金史

列傳第五十: 完顏合達 移剌蒲阿

列傳第五十: 完顏合達 移剌蒲阿

完顏合達

原文完顏合達

完顏合達は、名を瞻、字を景山という。幼少より兵馬の間に育ち、弓馬に習熟し、人の死力を得ることができた。貞祐初年、親衛軍として岐國公主を送り、護衛を務めた。三年、臨潢府推官に任ぜられ、権元帥右監軍を兼ねた。当時、臨潢は避難して遷うつり、全州・慶州の両州の民と共に平州に拠った。合達はその経略使烏林答乞住に属し、乞住は便宜を以て軍中都統に任じ、累遷して提控となり、金符を佩用もっした。間もなく、燕南の諸帥が兵を率いて中都城を回復しようとし、平州遷安県に至った時、臨潢・全慶の両軍が叛変し、乞住を殺し、合達を擁して平州に戻り、帥に推戴し、乞住の軍を統率させた。合達は計略を以て首謀の乱を起こした者数人を誅殺した。その年の六月、北兵の大将喊得不が監戦提軍を派遣して平州城下に至り、州人黄裳を以て城内に入り招降させたが、父老は従わず、合達は兵を率いて迎撃したが、事勢が敵わないと知り、本軍を率いて陣中で降伏した。監戦は合達を北へ連行し、半分を留め、平州を守らせた。やがて、自ら脱出して帰国しようと謀り、奉先県令紇石烈布裏哥・北京教授蒲察ほさつ胡裏安・右三部檢法蒲察蒲女を派遣し、海を渡って来報させた。

原文完顏合達,名瞻,字景山。少長兵間,習弓馬,能得人死力。貞祐初,以親衛軍送岐國公主,充護衛。三年,授臨潢府推官,權元帥右監軍。時臨潢避遷,與全、慶兩州之民共壁平州。合達隸其經略使烏林答乞住,乞住以便宜授軍中都統,累遷提控,佩金符。未幾,會燕南諸帥將兵複中都城,行至平州遷安縣,臨潢、全慶兩軍變,殺乞住,擁合達還平州,推為帥,統乞住軍。合達以計誅首亂者數人。其年六月,北兵大將喊得不遣監戰提軍至平州城下,以州人黃裳入城招降,父老不從,合達引兵逆戰,知事勢不敵,以本軍降於陣。監戰以合達北上,留半發,令還守平州。已而,謀自拔歸,乃遣奉先縣令紇石烈布裏哥、北京教授蒲察胡裏安、右三部檢法蒲察蒲女涉海來報。

四年十一月、合達は果たして配下の兵と州民を率いて海沿いに西南へ帰国した。詔により官階を三階進め、鎮南軍節度使に昇進し、益都に駐屯し、元帥蒙古綱と相呼応し、宣差都提控を務めた。十二月、大元の兵が博興・楽安・寿光の地を巡行し、東は濰州の境に及び、蒙古綱は合達に兵を率いさせて寿光・臨淄でしばしば戦わせた。興定元年正月、通遠軍節度使に転じ、兼ねて鞏州管内観察使を務めた。七月、平西軍節度使に改め、兼ねて河州管内観察使を務めた。二年正月、延安府事を知り、兼ねて鄜延路兵馬都総管を務めた。

原文四年十一月,合達果率所部及州民並海西南歸國。詔進官三階,升鎮南軍節度使,駐益都,與元帥蒙古綱相應接,充宣差都提控。十二月,大元兵徇地博興、樂安、壽光,東涉濰州之境,蒙古綱遣合達率兵屢戰于壽光、臨淄。興定元年正月,轉通遠軍節度使、兼鞏州管內觀察使。七月,改平西軍節度使、兼河州管內觀察使。二年正月,知延安府事、兼鄜延路兵馬都總管。

三年正月、詔して宋を伐つこととし、合達を元帥右都監とした。三月、梅林関で宋兵を破り、統領張時を生け捕りにした。また馬嶺堡で宋兵を破り、馬百匹を獲た。また麻城県を陥落させ、その県令張倜・幹弁官郭守紀を捕らえた。

原文三年正月,詔伐宋,以合達為元帥右都監。三月,破宋兵于梅林關,擒統領張時。又敗宋兵于馬嶺堡,獲馬百匹。又拔麻城縣,獲其令張倜、幹辦官郭守紀。

四月、夏人が通秦寨を侵犯したので、合達は安塞堡より出兵し、隆州に至った。夏人が城中より歩騎二千を出して迎撃したので、兵を進めてこれを撃ち、数十級を斬首し、十人を捕虜とし、遂に隆州を攻め、その西南隅を陥落させたが、日が暮れたので引き揚げた。六月、唐・鄧において行元帥府事を務めた。上は諭して言った、「卿の才幹を以て、故に卿に委ねる。敵に侵軼させず、ただ我が辺境を固めよばよい」。四年正月、再び元帥右都監となり、延安に駐屯した。十月、夏人が綏徳州を攻め、拄天山に駐兵した。合達は兵を率いてこれを撃ち、別に先鋒提控樊澤らを派遣し、各々配下の兵を率いて三道より進軍させ、全て山頂で合流した。夏人数万余が山に沿って陣を敷いているのを見て、即ち兵を放ち分かれて撃った。樊澤が先に登り、その左軍を破り、諸将が続いてその右軍を攻め、これを破った。五年五月、延安府事を知り、前職を兼ねた。上言した、「諸軍の将官はたびたび転任するため、往々にしてその居る地形の迂直・険易を知らず、緩急の際には恐らく事を敗るに至ろう。今後は転任させぬよう乞う」。また言った、「河南・陝西の鎮防軍は皆諸路に分かれて駐屯し、営中には老幼のみである。老成の者を選んで各路の統軍とし、これを鎮撫させ、かつその子弟に騎射を習わせ、将来に用いられるように乞う」。いずれも従われた。

原文四月,夏人犯通秦寨,合達出兵安塞堡,抵隆州,夏人自城中出步騎二千逆戰,進兵擊之,斬首數十級,俘十人,遂攻隆州,陷其西南隅,會日暮乃還。六月,行元帥府事于唐、鄧,上遣諭曰:「以卿才幹,故委卿,無使敵人侵軼,第固吾圉可也。」四年正月,複為元帥右都監,屯延安。十月,夏人攻綏德州,駐兵於拄天山。合達將兵擊之,別遣先鋒提控樊澤等各率所部分三道以進,畢會於山顛。見夏人數萬余傅山而陣,即縱兵分擊。澤先登,摧其左軍,諸將繼攻其右,敗之。五年五月,知延安府事,兼前職。上言:「諸軍官以屢徙,故往往不知所居地形迂直險易,緩急之際恐至敗事,自今乞勿徙。」又言:「河南、陝西鎮防軍皆分屯諸路,在營惟老稚而已。乞選老成人為各路統軍以鎮撫之,且督其子弟習騎射,將來可用。」皆從之。

十一月、夏人が安塞堡を攻め、その軍が先に到着した。合達と征行元帥納合買住がこれを防いだ。合達は策を立てて言った、「北方の兵が到着する前に、先に夏人を破れば後は力を為し易い」。そこで密かに軍を進め糧食を携え、倍道兼行で進み、夜襲をかけてその営を襲い、夏人は果たして大いに潰走し、四十里にわたって追撃し、崖谷に墜ちて死ぬ者は数え切れなかった。上はこれを聞き、各々金五十両・重幣十端を賜り、かつ詔を下して諭して言った、「卿らよく大功を成し遂げた。朕これを聞き大いに喜ぶ。経画この如くすれば、彼らは畏れることを知るであろう。数年を期し、卿らは休息することができよう」。なお詔して合達の功績を河南の帥臣に遍く告げ知らせた。この月、元帥買住とまた延安で戦い、いずれも重傷を負った。十二月、延安を守った功により金帯一・玉吐鶻一・重幣十端を賜った。

原文十一月,夏人攻安塞堡,其軍先至,合達與征行元帥納合買住禦之。合達策之曰:「比北方兵至,先破夏人則後易為力。」於是潛軍裹糧倍道兼進,夜襲其營,夏人果大潰,追殺四十裏,墜崖谷死者不可勝計。上聞之,賜金各五十兩、重幣十端,且詔諭曰:「卿等克成大功,朕聞之良喜。經畫如此,彼當知畏,期之數年,卿等可以休息矣。」仍詔以合達之功遍諭河南帥臣。是月,與元帥買住又戰延安,皆被重創。十二月,以保延安功賜金帶一、玉吐鶻一,重幣十端。

元光元年正月、元帥左監軍に遷り、山東西路吾改必剌世襲謀克ぼうこくを授けられた。権参知政事となり、京兆において行省事を務めた。間もなく、真に拝任された。この年五月、上言した、「近ごろ河中安撫司が報ずるには、北将按察児が兵を率いて隰・吉・翼州に入り、次第に栄・解の境に及んでいる。今は既に暑い時節であるのに、なお戻る気配がない。これは我が禾麦を蹂躙しようとするためであろう。もしこのようであれば、則ち河東の地は我が有する所ではなくなる。また河南・陝西の調度は解塩に仰いでいる。今は正に塩を漉く時節であるのに、敵がこれを擾乱すれば、その利益を失うことになろう。速やかに援軍を送ることを乞う。臣は既に兵二万を分け、平陽・上党・晋陽の三公府の兵と力を合わせてこれを防ごうと計画している。窃かに見るに、河中・栄・解の司県官と軍民は多く互いに疎遠であり、守禦ふせの間に事機を失うことがある。旧法に従い、凡そ司県官に軍民を兼ねさせ、上下相得て、事を成し易くすることを乞う」。また塩の利益について言った、「今まさに敵兵が国境に迫っている。人に厚く分け与えなければ、誰が危険を冒してこれを取ろうか。もし自ら輸送する者に十のうち八を与えれば、人は争って赴き国用を助けよう」。従われた。

原文元光元年正月,遷元帥左監軍,授山東西路吾改必剌世襲謀克。權參知政事,行省事於京兆。未幾,真拜。是年五月,上言:「頃河中安撫司報,北將按察兒率兵入隰、吉、翼州,浸及榮、解之境,今時已暑,猶無回意,蓋將蹂吾禾麥。倘如此,則河東之土非吾有也。又河南、陝西調度仰給解鹽,今正漉鹽之時,而敵擾之,將失其利。乞速濟師,臣已擬分兵二萬,與平陽、上党、晉陽三公府兵同力禦之。竊見河中、榮、解司縣官與軍民多不相諳,守禦之間或失事機。乞從舊法,凡司縣官使兼軍民,庶幾上下相得,易以集事。」又言鹽利,「今方敵兵迫境,不厚以分人,孰肯冒險而取之?若自輸運者十與其八,則人爭赴以濟國用。」從之。

葭州提控王公佐が合達に言った、「去年十月、北兵が既に葭州を破り、河上に浮橋を架けた。公佐は州治の北の石山子に寓居し、余衆を招集して二千余人を得、州城を回復しようとした。士卒は皆北から逃げ帰った者であり、かつ鎧仗がないため、かつて帥府に兵を請い、その浮橋を焼き、葭州を取ろうとしたが、帥府は聞き入れなかった。また老幼を援護して少しずつ内地に移す兵を請うたが、帥府もまた応じなかった。今、葭州の民は敵境に迫られ、皆動揺の心がある。もしこの秋、敵騎が再び来れば、則ち公佐は力尽きて敵の手に死に、遺民もまた皆屠られるであろう」。合達はそこで上言した、「臣は馳せて延安に至り、元帥買住と議し、兵を以て公佐の軍民を護り、呉堡に来て駐屯させ、隙を伺って動くことを願う」。詔して省院にこれを議させた。そこで合達に命じて兵を率い葭州を取らせた。鄜州に行き至った時、千戸張子政らが万戸陳紋を殺し、城中を掠めようとした。合達は既に兵を整えて備えていたので、子政らは城を出て逃走し、合達は追い及んで、衆は再び帰順し、首謀の悪徒数十人を斬り、軍はようやく安定した。

原文葭州提控王公佐言於合達曰:「去歲十月,北兵既破葭州,構浮梁河上。公佐寓州治北石山子,招集餘眾得二千餘人,欲複州城。以士卒皆自北逃歸者,且無鎧仗,故嘗請兵于帥府,將焚其浮橋,以取葭州,帥府不聽。又請兵援護老幼稍徙內地,而帥府亦不應。今葭州之民迫於敵境,皆有動搖之心。若是秋敵騎複來,則公佐力屈死于敵手,而遺民亦俱屠矣。」合達乃上言:「臣願馳至延安,與元帥買住議,以兵護公佐軍民來屯吳堡,伺隙而動。」詔省院議之,於是命合達率兵取葭州。行至鄜州,千戶張子政等殺萬戶陳紋,將掠城中。合達已勒兵為備,子政等乃出城走,合達追及之,眾複來歸,斬首惡數十人,軍乃定。

六月、合達は上言した、「累々と諜者を捕らえたが、皆が北方が既に夏人と約し、河中・葭州より陝西に入ろうとしていると云う。防秋が近い。予め計らうべきである。今、陝西の重兵は両行省が分かれて統制している。しかし京兆から平涼まで六百余里あり、万一敵がその間を遮断すれば、互いに通じることができず、自ら孤立することになる。平涼行省の内族白撒に軍を率いて東下させ、臣と協力して敵を防ぎ、潼関・陝を守り、敵が退いた後に再び分司を議するのが便宜であることを乞う」。詔してこれを許した。二年二月、鳳翔を守った功により官を進められ、金幣及び通犀帯一を賜った。この時、河中は既に陥落していたが、合達は兵を提げて再びこれを奪取した。

原文六月,合達上言:「累獲諜者,皆雲北方已約夏人,將由河中、葭州以入陝西。防秋在近,宜預為計。今陝西重兵兩行省分制之,然京兆抵平涼六百余裏,萬一敵梗其間,,使不得通,是自孤也。宜令平涼行省內族白撒領軍東下,與臣協力禦敵,以屏潼、陝,敵退後復議分司為便。」詔許之。二年二月,以保鳳翔之功進官,賜金幣及通犀帶一。是時,河中已破,合達提兵複取之。

正大二年七月、陝西は旱魃甚だしく、合達は斎戒して雨を請うたところ、雨が降り注ぎ、この年は大いに豊作おことなり、民は石を立ててその徳を称えた。延安は既に破壊されていたので、合達は西路において牛を買い求め、主事者に付けて、散亡した者を招集し、その耕作を助けさせた。これより後、延安の民は次第に耕作の利益を回復した。八月、鞏州の田瑞が反乱を起こしたので、合達はこれを討伐し、諸軍が進攻した。合達は文書を送って諭し、「罪は田瑞一身に止ただまり、その余は問わない」と言った。数日も経たないうちに、田瑞の弟の田済が田瑞を殺して降伏したので、合達は約束通り一州を慰撫平定し、民はこれによって安寧を得た。三年、詔により平涼行省に転任した。四年二月、召還されて征され、平章政事、芮国公に任ぜられた。七年七月庚寅朔、平章政事の職を妨げるとして枢密副使に任ぜられた。初め、蒲阿が面奏して言った、「合達は軍中に長く在り、今日の多事の際には省中に在るのは、その長所を用いるに適さない。臣等は枢密と協力して軍務に当たりたい。彼を宰相の位に引き上げるのは、まだ遅くはないと思われる。」故にこの任命があった。

原文正大二年七月,陝西旱甚,合達齋戒請雨,雨澍,是歲大稔,民立石頌德。延安既殘毀,合達令于西路買牛付主者,招集散亡,助其耕墾,自是延安之民稍複耕稼之利。八月,鞏州田瑞反,合達討之,諸軍進攻,合達移文諭之曰:「罪止田瑞一身,餘無所問。」不數日,瑞弟濟殺瑞以降,合達如約撫定一州,民賴以寧。三年,詔遷平涼行省。四年二月,征還,拜平章政事,芮國公。七年七月庚寅朔,以平章政事妨職樞密副使。初,蒲阿面奏:「合達在軍中久,今日多事之際乃在於省,用違其長。臣等欲與樞密協力軍務,擢之相位似亦未晚。」故有此授。

十月己未朔、詔して合達及び枢密副使蒲阿に衛州を救援させた。初め、朝廷は恒山公武仙を衛州に駐屯させたが、公府の節制が統一されていなかったので、これを一つに合わせようとした。この時、河朔の諸軍が衛州を包囲し、内外の連絡が断たれて既に連月に及び、ただ塔の上で時々烽火を上げるのを見るだけであった。合達らが到着すると、先ず親衛兵三千をもって試みに戦い、北兵は少し退いた。翌日、包囲は解けた。上は承天門に登って軍を労い、皆に世襲の謀克を授け、良馬と玉帯を賜い、月俸の本色を全額支給した。これは格別の恩寵であった。

原文十月己未朔,詔合達及樞密副使蒲阿救衛州。初,朝廷以恆山公仙屯衛州,公府節制不一,欲合而一之。至是,河朔諸軍圍衛,內外不通已連月,但見塔上時舉火而已。合達等既至,先以親衛兵三千嘗之,北兵小退,翼日圍解。上登承天門犒軍,皆授世襲謀克,賜良馬玉帶,全給月俸本色,蓋異恩也。

間もなく、蒲阿を権参知政事とし、合達と共に閿郷に行省事を行わせ、潼関を守備させた。先に、陝西省が防禦策を上奏し、朝官が集まって議論した。上策は親征、中策は陝西に行幸、下策は秦を棄てて潼関を守ることであった。議者は、ただ陝西軍を助けて一戦を決するのみで、陝西が守れなければ河南も保てないと言った。この時までに、陝以西も守られなくなった。

原文未幾,以蒲阿權參和政事,同合達行省事於閿鄉,以備潼關。先是,陝省言備禦策,朝官集議,上策親征,中策幸陝,下策棄秦保潼關。議者謂止可助陝西軍以決一戰,使陝西不守,河南亦不可保。至是,自陝以西亦不守矣。

八年正月、北軍の将帥速不泬が小関を攻め破り、盧氏・硃陽を破壊し、百余里の間に散漫した。潼関総帥納合買住が夾穀移迪烈・都尉高英を率いてこれを防ぎ、二省に救援を求めた。省は陳和尚の忠孝軍一千、都尉夾穀澤の軍一万を派遣して応援し、北軍は退き、これを穀口まで追撃して還った。両省は直ちに大捷と称し、上奏した。やがて北軍が風翔を攻撃すると、二省は兵を率いて関を出て二十里進み、渭北の軍と交戦し、夕方になって再び兵を収めて関に入った。鳳翔は遂に陥落した。二省は京兆を放棄し、牙古塔と共に住民を河南に移住させ、慶山奴を留めて守らせた。九月、北兵が河中に入った。時に二相は防秋から陝に還り、軍馬を量って冷水谷に出して声援とした。

原文八年正月,北帥速不泬攻破小關,殘盧氏、硃陽,散漫百餘里間。潼關總帥納合買住率夾穀移迪烈、都尉高英拒之,求救地二省。省以陳和尚忠孝軍一千,都尉夾穀澤軍一萬往應,北軍退,追至穀口而還。兩省輒稱大捷,以聞。既而北軍攻風翔,二省提兵出關二十裏,與渭北軍交,至晚複收兵入關,鳳翔遂破。二省遂棄京兆,與牙古塔起遷居民于河南,留慶山奴守之。九月,北兵入河中,時二相防秋還陝,量以軍馬出冷水穀以為聲援。

十一月、鄧州から報告があり、北兵が饒峰関を経て、金州から東進しているという。そこで、両省の軍は鄧に入り、提控劉天山を遣わして劄付を襄陽制置司に下し、共に北兵を防ぎ、かつ軍糧を求めることを約した。両省は先月癸卯に出発し、楊沃衍の軍を留めて閿郷を守らせた。沃衍は間もなく詔旨を受けて洛南路より商州に入り、豊陽川に駐屯して上津を守備し、恒山公武仙と犄角の勢いを成した。合達はまた、御侮中郎将完顔かんがん陳和尚を閿郷の南十五里に留めて守らせ、それから出発した。陳和尚もまた随いて行った。沃衍の軍八千は商州の木瓜平に至り、一日夜に三百里を馳せて桃花堡に入り、北兵が豊陽より東進することを知ると、これも東還し、大軍と鎮平で合流した。恒山公武仙の軍一万は元来胡陵関に駐屯していたが、この時も荊子口・順陽を経て来会した。十二月朔、共に鄧の城下に至り、順陽に駐屯した。そこで天山を宋に遣わした。

原文十一月,鄧州報,北兵道饒峰關,由金州而東。於是,兩省軍入鄧,遣提控劉天山以劄付下襄陽制置司,約同禦北兵,且索軍食。兩省以前月癸卯行,留楊沃衍軍守閿鄉。沃衍尋被旨取洛南路入商州,屯豐陽川備上津,與恆山公仙相掎角。合達複留禦侮中郎將完顏陳和尚于閿鄉南十五裏,乃行。陳和尚亦隨而往。沃衍軍八千及商州之木瓜平,一日夜馳三百里入桃花堡,知北兵由豐陽而東,亦東還,會大軍于鎮平。恆山公仙萬人元駐胡陵關,至是亦由荊子口、順陽來會。十二月朔,俱至鄧下,屯順陽。乃遣天山入宋。

初め、宋人は我が国朝を君とし、伯とし、叔として、歳幣を納めること将に百年に及んだ。南渡以後、宋は我が国を慮るに足らざるものとし、全く往来を絶った。故に宣宗が南伐した時、兵馬は消耗して十のうち一も残らず、淮上の数州を攻め陥としたとはいえ、ただ驕将・悍卒に恣に殺戮掠奪させ、その私欲を満たさせただけに過ぎなかった。また、宣徽使奧敦阿虎が北方に使いした時、北朝の大臣が地図を指し示して言った、「商州からここまで軍馬はどれほどか?」また興元を指して言った、「我々が商州から進まなければ、興元路を取って汝の境界に入るであろう。」阿虎が還って奏上すると、宣宗は甚だ憂慮した。哀宗が即位すると、群臣が建言し、国喪に因み使を遣わして哀悼を報じ、遺留の物を副え、これに因んで和解を講じ、辺境の守備を全て撤去し、共に武休の険を守るべきであるとした。そこで省院に下して議させたが、国政を執る者に仰ぎ見るだけで俯せない病があり、皆、朝廷が先に人を遣わすことは国体を損なうと言い訳した。元年、上は南方国境の諸帥に諭し、人を遣わして滁州で宋と通好させた。宋人は毎度奏稟を口実とし、和議の事は遂に講じられなかった。しかし十年の間、朝廷は屡々辺将に妄りに侵掠せぬよう命じ、彼我は少し休息を得、宋人は初めてこれを信じ、遂に友好を継ぐ意向を持った。天山が劄付を携えて宋に至った時、劄付とは指揮の別名であるが、宋の制使陳該は怒って天山を辱め、かつ悪語をもって返答した。この報せが届くと、識者は皆ひそかに嘆息した。

原文初,宋人于國朝君之、伯之、叔之,納歲幣將百年。南渡以後,宋以我為不足慮,絕不往來。故宣宗南伐,士馬折耗十不一存,雖攻陷淮上數州,徒使驕將悍卒恣其殺虜、飽其私欲而已。又宣徽使奧敦阿虎使北方,北中大臣有以輿地圖指示之曰:「商州至此中軍馬幾何?」又指興元雲:「我不從商州,則取興元路入汝界矣。」阿虎還奏,宣宗甚憂之。哀宗即位,群臣建言,可因國喪遣使報哀,副以遺留物,因與之講解,盡撤邊備,共守武休之險。遂下省院議之,而當國者有仰而不能俯之疾,皆以朝廷先遣人則於國體有虧為辭。元年,上諭南鄙諸帥,遣人往滁州與宋通好。宋人每以奏稟為辭,和事遂不講。然十年之間,朝廷屢敕邊將不妄侵掠,彼我稍得休息,宋人始信之,遂有繼好之意。及天山以劄付至宋,劄付者指揮之別名,宋制使陳該怒辱天山,且以惡語複之。報至,識者皆為竊歎。

戊辰、北兵が漢江を渡って北上した。諸将はその半渡を撃つべきであるとしたが、蒲阿は従わなかった。丙子、兵は全て渡り終え、禹山の前で戦い、北兵は少し退き、三十里外に営した。二相は大捷を駅伝で報せ、百官は賀表を奉り、諸相は省中で酒宴を設け、左丞李蹊は喜び且つ泣きながら言った、「今日の捷がなければ、生民の禍は、言い尽くせぬほどであったであろう!」これは事実であると思ったからである。先に、河南では北兵が饒峰より出たと聞き、百姓は往往にして城壁に入り、険阻な地に拠って固守したが、敵が既に退いたと聞くと、平然として動かない者さえいた。二、三日と経たないうちに遊騎が至り、人は逃げる所なく、全て捷報の書に誤られたのである。

原文戊辰,北兵渡漢江而北,諸將以為可乘其半渡擊之,蒲阿不從。丙子,兵畢渡,戰于禹山之前,北兵小卻,營於三十裏之外。二相以大捷驛報,百官表賀,諸相置酒省中,左丞李蹊且喜且泣曰:「非今日之捷,生靈之禍,可勝言哉!」蓋以為實然也。先是,河南聞北兵出饒峰,百姓往往入城壁、保險固,及聞敵已退,至有晏然不動者,不二三日遊騎至,人無所逃,悉為捷書所誤。

九年正月丁酉、両省の軍は陽翟の三峰山で潰えた。初め、禹山の戦いで、両軍は相対峙し、北軍は散漫に北へ向かった。金軍はその虚に乗じて京城を襲われることを恐れ、救援に入ることを謀った。時に北兵は三千騎を河上に向かわせて既に二十余日、泌陽・南陽・方城・襄・郟から京に至る諸県は皆陥落し、有る所の蓄積は焼き払われて余すところがなかった。金軍は鄧より東に向かい、糧秣の供給を受ける所なく、山に沿って陽翟に入った。出発すると、北兵は直ちにこれを襲い、行きながら戦い、北兵の損傷も多かった。恒山公の一軍は突騎三千に衝かれ、軍は必死に戦い、北騎は退走した。追撃している際、忽ち大霧が四方を蔽い、両省は軍を収めるよう命じた。しばらくして霧が散ると再び前進し、前方に大きな澗があり、長さ広さ数里に及んだ。この霧がなければ北兵の人馬がこの中に満ちていたであろう。翌日、三峰山に至り、遂に潰え、事は蒲阿伝に載せられている。合達は大事既に去ったことを知り、馬を下りて戦おうとしたが、蒲阿は既に行方知れずであった。合達は数百騎を率いて鈞州に走り、北兵はその城外に塹壕を掘って攻撃し、門から出ることもできず、窟室に隠れた。城が陥落すると、北兵がこれを発見して殺した。時に朝廷はその死を知らず、或いは既に京兆に走ったと云い、手詔を賜って人を募り訪ねさせた。汴を攻撃するに及んで、北兵は言い放った、「汝が家の恃む所は、ただ黄河と合達のみである。今、合達は我らが殺し、黄河は我らが有する。降伏せずして何を待つのか?」

原文九年正月丁酉,兩省軍潰于陽翟之三峰山。初,禹山之戰,兩軍相拒,北軍散漫而北,金軍懼其乘虛襲京城,乃謀入援。時北兵遣三千騎趨河上,已二十餘日,泌陽、南陽、方城、襄、郟至京諸縣皆破,所有積聚焚毀無餘。金軍由鄧而東,無所仰給,乃並山入陽翟。既行,北兵即襲之,且行且戰,北兵傷折亦多。恆山一軍為突騎三千所沖,軍殊死鬥,北騎退走。追奔之際,忽大霧四塞,兩省命收軍。少之,霧散乃前,前一大澗,長闊數裏,非此霧則北兵人馬滿中矣。明日,至三峰山,遂潰,事載蒲阿傳。合達知大事已去,欲下馬戰,而蒲阿已失所在。合達以數百騎走鈞州,北兵塹其城外攻之,走門不得出,匿窟室中,城破,北兵發而殺之。時朝廷不知其死,或雲已走京兆,賜以手詔,募人訪之。及攻汴,乃揚言曰:「汝家所恃,惟黃河與合達耳。今合達為我殺,黃河為我有,不降何待?」

合達は敵情に精通し、行陣に習熟し、かつ義を重んじて財を軽んじ、下と苦楽を共にし、俘獲があれば直ちに分け与え、敵に遇えば身を先んじて避けず、兵卒もまた喜んでこれを用いた。その人となりもまた知るべきである。左丞張行信が嘗てこれを推薦して言った、「完顔合達は、今の良将である。」

原文合達熟知敵情,習於行陣,且重義輕財,與下同甘苦,有俘獲即分給,遇敵則身先之而不避,眾亦樂為之用,其為人亦可知矣。左丞張行信嘗薦之曰:「完顏合達,今之良將也。」

移剌蒲阿

原文移剌蒲阿

移剌蒲阿は、もと契丹の人であり、若くして軍に従い、功労により千戸から都統に昇進した。初め、哀宗が皇太子であった時、枢密院を統轄し、蒲阿を選抜して親衛軍総領に充て、金符を佩かせた。元光二年冬十二月庚寅、宣宗の病が重篤となり、皇太子の異母兄である英王守純が先に侍疾に入り、太子は東宮から門を叩いて求見したが、蒲阿に命じて甲を内に着せ兵を集めて艮嶽に駐屯させ、非常事態に備えさせた。哀宗が即位すると、嘗て近臣に言った、「向に蒲阿がなければ、どうしてここに至ることができようか」と。そこで遙かに同知睢州軍州事を授け、権枢密院判官とし、これより軍国の大計は多く彼の決するところに従った。

原文移剌蒲阿,本契丹人,少從軍,以勞自千戶遷都統。初,哀宗為皇太子,控制樞密院,選充親衛軍總領,佩金符。元光二年冬十二月庚寅,宣宗疾大漸,皇太子異母兄英王守純先入侍疾,太子自東宮扣門求見,令蒲阿衷甲聚兵屯于艮嶽,以備非常。哀宗即位,嘗謂近臣言:「向非蒲阿,何至於此。」遂自遙授同知睢州軍州事,權樞密院判官,自是軍國大計多從決之。

正大四年十二月、河朔の軍が突如商州に侵入し、硃陽・盧氏を破壊した。蒲阿は迎撃して霊宝の東に至り、遊騎十余騎と遭遇し、一人を捕らえ、残りは即時に退いたが、蒲阿は直ちに捷報として上奏した。世襲の謀克を賞賜され、更かわに厚く賜与された。人々は皆その上を欺くことを知っていたが、敢えて言う者なく、吏部郎中楊居仁が微かに言葉を発して怒りを買った。

原文正大四年十二月,河朔軍突入商州,殘硃陽、盧氏。蒲阿逆戰至靈寶東,遇游騎十餘,獲一人,餘即退,蒲阿輒以捷聞。賞世襲謀克,仍厚賜之。人共知其罔上,而無敢言,吏部郎中楊居仁以微言取怒。

六年二月丙辰、蒲阿を権枢密副使とした。去年の夏以来、陝西に在る北軍が駸々として涇州に至り、且つ慶陽の糧道を遮断していた。蒲阿は上奏した、「陝西に両行省を設置したのは、本来河南を藩衛するためである。今北軍が来ること三年、行省が統べる軍馬は二三十万に上るが、未だ対峙したこともなく、また一本の矢すら折ったことがない。行省は何の用があろうか」と。院官もまた皆、将来は必ず枢密院の軍馬を用いて事を処理すべきであると奏上したが、上は暫く言葉を発しなかった。この後、丞相賽不に関中において尚書省事を行わせ、平章政事合達を朝廷に召還し、白撒もまた闕下に召し寄せ、蒲阿は完顔陳和尚の忠孝軍一千を率いて邠州に駐屯し、且つ北の情勢を観察させた。八月丙申、蒲阿は再び潞州を回復した。十月乙未朔、蒲阿は東還した。

原文六年二月丙辰,以蒲阿權樞密副使。自去年夏,北軍之在陝西者駸駸至涇州,且阻慶陽糧道。蒲阿奏:「陝西設兩行省,本以籓衛河南,今北軍之來三年於茲,行省統軍馬二三十萬,未嘗對壘,亦未嘗得一折箭,何用行省。」院官亦俱奏將來須用密院軍馬勾當,上不語者久之。是後,以丞相賽不行尚書省事於關中,召平章政事合達還朝,白撒亦召至闕,蒲阿率完顏陳和尚忠孝軍一千駐邠州,且令觀北勢。八月丙申,蒲阿再複潞州。十月乙未朔,蒲阿東還。

十二月乙未、詔して蒲阿に総帥牙吾塔・権簽枢密院事訛可と共に慶陽を救援させた。七年正月、大昌原において北兵と戦い、北軍は退き、慶陽の包囲は解けた。詔して訛可を邠州に駐屯させ、蒲阿・牙吾塔を京兆に還らせた。未だ幾ばくもなく、権参知政事として合達と閿郷に行省を置いた。八年正月、北軍が陝西に入り、鳳翔が陥落すると、両行省は京兆を棄てて東へ向かい、洛陽の駅に至り、召されて河中の事を議じた。その言葉は白華伝にある。

原文十二月乙未,詔蒲阿與總帥牙吾塔、權簽樞密院事訛可救慶陽。七年正月,戰北兵于大昌原,北軍還,慶陽圍解。詔以訛可屯邠州,蒲阿、牙吾塔還京兆。未幾,以權參知政事與合達行省於閿鄉。八年正月,北軍入陝西,鳳翔破,兩行省棄京兆而東,至洛陽驛,被召議河中事,語在白華傳。

十二月、北兵が漢江より渡河し、両省の軍は鄧州に入った。敵の進出経路を議論し、光化で江を遮断して戦うのが有利か、渡河を許してから戦うのが有利かと論じた。張惠は「江を遮断するのが有利である。渡河を許せば、我が腹地が空虚となり、潰されないことがあろうか」と言った。蒲阿はこれを手で制して言った、「汝は南の事柄だけを知り、北の事柄を何を知るというのか。我は以前裕州で得た制旨に、'彼らが砂漠に在っても、尚かつ往きてこれを求めよ'とあった。況んや今自ら来るにおいてをや。汝らは更に大昌原・旧衛州・扇車回の如く、軽々しく出撃させてはならぬ」と。定住・高英・樊沢は皆、蒲阿のこの言葉を正しいとした。合達は乃ち按得木に問うたが、木は然らずと答えた。軍中では木が北人であるため、その軍情を知っており、この言葉は道理があると考えたが、蒲阿の議論を覆すことはできなかった。

原文十二月,北兵濟自漢江,兩省軍入鄧州,議敵所從出,謂由光化截江戰為便,放之渡而戰為便、張惠以「截江為便,縱之渡,我腹空虛,能不為所潰乎?」蒲阿麾之曰:「汝但知南事,于北事何知。我向於裕州得制旨雲,'使彼在沙磧,且當往求之',況今自來乎。汝等更勿似大昌原、舊衛州、扇車回縱出之。」定住、高、樊皆謂蒲阿此言為然。合達乃問按得木,木以為不然。軍中以木北人,知其軍情,此言為有理,然不能奪蒲阿之議。

順陽に二十日留まった。光化からの探騎が至り、「千騎が既に北へ渡った」と報告した。両省はこの夜進軍し、夜明け前に禹山に到着した。探者が続けて「北騎は既に全て渡河済み」と報告した。癸酉、北軍が近づくと、両省は軍を高山に立て、各々地勢を分けて占拠し、歩兵は山前に迎え、騎兵は山後に駐屯した。甲戌、日が未だ出ず、北兵が到着した。大帥が二本の小旗を先導として来て観察し、観察を終えても前進せず、雁の翼の如く散開し、山麓を回って騎兵の背後に出て、三隊に分かれて進んだ。輜重しちょうを除いてなお二万人余りであった。合達は諸軍に令した、「今日の事勢を見るに、戦うべきでない。暫くこれを待て」と。俄かに北騎が突進し、金兵は戦わざるを得ず、遂に短兵相接して戦い、三度交鋒し、北騎は少し退いた。西に在る北兵は蒲阿が自ら甲騎を率いて背後から突撃するのを見て、三度にわたり突撃したが、蒲察定住が力戦して防ぎ退けた。大帥は旗を以て諸将を集め、長く議論した。合達は北兵の意向を知った。時に高英の軍が方々北を顧みていると、北兵がその背後に出てこれを包囲し、英軍が動揺した。合達は高英を斬らんとし、英は再び軍を督して力戦した。北兵は少し退いて情勢を観察し、英軍が落ち着くと、再び樊沢の軍を包囲した。合達は一千夫長を斬り、軍は必死に戦い、乃ちこれを退けた。

原文順陽留二十日,光化探騎至,雲「千騎已北渡」,兩省是夜進軍,比曉至禹山,探者續雲「北騎已盡濟」。癸酉,北軍將近,兩省立軍高山,各分據地勢,步迎於山前,騎屯於山后。甲戌,日未出,北兵至,大帥以兩小旗前導來觀,觀竟不前,散如雁翅,轉山麓出騎兵之後,分三隊而進,輜重外余二萬人。合達令諸軍,「觀今日事勢,不當戰,且待之。」俄而北騎突前,金兵不得不戰,至以短兵相接,戰三交,北騎少退。北兵之在西者望蒲阿親繞甲騎後而突之,至於三,為蒲察定住力拒而退。大帥以旗聚諸將,議良久。合達知北兵意向。時高英軍方北顧,而北兵出其背擁之,英軍動,合達幾斬英,英複督軍力戰。北兵稍卻觀變,英軍定,複擁樊澤軍,合達斬一千夫長,軍殊死鬥,乃卻之。

北兵は陣を引き、南の来た道に向かった。両省は再び議論した、「彼らは号すること三万とはいえ、輜重が三分の一を占める。又、二三日相持して食を得ず、その退却に乗じてこれを包囲すべきである」と。張惠がこの議を主張した。蒲阿は言った、「江の通路は既に絶たれ、黄河は氷結せず、彼らは重地に入った。将に何処に帰ろうとするのか。何ぞ急ぐことがあろうか」と。従わなかった。乙亥、北兵は忽然として所在を知れずなり、営火は寂として一つの音信もなかった。両省及び諸将が議論した、四日間軍を見ず、また営も見えず、鄧州からの補給及び路上の行人は絶え間ないが、それでも見た者がない。南へ渡って帰ったのか。己卯、斥候騎兵が乃ち北軍が光化の対岸の棗林の中に在ることを知った。昼は食事を作り、夜は馬から下りず、林中を往来するのを望見するが、五六十歩を隔てても音響を聞かず、その謀り事有るを知ることができた。

原文北兵回陣,南向來路。兩省復議:「彼雖號三萬,而輜重三之一焉。又相持二三日不得食,乘其卻退當擁之。」張惠主此議,蒲阿言:「江路已絕,黃河不冰,彼入重地,將安歸乎?何以速為。」不從。乙亥,北兵忽不知所在,營火寂無一耗。兩省及諸將議,四日不見軍,又不見營,鄧州津送及路人不絕,而亦無見者,豈南渡而歸乎?己卯,邏騎乃知北軍在光化對岸棗林中,晝作食,夜不下馬,望林中往來,不五六十步而不聞音響,其有謀可知矣。

初め、禹山の戦いが終わって、二騎が迷って営中に入った。問うと、北兵は凡そ七つの頭項(部隊)あり、大将がこれを統率していることを知った。又、詐降する者十人があり、ぼろの衣に痩せた馬で泣きながら苦難を訴えた。両省はこれを信じ、肥えた馬と取り替え、酒を飲ませ、暖かい衣食を与えて陣の後に置いた。十人は皆、馬に鞭打って去り、始めてそれが偵察騎兵であったことを悟った。

原文初,禹山戰罷,有二騎迷入營,問之,知北兵凡七頭項,大將統之。複有詐降者十人,弊衣羸馬泣訴艱苦,兩省信之,易以肥馬,飲之酒,及暖衣食而置之陣後,十人者皆鞭馬而去,始悟其為覘騎也。

庚辰、両省は鄧州に入って糧食に就くことを議した。辰巳の刻に林の後ろに到着すると、北兵が忽然として来襲した。両省の軍は迎撃し、互いに矛を交える際に、北兵は百騎で輜重を遮って奪い去り、金兵はほとんど隊列を成さず、夜に至って乃ち城に入った。軍士が道に迷うことを懼れ、鐘を鳴らして招集した。樊沢は城西に駐屯し、高英は城東に駐屯した。九年正月壬午朔、鄧城の下で兵を耀かした。北兵は戦わず、大将が使いを寄こして酒を求め、両省はこれに二十瓶を与えた。癸未、大軍は鄧州を発ち、京師に向かった。騎兵二万、歩兵十三万。騎兵の将帥は蒲察定住・蒲察答吉卜、郎将は按忒木、忠孝軍総領は夾穀愛答・内族達魯歡、総領は夾穀移特剌、提控歩軍は臨淄郡王張惠、殄寇都尉は完顔阿排・高英・樊沢、中軍は陳和尚、恆山公武仙・楊沃衍の軍と合流した。この日、五朵山の下に宿営し、鴉路を取った。北兵は三千騎でこれを尾行し、遂に営を駐めて楊武を待った。

原文庚辰,兩省議入鄧就糧,辰巳間到林後,北兵忽來突,兩省軍迎擊,交綏之際,北兵以百騎邀輜重而去,金兵幾不成列,逮夜乃入城,懼軍士迷路,鳴鐘招之。樊澤屯城西,高英屯城東。九年正月壬午朔,耀兵于鄧城下。北兵不與戰,大將使來索酒,兩省與之二十瓶。癸未,大軍發鄧州,趨京師,騎二萬,步十三萬,騎帥蒲察定住,蒲察答吉卜,郎將按忒木,忠孝軍總領夾穀愛答、內族達魯歡,總領夾穀移特剌,提控步軍臨淄郡王張惠,殄寇都尉完顏阿排、高英、樊澤,中軍陳和尚,與恆山公武仙、楊沃衍軍合。是日,次五朵山下,取鴉路,北兵以三千騎尾之,遂駐營待楊武。

楊武が到着し、申州・裕州の両州が既に降伏したことを知った。七日目の夜、北騎が明日再び我を襲うであろうと議論し、彼らは騎兵三千に過ぎず、我が弱さを示せば、軽んじられるであろうから、これと戦うべきであると決した。乃ち五十騎を鄧州道に伏せた。翌日軍が行進すると、北騎が例の如く襲撃した。金は一万の兵でこれを包囲して東へ向かい、伏兵が発動すると、北兵は南へ避けた。この日は雨で、竹林の中で宿営した。庚寅、安皋に頓駐した。辛卯、鴉路・魯山に宿営した。河西軍は既に申・裕を献上し、老幼と牛羊を擁して鴉路を取ったが、金軍が丁度これに出会い、その牛羊を奪って軍の糧食とした。

原文楊武至,知申、裕兩州已降。七日至夜,議北騎明日當複襲我,彼止騎三千,而我示以弱,將為所輕,當與之戰。乃伏騎五十于鄧州道。明日軍行,北騎襲之如故,金以萬人擁之而東,伏發,北兵南避。是日雨,宿竹林中。庚寅,頓安皋。辛卯,宿鴉路、魯山。河西軍已獻申、裕,擁老幼牛羊取鴉路,金軍適值之,奪其牛羊餉軍。

癸巳(の日)、鈞州を望み、沙河に至る。北騎五千が河北に待ち受け、金軍は橋を奪って渡河す。北軍は直ちに西を向いて退避す。金軍は縦撃を加うるも、北軍は戦わず、再び南に沙河を渡る。金軍は営を盤めぐらさんと欲すれども、北軍は再び河を渡って来襲す。金軍は食を得ず、また休息も得ず。合昏(日暮れ)に雨降り、明旦には雪に変ず。北兵は増して万に及び、且つ行き且つ戦い、黄榆店に至る。鈞州を望むこと二十五里、雨雪のため進むこと能わず、三日間営を盤らす。丙申(の日)、一近侍が軍中に入りて旨を伝え、諸帥を集めて処分を聴かしむ。制旨に云く、「両省軍は悉く京師に赴け。朕は門を禦ぎて軍を犒い、禦馬を換易し、然る後に出戦せば未だ晩からず」と。また密旨有りて云く、「近く張家湾より二三百騎が透漏(突破)したるを知る。既に衛・孟両州に遷れり。両省は常に切に防備すべし」と。旨を領し畢りて、蒲阿は袖を払って起つ。合達は再議せんと欲すれども、蒲阿言う、「此れに止まるのみ。また何をか議せん」と。蓋けだし已に魄を奪われたるなり。軍は即ち行く。

原文癸巳,望鈞州,至沙河,北騎五千待于河北,金軍奪橋以過,北軍即西首斂避。金軍縱擊,北軍不戰,複南渡沙河。金軍欲盤營,北軍複渡河來襲。金軍不能得食,又不得休息。合昏,雨作,明旦變雪。北兵增及萬人,且行且戰,致黃榆店,望鈞州二十五裏,雨雪不能進,盤營三日。丙申,一近侍入軍中傳旨,集諸帥聽處分,制旨雲:「兩省軍悉赴京師,我禦門犒軍,換易禦馬,然後出戰未晚。」複有密旨雲:「近知張家灣透漏二三百騎,已遷衛、孟兩州,兩省當常切防備。」領旨訖,蒲阿拂袖而起,合達欲再議,蒲阿言:「止此而已,複何所議。」蓋已奪魄矣。軍即行。

北軍は北より渡る者畢ことごとく集まり、前後を大樹を以て塞ぎて其の軍路とす。沃衍の軍は路を奪い、之を得たり。合達はまた議して、陳和尚に先ず山上の大勢を擁せしめ、比ころ再び整頓せんとするに、金軍は已に竹林に接し、鈞州を去ること僅か十余里なり。金軍は遂に進み、北軍は果たして三峰の東北・西南を却く。武・高の前鋒は其の西南を擁し、楊・樊は其の東北を擁す。北兵は俱に却き、止三峰の東に在り。張惠・按得木は山上に立ちて北兵二三十万を望み、厚さ約二十里とす。按得木、張惠と謀りて曰く、「此の地に戦わずんば、何をか為さんと欲するや」と。乃ち騎兵万余を率い、上より乗じて下りて之を擁す。北兵却く。須臾にして雪大いに作り、白霧空を蔽い、人相い覿みえず。時に雪は已に三日、戦地は麻田多く、往々耕して四五過たびす。人馬の践む所、泥淖でいどう脛を没す。軍士は甲骨を被りて僵立雪中し、槍槊は凍りて椽たるきの如く結ぶ。軍士に食せずして三日に至る者有り。北兵は河北軍と合し、四週ししゅう之を囲む。薪を熾おこして牛羊肉を燔やき、更りて休息す。金の困憊に乗じ、乃ち鈞州の路を開きて之を走らしめ、生軍を以て挟撃す。金軍は遂に潰え、声は山の崩るるが如し。忽ち天氣開霽し、日光皎然たり。金軍に一人として逃るるを得る者無し。

原文北軍自北渡者畢集,前後以大樹塞其軍路,沃衍軍奪路,得之。合達又議陳和尚先擁山上大勢,比再整頓,金軍已接竹林,去鈞州止十餘裏矣。金軍遂進,北軍果卻三峰之東北、西南。武、高前鋒擁其西南,楊、樊擁其東北,北兵俱卻,止有三峰之東。張惠、按得林立山上望北兵二三十萬,約厚二十裏。按得木與張惠謀曰:「此地不戰,欲何為耶?」乃率騎兵萬餘乘上而下擁之,北兵卻。須臾雪大作,白霧蔽空,人不相覿。時雪已三日,戰地多麻田,往往耕四五過,人馬所踐泥淖沒脛。軍士被甲骨僵立雪中,槍槊結凍如椽,軍士有不食至三日者。北兵與河北軍合,四週邊之,熾薪燔牛羊肉,更遞休息。乘金困憊,乃開鈞州路縱之走,而以生軍夾擊之。金軍遂潰,聲如崩山,忽天氣開霽,日光皎然,金軍無一人得逃者。

武仙は三十騎を率いて竹林中に入る。楊・樊・張の三軍は路を争い、北兵は之を数重に囲む。高英の残兵と共に柿林村南に戦い、沃衍・沢・英は皆死す。惟だ張惠は歩きて大槍を持ち奮戦して歿す。蒲阿は京師に走るも、未だ至らざるに追い及び、之を擒とらう。七月、械して官山に至り、降るや否やを召し問う。往復数百言、但だ曰く、「我は金国の大臣なり。惟だ金国境内に死すべきのみ」と。遂に殺さる。

原文武仙率三十騎入竹林中,楊、樊、張三軍爭路,北兵圍之數重,及高英殘兵共戰于柿林村南,沃衍、澤、英皆死,惟張惠步持大槍奮戰而歿。蒲阿走京師,未至,追及,擒之。七月,械至官山,召問降否,往復數百言,但曰:「我金國大臣,惟當金國境內死耳。」遂見殺。

賛に曰く、金、南渡以来、用兵克捷の功、史に絶えず書す。然れども地は辟ひらかず、殺傷相あい当たり、君子之を疑う。異時に宋を伐つ、唐州の役、師を喪うこと七百、主将訛論之を匿し、而以て捷を聞かす。御史納蘭之を糾す。宣宗は御史を奨め、而して訛論を罪せず。是れ君臣相率いて虚声を為すなり。禹山の捷、両省欺きを為し、遂に国を誤るに致す。豈に宣宗の前事、之を啓く有るに非ずや。三峰山の敗に至りては、收拾すべからず。上下暿咢眙きがくたいし、而して金の事已に十九去る。天朝は襄・漢を取り道とし、軍を懸けて深入し、機権神の若く、又天助を獲たり。用て能く兵家の忌む所を犯し、以て万世の俊功を建つ。合達は良将と雖も、何を以てか之に当たらんに足らん。蒲阿は謀無く、独り一死以て愧じず、猶取るに足るのみ。

原文贊曰:金自南渡,用兵克捷之功,史不絕書,然而地不加辟,殺傷相當,君子疑之。異時伐宋,唐州之役,喪師七百,主將訛論匿之,而以捷聞。禦史納蘭糾之,宣宗獎禦史,而不罪訛論,是君臣相率而為虛聲也。禹山之捷,兩省為欺,遂致誤國,豈非宣宗前事有以啟之耶?至於三峰山之敗,不可收拾,上下暿咢眙,而金事已去十九。天朝取道襄、漢,懸軍深入,機權若神,又獲天助,用能犯兵家之所忌,以建萬世之俊功,合達雖良將,何足以當之。蒲阿無謀,獨以一死無愧,猶足取焉爾。