古里甲石倫
三月、石倫復た上言して曰く、「頃者大兵太原を破り、民を招きて耕稼せしめ、久駐の基と為す。臣太原を要鎮と為し、当に必ず争うべき所とし、提控石盞吾里忻を遣わして官兵義兵を引きて共に収復を図らしむ。又軍士功有る者は宜しく速やかに之を賞すべしとし、故に吾里忻をして九品の職を注授するを得しめんと擬し、是を以て朝に請う、而して執政は賞功罰罪は皆須らく中覆すべしと為す。夫れ河東京師を去ること甚だ遠く、移報往返して数十日に暇あらず、官軍は皆敗亡の余り、鋒鋭略く尽き、而して義兵も亦た行陣に習わず、烏合に異ならず、重賞を以て之を誘うも猶ほ用いられざるを恐る、況んや功有りて久しく報いられざるを見ざるをや。夫れ衆用いるべからざれば則ち敵を退くることができず、敵退かざれば則ち太原復たすべからず、太原復たさざれば則ち平陽の勢日々危うく、而して境土日々蹙らん。今朝廷抑えて許さざるは、其の濫賞を慮うに過ぎず。借り使し濫賞の弊有るとも、其れ太原を失うの害と孰れか重からん。」是に於て詔して其の請に従い、太原治中及び他州の従七品以下の職・四品以下の散官より、並びに石倫の遷調を聴す。
今月、石倫がまた言上した。「先日、軍を潜行させて敵の陣営を急襲しようとし、石州の兵五百を分けて方山に仮に駐屯させ、土賊を討伐し、かつ嵐州に備えようとしたが、同知の蒲察桓端がこれを拒んで発兵しなかった。また同知の甯辺軍節度使姚里鴉鶻を召して軍事を議したが、ついに命令を聞かなかった。近ごろ兵を率いて太原を取ろうとし、石州刺史の納合萬家に六部の事務を代行するよう委ねたが、彼は他の理由を言って辞退し、軍糧の調達を危うくしそうになった。武州刺史の郭憲に率いる軍を合わせて進軍するよう約したが、憲もまた来なかった。臣は不肖ながら方面の任に当たっているが、統べる官属はみな命令に従わない。朝廷に厳しく懲戒を加えていただき、人々に職分を知らしめ、責務の遂行を容易にしたい。」宰相はこれを憎み、そこで上奏した。「桓端、鴉鶻はすでに奏上して改任したので、再び議論することはない。石倫は行部を兼任しながら、自ら計画せず、萬家に往来して供給させ、石州には人がいなくなり、恐らく失策もあるだろう。武州は辺境の郡で、まさに兵の要衝に当たり、憲に軍を率いて城を離れさせれば、敵がもしこれに乗じた場合、守備と比べてどうか。萬家らが従わなかったのは、過ちではない。」皇帝はこれを正しいと考え、そこで石倫に諭して言った。「卿はかつて帰徳で行院を務め、衛州の防備のことは、平素知らないわけではないのに、しばしば歩騎の増援を請うのはなぜか。卿に三品を授け、かつたびたび罪を免じてやったのに、卿はかつて死をもって国に報いると自ら誓った。今の行いは、果たして国に報いる道であろうか。河南の兵は必ず分けるべきではないと考え、ただ他日に口実とできることを図っているだけではないか。卿がもし真心を以て国に尽くすなら、力を尽くして計画すれば、それで十分に自ら功を立てられる。萬家らをもし必ず懲戒するなら、あの地でまた誰を使えるというのか。しばらくは容認しておくがよい。」
閏三月、石倫は太原の西に兵を駐屯させ、諸道の兵が到着するのを待って進軍しようとしたが、脅従した人々の中にかなり心を改める者がいると聞き、朝廷に上言して、空名の宣敕・金銀符を下賜し、便宜に任じて官職を授けることを許し、彼らを招き誘うよう請うた。皇帝はその請いを聞き入れ、これをすべて支給し、なお五品以下の官職を授けることを許した。
六月、保德州の振威軍万戸の王章・弩軍万戸の齊鎮がその刺史の孛術魯銀術哥を殺害し、さらにその家族を滅ぼし、官吏・軍民を脅して同じ内容の書状を嵐州の帥府に届けさせ、銀術哥が専横で残酷、私的に甲冑兵器を造り、謀反を企てたと訴えた。石倫は密かに同知州事の把蒲剌都にこれを図らせた。蒲剌都はそこで兵士・官吏と酒宴を設けて章らを招き、捕らえて一族を誅殺した。ここに至り、朝廷は行省の胥鼎に適宜に昇進・賞賜を行うよう命じ、なお蒲剌都に州事を代行させ、その民衆を慰撫安堵させた。
正大八年、大軍が河南に入り、州郡で陥落しないところはなかった。朝廷の議論では、権昌武軍節度使の粘葛仝周は軍事を知らないとして、石倫を起用して代えさせた。石倫が初めて昌武に赴く際、詔を下して諭した。「卿は先朝の宿将で、大いに威望がある。故にこの職に任じる。元帥の蘇椿・武監軍はいずれも軍事に通じている。今、昌武におり、彼らとともに協議すべきで、再び不和を生じて失策してはならない。」当時、北兵はすでに許に至っていた。石倫が鎮に赴く途中、ほとんど遊撃騎兵に捕らえられそうになった。数日後、両省の軍が敗れたことを知り、潰走した兵が続々と来た。忠孝軍の完顏副統が城に入ったが、両手とも折れ、血にまみれていた。州人は憂慮恐怖してどうしてよいかわからなかった。石倫は帰順軍の提控で嵐州人の高珪を斥候に派遣した。珪はそこで州内の軍馬・糧草の数を記した書類を持って大元軍に奔り、さらに城の深浅を告げた。まもなく大軍が城下に至り、鳳翔府の韓壽孫に檄文を持たせて降伏を勧告し、三峰での敗戦の状況を伝えた。石倫・蘇椿は問い詰めもせずにただちに市中で斬った。まもなく武監軍の偏裨の何魏らが東門を開き、内族の按春が南門を開き、夾谷太守が西門を開いた。大元軍が城に入り、蘇椿を捕らえ、大名から南奔したことを問うた。椿は言った。「私はもともと金朝の人で、力がなかったから降った。私は帰国して大官となった。どうして謀反と言えようか。」大将はその不屈を怒り、ただちに殺した。石倫は官舎の後ろの井戸に身を投げ、仝周は州庁舎で自縊した。武監軍は初めは門を開く謀議には加わっていなかった。何魏らは彼を助けようと思い、そこで大将に言った。「監軍が我々に門を献げよと命じました。」しかし大将もまた彼が軍を迎えずに降ったことを怒り、やはり殺した。
仝周は名を暉、字を子陽といい、策論進士であった。興定年間に徐州行枢密院参議官となり、上章して言った。「名と器だけは人に仮すべからず、古来の帝王はこれを重んじない者はなかった。今の金銀牌は、すなわち古の符節である。その上には太祖の御画がある。往年は佩用することを得るのは甚だ難しかったが、兵乱が起こって以来、授与が甚だ濫雑となり、市井や道路で黄白の牌が相望んでいる。これは恐らく下に信を示すものではない。これを大切にし、区別を設けていただきたい。」皇帝はこれを宰臣に語り、丞相の高琪らが上奏した。「時はまさに多難で、人材の登用が急務である。人を御する方策の一つであり、従来通りがよい。」
完顏訛可
完顏訛可は内族である。当時、二人の訛可がおり、いずれも護衛の出身であった。一人は「草火訛可」といい、賊を捕らえるたびに、草火で焼くのを好んだ。一人は「板子訛可」といい、かつて宮中の牙牌で朝参の整列を報ずるものを誤って板子と呼んだ。故に当時の人はそれぞれこれをもって彼らを見なした。
初め、大軍は翌年正月に南北の軍を合わせて汴梁を攻撃することを期しており、故に自ら河中を攻撃した。河中が危急を告げると、合打蒲阿は王敢に歩兵一万を率いて救援させた。十二月、河中は陥落した。初め、河中の主将は大軍が来ることを知り、軍力が不足することを恐れ、旧城の半分を切り取って守った。攻撃を受けると、行帳は松楼を高さ二百尺築くことを命じ、下から城中を見下ろし、土山や地穴の百道を並行して進めた。十一月に至り、攻撃はますます激しくなった。王敢の救援軍が到着してから、軍士は必死で戦い、日夜休むことなく、西北の楼櫓は全て尽き、白兵戦がさらに半月続き、力尽きて陥落した。草訛可は数十合戦ってようやく捕らえられ、間もなく殺された。板訛可は敗残兵三千を率いて船を奪って逃走したが、北兵が追い付き、北岸で鬨の声を上げ、矢石が雨のごとく降った。数里の外に戦船が横たわって遮り、敗軍は通過できず、船中には「震天雷」という名の火砲を携えた者がおり、これを連発した。砲火が明るく照らし、北船の軍兵が僅かであるのを見て、力を振るって横たわる船を切り開き、潼関に至ることができ、遂に閿郷に入った。間もなく詔があり、将佐以下を赦免し、訛可に死ぬことができなかったことを責め、車に載せて陝州に入れ、杖二百を決した。識者は、河中の城守は陥落せず、徳順は力尽きて陥落したのであり、戦の罪ではないと考え、故に訛可の死に対し、冤罪を感じる者があった。
初め、訛可は元帥右監軍・邠涇総帥・権参知知事として、旨を奉じて邠・涇・鳳翔を往来し防秋に当たった。奉御の六児が監戦し、訛可に対して孫の行輩として振る舞い、訛可の行動は常に彼に制せられ、心中大いに不平で、次第に猜疑の隙が生じた。七年九月、京師に召還され、河中総帥に改められ、京兆の節制を受けた。この時、六児も共に召還に赴き、訛可は旨を奉じて往来して防秋に当たるべきであったのに、畏怯して遠く避けていたのは、正に朝旨に違背すると述べ、上の意は大いに訛可を罪とするものであった。河中陥落の際、苦戦して力尽き、北兵が百倍の勢いで臨んだので、人々はたとえ守れなくとも自ら贖うことはできたであろうと言い、結局杖刑で死んだのは、六児の先入の言がこれを主導したためである。
劉祁曰く、「金人が南渡した後、近侍の権力は特に重かった。宣宗は彼らを用いて耳目とし、百官を伺い探ることを好んだため、奉御の輩が民間を採訪し、『行路御史』と号し、一二の事柄を得れば即座にこれを奏上し、上はこれによって台官の漏洩を責め、皆罪に当てた。また、方面の権柄は将帥に委ねられていたが、また一奉御を軍中に差し、『監戦』と号した。臨機の制変に際し、多くは彼らに牽制され、敵に遇えば常に先に奔り、故に軍は多く喪敗した。」哀宗はこれを因襲して改めず、遂に亡国に至った。
論じて曰く、古里甲石倫は善戦するも法を犯すことを好み、故に廃されること屡々であり、晩年に起用されて将となり、遂に難に死す。金の運命将に終わらんとするに及び、また数奇の李広を用いる、その乏絶すること亦た宜ならずや。草訛可は力戦して死に、板訛可もまた力戦し、陣に死せずして刑に死す、論者は近侍の先入の言有りと為す。褻御を以て軍を治め、既にその肘を掣き、またその讒を信じて人を殺す、金は政刑を失えり。唐の亡ぶや、近侍を以て軍を監するに坐す、金はその轍を蹈む、哀しいかな。
撒合輦
四年、大元既に西夏を滅ぼし、進軍して陝西に至る。四月丙申、尚書の温蒂罕寿孫・中丞の烏古孫卜吉・祭酒の裴満阿虎帯・直学士の蒲察世達・右司諫の陳規・監察の烏古論四和と完顔習顯・同判睦親府事の撒合輦を召し、西事を同議せしむ。上曰く、「既に合達に諭して力を尽くして一戦を決せしむ。」群臣多く和事を主とす。独り輦力を竭くして和議を破らんとす。語は『陳規伝』に在り。
八月、朝廷清水の報を得、有司に令して防城及び修城の丁壮を罷め、凡そ軍需租調の急ならざる者は権て停めしむ。初め、大兵の鳳翔より京兆に入ると聞き、関中大いに震う。中丞の卜吉・祭酒の阿忽帯を以て司農卿を兼ねしめ、民兵を簽し、秋税を督め、民をして保に入り避遷の計と為さしむ。当時議者は、大兵未だ至らずして河南先ず乱るべしと謂い、且つ曰く、「御史監察は洛陽を城し、治書は北使の供帳を為し、中丞は下りて司農を兼ね軍を簽し税を督む、台政知るべし。」と。是に至り、上は撒合輦に謂いて曰く、「諺に雲う、水深くして長人を見る。朝臣或いは我をして一戦せんと欲す、汝独り言う当に静かに以て之を待つべしと、朕が意と合う。今日太平の望有るは、皆汝が謀なり。先帝嘗て汝を用うべしと言えり、人を知ると謂うべし。」と。
間もなく、右拾遺李大節・右司諫陳規が撒合輦が諂佞して賄賂を受け、公平でない事があったと上奏したが、奏帖は宮中に留め置かれて返答がなかった。明恵皇后はかつて旨を伝えて戒めて言った、「汝は上に諂い事え、上の騎鞠は皆汝が教えたものだ」と。尉忻もまた極力これを言い、上はやや悟り、彼を中京留守・兼行枢密院事として出させた。初め、宣宗は河南府を金昌府と改め、中京と号し、また少室山頂を御営と定めようとし、移剌粘合に築かせたが、この時に至って撒合輦が留守となった。
九年正月、北兵が河清から直ちに渡河し、兵を分けて洛陽に至り、四十余日も出没した。二月乙亥、砲を立てて城を攻めた。洛中には初め軍がなく、三峰の潰走兵卒三四千人を得て、忠孝軍百余と共に守備した。時に輦は背中に癰が発し、軍務を執れず、同知の温迪罕斡朵羅が軍務を主管し、大事があれば輦の下に赴いて稟議した。三月甲申、忠孝軍百余騎が使宅に入り、強いて輦を擁し出奔させ、輦は已むなくこれに従い、官属およびその子を連れて行った。ちょうど南裏城門を出たところで、城上の軍が気付き、彼らを甕城中に閉じ込め、矢石を乱れ下らせ、人馬多く死傷した。輦は出られぬと知り、仰いで呼び救いを求め、軍士は出奔が輦の本意でないと知り、縄で引き上げ、その宅に送り入れ、敢えて出なかった。鎮撫官が出奔の徒党を縛り、殺そうとしたが、既に三人を斬ったところ、輦が親しく命乞いをし、免れることができた。乙酉、斡朵羅は金帛を携えて北門を出、前日の如く城を巡り軍を犒う様子を装い、出るとすぐ城沿いに西へ向かい、直ちに外壕に出た。城上の人が呼んで言った、「同知が講和しに行った」と。軍士および将領で従って下った者は三四百人であった。しばらくして、輦が令を伝えて言った、「同知が叛いて降った。再び城を下る者は斬る」と。合わせて三四人を斬り、ようやく鎮定した。丙戌の夜、城の東北角が破られ、輦は南門を奪って出ようとしたが果たせず、濠水に投身して死んだ。やがて、大兵は退き、強伸が再び帥府を立てた。
強伸
この月、大兵が汴より思烈の子を東門下に駆り立て、思烈を誘って降らせようとした。思烈は即座に左右に命じてこれを射させたが、既にして崔立の変を知り、病で言葉が出ずに死んだ。総帥の忽林答胡土が行省事を代行し、伸が総帥府事を行い、一月余りで糧食が尽き、軍民は次第に散り去った。
五月、大兵が再び来て、洛南に陣を布き、伸は水北に陣した。韓帥という者が単騎で水濱に立ち、伸を招いて降らせようとした。伸は帥に言った、「君は独り我が家の臣子ではないのか。一日でも勤王すれば、なお令名を後世に遺すことができる。君は既にそれができないばかりか、我を誘って降らせようとするのか。我は本来一軍卒に過ぎないが、今は貴く留守に至り、誓って死をもって国に報いんとするのみだ」と。そこで躍り出てこれを射た。帥は陣に奔り、歩卒数百を率いて橋を奪おうとした。伸の軍の一旗手が独り出てこれを拒ぎ、数人を殺した。伸は自ら手を下して都統の銀符を解き与えて佩かせ、士卒の気は再び振るった。初め、城外の四隅に戦壘を築き、五門の内外に至るまで皆屏があり、これを迷魂牆と称した。大兵が五百騎でこれを迫ると、伸は卒二百を率いて鼓噪して出撃し、大兵は退いた。
六月、行省の胡土が衆を率いて南山に走り、鷹揚都尉が西門を献じて降った。伸は城が守れぬと知り、死士数十人を率いて東門を突いて出、転戦して偃師に至り、力尽きて捕らえられた。一馬に載せられ、擁迫されて行かされた。伸はもがいて進もうとせず、強いて掖き、将に大帥の塔察に会わせようとした。中京の七里河に及んだ時、伸の言葉が不遜であったので、兵卒が互いに言った、「この人はかくも頑なである。大帥に会えば、果たして降ることができようか。殺した方がよい」と。そこで巧言で誘って言った、「汝が北面して一たび膝を屈すれば、我は汝の命を貸そう」と。伸は従わず、左右が力を尽くして北面させようとしたが、伸は頭を拗らせて南向きにし、遂にこれを殺した。
烏林答胡土
烏林答胡土。正大九年正月戊子、北兵が河中の一軍を以て洛陽の東四十里の白坡から黄河を渡った。白坡は旧河清県で、河に石底があり、旱魃の年は水が尋丈にも満たない。国初に三千騎がこの路より汴に急行したが、この後県は廃されて鎮となり、宣宗が南遷してからは、河防上下千里、常にこの路を憂いとし、毎冬洛陽の一軍にこれを戍らせた。河中が破られ、この路が徒歩で渡れるという話があり、果たしてその通りであった。北兵は既に渡河し、河陰の官舟を奪って諸軍を渡した。時に胡土は破虜都尉として潼関を戍っていたが、去る冬十二月に旨を受けて入援し、偃師に至り、白坡から直ちに渡河したとの報を聞き、直ちに少室に向かい、夜に少林寺に至った。時に登封県の官民は既に太平頂の禦寨に遷っていた。翌日、胡土は人をやって県官を欺いて言った、「我が軍中の家族と輜重をこの山に留め、直ちに兵を率いて汴京に赴こう」と。そこで県官を引き連れて下山させ、先導させ、一軍がこれに随って登った。山は険固で、糧食も充足していたので、久住の意を抱いた。間もなく軍を放って下山し、居民を劫掠し、盗賊よりも甚だしく、近傍一二百里で害を受けない所はなかった。胡土は変を恐れ、知りながら禁じず、また劫掠した牛畜や糧糗も分け与えた。
初め、胡土は太平頂に在りて既に顧望して進まず、また人に己を議らるるを懼れ、乃ち榜を出して人を募り救駕軍と為し、云うには、「一旅の衆も以て国家を興複すべし、諸人奮発して国に許し躯を捐つる能う者は、豈に大事を済さざらんや」と。ここにおいて、不逞の徒募いに随いて出で、沢人緝麻觜・武録事等二十余人を得、促して京に赴かしむ。行きて盧店に及び、即ち劫を行い、械して至り、之を杖つること二百、人窃に笑わざる者なし。既にして蔡州に走り、上召見して慰問すれども、心に之を薄しとす。会に宋人唐州を攻む、元帥烏古論黒漢屡に人を遣わして告急す、即ち胡土を命じて忠孝軍百人を領し、就いて西山を征し烏古論換住・黄八児等の軍を招撫して之に赴かしむ。胡土兵を率いて唐に至る、宋人斂避し、その半ばを城に入らしめ、之を夾撃す、胡土大いに敗れ、僅かに三十騎を存して以て還り、換住は焉に死す。
既にして胡土を以て殿前都点検と為し、権参知政事を罷む。大兵蔡を囲み、軍を分かち防守す、胡土は西面を守る。十一月、胡土の奴その金牌を窃み、夜城を縋り降る、朝士喧しく播して胡土の之を縦して往かしめ、将に異志あらんと謂う。胡土之を聞き、内に自ら安からず、軍職を解くを乞う。上之を慰めて曰く、「卿父子昆弟皆帥臣と為り、恩を受くる不厚からず、顧みて肯て降らんや。且つ卿向に洛陽に在りて即ち降らず、して千里遠く来たり蔡に降るは、豈に人情ならんや。聞く卿奴に遇すること太だ察にして、且つその衣食常に之を給せず、此れ蓋し往きて温飽を求むるのみ、卿何ぞ慊かんや」と。因りて饌を賜いて以てその心を安んず。初め、胡土機政を罷められ、頗る怨言あり、左右上を勧めて之を誅せんとす、上聴かず。及び西城を守らしむるを令す、尤も怏怏として楽しまず、是に至りて始めて恩を感じて他慮無し。
尋いで総帥孛朮魯婁室と胡土を皆権参知政事と為し、婁室は右丞仲德と同事し、胡土は防守故の如く、また都尉承麟を以て東面元帥権総帥と為す。先ず是れ、東城を攻む、婁室機に随い備禦す。二日南城に移り攻む、烏古論鎬之を易し、砲城楼を撃ち幾くんぽ仆たんとす、右丞仲德军を率いて救援し、乃ち攻めを罷む。俄にして四面敵を受け、仲德独り援くるに艱しく、遂に承麟を薦めて婁室に代わり東面せしめ、而して婁室とともに救応せんことを乞う。初め、胡土外城を失い、頗る慚恨し、声言して力小にして衆を令すること能わずとす、仲德亦之を薦む、故に是の命あり。蔡城破れ、汝水に投じて死す。
賛に曰く、撒合輦本佞を以て進み、烏林答胡土戦陣武ならず、孤城を付し、その大難を捍禦するを望むは、豈に人を知ると為すを得んや。強伸一の射糧卒なるのみ、及び兵を授くるに及び、乃ち能く応変して勝を制し、遠く二人を過ぎ、力尽きて乃ち斃るるも、猶お烈丈夫の風有り。古人言有り、「四郊多壘、士を抜きて将と為す」と。金の運未だ去らざらしめば、伸以て功名を建つるに足らん。
完顔思烈
賛に曰く、思烈夙に慧く、権奸を誅して以て主威を立つるを請う、甘羅・辟疆の風有り、所謂「茂良必ずしも父祖に非ず」とする者なり。中京の囲み、崔立その子を脅して之を招き降らしめんとす、顧みずして趣て之を射しむ、何ぞ橋玄に愧じんや。至るに武仙の言に従わざるに、以て敗るるに至るは、此れ蓋し時人王仲澤の死を惜しむに因りて是の言有るなり、仙に入援の意無きは則ち誣いに非ず。
紇石烈牙吾塔
紇石烈牙吾塔、一名は志。本親軍より出で、性剛悍にして戦を喜ぶ。貞祐の間、僕散安貞山東路宣撫使と為り、牙吾塔を以て軍中提控と為す。是の時、山東群盗蜂起す、安貞牙吾塔を遣わして巨蒙等四堌を破り、又馬耳山砦を破り、劉二祖賊党四千余人を殺し、賊八千を降し、その偽宣差程寬・招軍大使程福を虜し、又脅従の民三万余りを降す。貞祐四年六月、功を積み累遷して欄通渡経略使と為る。十月、元帥左都監と為る。十二月、山東西路兵馬都総管府事を行い、武寧軍節度使・徐州管内観察使を兼ぬ。
五年正月、上は紅襖賊が宋を助けて害を為し、辺境の兵が久しく労苦していることを以て、詔して牙吾塔に宋人に書を遺わし戦を求めさせ、大略に曰く、「宋と我が国とは通好してより、百年ここに至る。近年以来、我が叛亡を納れ、我が貢幣を絶ち、また紅襖賊を遣わして間を乗じて窃かに出で、辺疆に跳梁し、我が民をして休息を得させず。彼の国もし此の輩を以て恃むに足ると為すならば、悉く衆を率いて来たり、一たび勝負を決せよ。果たして我が鋒に当たることができれば、沿辺の城邑を以て相奉らん。度りて能わざれば、即ち宜しく安分に境を保つべし、何ぞ必ずしも狐の号し鼠の窃むが如く、陰に乗じ夜に伺いて以て此の態を為すや。且つ彼の将帥もまた自ら鉞を受けて戎を総べるに、敵に臨めば則ち風を望んで遠く遁れ、攻められれば則ち壘を閉じて深く蔵れ、我が師の還るに逮びて、然る後に形を現わし影を耀かして以て武を示す。夫れ小民は気を尚び、女子に志ある者も猶爾らず、切に彼の国の為に之を羞ず。」
先に、宋将の時青が泗州西城を襲い破った。二月、牙吾塔は兵を将いてこれを取り、宋兵は拒んで守ること甚だ力強く、乃ち死士を募り梯と衝車を並べて進め、宋兵を大破した。時青は城に乗って指麾し、その目に射中てられ、遂に衆を抜き南へ奔った。乃ち兵を陳べて走路を横断しこれを撃ち、宋兵は大いに潰え、遂に泗州西城を回復した。三月、また兵を出して宋の境に入り、その役に報い、団山・賈家等の諸寨を破り、濠州に進んで迫った。牙吾塔は州人が出て防ぐことを慮り、自ら勁兵を率いてこれを迎え、城東で邏騎二百と遭遇し、撃ち殺すこと過半に及んだ。会に偵察者の言うに前路の芻糧甚だ艱難というにより、乃ち西に定遠を掠め、渦口より還った。九月、また兵を率いて淮を渡り、団山で宋兵を大破し、詔して官を遷し職を升すること差等あり。
紅襖賊が寿・潁を寇し、剽掠すること数日にして去る。牙吾塔これを聞き、兵を率いて淮を渡り、偵知するに硃村・孝義村に賊各数百有りと、兵を分けてこれを攻め、連ねて両柵を破り、及び其の村塢数十を焚く。還るに当たり宋兵数百と遇い、陣を淮南岸に布き、其の半を撃殺す。間もなく兵千余東南より来り追う、復たこれを大破す。
先に、納合六哥が元帥蒙古綱を殺し、邳州を拠りて以て叛く。十月、牙吾塔これを囲み、其の楼櫓を焚き、百余の首級を斬る。ここに於いて、宋の鈐轄高顯・統制侯進・正将陳栄等守ること能わざるを知り、共に六哥を誅し、其の首を持ち城を縋り降る。六哥既に誅せられ、衆猶拒んで守る。方に兵を督して進攻せんとす、宋の総領劉斌・提控黄温等首乱の顔俊・戚誼・完顔乞哥を縛り、及び提控の金山八打の首を梟し、其の校馬俊・呉珪を遣わして来たり献ず。既にして紅襖監軍徐福・統制王喜等も亦其の総領孫成・総押徐琦を遣わして款を納む。劉斌等遂に軍民を率いて出で降り、牙吾塔城に入り、其の衆を撫慰し、各安集せしめ、又紅襖統制十五人を招獲し、将官訓練百三十九人を得たり。十一月、人を遣わして来たり報じ、仍て六哥の首を函にし以て献ず。宣宗大いに喜び、牙吾塔の官を一階進め、金三百両・内府の重幣十端を賜い、将士遷賞差等あり。
四年、牙吾塔は再び平陽を奪取し、馬三千を獲たり。是の歳、大兵既に夏国を滅ぼし、陝西の徳順・秦州・清水等の城を攻め、遂に鳳翔より京兆に入り、関中大いに震う。五年、慶陽を囲む。六年十月、上は陝省に命じて羊酒及び幣を以て慶陽に赴き北帥を犒い、師を緩める計と為す。北中も亦た唐慶等を遣わして往来し和を議し、尋いで斡骨欒を小使と為し、径ちに行省に来らしむ。十二月、詔して牙吾塔を以て副枢蒲阿と権簽枢密院事と為し、内族訛可に兵を将いて慶陽を救わしむ。七年正月、大昌原に戦い、慶陽の囲み解く。詔して牙吾塔を左副元帥と為し、京兆に屯せしむ。初め、斡骨欒来たりしとき、行省は事機を泄らすを恐れ、因って之を留む。蒲阿等既に慶陽の囲みを解き、志気驕満し、乃ち還し遣わし、使者に謂ひて曰く、「我已に軍馬を準備せり、戦闘すべし来れ」と。語甚だ遜らず、斡骨欒此の言を以て上聞す、太宗皇帝大いに怒り、応州に至り、九日を以て天を拝し、即ち親しく大兵を統べて陝西に入る。八年、居民を河南に遷し、京兆を棄てて東還す。五月、閿郷に至り、寒疾を得、汗出でず、死す。
「塔」は亦た「太」と作り、亦た曰く「牙忽帯」、蓋し女直語にして正字無きなり。是の歳九月、国信使内族乗慶北より使して還り、始めて牙吾塔の遜らずして激怒せしむるの語を知り、且つ言ふ慶等旁に在りて心魄震盪し、殆んど聞くに忍びざりしと。当時帥臣書を知らざるを以て、国を誤る乃ち爾くの如し。
塔人となり鷙狠狼戾にして、小人を結ぶを好み、朝廷の節制を聴かず。嘗て朝に入り、省堂に詣り、宰執を詆毀す、宰執も亦た敢えて言はず、而して上其の東方を鎮むるを倚り、亦た之を優容す。尤も文士を喜ばず、僚属に長裾有る者は、輒ち刀を以て截ち去る。又使者を凌侮するを喜び、凡そ朝廷より遣わし来る使者は、必ず酒食を以て之を困す。或いは飲まずを以て辞すれば、因って並びに食を与えず、して餓えて去らしむ。司農少卿張用章行戸部を以て過宿す、塔酒を以て之を飲ます。張寒疾を以て辞す、塔笑ひて曰く、「此れ易く治せん耳」と。左右を趨らせて艾を持ち来らしめ、張を床に臥せ、之を数十灸す。又銀符を以て妓を佩かしめ、屡々州郡に往きて賕を取り、州将の妻皆遠く迎迓し、「省差行首」と号し、之に厚く賄る。御史康錫上章して之を劾し、且つ曰く、「朝廷之を容るるは、適ひて之を害する所以なり。其の人を保全せんと欲せば、宜しく裁制を加うべし」と。朝廷竟に其の罪を治めず、屡々宋兵を敗るを以て、威淮・泗に震う。鼓椎を以て人を撃つを好み、世呼んで曰く「盧鼓椎」、其の名は以て児啼を怖しむるべく、大概「麻胡」を呼ぶが如し。
子有り名は阿里合、世目して曰く「小鼓椎」、嘗て元帥と為り、哀宗に従ひて帰徳に至り、蒲察官奴と乱を作し、誅せらる。
賛して曰く、金胡沙虎・高琪の用事より、風俗一変し、朝廷寛厚の政を矯めて、苛察を好むと為すも、然れども之を為すに果たさず、反って姑息を成す。将帥儒雅の風を鄙み、粗豪を好むと為すも、然れども用ふるに其の宜しきに非ざれば、終に跋扈に至る。牙吾塔戦勝攻取し、威江・淮に行わるれども、矜暴にして法に従はず、王人を肆に侮る、此れ豈に制すべき者ならんや。陝を棄てて帰り、道途に死す、殆ど其の幸ひなるか。其の子尤を效ひ、竟に大僇に陥る、君子乃ち康錫の言過ちならざるを知る。