金史

列傳第五十: 完顏合達 移剌蒲阿

完顏合達

完顏合達は、名を瞻、字を景山という。幼少より兵馬の間に育ち、弓馬に習熟し、人の死力を得ることができた。貞祐初年、親衛軍として岐國公主を送り、護衛を務めた。三年、臨潢府推官に任ぜられ、権元帥右監軍を兼ねた。当時、臨潢は避難して遷り、全州・慶州の両州の民と共に平州に拠った。合達はその経略使烏林答乞住に属し、乞住は便宜を以て軍中都統に任じ、累遷して提控となり、金符を佩用した。間もなく、燕南の諸帥が兵を率いて中都城を回復しようとし、平州遷安県に至った時、臨潢・全慶の両軍が叛変し、乞住を殺し、合達を擁して平州に戻り、帥に推戴し、乞住の軍を統率させた。合達は計略を以て首謀の乱を起こした者数人を誅殺した。その年の六月、北兵の大将喊得不が監戦提軍を派遣して平州城下に至り、州人黄裳を以て城内に入り招降させたが、父老は従わず、合達は兵を率いて迎撃したが、事勢が敵わないと知り、本軍を率いて陣中で降伏した。監戦は合達を北へ連行し、半分を留め、平州を守らせた。やがて、自ら脱出して帰国しようと謀り、奉先県令紇石烈布裏哥・北京教授蒲察胡裏安・右三部檢法蒲察蒲女を派遣し、海を渡って来報させた。

四年十一月、合達は果たして配下の兵と州民を率いて海沿いに西南へ帰国した。詔により官階を三階進め、鎮南軍節度使に昇進し、益都に駐屯し、元帥蒙古綱と相呼応し、宣差都提控を務めた。十二月、大元の兵が博興・楽安・寿光の地を巡行し、東は濰州の境に及び、蒙古綱は合達に兵を率いさせて寿光・臨淄でしばしば戦わせた。興定元年正月、通遠軍節度使に転じ、兼ねて鞏州管内観察使を務めた。七月、平西軍節度使に改め、兼ねて河州管内観察使を務めた。二年正月、延安府事を知り、兼ねて鄜延路兵馬都総管を務めた。

三年正月、詔して宋を伐つこととし、合達を元帥右都監とした。三月、梅林関で宋兵を破り、統領張時を生け捕りにした。また馬嶺堡で宋兵を破り、馬百匹を獲た。また麻城県を陥落させ、その県令張倜・幹弁官郭守紀を捕らえた。

四月、夏人が通秦寨を侵犯したので、合達は安塞堡より出兵し、隆州に至った。夏人が城中より歩騎二千を出して迎撃したので、兵を進めてこれを撃ち、数十級を斬首し、十人を捕虜とし、遂に隆州を攻め、その西南隅を陥落させたが、日が暮れたので引き揚げた。六月、唐・鄧において行元帥府事を務めた。上は諭して言った、「卿の才幹を以て、故に卿に委ねる。敵に侵軼させず、ただ我が辺境を固めよばよい」。四年正月、再び元帥右都監となり、延安に駐屯した。十月、夏人が綏徳州を攻め、拄天山に駐兵した。合達は兵を率いてこれを撃ち、別に先鋒提控樊澤らを派遣し、各々配下の兵を率いて三道より進軍させ、全て山頂で合流した。夏人数万余が山に沿って陣を敷いているのを見て、即ち兵を放ち分かれて撃った。樊澤が先に登り、その左軍を破り、諸将が続いてその右軍を攻め、これを破った。五年五月、延安府事を知り、前職を兼ねた。上言した、「諸軍の将官はたびたび転任するため、往々にしてその居る地形の迂直・険易を知らず、緩急の際には恐らく事を敗るに至ろう。今後は転任させぬよう乞う」。また言った、「河南・陝西の鎮防軍は皆諸路に分かれて駐屯し、営中には老幼のみである。老成の者を選んで各路の統軍とし、これを鎮撫させ、かつその子弟に騎射を習わせ、将来に用いられるように乞う」。いずれも従われた。

十一月、夏人が安塞堡を攻め、その軍が先に到着した。合達と征行元帥納合買住がこれを防いだ。合達は策を立てて言った、「北方の兵が到着する前に、先に夏人を破れば後は力を為し易い」。そこで密かに軍を進め糧食を携え、倍道兼行で進み、夜襲をかけてその営を襲い、夏人は果たして大いに潰走し、四十里にわたって追撃し、崖谷に墜ちて死ぬ者は数え切れなかった。上はこれを聞き、各々金五十両・重幣十端を賜り、かつ詔を下して諭して言った、「卿らよく大功を成し遂げた。朕これを聞き大いに喜ぶ。経画この如くすれば、彼らは畏れることを知るであろう。数年を期し、卿らは休息することができよう」。なお詔して合達の功績を河南の帥臣に遍く告げ知らせた。この月、元帥買住とまた延安で戦い、いずれも重傷を負った。十二月、延安を守った功により金帯一・玉吐鶻一・重幣十端を賜った。

元光元年正月、元帥左監軍に遷り、山東西路吾改必剌世襲謀克を授けられた。権参知政事となり、京兆において行省事を務めた。間もなく、真に拝任された。この年五月、上言した、「近ごろ河中安撫司が報ずるには、北将按察児が兵を率いて隰・吉・翼州に入り、次第に栄・解の境に及んでいる。今は既に暑い時節であるのに、なお戻る気配がない。これは我が禾麦を蹂躙しようとするためであろう。もしこのようであれば、則ち河東の地は我が有する所ではなくなる。また河南・陝西の調度は解塩に仰いでいる。今は正に塩を漉く時節であるのに、敵がこれを擾乱すれば、その利益を失うことになろう。速やかに援軍を送ることを乞う。臣は既に兵二万を分け、平陽・上党・晋陽の三公府の兵と力を合わせてこれを防ごうと計画している。窃かに見るに、河中・栄・解の司県官と軍民は多く互いに疎遠であり、守禦の間に事機を失うことがある。旧法に従い、凡そ司県官に軍民を兼ねさせ、上下相得て、事を成し易くすることを乞う」。また塩の利益について言った、「今まさに敵兵が国境に迫っている。人に厚く分け与えなければ、誰が危険を冒してこれを取ろうか。もし自ら輸送する者に十のうち八を与えれば、人は争って赴き国用を助けよう」。従われた。

葭州提控王公佐が合達に言った、「去年十月、北兵が既に葭州を破り、河上に浮橋を架けた。公佐は州治の北の石山子に寓居し、余衆を招集して二千余人を得、州城を回復しようとした。士卒は皆北から逃げ帰った者であり、かつ鎧仗がないため、かつて帥府に兵を請い、その浮橋を焼き、葭州を取ろうとしたが、帥府は聞き入れなかった。また老幼を援護して少しずつ内地に移す兵を請うたが、帥府もまた応じなかった。今、葭州の民は敵境に迫られ、皆動揺の心がある。もしこの秋、敵騎が再び来れば、則ち公佐は力尽きて敵の手に死に、遺民もまた皆屠られるであろう」。合達はそこで上言した、「臣は馳せて延安に至り、元帥買住と議し、兵を以て公佐の軍民を護り、呉堡に来て駐屯させ、隙を伺って動くことを願う」。詔して省院にこれを議させた。そこで合達に命じて兵を率い葭州を取らせた。鄜州に行き至った時、千戸張子政らが万戸陳紋を殺し、城中を掠めようとした。合達は既に兵を整えて備えていたので、子政らは城を出て逃走し、合達は追い及んで、衆は再び帰順し、首謀の悪徒数十人を斬り、軍はようやく安定した。

六月、合達は上言した、「累々と諜者を捕らえたが、皆が北方が既に夏人と約し、河中・葭州より陝西に入ろうとしていると云う。防秋が近い。予め計らうべきである。今、陝西の重兵は両行省が分かれて統制している。しかし京兆から平涼まで六百余里あり、万一敵がその間を遮断すれば、互いに通じることができず、自ら孤立することになる。平涼行省の内族白撒に軍を率いて東下させ、臣と協力して敵を防ぎ、潼関・陝を守り、敵が退いた後に再び分司を議するのが便宜であることを乞う」。詔してこれを許した。二年二月、鳳翔を守った功により官を進められ、金幣及び通犀帯一を賜った。この時、河中は既に陥落していたが、合達は兵を提げて再びこれを奪取した。

正大二年七月、陝西は旱魃甚だしく、合達は斎戒して雨を請うたところ、雨が降り注ぎ、この年は大いに豊作となり、民は石を立ててその徳を称えた。延安は既に破壊されていたので、合達は西路において牛を買い求め、主事者に付けて、散亡した者を招集し、その耕作を助けさせた。これより後、延安の民は次第に耕作の利益を回復した。八月、鞏州の田瑞が反乱を起こしたので、合達はこれを討伐し、諸軍が進攻した。合達は文書を送って諭し、「罪は田瑞一身に止まり、その余は問わない」と言った。数日も経たないうちに、田瑞の弟の田済が田瑞を殺して降伏したので、合達は約束通り一州を慰撫平定し、民はこれによって安寧を得た。三年、詔により平涼行省に転任した。四年二月、召還されて征され、平章政事、芮国公に任ぜられた。七年七月庚寅朔、平章政事の職を妨げるとして枢密副使に任ぜられた。初め、蒲阿が面奏して言った、「合達は軍中に長く在り、今日の多事の際には省中に在るのは、その長所を用いるに適さない。臣等は枢密と協力して軍務に当たりたい。彼を宰相の位に引き上げるのは、まだ遅くはないと思われる。」故にこの任命があった。

十月己未朔、詔して合達及び枢密副使蒲阿に衛州を救援させた。初め、朝廷は恒山公武仙を衛州に駐屯させたが、公府の節制が統一されていなかったので、これを一つに合わせようとした。この時、河朔の諸軍が衛州を包囲し、内外の連絡が断たれて既に連月に及び、ただ塔の上で時々烽火を上げるのを見るだけであった。合達らが到着すると、先ず親衛兵三千をもって試みに戦い、北兵は少し退いた。翌日、包囲は解けた。上は承天門に登って軍を労い、皆に世襲の謀克を授け、良馬と玉帯を賜い、月俸の本色を全額支給した。これは格別の恩寵であった。

間もなく、蒲阿を権参知政事とし、合達と共に閿郷に行省事を行わせ、潼関を守備させた。先に、陝西省が防禦策を上奏し、朝官が集まって議論した。上策は親征、中策は陝西に行幸、下策は秦を棄てて潼関を守ることであった。議者は、ただ陝西軍を助けて一戦を決するのみで、陝西が守れなければ河南も保てないと言った。この時までに、陝以西も守られなくなった。

八年正月、北軍の将帥速不泬が小関を攻め破り、盧氏・硃陽を破壊し、百余里の間に散漫した。潼関総帥納合買住が夾穀移迪烈・都尉高英を率いてこれを防ぎ、二省に救援を求めた。省は陳和尚の忠孝軍一千、都尉夾穀澤の軍一万を派遣して応援し、北軍は退き、これを穀口まで追撃して還った。両省は直ちに大捷と称し、上奏した。やがて北軍が風翔を攻撃すると、二省は兵を率いて関を出て二十里進み、渭北の軍と交戦し、夕方になって再び兵を収めて関に入った。鳳翔は遂に陥落した。二省は京兆を放棄し、牙古塔と共に住民を河南に移住させ、慶山奴を留めて守らせた。九月、北兵が河中に入った。時に二相は防秋から陝に還り、軍馬を量って冷水谷に出して声援とした。

十一月、鄧州から報告があり、北兵が饒峰関を経て、金州から東進しているという。そこで、両省の軍は鄧に入り、提控劉天山を遣わして劄付を襄陽制置司に下し、共に北兵を防ぎ、かつ軍糧を求めることを約した。両省は先月癸卯に出発し、楊沃衍の軍を留めて閿郷を守らせた。沃衍は間もなく詔旨を受けて洛南路より商州に入り、豊陽川に駐屯して上津を守備し、恒山公武仙と犄角の勢いを成した。合達はまた、御侮中郎将完顔陳和尚を閿郷の南十五里に留めて守らせ、それから出発した。陳和尚もまた随いて行った。沃衍の軍八千は商州の木瓜平に至り、一日夜に三百里を馳せて桃花堡に入り、北兵が豊陽より東進することを知ると、これも東還し、大軍と鎮平で合流した。恒山公武仙の軍一万は元来胡陵関に駐屯していたが、この時も荊子口・順陽を経て来会した。十二月朔、共に鄧の城下に至り、順陽に駐屯した。そこで天山を宋に遣わした。

初め、宋人は我が国朝を君とし、伯とし、叔として、歳幣を納めること将に百年に及んだ。南渡以後、宋は我が国を慮るに足らざるものとし、全く往来を絶った。故に宣宗が南伐した時、兵馬は消耗して十のうち一も残らず、淮上の数州を攻め陥としたとはいえ、ただ驕将・悍卒に恣に殺戮掠奪させ、その私欲を満たさせただけに過ぎなかった。また、宣徽使奧敦阿虎が北方に使いした時、北朝の大臣が地図を指し示して言った、「商州からここまで軍馬はどれほどか?」また興元を指して言った、「我々が商州から進まなければ、興元路を取って汝の境界に入るであろう。」阿虎が還って奏上すると、宣宗は甚だ憂慮した。哀宗が即位すると、群臣が建言し、国喪に因み使を遣わして哀悼を報じ、遺留の物を副え、これに因んで和解を講じ、辺境の守備を全て撤去し、共に武休の険を守るべきであるとした。そこで省院に下して議させたが、国政を執る者に仰ぎ見るだけで俯せない病があり、皆、朝廷が先に人を遣わすことは国体を損なうと言い訳した。元年、上は南方国境の諸帥に諭し、人を遣わして滁州で宋と通好させた。宋人は毎度奏稟を口実とし、和議の事は遂に講じられなかった。しかし十年の間、朝廷は屡々辺将に妄りに侵掠せぬよう命じ、彼我は少し休息を得、宋人は初めてこれを信じ、遂に友好を継ぐ意向を持った。天山が劄付を携えて宋に至った時、劄付とは指揮の別名であるが、宋の制使陳該は怒って天山を辱め、かつ悪語をもって返答した。この報せが届くと、識者は皆ひそかに嘆息した。

戊辰、北兵が漢江を渡って北上した。諸将はその半渡を撃つべきであるとしたが、蒲阿は従わなかった。丙子、兵は全て渡り終え、禹山の前で戦い、北兵は少し退き、三十里外に営した。二相は大捷を駅伝で報せ、百官は賀表を奉り、諸相は省中で酒宴を設け、左丞李蹊は喜び且つ泣きながら言った、「今日の捷がなければ、生民の禍は、言い尽くせぬほどであったであろう!」これは事実であると思ったからである。先に、河南では北兵が饒峰より出たと聞き、百姓は往往にして城壁に入り、険阻な地に拠って固守したが、敵が既に退いたと聞くと、平然として動かない者さえいた。二、三日と経たないうちに遊騎が至り、人は逃げる所なく、全て捷報の書に誤られたのである。

九年正月丁酉、両省の軍は陽翟の三峰山で潰えた。初め、禹山の戦いで、両軍は相対峙し、北軍は散漫に北へ向かった。金軍はその虚に乗じて京城を襲われることを恐れ、救援に入ることを謀った。時に北兵は三千騎を河上に向かわせて既に二十余日、泌陽・南陽・方城・襄・郟から京に至る諸県は皆陥落し、有る所の蓄積は焼き払われて余すところがなかった。金軍は鄧より東に向かい、糧秣の供給を受ける所なく、山に沿って陽翟に入った。出発すると、北兵は直ちにこれを襲い、行きながら戦い、北兵の損傷も多かった。恒山公の一軍は突騎三千に衝かれ、軍は必死に戦い、北騎は退走した。追撃している際、忽ち大霧が四方を蔽い、両省は軍を収めるよう命じた。しばらくして霧が散ると再び前進し、前方に大きな澗があり、長さ広さ数里に及んだ。この霧がなければ北兵の人馬がこの中に満ちていたであろう。翌日、三峰山に至り、遂に潰え、事は蒲阿伝に載せられている。合達は大事既に去ったことを知り、馬を下りて戦おうとしたが、蒲阿は既に行方知れずであった。合達は数百騎を率いて鈞州に走り、北兵はその城外に塹壕を掘って攻撃し、門から出ることもできず、窟室に隠れた。城が陥落すると、北兵がこれを発見して殺した。時に朝廷はその死を知らず、或いは既に京兆に走ったと云い、手詔を賜って人を募り訪ねさせた。汴を攻撃するに及んで、北兵は言い放った、「汝が家の恃む所は、ただ黄河と合達のみである。今、合達は我らが殺し、黄河は我らが有する。降伏せずして何を待つのか?」

合達は敵情に精通し、行陣に習熟し、かつ義を重んじて財を軽んじ、下と苦楽を共にし、俘獲があれば直ちに分け与え、敵に遇えば身を先んじて避けず、兵卒もまた喜んでこれを用いた。その人となりもまた知るべきである。左丞張行信が嘗てこれを推薦して言った、「完顔合達は、今の良将である。」

移剌蒲阿

移剌蒲阿は、もと契丹の人であり、若くして軍に従い、功労により千戸から都統に昇進した。初め、哀宗が皇太子であった時、枢密院を統轄し、蒲阿を選抜して親衛軍総領に充て、金符を佩かせた。元光二年冬十二月庚寅、宣宗の病が重篤となり、皇太子の異母兄である英王守純が先に侍疾に入り、太子は東宮から門を叩いて求見したが、蒲阿に命じて甲を内に着せ兵を集めて艮嶽に駐屯させ、非常事態に備えさせた。哀宗が即位すると、嘗て近臣に言った、「向に蒲阿がなければ、どうしてここに至ることができようか」と。そこで遙かに同知睢州軍州事を授け、権枢密院判官とし、これより軍国の大計は多く彼の決するところに従った。

正大四年十二月、河朔の軍が突如商州に侵入し、硃陽・盧氏を破壊した。蒲阿は迎撃して霊宝の東に至り、遊騎十余騎と遭遇し、一人を捕らえ、残りは即時に退いたが、蒲阿は直ちに捷報として上奏した。世襲の謀克を賞賜され、更に厚く賜与された。人々は皆その上を欺くことを知っていたが、敢えて言う者なく、吏部郎中楊居仁が微かに言葉を発して怒りを買った。

六年二月丙辰、蒲阿を権枢密副使とした。去年の夏以来、陝西に在る北軍が駸々として涇州に至り、且つ慶陽の糧道を遮断していた。蒲阿は上奏した、「陝西に両行省を設置したのは、本来河南を藩衛するためである。今北軍が来ること三年、行省が統べる軍馬は二三十万に上るが、未だ対峙したこともなく、また一本の矢すら折ったことがない。行省は何の用があろうか」と。院官もまた皆、将来は必ず枢密院の軍馬を用いて事を処理すべきであると奏上したが、上は暫く言葉を発しなかった。この後、丞相賽不に関中において尚書省事を行わせ、平章政事合達を朝廷に召還し、白撒もまた闕下に召し寄せ、蒲阿は完顔陳和尚の忠孝軍一千を率いて邠州に駐屯し、且つ北の情勢を観察させた。八月丙申、蒲阿は再び潞州を回復した。十月乙未朔、蒲阿は東還した。

十二月乙未、詔して蒲阿に総帥牙吾塔・権簽枢密院事訛可と共に慶陽を救援させた。七年正月、大昌原において北兵と戦い、北軍は退き、慶陽の包囲は解けた。詔して訛可を邠州に駐屯させ、蒲阿・牙吾塔を京兆に還らせた。未だ幾ばくもなく、権参知政事として合達と閿郷に行省を置いた。八年正月、北軍が陝西に入り、鳳翔が陥落すると、両行省は京兆を棄てて東へ向かい、洛陽らくようの駅に至り、召されて河中の事を議じた。その言葉は白華伝にある。

十二月、北兵が漢江より渡河し、両省の軍は鄧州に入った。敵の進出経路を議論し、光化で江を遮断して戦うのが有利か、渡河を許してから戦うのが有利かと論じた。張惠は「江を遮断するのが有利である。渡河を許せば、我が腹地が空虚となり、潰されないことがあろうか」と言った。蒲阿はこれを手で制して言った、「汝は南の事柄だけを知り、北の事柄を何を知るというのか。我は以前裕州で得た制旨に、'彼らが砂漠に在っても、尚かつ往きてこれを求めよ'とあった。況んや今自ら来るにおいてをや。汝らは更に大昌原・旧衛州・扇車回の如く、軽々しく出撃させてはならぬ」と。定住・高英・樊沢は皆、蒲阿のこの言葉を正しいとした。合達は乃ち按得木に問うたが、木は然らずと答えた。軍中では木が北人であるため、その軍情を知っており、この言葉は道理があると考えたが、蒲阿の議論を覆すことはできなかった。

順陽に二十日留まった。光化からの探騎が至り、「千騎が既に北へ渡った」と報告した。両省はこの夜進軍し、夜明け前に禹山に到着した。探者が続けて「北騎は既に全て渡河済み」と報告した。癸酉、北軍が近づくと、両省は軍を高山に立て、各々地勢を分けて占拠し、歩兵は山前に迎え、騎兵は山後に駐屯した。甲戌、日が未だ出ず、北兵が到着した。大帥が二本の小旗を先導として来て観察し、観察を終えても前進せず、雁の翼の如く散開し、山麓を回って騎兵の背後に出て、三隊に分かれて進んだ。輜重を除いてなお二万人余りであった。合達は諸軍に令した、「今日の事勢を見るに、戦うべきでない。暫くこれを待て」と。俄かに北騎が突進し、金兵は戦わざるを得ず、遂に短兵相接して戦い、三度交鋒し、北騎は少し退いた。西に在る北兵は蒲阿が自ら甲騎を率いて背後から突撃するのを見て、三度にわたり突撃したが、蒲察定住が力戦して防ぎ退けた。大帥は旗を以て諸将を集め、長く議論した。合達は北兵の意向を知った。時に高英の軍が方々北を顧みていると、北兵がその背後に出てこれを包囲し、英軍が動揺した。合達は高英を斬らんとし、英は再び軍を督して力戦した。北兵は少し退いて情勢を観察し、英軍が落ち着くと、再び樊沢の軍を包囲した。合達は一千夫長を斬り、軍は必死に戦い、乃ちこれを退けた。

北兵は陣を引き、南の来た道に向かった。両省は再び議論した、「彼らは号すること三万とはいえ、輜重が三分の一を占める。又、二三日相持して食を得ず、その退却に乗じてこれを包囲すべきである」と。張惠がこの議を主張した。蒲阿は言った、「江の通路は既に絶たれ、黄河は氷結せず、彼らは重地に入った。将に何処に帰ろうとするのか。何ぞ急ぐことがあろうか」と。従わなかった。乙亥、北兵は忽然として所在を知れずなり、営火は寂として一つの音信もなかった。両省及び諸将が議論した、四日間軍を見ず、また営も見えず、鄧州からの補給及び路上の行人は絶え間ないが、それでも見た者がない。南へ渡って帰ったのか。己卯、斥候騎兵が乃ち北軍が光化の対岸の棗林の中に在ることを知った。昼は食事を作り、夜は馬から下りず、林中を往来するのを望見するが、五六十歩を隔てても音響を聞かず、その謀り事有るを知ることができた。

初め、禹山の戦いが終わって、二騎が迷って営中に入った。問うと、北兵は凡そ七つの頭項(部隊)あり、大将がこれを統率していることを知った。又、詐降する者十人があり、ぼろの衣に痩せた馬で泣きながら苦難を訴えた。両省はこれを信じ、肥えた馬と取り替え、酒を飲ませ、暖かい衣食を与えて陣の後に置いた。十人は皆、馬に鞭打って去り、始めてそれが偵察騎兵であったことを悟った。

庚辰、両省は鄧州に入って糧食に就くことを議した。辰巳の刻に林の後ろに到着すると、北兵が忽然として来襲した。両省の軍は迎撃し、互いに矛を交える際に、北兵は百騎で輜重を遮って奪い去り、金兵はほとんど隊列を成さず、夜に至って乃ち城に入った。軍士が道に迷うことを懼れ、鐘を鳴らして招集した。樊沢は城西に駐屯し、高英は城東に駐屯した。九年正月壬午朔、鄧城の下で兵を耀かした。北兵は戦わず、大将が使いを寄こして酒を求め、両省はこれに二十瓶を与えた。癸未、大軍は鄧州を発ち、京師に向かった。騎兵二万、歩兵十三万。騎兵の将帥は蒲察定住・蒲察答吉卜、郎将は按忒木、忠孝軍総領は夾穀愛答・内族達魯歡、総領は夾穀移特剌、提控歩軍は臨淄郡王張惠、殄寇都尉は完顔阿排・高英・樊沢、中軍は陳和尚、恆山公武仙・楊沃衍の軍と合流した。この日、五朵山の下に宿営し、鴉路を取った。北兵は三千騎でこれを尾行し、遂に営を駐めて楊武を待った。

楊武が到着し、申州・裕州の両州が既に降伏したことを知った。七日目の夜、北騎が明日再び我を襲うであろうと議論し、彼らは騎兵三千に過ぎず、我が弱さを示せば、軽んじられるであろうから、これと戦うべきであると決した。乃ち五十騎を鄧州道に伏せた。翌日軍が行進すると、北騎が例の如く襲撃した。金は一万の兵でこれを包囲して東へ向かい、伏兵が発動すると、北兵は南へ避けた。この日は雨で、竹林の中で宿営した。庚寅、安皋に頓駐した。辛卯、鴉路・魯山に宿営した。河西軍は既に申・裕を献上し、老幼と牛羊を擁して鴉路を取ったが、金軍が丁度これに出会い、その牛羊を奪って軍の糧食とした。

癸巳(の日)、鈞州を望み、沙河に至る。北騎五千が河北に待ち受け、金軍は橋を奪って渡河す。北軍は直ちに西を向いて退避す。金軍は縦撃を加うるも、北軍は戦わず、再び南に沙河を渡る。金軍は営をめぐらさんと欲すれども、北軍は再び河を渡って来襲す。金軍は食を得ず、また休息も得ず。合昏(日暮れ)に雨降り、明旦には雪に変ず。北兵は増して万に及び、且つ行き且つ戦い、黄榆店に至る。鈞州を望むこと二十五里、雨雪のため進むこと能わず、三日間営を盤らす。丙申(の日)、一近侍が軍中に入りて旨を伝え、諸帥を集めて処分を聴かしむ。制旨に云く、「両省軍は悉く京師に赴け。朕は門をふせぎて軍を犒い、禦馬を換易し、然る後に出戦せば未だ晩からず」と。また密旨有りて云く、「近く張家湾より二三百騎が透漏(突破)したるを知る。既に衛・孟両州にうつれり。両省は常に切に防備すべし」と。旨を領し畢りて、蒲阿は袖を払って起つ。合達は再議せんと欲すれども、蒲阿言う、「此れに止まるのみ。また何をか議せん」と。けだし已に魄を奪われたるなり。軍は即ち行く。

北軍は北より渡る者畢ことごとく集まり、前後を大樹を以て塞ぎて其の軍路とす。沃衍の軍は路を奪い、之を得たり。合達はまた議して、陳和尚に先ず山上の大勢を擁せしめ、ころ再び整頓せんとするに、金軍は已に竹林に接し、鈞州を去ること僅か十余里なり。金軍は遂に進み、北軍は果たして三峰の東北・西南を却く。武・高の前鋒は其の西南を擁し、楊・樊は其の東北を擁す。北兵は俱に却き、ただ三峰の東に在り。張惠・按得木は山上に立ちて北兵二三十万を望み、厚さ約二十里とす。按得木、張惠と謀りて曰く、「此の地に戦わずんば、何をか為さんと欲するや」と。乃ち騎兵万余を率い、上より乗じて下りて之を擁す。北兵却く。須臾にして雪大いにおこり、白霧空を蔽い、人相い覿えず。時に雪は已に三日、戦地は麻田多く、往々耕して四五過たびす。人馬の践む所、泥淖でいどう脛を没す。軍士は甲骨を被りて僵立雪中し、槍槊は凍りてたるきの如く結ぶ。軍士に食せずして三日に至る者有り。北兵は河北軍と合し、四週ししゅう之を囲む。薪をおこして牛羊肉をき、かわりて休息す。金の困憊に乗じ、乃ち鈞州の路を開きて之を走らしめ、生軍を以て挟撃す。金軍は遂に潰え、声は山の崩るるが如し。忽ち天氣開霽し、日光皎然たり。金軍に一人として逃るるを得る者無し。

武仙は三十騎を率いて竹林中に入る。楊・樊・張の三軍は路を争い、北兵は之を数重に囲む。高英の残兵と共に柿林村南に戦い、沃衍・沢・英は皆死す。惟だ張惠は歩きて大槍を持ち奮戦して歿す。蒲阿は京師に走るも、未だ至らざるに追い及び、之をとらう。七月、械して官山に至り、降るや否やを召し問う。往復数百言、但だ曰く、「我は金国の大臣なり。惟だ金国境内に死すべきのみ」と。遂に殺さる。

賛に曰く、金、南渡以来、用兵克捷の功、史に絶えず書す。然れども地はひらかず、殺傷相あい当たり、君子之を疑う。異時に宋を伐つ、唐州の役、師を喪うこと七百、主将訛論之を匿し、而以て捷を聞かす。御史納蘭之を糾す。宣宗は御史を奨め、而して訛論を罪せず。是れ君臣相率いて虚声を為すなり。禹山の捷、両省欺きを為し、遂に国を誤るに致す。豈に宣宗の前事、之を啓く有るに非ずや。三峰山の敗に至りては、收拾すべからず。上下暿咢眙きがくたいし、而して金の事已に十九去る。天朝は襄・漢を取り道とし、軍を懸けて深入し、機権神の若く、又天助を獲たり。もって能く兵家の忌む所を犯し、以て万世の俊功を建つ。合達は良将と雖も、何を以てか之に当たらんに足らん。蒲阿は謀無く、独り一死以て愧じず、猶取るに足るのみ。