金史

列傳第四十九:古里甲石倫 内族完顏訛可 撒合輦 強伸 烏林答胡土 内族完顏思烈 紇石烈牙吾塔

列傳第四十九:古里甲石倫 内族完顏訛可 撒合輦 強伸 烏林答胡土 内族完顏思烈 紇石烈牙吾塔

古里甲石倫

原文古里甲石倫

古里甲石倫は隆安の人である。武挙に及第した。人となりは剛直で悍猛、頗る自らを恃み、所在で人と合わなかった。宣宗はその勇猛善戦を以て、毎度任用した。貞祐二年、累遷して副提控・太原府判官となり、従宜都提控・振武軍節度使完顏蒲刺都と防禦の議に合わず、措置が方に乖き、敵は大いに侵入し、殆ど防ぎ得なかった。既にして互いに上奏して論じ、以て自ら無罪を弁じた。上はその不和を憎み、詔してその兵を分統させた。未だ幾ばくもせず、同知太原府事に遷る。奏請して義軍を招集し、長校を設置し、各々等差を立てた。都統は正七品の職を授け、副統は正八品、万戸は正九品、千戸は正班任使、謀克ぼうこくは雑班とする。なお三十人を一謀克とし、五謀克を一千戸とし、四千戸を一万戸とし、四万戸を一副統とし、両副統を一都統とし、外に一総領提控を設ける。制可された。

原文古里甲石倫,隆安人。以武舉登第。為人剛悍,頗自用,所在與人不合。宣宗以其勇善戰,每任用之。貞祐二年,累遷副提控、太原府判官,與從宜都提控、振武軍節度使完顏蒲刺都議拒守不合,措置乖方,敵因大入,幾不可禦。既乃交章論列,以自辨其無罪,上惡其不和,詔分統其兵。未幾,遷同知太原府事。奏請招集義軍,設置長校,各立等差。都統授正七品職,副統正八品,萬戶正九品,千戶正班任使,謀克雜班。仍三十人為一謀克,五謀克為一千戶,四千戶為一萬戶,四萬戶為一副統,兩副統為一都統,外設一總領提控。制可。

四年、河東宣撫副使に遷り、上章して宣撫使烏古論禮が兵を分けて敵を防ごうとせず、且つその行うところ多く法に背くと言う。詔して禮を罷職させ、石倫は絳陽軍節度使に遷り、権経略使となり、尋で延安府事を知り、兼ねて鄜延路兵馬都総管となった。大元の兵が忻州を囲むと、石倫は兵を率いて往き援け、兵を以てその民を太原に入れ護り、保った軍民は甚だ衆かった。興定元年七月、河平軍節度・兼衛州管内観察使に改め、詔諭して曰く、「朕初め汝を勇果として、国の為に力を尽くすと謂い、故に倚りて事を済さんとした。尋いで聞くに汝は酒を嗜みて法に背き、而して太原知府烏古論德升も亦た屡々嘗て朕の為に之を言う、然れども皆瑣屑なるもの、乃ち若し汾州を救わざるは、豈に細事ならんや。有司罪を議するは此の如し、汝其れ之を悉くせ、益々当に力を戮して、以て前過を掩うべし。」是の年十一月、鎮西軍節度使・兼嵐州管内観察使・行元帥府事に遷る。

原文四年,遷河東宣撫副使,上章言宣撫使烏古論禮不肯分兵禦敵,且所行多不法。詔禮罷職,石倫遷絳陽軍節度使,權經略使,尋知延安府事、兼鄜延路兵馬都總管。大元兵圍忻州,石倫率兵往援,以兵護其民入太原,所保軍民甚眾。興定元年七月,改河平軍節度、兼衛州管內觀察使,詔諭曰:「朕初謂汝勇果,為國盡力,故倚以濟事。尋聞汝嗜酒不法,而太原知府烏古論德升亦屢嘗為朕言之,然皆瑣屑,乃若不救汾州,豈細事哉?有司議罪如此,汝其悉之,益當戮力,以掩前過。」是年十一月,遷鎮西軍節度使、兼嵐州管內觀察使、行元帥府事。

二年四月、石倫言う、「去歳北兵太原を破り、游兵時に嵐州の境に入る、而して官民将士悉く力を捍禦に尽くし、卒く能く保守して虞無し。向者河東の内郡は、皆精甲を駐め、資儲を実にし、辺城を視ること尤も完富なり、然るに兵一たび至れば、相継いで淪没す。嵐は兵寡くして食足らず、惟れ其の上下協同し、表裏相応ずるを以て、遂に安帖を獲たり。当に大軍初めに入る時、郡県倉皇たり、此の帥府の控制に非ざれば、則ち庾・管・保德・岢嵐・寧化皆知るべからざるなり。今防秋遠からず、朝廷に乞うらくは量りに旌賞を加え、務めて益々心力を尽くさしめ、以て鎮守に易えしめん。」詔して功有る者各々官一級を遷し、仍って空名の宣敕を降給し、枢密院をして遣わして之を授けしむ。

原文二年四月,石倫言:「去歲北兵破太原,游兵時入嵐州境,而官民將士悉力捍禦,卒能保守無虞。向者河東內郡,皆駐以精甲,實以資儲,視邊城尤為完富,然兵一至,相繼淪沒。嵐兵寡而食不足,惟其上下協同,表裏相應,遂獲安帖。當大軍初入,郡縣倉皇,非此帥府控制,則庾、管、保德、岢嵐、寧化皆不可知矣。今防秋不遠,乞朝廷量加旌賞,務令益盡心力,易以鎮守。」詔有功者各遷官一級,仍給降空名宣敕,令樞密院遣授之。

三年二月、石倫奏す、「向者並・汾既に破れ、兵内地に入る、臣謂う必ず平陽を攻め、平陽守らざれば、将に潞州に及び、其の還るは当に龍州穀を由って以て太原に入らんと。故に臣嘗て兵を請いて其の帰路を扼せんと欲す、朝廷然らずと為す、既にして皆臣の料る所の如し。始め敵河東に入る時、郡県の民皆老幼を携えて山険に徙居す、後太原失守すと雖も、而して衆卒従わず、其の意は敵久しく留まらず、且つ官軍の復た至らんことを望むと謂うなり。今敵半歳居り、歩騎を遣わして諸の保聚を擾し、而して官軍竟に至る者無し、民其れ能く久しく抗せんや。夫れ太原は河東の要郡、平陽は陝西・河南の藩籬なり。若し敵兵久しく去らず、居民尽く従い、兵を屯め糧を積んで以て基本を固め、而して復た吾が郡県未だ残れる者を擾さば、則ち辺城指日に皆下らん。北路守らざれば、則ち南路を辺と為し、陝西・河南を去ること益々近し、臣窃かに之を憂う、故に復た兵を請いて以て戦守を図らんとす。而して枢府臣に檄し、並びに権太原治中郭遹祖・義軍李天祿等万余人を将い、其の糧五千石に就き、汾州権元帥右都監抹撚胡剌と会して太原を復せしむ。臣遹祖を召し、其の衆を号令せんと欲す、遹祖従わず。尋いで胡剌の報を得て曰く、『嘗て軍数を遹祖に問う、但に天祿等の言うを称し、未だ嘗て親しく閲せず。糧を問えば、則ち曰く数処に散在すと。』蓋し其の情は本より朝廷に己が兵糧有ることを視せ、冀くは或いは見用せられ、以て重職を取らんと欲し、実用と指すべからざるなり。然りと雖も、臣已に提控石盞吾里忻等を遣わして軍を率いて往かしむ。但だ敵勢頗る重く、而して往く者は皆新たに集まる白徒、精鋭を絶えて無く、勝つ能わざるを恐る。河南・陝西に乞うらくは量りに精兵を分かち、以て臣が力を増し、仍って陝西州郡河東に近き者に之に資糧を与えしめ、更に南路諸軍をして敵の南を綴らしめ、以て其の勢を分かたしめば、此くの如くして庶幾くは太原復たせられん。」詔して陝西・河東行省に糧を分かちて之に与えしむ、兵を請うの事は、方に宋を伐つを以て従わず。

原文三年二月,石倫奏:「向者並、汾既破,兵入內地,臣謂必攻平陽,平陽不守,將及潞州,其還當由龍州穀以入太原。故臣嘗請兵欲扼其歸路,朝廷不以為然,既而皆如臣所料。始敵入河東時,郡縣民皆攜老幼徙居山險,後雖太原失守,而眾卒不從,其意謂敵不久留,且望官軍複至也。今敵居半歲,遣步騎擾諸保聚,而官軍竟無至者,民其能久抗乎。夫太原,河東之要郡;平陽,陝西,河南之籓籬也。若敵兵久不去,居民盡從,屯兵積糧以固基本,而複擾吾郡縣未殘者,則邊城指日皆下矣。北路不守,則南路為邊,去陝西、河南益近,臣竊憂之,故複請兵以圖戰守。而樞府檄臣,並將權太原治中郭遹祖、義軍李天祿等萬餘人,就其糧五千石,會汾州權元帥右都監抹撚胡剌複太原。臣召遹祖,欲號令其眾,遹祖不從。尋得胡剌報曰:'嘗問軍數于遹祖,但稱天祿等言之,未嘗親閱。問糧,則曰散在數處。'蓋其情本欲視朝廷以己有兵糧,冀或見用,以取重職,不可指為實用也。雖然,臣已遣提控石盞吾里忻等領軍以往矣。但敵勢頗重,而往者皆新集白徒,絕無精銳,恐不能勝。乞於河南、陝西量分精兵,以增臣力,仍令陝西州郡近河東者給之資糧,更令南路諸軍綴敵之南,以分其勢,如此庶幾太原可複也。」詔陝西、河東行省分糧與之,請兵之事,以方伐宋不從。

三月、石倫復た上言して曰く、「頃者大兵太原を破り、民を招きて耕稼せしめ、久駐の基と為す。臣太原を要鎮と為し、当に必ず争うべき所とし、提控石盞吾里忻を遣わして官兵義兵を引きて共に収復を図らしむ。又軍士功有る者は宜しく速やかに之を賞すべしとし、故に吾里忻をして九品の職を注授するを得しめんと擬し、是を以て朝に請う、而して執政は賞功罰罪は皆須らく中覆すべしと為す。夫れ河東京師を去ること甚だ遠く、移報往返して数十日に暇あらず、官軍は皆敗亡の余り、鋒鋭略く尽き、而して義兵も亦た行陣に習わず、烏合に異ならず、重賞を以て之を誘うも猶ほ用いられざるを恐る、況んや功有りて久しく報いられざるを見ざるをや。夫れ衆用いるべからざれば則ち敵を退くることができず、敵退かざれば則ち太原復たすべからず、太原復たさざれば則ち平陽の勢日々危うく、而して境土日々蹙らん。今朝廷抑えて許さざるは、其の濫賞を慮うに過ぎず。借り使し濫賞の弊有るとも、其れ太原を失うの害と孰れか重からん。」是に於て詔して其の請に従い、太原治中及び他州の従七品以下の職・四品以下の散官より、並びに石倫の遷調を聴す。

原文三月,石倫複上言曰:「頃者大兵破太原,招民耕稼,為久駐之基。臣以太原要鎮,所當必爭,遣提控石盞吾里忻引官兵義兵共圖收復。又以軍士有功者宜速賞之,故擬令吾里忻得注授九品之職,以是請於朝,而執政以為賞功罰罪皆須中覆。夫河東去京師甚遠,移報往返不暇數十日,官軍皆敗亡之餘,鋒銳略盡,而義兵亦不習行陣,無異烏合,以重賞誘之猶恐不為用,況有功而久不見報乎。夫眾不可用則不能退敵,敵不退則太原不可複,太原不可複則平陽之勢日危,而境土日蹙矣。今朝廷抑而不許,不過慮其濫賞耳。借使有濫賞之弊,其與失太原之害孰重?」於是詔從其請,自太原治中及他州從七品以下職、四品以下散官,並聽石倫遷調焉。

今月、石倫がまた言上した。「先日、軍を潜行させて敵の陣営を急襲しようとし、石州の兵五百を分けて方山に仮に駐屯させ、土賊を討伐し、かつ嵐州に備えようとしたが、同知の蒲察ほさつ桓端がこれを拒んで発兵しなかった。また同知の甯辺軍節度使姚里鴉鶻を召して軍事を議したが、ついに命令を聞かなかった。近ごろ兵を率いて太原を取ろうとし、石州刺史の納合萬家に六部の事務を代行するよう委ねたが、彼は他の理由を言って辞退し、軍糧の調達を危うくしそうになった。武州刺史の郭憲に率いる軍を合わせて進軍するよう約したが、憲もまた来なかった。臣は不肖ながら方面の任に当たっているが、統べる官属はみな命令に従わない。朝廷に厳しく懲戒を加えていただき、人々に職分を知らしめ、責務の遂行を容易にしたい。」宰相はこれを憎み、そこで上奏した。「桓端、鴉鶻はすでに奏上して改任したので、再び議論することはない。石倫は行部を兼任しながら、自ら計画せず、萬家に往来して供給させ、石州には人がいなくなり、恐らく失策もあるだろう。武州は辺境の郡で、まさに兵の要衝に当たり、憲に軍を率いて城を離れさせれば、敵がもしこれに乗じた場合、守備と比べてどうか。萬家らが従わなかったのは、過ちではない。」皇帝はこれを正しいと考え、そこで石倫に諭して言った。「卿はかつて帰徳で行院を務め、衛州の防備のことは、平素知らないわけではないのに、しばしば歩騎の増援を請うのはなぜか。卿に三品を授け、かつたびたび罪を免じてやったのに、卿はかつて死をもって国に報いると自ら誓った。今の行いは、果たして国に報いる道であろうか。河南の兵は必ず分けるべきではないと考え、ただ他日に口実とできることを図っているだけではないか。卿がもし真心を以て国に尽くすなら、力を尽くして計画すれば、それで十分に自ら功を立てられる。萬家らをもし必ず懲戒するなら、あの地でまた誰を使えるというのか。しばらくは容認しておくがよい。」

原文是月,石倫複言:「日者遣軍潛搗敵壘,欲分石州兵五百權屯方山,剿殺土寇,且備嵐州,而同知蒲察桓端拒而不發。又召同知甯邊軍節度使姚里鴉鶻與之議兵,竟不聽命。近領兵將取太原,委石州刺史納合萬家權行六部,而辭以他故,幾誤軍糧。約武州刺史郭憲率所領並進,憲亦不至。臣猥當方面之任,而所統官屬並不稟從,乞朝廷嚴為懲誡,庶人知職分,易以責辦。」宰臣惡之,乃奏曰:「桓端、鴉鶻已經奏改,無複可議。石倫身兼行部,不自規畫,而使萬家往來應給,石州無人,恐亦有失。武州邊郡,正當兵沖,使憲率軍離城,敵或乘之,孰與守禦?萬家等不從,未為過也。」上以為然,因遣諭石倫曰:「卿嘗行院於歸德,衛州防備之事,非不素知,乃屢以步騎為請何耶?比授卿三品,且數免罪譴卿,嘗自誓以死報國,今所為如此,豈報國之道哉!意謂河南之眾必不可分,但圖他日得以藉口耳。卿果赤必為國,盡力經畫,亦足自效。萬家等若必懲戒,彼中誰複可使者?姑為容忍可也。」

閏三月、石倫は太原の西に兵を駐屯させ、諸道の兵が到着するのを待って進軍しようとしたが、脅従した人々の中にかなり心を改める者がいると聞き、朝廷に上言して、空名の宣敕・金銀符を下賜し、便宜に任じて官職を授けることを許し、彼らを招き誘うよう請うた。皇帝はその請いを聞き入れ、これをすべて支給し、なお五品以下の官職を授けることを許した。

原文閏三月,石倫駐兵太原之西,俟諸道兵至進戰,聞脅從人頗有革心,上言於朝,乞降空名宣敕、金銀符,許便宜遷注,以招誘之。上從其請,並給付之,仍聽注五品以下官職。

六月、保德州の振威軍万戸の王章・弩軍万戸の齊鎮がその刺史の孛術魯銀術哥を殺害し、さらにその家族を滅ぼし、官吏・軍民を脅して同じ内容の書状を嵐州の帥府に届けさせ、銀術哥が専横で残酷、私的に甲冑兵器を造り、謀反を企てたと訴えた。石倫は密かに同知州事の把蒲剌都にこれを図らせた。蒲剌都はそこで兵士・官吏と酒宴を設けて章らを招き、捕らえて一族を誅殺した。ここに至り、朝廷は行省の胥鼎に適宜に昇進・賞賜を行うよう命じ、なお蒲剌都に州事を代行させ、その民衆を慰撫安堵させた。

原文六月,保德州振威軍萬戶王章、弩軍萬戶齊鎮殺其刺史孛術魯銀術哥,仍滅其家,脅官吏軍民同狀白嵐州帥府,言銀術哥專恣慘酷,私造甲仗,將謀不軌。石倫密令同知州事把蒲剌都圖之,蒲剌都乃與兵吏置酒召章等欽,擒而族誅之。至是,朝廷命行省胥鼎量宜遷賞,仍令蒲剌都攝州事,撫安其眾焉。

六月、金安軍節度使に転任し、葭州で帥府の事務を行った。当時、鄜州の元帥で内族の承立は夏人の侵入を憂慮し、納合買住に兵を率いて葭州に駐屯させた。石倫は勝手に買住の兵千八百人を分けて留め置き、残りの兵を綾徳に駐屯させた後に奏上した。有司が罪を論じて絞刑に相当するとしたが、まもなく赦令に遇い、ただ除名されただけに止まった。元光元年、鄭州同知防禦使に起用され、防禦使の裴満羊哥と共に管内で酒を売って代金を支払わず、ともに除名された。三月、皇帝は元帥監軍の内族訛可に諭して言った。「石倫は今罪で廃されているが、再び起用しようと思うと、世間の議論を生む恐れがある。汝の軍中で用いることはできないか。この人は戦いに長けており、もし用いることができるならば、すぐに派遣しよう。古にも白衣で職務を領した者がいる。彼は除名されているが、何の支障があろうか。」十月、大元の兵が青龍堡を包囲した。詔して石倫を権左都監とし、兵を率いて上党公・晉陽公と合流し、救援に向かわせた。兵は弾平寨の東三十里に駐屯したが、敵兵が道を塞いで進めず、まもなく青龍堡が陥落したため、召還された。その後、また罪によって免官された。

原文六月,遷金安軍節度使,行帥府事於葭州。時鄜州元帥內族承立慮夏人入寇,遣納合買住以兵駐葭州,石倫輒分留買住兵千八百人,令以餘兵屯綏德,而後奏之。有司論罪當絞,既而遇赦,乃止除名。元光元年,起為鄭州同知防禦使,與防禦使裴滿羊哥部內酤酒不償直,皆除名。三月,上諭元帥監軍內族訛可曰:「石倫今以罪廢,欲再起之,恐生物議,汝軍前得無用之乎。此人頗善戰,果可用便當遣去。古亦有白衣領職者,渠雖除名,何害也。」十月,大元兵圍青龍堡,詔以石倫權左都監,將兵會上党公、晉陽公往援之。兵次彈平寨東三十里,敵兵梗道不得進,會青龍堡破,召還。既而複以罪免。

正大八年、大軍が河南に入り、州郡で陥落しないところはなかった。朝廷の議論では、権昌武軍節度使の粘葛仝周は軍事を知らないとして、石倫を起用して代えさせた。石倫が初めて昌武に赴く際、詔を下して諭した。「卿は先朝の宿将で、大いに威望がある。故にこの職に任じる。元帥の蘇椿・武監軍はいずれも軍事に通じている。今、昌武におり、彼らとともに協議すべきで、再び不和を生じて失策してはならない。」当時、北兵はすでに許に至っていた。石倫が鎮に赴く途中、ほとんど遊撃騎兵に捕らえられそうになった。数日後、両省の軍が敗れたことを知り、潰走した兵が続々と来た。忠孝軍の完顏副統が城に入ったが、両手とも折れ、血にまみれていた。州人は憂慮恐怖してどうしてよいかわからなかった。石倫は帰順軍の提控で嵐州人の高珪を斥候に派遣した。珪はそこで州内の軍馬・糧草の数を記した書類を持って大元軍に奔り、さらに城の深浅を告げた。まもなく大軍が城下に至り、鳳翔府の韓壽孫に檄文を持たせて降伏を勧告し、三峰での敗戦の状況を伝えた。石倫・蘇椿は問い詰めもせずにただちに市中で斬った。まもなく武監軍の偏裨の何魏らが東門を開き、内族の按春が南門を開き、夾谷太守が西門を開いた。大元軍が城に入り、蘇椿を捕らえ、大名から南奔したことを問うた。椿は言った。「私はもともと金朝の人で、力がなかったから降った。私は帰国して大官となった。どうして謀反と言えようか。」大将はその不屈を怒り、ただちに殺した。石倫は官舎の後ろの井戸に身を投げ、仝周は州庁舎で自縊した。武監軍は初めは門を開く謀議ぼうぎには加わっていなかった。何魏らは彼を助けようと思い、そこで大将に言った。「監軍が我々に門を献げよと命じました。」しかし大将もまた彼が軍を迎えずに降ったことを怒り、やはり殺した。

原文正大八年,大兵入河南,州郡無不下者,朝議以權昌武軍節度使粘葛仝周不知兵事,起石倫代之。石倫初赴昌武,詔諭曰:「卿先朝宿將,甚有威望,故起拜是職。元帥蘇椿、武監軍皆曉兵事,今在昌武,宜與同議,勿複不睦失計也。」時北兵已至許,石倫赴鎮,幾為遊騎所獲。數日,知兩省軍敗,潰軍踵來。有忠孝軍完顏副統入城,兩手皆折,血污滿身,州人憂怖不知所出。石倫遣歸順軍提控嵐州人高珪往斥候,珪因持在州軍馬糧草數目奔大元軍,仍告以城池深淺。俄大兵至城下,以鳳翔府韓壽孫持檄招降,言三峰敗狀。石倫、蘇椿不詰問即斬之市中。既而武監軍偏裨何魏輩開東門,內族按春開南門,夾谷太守開西門。大元軍入城,擒蘇椿,問以大名南奔之事,椿曰:「我本金朝人,無力故降,我歸國得為大官,何謂反耶!」大將怒其不屈,即殺之。石倫投廨後井中,仝周自縊州廨。武監軍者初不預開門之謀,何魏輩欲保全之,故言于大將曰:「監軍令我輩獻門。」然亦怒其不迎軍而降,亦殺之。

仝周は名を暉、字を子陽といい、策論進士であった。興定年間に徐州行枢密院参議官となり、上章して言った。「名と器だけは人に仮すべからず、古来の帝王はこれを重んじない者はなかった。今の金銀牌は、すなわち古の符節である。その上には太祖の御画がある。往年は佩用することを得るのは甚だ難しかったが、兵乱が起こって以来、授与が甚だ濫雑となり、市井や道路で黄白の牌が相望んでいる。これは恐らく下に信を示すものではない。これを大切にし、区別を設けていただきたい。」皇帝はこれを宰臣に語り、丞相の高琪らが上奏した。「時はまさに多難で、人材の登用が急務である。人を御する方策の一つであり、従来通りがよい。」

原文仝周名暉,字子陽,策論進士,興定間為徐州行樞密院參議官,上章言:「惟名與器不可假人,自古帝王靡不為重。今之金銀牌,即古符節也,其上有太祖禦畫,往年得佩者甚難,兵興以來授予頗濫,市井道路黃白相望,恐非所以示信於下也。乞寶惜之,有所甄別。」上以語宰臣,而丞相高琪等奏:「時方多難,急於用人,駕馭之方,此其一也,如故為便。」

蘇椿は大名人で、初め大名を守り、大元に帰順した。正大二年九月、大名から汴に奔った。詔して許州に置いた。ここに至り、殺された。

原文蘇椿,大名人,初守大名,歸順於大元,正大二年九月,自大名奔汴,詔置許州,至是,見殺。

完顏訛可

原文完顏訛可

完顏訛可は内族である。当時、二人の訛可がおり、いずれも護衛の出身であった。一人は「草火訛可」といい、賊を捕らえるたびに、草火で焼くのを好んだ。一人は「板子訛可」といい、かつて宮中の牙牌で朝参の整列を報ずるものを誤って板子と呼んだ。故に当時の人はそれぞれこれをもって彼らを見なした。

原文完顏訛可,內族也。時有兩訛可,皆護衛出身,一曰「草火訛可」,每得賊,好以草火燎之,一曰「板子訛可」,嘗誤以宮中牙牌報班齊者為板子,故時人各以是目之。

正大八年九月、大軍が河中を攻撃した。初め、宣宗が遷都を議論した際、朝臣は河中に遷都すべきと主張した。「河中は関陝五路を背後に控え、軍馬が充実しており、南は大河に阻まれており、行台を設置して右翼とすることができる。前方には絳陽・平陽・太原の三大鎮があり、敵兵は軽々しく侵入できない。三鎮の郡県の民は皆山寨に集結させ、敵が来れば昼は攻撃し夜は襲撃する計略をとるべきである。中条山に重軍を駐屯させれば、行在は万全の守りが固まるであろう。」と。主たる議事者は、河中が河朔に位置し、また宮室もないため、汴梁には及ばないとして、議論は遂に立ち消えとなった。宣宗が河南に遷都した後、三二年を経て、詔により元帥都監の内族阿祿帯に行帥府事を執らせた。阿祿帯は臆病で軍務を執ることができず、民の膏血を絞って堀や築城の計画に費やした。間もなく、絳州が陥落すると、阿祿帯はますます恐れ、急ぎ上奏して河中は孤城で守れないと述べた。親しく視察し、果たして守れないならば放棄せよ、敵に資することなきようにとの旨があった。阿祿帯は遂に河中を放棄し、民家や官庁を焼き、一二日で全てを焼き尽くした。やがて、河中は重鎮であり、国家の基本の地であるから、放棄するのは失策であり、もし敵に占拠されれば、大河の険阻を我々が専有できなくなるとの意見が出た。宣宗は悔悟し、阿祿帯を同州の獄に繋ぎ、幾度も命じて修復させたが、守るそばから陥落した。この時至り、内族の両訛可に兵三万を率いて守らせた。大軍は宋の武休関を取ることを謀った。間もなく、鳳翔が陥落し、睿宗は騎兵三万を分けて散関に入り、鳳州を攻め破り、華陽を経由し、洋州を屠り、武休関を攻撃した。生山を開き、焦崖を断ち切り、武休の東南に出て、遂に興元を包囲した。興元の軍民は散り散りに逃げ、沙窩で死んだ者は数十万に及んだ。軍を分けて西に向かい、西軍は別路から沔州に入り、大安軍路を取って魚鱉山を開き、家屋を撤去して筏とし、嘉陵江を渡って関堡に入り、江に沿って葭萌に向かい、西水県まで土地を攻略して引き返した。東軍は興元・洋州の間に駐屯し、遂に饒峰に向かった。宋人は関を放棄して守らず、大軍はこれによって入ることができた。

原文正大八年九月,大兵攻河中。初,宣宗議遷都,朝臣謂可遷河中:「河中背負關陝五路,士馬全盛,南阻大河,可建行台以為右翼。前有絳陽、平陽、太原三大鎮,敵兵不敢輕入。應三鎮郡縣之民皆聚之山寨,敵至則為晝攻夜劫之計。屯重軍中條,則行在有萬全之固矣。」主議者以河中在河朔,又無宮室,不及汴梁,議遂寢。宣宗既遷河南,三二年之後,詔元帥都監內族阿祿帶行帥府事。阿祿帶恇怯不能軍,竭民膏血為浚築之計。未幾,絳州破,阿祿帶益懼,馳奏河中孤城不可守。有旨親視,果不可守則棄之,無至資敵。阿祿帶遂棄河中,燒民戶官府,一二日而盡。尋有言河中重鎮,國家基本所在,棄之為失策,設為敵人所據,則大河之險我不得專恃矣。宣宗悔悟,系阿祿帶同州獄,累命完複之,隨守隨破。至是,以內族兩訛可將兵三萬守之。大兵謀取宋武休關。未幾,鳳翔破,睿宗分騎兵三萬入散關,攻破鳳州,徑過華陽,屠洋州,攻武休關。開生山,截焦崖,出武休東南,遂圍興元。興元軍民散走,死于沙窩者數十萬。分軍而西,西軍由別路入沔州,取大安軍路開魚鱉山,撤屋為筏,渡嘉陵江入關堡,並江趨葭萌,略地至西水縣而還。東軍止屯興元、洋州之間,遂趨饒峰。宋人棄關不守,大兵乃得入。

初め、大軍は翌年正月に南北の軍を合わせて汴梁を攻撃することを期しており、故に自ら河中を攻撃した。河中が危急を告げると、合打蒲阿は王敢に歩兵一万を率いて救援させた。十二月、河中は陥落した。初め、河中の主将は大軍が来ることを知り、軍力が不足することを恐れ、旧城の半分を切り取って守った。攻撃を受けると、行帳は松楼を高さ二百尺築くことを命じ、下から城中を見下ろし、土山や地穴の百道を並行して進めた。十一月に至り、攻撃はますます激しくなった。王敢の救援軍が到着してから、軍士は必死で戦い、日夜休むことなく、西北の楼櫓は全て尽き、白兵戦がさらに半月続き、力尽きて陥落した。草訛可は数十合戦ってようやく捕らえられ、間もなく殺された。板訛可は敗残兵三千を率いて船を奪って逃走したが、北兵が追い付き、北岸で鬨の声を上げ、矢石が雨のごとく降った。数里の外に戦船が横たわって遮り、敗軍は通過できず、船中には「震天雷」という名の火砲を携えた者がおり、これを連発した。砲火が明るく照らし、北船の軍兵が僅かであるのを見て、力を振るって横たわる船を切り開き、潼関に至ることができ、遂に閿郷に入った。間もなく詔があり、将佐以下を赦免し、訛可に死ぬことができなかったことを責め、車に載せて陝州に入れ、杖二百を決した。識者は、河中の城守は陥落せず、徳順は力尽きて陥落したのであり、戦の罪ではないと考え、故に訛可の死に対し、冤罪を感じる者があった。

原文初,大兵期以明年正月合南北軍攻汴梁,故自將攻河中。河中告急,合打蒲阿遣王敢率步兵一萬救之。十二月,河中破。初,河中主將知大兵將至,懼軍力不足,截故城 之半守之。及被攻,行帳命築松樓高二百尺,下瞰城中,土山地穴百道並進。至十一月,攻愈急。自王敢救軍至,軍士殊死鬥,日夜不休,西北樓櫓俱盡,白戰又半月,力盡乃陷。草訛可戰數十合始被擒,尋殺之。板訛可提敗卒三千奪船走,北兵追及,鼓噪北岸上,矢石如雨。數里之外有戰船橫截之,敗軍不得過,船中有齎火砲名「震天雷」者連發之,砲火明,見北船軍無幾人,力斫橫船開,得至潼關,遂入閿鄉。尋有詔赦將佐以下,責訛可以不能死,車載入陝州,決杖二百。識者以為河中城守不下,德順力竭而陷,非戰之罪,故訛可之死,人有冤之者。

初め、訛可は元帥右監軍・邠涇総帥・権参知知事として、旨を奉じて邠・涇・鳳翔を往来し防秋に当たった。奉御の六児が監戦し、訛可に対して孫の行輩として振る舞い、訛可の行動は常に彼に制せられ、心中大いに不平で、次第に猜疑の隙が生じた。七年九月、京師に召還され、河中総帥に改められ、京兆の節制を受けた。この時、六児も共に召還に赴き、訛可は旨を奉じて往来して防秋に当たるべきであったのに、畏怯して遠く避けていたのは、正に朝旨に違背すると述べ、上の意は大いに訛可を罪とするものであった。河中陥落の際、苦戦して力尽き、北兵が百倍の勢いで臨んだので、人々はたとえ守れなくとも自ら贖うことはできたであろうと言い、結局杖刑で死んだのは、六児の先入の言がこれを主導したためである。

原文初,訛可以元帥右監軍、邠涇總帥、權參知知事,奉旨於邠、涇、鳳翔往來防秋。奉禦六兒監戰,於訛可為孫行,而訛可動為所制,意頗不平,漸生猜隙。七年九月,召赴京師,改河中總帥,受京兆節制。此時六兒同赴召,謂訛可奉旨往來防秋,而乃畏怯避遠,正與朝旨相違,上意頗罪訛可。及河中陷,苦戰力盡,而北兵百倍臨之,人謂雖至不守猶可以自贖,竟杖而死,蓋六兒先入之言主之也。

劉祁曰く、「金人が南渡した後、近侍の権力は特に重かった。宣宗は彼らを用いて耳目とし、百官を伺い探ることを好んだため、奉御の輩が民間を採訪し、『行路御史』と号し、一二の事柄を得れば即座にこれを奏上し、上はこれによって台官の漏洩を責め、皆罪に当てた。また、方面の権柄は将帥に委ねられていたが、また一奉御を軍中に差し、『監戦』と号した。臨機の制変に際し、多くは彼らに牽制され、敵に遇えば常に先に奔り、故に軍は多く喪敗した。」哀宗はこれを因襲して改めず、遂に亡国に至った。

原文劉祁曰:「金人南渡之後,近侍之權尤重。蓋宣宗喜用其人以為耳目,伺察百官,故奉禦輩採訪民間,號'行路禦史',或得一二事即入奏之,上因以責台官漏泄,皆抵罪。又方面之柄雖委將帥,又差一奉禦在軍中,號曰'監戰',每臨機制變,多為所牽制,遇敵輒先奔,故師多喪敗。」哀宗因之不改,終至亡國。

論じて曰く、古里甲石倫は善戦するも法を犯すことを好み、故に廃されること屡々であり、晩年に起用されて将となり、遂に難に死す。金の運命将に終わらんとするに及び、また数奇の李広を用いる、その乏絶すること亦た宜ならずや。草訛可は力戦して死に、板訛可もまた力戦し、陣に死せずして刑に死す、論者は近侍の先入の言有りと為す。褻御を以て軍を治め、既にその肘を掣き、またその讒を信じて人を殺す、金は政刑を失えり。唐の亡ぶや、近侍を以て軍を監するに坐す、金はその轍を蹈む、哀しいかな。

原文論曰:古里甲石倫善戰而好犯法,故見廢者屢,晚起為將,卒死於難。金運將終,又用數奇之李廣,其乏絕不亦宜乎。草訛可力戰而死,板訛可亦力戰,不死於陣而死于刑,論者以為有近侍先入之言。夫以褻禦治軍,既掣之肘,又信其讒以殺人,金失政刑矣。唐之亡,坐以近侍監軍,金蹈其轍,哀哉。

撒合輦

原文撒合輦

撒合輦、字は安之、内族なり。宣宗の朝、累遷して同簽樞密院事に至る。元光二年十二月庚寅の夜、宣宗病篤く、英王盤都先に入り侍し、哀宗後れて至る。東華門既に閉ざさる。英王宮中に在ると聞き、樞密院官及び東宮親衛軍総領の移剌蒲阿を遣わし兵を勒して東華門に至らしむ。都点検駙馬都尉の徒単合住、中宮に奏す。旨を得て、符鑰を領し門を啓く。合住上に見え、上は撒合輦に命じて合住の刀を解かしめ佩かしむ。哀宗遂に入り、明日即位す。是より親信を見る。正大元年正月庚申、輦を以て同判大睦親府事と為し、前職を兼ねしむ。刑部の完顔かんがん素蘭言う、「把胡魯の策功第一なり、右丞相を超拜せずんば以て之に酬いること無し。」然れども同功の数人亦た次ならざるの望有り、故に胡魯の命は中だえ、輦猶二品を升るという。

原文撒合輦,字安之,內族也。宣宗朝,累遷同簽樞密院事。元光二年十二月庚寅夜,宣宗病篤,英王盤都先入侍,哀宗後至,東華門已閉,聞英王在宮,遣樞密院官及東宮親衛軍總領移剌蒲阿勒兵東華門,都點檢駙馬都尉徒單合住奏中宮,得旨,領符鑰啟門。合住見上,上命撒合輦解合住刀佩之,哀宗遂入,明日即位,由是見親信。正大元年正月庚申,以輦同判大睦親府事,兼前職。刑部完顏素蘭言:「把胡魯策功第一,非超拜右丞相無以酬之。」然同功數人亦有不次之望,故胡魯之命中輟,輦猶升二品雲

四年、大元既に西夏を滅ぼし、進軍して陝西に至る。四月丙申、尚書の温蒂罕寿孫・中丞の烏古孫卜吉・祭酒の裴満阿虎帯・直学士の蒲察世達・右司諫の陳規・監察の烏古論四和と完顔習顯・同判睦親府事の撒合輦を召し、西事を同議せしむ。上曰く、「既に合達に諭して力を尽くして一戦を決せしむ。」群臣多く和事を主とす。独り輦力を竭くして和議を破らんとす。語は『陳規伝』に在り。

原文四年,大元既滅西夏,進軍陝西。四月丙申,召尚書溫蒂罕壽孫、中丞烏古孫卜吉、祭酒裴滿阿虎帶、直學士蒲察世達、右司諫陳規、監察烏古論四和完顏習顯、同判睦親府事撒合輦同議西事,上曰:「已諭合達盡力決一戰矣。」群臣多主和事,獨輦力破和議,語在《陳規傳》。

八月、朝廷清水の報を得、有司に令して防城及び修城の丁壮を罷め、凡そ軍需租調の急ならざる者は権て停めしむ。初め、大兵の鳳翔より京兆に入ると聞き、関中大いに震う。中丞の卜吉・祭酒の阿忽帯を以て司農卿を兼ねしめ、民兵を簽し、秋税を督め、民をして保に入り避遷の計と為さしむ。当時議者は、大兵未だ至らずして河南先ず乱るべしと謂い、且つ曰く、「御史監察は洛陽を城し、治書は北使の供帳を為し、中丞は下りて司農を兼ね軍を簽し税を督む、台政知るべし。」と。是に至り、上は撒合輦に謂いて曰く、「諺に雲う、水深くして長人を見る。朝臣或いは我をして一戦せんと欲す、汝独り言う当に静かに以て之を待つべしと、朕が意と合う。今日太平の望有るは、皆汝が謀なり。先帝嘗て汝を用うべしと言えり、人を知ると謂うべし。」と。

原文八月,朝廷得清水之報,令有司罷防城及修城丁壯,凡軍需租調不急者權停。初,聞大兵自鳳翔入京兆,關中大震,以中丞卜吉、祭酒阿忽帶兼司農卿,簽民兵,督秋稅,令民入保為避遷計。當時議者以謂大兵未至而河南先亂,且曰:「禦史監察城洛陽,治書供帳北使,中丞下兼司農簽軍督稅,台政可知矣。」至是,上謂撒合輦曰:「諺雲水深見長人。朝臣或欲我一戰,汝獨言當靜以待之,與朕意合,今日有太平之望,皆汝謀也。先帝嘗言汝可用,可謂知人矣。」

間もなく、右拾遺李大節・右司諫陳規が撒合輦が諂佞して賄賂を受け、公平でない事があったと上奏したが、奏帖は宮中に留め置かれて返答がなかった。明恵皇后はかつて旨を伝えて戒めて言った、「汝は上に諂い事え、上の騎鞠は皆汝が教えたものだ」と。尉忻もまた極力これを言い、上はやや悟り、彼を中京留守・兼行枢密院事として出させた。初め、宣宗は河南府を金昌府と改め、中京と号し、また少室山頂を御営と定めようとし、移剌粘合に築かせたが、この時に至って撒合輦が留守となった。

原文未幾,右拾遺李大節、右司諫陳規言撒合輦諂佞納賄及不公事,奏帖留中不報。明惠皇后嘗傳旨戒曰:「汝諂事上,上之騎鞠皆汝所教。」尉忻亦極言之,上頗悟,出為中京留守、兼行樞密院事。初,宣宗改河南府為金昌府,號中京,又擬少室山頂為禦營,命移剌粘合築之,至是撒合輦為留守。

九年正月、北兵が河清から直ちに渡河し、兵を分けて洛陽に至り、四十余日も出没した。二月乙亥、砲を立てて城を攻めた。洛中には初め軍がなく、三峰の潰走兵卒三四千人を得て、忠孝軍百余と共に守備した。時に輦は背中に癰が発し、軍務を執れず、同知の温迪罕斡朵羅が軍務を主管し、大事があれば輦の下に赴いて稟議した。三月甲申、忠孝軍百余騎が使宅に入り、強いて輦を擁し出奔させ、輦は已むなくこれに従い、官属およびその子を連れて行った。ちょうど南裏城門を出たところで、城上の軍が気付き、彼らを甕城中に閉じ込め、矢石を乱れ下らせ、人馬多く死傷した。輦は出られぬと知り、仰いで呼び救いを求め、軍士は出奔が輦の本意でないと知り、縄で引き上げ、その宅に送り入れ、敢えて出なかった。鎮撫官が出奔の徒党を縛り、殺そうとしたが、既に三人を斬ったところ、輦が親しく命乞いをし、免れることができた。乙酉、斡朵羅は金帛を携えて北門を出、前日の如く城を巡り軍を犒う様子を装い、出るとすぐ城沿いに西へ向かい、直ちに外壕に出た。城上の人が呼んで言った、「同知が講和しに行った」と。軍士および将領で従って下った者は三四百人であった。しばらくして、輦が令を伝えて言った、「同知が叛いて降った。再び城を下る者は斬る」と。合わせて三四人を斬り、ようやく鎮定した。丙戌の夜、城の東北角が破られ、輦は南門を奪って出ようとしたが果たせず、濠水に投身して死んだ。やがて、大兵は退き、強伸が再び帥府を立てた。

原文九年正月,北兵從河清徑渡,分兵至洛,出沒四十餘日。二月乙亥,立砲攻城。洛中初無軍,得三峰潰卒三四千人,與忠孝軍百餘守禦。時輦疽發於背,不能軍,同知溫蒂罕斡朵羅主軍務,有大事則就輦稟之。三月甲申,忠孝軍百餘騎入使宅,強擁輦出奔,輦不得已從之,並以官屬及其子自隨,才出南裏城門,城上軍覺,閉之甕城中,矢石亂下,人馬多死傷。輦知不能出,仰呼求救,軍士知出奔非輦意,以繩引而上,送入其宅,不敢出。鎮撫官縛出奔之黨,欲殺之,已斬三人,輦親為乞命,得免。乙酉,斡朵羅齎金帛出北門,如前日巡城犒軍之狀,既出即沿城而西,直出外壕,城上人呼曰:「同知講和去矣。」軍士及將領隨而下者三四百人。少之,輦傳令雲:「同知叛降,有再下城者斬。」凡斬三四人,乃定。丙戌夜,城東北角破,輦奪南門出不得,投濠水死。已而,大兵退,強伸複立帥府。

強伸

原文強伸

強伸は、本来河中の射糧軍の子弟で、容貌は極めて醜く、しかし膂力は人に優れていた。興定の初め、華州副都統安寧に従って潼関を回復し、その功労によって任用され、かつて郃陽の醋を監した。後に洛下に客居し、選ばれて官軍に充てられ、陝の鉄嶺を戍ったが、軍が潰えて捕虜となり、都尉の兀林答胡土に従って中京に逃げ帰った。時に中京は既に破られ、留守兼行枢密院使の内族撒合輦はこれに死し、元帥の任守真が再び府事を立て、便宜をもって伸を警巡使に任命した。後に守真は部曲ぶきょく軍を率いて行省の思烈に従い入援したが、鄭州の敗戦で守真は死んだ。天興元年八月、中京の人が伸を推して府簽事とし、所有の軍二千五百人を率いさせたが、傷病者と老幼がその半数を占めた。わずか三日で、北兵がこれを包囲し、東・西・北の三面に多く大砲を立てた。伸は衣帛を徴発して幟とし、城上に立て、士卒を率いて裸身で戦い、壮士五十人を往来させて救応させ、大声で叫び、「憨子軍」を号とし、その声勢は万衆と異ならなかった。兵器が尽きると、銭を鏃とし、大兵の一矢を得ては、四つに截ち、筒鞭でこれを発射した。また遏砲を創製し、用いる者は数人に過ぎないが、大石を百歩外に発することができ、撃つところ必ず中った。伸は奔走して四方に応じ、至るところ必ず勝利した。二頭の駱駝および乗っていた馬を得て皆殺し、軍士を犒ったが、人につき一啖に過ぎず、得た者は百金の賜の如き思いであった。九月、大兵は百里外に退いた。閏月、再び攻め、兵数は以前より数倍であった。また一月経っても、抜くことができなかった。事が聞こえ、哀宗は詔を降して褒め諭し、伸を中京留守・元帥左都監・世襲謀克・行元帥府事とした。

原文強伸,本河中射糧軍子弟,貌極寢陋,而膂力過人。興定初,從華州副都統安寧複潼關,以勞任使,嘗監郃陽醋。後客洛下,選充官軍,戍陝鐵嶺,軍潰被虜,從都尉兀林答胡土竄歸中京。時中京已破,留守兼行樞密院使內族撒合輦死之,元帥任守真複立府事,以便宜署伸警巡使。後守真率部曲軍從行省思烈入援,鄭州之敗,守真死。天興元年八月,中京人推伸為府簽事,領所有軍二千五百人,傷殘老幼半之。甫三日,北兵圍之,東西北三面多樹大砲。伸括衣帛為幟,立之城上,率士卒赤身而戰,以壯士五十人往來救應,大叫,以「憨子軍」為號,其聲勢與萬眾無異。兵器已盡,以錢為鏃,得大兵一箭,截而為四,以筒鞭發之。又創遏砲,用不過數人,能發大石于百步外,所擊無不中。伸奔走四應,所至必捷。得二駝及所乘馬皆殺之,以犒軍士,人不過一啖,而得者如百金之賜。九月,大兵退百里外。閏月,複攻,兵數倍於前。又一月,不能拔。事聞,哀宗降詔褒諭,以伸為中京留守、元帥左都監、世襲謀克、行元帥府事。

十月、参知政事の内族思烈が南山より軍民十余万を率いて洛陽に入り、行省事を行った。二年二月、伸は洛川駅の東に一堂を建て、「報恩」と名付け、詔文を石に刻み、死をもって自ら効いることを願った。三月、中使が至り、伸に便宜從事を許した。

原文十月,參知政事內族思烈自南山領軍民十余萬入洛,行省事。二年二月,伸建一堂於洛川驛之東,名曰「報恩」,刻詔文於石,願以死自效。三月,中使至,以伸便宜從事。

この月、大兵が汴より思烈の子を東門下に駆り立て、思烈を誘って降らせようとした。思烈は即座に左右に命じてこれを射させたが、既にして崔立の変を知り、病で言葉が出ずに死んだ。総帥の忽林答胡土が行省事を代行し、伸が総帥府事を行い、一月余りで糧食が尽き、軍民は次第に散り去った。

原文是月,大兵自汴驅思烈之子於東門下,誘思烈降。思烈即命左右射之,既而知崔立之變,病不能語而死。總帥忽林答胡土代行省事,伸行總帥府事,月餘糧盡,軍民稍稍散去。

五月、大兵が再び来て、洛南に陣を布き、伸は水北に陣した。韓帥という者が単騎で水濱に立ち、伸を招いて降らせようとした。伸は帥に言った、「君は独り我が家の臣子ではないのか。一日でも勤王すれば、なお令名を後世に遺すことができる。君は既にそれができないばかりか、我を誘って降らせようとするのか。我は本来一軍卒に過ぎないが、今は貴く留守に至り、誓って死をもって国に報いんとするのみだ」と。そこで躍り出てこれを射た。帥は陣に奔り、歩卒数百を率いて橋を奪おうとした。伸の軍の一旗手が独り出てこれを拒ぎ、数人を殺した。伸は自ら手を下して都統の銀符を解き与えて佩かせ、士卒の気は再び振るった。初め、城外の四隅に戦壘を築き、五門の内外に至るまで皆屏があり、これを迷魂牆と称した。大兵が五百騎でこれを迫ると、伸は卒二百を率いて鼓噪して出撃し、大兵は退いた。

原文五月,大兵複來,陣于洛南,伸陣水北。有韓帥者匹馬立水濱,招伸降,伸謂帥曰:「君獨非我家臣子耶?一日勤王,猶遺令名於世,君既不能,乃欲誘我降耶?我本一軍卒,今貴為留守,誓以死報國耳。」遂躍而射之。帥奔陣,率步卒數百奪橋,伸軍一旗手獨出拒之,殺數人,伸乃手解都統銀符與之佩,士卒氣複振。初,築戰壘於城外四隅,至五門內外皆有屏,謂之迷魂牆。大兵以五百騎迫之,伸率卒二百鼓噪而出,大兵退。

六月、行省の胡土が衆を率いて南山に走り、鷹揚都尉が西門を献じて降った。伸は城が守れぬと知り、死士数十人を率いて東門を突いて出、転戦して偃師に至り、力尽きて捕らえられた。一馬に載せられ、擁迫されて行かされた。伸はもがいて進もうとせず、強いて掖き、将に大帥の塔察に会わせようとした。中京の七里河に及んだ時、伸の言葉が不遜であったので、兵卒が互いに言った、「この人はかくも頑なである。大帥に会えば、果たして降ることができようか。殺した方がよい」と。そこで巧言で誘って言った、「汝が北面して一たび膝を屈すれば、我は汝の命を貸そう」と。伸は従わず、左右が力を尽くして北面させようとしたが、伸は頭を拗らせて南向きにし、遂にこれを殺した。

原文六月,行省胡土率眾走南山,鷹揚都尉獻西門以降,伸知城不能守,率死士數十人突東門出,轉戰至偃師,力盡就執。載以一馬,擁迫而行。伸宛轉不肯進,強掖之,將見大帥塔察。及中京七里河,伸語不遜,兵卒相謂曰:「此人乖角如此,若見大帥,其能降乎?不若殺之。」因好語誘之曰:「汝能北面一屈膝,吾貸汝命。」伸不從,左右力持使北面,伸拗頭南向,遂殺之。

烏林答胡土

原文烏林答胡土

烏林答胡土。正大九年正月戊子、北兵が河中の一軍を以て洛陽の東四十里の白坡から黄河を渡った。白坡は旧河清県で、河に石底があり、旱魃の年は水が尋丈にも満たない。国初に三千騎がこの路より汴に急行したが、この後県は廃されて鎮となり、宣宗が南遷してからは、河防上下千里、常にこの路を憂いとし、毎冬洛陽の一軍にこれを戍らせた。河中が破られ、この路が徒歩で渡れるという話があり、果たしてその通りであった。北兵は既に渡河し、河陰の官舟を奪って諸軍を渡した。時に胡土は破虜都尉として潼関を戍っていたが、去る冬十二月に旨を受けて入援し、偃師に至り、白坡から直ちに渡河したとの報を聞き、直ちに少室に向かい、夜に少林寺に至った。時に登封県の官民は既に太平頂の禦寨に遷っていた。翌日、胡土は人をやって県官を欺いて言った、「我が軍中の家族と輜重しちょうをこの山に留め、直ちに兵を率いて汴京に赴こう」と。そこで県官を引き連れて下山させ、先導させ、一軍がこれに随って登った。山は険固で、糧食も充足していたので、久住の意を抱いた。間もなく軍を放って下山し、居民を劫掠し、盗賊よりも甚だしく、近傍一二百里で害を受けない所はなかった。胡土は変を恐れ、知りながら禁じず、また劫掠した牛畜や糧糗も分け与えた。

原文烏林答胡土。正大九年正月戊子,北兵以河中一軍由洛陽東四十里白坡渡河。白坡故河清縣,河有石底,歲旱水不能尋丈。國初以三千騎由此路趨汴,是後縣廢為鎮,宣宗南遷,河防上下千里,常以此路為憂,每冬日命洛陽一軍戍之。河中破,有言此路可徒涉者,已而果然。北兵既渡,奪河陰官舟以濟諸軍。時胡土為破虜都尉,戍潼關,以去冬十二月被旨入援,至偃師,聞白坡徑渡之耗,直趨少室,夜至少林寺。時登封縣官民已遷太平頂禦寨。明日,胡土使人紿縣官雲:「吾軍中家屬輜重欲留此山,即率兵赴汴京。」因攝縣官下山,使之前導,一軍隨之而上。山既險固,糧亦充足,遂有久住之意。尋縱軍下山劫掠居民,甚于盜賊,旁近一二百里無不被害。胡土畏變,知而不禁,又所劫牛畜糧糗,亦分有之。

七月、恒山公武仙と参知政事思烈の両行省軍は、登封県城南の大林の下に屯し、人を遣わして胡土を約して京に入らしめんとした。胡土は百方手を尽くしても肯じて下らざりしが、已むを得ず、その軍四千を分かち、思烈とともに東に向かわしむ。八月三日、両行省軍は中牟にて潰え、胡土は狼狽して山に登り、残卒三二十人の外、偏裨一人として至る者なし。十二月、思烈は自ら留山より行省を中京に移し、兵を徴してともに洛陽を保たんとし、また遷延して行かず。思烈が檄を以て来たりて言うには、「もし前の如く逗留せば、自ずから典憲あり、吾汝を容れざるなり」と。胡土懼れ、乃ち妻子及び軍を率いて中京に往き、その半ばを山上に留めて以て巣穴と為す。天興二年三月、思烈病卒し、留語して胡土に行省事を代行せしむ。六月、敵勢益々重く、強伸方に力を尽くして戦い防ぎしに、胡土は即ち軽騎を領し、妻子を率いて城南を棄て奔り、遂に中京を失う。

原文七月,恆山公武仙、參政思烈兩行省軍,屯登封城南大林下,遣人約之入京。胡土百計不肯下,不得已,乃分其軍四千,與思烈俱東。八月三日,兩行省軍潰于中牟,胡土狼狽上山,殘卒三二十人外偏裨無一人至者。十二月,思烈自留山行省於中京,徵兵同保洛陽,又遷延不行。思烈以檄來,言:「若依前逗留,自有典憲,吾不汝容矣。」胡土懼,乃挈妻子及軍往中京,留其半山上以為巢穴。天興二年三月,思烈病卒,留語胡土代行省事。六月,敵勢益重,強伸方盡力戰禦,而胡土即領輕騎、挈妻子棄城南奔,遂失中京。

初め、胡土は太平頂に在りて既に顧望して進まず、また人に己を議らるるを懼れ、乃ち榜を出して人を募り救駕軍と為し、云うには、「一旅の衆も以て国家を興複すべし、諸人奮発して国に許し躯を捐つる能う者は、豈に大事を済さざらんや」と。ここにおいて、不逞の徒募いに随いて出で、沢人緝麻觜・武録事等二十余人を得、促して京に赴かしむ。行きて盧店に及び、即ち劫を行い、械して至り、之を杖つること二百、人窃に笑わざる者なし。既にして蔡州に走り、上召見して慰問すれども、心に之を薄しとす。会に宋人唐州を攻む、元帥烏古論黒漢屡に人を遣わして告急す、即ち胡土を命じて忠孝軍百人を領し、就いて西山を征し烏古論換住・黄八児等の軍を招撫して之に赴かしむ。胡土兵を率いて唐に至る、宋人斂避し、その半ばを城に入らしめ、之を夾撃す、胡土大いに敗れ、僅かに三十騎を存して以て還り、換住は焉に死す。

原文初,胡土在太平頂既顧望不進,又懼人議己,乃出榜募人為救駕軍,雲:「一旅之眾可以興複國家,諸人有能奮發許國捐軀者,豈不濟大事乎!」於是,不逞之徒隨募而出,得澤人緝麻觜、武錄事等二十餘人,促令赴京。行及盧店,即行劫,械至,杖之二百,人無不竊笑。既而走蔡州,上召見慰問,而心薄之。會宋人攻唐州,元帥烏古論黑漢屢遣人告急,即命胡土領忠孝軍百人,就征西山招撫烏古論換住、黃八兒等軍赴之。胡土率兵至唐,宋人斂避,縱其半入城,夾擊之,胡土大敗,僅存三十騎以還,換住死焉。

既にして胡土を以て殿前都点検と為し、権参知政事を罷む。大兵蔡を囲み、軍を分かち防守す、胡土は西面を守る。十一月、胡土の奴その金牌を窃み、夜城を縋り降る、朝士喧しく播して胡土の之を縦して往かしめ、将に異志あらんと謂う。胡土之を聞き、内に自ら安からず、軍職を解くを乞う。上之を慰めて曰く、「卿父子昆弟皆帥臣と為り、恩を受くる不厚からず、顧みて肯て降らんや。且つ卿向に洛陽に在りて即ち降らず、して千里遠く来たり蔡に降るは、豈に人情ならんや。聞く卿奴に遇すること太だ察にして、且つその衣食常に之を給せず、此れ蓋し往きて温飽を求むるのみ、卿何ぞ慊かんや」と。因りて饌を賜いて以てその心を安んず。初め、胡土機政を罷められ、頗る怨言あり、左右上を勧めて之を誅せんとす、上聴かず。及び西城を守らしむるを令す、尤も怏怏として楽しまず、是に至りて始めて恩を感じて他慮無し。

原文既而以胡土為殿前都點檢,罷權參政。大兵圍蔡,分軍防守,胡土守西面。十一月,胡土之奴竊其金牌,夜縋城降,朝士喧播謂胡土縱之往,將有異志。胡土聞之,內不自安,乞解軍職。上慰之曰:「卿父子昆弟皆為帥臣,受恩不為不厚,顧肯降耶。且卿向在洛陽不即降,而千里遠來降於蔡,豈人情也哉。聞卿遇奴太察,且其衣食不常給之,此蓋往求溫飽耳,卿何慊焉。」因賜饌以安其心。初,胡土罷機政,頗有怨言,左右勸上誅之,上不聽。及令守西城,尤怏怏不樂,至是始感恩無他慮矣。

尋いで総帥孛朮魯婁室ろうしつと胡土を皆権参知政事と為し、婁室は右丞仲德と同事し、胡土は防守故の如く、また都尉承麟を以て東面元帥権総帥と為す。先ず是れ、東城を攻む、婁室機に随い備禦す。二日南城に移り攻む、烏古論鎬之を易し、砲城楼を撃ち幾くんぽ仆たんとす、右丞仲德军を率いて救援し、乃ち攻めを罷む。俄にして四面敵を受け、仲德独り援くるに艱しく、遂に承麟を薦めて婁室に代わり東面せしめ、而して婁室とともに救応せんことを乞う。初め、胡土外城を失い、頗る慚恨し、声言して力小にして衆を令すること能わずとす、仲德亦之を薦む、故に是の命あり。蔡城破れ、汝水に投じて死す。

原文尋以總帥孛術魯婁室與胡土皆權參政,婁室與右丞仲德同事,胡土防守如故,複以都尉承麟為東面元帥權總帥。先是,攻東城,婁室隨機備禦。二日移攻南城,烏古論鎬易之,砲擊城樓幾僕,右丞仲德率軍救援,乃罷攻。俄而四面受敵,仲德艱於獨援,遂薦承麟代婁室東面,而乞與婁室同救應。初,胡土失外城,頗慚恨,聲言力小不能令眾,仲德亦薦之,故有是命。蔡城破,投汝水死。

賛に曰く、撒合輦本佞を以て進み、烏林答胡土戦陣武ならず、孤城を付し、その大難を捍禦するを望むは、豈に人を知ると為すを得んや。強伸一の射糧卒なるのみ、及び兵を授くるに及び、乃ち能く応変して勝を制し、遠く二人を過ぎ、力尽きて乃ち斃るるも、猶お烈丈夫の風有り。古人言有り、「四郊多壘、士を抜きて将と為す」と。金の運未だ去らざらしめば、伸以て功名を建つるに足らん。

原文贊曰:撒合輦本以佞進,烏林答胡土戰陣不武,付以孤城,望其捍禦大難,豈得為知人乎。強伸一射糧卒耳,及授以兵,乃能應變制勝,遠過二人,力盡乃斃,猶有烈丈夫之風焉。古人有言:「四郊多壘,拔士為將。」使金運未去,伸足以建功名矣夫。

完顔思烈

原文完顏思烈

内族思烈は、南陽郡王襄の子なり。資性詳雅、頗る書史を知る。五六歳より宮に入り奉禦に充て、甚だ寵倖を見、世に号して「自在奉禦」と曰う。宣宗の大統を承け入らんとするに当たり、胡沙虎跋扈す、思烈尚だ髫齔に在り、嘗て涕泣して跪き帝の膝を抱き致説して曰く、「願わくは早く権臣を誅し、以て王室を靖めん」と。帝急ぎ左右を顧みてその口を掩わしむ。是より帝甚だ之を器重す。後提点近侍局より遷りて都点検と為る。天興元年、汴京囲まれ、哀宗思烈を以て権参知政事と為し、行省事を鄧州に於いて行わしむ。会に武仙兵を引いて入援す、ここにおいて思烈諸軍を率いて汝州より発ち、密県を過ぎ、大元の兵に遇い、武仙の澗を阻むの策を用いず、遂に京水に於いて敗績す、語は『武仙伝』に在り。中京留守・元帥左監軍任守真之に死す。上聞き、思烈の行省の職を罷め、以て中京を守らしむ。間も無く、大兵中京を囲み未だ下さず、崔立人を遣わして思烈の子を中京城下に監し、之を招きて降らしめんとす。思烈顧みず、軍士をして之を射しむ。既にして崔立已に汴京を以て帰順せるを知り、病数日にして死す。初め、思烈武仙等の軍を会して入援せんとし、即ち仙と論議同じからず、仙思烈方に君を得たるを以て、毎之を仮借す。思烈仙本入援の意無しと謂い、特だ朝廷一の参政を遣わし兵を召すに、已むを得ざるに迫られて乃ち行うのみと。然れども仙兵を知り、頗る持重を以て事と為す。思烈急ぎて京に入らんとし、仙の策を聴かず、ここにおいて左右司員外郎王渥乃ち思烈を勧めて曰く、「武仙大小数百戦、経渉多からざる為さず、兵事当に共に議すべし」と。思烈其の仙と謀有るを疑い、幾くんぽ之を斬らんとす、渥自ら内に愧ずる無きを以て、懼れず。已にして思烈果たして敗れ、渥陣に歿す。

原文內族思烈,南陽郡王襄之子也。資性詳雅,頗知書史。自五六歲入宮充奉禦,甚見寵倖,世號曰「自在奉禦」。當宣宗入承大統,胡沙虎跋扈,思烈尚在髫齔,嘗涕泣跪抱帝膝致說曰:「願早誅權臣,以靖王室。」帝急顧左右掩其口。自是帝甚器重之。後由提點近侍局遷都點檢。天興元年,汴京被圍,哀宗以思烈權參知政事,行省事于鄧州。會武仙引兵入援,於是思烈率諸軍發自汝州,過密縣,遇大元兵,不用武仙阻澗之策,遂敗績于京水,語在《武仙傳》。中京留守、元帥左監軍任守真死之。上聞,罷思烈行省之職,以守中京。無何,大兵圍中京未能下,崔立遣人監思烈子於中京城下,招之使降。思烈不顧,令軍士射之。既而知崔立已以汴京歸順,病數日而死。初,思烈會武仙等軍入援,即與仙論議不同,仙以思烈方得君,每假借之。思烈謂仙本無入援意,特以朝廷遣一參政召兵,迫於不得已乃行耳。然仙知兵,頗以持重為事。思烈急於入京,不聽仙策,於是左右司員外郎王渥乃勸思烈曰:「武仙大小數百戰,經涉不為不多,兵事當共議。」思烈疑其與仙有謀,幾斬之,渥自以無愧於內,不懼也。已而思烈果敗,渥歿於陣。

渥字は仲澤、後名は仲澤、太原の人なり。性明俊にして羈絆されず、博学にして談論を善くし、尺牘に工み、字画清美、晋人の風有り。少くして太学に遊び、詞賦に長じ、興定二年進士第に登る。時帥奥屯邦獻・完顔斜烈に知られ、故に多く兵間に在り。後寧陵令に辟せられ、治跡有り、入りて尚書省令史と為る。因りて宋に使し揚州に至り、応対敏給、宋人之を重んず。及び還り、太学助教と為り、転じて枢密院経歴官、俄に遷りて右司都事、稍く信用を見る。及び思烈鄧州に往くに及び、渥を以て左右司員外郎と為し、従い行く。

原文渥字仲澤,後名仲澤,太原人。性明俊不羈,博學善談論,工尺牘,字畫清美,有晉人風。少遊太學,長於詞賦,登興定二年進士第。為時帥奧屯邦獻、完顏斜烈所知,故多在兵間。後辟寧陵令,有治跡,入為尚書省令史。因使宋至揚州,應對敏給,宋人重之。及還,為太學助教,轉樞密院經歷官,俄遷右司都事,稍見信用。及思烈往鄧州,以渥為左右司員外郎,從行。

賛に曰く、思烈夙に慧く、権奸を誅して以て主威を立つるを請う、甘羅・辟疆の風有り、所謂「茂良必ずしも父祖に非ず」とする者なり。中京の囲み、崔立その子を脅して之を招き降らしめんとす、顧みずして趣て之を射しむ、何ぞ橋玄に愧じんや。至るに武仙の言に従わざるに、以て敗るるに至るは、此れ蓋し時人王仲澤の死を惜しむに因りて是の言有るなり、仙に入援の意無きは則ち誣いに非ず。

原文贊曰:思烈夙惠,請誅權奸以立主威,有甘羅、辟疆之風,所謂「茂良不必父祖」者也。中京之圍,崔立脅其子使招之降,不顧而趣射之,何愧乎橋玄。至如不從武仙之言,以至於敗,此蓋時人因惜王仲澤之死而有是言,仙無入援之意則非誣也。

紇石烈牙吾塔

原文紇石烈牙吾塔

紇石烈牙吾塔、一名は志。本親軍より出で、性剛悍にして戦を喜ぶ。貞祐の間、僕散安貞山東路宣撫使と為り、牙吾塔を以て軍中提控と為す。是の時、山東群盗蜂起ほうきす、安貞牙吾塔を遣わして巨蒙等四堌を破り、又馬耳山砦を破り、劉二祖賊党四千余人を殺し、賊八千を降し、その偽宣差程寬・招軍大使程福を虜し、又脅従の民三万余りを降す。貞祐四年六月、功を積み累遷して欄通渡経略使と為る。十月、元帥左都監と為る。十二月、山東西路兵馬都総管府事を行い、武寧軍節度使・徐州管内観察使を兼ぬ。

原文紇石烈牙吾塔,一名志。本出親軍,性剛悍喜戰。貞祐間,僕散安貞為山東路宣撫使,以牙吾塔為軍中提控。是時,山東群盜蜂起,安貞遣牙吾塔破巨蒙等四堌,又破馬耳山砦,殺劉二祖賊党四千餘人,降賊八千,虜其偽宣差程寬、招軍大使程福,又降脅從民三萬餘人。貞祐四年六月,積功累遷欄通渡經略使。十月,為元帥左都監。十二月,行山東西路兵馬都總管府事,兼武甯軍節度使、徐州管內觀察使。

興定二年正月、宋兵一万余が泗州を攻め、牙吾塔は救援に赴き、臨淮に至り、宋兵三百と遭遇し、ほぼ全滅させた。泗州に至ると、宋兵八千が包囲して攻撃は甚だ急であり、兵を督して進撃し、これを大破し、溺死する者は甚だ多く、馬三百余匹を獲、五十余人を捕虜とした。また盱眙を包囲し、宋人は門を閉じて堅く守り、敢えて出撃しなかった。騎兵を分けて境内を略奪し、時に疲れた兵卒を遣わして城に迫り誘い出した。宋人は騎兵数百を出して来て防ぎ、牙吾塔は兵を指揮して偽って敗走し、伏兵を発してこれを撃ち、二百の首級を斬った。宋人はまた歩騎八千を出して来援し、合戦してこれを破り、一太尉を殺し、三百の首級を斬った。間もなく偵察者を捕らえ、青平に宋兵が甚だ多いと称し、盱眙を救おうとしているという。牙吾塔は兵を移してこれに向かい、宋兵歩騎七千が突出し、兵は少し退いたが、直ちに軽騎でその背後を扼した。初めは逗留して戦わず、これを走らせて東南に向かわせ、河に迫り、千余の首級を斬り、溺死する者は数え切れず、馬牛数百を獲、甲冑兵器は千を数えた。軍が還るに当たり、連塘村で宋兵三千と遭遇し、千余級の首級を斬り、五十人を捕虜とし、馬三十五匹を獲た。宣宗はその功績ありとして、金帯一を賜った。三年正月、濠州の香山村で宋人を破った。二月、また滁州でこれを破り、千級の首級を斬った。小江寨を抜き、統制王大篷等を殺し、三万を斬り、一万余人を捕虜とした。また輔嘉平山寨を抜き、数千の首級を斬り、五百余人を捕虜とし、馬牛数百を獲、糧一万斛を得た。三月、提控の奥敦吾里不が上津県で宋人を大破し、兵が還って濠州に至ると、宋人は軍八千で防戦し、牙吾塔は迎撃してこれを破り、馬百余匹を獲た。

原文興定二年正月,宋兵萬餘攻泗州,牙吾塔赴援,至臨淮,遇宋人三百,掩殺殆盡。及泗州,宋兵八千圍甚急,督眾進戰,大破之,溺水死者甚眾,獲馬三百餘匹,俘五十餘人。又圍盱眙,宋人閉門堅守,不敢出。以騎兵分掠境內,而時遣羸卒薄城誘之。宋人出騎數百來拒,牙吾塔麾兵佯北,發伏擊之,斬首二百。宋人複出步騎八千來援,合擊敗之,殺一太尉,斬首三百。尋獲覘者,稱青平宋兵甚眾,將救盱眙。牙吾塔移兵赴之,宋兵步騎七千人突出,兵少卻,旋以輕騎扼其後。初逗留不與戰,縱之走東南,薄諸河,斬首千餘,溺死者無算,獲馬牛數百,甲仗以千計。師還,遇宋兵三千于連塘村,斬首千餘級,俘五十人,獲馬三十五疋,宣宗以其有功,賜金帶一。三年正月,敗宋人於濠州之香山村。二月,又敗之於滁州,斬首千級。拔小江寨,殺統制王大篷等,斬三萬,俘萬餘人。又拔輔嘉平山寨,斬首數千,俘五百餘人,獲馬牛數百,糧萬斛。三月,提控奧敦吾里不大敗宋人於上津縣,兵還至濠州,宋人以軍八千拒戰,牙吾塔迎擊敗之,獲馬百餘疋。

五年正月、上は紅襖賊が宋を助けて害を為し、辺境の兵が久しく労苦していることを以て、詔して牙吾塔に宋人に書を遺わし戦を求めさせ、大略に曰く、「宋と我が国とは通好してより、百年ここに至る。近年以来、我が叛亡を納れ、我が貢幣を絶ち、また紅襖賊を遣わして間を乗じて窃かに出で、辺疆に跳梁し、我が民をして休息を得させず。彼の国もし此の輩を以て恃むに足ると為すならば、悉く衆を率いて来たり、一たび勝負を決せよ。果たして我が鋒に当たることができれば、沿辺の城邑を以て相奉らん。度りて能わざれば、即ち宜しく安分に境を保つべし、何ぞ必ずしも狐の号し鼠の窃むが如く、陰に乗じ夜に伺いて以て此の態を為すや。且つ彼の将帥もまた自ら鉞を受けて戎を総べるに、敵に臨めば則ち風を望んで遠く遁れ、攻められれば則ち壘を閉じて深く蔵れ、我が師の還るに逮びて、然る後に形を現わし影を耀かして以て武を示す。夫れ小民は気を尚び、女子に志ある者も猶爾らず、切に彼の国の為に之を羞ず。」

原文五年正月,上以紅襖賊助宋為害,邊兵久勞苦,詔牙吾塔遺宋人書求戰,略曰:「宋與我國通好,百年於此,頃歲以來,納我叛亡,絕我貢幣,又遣紅襖賊乘間竊出,跳樑邊疆,使吾民不得休息。彼國若以此曹為足恃,請悉眾而來,一決勝負,果能當我之鋒,沿邊城邑當以相奉。度不能,即宜安分保境,何必狐號鼠竊、乘陰伺夜以為此態耶?且彼之將帥亦自受鉞總戎,而臨敵則望風遠遁,被攻則閉壘深藏,逮吾師還,然後現形耀影以示武。夫小民尚氣,女子有志者猶不爾也,切為彼國羞之。」

先に、宋将の時青が泗州西城を襲い破った。二月、牙吾塔は兵を将いてこれを取り、宋兵は拒んで守ること甚だ力強く、乃ち死士を募り梯と衝車を並べて進め、宋兵を大破した。時青は城に乗って指麾し、その目に射中てられ、遂に衆を抜き南へ奔った。乃ち兵を陳べて走路を横断しこれを撃ち、宋兵は大いに潰え、遂に泗州西城を回復した。三月、また兵を出して宋の境に入り、その役に報い、団山・賈家等の諸寨を破り、濠州に進んで迫った。牙吾塔は州人が出て防ぐことを慮り、自ら勁兵を率いてこれを迎え、城東で邏騎二百と遭遇し、撃ち殺すこと過半に及んだ。会に偵察者の言うに前路の芻糧甚だ艱難というにより、乃ち西に定遠を掠め、渦口より還った。九月、また兵を率いて淮を渡り、団山で宋兵を大破し、詔して官を遷し職を升すること差等あり。

原文先是,宋將時青襲破泗州西城。二月,牙吾塔將兵取之,宋兵拒守甚力,乃募死士以梯沖並進,大敗宋兵。時青乘城指麾,射中其目,遂拔眾南奔。乃陳兵橫絕走路擊之,宋兵大潰,遂複泗州西城。三月,複出兵宋境,以報其役,破團山、賈家等諸寨,進逼濠州。牙吾塔慮州人出拒,躬率勁兵逆之,遇邏騎二百於城東,擊殺過半。會偵者言前路芻糧甚艱,乃西掠定遠,由渦口而還。九月,又率兵渡淮,大破宋兵於團山,詔遷官升職有差。

元光元年五月、京東便宜総帥を以て行戸・工部事を兼ねしめ、上は因って宰臣に謂いて曰く、「牙吾塔は性剛にして、人皆之を畏る。行部に委ねれば、弁ぜざる者無し。下を禦するに至っても亦頗る術あり。提控に胡論出という者有り、渠厚く之を待ち、常に同器にして食らう。其の人感奮し、遂に戦死す。」英王守純曰く、「凡そ将帥たるもの、人材を駕馭すること皆当に此くの如くあるべし。」上曰く、「然り。」未だ幾ばくもせず、宋人三千潜かに淮を渡り、聊林に至り、堤の柳を尽く伐り、汴水を塞いで以て我が糧道を断つ。牙吾塔は精甲千余を遣わしてこれを破り、その舟及び渡る者七百人を獲、汴流は是より復通ず。

原文元光元年五月,以京東便宜總帥兼行戶、工部事,上因謂宰臣曰:「牙吾塔性剛,人皆畏之,委之行部,無不辦者。至於禦下亦頗有術,提控有胡論出者,渠厚待之,常同器而食,其人感奮,遂以戰死。」英王守純曰:「凡為將帥,駕馭人材皆當如此。」上曰:「然。」未幾,宋人三千潛渡淮,至聊林,盡伐堤柳,塞汴水以斷吾糧道。牙吾塔遣精甲千餘破之,獲其舟及渡者七百人,汴流由是複通。

二年四月、上言す、「賞罰は国の大信にして、帝王の善を勧め悪を懲らしむる所以なり。其の令一出すれば、中変すべからず。向に官軍戦歿する者は皆其の家を廩給し、恩至って厚し。臣近く宿州に抵り、乃ち例として楮幣を以て折支するを知る。往々にして給せず、失所に至る。此れ殆ど有司の出納の吝にして、朝廷の徳意を行い奉ずる能わざるの過ちなり。今より願わくは本色を支え、贍済を得しめん。」糧儲方に艱難なるを以て、詔して有司に其の半を給せしむ。

原文二年四月,上言:「賞罰國之大信,帝王所以勸善而懲惡,其令一出,不可中變。向官軍戰歿者皆廩給其家,恩至厚也。臣近抵宿州,乃知例以楮幣折支,往往不給,至於失所。此殆有司出納之吝,不能奉行朝廷德意之過也。自今願支本色,令得贍濟。」以糧儲方艱,詔有司給其半。

紅襖賊が寿・潁を寇し、剽掠すること数日にして去る。牙吾塔これを聞き、兵を率いて淮を渡り、偵知するに硃村・孝義村に賊各数百有りと、兵を分けてこれを攻め、連ねて両柵を破り、及び其の村塢数十を焚く。還るに当たり宋兵数百と遇い、陣を淮南岸に布き、其の半を撃殺す。間もなく兵千余東南より来り追う、復たこれを大破す。

原文紅襖賊寇壽、潁,剽掠數日而去。牙吾塔聞之,率兵渡淮,偵知硃村、孝義村有賊各數百,分兵攻之,連破兩柵,及焚其村塢數十。還遇宋兵數百,陣淮南岸,擊殺其半,尋有兵千余自東南來追,複大敗之。

先に、納合六哥が元帥蒙古綱を殺し、邳州を拠りて以て叛く。十月、牙吾塔これを囲み、其の楼櫓を焚き、百余の首級を斬る。ここに於いて、宋の鈐轄高顯・統制侯進・正将陳栄等守ること能わざるを知り、共に六哥を誅し、其の首を持ち城を縋り降る。六哥既に誅せられ、衆猶拒んで守る。方に兵を督して進攻せんとす、宋の総領劉斌・提控黄温等首乱の顔俊・戚誼・完顔乞哥を縛り、及び提控の金山八打の首を梟し、其の校馬俊・呉珪を遣わして来たり献ず。既にして紅襖監軍徐福・統制王喜等も亦其の総領孫成・総押徐琦を遣わして款を納む。劉斌等遂に軍民を率いて出で降り、牙吾塔城に入り、其の衆を撫慰し、各安集せしめ、又紅襖統制十五人を招獲し、将官訓練百三十九人を得たり。十一月、人を遣わして来たり報じ、仍て六哥の首を函にし以て献ず。宣宗大いに喜び、牙吾塔の官を一階進め、金三百両・内府の重幣十端を賜い、将士遷賞差等あり。

原文先是,納合六哥殺元帥蒙古綱,據邳州以叛。十月,牙吾塔圍之,焚其樓櫓,斬首百餘。於是,宋鈐轄高顯、統制侯進、正將陳榮等知不能守,共誅六哥,持其首縋城降。六哥既誅,眾猶拒守,方督兵進攻,宋總領劉斌、提控黃溫等縛首亂顏俊、戚誼、完顏乞哥,及梟提控金山八打首,遣其校馬俊、吳珪來獻。既而紅襖監軍徐福、統制王喜等亦遣其總領孫成、總押徐琦納款。劉斌等遂率軍民出降,牙吾塔入城,撫慰其眾,各使安集,又招獲紅襖統制十有五人,將官訓練百三十有九人。十一月,遣人來報,仍函六哥首以獻。宣宗大喜,進牙吾塔官一階,賜金三百兩、內府重幣十端,將士遷賞有差。

正大三年十一月、北兵猝かに西夏に入り、中興府を攻むること甚だ急なり。陝西行省及び陝州・霊宝の二総帥訛可・牙吾塔を召し兵を議す。又両省に詔諭して曰く、「倘辺方に警有らば、内地憂うべし。若し早く図らざれば、恐らくは噬臍を成さん。旦夕事勢同じからず、機に随い変に応ず。若し逐旋申奏せば、恐らくは事機を失わん。並に行省の宜きに従い規画せよ。」

原文正大三年十一月,北兵猝入西夏,攻中興府甚急。召陝西行省及陝州、靈寶二總帥訛可、牙吾塔議兵。又詔諭兩省曰:「倘邊方有警,內地可憂,若不早圖,恐成噬臍。旦夕事勢不同,隨機應變,若逐旋申奏,恐失事機,並從行省從宜規畫。」

四年、牙吾塔は再び平陽を奪取し、馬三千を獲たり。是の歳、大兵既に夏国を滅ぼし、陝西の徳順・秦州・清水等の城を攻め、遂に鳳翔より京兆に入り、関中大いに震う。五年、慶陽を囲む。六年十月、上は陝省に命じて羊酒及び幣を以て慶陽に赴き北帥を犒い、師を緩める計と為す。北中も亦た唐慶等を遣わして往来し和を議し、尋いで斡骨欒を小使と為し、径ちに行省に来らしむ。十二月、詔して牙吾塔を以て副枢蒲阿と権簽枢密院事と為し、内族訛可に兵を将いて慶陽を救わしむ。七年正月、大昌原に戦い、慶陽の囲み解く。詔して牙吾塔を左副元帥と為し、京兆に屯せしむ。初め、斡骨欒来たりしとき、行省は事機を泄らすを恐れ、因って之を留む。蒲阿等既に慶陽の囲みを解き、志気驕満し、乃ち還し遣わし、使者に謂ひて曰く、「我已に軍馬を準備せり、戦闘すべし来れ」と。語甚だ遜らず、斡骨欒此の言を以て上聞す、太宗皇帝大いに怒り、応州に至り、九日を以て天を拝し、即ち親しく大兵を統べて陝西に入る。八年、居民を河南に遷し、京兆を棄てて東還す。五月、閿郷に至り、寒疾を得、汗出でず、死す。

原文四年,牙吾塔複取平陽,獲馬三千。是歲,大兵既滅夏國,進攻陝西德順、秦州、清水等城、遂自鳳翔入京兆,關中大震。五年,圍慶陽。六年十月,上命陝省以羊酒及幣赴慶陽犒北帥,為緩師計。北中亦遣唐慶等往來議和,尋遣斡骨欒為小使,徑來行省。十二月,詔以牙吾塔與副樞蒲阿權簽樞密院事,內族訛可將兵救慶陽。七年正月,戰于大昌原,慶陽圍解。詔以牙吾塔為左副元帥,屯京兆。初,斡骨欒來,行省恐泄事機,因留之。蒲阿等既解慶陽之圍,志氣驕滿,乃遣還,謂使者曰:「我已準備軍馬,可戰鬥來。」語甚不遜,斡骨欒以此言上聞,太宗皇帝大怒,至應州,以九日拜天,即親統大兵入陝西。八年,遷居民于河南,棄京兆東還。五月,至閿鄉,得寒疾,汗不出,死。

「塔」は亦た「太」と作り、亦た曰く「牙忽帯」、蓋し女直じょちょく語にして正字無きなり。是の歳九月、国信使内族乗慶北より使して還り、始めて牙吾塔の遜らずして激怒せしむるの語を知り、且つ言ふ慶等旁に在りて心魄震盪し、殆んど聞くに忍びざりしと。当時帥臣書を知らざるを以て、国を誤る乃ち爾くの如し。

原文「塔」亦作「太」,亦曰「牙忽帶」,蓋女直語,無正字也。是歲九月,國信使內族乘慶自北使還,始知牙吾塔不遜激怒之語,且言慶等在旁心魄震盪,殆不忍聞。當時以帥臣不知書,誤國乃爾。

塔人となり鷙狠狼戾にして、小人を結ぶを好み、朝廷の節制を聴かず。嘗て朝に入り、省堂に詣り、宰執を詆毀す、宰執も亦た敢えて言はず、而して上其の東方を鎮むるを倚り、亦た之を優容す。尤も文士を喜ばず、僚属に長裾有る者は、輒ち刀を以て截ち去る。又使者を凌侮するを喜び、凡そ朝廷より遣わし来る使者は、必ず酒食を以て之を困す。或いは飲まずを以て辞すれば、因って並びに食を与えず、して餓えて去らしむ。司農少卿張用章行戸部を以て過宿す、塔酒を以て之を飲ます。張寒疾を以て辞す、塔笑ひて曰く、「此れ易く治せん耳」と。左右を趨らせて艾を持ち来らしめ、張を床に臥せ、之を数十灸す。又銀符を以て妓を佩かしめ、屡々州郡に往きて賕を取り、州将の妻皆遠く迎迓し、「省差行首」と号し、之に厚く賄る。御史康錫上章して之を劾し、且つ曰く、「朝廷之を容るるは、適ひて之を害する所以なり。其の人を保全せんと欲せば、宜しく裁制を加うべし」と。朝廷竟に其の罪を治めず、屡々宋兵を敗るを以て、威淮・泗に震う。鼓椎を以て人を撃つを好み、世呼んで曰く「盧鼓椎」、其の名は以て児啼を怖しむるべく、大概「麻胡」を呼ぶが如し。

原文塔為人鷙狠狼戾,好結小人,不聽朝廷節制。嘗入朝,詣省堂,詆毀宰執,宰執亦不敢言,而上倚其鎮東方,亦優容之。尤不喜文士,僚屬有長裾者,輒以刀截去。又喜淩侮使者,凡朝廷遣使來,必以酒食困之。或辭以不飲,因並食不給,使餓而去。司農少卿張用章以行戶部過宿,塔飲以酒。張辭以寒疾,塔笑曰:「此易治耳。」趨左右持艾來,臥張於床,灸之數十。又以銀符佩妓,屢往州郡取賕 ,州將之妻皆遠迎迓,號「省差行首」,厚賄之。禦史康錫上章劾之,且曰:「朝廷容之,適所以害之。欲保全其人,宜加裁制。」朝廷竟不治其罪,以屢敗宋兵,威震淮、泗。好用鼓椎擊人,世呼曰「盧鼓椎」,其名可以怖兒啼,大概如呼「麻胡」雲。

子有り名は阿里合、世目して曰く「小鼓椎」、嘗て元帥と為り、哀宗に従ひて帰徳に至り、蒲察官奴と乱を作し、誅せらる。

原文有子名阿里合,世目曰「小鼓椎」,嘗為元帥,從哀宗至歸德,與蒲察官奴作亂,伏誅。

康錫、字は伯祿、趙州の人。至寧元年進士。正大初め、省掾より拝して御史と為り、侯摯・師安石の相材に非ざるを劾し、近侍局の宗室撒合輦の声勢熏灼にして、請托公行し、禁近に在らしむべからざるを請ふ、時論之を韙とす。転じて右司都事・京南路司農丞と為り、河中路治中と為る。河中破れ、時帥に従ひて兵を率ひて南奔し、河を済むるに、船敗れて死す。人となり気質重厚にして、公家の事知りて為さざる無く、雷淵・翼禹錫と名を斉しくす。

原文康錫,字伯祿,趙州人。至甯元年進士。正大初,由省掾拜禦史,劾侯摯、師安石非相材,近侍局宗室撒合輦聲勢熏灼,請托公行,不可使在禁近,時論韙之。轉右司都事、京南路司農丞,為河中路治中。河中破,從時帥率兵南奔,濟河,船敗死。為人氣質重厚,公家之事知無不為,與雷淵、翼禹錫齊名。

賛して曰く、金胡沙虎・高琪の用事より、風俗一変し、朝廷寛厚の政を矯めて、苛察を好むと為すも、然れども之を為すに果たさず、反って姑息を成す。将帥儒雅の風を鄙み、粗豪を好むと為すも、然れども用ふるに其の宜しきに非ざれば、終に跋扈に至る。牙吾塔戦勝攻取し、威江・淮に行わるれども、矜暴にして法に従はず、王人を肆に侮る、此れ豈に制すべき者ならんや。陝を棄てて帰り、道途に死す、殆ど其の幸ひなるか。其の子尤を效ひ、竟に大僇に陥る、君子乃ち康錫の言過ちならざるを知る。

原文贊曰:金自胡沙虎、高琪用事,風俗一變,朝廷矯寬厚之政,好為苛察,然為之不果,反成姑息。將帥鄙儒雅之風,好為粗豪,然用非其宜,終至跋扈。牙吾塔戰勝攻取,威行江、淮,而矜暴不法,肆侮王人,此豈可制者乎?棄陝而歸,死於道途,殆其幸歟!其子效尤,竟陷大僇,君子乃知康錫之言不為過也。