完顏賽不
七月、上章して言う、「京都は天下の根本なり。その城池は宜しく極めて高深なるべし。今外城は堅しと雖も、然れども周囲六十余里、倉卒に警あれば拒守に難し。窃かに見るに城中有子城の故基あり、宜しく農隙に築きてこれを新たにし、国家の久長の利となすべし。及び凡そ河南・陝西の州府は、皆量りて修めんことを乞う」と。これに従う。
四年三月、詔を奉じて兵を出し河北を招降す。晋安権府事皇甫珪・正平県令席永堅、五千余人を率いて来帰し、糧万石を得たり。時に河北所在の義軍官民、堡寨を堅守し、力戦して敵を破る者衆し。賽不上章して言う、「この類は忠赤嘉すべく、もし旌酬せざれば以て人心を激すこと無からん。朝廷に量りて官賞を加えんことを乞う。万一敵兵復た来らば、将に争先して効用せん」と。上奏を覧し、樞密官を召して曰く、「朕と卿等もまた嘗てこの議有り。彼中の事勢を見ざるを以て、故に一に帥臣の規画に聴く。今この奏を観るに、甚だ朕が意に称う。その有司に令して遷賞せしめよ」と。是の年四月、樞密副使に遷る。
初め、源・徐が互いに攻め合い、郭野驢は毎度病を辞して行かず、賽不は遂に野驢に徐州節度副使を授け、兼防城都総領とし、実はこれを羈縻したのである。野驢は徐州が空虚なのを見るや、乃ち源州の叛将麻琮と約して内外相応じた。十月甲申、詰旦、襲って徐州を破った。時に蔡は既に包囲され、徐州の将士は朝命が阻絶し、且つ大兵に逼られ、降伏を出そうと議した。賽不は従わず、捕らえられることを恐れ、ここに至り河に投じて死を求め、流れること三十余歩にして沈まず、軍士が援け出した。また五日後、州の邸で自縊した。麻琮は乃ち人を遣わして州を以て大元に降った。
子の按春は、正大年中に護衛を充て、宗室の女と姦通した罪により、杖一百を受け収監された。許州に居たが、大兵が許に至ると、按春は南門を開いて降った。京師攻めに従い、曹王が人質として出ると、朝臣及び近衛で従って出る者がおり、按春は極口に罵り、指斥に至った。この冬、また北中より逃げ帰り、詔して省に押し入れ、事情を問わせた。按春は近侍に随い階を登り、涙を揮う様子をした。詔して丞相に問うて云う、「按春は北中より来たり、丞相よく彼の中の消息を問え」。賽不は附奏して曰く、「老臣不幸にしてこの賊を生み、事今日に至り、手ずからこれを刃することを恨む、どうして対面して語ることができようか」。十二月、車駕東狩し、留後の二相が開封を下し、捕らえて獄中で斬った。
賛して曰く、賽不は臨陣対壘において既に将略あり、鈞衡を秉るに及び、その楊居仁・侯摯等を救解する言を観れば、殊に相度あり、按春の事は特に古人の風有り。晩年に老病を以て、叛臣に制せられ、遂に匹夫匹婦の節を修めるに至る、これは猶お大廈将に傾かんとし、一木の能く支うる所に非ざるが如し、悲しいかな。
完顔白撒
未だ幾ばくもせず、権参知政事と為り、省事を平涼に行う。四年、上言す、「宋境山州宕昌東上拶一帯の蕃族、昔嘗て帰附し、徳順・鎮戎の間に分処せり。その後有司能く存撫せず、相継いで亡去せり。近く聞くに復た帰心有りと、然れども招かざれば亦自ら至る由無し。誠にその衆を得ば、以て兵を助け、一方を甯謐せしむべし。臣は同知通遠軍節度使事烏古論長寿及び通遠軍節度副使温敦永昌は皆本蕃の属にして、且つ久しく辺鄙に鎮し、深く彼の心を得たりと為し、已に命じて人を遣わしこれを招かしむ。その遣わす所及び諸来帰する者は、皆当に甄奨すべく、請うらくは予め賞格を定めて以てこれを待たん」。上その言を是とす。
この年、夏兵三万が高峰嶺より入寇して定西州を寇し、城を環らして柵と為す、白撒は刺史愛申阿失剌を行軍提控烏古論長寿・温敦永昌とともに出戦せしめ、大いにこれを敗り、首千余を斬り、馬仗甚だ衆を獲る。五年五月、白撒言う、「近く詔して臣に官を遣わし諸蕃族を諭して西夏を討たしむ、臣即ち臨洮路総管女奚烈古里間に計らわせて喬家丙令族の首領を約し以て余族を諭さしむ。又別に権左右司都事趙梅を遣わし差官遙授合河県尉劉貞を同じく往かしめて撫諭せしむ。未だ幾ばくもせず、梅・貞報じて溪哥城等処の諸族は、先降の族と共に兵七万八千余人を助けんことを願い、本国の蕃族は兵九千を助けんことを願う、若し更に官軍を以て継ぎ声援と為さば、夏に勝つこと必せり。臣已に古里間に鞏州の兵三万を将せしむ、宜しく更に勇略の臣を択びてこれを副うべし。梅・貞等は既に事勢を悉くす、当に軍前の職を以て仮すべし。蕃僧納林心波もまた招誘に功有り、乞うらくは官を遷し職を授けて以てこれを奨励せん」。上皆その請に従う。
先に、西夏兵数十万が龕穀・鄜延・大通の諸城に分かけて寇し、上(宣宗)は白撒らを召して方略を授け、兵を発してその浮橋を襲撃し、西涼に向かわせた。別に将を遣わして大通城を奪い、溪哥路より出て、西夏の地を攻略させた。白撒は徐々に鎮戎より出、合達は環州より出て、三道の役に報いた。白撒は馳せて臨洮に至り、総管女奚烈古里間・積石州刺史徒単牙武に各々帥職を摂らせ、兵を率いて西に入らせ、踏南寺において西夏兵千余と遭遇し、これを撃退した。西夏人は大通城を占拠していたため、これを包囲し、分兵してその橋を奪い、守兵七千人と戦い、これを大いに破り、その半数近くを殺し、河に入って死んだ者は数えきれず、残兵はその橋を焼いて西に遁走した。そこで軍を還して大通を攻め、これを陥落させ、三千を斬首し、ついで諸寺族の脅迫された僧俗人を招来し、皆従前のごとく安堵させた。河梁が既に焼かれたため、塞外は地寒く草少なく、師はついに還った。
十二月、行省が言うには、「近ごろ北より来たる者あり、国王木華里が兵を悉く渭に沿って西に進め、鳳翔を攻めんと謀り、鳳翔が既に下れば京兆を図り、京兆がついに得られなければ、兵を留めてこれを守り、春に至って二麦を蹂躙して我を困らせんとす、と称す。未幾、大兵果たして鳳翔を囲み、帥府は人を遣わして急を告ぐ。臣は二鎮は脣歯の関係にあると考える。鳳翔が蹉跌すれば、京兆必ず危うく、陝右大いに震動すべし。然れども平川広野は実に騎兵の馳騁する地にして、未だこれと鋒を争うべからず。既に提控羅桓に兵二千を将いて南山に沿って進ませ、隙を伺ってその柵塁を攻め、城囲を紓からしむ。更に河南の歩騎を発して潼関を備えんことを乞う。」詔して尚書省・枢密院にこれを議せしむ。
九年正月、諸軍三峰山にて敗績す。大兵は白坡の兵と合し、長駆して汴に向かう。令史楊居仁はその遠く至るに乗じてこれを撃たんことを請うも、白撒従わず、且つ陰にこれを怒る。ついに完顔麻斤出・邵公茂らに民万人を部し、短堤を開き、河水を決して、以て京城を固めしむ。功未だ畢わざるに騎兵奄至し、麻斤出ら皆害せられ、丁壮二三百人を得て返る者は無し。壬辰、衛州を棄て、守具を運びて京に入る。初め、大兵衛州を破り、宣宗南遷し、州治を宜村渡に移し、新城を河北岸に築く。河より数歩を去り、惟だ北面敵を受け、石を以てこれを包む。歳々重兵をここに屯し、大兵屡く至るも近づく能わず。ここに至り、これを棄つ。随って大兵に占拠せらる。
甲午、京城の楼櫓を修す。初め、宣宗は京城闊遠にして守り難しとし、詔して高琪に裏城を築かしむ。公私の力尽き僅かに成るを得たり。ここに至り、守る所を議す。朝臣に裏城決して守るべからず、外城決して棄つべからず、と言う者あり。大兵先ず外城を得れば、糧尽き救絶え、一人も出で走ること能わず。裏城或いは不測に用いるべし、と。ここにおいて外城を守ることを決す。時に在城の諸軍四万に満たず、京城周囲百二十里、人一乳口を守るも尚お遍くせず。故に避遷の民を召して軍に充てんことを議す。又、在京の軍官を上清宮に召し、平素防城に功を得たる者、内族按出虎・大和児・劉伯綱等の如きは皆随召して出で、長を截ち短を補い仮借して用い、百余りを得たり。又、京東西沿河の旧屯両都尉及び衛州の已に起ちし義軍を集め、通じて建威四万人を得、丁壮六万を益し、四城に分置す。毎面別に一千を選び、「飛虎軍」と名付け、専ら救応に当たらしむ。然れども亦軍と為す能わず。
三月、京城攻められ、大臣四面を分守す。白撒は西南を主とし、攻撃最も急なり。楼櫓垂成に就きて輒ち摧け、竹を取って護簾と為せと伝令す。所司馳せて城に入り大いに索すも、竟に得る所無し。白撒怒りてこれを斬らんと欲す。員外郎張袞、所司の耳に附して曰く、「金多ければ則ち済むなり、胡ぞ即ち平章府にこれを求めざる。」所司、金三百両を懐きて径ちに往き、その家僮を賂し、果たしてこれを得たり。
已にして兵退く。朝廷白撒を罷めんことを議す。白撒自ら安からず、乃ち令史元好問に謂いて曰く、「我賢路を妨ぐること久し、退くを得るは幸いなり、我がために致仕の表を撰せよ。」頃くして、上既に使を遣わし詔をその第に持至らしめ、致仕せしむ。既に廃せられ、軍士その戦わずして国を誤るを恨み、揚言してこれを殺さんと欲す。白撒懼れ、一夕数遷す。上は親軍二百を以て陰にこれが衛と為す。軍士その憤りを泄すすべ無く、遂に相率いてその別墅を毀ちて去る。その党の元帥完顔斜撚阿不、本部軍を領して汴に戍し、これを聞き径ちにその所に詣り、その垣下を経る者一人を斬りて以てこれを鎮む。
この時、速不泬等の兵は河南に散屯し、汴城の糧将に尽き、累たび援兵を召すも復た至る者無し。冬十月、乃ち復た白撒を起して平章政事・権枢密使・兼右副元帥と為す。ここにおいて、群臣上(哀宗)のために京を出づる計を画す。賽不を右丞相・枢密使・兼左副元帥とし、内族訛出を右副元帥・兼枢密副使・権参知政事とし、李蹊を兵部尚書・権尚書左丞とし、徒単百家を元帥左監軍・行総帥府事とす。東面元帥高顯、副は果毅都尉粘合咬住、兵五千。南面元帥完顔猪児、副は建威都尉完顔斡論出、兵五千。西面元帥劉益・上党公張開、副は安平都尉紀綱、軍五千。北面元帥内族婁室、副は振威都尉張閏、軍五千。中翼都尉賀都善軍四千、総帥百家に隷す。都尉内族久住、副都尉王簡・総領王福胤神臂軍三千五百、左翼元帥内族小婁室親衛軍一千、右翼元帥完顔按出虎親衛軍一千、総領完顔長楽・副帥温敦昌孫馬軍三百、郡王王義深馬軍一百五十、郡王范成進・総領蘇元孫圭軍三千、総帥百家に隷す。飛騎都尉兼合里合総領術虎只魯歓・総領夾谷得伯・颭軍田衆家奴等百人及び諸臣下、京師を発す。
十二月甲辰、車駕は黄陵岡に至り、白撒は先に大兵の二つの寨を降し、河朔の降将を得た。上はこれを赦し、印及び金虎符を授けた。群臣は議して、河朔の諸将を前導とし、鼓行して開州に入り、大名・東平を取れば、豪傑も応ずる者あらん、破竹の勢成るべしと。温敦昌孫曰く、「太后・中宮は皆南京に在り、北行万一意の如くならずんば、聖主孤身何をか為さんとする。もし帰徳に往かば、更に五六月を経ても京に還る能わず。衛州を先に取るよりは、京に還るを便とすべし」と。白撒奏して曰く、「聖体は鞍馬に便ならず、且つ大兵に上在る所を知らしむべからず。今は帰徳に駐すべし。臣等は降将を率いて東平に往き、諸軍の至るを俟ち、一鼓にして下すべく、これによりて河朔を経略し、且つ河南の軍を空うすべし」と。上以て然りとす。時に上は既に官奴を遣わし三百騎を将いて漚麻岡を探らしめ未だ還らず、上将に船に御せんとし、白撒に剣を賜い、便宜に事を従うを得しめ、東平の策を決せしむ。官奴還りて衛州を奏し、糧有りて取るべきやと。上は白撒を召してこれを問う。白撒曰く、「京師すら守る能わず、衛州を得たるも、何をか為さんとする。臣の観る所に、東平の策を便とすべし」と。上は官奴の議を主とす。
明年正月朔、黄陵岡に次ぐ。この日、帰徳の守臣は糧糗三百余船を以て来り餉い、遂にその舟に就きて南岸を済す。未だ済さざる者万人、大元の将回古乃は四千騎を率いてこれを追撃す。賀都喜は一の黄旗を揮って戦を督い、身に十六七箭を中つ。軍は殊死に闘い、卒十余人を得、大兵少しく却く。上は酒百壺を遣わしてこれを労う。須臾、北風大いに作し、舟は皆南岸に吹き着けらる。諸兵復たこれを撃ち、溺死する者千人に近し。元帥猪児・都尉紇石烈訛論等これに死す。建威都尉完顔訛論出は大元に降る。上は北岸に於いてこれを望み震懼し、従官を率いて猪児等の為に祭を設け、これを哭し、皆官を贈り、その子侄を録用し、訛論出の二弟を斬って以て徇す。
遂に白撒に命じて衛州を攻めしむ。上は兵を河上に駐め、親衛軍三千を留めて護従せしめ、都尉高顕の歩軍一万、元帥官奴の忠孝軍一千、郡王范成進・王義深・上党公張開・元帥劉益等の軍を総帥百家これを総べ、各十日分の糧を齎し、承裔の節制を聴かしむ。蒲城より発す。上は時に既に賽不を遣わし馬軍を将いて北に向わしむ。白撒は三十騎を以て追い及び、賽不に謂いて曰く、「旨有り、我に馬軍を将せしむ」と。賽不は上に謂いて曰く、「北行の議已に決す、中変すべからず」と。上曰く、「丞相は平章と和同すべし」と。完顔仲徳は御馬の銜を把り苦諫して曰く、「存亡は此の一挙に在り、衛州は決して攻むべからず」と。上これを麾して曰く、「参政は知らず」と。白撒遂に衛州を攻む。兵城下に至り、御旗黄傘を以てこれを招くも下らず。その夜、北騎三千奄として至る。官奴・和速嘉兀地不・按出虎これと戦い、北兵六十里を却く。然れども蒲城を発してより、遷延八日にして始めて衛に至り、而して猝に攻具無く、槍を縛りて雲梯と為す。州人は攻むる能わざるを知り、守り益々厳なり。凡そ三日を攻めて克たず。及び河南の大兵の張家渡より済し、衛の西南に至るを聞き、遂に班師す。大兵その後に踵き、白公廟に於いて戦い、敗績す。白撒等は軍を棄てて遁れ、劉益・張開は皆民家に為りて殺さる。車駕還りて蒲城東三十里に次ぐ。白撒は人をして密かに劉益の一軍の叛き去るを奏せしむ。点検抹撚兀典・総領温敦昌孫時に行帳中に侍し、上に舟に登るを請う。上曰く、「正に決戦すべく、何ぞ遽かに退かんや」と。少頃、白撒至り、倉皇として上に言いて曰く、「今軍已に潰え、大兵堤外に近し。聖主幸いに帰徳に幸せんことを請う」と。上遂に舟に登る。侍衛皆知らず、巡警旧の如し。時に夜已に四更なり。遂に狼狽して帰徳に入る。
白撒は潰兵を大橋に収め、二万余人を得、懼れて敢えて入らず。上聞き、近侍局提点移剌粘古・紇石烈阿里合・護衛二人を遣わし舟を以て往きてこれを迎えしむ。既に至り、入見を聴かず、その子と共に獄に下す。諸都尉司の軍は白撒の戦わずして退くを以て、憤りを発して怨言を出す。上乃ちその罪を暴して曰く、「惟れ汝が将士、明らかに朕が言を聴け。我初めに大軍を提げて黄陵岡に次ぎて捷を得たり。白撒即ち奏して宜しく河を渡り衛州を取り、糧十万石を得べし、勝に乗じて河北を恢復すべしと。我その計に従い、諸軍を率いて衛を攻めしむ。蒲城を去ること二百余里、白撒遷延八日にして方に至り、又攻具を預め備えず、以て敗衄に致す。白撒は軍を棄てて竄げ還り蒲城に至り、便ち諸軍已に潰え、北兵勢大にして当るべからずと言い、信従して舟に登り、幾くんか水に死せんとす。若し当時に諸軍未だ嘗て潰えざるを知らば、只だ河北に戦死するも、亦た後に垂名すべし。今白撒已に獄に下り、復た録用せず、その家産を籍して汝が衆に賜う。其れ力を国家に尽くし、此の人に效うこと無かれ」と。白撒を囚すること七日にして餓死せしめ、その弟承麟・子狗児を徐州に安置す。当時の議者、衛州の挙は本より官奴に自り、これを白撒に帰するは則ち亦た過ちなり。
初め、河に瀕する居民は官軍の北渡するを聞き、垣を築き戸を塞ぎ、洞穴に潜伏す。及び官奴の一軍の号令明らかに肅しく、撫労周悉なるを見、過ぐる所絲髪の犯す無く、老幼婦子坦然として相視、復た畏避する無きに至る。俄に白撒の輩は軍を縦して四出し、剽掠俘虜し、挑掘焚炙し、至らざる所無し。哭声相継ぎ、屍骸野に盈つ。都尉高祿謙・苗用秀の輩は仍って人を掠めてこれを食い、而して白撒は誅斬を口にし、過ぐる所の官吏は残虐勝えず、一飯の費え数十金を以てしても給せざる者有り、公私皇皇として、日々に皆大兵の至るを徯つ。
白撒は目書を知らず、奸黠余り有り、簿書政事は聞けば即ち解し、談議を善くし、知ること多く、人に接すれば則ち煦煦然たり。貨殖を好み、能く人主の心を捭闔し、遂に浸漬して以て将相を取る。既に富貴たり、第を汴の西城に起し、規模宮掖に擬し、婢妾百数、皆金縷を衣し、奴隸の月廩は列将と等しく、猶以て未だ足らずと為す。上嘗て中使を遣わしてこれを責めて曰く、「卿汲々として此に於いて、将に北帰の意無からんや」と。白撒終に悛わず、以て禍に及ぶ。
贊に曰く、白撒は本より将才に非ず、恇怯国を誤る。徒に阿合を能くして以て富貴を取り、性愎貪鄙なり。此の危亡に当たり、方に封殖を謀りて以て自ら逸らんとす。此れ猶お大廈将に焚けんとし燕雀悟らざる者か。
赤盞合喜
四年四月、西夏が辺境を侵犯したので、合喜がこれを討伐し、軍は鹿児原に駐屯した。西夏の兵千人に遭遇し、提控の烏古論世顕に偏師を率いさせてこれを破り、都統の王定もまた新泉城においてその衆一千五百を破った。九月、西夏が鞏州を攻撃したので、合喜は兵を派遣してこれを撃ち、一日に十余戦し、西夏は退いて南閑に拠った。精兵三万を派遣して城に迫らせたが、またこれを撃退し、西夏の将軍劉打・甲玉らを生け捕りにした。訊問して知ると、西夏の大将の你思丁・兀名の二人が謀り、鞏州は帥府の所在地であるから、鞏州が陥落すれば臨洮・積石・河州・洮州の諸城は攻めなくても自ずから陥ちると考え、まず鞏州に及んだのであり、かつ宋の統制の程信らに兵四万を率いて攻撃に来るよう仕向けたのであった。合喜はこれを聞き、兵を整え厳重に備えた。間もなく兵が果たして到来し、合喜は兵を督して奮戦し、これを退け、数千人を殺した。攻撃はますます激しく、将士は必死に戦い、殺傷した者は万を数えた。西夏はその攻城具を焼き、柵を引き抜いて去った。合喜はすでに先んじて要害の地に伏兵を置いてこれを遮り、また衆を率いてその後を追撃し、斬首は甚だ多かった。十月、功により遙かに平西軍節度使を授けられた。
九年正月、両省の軍は三峰山で潰え、北兵は進んで京師に迫った。三月庚子、曹王を人質として出すことを議した。大兵は北行し、速不泬を留めて城を攻めさせた。攻城具はすでに整い、人質を納める請願があった後、また言うには、「我らは城を攻める命を受けた。ただ曹王が出れば退くが、そうでなければやめない」。壬寅、曹王が入朝して辞し、宮中で宴が催された。癸卯、北兵は攻城具を立て、壕に沿って木柵を並べ、薪草で壕を埋め、たちまち十余歩を平らにした。主兵者は和議の故に敢えて戦おうとせず、ただ城上に坐して見ているだけであった。
城中が騒然となり、上はこれを聞き、六七騎を従えて端門を出て舟橋に至った。時は新雨でぬかるみ、車駕が突然出たので、人々は驚愕して措くところを知らず、ただ道傍に跪くのみであり、また遠くから拝する者もいた。上は自ら手を振って言った、「拝するな、泥が汝らの衣を汚す恐れがある」。慌てふためく中、市の店舗の米豆が地面に散乱していた。上は衛士に命じてそれぞれ家に帰らせたが、老幼が押し寄せて御衣に誤って触れる者さえあった。しばらくして、宰相・従官が皆到着し、笠を進めたが受けず、言った、「軍士が雨露にさらされているのに、我が何のためにこれを用いようか」。通り過ぎる所で軍士を慰労すると、皆躍り上がって万歳を称え、「臣らは戦死しても恨みはありません」と言い、ついには感涙する者さえいた。西南の軍士五六十人が集まって何か言っているようであった。上は近づいて問うと、跪いて言った、「大兵が土を運んで壕を埋める工事は、すでに半分以上進んでいます。平章が命令を伝えて一本の矢も放つな、和議を損なう恐れがあると言われますが、果たして何か計略があるのでしょうか」。上はその中の年長者を見て言った、「朕は生民のために、称臣し貢物を進めることには何一つ従わなかったことはない。ただ一人の子を養い育ててきたが、今、人質として行かせようとしている。汝らは少し耐えよ。曹王が出て、大兵が退かなければ、汝らが死戦するのはまだ遅くはない」。また拝礼して泣く者がいて言った、「事は急を要します。聖主、和議を望んではなりません」。そこで旨を伝えて城上で矢を放たせた。西水門の千戸劉寿が御馬を押さえ仰ぎ見て言った、「聖主、賊臣を信じてはなりません。賊臣が尽きれば、大兵は退きます」。衛士が彼を打とうとしたが、上は止めて言った、「酔っているのだ。問うな」。この日、曹王が出て軍前に赴いたが、大兵は力を合わせて進攻した。甲辰、上はまた出て東門の将士を慰撫し、太学生の楊奐らが前に出て事を申し上げた。上は何を言いたいのかと問うと、言った、「臣らは皆太学生です。砲夫の役を執らせられるのは、国家が百年以来士を待遇してきた意に恐らく合いません」。詔して姓名を記録させ、直ちにその役を免じた。南薰門を過ぎる時、負傷者に会い、自ら薬を塗り、手ずから杯に酒を酌んで賜り、かつ内府の金帛を出して功ある者を待った。この日、大兵は漢人の捕虜及び婦女老幼を駆り立てて薪草を負わせて壕塹を埋めさせた。城上から矢が雨のように四方に降り注ぎ、たちまち壕はこれによって平らになった。
龍徳宮で砲石を造るのに、宋の太湖石・霊璧石の築山を取ってこれとし、大小それぞれ斤両の重さがあり、その丸さは燈球のようであった。規定に合わない者は工人を杖罰した。大兵が用いる砲はそうではなく、大きな石臼や石臼を二三つに割り、皆これを用いた。竹を束ねた砲には十三梢に至るものがあり、その他の砲もこれに相当した。城の一角ごとに砲百余挺を置き、交替で上下し、昼夜止むことなく、数日も経たぬうちに、石はほとんど内城と同じ高さになった。城上の楼櫓は皆、故宮及び芳華・玉溪から取り壊した大木で造られており、両手で抱えるほどの木も、撃たれると随時砕けた。馬糞や麦藁をその上に敷き、綱索や毛氈で固く保護した。その懸風板の外側は皆、牛皮で障壁とし、これで近づけないと考えた。大兵が火砲でこれを撃つと、直ちに燃え広がって消し止めることができなかった。父老の伝えるところでは、周世宗が京城を築いた時、虎牢の土を取ってこれとし、堅密にして鉄のようであり、砲撃を受けると凹むだけであった。大兵は壕の外に城を築いて包囲し、その周囲は百五十里、城には乳口楼櫓があり、壕の深さは一丈余り、幅も同様で、およそ三四十歩ごとに一つの鋪を置き、鋪ごとに百人ほどを置いてこれを守らせた。
初め、白撒は城外に短牆を築かせ、屈曲して狭隘にして二三人が通れるのみとし、大軍が門を奪うのを防ごうとした。攻撃を受けると、諸将は夜を乗じて敵営を襲撃しようと請うたが、軍は急に城外に出ることができず、出た時には既に北兵に気付かれていた。後にまた夜に千人もの死士を募り、城壁を穴穿ちして壕を直に渡り、敵の砲座を焼こうとした。城上には紅紙の燈を懸けて合図とし、燈が上がったら壕を渡ると約束したが、またも包囲軍に察知された。また紙鳶を放ち、その上に文書を置き、北営に至ればこれを断ち切って、捕虜となった者を誘おうとした。識者は、前日の紙燈、今日の紙鳶、宰相がこれをもって敵を退けるのは難しいと言った。右丞世魯は『江水曲』を作らせ、城上の者に静夜にこれを歌わせた。河朔には先にこの曲があり、謳吟の思いを寄せたもので、その誤った計略はこのようなものであった。
合喜は先に鳳翔を守ったことを自ら誇っていたが、西北隅を守るよう命ぜられると、その地は最も激しく攻撃を受け、合喜がこれを担当したが、言葉を失い、顔色は人相を失った。軍士は特に車駕が数度出て慰労したため、各自奮い立ち、命を捧げようと争ったのである。守城の具には火砲で「震天雷」という名のものがあり、鉄罐に薬を盛り、火を点じると、砲は火を発し、その声は雷の如く、百里の外まで聞こえ、焼く範囲は半畝以上に及び、火点は甲冑の鉄をも貫通した。大軍はまた牛皮の洞(トンネル)を作り、城下にまで至り、城壁を掘って龕とし、間に人が容れられるほどで、城上からはどうすることもできなかった。献策する者がいて、鉄繩で「震天雷」を懸け、城壁に沿って下ろし、掘った所で火を発させると、人も牛皮も粉々に飛散して跡形もなくなった。また飛火槍があり、薬を注ぎ火を発すると、すぐに十余歩前方を焼き、人も近づけなかった。大軍はこの二つの物だけを恐れたという。
四月、攻撃をやめた。ここに至るまで十六昼夜であり、内外の死者は百万を数えた。大軍は陥とすことができないと知り、やがて偽りの好語を言った。「両国は既に講和したのに、さらに互いに攻撃するのか?」朝廷もこれに応じた。翌日、戸部侍郎楊居仁を遣わして宜秋門から出て酒食をもって師を犒労した。そこで営幕は次第に外に遷り、遂に兵を退いた。
壬戌、合喜は大軍が退いたので、入朝して賀することを議した。諸相は皆望まなかったが、合喜だけが守城を己の功とし、強く主張し、令史元好問を呼んで言った。「攻撃が止んで三日になるのに賀しないのはなぜか。速やかに翰苑の官を召して表を作らせよ。」好問がこれを諸相に告げると、権参知政事内族思烈は言った。「城下の盟は、諸侯も恥とする。まして攻撃が止んだことを賀すべきこととすべきか。」合喜は怒って言った。「社稷が滅びず、帝后が難を免れた。汝らはこれを喜ばないのか。」翌日、近侍局直長張天任が尚書省に至り、好問がひそかに賀議を告げると、天任は言った。「人はかくも恥を知らぬものか。」そこで諸相に言った。「京城が兵を受けたことを、上は深く辱とされている。百官が入賀しようとしていると聞くが、果たしてこれがあるのか。」学士趙秉文が表を撰することを肯んじなかったので、議は遂に止んだ。
この月、尚書省に枢密院事を兼ねさせ、合喜は枢密を罷免された。合喜は既に兵権を失い、心中甚だ楽しまず、院印を銷却しようとした。諸相は院事は依然としてあり、印は用いる時があるので、毀すべきではないと言った。合喜は怒り、その掾を笞打とうとした。御路に匿名の書を投げる者がいて、こう書いていた。「副枢合喜、総帥撒合、参政訛出は皆国賊である。朝廷が殺さなければ、衆軍も殺し、国の害を除くべきである。」衛士がこれを聞いた。撒合は薬を飲んで死に、訛出は病と称して出仕しなかった。ただ合喜だけは坦然として何事もないかのようであり、上も何も問わなかった。これにより軍国の事は全て合喜によって決せられるようになった。
初め、大軍が汴を包囲した時、司諫陳岢はしばしば封事を上書して得失を言い、時弊に切中した。合喜は大いに怒り、尚書省に召し入れ、その名を呼んで責めて言った。「そちは『陳山可』か?果たしてそちの言う通りに敵を退けることができれば、我は世々そちの奴隷となろう。」聞く者はひそかに笑わぬ者はなかった。「岢」の字を識らず、ついに二つに分けて読んだのである。
既に廃された後、汴中に居住し、常に鬱々として楽しまなかった。時に大将速不泬が人を遣わして招くと、合喜はすぐに装いを整えて行こうとした。崔立が尚書省に招き、酒を酌んで送別し、かつ白金二百両を餞別とした。翌日、また尚書省に詣でて立に別れを告げようとした。ちょうど対話している時、たまたま一人が帰徳から文書を持って来た。開いて見ると、行省が哀宗の言葉を伝えて合喜に諭したもので、その言葉はこうであった。「卿は朕の老臣である。中間で廃出されたが、未だ卿を忘れたことはない。今崔立は既に変を起こした。卿の処には旧人が尚多い。もし反正することができれば、卿に世襲の公相を与えよう。」立は怒り、左右を叱ってこれを獄に繋いだ。この日、彼を斬った。
論じて言う。合喜は初年、西夏に用兵し、しばしば労効を著したが、要するにこれも諸将顔盞蝦蟆等の功である。大任に当たってからは、遂に自ら誇り、汴城の役では挙措煩擾し、質に出兵が退いたと聞けば、すぐに賀称を図った。これに国を体する誠心があろうか。中牟の潰走では、衆怒の帰するところとなり、幸い一死を免れたが、なお異図を懐き、ついに猜疑によって斃れた。天は蓋し崔立の手を借りたのである。