金史

列傳第五十四:徒單兀典 石盞女魯歡 蒲察官奴 內族完顏承立

徒單兀典

徒單兀典は、その出自を知らず、累官して武勝軍節度使となり、鄧州に駐屯した。まもなく中京留守に遷り、金昌府事を知り、洛陽らくように駐在した。鄧及び洛陽を兀典は皆城壁で固め、かつ亡命の徒千人を招き、「熊虎軍」と号し、南辺を掠奪することを事とした。宋人もまた時々報復し、辺境の民はこれによって騒動した。兀典の資質は深刻で、かつ大を以て自ら任じ、耳目を設けることを好み、凡そ諸将の官属以下及び民家の細事に至るまで、親昵の者に命じて日々これを報告させ、欺かれざることを務めた。正大年間、兵部尚書を以て参知政事を権め、徐州において行省事を行った。君寵を得たことを恃み、論議の際、少しも寛容を示さなかった。同列は皆これを畏れた。

天興元年正月、朝廷は大兵が饒風に入ったと聞き、兀典を行省閿鄉に移し、潼関を備えさせた。徒單百家を関陝総帥とし、便宜行事を許した。百家は馳せて陝に入り、州民に榜示して云う、「淮南より軍馬が漏れ出し、その道が潼関を経由することを慮り、勢い守り難くば、県鎮は大城に遷入し、糧斛輜重はこれを陝州に集め、山に近き者は山寨に入り兵を避けよ。」時に阿裏合が旨を伝えて兀典に入援を召すに会い、兀典は遂に潼関総帥納合合閏、秦藍総帥都点検完顏重喜、安平都尉苗秀、蕩寇都尉術甲某、振武都尉張翼及び虎威、鷹揚、葭州劉趙二帥とともに、軍十一万、騎五千を率い、秦藍諸隘の備えを尽く撤去した。虢より陝に入る。同、華、閿鄉一帯の軍糧数十万斛、関船二百余艘を備え、皆順流して東下した。俄かに大兵近しと聞き、糧は皆載するに及ばず、船は悉く空しく下った。また州民を尽く起し、霊宝、硤石の倉粟を連ね、遊騎至り、殺掠は数え勝たず。また陝州観察副使兼規措転運副使抹撚速也を遣わし、船八十を以て潼関、閿鄉の糧を運ばしめ、行くこと霊宝北河夾灘に及ぶ。義軍の張信、侯三は壮士三百余を集め、老幼を保ち、水柵を立てた。北将忽魯罕只は浅瀬を乗じてこれを攻めたが克たず、速也の船の至るに遇い即ち降り、大兵はこの船を得て遂に侯、張を破り、殺戮すること殆んど尽きた。

この時陝州同知内族探春は行省の征進に従うことを願い、兀典はこれに帥職を授け、在城の民を募って軍に充てることを聴した。探春は官賞を厚く擬した。数日一人も無く、乃ち兀典の命を以てこれを招き、壮士八百を得た。宣差趙三三名偉もまた探春に依って招募し、偉は人の識知する所、二日にせずして軍八百余を得、「破敵軍」と号した。兀典は偉が衆を得たことを忌み、詐りを挟んでこれを坑めんと欲した。完顏素蘭この時同華安撫使たり、力諫して乃ち止む。まもなく偉を以て興宝軍節度使を権め、兼ねて行元帥府事を行い、軍三百を領し、金鶏堡に屯した。大兵は即ち潼関が焚棄されたことを知り、長駆して陝に至る。賀都喜は命を待たず出城迎戦し、馬蹶つて幾ばくも捕らえられんとす、兀典は一馬を以てこれを換え、遂に令を下して復た一人を出さしめず、大兵もまた去る。ここに至り潼関諸渡の船筏俱に尽き、偉もまた渡るべき船無し。

初め、兀典は閿鄉を発するに当たり、天を拝し、軍を賞し、人ごとに白金三両、将校は差等あり。州の庫蔵、軍資器械、これがために一空となる。期日を定めて進発せんとし、已にして行わず、日々銀器及び兵幕牌印を造り、陝州及び塩司の牌もまたこれを奪取す。また州民の財物を却けて以て軍に資せんと欲し、素蘭これを諫めて止む。二月戊午、乃ち行く。李先生という者有りて諫めて曰く、「方今大兵俱に河南に在り、河北空虚なり、相公は先ず衛州を取るべく、その不意に出づ。彼我が軍の北に在るを知らば、必ず兵を分かちて北渡せしめ、京師即ち少しく寛かならん、相公の入援もまた易きを為さん。」兀典大いに怒り、軍機を泄らすと為し、これを市に斬り、遂に行く。軍士各おの老幼を以て自ら随う。州中にもまた関中、河中より遷避する商賈老幼有り、また兵力に倚りて従行し、婦女は皆士卒に嫁ぎ、軍中にもまた強娶奪う者有り。この日、軍は両東門及び南門より出で、洛陽路に遵わず、乃ち州西南より径ちに大山の冰雪中に入る。葭州劉、趙両帥は即日叛き去り、大兵は数百騎を以て遥かにその後を躡う。明日、張翼の軍は叛きて硃陽に往き、鹿盧関に入り、大兵追い及びこれを降す。山路積雪、昼日凍解け、泥淖脛に及び、軍に随う婦女は幼稚を棄擲し、哀号路に盈つ。軍鉄嶺に至り、大兵は潜かに洛陽の大軍を召して西三県より盧氏を過ぎしめ、至る所官民の廬舍積聚を焼き、金軍に占拠されるを慮り、また反って鉄嶺を守り、以て帰路を断つ。金兵は必死なるを知り、皆闘志有り、然れども已に数日食わず、行くこと二百里許、困憊して支えず、頗るまた散走す。ここにおいて完顏重喜先ず降り、大軍これを馬前に斬る。鄭倜は苗英を劫いて降らしめんとし、英従わず、これを殺し、その首を携えて以て降る、ここにおいて士卒大いに潰く。兀典、合閏は数十騎を提して山間に走る、追騎これを禽え得て、皆殺す。先に、兀典嘗て鄧州節度使たりし時、世襲謀克黄摑三合この時宣差都総領たり、兀典と親厚なりし故に、決計して鄧に入らんとす。この役に、安平、蕩寇、鷹揚、振威の諸都尉、及び西安、金鶏等の軍、脱走する者百にして才に一二。

二月、素蘭は竄帰し、徒單百家に報ずる有りて「行省至る」と、百家は出迎えんと欲す、父老馬前に遮り哀訴して雲く、「行省復た来らば、吾が州砕けん、願わくは出迎え無かれ。」百家これを曉して曰く、「前日の兀典は、この州を劫わんと欲し、素蘭の力諫にて止む、この行省は兀典に非ず、乃ち素蘭なり。」父老乃ち百家の出城を聴す。陝州は軍の出でしより、日々逃還する者有り、百家は皆これを撫納し、得る所万人に及ぶ。百家また募って棄てられたる甲仗を収めしむ。若し二副を獲ば、即ち一をこれに与え、その一は官直を出してこれを買う、ここにより軍稍々振るう。

五月、総帥副点検顏盞は軍を領して復た商州総帥を立てる。華州の人王某は虢州を立て、権刺史と為る。七月、制旨は百家に入援を召し、権西安軍節度使、行元帥事阿不罕奴十剌を以て金安軍節度使、関陝総帥と為す。

九月、鞏昌知府元帥完顏忽斜虎は陝州に入り、詔して参知政事を拝し、行尚書省事を行わしむ。河中総帥府経歴李獻能を以て左右司員外郎に充つ。獻能は字を欽叔と云い、貞祐三年の進士なり。復た山寨を立て、軍民を安撫す。十月朔、制旨は忽斜虎を召して南陽留山寺に赴かしめ、阿不罕奴十剌を以て権参知政事と為し、行省を行わしむ。

時に趙偉は河解元帥たり、金鶏堡に屯し、軍務は陝省に隷し、行省は月ごとに糧を与えてその軍を贍う。明年五月、麦熟す、省劄は偉に兵食を計置せしめ、権めて月給を罷む。十月、偉の軍食また尽き、屡々陝省に白すも、雲く糧無くして給すべしと、偉は私かにその軍に謂いて言う、「我と李員外郎とは隙有り、坐して我が軍の饑餓するを見、存恤を為さず。」ここにおいて自ら永寧に往きて勧喻す、偉は頗る小民に信ぜられ、往々糧を献じ、或いはその蔵を発するを導く。南県の把隘軍提控は偉の横恣を以て行省に言う、行省は趙提控なる者を遣わして権元帥と為し、永寧元村寨を守らしめ、偉は金鶏に還る。

十一月冬至の頃、大軍は既に元村寨を攻め落とし、偉は解州を攻めたが陥落させられず、そこで密かに総領王茂に兵士三十人を率いさせて陝州に入らせた。彼らは菜園の中に三、四日潜伏し、夜に乗じて、王茂が北城の巡邏兵を殺し、合図を挙げて偉の軍八百を呼び寄せ、河を渡って城に入り、阿不罕奴十剌、李献能、提控蒲鮮某、総領来道安を襲撃して殺害した。そして虚偽の上奏をした:「奴十剌らが謀反を企てたので、臣が誅殺しました。」朝廷はその冤罪を知りながらも敢えて詰問せず、そのまま偉を元帥左監軍に任じ、西安軍節度使を兼ねさせ、総帥府事を行わせた。食糧が尽きた。粟を徴発したが、粟もまた尽き、翌年三月に大軍に降った。ある者は、偉の軍が兵糧の補給が続かず、掠奪を以て自らを養っていたと言い、ある日李献能の所へ赴くと、献能はそれをけちって言った:「従宜(偉)が敵を破るのは容易ではない。」これによって恨みを抱いた。そこで奴十剌が宴飲して守備を怠っているのに乗じ、死士二十八人を選び、夜に後河灘から城を越えて登り、餅焼き窯の石礫を取って屋根瓦や門扉に投げつけ、矢鏃の音のようにした。州人は叛軍が多いと疑い、敢えて動かず、遂に門を開いて軍を迎え入れた。行省以下の官属二十一人を殺し、献能は最も恨まれていたので、被害が特に残酷であった。

偉の変乱の際、絳州録事張升(字は進之、大同の人、戸工部令史の出身で、かつて漁陽の主簿を務め、絳州録事に遷った)は、知人に言った:「私はもとより小人物であるが、国家の官禄を受けており、今日国家が不幸に遭っているのに、私は反賊に従うことはできない。」言い終わると、水に赴いて死んだ。岸上の数百人皆が嘆き惜しんだ。

及び、徒単百家が鄭西で敗れた時、単騎で間道を数百里行き京に入った。上(皇帝)に兀典らが鉄嶺で敗れた状況を述べた。そこで重喜、合閏、兀典の家財を没収し、兀典を罪の首魁として暴き、大通りに榜示した。

石盞女魯歡

石盞女魯歡、本名は十六。興定三年、河南路統軍使として元帥右都監となり、平涼元帥府事を行った。先に、陝西行省胥鼎が言上した:「平涼は西辺を制御し、実に要地である。都監女奚烈古里間は材識凡庸で、軍務に通じておらず、かつ入粟によって官を補い、遂に昇進任用され、重兵を握り、方面を担当しているが、どうして衆を服させられようか。防秋が目前に迫っている。才謀あり、宿望があり、兵を将いるのに長けた者を選んで代えるべきである。」故に女魯歡を以てこれに命じた。

十一月、女魯歡が上言した:「鎮戎の赤溝川は、東西四十里、地に険阻がなく、夏人の往来の衝に当たり、近頃屡々侵突し、金兵は常に利を得られない。来年春、鎮戎に城を築けば、彼らは必ず出兵して撹乱してこよう。二、三月の間に傍郡の兵を徴発し、防護を声言し、且つ鄜州、鞏州に各々境上に兵を屯させて進伐の勢いを示し、その肘腋を制すべきです。臣が平涼の衆を率い、鎮戎から入り、その心腹を攻めます。彼らは自らを救うのに暇がなく、どうして我が方に及べましょう。このようにすれば鎮戎に城を築くことができ、彼らもまた敢えて来犯しません。また、所在の官軍は多く河北、山西の失業者であり、その家族は県官(朝廷)に給与を仰いでおり、常に不足を患っています。鎮戎の土壤は肥沃で、かつ平坦です。臣の裨将の統べる者はほぼ八千人で、常に遷徙が定まらないことを病としています。もし荒田を与え、耕させ且つ戦わせれば、一方を禦備することができ、県官は費用を省き、食糧もまた足りるでしょう。その他の辺郡もまた一様に措置すべきです。」上はこれを嘉納した。昌武軍節度使に遷った。

元光二年九月、また言上した:「商洛は重地で、西は秦陝を制し、東は河南に接し、軍務が繁密である。才幹の士を選んで防禦使とし、帥職を摂行させてこれを鎮めるべきです。また、旧来より諸隘の守禦の官は、全て帥府が辟召任命してきたが、その辟召する者は多くその親昵であり、産を殖やし私を営み、専ら漁獵に事とし、及び交代で去る時になると、またも留保する。これが最も弊害の甚だしいものです。枢府に選挙させ、その弊を革すべきです。また、州の戍兵は饋運に難儀しており、やはり上記のように屯田すべきで、転輸の費用を免れます。」また言った:「毎年防秋の際、諸隘を守る者は数十人に過ぎず、余衆は全て保安、石門、大荊、洛南に屯して応援としているが、その間の距離は百里に遠く至り、倉卒の際どうして徴集できようか。隘に近く営を築き、現兵を移して居住させ、緩急に備えるべきです。また、南辺に設置された巡検十員、兵およそ千人、これは平時に奸細を詰問する者であり、既に大軍がある。全て罷去すべきです。」朝廷はおおよそこれを施行した。

正大九年二月、行枢密院事として帰徳を守った。乙丑、大元の将忒木泬が真定、信安、大名、東平、益都の諸軍を率いて攻めて来た。この日、雲がないのに雷が鳴り、『神武秘略』で占う者がいて、言った「その城は害なし」。人心はやや安まった。丁度慶山奴の潰軍も至り、城中でこれを得て、頗る闘志があった。己巳、提控張定が夜に出て敵営を斬り込み、数砲を発して帰還した。張定は平生より兵談を好み、女魯歡は自ら一軍を募ることを許し、提控とし、小試みで勝ったので、上下遂に恃みとして用いるに足るとした。初め砲が少ないことを患え、泥または煉瓦で作ろうとしたが、議する者は敵に軽んじられることを恐れ、再用しなかった。父老に、北門の西の一菜園で時に古砲を得ると言う者がおり、雲う、これは唐の張巡が埋めたものだと。これを掘ると、五千余りを得た。上に刻字があり、或いは「大吉」の字がある。大兵は昼夜城を攻め、南城外に駐営した。その地勢はやや高い。伝えられるところでは、安祿山の将尹子奇がここで張巡、許遠を攻め、睢陽を得たという。時に経歴冀禹錫及び官属王璧、李琦、傅瑜が極力守禦し、城は陥落しなかった。

大軍が城を包囲した時、鳳池大橋の水を決めて城を護ろうとした。都水官が言うには、去年河が敖游堌で決壊した時、水準で測量したが、その地は城中の龍興塔と同じ高さであり、もしこの口を決壊させれば、城は無くなってしまうと。大兵が至った時、已むを得ず招撫陳貴を遣わしてこれを決壊させようとしたが、門を出たばかりで、遊騎に掠奪され、一人も帰還しなかった。三月壬午朔、城を攻め落とせず、大軍の中に河を決壊させる策を献じる者がおり、主将がこれに従った。河が既に決壊すると、水は西北から流れ下り、城の西南に至り、故き濉水の水路に入り、城は却って水を以て固めとなった。献策者を探して殺そうとしたが、所在が分からなかった。四月、女魯歡を総帥とし、金虎符を佩かせた。司農司を罷め、その官蒲察世達を集慶軍節度使、行六部侍郎とした。温特罕道僧を帰徳府同知とし、李無党を府判とした。五月、城の包囲がやや緩み、民を多く城外に移して食を求めた。

十二月、哀宗が黄陵岡に駐蹕し、奉職術甲搭失不、奉職権奉御粘合斜烈を遣わして帰徳に糧食を徴発させた。女魯歡は侍郎世達、治中王元慶権郎中、儀封従宜完顔胡土権元帥を遣わし、千五百石の糧食を積んだ船を護送させた。今月晦日の二更に船を出発させた。二年正月、蒲城の東二十里に到達した。六軍の糧食供給が尽きたため、船を留めて帰還を許さず、且つ張布で幄を造らせ、上(皇帝)は遂にこの舟を用いて渡河した。

及び上(哀宗)が帰徳に来た時、従駕の軍は往々にして城を出て糧食を求めた。当時城中には馬用の一軍のみが止まり、近く七百人であった。用は山西の人で、李辛と同郷であり、かつて辛の軍の弾圧を務め、帰徳において権果毅都尉となり、車駕が至ると、帥職を授けられた。この軍の外にまた官奴の忠孝軍四百五十人があった。河北の潰軍が至った者は皆放ち遣わされたので、故に城中には惟だこの両軍のみであった。上は時に用を召して事を計らったが、官奴には及ばなかったので、故に官奴は異心を抱いた。朝廷は両人の不和を知り、変が生ずることを恐れた。三月戊辰、制旨を以て宰相に命じて省中に錫宴を設け、これを和解させた。この夜、用は備えを撤き、官奴は兵を以てこれに乗じて乱を為した。明日、用の軍を攻め、用は敗走して殺され、衆は城を下りて水に投じ船を奪って去る者、斯須にして尽きた。官奴は双門におり、知府の女魯歓を駆り至らせ、言うには「汝は車駕が府に到着して以来、上供を給せず、好醬も亦与えず、汝の罪は何と弁じる」と。遂に一馬にこれを載せた。軍士に命じてその家に擁し至らせ、その家の雑醬凡そ二十甕を検め、且つ所有の金具を出だし、然る後にこれを殺した。即ち兵を提げて入見し、言うには「石盞女魯歓等は反し、臣これを殺しました」と。上は已むを得ず、就いてその罪を赦し、且つ女魯歓の悪を暴いた。後にその甥の大安が蔡に入り、上言して湔雪を求め、上はその官を復し、語は烏古論鎬伝にある。

禾速嘉兀底が女魯歓に代わって総帥となったが、軍変が起こり、官奴は兀底を害する意がなく、二卒を遣わしてこれを召し、道中で官奴に善意のあることを告げた。兀底は喜び、各々に金十星を与え、共に官奴に会った。二卒はまた金を受けた事が漏れることを恐れ、亦これを殺した。

初め、河北の潰軍が帰徳に至り、糧餉が給されなかった。朝廷は孛術魯阿海に行総帥府事を命じ、親軍武衛を皆これに隷属させた。宿州に往き就食せしめたが、軍士に願わざる者があり、道中で誶語した。朝廷はこれを聞き、使いを遣わしてその故を問わしめた。或いは京に入るか陳州を願うと言い、阿海はその願いに従うことを請い、券を以てこれを給し、軍心稍々定まった。既にして誶語した者を求めさせ、阿海は四人を得て、国子監の前でこれを斬った。これにより諸軍は洶洶たるものがあった。二月庚子の夜、府民の武邦傑及び蒲察咬住等凡そ九家を劫い、一軍は遂に散った。数日にして、遂に官奴の変があった。

蒲察官奴

蒲察官奴は、少時に嘗て北兵に虜われ、河朔を往来した。後に奸事を以て燕城の獄に繋がれ、夏津に劫走し、回紇の使者を殺して鞍馬資貨を得、即ち自ら抜けて帰った。朝廷はその種人を以て、特恩を以て忠孝軍万戸に収め充てた。この軍は月給甚だ厚く、官奴は日々群不逞と博し、有司に劾せられた。事が聞こえ、その新たに河朔より来たり、法禁を知らざるを以て、詔して問わず。

移剌蒲阿が平陽を攻め、官奴は行くことを請い、功を論じて第一となり、本軍提控に遷り、金符を佩びた。三峰山の敗に、襄陽に走り、宋の制使に説いて鄧州を取って自ら効を為さんことを以てし、制使はこれを信じ、至ってこれと同燕飲した。已にして汴城の攻撃が罷むを知り、再び北帰を謀った。移剌留哥を鄧に入らせ、鄧帥の粘合を説き、南軍を劫って北帰の計と為さんと称した。留哥は情を以て粘合に告げ、官奴は継いて騎卒十余を率いて城に入り議事し、粘合は甕城中に就いてこれを擒えんとした。官奴は事の泄るるを知り、即ち馳せ還り、制使に会って騎兵五百を得、鄧の辺面小城を掠め、牛羊数百を獲、宋人は疑わなかった。官奴は宋軍を掩って馬三百を得、鄧州城下に至り、移書して粘合に理の屈直を弁ぜしめ、馬を鄧に留めて去った。乃ち忠孝軍提控の姬旺を縛り、詐って唐州太守と為し、械送して北行せしめ、営帳に随って供給を取り、因って汴に入ることを得た。その南北の軍に出入りし、数千里を行くも懾れざる有り、その智略に取るべきもの有りと言う者がおり、宰相は然りと為し、乃ち権副都尉と為した。未だ幾ばくもせず、軍数百を提げて馳せ北軍の獵騎の中に入り、生け捕りに一回紇を挟んで還った。遂に黄陵・八穀等の処を巡り、牛羊糧資を劫うこと甚だ衆く、尋いで正都尉に転じた。又軍を以て黄陵に至り、幾ばくも鎮州の大将を獲んとし、ここにおいて中外皆以て用いるべきと為し、遂に元帥に拝し、馬軍を統べた。

天興元年十二月、哀宗に従って北渡した。上は黄陵岡に次ぎ、平章の白撒が諸将を率いて戦い、官奴の功が居多かった。及び河朔を渡り、惟だ官奴の一軍のみ号令明肅にして、秋毫も犯さず。明年正月、上は帰徳に至った。知府の石盞女魯歓は軍衆にして食寡きを以て、給し能わざるを懼れ、上に請い、河北の潰軍の至る者をして徐・宿・陳の三州に就食せしめ、親衛軍も亦遣わし出城して就食せしめ、上は已むを得ずこれに従った。乃ち官奴を召諭して曰く「女魯歓は衛兵を尽く散ぜしむ、卿は小心たるべし」と。

この時、惟だ官奴の忠孝軍四百五十人、馬用の軍七百人が府中に留まった。用は本果毅都尉であり、上が帰徳に至って始めて元帥に昇り、又嘗てこれを召して事を謀ったが、官奴には及ばなかったので、故に官奴は始めて用を図るの志を抱いた。この時、大元の将忒木泬が帰徳を攻めた。官奴は既に兵柄を総べ、密かに国用安と謀り、上を邀えて海州に幸せんと欲した。及び近侍局直長の阿勒根兀惹が用安を使わして回らせ、奏帖を附し、海州に就いて山東の豪傑を以て恢復を図るべきと謂い、且つ已に舟楫を具え、遼東に通ずべきと。上は奏を覧て従わず。又嘗て上に北渡を請い、再び恢復を図らんとしたが、女魯歓がこれを沮んだ。ここより異心有りとなった。且つ一軍は外兵に倚りて肆に剽掠を為し、官奴はこれを禁じなかった。ここにおいて、左丞の李蹊・左右司郎中の張天綱・近侍局副使の李大節俱に上に為って官奴に反状有りとを言った。上は窃かにこれを憂い、馬軍総領の紇石烈阿裏合・内族の習顯に陰にその動静を察せしめ、朝臣と言及するや、則ち曰く「我は官奴を微賤の中より起して大帥と為す、何を負いて反せんや。卿等は過慮すること勿れ」と。阿裏合・習顯は官奴が漸く制し能わざるを知り、反って上意を泄らした。上は亦官奴・馬用の相図り、因って乱を為すを懼れ、宰執に命じて酒を置きてこれを和解せしめた。用は備えを撤く。俄かに官奴は隙に乗じてその軍を率いて用を攻め、用の軍は敗走した。官奴は乱を為して軍民を殺し、卒五十人を以て行宮を守らせた。朝官を劫いて皆都水の毛花輦の宅に聚め、兵を以てこれを監した。参知政事の石盞女魯歓を駆りその家に至らせ、悉く所有の金具を出だし、然る後にこれを殺した。乃ち都尉の馬実に甲を被り刃を持たせて直長の把奴申を上面前に劫わしめ、上は初め剣を握ったが、実を見て、剣を地に擲ちて曰く「我が為に元帥に言え、我が左右には此人あるのみ、且つ留めて我に侍らしめよ」と。実は敢えて迫らず、逡巡して退いた。凡そ朝官左丞の李蹊以下三百余人を殺し、軍将・禁衛・民庶の死者三千。郎中の完顏胡魯剌・都事の冀禹錫は水に赴いて死した。

禹錫は字を京甫といい、龍山の人である。至甯元年の進士で、仕えて州郡に歴り能声有り。帰徳が兵を受けると、禹錫は行院都事となり、経画寧禦して一府の倚重と為った。変を聞き、或いは微服を以て免れんことを勧めたが、従わず、害せられた。

この日蒲暮、官奴は兵を提げて入見し、言うには「石盞女魯歓等は反し、臣これを殺しました」と。上は已むを得ず、その罪を赦し、枢密副使・権参知政事と為した。

初め、官奴の母は、河北の軍が潰れた際に、北兵に捕らえられた。この時、上(哀宗)は官奴に命じてその母を利用して計略をもって和を請わせたので、官奴は密かに忒木泬と和議を協議し、阿裏合を行かせて言わせ、上を劫略して降伏させようとした。忒木泬はこれを信じ、その母を返還し、そこで和議の計略を定めた。官奴は日々往来して講議し、あるいは舟に乗って中流で会飲した。その遣わしてきた使者は二十余人で、皆女直・契丹の人であった。上は密かに官奴に命じて金銀牌を与え、営に還らせないようにした。これによって王家寺の大将の所在を知ったので、官奴は昼間に敵営を襲撃する策を画策した。先に、忠孝軍都統の張某という者が、官奴が決意して上を劫略し北に降らせようとしていると言い、そこで本軍百五十人を率いて官奴の邸宅を包囲し、これを責めて言うには、「汝は主上を献じようとするが、我々は皆大朝(蒙古)に赦されざる者である。どこに安んじて帰ろうというのか」と。官奴は恐れ、そこでその母を人質に出し、言うには、「汝らがもし我が母が北中から来たので、私が北と謀りがあると疑うなら、即ちこれを殺せ。私は恨まない」と。張某の気持ちは少し解け、やがて好語をもってこれと約して言うには、「果たして参政(官奴)の言う通りなら、今後再び講和を言うな。北の使者が来れば、即ちこれを殺すべし」と。官奴は言う、「殺してもよい、殺さなくてもよい、奏上して殺してもよい」と。張某はそこで退いた。官奴は即ち軍を北草場に集め、自ら反逆の情はないと言い、今は再び疑うなと言った。そこで敵営襲撃の策を画策した。

五月五日、天を祭る。軍中に火槍の戦具を密かに準備し、忠孝軍四百五十人を率い、南門から舟に乗り、東より北へ、夜に外堤の邏卒を殺し、遂に王家寺に至った。上は北門に御し、舟を繋いでこれを待った。勝たぬことを慮り、徐州に入って遁走しようとした。四更に接戦し、忠孝軍は初め少し退いた。再び進むと、官奴は小船で軍を五七十に分けて柵外に出し、腹背からこれを攻めた。火槍を持って突入し、北軍は支えることができず、即ち大いに潰れ、水に溺れて死んだ者は凡そ三千五百余人、その柵を全て焼き払って還った。そこで官奴を真に参知政事・兼左副元帥に拝し、なお御馬を賜った。

槍の制は、敕黄紙十六重を筒とし、長さ二尺余り、柳炭・鉄滓・磁末・硫黄・砒霜の類をたし、縄で槍の端に繋ぐ。軍士は各々小鉄罐を懸けて火を蔵し、臨陣にこれを焼き、炎は槍の前丈余に出て、薬が尽きても筒は損なわれない。汴京が攻められた時、既に嘗て用いたことがあり、今またこれを用いた。

兵が既に退くと、官奴は亳州に入り、習顯にその軍を総べさせて留めた。上は照碧堂に御し、一人として敢えて奏対する者なく、日々悲泣して言う、「古より亡びざる国なく、死なざる君なし。ただ恨むらくは我が人を用いるを知らざるを、故にこの奴に囚われたるのみ」と。ここにおいて、内局令の宋乞奴と奉禦の吾古孫愛実・納蘭忔答・女奚烈完出が密かに官奴を誅することを謀った。あるいは言うには、官奴が密かに兀惹に命じて国用安を計略で陥れ、上に迫って位を伝えさせ、山東を恢復しようとした。事成らざれば則ち上を宋に献じ、反復の罪を自ら贖おうとしたと。官奴は己未の日に亳州へ往き、辛酉の日にこれを召し還したが、至らなかった。再び召すと、六月己卯の日に還った。上は蔡州へ幸する事を諭すと、官奴は憤憤として出で、腕を扼み足を頓ずるに至り、その意趣は測り難かった。上はこれを誅することを決意し、遂に内侍の宋乞奴と処置し、裴満抄合に命じて宰相を召し議事させ、完出に照碧堂の門間に伏せさせた。官奴が進見すると、上は参政と呼び、官奴は即ち応えた。完出が後からその脇を刺し、上もまた剣を抜いてこれを斬った。官奴は創を受け階下に投じて逃げようとしたが、完出が忔答・愛実に叱咤して追い殺させた。

忠孝軍が難を聞くと、皆甲を擐い、完出は上に親しく慰撫することを請うた。名を呼んで李泰和とし、虎符を授けて軍を労わらせに行かせ、そこで范陳僧・王山児・白進・阿裏合を召した。進が先に至り、堂下でこれを殺した。阿裏合は途中でその事を覚り、発するの遅きを悔い、乱箭に射られて死んだ。乞奴・愛実・忔答は皆節度使・世襲千戸を授けられ、完出は兼ねて殿前右衛将軍とし、范陳僧・王山児を忠孝軍元帥とした。ここにおいて、上は双門に御し、忠孝軍を赦して反側を安んじた。崔立を除いて赦さず、その他常に赦さざる者を咸く赦した。

初め、官奴が睢陽の包囲を解いた時、侍従の官属は久しく饑窘に苦しみ、蔡州の城池が堅固で兵衆が多く糧食が豊富であると聞き、咸く上に南幸を勧めた。ただ官奴のみは、嘗て点検の内族斜烈に従って蔡州を過ぎたことがあり、その備禦が睢陽に及ばないことを知っていたので、力爭して不可とし、故に衆に号して言う、「敢えて南遷を言う者は斬る」と。衆は官奴を君無しとし、上に早く計らうことを諷し、その変に会い、遂に計略をもってこれを誅した。後に烏古論蒲鮮を蔡州に遣わすと、還って言うにはその城池・兵糧は果たして恃むに足らずと。上は既に道中にあり、如何ともしがたかった。蔡州が兵を受けるに及んで、初めて官奴の言を用いざるを悔い、特詔して尚書省にその母妻の糧食を月給させ、失所せざらしめた。

習顯は既に官奴に与し、一日に忠孝軍を率いて官庫の金四千両を劫略した。上は命じて帰徳治中の温特罕道僧・帥府経歴の把奴申に審問させ、顯は罪に伏して獄に下った。官奴の変の時、顯は脱走し、総領の完顔長楽を宮門で殺し、道僧・奴申をその家で殺し、遂に亳州に奔った。官奴が誅せられた後、詔して点検の阿勒根阿失答に即ち亳州で顯及び忠孝軍の首領数人を斬らせた。兀惹が国用安を使わして未だ還らず、中路で伺い、その罪を数えてこれを殺した。

完顔承立

内族の慶山奴、名は承立、字は献甫、統軍使拐山の子、平章白撒の従弟なり。人となり儀観甚だ偉く、而して内は恇怯にして所有するところ無し。至寧の初め、宣宗が彰德より闕に赴く時、慶山奴は台城で迎え見えた。宣宗は喜び、先に還って中都の変を観させた。宣宗が即位すると、承立を西京副留守とし、権近侍局直長とし、官五階を進め、銭五千貫を賜い、且つ詔して曰く、「汝は此の職を授かるといえども、姑く留まって朕に侍れ。闕に遇えばこれに赴け。仍って汝に副留守の禄を給す。此れ朕の特恩なり。宜しく知悉すべし」と。貞祐の初め、武衛軍副都指揮使に遷り、兼ねて提点近侍局とす。胡沙虎が専権僭窃するを、嘗て宣宗にこれを言い、後に胡沙虎が誅せられると、慶山奴は愈々寵倖を見、殿前右副都点検とした。三年、大元の兵が中都を囲むと、詔して慶山奴を宣差便宜都提控とし、率いる所募の兵を往かせて援けさせた。俄かに元帥右都監とし、行帥府事、兼前職とす。四年、慶陽府事を知り、兼ねて慶原路兵馬都総管とし、獲たる所の馬駝を進上すると、詔諭して曰く、「此れ皆軍士の得たる所なり。即ちこれを与うるも可なり。朕何ぞ用いん。後は復た進むることなかれ」と。因って令して諸道の帥府に遍く諭させた。

興定元年正月、大元の兵及び夏人が甯州を経由して引き返すと、慶山奴は兵を率いて邀撃しこれを破り、功により元帥左都監に進み、保大軍節度使を兼ね、鄜州において帥府事を行った。二年五月、夏人が歩騎三千を率いて葭州より侵入し、慶山奴は兵を率いてこれを迎え撃ち、馬吉峰において戦い、百余人を殺し、酋長の首級二つを斬り、数十人を生け捕りにし、馬三十余疋を獲た。三年四月、夏人が通秦寨を占拠すると、慶山奴は提控の納合買住を遣わしてこれを討たせた。夏人が歩騎二万で迎え撃つと、買住はこれを撃破し、夏人は葭盧川より遁走し、合わせて首級八百を斬った。間もなく再び攻めて寨を占拠したので、慶山奴は兵を率いてこれと戦い、首級千を斬り、その寨を奪回した。詔して慶山奴に金帯一を賜り、将士には賞賚に差等があった。四年四月、宥州において夏兵を破り、首級千余を斬り、遂に神堆府を包囲した。慶山奴は四方よりこれを攻め、士卒がまさに城壁に登らんとした時、援兵が大いに至り、再びこれを撃退した。

正大四年、李全が楚州を占拠すると、詔して慶山奴を元帥とし、総帥の完顔訛可とともに兵を将いて盱眙を守らせ、且つ城を守って出戦せぬよう命じた。やがて全軍が盱眙の境界に至ると、二帥は敵を迎え撃って大敗し、死者万余人、資材兵器の委棄甚だ多く、当時軍中に現存の糧食なく、転輸続かず、民は奔命に疲れ、愁歎路に満ちた。諸相は正言を肯んぜず、枢密判官の白華が章を奉ってこれを斬り以て天下に謝すことを乞うたが、報いられなかった。定国軍節度使に降格とされ、また賄賂を受けたことにより一官を奪われた。

八年正月、鳳翔が陥落すると、両行省は京兆の居民を河南に移し、慶山奴に行省としてこれを守らせた。当時京兆行省には病卒八百、痩馬二百があるのみで、承立は守り切れぬことを恐れ、しばしば上奏して還還を請うた。奏上するごとに、その兄の白撒の書状一通を添え、取り計らうよう頼んだが、朝廷は許さなかった。十月、慶山奴は京兆を棄てて朝廷に戻り、同知乾州軍州事・保義軍提控の苟琪を留めてこれを守らせた。慶山奴が閿郷に至ると、哀宗は近侍の裴満七斤を遣わし、黄陵岡従宜を授け、入見を許さなかった。間もなく、徒単兀典に代わって徐州において行省事を行った。九年正月、徐州より兵を率いて入援し、精鋭一万五千を選び、徐帥の完顔兀論とともにこれを統率し、帰徳に向かわんとした。義勝軍総領の侯進・杜政・張興等が率いる所部三千人が大兵に降った。慶山奴は睢州に三日留まり進まず、大兵が将に至らんとするを聞き、この州は守れぬと恐れ、退いて帰徳を守った。二月、行いて楊驛店に至り、小乃泬の軍に遭遇した。遂に潰走した。兀論は戦死し、慶山奴は馬が躓いて捕らえられ、ただ元帥の郭恩・都尉の烏林答阿督のみが三百余人を率いて帰徳に走り帰った。大兵は一馬に慶山奴を載せ、擁迫して行き、道中で真定の史帥に会い、承立が問うて曰く、「君は誰か」。史帥言う、「我は真定五路の史万戸なり」。承立曰く、「是天澤か」。曰く、「然り」。曰く、「吾が国は既に残破せり、公はその生霊を念とせよ」。及び大帥の忒木泬に会うと、これを誘って京城を招かせんとしたが従わず、また偃蹇として屈せず。左右が刀を以てその足を折り斬ったが、また降らず、即座にこれを殺した。議する者は、承立が累敗しながらその軍職を解かれず、死して余責ありとしつつも、能く死を以て国に報いるは、亦た称すべきもの足るとした。

初め、睢州刺史の張文壽は大兵が将に至らんとするを聞き、傍県の居民を城内に移し、芻粟を大いに集めたが、固守の意はなく、日夜自らの便宜のために逃げることを謀った。やがて、承立が入援するを聞くと、即座に州事をその僚佐に付し、徐兵を応援することを託して、夜に関を開き妻子を連れて帰徳に走り、慶山奴はこれを行部郎中としたが、楊驛で死んだ。間もなく大兵が睢州を包囲し、主将無きが故に、甚だしく残破されたのである。

兀論は、丞相の賽不の甥であり、元光年間の例で諸帥を総領としたが、兀論は丞相の縁故によりただ一人罷免されなかった。金朝は近族を防ぎて疏属を用いたので、白撒・承立・兀論の輩は皆腹心として倚り頼まれたのである。

賛して曰く、官奴は平素より反覆の行いあり、忽ち南に忽ち北に、竜断の如し。哀宗は一旦これを腹心として倚り頼み、終にはこれに制せられ、照碧の処は、幽囚と何ぞ異ならん、その事は梁武と侯景と大同小異なり。徒単兀典・慶山奴は将として皆貪婪なり、数え多く敗北を取るは宜なり。女魯歓には大なる失行無かりしが、官奴のために死し、哀宗はなおその罪を暴く、冤なるかな。