金史

列傳第五十五: 徒單益都 粘哥荊山 王賓 國用安 時青

徒單益都

徒單益都は、その履歴は詳らかでないが、累官して延安総管となった。正大九年正月、徐州で行省事を行った。時に慶山奴が東方の守備を撤去して入援したが、睢州に至る前に、徐・邳の義勝軍総領侯進・杜政・張興が本軍を率いて永州において大軍に降った。辛丑の日、大軍は徐州の張盆渡を守った。益都が着任してわずか三日、兵が少なく守れぬことを恐れ、直ちに移剌長壽に甲士千人を率いて大軍を迎えさせた。長壽の軍は紀律がなく、大軍に襲撃され、全軍が覆没し、徐州は非常に危うくなった。益都は州人と運糧埽兵を籍に入れて一万人を得た。乙巳の日、大軍が城に迫り、南関を焼いて去った。侯進は既に北に降り、直ちに京東行省とされ、進は千人を請うて来襲した。

二月庚申、未明のうちに、大軍が南城を穿って登り、守る者は皆散走し、城中で大いに呼ばわって曰く、「大軍が南門に入った!」益都はこれを聞くと甲を着ける暇もなく、州役所の夜直兵三百を率い、黄楼より南へ、力戦して敵を防いだ。乱が定まり、遷賞に差があった。これにより軍勢はやや振るい、再び張盆渡を奪い、蕭県を取り、白塔を破り、土山で戦い、捕虜となった老幼五千を救って徐州に還った。既にして、侯進は亡命して霊璧に駐まり、杜政・張興も北に害されることを慮り、窮迫して自ら帰った。益都はこれを慰撫して受け入れ、興は徐州に留め、杜政は邳州に還った。

益都の資質は仁厚で、大體を保ち、二子と二姪が軍将となり、軍民を侵漁することが甚だしかった。青州の人王祐が埽兵総領であった。兵千七百人を将いて、益都は常にこれを頼り、過ちがあっても責めなかった。この故に祐もまた横暴になり、河間の張祚・下邑令の李閏・義勝都統の封仙・遙授永州刺史の成進忠らと、軍政の弛緩と城中の空虚に乗じて、六月丁巳の夜に草場を焼いて乱を起こした。時に張興は病臥しており、祐は事が成らぬことを恐れ、興を起こして同行させた。益都は左右が皆叛いたと疑い、妻子を連れて城を縋り出し、従宜の衆僧奴及び東面総領の劉安国の軍に就いた。張興は祐を推して都元帥としたが、また祐が己を図ることを懼れ、遂に祐を誅し、張祚をも併せて殺した。そこで城中を大いに掠奪した。壬戌の日、國用安が行山東路尚書省事として兵を率いて徐州に至り、張興が甲士を率いてこれを迎えた。用安は軽騎で入城し、興とその徒党十余人を捕らえ、市で斬り、遂に封仙を元帥兼節度使として徐州を主とさせた。

益都は窮して帰る所なく、乃ち宿州に奔ったが、節度使の紇石烈阿虎は益都が人に逐われたとして受け入れず、乃ち諸将と共に城南に駐屯した。時に宿州の鎮防軍に逃げ帰った者がおり、阿虎は叛いて帰ったとしてこれも受け入れなかった。城中の鎮防千戸の高臘哥が、小吏の郭仲安と結び、徐州の将士と内外相応じて宿州を取ろうと謀り、楊妙真に帰順しようとした。甲戌の夜半、城門を開いて徐州総領の王德全及びその妻弟の高元哥の軍を納れた。劉安国も間もなく入城し、阿虎父子を縛って殺した。州中は益都に主帥府事を主とさせようと請うたが、益都は従わず、曰く、「我は国家の旧人であり、将帥としても久しい。資性が疎迂であるが故に、周防することができず、遂に重鎮を失った。今大事は既に去り、罪を逃れる暇もない。どうして髻髪を改め、人の城池を奪って外方に降ろうか。」即日、官吏を率いて行き、穀熟の東に至り、大軍に遇い、屈せずして死んだ。

徐州は既に海州に帰し、邳州の帥の兀林答某もまた印を杜政に譲り、遂に款を用安に送った。已にして宿州の王德全・劉安国もまた款を海州に送った。ただ益都のみは髻髪を改めず、死に至るまでであったという。

粘哥荊山

粘哥荊山は、その始まりを知らず、正大年間に累官して亳州節度使となった。九年正月己丑、游騎が鄧より亳に至り、鹿邑を掠め、衛真の西北五十里に営した。鹿邑令の高昂霄は太康が既に降ったことを知り、即夜に亳に急行し、道すがら衛真に出て、県令の楚珩を呼び同行を約した。珩は勢いが支えられぬと知り、即ち明らかに県人に避難移住の意を諭し、遂に共に亳に走った。丁未の日、二邑は皆降った。この日、軍は亳州城下に至った。州には単州の兵四百人があるのみで、「鎮安軍」と号し、提控の楊春・邢某・都統の戴興が既に六年屯していた。荊山は城中の丁壮を悉く籍に入れて軍とし、守備の具を修めたが、大軍もまた攻撃の暇がなかった。四月、降民を擁して北へ行き、城門は閉じられ、これを知らなかった。

五月、遷民に麦を収穫させ、老幼は出ることができたが、丁壮は悉く留められた。民は往々にして留まることを肯んぜず遁走し、数日のうちに城はこれがために空となった。荊山は将領を遣わして各々所属に詣でてこれを招いたが、将領もまた帰らなかった。「鎮安」なる者は皆紅襖の余党で、力尽きて来帰したが、変詐反復し、朝廷は終に盗賊としてこれを遇した。荊山が遷民を軍としたのは、これを防ぐためであった。及んで外兵を召しても至らず、乃ち帰徳に請うて、甲騎百余を得、両総領がこれを統率した。既に至ると、「鎮安」は己を謀ると疑い、乃ち将士が新たに到着して設備していないのに乗じ、夜に至り、悉く殺し尽くした。荊山は出奔して衛真に走り、楚珩がこれに馬を与えて去らせ、州中の豪貴は悉く掠奪された。

劉堅という者は、初め大軍のために城父を守っていたが、亳州が回復すると、これを擒らえ、獄に囚われた。楊春は北に降ろうと謀り、乃ちこれを出し、宣差とした。乙巳の日、大軍の石総管が州に入り、州を順天府と改め、春を総管とし、戴興を通判とし、劉順を治中とし、党項軍千人を留めてこれを戍らせた。属県は皆下ったが、ただ城父令の李用宜は降らず、その妻子は亳にいたが、春が人質としたが、終に屈せずして死んだ。春は既に州を拠ると、劉堅と楼上に坐し、副提控の邢某を召した。邢は剛直で理に循い、将士が厳しくこれを憚ったが、時に病臥しており、春の乱を聞くと、流涕して自ら禁じえなかった。春は人を遣わして舁いて来させたが、邢は春を指して大罵し、春は慚愧して言わなかった。春は荊山の家族を殺そうとしたが、邢は力を尽くしてこれを止め、且つ道路の費用を与えて城外に送り出させ、邢は間もなく病没した。二年夏四月、北省の忒木泬が帰徳を攻め、春は戴興に精卒を提げて往かせ、独り疲弱者と共に城を守った。州人の王賓が遂に反正し、春は河を渡って北に遁れた。既にして崔七斤が乱を起こし、王賓を殺した。朝廷は已むを得ず、七斤を節度使とし、その兵仗を就けて蔡に入らせた。八月、劉順が亳州を攻め、これを破り、七斤は城父令に殺された。未だ幾ばくもせず、単州軍が州人がその家族を殺したため、大軍を召して来攻し、城を抜くことができず、属県の民を殺して去った。既に河を渡り、亳人が疑わないと知ると、再び来攻し、州は終に春によって破られた。この年六月、宋人が来攻し、春は出降し、劉堅は北に走った。

附:劉均

劉均という者は、林慮の人で、時に亳州観察判官であった。春が既に荊山を逐い、大軍に款を納め、均を脅して同降させようとした。均は偽ってこれに応じ、家に帰って朝服を取り出してこれを着け、顧みて妻子に謂いて曰く、「我は刀筆より身を起こし、仰いで上知を荷い、始めて朝列に列し、また大藩を佐けた。死するも亦足る。今頭髪は既にこの如し、仮に十年の寿あらば、何をもって先帝に地下で見えようか。」即ち仰薬して死んだ。

王賓

王賓は、字を德卿といい、亳州の人である。貞祐二年の進士であった。外見は曠達のようであったが、深く謀略を有していた。初め蘭陵主簿に任ぜられ、虹縣令に辟召され、まもなく尚書省令史として召し出されたが、事に坐して罷免され郷里に帰った。天興元年正月、亳州で兵変が起こり、節度使粘哥荊山は出奔し、楊春は州を挙げて降伏した。その後、自ら疲弊した兵でこれを守った。王賓は前譙縣尉の王進・魏節亨・呂鈞と謀り、城中の軍民とともにその州を回復し、楊春は遂に遁走した。節亨を帰德に遣わしてこれを上聞させた。哀宗はこれを嘉し、王進を節度使に、王賓を同知節度使に、魏節亨を節度副使に、呂鈞を觀察判官に任じた。楊春が再び兵を率いて攻めてきたが、一月余り陥落させることができず、すぐに河を渡って北へ去った。

六月、哀宗が蔡州に遷ると、王賓は州北の高安で奉迎した。上は彼と語り、大いに悦び、用いるのが遅かったことを悔やみ、行部尚書・世襲謀克に抜擢した。上が初めて亳州に至った時、王賓らは丁度民丁を徴発して鉄甲を背負わせ蔡州に入らせようとしており、また忠孝軍の家族の口糧を会計していたため、参知政事の張天綱を留めてこれを監督させ、併せて功ある将士を昇進させた。当時、亳州の糧食備蓄は多くなく、王賓らは常に吝嗇であったため、軍士はこれによって怨みを抱いた。鉄甲運搬の役に際しても、再び行くことを欲しなかった。折しも張天綱が王賓らと一つの楼上で功績の等級を選定していると、鎮防軍の崔複哥・王六十の徒が甲を着て騒ぎ立てながら楼に登った。天綱が「今すぐ殺そうというなら、朝廷に向かって拝礼して辞することを許されたい」と問うと、賊は「相公には関係ない」と言い、すぐに王賓と呂鈞を引きずって市中へ向かった。呂鈞は歩きながら跪き、涙を流した。王賓は傲然として恐れず、大声で叫んだ。「殺すだけのことだ。ただ殺せ、ただ殺せ!」 そして二人とも殺害された。節度副使の魏節亨・節度判官の孫良・觀察副使の孫九住も皆殺害された。さらに数日後、節度使の王進を殺した。王進はかつて粘哥荊山の募りに応じ、間道を通って汴京に入り奏上を納め、賞賜の品物を受け取らず、また家の所有物を全て散じて貧民を救済し、死をもって自らを励ました。汴京では、功労により本州の節度判官に昇進した。白金を賜ったが、これも受け取らず、一時、大いに称えられた。

付記:王進 等

李喜住という者がいた。もとは宿州の衆僧奴の下の宣差であった。天興二年四月、糧食を帰德に運び入れ、帰還しようとした時、亳州の王進が反正したと聞き、制旨により喜住を振武都尉とし、兵三千を率いて応援に赴かせた。この時、太赤が亳州を歩騎十万で包囲しており、喜住は衆寡敵せずとみて、ただ三人とともに間道から城に入った。王進はちょうど左軍林への遷移を議しており、喜住は不可としたので、王進はすぐに兵を喜住に託した。大軍は八日間攻めたが陥落させられなかった。五月壬子、兵は退いた。己未、官奴と阿裏合が忠孝軍百人を率いて亳州に至り、諸将と遷移の可否を議した。不可とし、輜重を蔡州に留め、軍を選んで扈従して聖朵に入り武仙の軍に就き、それから関中に入るべきであるとした。関中の地利は頼りにでき、また郭蝦蟆らの軍が西におり頼りにできるからである。

五月甲子、官奴を帰徳に召還したが、赴かず、再び召すと、その軍の半分を亳州に留めてようやく赴いた。六月壬辰、車駕が舟で亳州に至ると、王進は奏上した。「臣はもと軍伍の身で、政治の体をわきまえません。もし李喜住が扈従して蔡州に入れば、亳州は守れません。どうか留まってこの州を治めさせてください。」 詔して喜住を集慶軍節度使とし、便宜を以て事を行わせ、王進には帥職を領させた。七月、王進は死んだ。喜住は先に城父へ行き糧秣を監督していたが、乱を聞いて遂に亳州に入ることを敢えず、後に宋に投じた。

論じて曰く、金の末世の乱に、軍士はその偏裨に代わらんとし、偏裨はその主将に代わらんとして、即ち群れをなしてこれを覆した。もはや畏れるところがなかった。益都・荊山は皆忠亮の士であり、王賓・王進の才略は特に取るに足るものであったが、ともに難を免れなかった。惜しいことである。

國用安

國用安は、先に名を安用といい、本名は咬兒、淄州の人である。紅祆賊の楊安兒・李全の余党であった。かつて大元に帰順し、都元帥・行山東路尚書省事となった。天興元年六月、徐州の埽兵総領の王祐・義勝軍都統の封仙・総領の張興らが夜に草場を焼いて乱を起こし、元帥の徒單益都を追い払った。安用は兵を率いて徐州に入り、張興とその徒党十余人を捕らえて斬り、封仙を元帥兼節度使として徐州を主宰させた。宿州鎮防軍千戸の高臘哥が東面総帥の劉安国と結託して徐州総帥の王德全をそそのかし、宿州の帥である紇石烈阿虎を殺し、その州を挙げて海州に帰した。邳州の従宜の兀林答某もまた州を杜政に譲り、誠意を示して海州に送った。やがて皆、安用に帰した。

北の大将の阿術魯は、安用が徐・宿・邳を占拠したと聞き、大怒して言った。「この三州は我が攻め取るべきところだ。安用は何者か、勝手に降伏を受け入れるとは。」 信安・張進らを遣わして兵を率いて徐州に入らせ、安用を図り、その軍を奪おうとした。安用は恐れ、王德全と謀り、張進および海州元帥の田福ら数百人を劫殺し、楊妙真と絶交して、邳州に戻った。山東の諸将および徐・宿・邳の主帥と会し、馬を刑して盟を結び、金朝に帰することを誓った。盟を結んだ後、諸将は皆散り去り、安用は帰するところがなく、遂に王德全・劉安国とともに従宜の衆僧奴を通じて朝廷に通じた。衆僧奴は人を遣わして上奏した。「安用は数州を以て反正し、功は甚だ大きい。かつその兵力は強盛で、材略は称えるに足る。国家がもしも倚用しようとするなら、極品の重権でなければ、その国に許す心を堅くすることはできません。」 返答はなかった。安用は兵一万人を率いて海州を攻めたが、到着する前に、兵は次第に散り去った。安国は安用に赤心を以て国に帰すべきであると勧め、安用もまた自ら反復して計を失ったことを知り、事はすでにどうしようもなく、そこで再び金朝の衣冠を着用した。妙真は彼が己を裏切ったことに怒り、また図られることを恐れ、安用の家族を皆殺しにして益都に走った。安用は兵を選び将を分け、必ず妙真を得ようと期し、これより淮海の地に安寧な歳月はなくなった。

まもなく、朝廷は近侍局直長の因世英・都事の高天祐を遣わし、手詔を携えて邳州に至らせ、安用を開府儀同三司・平章政事・兼都元帥・京東山東等路行尚書省事とし、特に兗王に封じ、「英烈戡難保節忠臣」の号を賜い、完顏の姓を賜って属籍に附し、名を用安と改めさせ、金鍍銀印・駝鈕金印・金虎符・世襲千戸宣命・敕様・牌様・御画体宣・空頭の河朔山東赦文を賜い、便宜を以て事を行わせ、かつ彭王妃の誥を安用に委ねて妙真を招かせた。用安は初め使者の到来を聞き、躊躇して決断できず、総領の楊懋に使者を迎え入れさせ、州の官舎に監禁し、来た理由を問うた。世英は封建の事について答え、その意は頗る順調であった。諸帥の王・杜の輩は皆、宣言することを欲せず、使者を殺そうとした。翌日、用安はようやく出て使者に会い、跪揖する様は等夷のようであった。坐が定まると、世英に語って言った。「私は以前、大軍に従って汴京を攻め、開陽門の下で侯摯と内外夾撃を議したことがある。この時、大軍では病死者が多く、十七の頭項(将帥)が皆京城にいた。もし私の計に従って軍を出していたなら、中興はとっくに成し遂げられていた。朝廷には一人として敢えて決断する者もなく、今日悔いてもどうしようもない。」 言い終わると立ち上がった。やがて人を選んで朝廷の賜り物を取らせて遍くこれを見せると、喜びが顔色に現れた。再び使者と私議し、朝礼によらずにこれを受けようとしたが、世英らが不可としたので、すぐに宴を設け儀式通りに拝受し、主事の常謹らを使者に随行させて表を奉じて入朝させ謝意を表した。

上はまた世英・天祐を遣わし、鉄券一・虎符六・龍文衣一・玉魚帯一・弓矢二を賜い、その父母妻に封贈する誥命、及び郡王宣・世襲宣・大信牌・玉兔鶻帯を各十ずつ賜い、同盟に賜うべき者には賜うことを聴した。使者が邳に至ると、用安は礼の如く迎えて受け、初めて入援の意を有した。及び上が蔡州に遷らんとするを聞き、乃ち人を遣わして蠟書をもって言う、蔡に遷るに六つの不可有りと、大略以て謂う、「帰徳は城を環らす皆水なり、卒に攻撃し難し、蔡には此の険無し、一なり。帰徳は糧儲乏しと雖も、魚芡は以て足るを得べし、蔡若し囲みを受くれば、廩食限り有り、二なり。大兵の去る所以帰徳なるは、我を畏るるに非ざるなり、之を出だして其の後を躡き、其の難きを捨てて其の易きに就きて攻むるなり、三なり。蔡は宋境を去ること百里ならず、万一敵に兵糧を資せば、禍解くべからず、四なり。帰徳保たずと雖も、水道東行して猶去ることを得べし、蔡若し守らずば、去りて将に何にか之かん、五なり。時に方に暑雨たり、千里泥濘たり、聖体豊澤にして、鞍馬に便ならず、倉卒に敵に遇わば、臣子の敢て言う所に非ず、六なり。然りと雖も、陛下必ずや帰徳を去らんと欲せば、山東に権幸するに如かず。山東は富庶天下に甲たり、臣略其の地を有し、東は沂・海に連なり、西は徐・邳に接し、南は盱・楚を扼し、北は淄・齊を控う。若し鑾輿少しく停まらば、臣威霊を仰頼し、河朔の地は檄を伝えて定むべし。惟うに陛下審察せよ」と。上は其の言を以て宰臣に示す。宰臣奏す、用安は反覆にして、本より匡輔の志無し、此れ必ず参議張介等の議う所なり、業已に蔡に遷る、議遂に寝す。

初め、世英等が徐を過ぎし時、王徳全・劉安国之に説いて曰く、「朝廷の恩命豈に用安より出づるべきや、郡王宣は吾二人最も当に得べき者なり、乞う就きて之を留めよ」と。世英乃ち郡王宣・世襲宣・玉帯を各二ずつ留む。是れによりて用安と隙有り、又図らるるを懼れ、皆其の節制を聴かず。十郡王なる者は、李明徳・封仙・張瑀・張友・卓翼・康琮・杜政・吳歪頭・王徳全・劉安国なり。用安必ず山東を取らんと欲し、累ね徐・宿の兵を征す、止だ勤王を以て辞と為すも、二帥応ぜず。用安怒り、杜政等に兵三千を率い、糧を取るを名として、徐・宿を襲わしむ。既に城に入り、徳全之に覚り、就きて杜政・封仙を留めて遣わさず。用安愈々怒り、徳全・安国必ず謀有らんと謂い、乃ち桃園の帥吳某等八九人を執り下獄して鞫問す。二帥は温特罕張哥を遣わし、杜政・封仙が徐州を襲い取らんと欲するを以て用安に白すも、聴かず、吳帥・張哥輩九人を駆り並びに之を斬る。張哥将に死せんとして大呼して曰く、「国咬児、汝は尺寸の功無く、国家の大封爵を受け、何ぞ汝に負くところ有らん、而して杜政等の変乱に従い、又無罪の人を殺す。今死すと雖も、当に汝と地下に弁せん」と。会うに上、臧国昌を遣わし密詔を以て東方に兵を徴す、故に用安は朝命を仮り声言して入援し、劉安国を檄して前鋒と為し、親しく兵三千を率いて徐州城下に駐し徳全を招く。徳全終に図らるるを疑い、出でず、封仙を獄に繋ぎ、之を殺し、杜政を遣わして城を出ださしむ。安国既に宿州に至り、用安また安国を召し還るも、安国従わず、独り衆僧奴と共に赴援す。行きて臨渙龍山寺に及び、用安人をして劫殺せしむ、遂に徐州を攻め、三月を逾えても下さず、退きて漣水に帰る。是れによりて、世英を以て用安終に赴援せざるを因り、乃ち朝に還る、宿州西に至り、大兵に遇い、屈せずして死す、事聞こえ、汝州防禦使を贈る。

既にして用安軍食給せず、宋に糧を乞う、宋陽に之を許し、即ち宋の衣冠に改め従い、而して私に朝使と相親しむ。尋いで益々食乏しく、軍民多く亡去す、乃ち蕭均に命じて厳刑を以て亡者を禁めしむ、血流れて道に満つ。大元東平万戸査剌兵を将いて漣水に至り、遂に之に降る。査剌既に河を渡り、蔡州に趨く、用安は詭計を以て漣水に還り、また叛いて宋に帰し、浙東総管・忠州団練使を受け、淮閫に隷す。甲午正月、大兵はいを囲むを聞き、用安往きて之を救う、敗れて徐州に走る。会うに兵を移して徐を攻む、用安水に投じて死す、其の屍を求得し、面を皮刂りて馬尾に繋ぎ、怨家田福一軍の臠食する所となりて尽くす。

用安は形状短小にして須無く、軽薄子と遊ぶを喜び、日々衢市の間で鞠を撃ち、顧眄自ら矜り、将帥の大體無し。

介は字は介甫、平州の人、正大元年経義進士第一、時に用安の参議と為る。

初め、天祐等が汴を出でし時、微服して間行し、北軍の営幕を経て、通許崔橋に至り、初めて義軍招撫司の官府有り、京師を去ること二百里なり。陳州に至り、防禦使粘葛奴申初めて州事を立つ。二日留まり、項城に至り、県令硃珍県事を立て、士卒千二百人有り。泰和県に至り、県令王義県を立てること已に五月なり。八月、宿州に至り、衆僧奴報を得、且つ朝廷権宿州節度使・兼元帥左都監の命を授くるを知り、彩輿儀衛を具えて城を出で五里奉迎す。時に東方朝廷の音問を知ること已に八月なり、官民使者の至るを見、且つ拝し且つ哭す。張顯なる者有り、任侠尚気にして義理を知り、即ち天祐に謂いて曰く、「東方朝廷の音問を知ること已に数月、今使者を見、百姓皆感動す。若し聖旨を以て之を撫慰せずんば、恐らくは東民の必を失わん。我制旨を矯称して宣諭せんと欲す、如何」と。天祐は書生にして、規矩を守り、敢て従わず、但だ宰相の旨を以て州民を集め之を慰撫す、州民また大哭す。明日、徐州に往く。

時青

時青は、滕陽の人。初め叔父全と俱に紅祆賊と為り、及び楊安児・劉二祖敗れ、赦を承けて来降し、軍中に隷す。興定初、青は済州義軍万戸と為る。是の時、叔父全は行枢密院経歴官と為る。興定二年冬、全は馳驛して東平を過ぎ、青来り見え、因りて全に将に叛いて宋に入らんと告ぐ、全之を秘す。頃之、青其の衆を率いて宋に入る。宋人之を淮南に置き、亀山に屯し、衆数万有り。

興定四年、泗州行元帥府の紇石烈牙吾塔が人を遣わして彼を招くと、時青は書状を以て来た。書状に曰く、「青は元来滕陽の良民なり。時に遭い乱離し、老幼を扶け携えて草莽に避地す。官吏此の心を明らかにせず、叛逆と目し、死を逃るる所なく、淮海に竄匿す。親旧を離れ、郷邑を去るは、豈に人情の楽む所ならんや。僕は他国に寄食して苟くも生きながらふるも、首丘の念、一日も忘れたることなし。もし朝廷青の罪を赦し、邳州を仮りて以て老幼を屯せしめ給はば、当に盱眙を襲取し、尽く淮南を定めて、以て往昔の過ちを贖はんことを。」牙吾塔復書して曰く、「公等初め亦罪無し。誠に能く国の為に功を建て、全軍を率いて来帰せば、即ち吾が人なり。邳州は吾が城、吾が人を以て之に居らしむるも、亦何ぞ不可ならん。《易》に曰く、'君子は幾を見て作り、終日を俟たず。'公其れ亟に之を図れ。生還して父母の邦に至り、富貴終身、芳を後世に伝ふるは、其の異域に羈縻され、兵虜と目せらるるに比し、孰れか愈れるか。」牙吾塔其の事を奏す。十月、詔して時青に銀青栄禄大夫を加え、滕陽公に封じ、仍って本処兵馬総領元帥・兼宣撫使と為す。時青潜かに表を上りて陳謝し、復た邳州を以て請ふ。枢密院奏す、「恐らくは時青の意は止だ邳州を得んと欲するのみ。牙吾塔に諭すべし、若し時青誠実に来帰せば、即ち当に之を授くべし。如し其の詐を審らかにせば、人をして宋境に入り、往来の言及び援くる所の官爵を宣佈せしむべし。亦た行間の術なり。」時青既に邳州を得ず、復た宋の為に守る。

興定五年正月二十五日夜、時青泗州西城を襲ひ破り、提控王禄害はる。是の時、時全同簽枢密院事と為る。朝廷時青の西城を襲ひ破りしを知らず、止だ宋人と称するのみ。詔して時全をして往きて泗州の兵を督し西城を取らしむ。時全泗州に至り、紅襖賊一人を獲たり。詰問するに、乃ち時青宋の京東鈐轄と為り、西城を襲ひ破りしを知る。時全頗る喜び、乃ち其の人を殺して以て口を滅す。牙吾塔昼夜力戦し、死士を募りて梯衝を以て城に逼り、時青兵を縋り出して拒ぐも前に得ず。牙吾塔提控王応孫を遣はして城を穴らしむ。東北隅に及び、時青夜兵を出して来襲す。撃ちて却く。二日を越え、復た出で又却く。城を攻むること益々急なり。時青舟兵二千を以て城中の兵に合し来たりて牙吾塔の営を犯す。提控斡魯朵先づ知り、伏兵を設けて掩撃し、時青の兵大いに敗れ、淮水に溺れて死する者千人、是より後復た出でず。王応孫城を穴らして将に城中に及ばんとす。時青地を隧きて薪を然し、逼り出だす。時青城に乗りて指麾す。流矢其の目に中る。余衆往々創せられ、楼堞相継ぎて摧壊し、城中恟懼し、遂に固き志無し。二月二十六日夜、時青衆を抜きて走り、遂に西城を復す。

元光元年二月、時全と元帥左監軍訛可、三路軍馬を節制して宋を伐つ。詔して曰く、「卿等重任、和せざるを致すこと無く、以て喪敗を貽すことなかれ。其の資糧取るべし。規取失宜して能く之を得ずは、罪は訛可有り。既に之を得て、能く運致して以て我が用と為さずは、罪は時全に有り。」時全と訛可潁・寿より進みて淮を渡り、高塘市に於て宋人を破り、固始県を攻め、宋の廬州将焦思忠の兵を破る。未だ幾ばくもあらざるに、生口を獲て言ふ、時青宋の詔を受け、時全の兵と相拒ぐと。時全其の事を匿す。

五月、兵還る。淮より二十里に距り、諸軍将に渡らんとす。時全矯めて密詔を称す「諸軍且く留まりて淮南の麦を収めよ」と。遂に令を下し人をして麦三石を獲しめて以て軍に給す。衆之に惑ふ。訛可及び諸将佐之を諫むるも聴かず。軍三日を留まる。訛可時全に謂ひて曰く、「今淮水浅狭、以て速やかに済ふべし。時に方に暑雨、若し暴漲に値はば、宋其の後に乗ずれば、将に完く帰るを得ざらん。」時全力を以て之を拒ぐ。従宜達阿、移失不、斜烈、李辛稍々平らかならず。時全怒りて曰く、「訛可一の帥のみ。汝曹之に党す。汝曹身を此に致すは、皆吾が力なり。吾は院官なり。汝曹に於て不可なること無し。」衆乃ち敢へて言はず。是の夜、大雨。明日、淮水暴漲す。乃ち橋を為りて軍を渡す。宋兵之を襲ふ。軍遂に敗績す。橋壊る。時全軽舟を以て先づ済る。士卒皆覆没す。宣宗乃ち詔を下して之を誅し、官を遣はして潰軍を招集す。詔して曰く、「大軍淮を渡り、毎に功效を立つ。諸将謬誤し、部曲散亡し、流離憂苦す。朕甚だ閔む。各々旧営に帰り、勉めて自ら効ふことを図れ。」又詔して曰く、「陣亡の把軍品官の子孫、十五以上の者は品官子孫の例に依り局に随ひて承応し、十五以下十歳以上の者は品に従ひ局に随ひて俸を給し、成人に至りて本局に差使す。子孫無き官は、例に依りて俸を給す。贈官・賻銭・軍人の家口養贍すべき者は、並びに旧制の如し。」

賛に曰く、金章宗季年より、宋の韓侂冑難を構へ、隣境の亡命を招誘して以て中原を撓す。事竟に成ること無し。而して青・徐・淮海の郊、民心一たび揺ぐ。歳饑饉に遇ひ、盗賊蜂起し、相為に長雄し、又自ら屠滅し、害無辜に及び、十余年糜沸息まず。宣宗難を靖むるを思はず、復た宋を伐つ挙を為し、金の亡ぶるに迄り、其の禍尤甚だし。簡書の載する所、国用安・時青等の遺事、今に至るも仁人君子之を読んで猶ほ終日頞を蹙む。当時の烝黎、釜中の魚の如し。其れ何を以てか自ら存せん。兵は兇器なり。金は兵を以て国を得、亦兵を以て国を失ふ。慎まざるべけんや、慎まざるべけんや。