金史

列傳第五十二:白華 斜卯愛實 石抹世勣

白華

白華、字は文舉、庾州の人である。貞祐三年の進士。初め応奉翰林文字となった。正大元年、累遷して樞密院經歷官となった。二年九月、武仙が真定を以て帰順して来た。朝廷は河北を経営しようとしていたが、宋の将彭義斌がこれに乗じ、遂に山東より邢・洺・磁等の州を取った。白華は上奏して言う、「北兵は河西に事あり、故に我が方は少し緩むを得た。今彭義斌が河朔の郡県を招降し、駸駸として真定に及ぼうとしている。この機に乗じて大挙し、後患を除くべきである。」時に院官は行かせたがらず、即ち白華を遣わして彰德を視察させたが、実はこれを排斥したのである。事は遂に行われなかった。

三年五月、宋人が壽州を掠め、永州桃園軍が失利し、死者四百余人を出した。時に夏全が楚州より来奔した。十一月庚申、百官を集めて宋との和議を論じた。上(哀宗)は夏全の来た所以を問うた。白華は奏上して言う、「夏全は初め盱眙に在り、宋の帥劉卓に従って楚州へ赴いた。州人の訛言に『劉大帥が来て、城中の北人を屠らんと欲する』とあり、衆軍は怒り、劉卓を殺して城を以て帰順した。夏全は終に自ら安んぜず、跳走して盱眙に至るも、盱眙は受け入れず、城下で妻子を求めてもまた従わず、計る所なく、乃ち狼狽して北へ向かい、ただ自ら免れることを求めたのみで、他に慮りはありません。」白華はこれによって上に知られるようになった。夏全が到着した後、盱眙・楚州より、王義深・張惠・范成進が相次いで城を以て降った。詔して楚州を平淮府と改め、夏全を金源郡王・平淮府都総管とし、張惠を臨淄郡王、義深を東平郡王、成進を膠西郡王とした。宋との和議は中止となった。四年、李全が楚州を占拠した。衆は皆、盱眙は守れないと言ったが、上は従わず、乃ち淮南王として李全を招いた。李全は言う、「王義深・范成進は皆、我が部曲でありながら王封を受けている。我をどう処遇するのか。」遂に至らなかった。

この年、慶山奴が龜山にて敗績した。五年秋、帰徳城の増築を計画し、工数数百万を擬した。宰相が奏して白華を遣わし役事を監督させた。白華は行院の温撒辛に会い、民の労苦と朝廷の愛養の意を語り、工事を三分の一減じた。温撒は、李辛に賜姓されたものである。

六年、白華を以て権樞密院判官とした。上は忠孝軍総領の蒲察定住・經歷の王仲澤・戸部郎中の刁璧及び白華を召して諭して言う、「李全は楚州を占拠し、山東を睥睨している。久しければ必ず患いとなろう。今、北の事は少し緩んでいる。この隙に乗じて、定住に権監軍とさせ、率いる所統の軍一千を率い、別に都尉司の歩軍一万人を派遣し、璧・仲澤を参謀として、共に沂・海の界へ赴き李全を招く。従わなければ軍馬を以て事に当たる。卿等はどう思うか。」白華は対えて言う、「臣は李全は大兵の勢いを借りて、宋人に供給饋餉を要求しているだけで、ただ一の狡猾な寇賊に過ぎないと考えます。老狐が塚に穴居し、夜を待って出るようなもので、気にかけるに足りません。我が慮る所は北方の強敵です。今、北方に事あり、南を図る暇がないが、一旦事が定まれば、必ず攻めて来ましょう。我と天下を争う者はこれであり、李全は関わりありません。もし北方の事が定まれば、李全は命令を聞く暇もないでしょう。仮に自ら量らず、更に非望を抱くならば、天下の人々がどうして順逆を知らぬことがあろうか、どうして順を去って逆に従おうとするでしょうか。今の計は、姑く士馬を養い、北方に備えることです。李全に果たして不軌の謀り事があれば、それは北朝が兵を休める日に発せられるでしょう。その時ならば、我が方は容易に対処できます。」上は久しく沈思して言う、「卿等は暫く退け。我にもう少し考えさせよ。」明日、定住を遣わして尉氏に還り屯させた。

時に陝西の兵勢は既に大きく去っており、脱或欒を留めて慶陽に駐屯させ河朔を攪乱させていた。また河中の攻撃の噂があり、衛州の帥府と恆山公府が並立していた。一旦急報があれば、節制が統一されないことを慮り、二府を一つに合併しようとしたが、またその不和を恐れ、白華を遣わしてこれを経画させた。初め、白華は院でしばしば面諭を受けた、「汝は院官である。軍馬の責を汝に負わせない。汝は弁舌に優れている。特に合喜・蒲阿は皆武夫で、一言合わなければ、直ちに齟齬を生じ、事を害すること小さからず。今、汝に調停させよう。もしも乖忤があれば、罪は汝に及ぶ。院中の事は一つ一つ我に奏すべきであり、それが汝の職である。今の衛州への委任も、前日の調停の意と同じである。」

国の制度では、凡そ樞密院の上下が倚任する者を奏事官と名付け、その項目は三つある。一は聖旨を承受すること、二は奏事すること、三は省院の議事である。皆一人を以てこれを主る。聖旨を承受するとは、凡そ院官が奏事する時、或いは上(皇帝)が処分する時、独り奏事官を召してこれを付す。多くは一二百言に至り、或いは直に上旨を伝える。辞が多い時は即ち近侍局官と批写する。奏事とは、事に区処すべきものがあり、奏裁を取るべきものを殿上で奏することを謂う。その奏は毎に言葉の冗長を嫌い、必ず言葉は簡潔で意味は明瞭であることを求め、退いて奉行する。即ち文書を作成し、これを檢目と謂う。省院官が殿上で議事する時はこれを黙記し、議定して院に帰り、また檢目を作成して呈覆する。疑わしければ復た稟し、なければ掾史に付して施行させる。省に赴いて議する者は、議が定まれば、奏事官を留めて省の左右司官と共に奏草を作成し、諸相に回覧して異同がなければ、右司が奏上する。この三者以外にまた難しいことがある。備顧問と曰い、例えば軍馬糧草器械・軍帥部曲の名数・及び屯駐地の裏の厄塞遠近の類である。凡そ省院の一切の事務、顧問の際に一つでも応えられなければ、直ちに不用心を以て譴責される。その職は甚だ難しい。故に白華を以てこれに当たらせた。

五月、丞相の賽不を以て関中において尚書省事を行わせ、蒲阿に完顏陳和尚の忠孝軍一千を率い邠州に駐屯させ、且つ北の形勢を審らかに観察させた。このようにして二月が経った。上は白華に言う、「汝は邠州へ往復するのに六日でできるか。」白華は自ら量って一日に三百里馳せられると考え、「可です」と応えた。上は密かに蒲阿に諭すよう命じ、春の初めを待って、慶陽の事に当たらせるべきであると。白華は期日通りに還った。上はある日、顧みて白華に言う、「我は汝がこれまで征進に言及する度に、必ず難色を示すのを見てきた。今この一挙は特に平時より鋭い。どうしてか。」白華は言う、「向日の用兵は、南征及び李全討伐の事が障りとなり、専ら北方に意を用いることができなかった。故に北向を難事としたのです。今日は平時と異なり、況や事ここに至っては、一挙せざるを得ません。大軍が境界に入って既に三百余里、もしこれを放って秦川を下らしめれば、どうして救えましょう。終には一戦してこれを摧くべきです。近裏の平川で戦うよりは、近辺の険隘で戦う方が良いでしょう。」上もまた然りと為した。

七年正月、慶陽の包囲が解け、大軍は還った。白華は上奏した、「凡そ今の計は、兵糧が急務である。密院が既に定めた忠孝軍及び馬軍都尉司の歩軍は一戦の資とするに足る。この外、河南の府州もまた防城軍を簽揀すべきである。秋に集め春に放ち、古の務農講武の義に依り、各々本州府城を防がせ、今見在の九十七万を以て、他日に敵の資と為す用いられざるようにすべきです。」五月、白華は真に樞密判官を授けられた。上は近侍局副使の七斤を遣わし旨を伝えさせた、「朕は汝を院官に用いるのは、汝に兵を将いて対壘することを責めるのではなく、ただ汝に軍中の綱紀を立て、文移を発遣し、将帥を和睦させ、非違を究察させることを欲するのである。軍伍の閲習・器仗の修整に至るまで、皆汝の職とする所である。其れ国家に悉力を尽くし、以て朕の意に称えよ。」

八年、大軍は去歳より陝西に入り、京兆・同州・華州の間を遊弋し、南山の砦柵六十余所を破った。やがて鳳翔を攻めると、金軍は閿郷より澠池に至るまで屯したが、両行省は泰然として動かなかった。宰相・台諫は皆、枢密院が形勢を窺って逗留していると論じ、京兆の士庶の横議が蜂起し、ついに諸相が力を合わせて帝の前で奏上した。帝は言った、「合達・蒲阿は必ず機会を相度し、進むべき時に進むであろう。もし督戦して戦わせれば、結局は強いて出ることであり、益なくして却って害あることを恐れる」。そこで白華と右司郎中夾谷八里門を遣わし、宰相百官の言うところを伝えさせ、併せて「今二月も半ばを過ぎ、怠惰にして帰る形勢があるが、諸軍は何故動かないのか」と問わせ、且つ華らに往復六日の詔を下した。華らが同州に到り、両行省に上意を諭すと、合達は言った、「機会を見ず、見れば動くのみ」。蒲阿は言った、「彼の軍は糧餉が全くなく、戦おうとしてもできず、留まろうとしてもできず、自ら疲弊するであろう」。合達は蒲阿及び諸帥に対しては動くべからずと言い、士大夫に対しては動くべしと言い、人は合達が近頃罪を得たばかりで、また蒲阿がちょうど君寵を得ているのを畏れ、敢えて抗わず、しかも動くべからずとも言うのだと評した。華らは二相が北兵の勢いの大きさを見て皆恐れる心があるのを観察し、遂に密かに樊沢・定住・陳和尚にどう思うかと問うた。三人は皆言った、「他人は北兵が疲弊困窮しているから攻撃できると言うが、この言葉は正しくない。大兵の所在する所、軽々しく推量できようか。真に動くことを敢えてしないのである」。華らが帰還し、二相及び諸将の意向を奏上すると、帝は言った、「我は元より彼らが臆病で動くことを敢えないと知っていた」。即ち再び華を遣わし、旨を伝えて二相に諭させた、「鳳翔の包囲は久しく、守る者の力が支えられないことを恐れる。行省は軍を率いて関を出て、華陰界に宿営し、翌日華陰に至り、翌日華州に至り、少し渭北の軍と手合わせせよ。大兵がこれを聞けば必ず奔走するであろうから、少しでも鳳翔の急を緩め、我もまた掣肘の計を為すことができる」。二相は回奏して旨を奉じた。華が東還して中牟に至ると、既に両行省の奏を納める者が追い付き、華は密院の副本を取って読んだ。そこには、「旨を奉じて軍を提げて関を出ること二十里、華陰界に至り、渭北軍と交戦し、その晩軍を収めて関に入る」とあった。華はこれに対して天を仰いで大いに嘆息して言った、「事ここに至っては、どうすることもできない」。華が京に至ると、奏章は既に達しており、奏上したことが徒然であったことを知った。二三日と経たぬうちに鳳翔は陥落し、両行省は遂に京兆を棄て、牙古塔と共に居民を河南に遷し、慶山奴を留めてこれを守らせた。

夏五月、楊妙真は夫の李全が宋に死んだため、楚州の北に浮橋を架け、北帥の梭魯胡吐に就いて兵を乞い復讐しようとした。朝廷はこれを偵知し、北軍が果たして淮を渡ることができれば、淮と河南は跬歩の間であるとして、合達・蒲阿に軍を駐めて桃源界の滶河口に備えさせた。両行省はそこで宋の帥趙范・趙葵と夾攻の計を約した。二趙もまた人を遣わして報聘し、皆議和を名目として、声勢を張った。二相は屡々軍が少ないことを言い、省院はこれを難じたため、上奏して云う、「以前に関に附して半年屯駐し、ちょうど旧屯に還ったばかりで、息をつく暇もなく、また暑月に東行しようとすれば、実に図るべき事はなく、徒に自ら疲れるのみである。況んや桃源・青口は蚊虻が多く湿潤な地で、牧養に不便であり、目下は征進の時節ではないから、決して妄りに動かぬ。且つ我が慮る所は、特に楚州の浮橋のみである。暫く計を以てこれを図り、既に提控の王鋭を遣わして可否を視させた」。奏が上ると、帝は白華を遣わし、これをもって二相に伝え諭させ、併せて王鋭を行かせた。二相は喜ばなかった。蒲阿は水軍の虹県に屯する王提控なる者に小船二十四隻を遣わし、華に命じて河を順流下らせ、必ず八里荘の城門に至ることを期とさせ、且つ言った、「ここから八里荘を望めば、雲間天上の如くである。省院は端坐して、徒に口吻を事とするのみ。今、枢判が親しく来られたので、可否を相視し、帰って奏上することができる」。華は力辞したが許されず、遂に舟に登った。淮と河が合流する所に至り、ようやく八里荘の城門と相直する時、城の守将は白鷂の大船五十隻で溯流而上し、その上流を占めて華の帰路を遮断した。華はほとんど帰還できず、昏黒の中に径路を得て先に帰った。そこで悟ったのは、両省が朝省が軍を増さないことを怒り、皆華の輩がこれを主としていると思い、故に険地に擠したのである。この夜二更後、八里荘の次将が人を遣わして降伏を申し出て云う、「早朝、主将は城を出て船を開き、大金の帰路を遮断しようとした。某らは相談し、主将が還れば即ち門を閉じて納れず、彼は既に楚州に奔った。軍馬を発して応接を乞う」。二相は即ち兵騎を発し、船を開いて約に赴いた。翌朝、城に入って慰撫し、また楚州の大軍が既に河朔に還ったこと、宋将が浮橋を焼いたことを知った。二相は華に附して奏を納め、帝は大いに喜んだ。

初め、合達は宋の淮陰を取ろうと謀った。五月に淮を渡った。淮陰の主たる者胡路鈐は楚州に赴き楊妙真と事を計ったが、帰還する頃、提正官の郭恩が金に降伏を申し出た。胡が還ると入れられず、慟哭して去った。合達は遂に淮陰に入り、詔して帰州と改め、行省の烏古論葉裏哥にこれを守らせ、郭恩を元帥右都監とした。既にして、宋人は銀絹五万両匹を以て盱眙・亀山を贖おうとし、宋使は館中に留まった。郭恩はこれを劫略して取ろうと謀ったが、或る者が盱眙の帥府に報告したため、即ち軍が至り、恩は果たして発することができなかった。翌日、宋将の劉虎・湯孝信は船三十艘で浮梁を焼き、そこでその将夏友諒を遣わして盱眙を攻めさせたが、陥ちなかった。泗州総領の完顔矢哥は館中の銀絹を欲し、遂に反した。防禦使の徒単塔剌は変を聞き、罘山亭の甬路を扼し、好いて彼に言った、「朝廷に拝辞することを許されたし、然る後に死のう」。そこで朝服を取って闕を望み拝し、慟哭すること良久くして、亭の水に投じて死んだ。矢哥は遂に州を以て楊妙真に帰し、総帥の納合買住もまた盱眙を以て宋に降った。

九月、陝西行省は秋防に当たった。時に大兵は河中にあり、睿宗は既に兵を率いて境に入り、慶山奴は糧尽きたと報じ、京兆を棄てて東遷しようとした。ある日、白華が奏上し、偵候して得たところでは睿宗の率いる軍馬四万、行営軍一万、布置はかくの如しであるとし、「今の計は、漢に就いてこれを防ぐよりは、諸軍が到るまでに半月を要するから、直ちに河中に向かうに如かず。目下、沿河に屯守すれば、一日で渡ることができる。もしここで利を得れば、襄・漢の軍馬は必ずや遅疑して進まぬであろう。北においては投機となり、南においては掣肘となる。臣はこのようにするが便であると考える」。帝は言った、「この策は汝が画いたのか、それとも他人から得たのか」。華は言った、「臣の愚見はこの通りです」。帝は平素武事に鋭かったが、華の言を聞いて欣快の様子であった。然るに結局行われなかった。

間もなく、合達が陝州から進奏帖を上奏し、これもまたこの事(河中攻撃)についてであった。上(哀宗)は奏を得て甚だ喜んだ。蒲阿は当時洛陽らくように在り、駅伝で召し寄せた。蓋しこの事に意を有していたのである。蒲阿が至ると、奏対の間にこの事には及ばず、只言うに、大兵(モンゴル軍)の前鋒は忒木泬がこれを統率し、将に冷水穀口より出でんとし、且つ先ずこの軍を防ぐべきであると。上曰く、「朕はこれを問わず、只だ河中を攻撃し得るか否かを問わんと欲するのみ。」蒲阿已むを得ず、始めて言うに、睿宗(モンゴルのトルイ)の率いる兵騎は多しと雖も、計らくは皆冗雑なり。大兵の軍は少なきも精鋭にして、選鋒に非ざるは無し。金軍が北に渡れば、大兵は必ず輜重を平陽の北に屯し、その選鋒を百里の外に匿し、我が師の渡るを放ち、然る後に我が帰路を断ちて我と決戦し、利を得るを得ざるを恐る、と。上曰く、「朕は汝がかくの如きことを料りし、果たして然り。更に再論を須いず、且つ陝州に還れ。」蒲阿曰く、「合達枢密使の言う所は、此の間一面に革撥するも恐らく亦尽くさず、召し至らせて同議し可否を乞う。」上曰く、「見るに合達も亦此に止まるのみ、往復遅滞して、転じて事を誤らしむ。」白華は奏して、合達は必ず機会を見るべし、召し至らせて同議するを便とすと。副枢の赤盞合喜も亦奏して、蒲阿・白華の言を是とすと。上乃ちこれに従う。合達を召し至らせ、上は先ず密院と議定せしめ、然る後に入見せしむ。既に議し、白華は合達の奏帖を執り挙げて再三に似せしむも、竟に一人も先に発言する者無し。時を移し、蒲阿言う、「且つ冷水穀の一軍を勾当するは如何。」合達曰く、「是れ然り。」遂に入見す。上問う、卿等の議する所は如何、と。合達敷奏す、その言甚だ多く、大概言うに、河中の事は前日の上奏時の勢と異なり、所奏も亦敢えて自主せず、と。議遂に寝す。二相(合達・蒲阿)は陝に還り、軍馬を量りて冷水谷に出で、奉行して故事に過ぎず。十二月、河中府陥つ。

九年(天興元年)、京城は攻撃を受く。四月、兵退く。元を改めて天興と為す。是の月十六日、枢密院を併せて尚書省に帰し、宰相を以て院官を兼ね、左右司の首領官を以て経歴官を兼ねしむ。惟だ平章の白撒、副枢の合喜、院判の白華、権院判の完顔忽魯剌は退罷す。忽魯剌は口弁有り、上これを愛幸す。朝議は忽魯剌を罪す。而して書生輩は白華が君を得るを妬み、先に嘗て語を以てこれを撼がし、是を用いて罷む。金の制、枢密院は兵を主とすと雖も、節制は尚書省に在り。兵興以来、この制漸く改まり、凡そ軍事たるものは、省官預かるを得ず、院官独り任じて専見し、往々にして事を敗る。言者多く将相の権分つべからずと為す。是に至り始めてこれを併す。

十二月朔、上は近侍局提点の曳剌粘古を遣わし、即ち白華の居る所に至らしめ、事勢此に至る、計将に安く出づべきかを問わしむ。白華は附奏す、「今耕稼已に廃し、糧斛将に尽きんとす。四外の援兵皆指擬すべからず。車駕当に出でて外兵に就くべし。皇兄荊王を留めて之に監国せしめ、その裁処に任ずべし。聖主既に出で、使いを遣わして北朝に告げ語らしむべし、我が出づるは他処に軍馬を収整するに非ず、只だ軍卒の唐慶を擅に誅するを以て、和議此より断絶し、京師今これを荊王に付す、我に一二州を乞いて以て老いんと、と。此くの如くせば則ち太后皇族存すべく、正に《春秋》の紀季の斉に入りて附庸と為るの事の如し、聖主も亦少しく寛ぐを得ん。」ここにおいて白華を起して右司郎中と為す。初め、親巡の計決まり、諸将皆その議に預かる。将に退かんとす、首領官の張袞・聶天驥奏す、「尚ほ旧人にして軍務に諳練する者有り、乃ち置いて用いず、今用いる所の者は、皆軍中の事体を見ず、此れ尽くさざるなり。」上問う、未だ用いざる者は何人ぞ、と。皆曰く、院判の白華なり、と。上頷く、故に是の命有り。

明日、白華を召して諭して曰く、「親巡の計已に決す。但だ往く所群議未だ定まらず。帰徳は四面皆水なり、以て自保すべしと言う者有り。或いは言う、西山に沿いて鄧に入るべしと。或いは言う、設い鄧に入らんと欲せば、大将速不泬今汝州に在り、陳・蔡路を取って転じて鄧下に往くに如かずと。卿以て如何と為す。」白華曰く、「帰徳城は堅しと雖も、久しくして食尽き、坐して斃るるを待つ、決して往くべからず。鄧下に往かんと欲せば、既に汝州に速不泬有り、断じて往く能わず。今日の事勢を以てすれば、博徒の所謂孤注なり。孤注と雲う者は、只だ背城の戦有るのみ。今の計と為すには、当に直ちに汝州に赴き、之と一決すべし。楚有れば則ち漢無く、漢有れば則ち楚無し。汝州の戦は半途の戦に如かず、半途の戦は又出城の戦に如かず。然る所以は何ぞ。我が軍の食力猶ほ在り、馬は則ち豆力猶ほ在り。若し京を出でて益々遠ければ、軍食日々に減じ、馬は野草を食い、事益々難し。若し我が軍便ち戦を得ば、存亡此の一举に決す。外には則ち以て三軍の気を激し、内には則ち以て都人の心を慰むべし。或いは只だ避遷の計と為さんには、人心家業を顧恋し、未だ毅然として行に従わんとせず。詳審すべし。」遂に諸相及び首領官を召して同議す。禾速嘉兀地不・元帥の猪児・高顯・王義深俱に帰徳の議を主とす。丞相の賽不は鄧を主とす。議竟に決する能わず。明日、制旨す、京城食尽き、今擬て親出し、軍士を大慶殿に聚集し、此の意を以て諭す。諭し訖り、諸帥将佐合辞して奏す、「聖主親出すべからず、只だ将を命ずべし。三軍欣然として願わくは国家の為に死を效さん。」上猶し、官奴を以て馬軍の帥と為し、高顯を以て歩軍の帥と為し、劉益之を副わさんと欲す。蓋し輿議を采るなり。而して三人の者も亦命を受くことを欲す。権参政の内族訛出大罵して云く、「汝輩鋤を把りて高下を知らず、国家の大事、敢えて易く承けんや。」衆黙然たり。惟だ官奴曰く、「若し将相了うるを得ば、何ぞ至らん我輩を使わしむるに。」事も亦中止す。

明日、民間哄伝す、車駕皇太后及び妃后を奉じて帰徳に往かんと欲し、軍士の家属を留後せしむと。目今食尽き、坐視して城中俱に餓死せんとす。縦い帰徳に至るを得るとも、軍馬の費え支吾する復た幾許の日を得ん。上これを聞き、賽不・合周・訛出・烏古孫卜吉・完顔正夫を召して議す。余人預からず。時を移して方に出で、首領官・丞相に見えて言う、前日の巡守の議已に定まり、只だ一の白華の為に都て改め卻る。今汝州に往きて軍馬に就き戦を索めんとす、と。遂に日を択びて太廟を祭り師を誓い、二十五日の日を擬て以て啓行せんとす。是の月晦、車駕黄陵岡に至る。復た北幸の議有り。語は《白撒伝》に在り。

天興二年正月朔、帝は黄陵岡に駐蹕し、帰徳の糧船に就いて北岸に渡らんとした。諸相が共に奏上して言うには、京師及び河南諸州は帝が河北に幸せられると聞き、他の変事を生ずるを恐れる。詔を下してこれを安撫すべしと。この時、在所の父老僧道が食を献じ、及び牛酒を以て軍を犒う者は相属し、帝は親しくこれを撫慰し、人々これを感泣した。乃ち河朔を赦し、兵糧を招集し、赦文は条画十余款を掲げ、分道して伝送した。二日、或る者は云う、「昨日発した河南詔書、もし大軍中に落ちたれば、事機を泄らすこと奈何せん」と。帝は怒り、近侍局官に委ねて旨を伝え、首領官張袞・白華・内族訛可が詔を発する時に後慮を為さざるを謂い、皆これを量決した。この時衛州の軍は両日にして蒲城に至り、而して大軍は徐かにその後に躡う。十五日、宰相諸帥共に帝の前で議し、郎中完顔胡魯剌が筆を執って書し、某軍は前鋒、某軍は殿后、余事は皆条画有り。書畢りて、惟だ往く所を言わず、華は私かに胡魯剌に問う、知らずと托す。この晩、平章及び諸帥は蒲城の軍中に還る。夜半、訛可・袞は華の帳中に就いて華を呼び云う、「上は既に舟に登られた、君はこれを知らざるか」と。華は遂にその由を問う、訛可云う、「我は昨日既に上が李左丞・完顔郎中と先に帰徳に下り、諸軍をして並びに北岸を行かしめ、鳳池に至って河を渡らんと欲するを知れり。今夜平章及び禾速嘉・元帥官奴等来たりて言う、大軍は蒲城に在りて曾て金軍と接戦し、勢い支うる能わず、遂に主上を擁して舟に登らしめ、軍資一切は委棄し、止めて忠孝軍をして船に上らしめ、馬は悉く営中に留めしむ。計らうに舟は既に数里を行けり」と。華また問う、「公は何ぞ従いて往かざる」と。云う、「昨日擬定して首領官は止めて胡魯剌をして舟に登らしめ、余は悉く軍に随うべしとし、これを用いて敢えてせず」と。この夜、総帥百家は諸軍の舟を領して鳳池に往く、大軍これを覚り、兵遂に潰えた。

帝は帰徳に在り。三月、崔立は汴京を以て降り、右宣徽提点近侍局移剌粘古は鄧に謀らんとす、帝は聴かず。時に粘古の兄瑗は鄧州節度使・兼行枢密院事たり、その子と粘古の子と並びに駕に従い衛士たり。適に朝廷将に鄧兵を召して入援せんとす、粘古は因りて華と謀りて共に鄧に之き、且つその二子を拉いて以て往かんとす、帝これを覚り、独り華を行かしめ、而して粘古はこれを徐州に改む。華既に鄧に至り、事久しく済まず、館に淹留し、遂に世に意無きが若し。会に瑗は鄧を以て宋に入る、華も亦従いて襄陽に至り、宋は制幹に署し、又均州提督に改む。後に范用吉は均の長吏を殺す。款を北朝に送る、遂に因りて北に帰す。士大夫は華が夙儒貴顕にして、国危うきに義を以て自ら処する能わざるを以て貶すと云う。

用吉は、本姓は孛術魯、名は久住。初め帰して宋に入り、制置趙範に謁し、将に計を以てその心を動かさんとす、故に姓名を更めて范用吉とす。趙はその諱に触るるを怒り、これを斥く、用吉は猶応対故の如し。趙良久にして方に悟り、且つその事が己に符するを利し、遂に擢いて左右に置き、凡そ言動する所、略く疑いを加えず、遂にその姓を花と易え、太尉と為し、均州に鎮せしむ。未だ幾ばくもなく、款を北に納む。後に家人の叛せんと欲するを以て誣うるに因り、同列に害せらる。

賛に曰く、白華は儒者を以て吏事を習い、経生を以て兵を知り、その論建する所、屢く事機に中る、然れども三軍敗衄の余、士気作らず、その言果たして行うべきか。瑗に従いて宋に帰し、声名地に掃う、則ち猶え金臣の伝に列せらるるは、しょくの譙周等の例を援くに云う。

斜卯愛実

斜卯愛実、字は正之、策論進士なり。正大の間、累官して翰林直学士、兼左司郎中。天興元年正月、大兵将に至らんとするを聞き、点検夾穀撒合を以て総帥と為し、歩騎三万を率いて河渡を巡らしめ、宿直将軍内族長楽に近侍局使を権めさせ、その軍を監せしむ。行きて封丘に至りて還る。梁門より入る、枢密副使合喜これに遇い、笑語して撒合に曰く、「吾が言信なり、我が為に主人を為すべし」と。蓋し世俗酬謝の意なり。明日、大兵遂に合す、朝廷これを置いて問わず。ここにおいて愛実上言して曰く、「撒合は兵三万を統べ、本大兵遠く至り、喘息未だ定まらざるに乗じてこれを撃たんと欲す。京を出でて才に数十里、一人の騎にも逢わず、已に畏縮して進むを敢えず。設い大兵に遇わば、その肯て命を用いんや?二人を斬りて以て軍政を粛にすべし」と。報いず。蓋し合喜の輩は京師をしてこの一軍に倚りて命と為す、初め敢えてこれを出でて戦わしめず、特ちに外議哄然たるに故り、暫く出でて以てこれに応ずるに云う。

衛紹・鎬厲二王家の属は、皆兵を以て防護し、且つ官を設けて提控し、巡警の厳なること獄犴に過ぐ。ここに至りて、衛紹の宅は二十年、鎬厲の宅は四十年。正大の間、朝臣屢く言及びする者有り、報いず。愛実乃ち上言して曰く、「二族衰微、匹庶に異ならず、仮に不善を為さんと欲せば、孰れか悪を同じくせん?男女婚嫁は人の大欲、豈に幽囚終世し、永く伉儷の望み無からんや、他人に在り尚且つ忍びず、況んや骨肉においてをや!」哀宗その言を感じ、始めて自便を聴す。未だ幾ばくもなく、青城の難有り。

愛実は時相その人に非ざるを憤り、嘗て歴数して曰く、「平章白撒は権を固めて恩を市い、撃丸の外百に一能無し。丞相賽不は菽麦を分たず、更に材乏しと謂うも、亦この人を相と為すに至らん。参政兼枢密副使赤盞合喜は粗暴、一馬軍の材に止まる、乃ち将相の権を兼ねしむ。右丞顔盞世魯は相位に居ること已に七八年、碌碌として補う無く、備員のみ。患難の際、この類に倚注し、中興を冀わんと欲するは、難きかな」と。ここにおいて世魯は相を罷め、賽不は致仕を乞う、而して白撒・合喜は恤れみせず。

この年四月、京城の攻囲は解かれ、大軍は撤退した。その後、唐慶を害した事件により、和議は遂に断絶した。ここにおいて再び民兵を徴発して守備の備えとした。八月、京城の粟を徴発し、転運使の完顔珠顆・張俊民・曳剌克忠らに局を置かせ、推挙を名目とした。珠顆は民に諭して言うには、「汝らは実情に従って推挙すべし。もし一旦糧食が尽きれば、汝らの妻子を軍糧とせしめん、それでもなお惜しむことができようか」と。やがて粟徴発の令は廃止され、再び進献の名目でこれを取り立てた。前御史大夫の内族合周は再び任用を望み、京城で粟を徴発すれば百余万石を得られると建言した。朝廷はこれを信じ、権参知政事に任じ、左丞の李蹊とともにその事を総括させた。まず各家に自ら実数を申告させ、壮年の者は一石三斗、幼年の者はその半額を保有させ、その数を門前に書き記させ、敢えて隠匿する者は升斗の単位で罪に問うた。京城三十六坊には、それぞれ厳酷な者を選んで主管させ、内族の完顔久住は特に残酷暴虐であった。寡婦二人が豆六斗を申告したが、その中に蓬の実が約三升混じっていた。久住は笑って言うには、「これを得たり」と。これを捕らえて衆に示した。婦人は泣いて訴えて言うには、「妾の夫は兵に死に、姑は老いて養うことができません。故に蓬や粃を混ぜて自ら食しているのであって、敢えて軍の備蓄としているわけではありません。しかも三升は、六斗の中の余りです」と。聞き入れられず、遂に杖の下に死んだ。京師の人々はこれを聞いて股を震わせ、残りの穀物をことごとく便所に投げ込んだ。ある者が李蹊に報告すると、蹊は眉をひそめて言うには、「参政に申し上げよ」と。その人は即座に合周に報告した。周は言うには、「人は『花も損なわず、蜜も得られる』と言う。私は言う、花を損なわずして、どうして蜜ができようか。況んや京師は危急にあり、今、社稷を存せんとするか、百姓を存せんとするか」と。当時、皆敢えて言う者なく、愛実は遂に上奏した。おおよそ言うには、「粟徴発を廃止すれば、虐政を仁政に改め、怨気を和気に散ずるであろう」と。返答はなかった。

当時、徴発できたのは三万斛に満たず、京城はますます寂れ果てた。これ以降、死者は互いに枕を重ね、貧富を問わず手を束ねて死を待つばかりであった。上はこれを聞き、太倉の米を出して粥を作り、飢えた者に食べさせるよう命じた。愛実はこれを聞いて嘆いて言うには、「彼らに食べさせるよりは、むしろ奪わない方がましである」と。奉御の把奴に告発された。また近侍が朝政に干渉したので、愛実は上章して諫めて言うには、「今、近侍の権力が重すぎ、将相大臣も敢えてこれに抗することができない。古来、僕御の臣は供給指使に過ぎず、たとえ僕臣と名乗っても必ず正人を選んだ。今は賢否を論ぜず、ただ世胄あるいは吏員を以てこれに充てる。使令に給するだけの材能の者に、社稷の大計を預からしめる、この輩が何を知っているというのか」と。上章がなされると、近侍数人が上前に泣きついて言うには、「愛実は臣らを奴隷とみなし、至尊をどのような地位に置かれるというのですか」と。上はますます怒り、有司に送致した。近侍局副使の李大節が穏やかに釈明したので、ようやく赦免し、中京留守として出させた。その後、行方は知れなかった。

附:合周

合周は、一名を永錫という。貞祐年間、元帥左監軍となり、中都救援に失敗し、宣宗はその官爵を削除し、八十回の杖刑に処した。やがて再び任用された。四年、御史大夫として権尚書右丞となり、陝西の兵を総括した。合周は澠池に数日留まり、進んで京兆に至ったが、大軍は既に到来しており、合周は遂に出兵せず、潼関を失った。有司は敵が来たのに出兵しなかったことを以て斬刑に当たるとした。諸皇族百余人が上章して救った。上は言うには、「かつて合周が中都を救援した時、未だ到着せずして軍は潰え、宗廟山陵を失守させた。罪は誅に当たり、朕は特に寛大に処してその命を全うさせた。間もなく重職に復し、今陝西を鎮めているのに、このような所犯をなした。国家の大法、どうして私することができようか」と。遂に再び爵位を奪い、死を免じて除名した。この時、参知政事となった。性来、詩詞を作ることを好み、言葉は卑俗で、人々はその言葉を採って戯笑とした。自ら『括粟榜文』を起草し、「雀無翅兒不飛、蛇無頭兒不行」などの語句があり、「而」を「兒」と作った。掾史はこれを知っていたが、敢えて改めなかった。京城の人々は彼を「雀児参政」と称した。哀宗は任用したが悟らず、遂に事を敗るに至った。

石抹世勣

石抹世勣、字は景略。幼少より学問に励み、文章には体裁があった。承安二年、父の元毅が王事に死したため、召し出されて擎執に充てられた。五年、詞賦・経義の両科の進士に及第した。貞祐三年、累進して太常丞となり、講議所の事に参与した。当時、朝廷は河北の軍戸を河南に移したが、宰職は田を与えることを議した。世勣は上言して言うには、「荒閑の田及び牧馬地は、その初め耕墾するに、費用と労力は倍加し、一年では決して熟することはできない。もし民が普段から植えているものを奪って与えれば、民は住む所を失い、かつ不和の端を開くことになろう。況んや軍戸は概して耕牛がなく、仮にあっても、廩給を急に減らすことはできない。彼らは南来したのであり、捨てた田宅は他人の所有となっている。一旦北帰すれば、争奪がないと言えようか。切に思うに、軍戸に分かれて帰り本業を守らせ、その晩禾を収穫させ、春に至って再び還り固守の計とすべきである」と。ちょうど侍御史の劉元規もまた給田の不便を言上したので、上は大いに悟り、遂にこれを罷めた。間もなく、同知金安軍節度使に遷った。興定二年、華州元帥府参議官に選ばれた。初め、右都監の完顔合達が楨州で行帥府を開いた時、かつて前同知平涼府事の卓魯回蒲乃速を参議としたことがあった。華州に移駐した時、陝西行省は再び蒲乃速を用いるよう請い、世勣をその副とさせようとした。上は言うには、「蒲乃速はただ人に承奉するのみで、他に長ずるところはない。世勣のように事を任せられる者ではない。華は要鎮であるのに、軽々しくその人を用いれば、あるいは事を敗るに至るであろう」と。遂に世勣のみを用いた。間もなく入朝して尚書省左司郎中となった。元光元年、一官を奪われ、解職された。初め、世勣が華州に任じた時、その者が深く銭穀に通じていると推薦する者があったが、再び察するに推薦された通りではなく、未だ行止を籍録していなかった。後になって主管者が発覚し、平章英王は世勣が都司の煩雑を避け、私的に籍吏に嘱託して他の職に改めさせようとしたとして奏上し、有司に下された。故にこの責めがあった。久しくして、礼部侍郎として起用され、司農に転じ、太常卿に改めた。正大年間、礼部尚書となり、兼ねて翰林侍講学士を帯びた。

天興元年冬、哀宗が北渡しようとした時、世勣は朝官の劉肅・田芝ら二十人を率いて仁安殿で謁見を求めた。上は卿らは何を言わんとするかと問うた。世勣は言うには、「臣らは陛下が親征されようとしていると聞きます。切に思うに、この行いは不便です」と。上は言うには、「私が出なければ、軍は二つに分かれ、一軍は守り、一軍は出戦する。私が出れば軍は一つに合わさる」と。世勣は言うには、「陛下が出れば軍は三つに分かれます。一は守り、一は戦い、一は中軍として護従します。出ない方がましです」と。上は言うには、「卿らは知らない。私がもし完顔仲德・恆山公武仙を得て兵事を委ねることができれば、どうして私が出る労があろうか。私は今日の将兵する者が、官奴が騎兵三百を統べるに止まり、劉益が歩兵五千を将いるに止まることを知らないわけではない。自ら将とせずにいられようか」と。上はまた御榻を指して言うには、「我がこの行いに再び還る期があるだろうか。ただ恨むらくは我に罪なくして国を亡ぼすことである。我は奢侈したこともなく、小人を信任したこともない」と。世勣は応声して言うには、「陛下が小人を用いたことは確かにあります」と。上は言うには、「小人とは誰のことか」と。世勣は歴数して言うには、「移剌粘古・温敦昌孫・兀撒惹・完顔長楽は皆小人です。陛下は小人であると知らないので、用いたのです」と。劉肅と世勣はさらに多くを言った。良久くして、君臣は涙を流して別れた。初め、劉肅らが謁見を求めたのは、もともとこの四人を数え上げるためであった。この時、世勣が独りこれを言ったので、哀宗は世勣を行かせた。蒲城から帰徳に至った。翌年六月、蔡州に走り、新蔡県の姜寨に駐屯した。

世勣の子の嵩は、当時県令であったが、馬前で上(皇帝)に拝謁し、兵乱の後父子は初めて相見えた。上はこれを嘉し、嵩に応奉翰林文字を授け、親を養う便とした。蔡城が陥落すると、父子ともに死した。嵩は字を企隆といい、興定二年の経義進士である。

賛して曰く、愛実は衛・鎬の家屬を禁錮する苛酷さ、京城における粟の徴発の暴虐さ、近侍の政事への干渉の横暴さを言い、世勣は河北の軍戸に田地を与える不便さ、親しく出て河を渡る非計を言った。これらは皆薬石の言である。然るに金がこの時に至っては、病は膏肓の間にあり、倉公・扁鵲といえども何を施さん。その忠讜たるは、則ち廃すべからざるなり。