔して道潤に中都を恢復せしめ、山東の兵を以てこれを補益す。道潤奏す、「去年十一月、臣は総領張子明を遣わして蠡州の獨吉七斤を招降せしむ。近日、河北東路兵馬都総管移剌鉄哥が軍を蠡州に移し、子明の軍を襲い破り、数百人を殺し、子明もまた創を被る。臣は兵を提げて罪を問わんとす。重ねて鉄哥が自ら抜けて来帰したるにより、ただこれを備えるのみ。今都城を復た取らんと欲す。鉄哥を罪せず、直ちに臣の節制を受くべしと乞う。これにより事を集め得べし」と。宣宗、宰相に問う。奏して曰く、「道潤と鉄哥は協わず、相統属すべからず」と。詔して完顔宇を行元帥府事とし、道潤を督して中都を恢復せしめ、鉄哥の軍を和輯せしむ。

初め、道潤は順天軍節度使李琛と相容れず、両軍の士兵これにより相攻む。琛は兵を遣わして満城・完州を攻め、道潤の軍は拒戦し、琛の兄栄及び弟明等を殺す。琛奏す、「潞州提控烏林答吾典は道潤の風指を受け、日々侵害を謀る。山東行省は数え道潤に臣と通和せしむを諭すも、竟に見従わず、かつ臣の兄栄・弟明等を殺す。恣横この如く、後患と為らんとす」と。また奏す、「河北の州府官に相統摂せしめず、並びに帥府の節制を聴かしむることを乞う。なお官を遣わして諸路の兵力を増減し、権均勢敵にして相併呑すること無からしめば、則ち百姓は農畝に安んずべし」と。道潤は李琛が衆を以て叛き、満城を陥とし、完州を攻むと奏す。琛もまた道潤の叛を奏す。廷議は両人の失和により、故にここに至ると為し、山東行省枢密院に諭して琛に曰く、「行省彼に在り、自ら倶に節制を聴くべし。何ぞ帥府を待たん。士兵は本より義を以て団結し、且つ耕し且つ戦う。今乃ちこれを城寨に聚め、遂に相併呑す。百姓安からず、皆官長の忌憚する所無きによりてこれを然らしむるなり。厳に約束を為し、時に依り樹芸し、生事を致すこと無からしめよ」と。詔あり、道潤と移剌鉄哥に兵を合して河北を撫定せしめ、諸道の兵に互いに応援せしむ。既にして道潤は賈仝・賈瑀と互いに攻撃し、詔して道潤・賈仝・王福・武仙・賈瑀に各路元帥府を分画してこれを控制せしめ、彰徳衛輝招撫司は枢密院に隷す。賈瑀は既に道潤と相攻ち、已にして詐りて和を約し、道潤これを信じ、遂に伏兵して道潤を刺殺す。朝廷問うこと能わず、一軍彷徨して依る所無し。提控靖安民は権に潞州行元帥府に隷し、その節制を聴くことを乞う。時に興定二年なり。

右丞侯摯は保・蠡・完の三州を真定に隷せしむることを乞う。而して蠡州は旧く移剌衆家奴の節制を受け、一旦真定に改隷せば、恐らくこれにより交争せん。靖安民等は潞州に隷するを願う。乃ち河北行省に審処せしむ。経略副使張柔奏す、「賈瑀は易州の寨を攻め、刺史馬信及びその裨校を殺し、佩する所の金符を奪いて去る」と。まもなく、張柔は賈瑀を攻めてこれを殺す。道潤既に死し、靖安民その衆を代領す。是より後乃ち封建す。

初め、貞祐四年、右司諫術甲直敦は河朔を封建することを乞う。詔して尚書省に議せしむ。事寝て行われず。興定三年、太原守られず、河北の州県自立すること能わず。詔して百官に議せしめ、以て長久の利と為す所以を求む。翰林学士承旨徙単鎬等十六人は謂う、「兵を制するに三あり。一には戦、二には和、三には守なり。今戦わんと欲すれば則ち兵力足らず、和せんと欲すれば則ち彼肯て従わず、唯だ守るのみあり。河朔の州郡既に残毀し、一概にこれを守るべからず。願い就きて遷徙する者を取って河南・陝西に屯せしむべし。願わざる者は自らその長を推すを許し、険阻を保聚せしむべし」と。刑部侍郎奥屯胡撒合等三人曰く、「河北は河南に対して輔車の勢あり。蒲・解は陝西に対して襟喉の要あり。その民を尽く徙すは、これその藩籬を撤くなり。諸郡に令し、才幹衆の推服する所、能く衆を糾し遷徙する者を選び、河南あるいは晋安・河中及び諸の険隘を願う者に、量りて食を与え、曠土を授け、力を尽くして耕稼せしむべし。僑治の官を置き、以てこれを撫循すべし。その壮なる者を択び、これに戦陣を教うべし。晋安・河中の守臣に勅し、石・嵐・汾・霍の兵を檄し、以て恢復を謀らしむるは、大なる便なり」と。兵部尚書烏林答与等二十一人曰く、「河朔の諸州、民に親しみ兵を掌るの職は、土人嘗て官に居り材略ある者を択びてこれを授くべし。急なれば則ち険に走り、事無ければ則ち耕種す」と。宣徽使移剌光祖等三人曰く、「太原の勢を度るに、暫くこれを失うと雖も、頃くもまた復たすべし。当に土人威望衆に服する者を募り、方面の重権を仮すべし。能く一道を克復すれば、即ち本道総管を以てこれを授くべし。能く州郡を捍げば、即ち長佐を以てこれを授くべし。必ずや各一方を保ち、百姓をして復業せしめん」と。提点尚食局石抹穆は高爵を以て民を募ることを請う。大概光祖の議に同じ。宰臣は公府を置かんと欲す。宣宗意未だ決せず。御史中丞完顔伯嘉曰く、「宋人は虚名を以て李全を致し、遂に山東の実地あり。苟くも能く衆を統し土を守らば、三公と雖も何ぞ惜しまん」と。宣宗曰く、「他日事定まりて、公府多からざるや」と。伯嘉曰く、「若し事定まらば、三公を以て節鎮に就かしむるも何ぞ不可ならん」と。宣宗意乃ち決す。

四年(興定四年)二月、滄州経略使王福を滄海公に、河間路招撫使移剌衆家奴を河間公に、真定経略使武仙を恒山公に、中都東路経略使張甫を高陽公に、中都西路経略使靖安民を易水公に、遼州従宜郭文振を晋陽公に、平陽招撫使胡天作を平陽公に、昭義軍節度使完顔開を上党公に、山東安撫副使燕寧を東莒公に封じた。九公は皆宣撫使を兼ね、階は銀青栄禄大夫とし、「宣力忠臣」の号を賜り、本路の兵馬を総帥し、官吏を署置し、賦税を征斂し、賞罰号令を便宜に行うことを得た。なお詔を賜って曰く、「かつて辺防守らず、河朔寧からず。卿等自ら戎昭を総べ、忠力を備え殫くす。若し能く自ら効するあらば、朕復何をか憂えん。宜しく茅土の封に膺り、復た忠臣の号を賜るべし。既に画定する所管州縣の外、若し能く隣近の州縣を収得する者は、亦た管属するを聴す」と。

王福

王福は、元は河北の義軍であり、戦功を積み重ねて累遷し、同知横海軍節度使事・滄州経略副使となった。興定元年、福は提控の張聚・王進を遣わして濱・棣の二州を回復し、聚に棣州防禦使を、進に濱州刺史を摂行させた。久しくして、福は聚と隙あり、聚は棣州を以て益都の張林に附した。

興定三年九月、福上言して曰く、「滄州は東は滄海に濱し、西は真定に連なり、北は大兵に備う。要地と謂うべし。重臣を選び経略使と為し、便宜に事に従うを得せしめ、以て軍民を鎮撫せんことを乞う」と。朝廷は、福が初め義兵を率いて滄州を回復し、残兵を招集し、今や衆万余、器甲完備し、自ら一方に雄たる。益都の張林・棣州の張聚と皆隣境たり。今利津已に守らず、遼東の道路艱阻し、且つ其の意本より自ら使と為らんと欲するも、但だ詞を托すのみ。因って之を授け、濱・棣の人を招集せしめ、遼東の音問を通ぜしめんとす。今若し許さずんば、宋人或いは大軍を以て迫脅し、或いは官爵を以て之を招かば、将に後悔を貽さん」と。宣宗然りと為し、乃ち福を以て本州経略使と為し、仍って自ら副使を択ぶを令す。会に福戦功有り、遥授同知東平府事・権元帥右都監に遷り、経略節度は故の如し。興定四年、滄海公に封ぜられ、清・滄・観州、塩山・無棣・楽陵・東光・寧津・呉橋・将陵・阜城・蓚県を以て之に隷せしむ。

四月、紅襖賊の李二太尉が楽陵を寇し、棣州の張聚来りて攻む。福皆之を撃ち却く。李二復た塩山を寇す。経略副使張文之と戦い、李二大敗し、其の統制二人を擒にし、首二千級を斬り、馬三十匹を獲る。七月、宋人と紅襖賊河北に入り、福城に嬰り固守す。益都の張林・棣州の張聚日来りて攻掠し、滄州危蹙す。福将に南奔せんとす。衆に止められ、遂に款を張林に納る。東平元帥府福を討たんことを請い、河南の歩卒七千・騎兵五百を益し、滑・浚・衛州芻糧を資助し、先ず賞格を定め、以て功有るを待たんことを乞う。朝廷は防秋近しを以て、河南の兵往くべからず、東平の兵少なく、独り功を成す能わず。来年の春に至りて、東平帥府をして高陽公と並力して之を討たしむべしと為し、乃ち止む。

移剌衆家奴

移剌衆家奴は、戦功を積み、累官して河間路招撫使となり、遥授開州刺史、権元帥右都監、姓を完顔氏と賜う。興定四年、張甫と俱に封ぜらる。衆家奴は河間公に封ぜられ、献・蠡・安・深州、河間・粛寧・安平・武強・饒陽・六家荘・郎山寨を以て之に隷せしむ。興定末、所部の州縣皆守るべからず。元光元年、信安に移り屯す。本は張甫の境內なり。張甫因りて奏す、「信安は本臣が北境、地沖要に当たる。権りに府と改め以て之を重くせんことを乞う」と。詔して信安を鎮安府と改む。是の歳、甫と兵を合わし、復た河間府及び安・蠡・献の三州を取り、張甫と皆金紫光禄大夫に遷る。二年、衆家奴及び張甫同く鎮安を保ち、各々一面に当たり、別に総領提控の孫汝楫・楊寿、提控の袁德・李成を遣わし外垣を分保せしめ、遂に鎮安を全うす。未だ幾ばくもなく、衆家奴奏す、「鎮安は迎楽堌の海口より二百余里、実に遼東往来の沖たり。高陽公張甫は海船を鎮安の西北に有す。人を募りて直ちに遼東に抵り、以て中外の意を通ぜしむべし。若し賞重からずんば以て人を使うに足らず。今応募する者に擬して特に忠顕校尉こういに遷し、八品の職を授け、仍って宝泉五千貫を賞せん。若し官職已に忠顕八品以上に至る者は、両官を遷し、職一等を升し、回日の日再び両官を遷し、職二等を升す」と。詔之に従う。

武仙

武仙は、威州の人。或いは曰く、嘗て道士と為り、時人此を以て之を呼ぶと。貞祐二年、仙は郷兵を率いて威州の西山を保ち、附する者日増し、詔して仙に権威州刺史を為さしむ。興定元年、真定に於いて石海を破り、宣差招撫使惟宏官賞を加うることを請い、真に威州刺史を授け、真定府治中を兼ね、権知真定府事を為さしむ。洺州防禦使・兼同知真定府事に遷り、遥授河平軍節度使。興定四年、知真定府事に遷り、経略使を兼ね、遥領中京留守、権元帥右都監。間も無く、恒山公に封ぜられ、中山・真定府、沃・冀・威・鎮寧・平定州、抱犢寨、欒城・南宮県を以て之に隷せしむ。同時の九府、財富兵強は恒山最も盛ん。

是の歳、大元に帰順し、副史天倪と共に真定を治む。仙の兄貴は安国軍節度使たりしが、史天祥之を撃ち、貴も亦た大元に帰順す。仙は史天倪と俱に真定を治むこと且つ六年、積もり相能わず、天倪の己を図るを懼れ、嘗て南走せんと欲す。宣宗之を聞き、詔して枢密院に牒を以て之を招かしむ。仙牒を得て大いに喜ぶ。正大二年、仙は賊として史天倪を殺し、復た真定を以て来降す。天元の大将笑乃泬仙を討ち、仙走る。一月を閲し、夜に乗じて復た真定に入る。笑乃泬復た之を撃ち、仙乃ち汴京に奔る。五年、召見せられ、哀宗枢密判官白華をして其の礼儀を導かしめ、復た恒山公に封じ、府を衛州に置く。七年、仙は上党を囲み、已にして大兵至り、仙遁れて帰る。未だ幾ばくもなく、衛州囲まれ、内外通ぜず。詔して平章政事合達・枢密副使蒲阿をして之を救わしめ、仙の兵を徙して胡嶺関に屯せしめ、金州路を扼せしむ。

八年十一月、大元の兵襄漢に渉り、合達・蒲阿は鄧州に駐す。仙は荊子口より由りて鄧州軍に会す。天興元年正月丁酉、合達・蒲阿は三峰山に於いて敗績し、仙は四十余騎を従えて密県に走り、御寨に趨る。都尉烏林答胡土納れず、幾くんか追騎の得る所と為らんとす。乃ち騎を捨て、歩いて嵩山の絶頂清涼寺に登り、登封蘭若寨招撫使霍琢僧秀に謂いて曰く、「我豈に敢えて汴京に入らんや。一旦急有らば、我を縛りて大國に献ぜん」と。遂に南陽の留山に走り、潰軍を収めて十万人を得、留山及び威遠寨に屯す。官府を立て、糧食を聚め、器仗を修め、兵勢稍く振るう。

三月、汴京が包囲されると、哀宗は武仙を参知政事・枢密副使・河南行省に任じ、詔を下して鄧州行省の完顔思烈と合流して救援に入るよう命じた。八月、密県の東に至り、大元の大将速不泬の軍が通過するのに遭遇すると、武仙は直ちに軍を眉山店に留め、思烈に報せて言った、「澗を隔てて陣を構え、私が到着するのを待って共に進軍すべきである。そうしなければ敗れるであろう」。思烈は急いで汴京に至りたいとし、聞き入れず、京水に至った時、大軍がこれを攻撃し、戦わずして潰走した。武仙もまたその軍に散走を命じ、留山で会合することを約した。武仙が留山に至ると、潰走した兵が到着するのはますます多くなった。哀宗は思烈を罷免して中京留守とし、武仙に詔して言った、「思烈は兵を知らない。以前に卿の澗を隔てる策に従っていたならば、どうして敗れることがあろうか。軍務は全て卿に委ねる。日夜待ち望み、力を合わせ心を一つにして、後の挙兵を図るのだ」。十一月、刑部主事烏古論忽魯を派遣して武仙を召喚したが、武仙は行きたがらず、上疏して利害を述べ、三ヶ月の猶予を請い、生死をかけて入援すると言った。

初め、思烈が鄭州に至った時、詔命を受けて宣差総領の黄摑三合に五朵山一帯行元帥府事を兼任させ、行六部尚書を兼ねさせた。武仙が留山に戻ると、三合の権勢が盛んなのを憎み、征行元帥に改め、比陽に駐屯させた。三合は武仙がその権限を奪ったことを怨み、大元に帰順した。大将速不泬は三合を裕州守備に任命した。三合は偽って書簡を送り、武仙と共に裕州を取れば志を遂げられると約束した。武仙はこれを信じた。三合は大元の大将に報告し、兵を派遣して挟撃させ、柳河で武仙を破った。武仙は逃げ走り、聖朵寨に至った。

初め、沈丘尉の曹政は詔命を受けて西山で兵を召集したが、裕州防禦使の李天祥は命令に従わなかったので、曹政はこれを斬って示しにした。武仙が聖朵に至り、曹政に言った、「何故勝手に我が将を誅したのか」。曹政は言った、「天祥は詔に背き、逗留して進まなかったので、政は便宜を以てこれを斬りました」。武仙は怒って言った、「今日は宣差が来て軍を起こせと言い、明日は宣差が来て軍を起こせと言う。このため軍卒は戦って死に尽きようとしている。今後はどんな者が選ばれて来ようと聞き入れない。しばらく兵士たちを山中で休ませるのだ」。また言った、「天祥に本当に罪があるなら、私が来て処置するまで待つべきであった。汝は何者か、勝手に殺すとは」。曹政は言った、「参政(武仙)は柳河で敗れ、存亡も分からない。天祥が詔に背いたのを、どうして殺さないでいられましょうか」。武仙は大いに怒り、左右に命じて曹政の佩いていた銀牌を奪わせ、総領の楊全に命じて械をかけて拘束させた。赦令があったが、なお囚われていた。武仙が敗れた後、ようやく釈放され、楊全と共に宋に降った。

この時、哀宗は帰徳に逃れ、翰林修撰の魏璠を間道を通って派遣し武仙を召喚した。裕州に至った時、武仙が柳河で敗れたのに遭遇した。魏璠は詔を偽って潰軍を招集し、武仙を待った。武仙は魏璠が自分を謀っていると疑った。二年正月、武仙が閲兵し、選りすぐりの兵はなお十万いた。魏璠は言った、「主上は日夜西を向いて公を待ち望んでおられます。公はここに長く留まるべきではありません」。武仙は怒り、魏璠を殺そうとした。魏璠と忽魯剌は帰徳に戻り、武仙は上奏して魏璠の誅殺を請うたが、哀宗は聞き入れず、魏璠を帰徳元帥府経歴官とした。魏璠は字を邦彦といい、渾源の人、貞祐二年の進士であるという。

武仙の部将の董祐は戦功があり、詔により虎符を賜わったが、武仙は彼が自分を脅かすのを恐れ、長く佩かせなかった。董祐はこれを恨み、官奴と結んで武仙を殺そうとしたが、躊躇して敢えて実行しなかった。近侍局使の完顔四和は謀略があり決断力があり、かつて鄧州で徴兵した時、圉牧使の移剌呆合に異心があったので、四和は計略をもってこれを誅した。董祐は使者を四和に遣わして言った、「武仙は結局入援しようとしない。祐らは位が低く、誅する力がない。ただ君が国家のためにこれを図ってほしい」。四和は言った、「すでに呆合を殺し、また武仙を殺せば、他日に使者が来た時、誰が信じようか」。従わなかった。武仙は董祐がかつてこの謀略を持っていたことを知り、董祐を河北に使者として行かせ、その後ついにこれを殺した。

三月、武仙は聖朵の軍糧が不足したため、軍を鄧州に移し、鄧州総帥の移剌瑗に供給を仰いだ。鄧州の倉庫も乏しかったので、軍を分けて新野・順陽・淅川に置き、民家で食糧を得させた。講議官の硃概と劉琢を襄陽に派遣し、宋の制置使史嵩之に食糧を借りようとした。劉琢と硃概は両端を持し、留められるのを恐れ、実情を史嵩之に告げて言った、「武仙の兵勢はもはや振るわない」。また言った、「名目は食糧を借りるが、実は帰順したいと思っている。将軍の一言を待つばかりである」。史嵩之は本当だと思い、田俊を使者として書簡を持たせ武仙に返答させた。四月、武仙は大理少卿の張伯直を襄陽に派遣して食糧を受け取り、小江口に軍を駐屯させてこれを待った。史嵩之は張伯直が到着したと聞いて大いに喜び、武仙が帰順を申し出たと思ったが、書簡を開くと謝礼の文書であったので、大いに怒り、張伯直を留めて帰さなかった。

武仙は順陽から鄧州に入った。移剌瑗は脅かされるのを恐れ、娘を武仙に嫁がせた。武仙は疑わず、これを娶り、順陽に戻った。鄧州の食糧が尽き、移剌瑗はついに武仙を疑った。五月、移剌瑗は城を挙げて宋に降った。史嵩之はますます武仙軍の虚実を知り、孟珙に兵五千を率いさせ、順陽で武仙軍を襲撃させた。この時、武仙は兵士に麦を刈らせて軍に供給させていた。二里ほどに至らないうちに、ようやく気づき、武仙は麾下の百余人を率いて迎撃し、孟珙は敢えて進まなかった。しばらくして、軍士が少し集まり、五六百人となり、孟珙軍を大いに破った。孟珙は数百人と共に脱走し、その統制・統領数十人を生け捕りにし、馬千頭を獲得した。ここに至り、硃概と劉琢が妄りに史嵩之に帰順しようとすると言った言葉が漏れたので、武仙は二人を皆誅した。

移剌瑗は本名を粘合といい、字は廷玉。世襲で契丹の猛安となり、功を重ねて鄧州便宜総帥となった。襄陽に至ると、姓名を改めさせられ、帰正人劉介と称し、将校の礼を尽くして制置使に謁見した。移剌瑗は大いに悔やみ恨んだ。翌年三月、背中に癰ができて死んだ。

孟珙は敗れて去ったが、武仙は宋兵がまた来るのを恐れ、七月、淅川の石穴に移った。この時、哀宗は蔡州におり、近侍の兀顔を派遣して武仙を責め、国難に赴くよう詔して言った、「朕は平生卿に負うところはない。国家がこのように危難に陥っているのに、どうして兵を擁して自ら恃み、坐して滅亡を待つことができようか」。将士はこれを聞き、顔を見合わせて咽び泣き、皆国難に赴き国と生死を共にしようと願った。武仙は衆心に変があるのを恐れ、馬や牛を殺し、将士三千人と共に血をすすって盟誓し、国家に背かないと誓った。衆は大いに喜んだ。間もなく、武仙はまた衆に言った、「蔡州への道は阻まれ、我が兵糧は少なく、恐らく到着できないであろう。かつ蔡州は堅守できない。たとえ到着しても益がない。近く人を遣わして宋の金州を偵察させたが、百姓が山に拠って柵を築き、極めて険固で、広さ百里、蓄えられた食糧はおよそ三百万石である。今、汝らと共にこれを図れば、労せずして下すことができ、老弱をこの寨に留めて根本とし、それから精鋭を選んで蔡州に急行し、上(皇帝)を迎えて西幸させても、遅くはない」。衆がまだ応じないうちに、直ちに行李の準備を命じた。淅川を取って流れを遡り上ったが、山路は険阻で、長雨が十日続き水は激流となり、老幼溺死者は数え切れず、食糧は絶え、軍士の逃亡者は十のうち八九に及んだ。武仙は計略が尽き、八月、荊子口から東に還り、内郷から聖朵寨に入ろうとしたが、峽石の左右八疊秋林に至り、総領の楊全がすでに宋に降ったと聞き、秋林に十日留まった後、大和に移った。九月、黒穀泊に至り、進退窮まり、ついに北走を謀ったが、行部尚書の盧芝と侍郎の石玠は従わなかった。

盧芝は字を庭瑞といい、河東の人、任子(蔭位)で官に補され、西安軍節度使として行尚書を務めた。石玠は字を子堅といい、河中の人、崇慶二年の進士で、汝州防禦使として行侍郎を務めた。二人は互いに謀って言った、「我々は武仙が久しく国家を顧みないことを知っている。諫めても聞かず、去ることもできず、事が今日に至り、ただ蔡州で一死するだけが欠けている。もし蔡州に到着できなくても、道中で死ぬのは、なお武仙の下で死ぬよりましである」。去った後、武仙はようやく気づき、石玠を追って殺した。盧芝は南陽に走ったが、土賊に害された。

甲午の日、蔡州は陥落した。食糧は尽きんとし、将兵は大いに怨み、皆散り散りに去った。武仙は帰る所なく、十八人を従えて北へ黄河を渡り、また五人を失った。五月、澤州へ急行したが、澤州の戍兵に殺された。

張甫、張進

張甫は、完顔の姓を賜った。初め大元に帰順していた。涿州刺史李瘸驢がこれを招くと、興定元年正月、張甫は張進と共に来降した。東平行省の蒙古綱が承制により張甫を中都路経略使に任じ、張進を経略副使に任じた。二年、苗道潤が死ぬと、河北行省の侯摯が承制により李瘸驢に苗道潤の中都路経略使を代行させ、張甫と張柔を副使とした。間もなく、苗道潤の配下は靖安民に苗道潤の後を継がせるよう請うた。この時、張柔と安民が実際に苗道潤の部衆を分掌していたため、朝廷は瘸驢を中都東路経略使とし、雄州・州以東を全てその管轄に隷属させた。

張甫と張進は永定軍節度使賈仝と不和であり、兵をもって互いに攻め合い、賈仝の地を奪い占拠し、賈仝の馬を奪って経略使李瘸驢に贈ったが、瘸驢はこれを受け取った。朝廷は瘸驢が州府を和合させられず、向背があることを怪しみ、瘸驢を召還して別の官職を与えようとした。東平の蒙古綱を召して張甫と賈仝の和睦を講じさせた。蒙古綱は同知安武軍王鬱と博野令高常住を派遣してこれを調停させたが、すぐに瘸驢を留めて帰さず、上奏して言うには、「張甫は本来瘸驢の招降を受けた者で、情誼が厚く親しい。今、王鬱を先に派遣し、瘸驢と協議してこれを調停する方法を定めてからでなければならない。況や張甫らは礼義を知らぬ者であり、瘸驢が征召されれば皆自ら疑い、他の変事を生じる恐れがある。故に専断の罪を避けずに留める」と。詔して蒙古綱の上奏に従った。間もなく、賈仝が再び兵をもって張甫の部民を捕らえ、張甫の参議官邢曁畢を殺した。張甫は兵を率いてこれを攻め、賈仝は敗走し、遂に自縊して死んだ。張甫は部衆を安んじ集めるために符印を請うたので、詔してこれを与えた。

ほどなく、李瘸驢は大元に帰順した。張甫は中都東路経略使・遙授同知彰德府事・権元帥右都監となった。三年、張進は中都南路経略使となった。張甫が上奏して言うには、「真定は兵の要衝である。重臣を派遣し、恒山公武仙と力を合わせてこれを守らせてほしい」と。返答はなかった。真定が守れなくなると、張甫は再び上奏して言うには、「権元帥右都監柴茂が冀州の水寨を守っているが、孤立して援けがなく、もし兵を増やさなければ、どうなるか臣には分からない」と。

四年、張甫は高陽公に封ぜられ、雄州・莫州・霸州、高陽・信安・文安・大城・保定・静海・宝坻・武清・安次の各県をその管轄に隷属させた。元光元年、移剌衆家奴が河間を守れず、張甫は信安に居を定めた。この年、功により金紫光禄大夫に進み、初めて完顔の姓を賜った。二年二月、張進も元帥左監軍に遷り、完顔の姓を賜った。

靖安民

靖安民は、徳興府永興県の人である。貞祐の初め、義軍に充てられ、謀克・千戸・総領・万戸・都統を歴任し、皆苗道潤の麾下に隷属した。功により遙授で定安県令となり、涿州刺史に遷り、遙授で順天軍節度使となった。提控を充てた。興定元年、遙授で安武軍節度使となった。興定二年、知徳興府事・中都路総領招撫使に遷った。この年、苗道潤が死ぬと、安民がその配下を代わりに率い、行省が承制により涿州刺史李瘸驢に中都路経略使を代行させた。三年、詔して瘸驢に雄州・霸州以東を中都東路経略使とし、易州以西を安民に中都西路経略使とさせた。西山の義軍の屯塁と諸招撫は皆これに隷属させた。

四年、遙授で知徳興府事となり、権元帥左監軍、行中都西路元帥府事を兼ねた。三月、安民は上書して言うには、「苗道潤は五十余城の州県を撫定し、その功は甚だ大きかった。西京路経略使劉鐸はその功を嫉み、賈瑀と李琛をそそのかして道潤と不和にさせ、互いに攻伐し合うようにし、遂に陰謀をもって道潤を殺させた。劉鐸は配下の劉智元らに鎮撫孫資孫と招撫楊徳勝の家族二十余人を掠めさせ、山寨に監禁した。もし劉鐸が常にここに居るならば、恐らく事を敗るに至ろう」と。劉鐸もまた副使劉璋を南京に派遣して自ら訴え、かつ言うには、「靖安民が飛狐の境に侵入し、濫りに封拜を行い、人心を惑わし、強いて総領馮通らに銀粟を輸納させた。飛狐の総領王彦暉と弾圧劉智元・杜貴を求め、偏裨に充てようとした。王彦暉らがこれを拒むと、杜貴を殺し劉智元を杖罰し、遂に王彦暉を追い立てて去った」と。また言うには、「経略の職は卑しく、従宜の李柏山らが日々謀って害を加えようとしている。罷免を許されたい」と。朝廷の議論では、劉鐸は本来逃亡者を招誘する任にあったが、今は安民と互いに論難し合い、争端を起こしている。苗道潤が死んだ後、安民が実際にその配下を代わりに率いており、王彦暉らの軍は本来道潤に隷属していたのだから、安民の節制に従うべきである。そこで劉鐸を召還した。間もなく、易水公に封ぜられ、涿州・易州・安粛州・保州、君氏川・季鹿・三保河・北江・礬山寨・青白口・朝天寨、水谷・歓谷・車安寨をその管轄に隷属させた。十月、安民は兵を出して礬山に至り、再び簷車寨を奪取した。

大元の兵が安民の居る山寨を包囲すると、守寨の提控馬豹らは安民の妻子と老弱者を連れて出降し、安民の軍中はこれを聞いて驚き乱れ、衆議は妻子を保つために降伏しようとした。安民と経歴官郝端は従おうとせず、遂に害された。詔して金紫光禄大夫を追贈した。

郭文振

郭文振は、字を拯之といい、太原の人である。承安二年の進士。累官して遼州刺史となった。貞祐四年、昭義節度使必蘭阿魯帶が遼州を節鎮に昇格するよう請うたが、朝廷の議論では遼州の城郭と人戸は節鎮に相応しくないが、文振には功があるので昇進させるべきだとして、本官のまま宣差従宜都提控を充てた。興定元年、詔して文振に苗道潤に接応し、中都を恢復するよう命じたが、道潤が賈仝と相攻するに至り中止となった。

文振は遼州を治め、深く衆心を得た。興定三年、遙授で中都副留守に遷り、権元帥左都監、行河東北路元帥府事を兼ね、刺史・従宜の職は元の通りとした。文振は太原東山の二百余村を招降し、老幼を山寨に移し、壮士七千人を得て、営柵に分駐させ、秋の収穫を防護させた。文振は上奏して言うには、「もし秋が深まり敵兵が来なければ、直ちに太原を攻め取り、河東を恢復できる」と。優詔してこれを許した。十月、権元帥右都監・行元帥府事となり、張開と合流して堅州・台州の兵で再び太原を奪取した。四年、詔して楽平県を皋州に昇格させ、寿陽県の西張寨を晉州に昇格させた。これは文振の請いに従ったものである。

文振が上疏して言うには、「揚子雲(揚雄)に言がある。『統御にその道を得れば、天下の狙詐(ずる賢い者)ことごとく使役となり、統御にその道を失えば、天下の狙詐ことごとく敵となる』と。天下を有する者は、統御すべきところを審らかにするのみである。河朔は用兵の後より、郡邑は蕭然として、官長は並びに無く、武夫悍卒が因縁に乗じて起ち、志を得たりと思い、名位を僭越し、瓜分して角競し、以て相侵攘す。内除の官有りと雖も、亦たその職を領するを得ず、為すところ不法、言い勝えんや。帥府の擅に便宜を請い、妄りに自ら誇張して以てその権を尊大し、包蔵する心蓋し知るべし。朝廷これによりて撫で、権を仮り授け伝え、各路の帥府と力侔しく勢均しくして、相統属せず。陝西行省は総べて節制と為すも、相去ること遼遠、道路梗塞し、ついに聞知し難し。故に飛揚跋扈して畏憚する所無く、隣道相望みて、敢えて誰何する者無し。平陽城破れて以来、河北に行省を置かず、朝廷の信臣復た往来して声教を布揚せず、但だ曳剌を行わせて報ぜしむるのみ。所司は酒食を以て労し、貨財を以て悦ばし、その声を借り、共に朝廷を欺く。奸幸既に行われ、遂に驕恣に至り、変故の生ずる、何れの所か有らざらん。これ臣が夙夜痛心して之が為に憂懼する所以なり。公廉の官を分遣し、遍く詣り訪察せしめ、庶幾く所在の利害の実を知らんことを乞う。伏して見るに、沢・潞等の処は芻糧猶お広く、人民猶お衆く、地多く険阻、重臣を選び復た行省を置き、皆節制を聴かしめ、上下相維ぎ、臂指の如く之を使うべし。然らば則ち国勢日重く、奸悪萌さず」と。是の時、沢・潞は既に張開に詔して規劃せしむるも、文振の言を尽く用いる能わず、但だ南京兵馬使術甲賽也に命じて帥府を行わしむるを懐・孟に於いてするのみ。是の歳、晋陽公に封ぜられ、河東北路皆これに隷す。

文振奏す、「孟州は毎に豪猾不逞の人を以て州事を行わしむ。朝廷は更代を重んじ、就いて之を主たしむ。去年、伯德和が刺史を摂行す。提控伯德安これを殺し、その職を奪う。河東行省は陳景璠を以て安に代わる。安内に平らかならず、因って景璠を誣告して死罪と為す。朝廷未だ按問せざるに、安輒ち之を逐う。臣の節制を受くるを恥じ、衆に宣言して、道路稍く通ずるを待ち、当に恆山公の節制に隷せんとす。今真定は已に守らず、安猶お向慕して已まず。臣諸郡に兵を徴す。安輒ち詭辞を以て遣わさず。臣若し師を興さば、是れ自ら一敵を生ずるなり。国家の便に非ず。安に女有りと聞く。臣輒ち律令に違いて為に侄孫の述に娶らしむ。安遂に許すを見る。臣安と姻を為さんと願うに非ず、公家の為に計り、屑として之に就くのみ。結親以来、安頗る循率して以て王事に従う。法は当に娶るべからざるに輒ち之を娶る。敢えて此の罪を以て請う」と。宣宗その意を嘉し、近臣を遣わして慰諭す。文振復た奏す、「武仙の統ぶる境土甚だ大なり。林州元帥府と共に之を招撫すと雖も、更に本土の州県官を選び、その職任を重くし、同しく安集を与え、還りて定まらしむべし」と。宣宗その策を用う。

五年、文振奏す、「臣の統ぶる嵐・管・庾・石・寧化・保德諸州は、境土闊遠にして、周く利害を知る能わず、軍国の大計を誤らんことを恐る。伏して見るに、葭州刺史古裏甲蒲察は智勇人に過ぎ、河東の事勢を深く悉くす。元帥府事を行わしめ、或いは本路兵馬都総管と為し、臣と分治せしむることを乞う」と。詔して文振に就きて可なる者を択び便地に処し、仍お文振の節制を受くべしとす。

上党公張開、厚賞を以て文振の将士を誘い、頗る亡帰する者有り。詔して遼・潞の粟を分かち太原の饑民を賑わす。張開与えず。文振その事を奏す。詔して使いを遣わして慰諭す。文振復た前の請を申し、葭州刺史古裏甲蒲察を以て嵐・管以西の諸州を分治せしむ。制して可とし、仍お防秋後に再度その宜を度らしむ。文振、上党の粟を分かち以て太原を贍わんことを請う。詔して文振と張開に計度せしむ。頃くして、詔して石州を晋陽公府に隷す。

元光元年、林州行元帥府の惟良、罪を得て召還さる。文振奏す、「近く惟良の召還さるるを聞く。臣窃に以て不可と為す。惟良林州に在ること五歳、政は寛厚を尚び、大いに民心を得たり。今茲召され、軍民路を遮り泣き留む。その去ること未だ幾ばくもせず、{山義}尖の衆乱を作し、招撫使康瑭を逐う。惟良を還して林州に遣わすを便と為さんことを乞う」と。許さず。

文振上書す、「前平章政事胥鼎を行省として河北に遣わし、諸公府・帥府並びに節制を聴かしめ、詔諭して百姓に遺黎を忘れざるの意を知らしめ、然る後に河南・陝西の精鋭を以て並力して恢復せしむることを乞う」と。報いず。文振復た奏す、「河朔の百姓領を南に望む。臣再四枢府に請うも、但だ会合府兵を以て言と為すのみ。公府は号す分封と雖も、力実に単弱にして、且つ相統摂せず、所在兵に被る。朝廷即ち兵を遣わして河北を複せざれば、人心将に河朔を挙げて之を棄つと為さんとす。甚だ計に非ず」と。文振は大抵胥鼎を起して行省と為し、河北を定めんと欲す。朝廷用いる能わず。

二年、詔して文振に史詠を応援して河東を複せしむ。是の歳、遼州守る能わず、その軍を孟州に徙し、部将の郝安等を以て文振の副と為し、沿山の諸寨を護らしむ。文振公府を辞す。詔して許さず。頃くして、文振の部将汾州招撫使王遇と孟州防禦使納蘭謀古魯相能わず、復た衛州に徙す。然れども亦た以て軍と為すべからず、正大の間に迄り、衛に寓するのみ。

胡天作

胡天作、字は景山、管州の人。初め郷兵を以て本州を守禦し、累功して少中大夫・管州刺史と為る。興定二年、遥かに同知太原府事を授けられ、刺史は旧に如し。是の歳、平陽失守し、同知平陽府事に改む。三年、復た平陽を取り、天作言う、「汾・潞皆帥府を置く。平陽は大鎮、今稍く完複し、管する州県、十万戸に下らず、復業する者相継ぎて絶えず。その汾・潞を過ぐること遠し。宜しく一体に之を置くべし」と。是の時、晋安・嵐州皆帥府有り。乃ち天作を以て便宜招撫使・権元帥左都監に充つ。四年、平陽公に封ぜられ、平陽・晋安府、隰・吉州を以てこれに隷す。天作、晋安府の翼城県を以て翼州と為し、垣曲・絳県を以てこれに隷せしむることを請う。汾河の西に平水県を置く。朝廷皆これに従う。

初め、軒成は本程琢の麾下に隷す。琢死し、成衆を率いて隰州を保ち、以て同知隰州軍州事・兼提控軍馬と為す。成器甲を増繕し、亡命を招納し、頗る他志有り。是の時、隰州方に用兵を用い、未だ制す可からず。天作要害の州県を増置し、以てその勢を分かんことを請う。隰州の境蒲県最もその沖に居る。州に改むべし。隰川の仵城鎮は県に改むべし。官を選び守備せしむ。詔して蒲県を蒲州に升し、大寧県を以てこれに隷し、仵城鎮を仵城県と為す。天作平陽を守ること凡そ四年、屡び功有り。詔してその子定哥を録して奉職と為す。

元光元年十月、青龍堡が危急に陥り、詔を下して古裏甲石倫に張開・郭文振の兵を合わせて救援させた。軍は彈平寨の東三十里に駐屯したが、前進できなかった。知府事の術虎忽失來と総領提控の王和がそれぞれ兵を率いて帰順し、城下に臨んで妻子を要求したため、兵民は皆潰走し、胡天作を捕らえた。天作は既に帰順していたが、詔により南京にいた忽失來の子を誅殺し、天作の子定哥には従前通り承応を命じた。天作は既に大元の官爵を受け、虎符を佩び、懐州・孟州の民を招撫していた。定哥はこれを聞き、自ら縊死した。信武將軍・同知睢州軍州事を追贈された。詔により張開・郭文振が天作を招いたが、天作は済源に至り、脱走しようと企て、先に人を遣わして南京に表を奏上した。大元の大将はその反覆を憎み、遂に誅殺した。

天作の死後、宣宗は同知平陽府事の史詠に平陽公府の事務を代行させ、後に平陽公に封じた。平陽が陥落した当初、詠の父の史祚と母の蕭氏は窟室に隠れていたが、捜し出され、祚に詠を招かせようとした。祚は自ら縊死し、蕭氏は逃げ帰った。詠の妻の梗氏も自死した。宣宗は祚に榮祿大夫・京兆郡公を追贈し、諡して成忠とした。蕭氏は京兆郡太夫人に封じられ、号を帰義と賜った。梗氏には京兆郡夫人を追贈し、諡して義烈とした。間もなく、詠は内徙を請い、その軍を解州河中府に移した。

張開

張開は、完顏の姓を賜わり、景州の人である。至寧の末、河北で兵乱が起こると、開は郷兵を団結させて固守し、功を重ねて遙授で同知清州防禦事、兼同知観州事となった。貞祐四年、開は配下を率いて河間府及び滄・献の二州十三県を奪回した。開は宣撫司から預かっていた宣敕二百道を持ち、権宜に署置することを奏請し、任地で奪回した州県の旧官をそのまま任用し、欠員は補うことを求めた。詔により同知観州軍州事に遷任した。開は清州を奪回し、塩を輸送して食糧と交換することを請い、詔により食糧を与えられた。観州刺史・権本州経略使に遷った。この時、初めて完顏の姓を賜わった。開は便宜を許すことを奏請し、また淇門・安陽・黎陽はいずれも堰を築いて水を塞ぎ、河運が不通であると論じ、水路の開発を請うたが、返答がなかった。観州の食糧が尽きたその年秋、軍を輝州に移し、麦種三千石・驢騾三百頭、あるいは宝券二百貫を請うたが、戸部は与えなかった。御史台が奏上した。「開は観州から転戦してここに至り、久しく労績を顕著にしている。その軍に耕作させて自給させようとするのに、有司は小費を計算して与えようとしない。宸衷より裁断し、麦種を与えられたい。もし牛がなければ、宝券を与えられたい。」制により許可された。

その年、潼関が守れず、召されて南京の守衛に入った。興定元年、遙授で沢州刺史となった。二年、遙授で同知彰徳府・兼総領提控となった。三年、潞州招撫使を充てた。林州元帥府が潞州の人を移して林州を充実させたが、後にまた送り返した。開は晋安元帥府に隷属すること、あるいは林州と並んで元帥府を設置し、それぞれが治めることを請うた。十月、開は権昭義軍節度使・遙授孟州防禦使・権元帥左都監・行元帥府事として、郭文振と共に太原を奪回した。四年、上党公に封じられ、沢・潞・沁州をその管轄とした。五年、詔により再び涉県を崇州とし、開の請いに従った。元光元年、再び高平県及び沢州を奪取した。二年、壷関で大戦し、功があった。やがて潞州が危急となると、開は奏上した。「公府を封建して屏翰を固めるのが目的であったが、今や胡天作は平陽を出て、郭文振は南に河東に移り、公府は臣と史詠のみとなった。沢・沁の二州を節鎮に昇格させ、守禦を重んじられたい。」詔により沢州を忠昌軍、沁州を義勝軍とした。林州{山義}尖寨の衆が乱を起こし、招撫使の康瑭を追い払い、杜仙を推して招撫使とした。開は盧芝瑞を副使とし、代わってその衆を率いることを請うた。また奏上した。「近頃、郭文振が懐・孟に就食し、史詠は解州に移り、高倫は葛伯寨に遷り、各自が保ち守っていると聞く。民は何を仰ぎ見ればよいのか。臣は孤軍を率い、内には蓄えがなく、外には応援もない。臣は失守の罪を避けようとはしないが、朝廷の憂いを一層重くすることを恐れる。」

正大年間、潞州が守れず、開は南京に居住し、部曲は離散し、旧公と名乗るも、匹夫と異なる所がなかった。天興初め、起復し、劉益と共に西面元帥となり、安平都尉紀綱の軍五千を率いて衛州を攻めたが、白公廟で敗北した。この時、哀宗は帰徳に逃れており、開と劉益は潰兵を収めて従おうと謀ったが果たせず、遂に承裔と共に西に逃走し、いずれも民家に殺された。

初め公府を設置した時、開と恒山公の武仙が最も強かった。後に兵を馬武山に駐め、間道を通じて糧二万石を請うたが、政務を執る者が難色を示し、二千石だけを与えた。公府の将佐は返報を得ても皆、敢えて報告しなかった。開はこれを聞き、酒宴を設けて諸将を招き言った。「朝廷は某を特に厚く遇している。今日は諸君と一酔しよう。」諸将が理由を問うと、言った。「先頃、糧尽きを理由に請い、二万を祈って二千を得た。これは我が君相が武仙の輩と同じには扱っていないということだ。」この時、郭文振は開の西北に位置し、兵鋒の衝に当たり、民は貧しく地は瘠せていたが、開はまた命に従って糧で文振の軍を救済しなかった。文振は窮して逃れ、開の勢力はますます孤立し、敗北に至った。

燕寧

燕寧は、初め莒州提控として天勝寨を守り、益都の田琢・東平の蒙古綱と輔車の勢いをなして互いに依り頼んだ。山東は残破していたが、なお三人を重んじて頼みとした。紅祆賊の王公喜が注子堌を占拠し、衆を率いて沂州を襲撃占拠した。寧はこれを撃退し、遂に沂州を奪回した。詳細は『田琢伝』にある。寧は紅祆賊を屡々撃破し、胡七・胡八を招き降して腹心とし、賊の中ではこれを聞いて降伏を望む者が多かった。累官して遙授同知安化軍節度使事・山東安撫副使となった。興定四年、東莒公に封じられ、益都府路は皆その管轄とした。五年、蒙古綱・王庭玉と共に東平を保全し、功により金紫光禄大夫に遷った。天勝に帰還し、戦死した。蒙古綱が奏上した。「寧は忠孝を尽くし、上公の位にありながら、祖先に封爵がなく、身没した後は老幼が衣食する所がない。節義の士を励ますため、異恩を降されたい。」詔により、故祖父の燕皋に銀青栄禄大夫を、祖母の張氏に范陽郡夫人を、父の燕希遷に金紫光禄大夫を、母の彭氏・継母の許氏・妻の霍氏に皆范陽郡夫人を追贈し、一族五十二人に皆食糧を給与した。

益都の張林が田琢を追放し、続いて寧が死ぬと、蒙古綱は勢いが孤立し、軍を邳州に移し、山東はもはや守れなくなった。

賛して言う。苗道潤が死ぬと、その地を中分し、靖安民がその西の半分を有し、中分より東は後に張甫が有したが、北境は無くなった。およそ九公の封建は、『宣宗実録』に記載されている通りである。他の書には滄海公の張進・河間公の移剌中哥・易水公の張進・晋陽公の郭棟を載せている。これは必ず正大年間に継いで封じられたもので、史詠が胡天作を継いだようなものであるが、詳しくは考証できない。