金史

列傳第四十八: 楊雲翼 趙秉文 韓玉 馮璧 李獻甫 雷淵 程震

列傳第四十八: 楊雲翼 趙秉文 韓玉 馮璧 李獻甫 雷淵 程震

楊雲翼

原文楊雲翼

楊雲翼は、字を之美といい、その先祖は贊皇の檀山の人であったが、六代の祖の忠が平定の楽平県に客居し、そこで家を定めた。曾祖父の青、祖父の鬱、父の恆は、皆朝廷より官を贈られた。雲翼は天資が聡明で、言葉を覚え始めた頃から地面に字を書き、一日に数千言を誦した。明昌五年に進士第一に及第し、詞賦でも乙科に合格し、特授で承務郎・応奉翰林文字となった。承安四年、出て陝西東路兵馬都総管判官となった。泰和元年、召されて太学博士となり、太常寺丞に遷り、兼ねて翰林修撰を務めた。七年、上京・東京等路按察司事を簽し、召見された際、章宗が当世の要務について諮問すると、その答えは上意に適った。大安元年、翰林承旨の張行簡がその才能を推薦し、かつ術数に精通していると述べたため、召されて提点司天臺を授かり、兼ねて翰林修撰となり、まもなく礼部郎中も兼ねた。崇慶元年、病により帰郷した。貞祐二年、有司が官簿を上奏した際、宣宗がこれを閲覧し、その姓名を記憶し、前職に起用し、吏部郎中を兼ねさせた。三年、礼部侍郎に転じ、兼ねて提点司天臺を務めた。

原文楊雲翼,字之美,其先贊皇檀山人,六代祖忠,客平定之樂平縣,遂家焉。曾祖青、祖鬱、考恆,皆贈官於朝。雲翼天資穎悟,初學語輒畫地作字,日誦數千言。登明昌五年進士第一,詞賦亦中乙科,特授承務郎、應奉翰林文字。承安四年,出為陝西東路兵馬都總管判官。泰和元年,召為太學博士,遷太常寺丞,兼翰林修撰。七年,簽上京、東京等路按察司事,因召見,章宗咨以當世之務,稱旨。大安元年,翰林承旨張行簡薦其材,且精術數,召授提點司天臺,兼翰林修撰,俄兼禮部郎中。崇慶元年,以病歸。貞祐二年,有司上官簿,宣宗閱之,記其姓名,起授前職,兼吏部郎中。三年,轉禮部侍郎,兼提點司天臺。

四年、大元及び西夏の兵が鄜延に入り、潼関が失陥すると、朝廷の議論により兵部尚書の蒲察ほさつ阿裏不孫を副元帥としてこれに防がせようとした。雲翼は、その人は言葉が実態を上回り、必ず大事を誤ると言った。聞き入れられなかったが、後に果たして敗北した。興定元年六月、翰林侍講学士に遷り、国史編修を兼ね、集賢院事を管掌し、前職も兼ねた。詔に曰く、「官制では三品に入る者は例外なく除任するが、卿は事に遇って敢えて言い、議論が忠実で率直であるため、特に留任させる」と。時に右丞相の高琪が国政を執り、油の専売を請う者がおり、高琪はこれを強く主張した。詔して百官を集めて議させると、戸部尚書の高夔ら二十六人が同声に「可なり」と言った。雲翼のみが趙秉文・時戩ら数人とともに不可とし、議は遂に止んだ。高琪は後に事を以て彼を譴責したが、雲翼は気に留めなかった。二年、礼部尚書に拝され、兼職は元の通りであった。三年、京師の子城を築くこととなり、役兵・役民数万を動員したが、夏秋の境に病者が相次いだ。雲翼が医薬を提挙し、自ら調護に当たったため、多くが全治した。四年、吏部尚書に改めた。凡そ軍事が起こって以来、穀物を納めて官を補い、あるいは戦功により遷授された者で、事態が定まった後、有司が厳格に規定を適用し、少しでも合致しないと直ちに罷免する者がいた。雲翼は上奏して言った、「賞罰は国の大いなる信義である。この者どもは寛大に記録し、将来を勧めるべきである」と。

原文四年,大元及西夏兵入鄜延,潼關失守,朝議以兵部尚書蒲察阿裏不孫為副元帥以禦之。雲翼言其人言浮於實,必誤大事。不聽,後果敗。興定元年六月,遷翰林侍講學士,兼修國史,知集賢院事,兼前職,詔曰:「官制入三品者例外除,以卿遇事敢言,議論忠讜,故特留之。」時右丞相高琪當國,人有請榷油者,高琪主之甚力,詔集百官議,戶部尚書高夔等二十六人同聲曰:「可。」雲翼獨與趙秉文、時戩等數人以為不可,議遂格。高琪後以事譴之,雲翼不恤也。二年,拜禮部尚書,兼職如故。三年,築京師子城,役兵民數萬,夏秋之交病者相籍,雲翼提舉醫藥,躬自調護,多所全濟。四年,改吏部尚書。凡軍興以來,入粟補官及以戰功遷授者,事定之後,有司苛為程式,或小有不合輒罷去,雲翼奏曰:「賞罰國之大信,此輩宜從寬錄,以勸將來。」

その年九月、上は雲翼及び戸部尚書の夔、翰林学士の秉文を内殿に召し、皆に座を賜い、講和の策について問うた。ある者は力戦を主張したため、上は俯首して不機嫌となった。雲翼は徐々に『孟子』の事大・事小の説き方でこれを解き、かつ言った、「今日どう計らうべきか。生民に休息を与えることが、すなわち社稷の福である」と。上の表情はようやく和らいだ。

原文是年九月,上召雲翼及戶部尚書夔、翰林學士秉文于內殿,皆賜坐,問以講和之策,或以力戰為言,上俯首不樂,雲翼徐以《孟子》事大、事小之說解之,且曰:「今日奚計哉,使生靈息肩,則社稷之福也。」上色乃和。

十一月、御史中丞に改めた。宗室の承立が権参知政事となり、京兆で行尚書省事を務めていたが、大臣がその不法を言上した。詔して雲翼に就いてこれを審問させた。獄が決すると、朝廷で奏上して言った、「承立の罪状はいずれも些細な事柄で、問うに足りない。以前、大軍が平涼以西を掠め、数州が破られた際、承立は強兵を擁しながら、傍観して進まなかった。鄜延の帥臣である完顔かんがん合達は孤城をもって敵の衝に当たり、屡々戦績を立てた。その功はこの如くであり、承立の罪はあの如し。願わくは陛下がその功罪を明らかにして誅賞され、天下に勧懲を知らしめられたい。その他の小過失は、追咎するに足りない」と。承立はこれにより免官となり、合達は遂に機務を掌ることとなった。

原文十一月,改御史中丞。宗室承立權參知政事,行尚書省事於京兆,大臣言其不法,詔雲翼就鞫之,獄成,廷奏曰:「承立所坐皆細事,不足問。向大兵掠平涼以西,數州皆破,承立坐擁強兵,瞻望不進。鄜延帥臣完顏合達以孤城當兵沖,屢立戰績。其功如此,而承立之罪如彼,願陛下明其功罪以誅賞之,則天下知所勸懲矣。自余小失,何足追咎。」承立由是免官,合達遂掌機務。

哀宗が即位すると、まず雲翼に太常卿を摂行させ、まもなく翰林学士に拝した。正大二年二月、再び礼部尚書となり、侍読を兼ねた。詔して百官を集めて経費削減を議させた。雲翼は言った、「経費削減は小事であり、戸部・司農が十分に処理できる。枢密は軍政を専制し、尚書を蔑視している。尚書は政令を出す場所であり、政事の大小を問わず、全て総領すべきである。今、軍旅の大事は社稷にかかわるものであるのに、宰相がすら預かり聞くことができない。これでは利と害の両方が互いに隠蔽されないようにすることができようか」と。上はこれを嘉納した。

原文哀宗即位,首命雲翼攝太常卿,尋拜翰林學士。正大二年二月,複為禮部尚書,兼侍讀。詔集百官議省費,雲翼曰:「省費事小,戶部司農足以辦之。樞密專制軍政,蔑視尚書。尚書出政之地,政無大小,皆當總領。今軍旅大事,社稷系焉,宰相乃不得預聞,欲使利病兩不相蔽得乎。」上嘉納之。

翌年、益政院が設けられ、雲翼がその選首となった。召見される度に座を賜い、名を呼ばれなかった。時に『尚書』を講じたが、雲翼は帝王の学問は経生のように章句を分け析する必要はなく、国の大綱を知るだけで十分であると説いた。そこで「賢を任じ」「邪を去る」、「治と同道する」「乱と同事する」、「汝の心に逆らう言あり」「汝の志に順う言あり」など数条を挙げ、全て正心誠意に基づいて、詳細明瞭に解説した。上は聞き入れて倦むことを忘れた。まもなく『亀鑑万年録』、『聖学』、『聖孝』などの類、凡そ二十篇を進呈した。

原文明年,設益政院,雲翼為選首,每召見賜坐而不名。時講《尚書》,雲翼為言帝王之學不必如經生分章析句,但知為國大綱足矣。因舉「任賢」「去邪」、「與治同道」「與亂同事」、「有言逆於汝心」「有言遜於汝志」等數條,一皆本於正心誠意,敷繹詳明。上聽忘倦。尋進《龜鑑萬年錄》、《聖學》、《聖孝》之類凡二十篇。

当時の朝廷の士は、廷議の際に多くは言い尽くさず、顔色を窺いながら曖昧な態度を取り、次第に習俗となっていた。ある日、経筵が終わると、雲翼は言った、「人臣には君に仕える礼があり、君に仕える義がある。礼とは、君の路馬の歯を数えず、その芻を蹴れば罰せられ、君の門に入れば趨り、君の几杖を見れば起ち、君の命で召されれば車を待たずに行き、命を受ければ家に宿らないことである。これらは皆、君に仕える礼であり、人臣が尽くすべきものである。しかし、国家の利害、生民の休戚を逐一陳べるならば、先に言った礼は単なる虚器に過ぎない。君が可と言っても、否とする者がいればその否を献じ、君が否と言っても、可とする者がいればその可を献じる。言うことが従われなくても、裾を引いたり、檻を折ったり、鞅を断ったり、輪を軔するようなことがあっても顧みない。その時、姑くも君に仕える虚礼に従い、君に仕える大義を知らなければ、国家は何を頼りとしようか」と。上は顔色を変えて言った、「卿でなければ、朕はこの言葉を聞かなかったであろう」。雲翼はかつて風痹を患い、この頃やや快方に向かっていた。上は自ら快癒の方法を問うと、答えて言った、「ただ心を治めるのみです。心が和らげば邪気は干すことができません。国を治めることも同じで、人君がまずその心を正せば、朝廷の百官は皆一様に正しくなります」。上は驚き、これが医を借りた諫言であると悟った。

原文當時朝士,廷議之際多不盡言,顧望依違,浸以成俗。一日,經筵畢,因言:「人臣有事君之禮,有事君之義。禮,不敢齒君之路馬,蹴其芻者有罰,入君門則趨,見君之幾杖則起,君命召不俟駕而行,受命不宿於家,是皆事君之禮,人臣所當盡者也。然國家之利害,生民之休戚,一一陳之,則向所謂禮者特虛器耳。君曰可,而有否者獻其否;君曰否,而有可者獻其可。言有不從,雖引裾、折檻、斷鞅、軔輪有不恤焉者。當是時也,姑徇事君之虛禮,而不知事君之大義,國家何賴焉。」上變色曰:「非卿,朕不聞此言。」雲翼嘗患風痹,至是稍愈,上親問愈之之方,對曰:「但治心耳。心和則邪氣不幹,治國亦然,人君先正其心,則朝廷百官莫不一於正矣。」上矍然,知其為醫諫也。

夏人が既に通好した後、その徽猷閣学士の李弁を遣わして互市を議させたが、往復しても決まらなかった。朝廷が雲翼を派遣して議させると、ようやく定まった。五年に卒去した。享年五十九。諡は文献。

原文夏人既通好,遣其徽猷閣學士李弁來議互市,往返不能決,朝廷以雲翼往議乃定。五年卒,年五十有九,諡文獻。

雲翼は天性高雅にして重厚、自ら律すること甚だ厳しく、人に接するには寛容であり、人と交わるには分義が定まっており、死生禍福に少しも変ずることがなかった。国家の事については、知る限りを言わないことはなかった。貞祐年間、兵を主管する者が外敵を防ぐことができず、宋に償いを取ろうとしたため、連年南伐を行った。これを言う者がいると、宋に有利なことをしていると言われるか、あるいは宋と謀っていると疑われた。宰相執政に至っては、他の事は何でも言うが、南伐のことだけは一言も及ぼさなかった。雲翼は進言して言うには、「国家の憂慮は、淮南を得る前にあるのではなく、既に淮南を得た後にある。淮南が平定されれば、江の北はすべて戦場となり、進んで舟楫の間に利を争えば、強弓良馬も十分に駆使できなくなる恐れがある。彼らがもし江を扼して駐屯し、淮に潜んで師を出して糧道を断ち、あるいは水を決して淮南の地を貯水させれば、我が軍はどうして後始末をうまくつけられようか」と。時全が南伐を提唱した時、宣宗が朝臣に問うと、雲翼は言った、「朝臣は概ね諂諛の言葉ばかりで、天下には治乱があり、国勢には強弱があり、今はただ治を言って乱を言わず、強を言って弱を言わず、勝を言って負を言わない、これが議論が偏る所以である。臣は両面から申し上げたい。宋に事を構えようとするのは、その土地を貪るのではなく、ただ西北に警報がある時に南もまた引き留められることを恐れ、そうなれば我々は三面から敵を受けることになるので、我が軍が勢いに乗じて先に動き、その進出を阻もうとするのである。仮に宋人が淮を失っても、敢えて来襲しないならば、これが戦勝の利である。たとえ予想通りになったとしても、その利は必ずしも確実ではない。彼らの江の南は土地がまだ広く、淮南がなくとも数万の兵を集めて、我々に警報があるのを見て出師することができないだろうか。戦って勝ったとしてもそうであり、もし勝たなければ害はどうなるか。また我々は騎兵で彼らの歩兵に当たるので、道理から言えば万全であるべきだが、臣はなお頼りにできない恐れがある。今の事勢は泰和の時とは異なる。泰和では冬に征伐したが、今我々は夏に行こうとしている、これが天時の違いである。冬は水が涸れて陸地が多く、夏は水が溢れて道がぬかるむ、これが地利の違いである。泰和では天下の全力を挙げ、颭軍を駆って前鋒としたが、今それができるか?これが人事の違いである。議論する者はただ泰和の容易さを見て、今日の困難を知らない。夏人を見てみよう、かつて西辺にいた弓箭手は、敵に遇えばすぐに戦い、裸になって射たもので、彼らは敗走する暇もなかったが、今では我が城を陥とし守臣を虜にし、我が軍を破り主将を捕らえる。昔は我々をあのように畏れ、今は我々をこのように侮る。夏人が既に昔日でないのに、どうして宋人だけが昔日のままであると言えようか。願わくは陛下には勝つことの利を考え、また敗れることの害をも考え、甘言に悦びず、後悔を残さないでいただきたい」と。上奏は回答されなかった。時全は果たして淮上で大敗し、一軍全滅した。宣宗は諸将を責めて言った、「私にどういう面目があって楊雲翼に会えようか」。

原文雲翼天性雅重,自律甚嚴,其待人則寬,與人交分一定,死生禍福不少變。其於國家之事,知無不言。貞祐中,主兵者不能外禦而欲取償于宋,故頻歲南伐。有言之者,不謂之與宋為地,則疑與之有謀。至於宰執,他事無不言者,獨南伐則一語不敢及。雲翼乃建言曰:「國家之慮,不在於未得淮南之前,而在城既得淮南之後。蓋淮南平則江之北盡為戰地,進而爭利於舟楫之間,恐勁弓良馬有不得騁者矣。彼若扼江為屯,潛師於淮以斷餉道,或決水以瀦淮南之地,則我軍何以善其後乎。」及時全倡議南伐,宣宗以問朝臣,雲翼曰:「朝臣率皆諛辭,天下有治有亂,國勢有弱有強,今但言治而不言亂,言強而不言弱,言勝而不言負,此議論所以偏也。臣請兩言之。夫將有事于宋者,非貪其土地也,第恐西北有警而南又綴之,則我三面受敵矣,故欲我師乘勢先動,以阻其進。借使宋人失淮,且不敢來,此戰勝之利也。就如所料,其利猶未可必然。彼江之南其地尚廣,雖無淮南豈不能集數萬之眾,伺我有警而出師耶。戰而勝且如此,如不勝害將若何。且我以騎當彼之步,理宜萬全,臣猶恐其有不敢恃者。蓋今之事勢與泰和不同。泰和以冬征,今我以夏往,此天時之不同也。冬則水涸而陸多,夏則水潦而塗淖,此地利之不同也。泰和舉天下全力,驅颭軍以為前鋒,今能之乎?此人事之不同也。議者徒見泰和之易,而不知今日之難。請以夏人觀之,向日弓箭手之在西邊者,一遇敵則搏而戰、袒而射,彼已奔北之不暇,今乃陷吾城而虜守臣,敗吾軍而禽主將。曩則畏我如彼,今則侮我如此。夫以夏人既非前日,奈何以宋人獨如前日哉。願陛下思其勝之之利,又思敗之之害,無悅甘言,無貽後悔。」章奏不報。時全果大敗於淮上,一軍全沒。宣宗責諸將曰:「當使我何面目見楊雲翼耶?」

河朔の民十一人が遊騎に迫られ、河を泳いで南に渡り、役人が罪を論じて死刑に当たるとしたが、雲翼は言った、「法が私渡りを重くするのは、奸偽を防ぐためである。今、平民が兵に迫られ、河に奔り入ったのは、死を逃れるための策である。今、敵に死なずして法に死なせれば、後にはただ敵に従うだけである」と。宣宗は悟り、すべて釈放した。哀宗は河南が旱魃に見舞われたため、詔を下して官に冤獄を処理させたが、陝西には及ばなかった。雲翼は言った、「天地人は一体であり、今、人の一肢が病を受ければ四体が安らかでなくなる。どうして専ら病を受けたところを治して、その余りを置いておけようか」と。朝廷はこれを是とした。

原文河朔民十有一人為遊騎所迫,泅河而南,有司論罪當死,雲翼曰:「法所重私渡者,防奸偽也。今平民為兵所迫,奔入於河,為逭死之計耳。今使不死於敵而死於法,後惟從敵而已。」宣宗悟,盡釋之。哀宗以河南旱,詔遣官理冤獄,而不及陝西,雲翼言:「天地人通為一體,今人一支受病則四體為之不寧,豈可專治受病之處而置其餘哉。」朝廷是之。

司天監が『太乙新暦』を進上した者がおり、尚書省が雲翼に参訂を命じると、その合わないところ二十余条を摘出し、暦家はこれを称えた。著した文集若干巻、校訂した『大金礼儀』若干巻、『続通鑑』若干巻、『周礼弁』一篇、『左氏』『荘』『列』の賦各一篇、『五星聚井弁』一篇、『県象賦』一篇、『勾股機要』『象数雑説』などは家に蔵された。

原文司天有以《太乙新曆》上進者,尚書省檄雲翼參訂,摘其不合者二十餘條,曆家稱焉。所著文集若干卷,校《大金禮儀》若干卷,《續通鑑》若干卷,《周禮辨》一篇,《左氏》、《莊》、《列賦》各一篇,《五星聚井辨》一篇,《縣象賦》一篇,《勾股機要》、《象數雜說》等著藏於家。

趙秉文

原文趙秉文

趙秉文、字は周臣、磁州滏陽の人である。幼くして聡明で悟りが早く、読書はあたかも昔から習っていたようであった。大定二十五年に進士に及第し、安塞簿に任じられ、課税の成績最上により邯鄲令に遷り、再び唐山に遷った。父の喪に服し、推薦者により喪中起用されて南京路転運司都勾判官となった。明昌六年、応奉翰林文字に召され、同知制誥を兼ねた。上書して宰相胥持国を罷免すべきこと、宗室守貞を大用すべきことを論じた。章宗が召して問うと、言うところが前後でかなり異なり、そこで知大興府事内族膏らに審理させた。秉文は初め言おうとせず、その僕を詰問し、交友した者を数え上げると、秉文はようやく言った、「初め上言しようと思い、修撰王庭筠、御史周昂、省令史潘豹、鄭賛道、高坦らと私議した」と。庭筠らは皆獄に下され、処罰に差があった。役人が秉文の上書は狂妄であり、法により官職を追奪すべきと論じたが、上は言によって人を罪にしたくないとして、遂に特別に免じた。当時、これについて語る者がいて言った、「古に朱雲あり、今に秉文あり、朱雲は檻を攀じ、秉文は人を攀ず」と。士大夫は恥じない者はいなかった。この事で長く廃され、後に起用されて同知岢嵐軍州事となり、転じて北京路転運司支度判官となった。承安五年冬十月、陰晦が連日続き、宰相張万公が入対すると、上は万公を見て言った、「卿が言うには天日が晦冥なのは、人君が人を用いるのに邪正を分かたないのと同じであると、極めて道理がある。趙秉文はかつて言事により降授されたが、聞くところではその人に才藻があり、書翰に巧みで、かつ敢言であるという。朕は棄てて用いないのではなく、北辺の軍事がちょうど起こっているので、暫く試しているだけである」と。泰和二年、戸部主事に召され、翰林修撰に遷った。十月、甯辺州刺史として出された。三年、平定州に改めた。前任の政は刑を用いるに苛酷で、赦が来ると聞くたびに、先に賊を殴り殺してから赦を拝し、それで盗賊はますます多くなった。秉文が政を行うと、一切寛簡に従い、一ヶ月も経たぬうちに盗賊はすべて跡を絶った。凶年に、禄粟を出して豪民に率先して救済させ、全活した者は甚だ多かった。

原文趙秉文,字周臣,磁州滏陽人也。幼穎悟,讀書若夙習。登大定二十五年進士第,調安塞簿,以課最遷邯鄲令,再遷唐山。丁父憂,用薦者起複南京路轉運司都勾判官。明昌六年,入為應奉翰林文字,同知制誥。上書論宰相胥持國當罷,宗室守貞可大用。章宗召問,言頗差異,於是命知大興府事內族膏等鞫之。秉文初不肯言,詰其僕,歷數交遊者,秉文乃曰:「初欲上言,嘗與修撰王庭筠、御史周昂、省令史潘豹、鄭贊道、高坦等私議。」庭筠等皆下獄,決罰有差。有司論秉文上書狂妄,法當追解,上不欲以言罪人,遂特免焉。當時為之語曰:「古有硃雲,今有秉文,硃雲攀檻,秉文攀人。」士大夫莫不恥之。坐是久廢,後起為同知岢嵐軍州事,轉北京路轉運司支度判官。承安五年冬十月,陰晦連日,宰相張萬公入對,上顧謂萬公曰:「卿言天日晦冥,亦猶人君用人邪正不分,極有理。若趙秉文曩以言事降授,聞其人有才藻,工書翰,又且敢言,朕非棄不用,以北邊軍事方興,姑試之耳。」泰和二年,召為戶部主事,遷翰林修撰。十月,出為甯邊州刺史。三年,改平定州。前政苛于用刑,每聞赦將至,先掊賊死乃拜赦,而盜愈繁。秉文為政,一從寬簡,旬月盜悉屏跡。歲饑,出祿粟倡豪民以賑,全活者甚眾。

大安初年、北兵が南に向かい、秉文と待制趙資道を召して辺備の策を論じさせると、秉文は言った、「今、我が軍は宣徳に集結しているが、城は小さく、その外に営を列ね、暑雨にさらされ、器械は弛緩し敗れ、人は病み、秋になって敵が来れば不利になるであろう。臨潢の一軍を遣わしてその虚を衝けば、山西の包囲は解けるであろう。兵法にいう『其の意表に出で、其の必ず救わんとするを攻む』というものである」と。衛王は用いず、その秋、宣徳が果たして敗戦を伝えた。まもなく兵部郎中となり、翰林修撰を兼ね、やがて翰林直学士に転じた。

原文大安初,北兵南向,召秉文與待制趙資道論備邊策,秉文言:「今我軍聚於宣德,城小,列營其外,涉暑雨,器械弛敗,人且病,俟秋敵至將不利矣。可遣臨潢一軍搗其虛,則山西之圍可解,兵法所謂'出其不意、攻其必救'者也。」衛王不能用,其秋宣德果以敗聞。尋為兵部郎中,兼翰林修撰,俄轉翰林直學士。

貞祐初年、時事として実行可能な三つのことを建言した。一つは遷都、二つは河の導き、三つは封建である。朝廷はおおよそこれを施行した。翌年、上書して国家のために残破した一州を守り、朝廷の民を恤れむ意を宣布したいと願い、かつ言った、「陛下、書生は兵を知らないと思わないでいただきたい。顔真卿、張巡、許遠らが身を国に許したのも、書生である」と。また言った、「臣が死んで国に益があるなら、座して廩禄を費やす無用の人であるより勝っている」と。上は言った、「秉文の志は確かに尊ぶべきであるが、今、翰苑は特に人を得難い。卿は宿儒であり、左右にいるべきである」と。許さなかった。四年、翰林侍講学士に拝され、言った、「宝券が滞塞するのは、朝廷が初め更張を議した時、市肆がすでに妄りにそれが用いられないと伝え、それによって抑えつけられ、次第に廃絶に至ったからである。臣の愚見では、回易務を立て、市道に通じた近上の職官にこれを掌らせ、銀鈔粟麦縑帛の類を与え、その高低を権衡して出納させるのがよい」と。詔して役人に議して施行させた。

原文貞祐初,建言時事可行者三:一遷都,二導河,三封建。朝廷略施行之。明年,上書願為國家守殘破一州,以宣佈朝廷恤民之意,且曰:「陛下勿謂書生不知兵,顏真卿、張巡、許遠輩以身許國,亦書生也。」又曰:「使臣死而有益於國,猶勝坐糜廩祿為無用之人。」上曰:「秉文志固可尚,然方今翰苑尤難其人,卿宿儒,當在左右。」不許。四年,拜翰林侍講學士,言:「寶券滯塞,蓋朝廷初議更張,市肆已妄傳其不用,因之抑遏,漸至廢絕。臣愚以為宜立回易務,令近上職官通市道者掌之,給以銀鈔粟麥縑帛之類,權其低昂而出納。」詔有司議行之。

興定元年、侍読学士に転ず。礼部尚書を拝し、侍読学士を兼ね、国史同修、集賢院事を管掌す。また翌年、貢挙を管掌し、進士盧亜の重用韻を取った罪により、二階を削られ、よって致仕を請う。金朝は泰和・大安以来、科挙の文章の弊害はますます甚だしくなった。およそ有司はただ格法を守るのみで、取る文章は卑陋陳腐、ただ程度に苟く合うだけで、少しでも奇峭に渉れば、すなわち絀落され、ここに文風は大いに衰えた。貞祐初め、秉文が省試を為し、李献能の賦を得たり。格律は稍々疎なりと雖も詞藻は頗る麗しく、これを第一に擢げたり。挙人はここに大いに喧噪し、台省に訴えて、趙公が文格を大いに壊し、かつ詩を作ってこれを謗る、と為し、久しくしてやっと止んだ。やがて献能はまた宏詞に中り、翰林に入り、而して秉文はついにこれにより罪を得たり。

原文興定元年,轉侍讀學士。拜禮部尚書,兼侍讀學士,同修國史,知集賢院事。又明年,知貢舉,坐取進士盧亞重用韻,削兩階,因請致仕。金自泰和、大安以來,科舉之文其弊益甚。蓋有司惟守格法,所取之文卑陋陳腐,苟合程度而已,稍涉奇峭,即遭絀落,於是文風大衰。貞祐初,秉文為省試,得李獻能賦,雖格律稍疏而詞藻頗麗,擢為第一。舉人遂大喧噪,訴於台省,以為趙公大壞文格,且作詩謗之,久之方息。俄而獻能複中宏詞,入翰林,而秉文竟以是得罪。

五年、再び礼部尚書となり、入朝して謝す。上曰く、「卿は春秋高し。文章の故を以て、須らくまた卿を用いんとす。」秉文は身の厚恩を受くるを以て、自ら効うる所なし。忠言を開き、聖慮を広めんことを願い、毎に進見して従容として上に言い、人主は儉勤すべく、兵刑を慎むべく、以て天を祈り命を永くする所以なり、と。上嘉納す。哀宗即位し、再び致仕を乞うも、許さず。翰林学士に改め、国史同修、兼ねて益政院説書官となる。上嗣徳初めに在り、日々経史に親しみ以て自ら裨益すべく、『無逸直解』『貞観政要』『申鑒』を各一通進む。

原文五年,複為禮部尚書,入謝,上曰:「卿春秋高,以文章故須複用卿。」秉文以身受厚恩,無以自效,願開忠言、廣聖慮,每進見從容為上言,人主當儉勤、慎兵刑,所以祈天永命者,上嘉納焉。哀宗即位,再乞致仕,不許。改翰林學士,同修國史,兼益政院說書官。以上嗣德在初,當日親經史以自裨益,進《無逸直解》、《貞觀政要》、《申鑒》各一通。

正大九年正月、汴京戒厳す。上命じて秉文に赦文を為さしめ、悔悟哀痛の意を布宣せしむ。秉文は事を指し義を陳べ、辞情ともに尽くす。兵退くに及び、大臣賀を称えんと欲し、かつ表を為すことを命ず。秉文曰く、「『春秋』に『新宮火、三日哭』と。今園陵此の如し、礼を以てこれを酌めば、慰むべく賀すべからず。」遂に已む。時に年すでに老い、日々時事を憂いとし、食息の頃といえども忘るる能わず。毎に一事民に便ならしむべきを聞き、一士擢用すべきを聞けば、大なるは則ち章を拝し、小なるは則ち当路の者に言い、殷勤鄭重、自ら已む能わず。三月、『開興改元詔』を草す。閭巷の間皆よく伝誦し、洛陽の人詔を拝し畢り、挙城痛哭す。その人を感ずること此の如し。是の年五月壬辰、卒す。年七十四。積官資善大夫・上護軍・天水郡侯に至る。

原文正大九年正月,汴京戒嚴,上命秉文為赦文,以布宣悔悟哀痛之意。秉文指事陳義,辭情俱盡。及兵退,大臣欲稱賀,且命為表,秉文曰:「《春秋》'新宮火,三日哭'。今園陵如此,酌之以禮,當慰不當賀。」遂已。時年已老,日以時事為憂,雖食息頃不能忘。每聞一事可便民,一士可擢用,大則拜章,小則為當路者言,殷勤鄭重,不能自已。三月,草《開興改元詔》,閭巷間皆能傳誦,洛陽人拜詔畢,舉城痛哭,其感人如此。是年五月壬辰,卒,年七十四,積官至資善大夫、上護軍、天水郡侯。

正大の間、楊雲翼とともに『亀鑑万年録』を作りて上る。また進講に因り、雲翼と共に古来の治術を集め、号して『君臣政要』と為し一編に編みて進む。秉文は幼より老に至るまで未だ嘗て一日も書を廃せず。著す所に『易叢説』十巻、『中庸説』一巻、『揚子発微』一巻、『太玄箋賛』六巻、『文中子類説』一巻、『南華略釈』一巻、『列子補注』一巻、『論語』『孟子』の解を刪集して各十巻、『資暇録』十五巻、著する文章号して『滏水集』と為すもの三十巻。

原文正大間,同楊雲翼作《龜鑑萬年錄》上之。又因進講,與雲翼共集自古治術,號《君臣政要》為一編以進焉。秉文自幼至老未嘗一日廢書,著《易叢說》十卷,《中庸說》一卷,《揚子發微》一卷,《太玄箋贊》六卷,《文中子類說》一卷,《南華略釋》一卷,《列子補注》一卷,刪集《論語》、《孟子解》各一十卷,《資暇錄》一十五卷,所著文章號《滏水集》者三十卷。

秉文の文は辨析に長け、極めて言わんと欲する所に至りて止み、縄墨を以て自ら拘わらず。七言長詩は筆勢縦放、一律に拘わらず。律詩は壮麗、小詩は精絶、多く近体を以てこれを為し、五言古詩に至っては沈鬱頓挫たり。字画は則ち草書特に遒勁なり。朝使河・湟より至る者多く言う、夏人秉文及び王庭筠の起居の状を問う、と。その四方に重んぜらるること此の如し。

原文秉文之文長於辨析,極所欲言而止,不以繩墨自拘。七言長詩筆勢縱放,不拘一律,律詩壯麗,小詩精絕,多以近體為之,至五言古詩則沉鬱頓挫。字畫則草書尤遒勁。朝使至自河、湟者,多言夏人問秉文及王庭筠起居狀,其為四方所重如此。

人となり至誠楽易、人と交わりて崖岸を立てず、未だ嘗て大名を以て自ら居せず。五朝に仕え、六卿の官に至り、自らの奉養は寒士の如し。楊雲翼嘗て秉文と代わりて文柄を掌る。時人「楊趙」と号す。然れども晚年頗る禅語を以て自ら汚し、人また以て秉文の恨みと為す。

原文為人至誠樂易,與人交不立崖岸,未嘗以大名自居。仕五朝,官六卿,自奉養如寒士。楊雲翼嘗與秉文代掌文柄,時人號「楊趙」。然晚年頗以禪語自汙,人亦以為秉文之恨雲。

賛に曰く、楊雲翼・趙秉文は金朝の士の巨擘たり。その文墨論議および政事に皆伝うるに足るものあり。雲翼の宋を伐つを諫むる一疏、宣宗聴かざると雖も、この心何ぞ景略に愧じん。庭筠の累、秉文の為す所、この事大いに高允に愧ず。

原文贊曰:楊雲翼、趙秉文,金士巨擘,其文墨論議以及政事皆有足傳。雲翼諫伐宋一疏,宣宗雖不見聽,此心何愧景略。庭筠之累,秉文所為,茲事大愧高允。

韓玉

原文韓玉

韓玉、字は温甫、その先祖は相の人。曾祖錫は金に仕え、済南尹を以て致仕す。玉は明昌五年経義・辞賦両科の進士、翰林に入り応奉となる。応制に一日百篇、文に点を加えず。また『元勲伝』を作り、旨に称し、章宗歎じて曰く、「勲臣何の幸いか、この家の伝を作るを得んや!」泰和中、通州潞水の漕渠を開通せんことを建言し、船運を以て都に至らしむ。二階を升り、同知陝西東路転運使事を授かる。

原文韓玉,字溫甫,其先相人,曾祖錫仕金,以濟南尹致仕。玉明昌五年經義、辭賦兩科進士,入翰林為應奉。應制一日百篇,文不加點。又作《元勳傳》,稱旨,章宗歎曰:「勳臣何幸,得此家作傳耶!」泰和中,建言開通州潞水漕渠,船運至都。升兩階,授同知陝西東路轉運使事。

大安三年、都城囲まれる。夏人は連ねて邠・涇を陥とす。陝西安撫司は檄を以て玉に鳳翔総管判官として都統府の軍を募らしめ、旬日にして万人を得、夏人と戦い、これを破り、牛馬千余を獲たり。時に夏兵五万方に平涼を囲み、また北原に戦う。夏人は大軍の至るを疑い、この夜解きて去る。当路の者はその功を忌み、駅奏して玉と夏寇に謀り有りとす。朝廷これを疑い、使者をして玉に河平軍節度副使を授けしめ、かつその軍を覘わしむ。先に、華州の李公直は都城の隔絶を以て、兵を挙げて入援せんことを謀る。而して玉はその軍を用いるに足ると恃み、また勤王の挙を為さんと欲し、乃ち檄を州郡に伝えて云く、「事はその本を推し、禍は基く所あり、始めは賊臣の奸賂を貪り容るるより起こり、継いでは二帥の威権を貪り固むるに縁る」と。また云く、「糧を裹きて坐して費やし、膏血を尽くすは生民に在り。甲を棄ててまた来たり、資儲を竭くすは国計に在り。権力を要して形勢を望み、歳月を連ねて妻孥を守る」と。また云く、「人誰か死なざる者あらん、臣子の当然有るを。事今に至りて、君親の顧みざるを忍ぶ。而して百年の身後を謂い、虚名は一たび史臣に聴く。只だ今日目前を以て、何の顔か以て人世に居らん」と。公直の一軍行くこと日有り。将に違約有り、国朝人に従わざる者あれば、輒ち軍法を以て事に従う。京兆統軍は便ち公直の華州に据わりて反すと謂い、都統楊珪を遣わしてこれを襲い取り、遂に極刑に置く。公直嘗て書を為して玉に約す。玉は預かり知らず、その書は乃ち安撫の得る所と為る。使者の玉の軍を覘うに及び、かつ公直の謀に預かるを疑い、即ちその罪を実とす。玉は道中華州に出で、囚われ、郡学に死す。臨終に二詩を壁間に書き、士論これを冤とす。

原文大安三年,都城受圍。夏人連陷邠、涇,陝西安撫司檄玉以鳳翔總管判官為都統府募軍,旬日得萬人,與夏人戰,敗之,獲牛馬千餘。時夏兵五萬方圍平涼,又戰于北原,夏人疑大軍至,是夜解去。當路者忌其功,驛奏玉與夏寇有謀,朝廷疑之,使使者授玉河平軍節度副使,且覘其軍。先是,華州李公直以都城隔絕,謀舉兵入援,而玉恃其軍為可用,亦欲為勤王之舉,乃傳檄州郡雲:「事推其本,禍有所基,始自賊臣貪容奸賂,繼緣二帥貪固威權。」又雲:「裹糧坐費,盡膏血於生民。棄甲複來,竭資儲于國計。要權力而望形勢,連歲月而守妻孥。」又雲:「人誰無死,有臣子之當然。事至於今,忍君親之弗顧。而謂百年身後,虛名一聽史臣。只如今日目前,何顏以居人世。」公直一軍行有日矣,將有違約、國朝人有不從者,輒以軍法從事。京兆統軍便謂公直據華州反,遣都統楊珪襲取之,遂置極刑。公直曾為書約玉,玉不預知,其書乃為安撫所得。及使者覘玉軍,且疑預公直之謀,即實其罪。玉道出華州,被囚,死於郡學。臨終書二詩壁間,士論冤之。

子不疑、字は居之。父の死罪に非ざるを以て、祿仕せざるを誓う。その父の臨終時の手書を蔵す。云く、「此れ冥路に去る、吾が心皓然たり。剛直の気は必ずや下沈せじ。児慮る無かるべし。世乱時艱、努力自ら護れ。幽明異なりと雖も、寧く爾を見ざらんや」と。読む者惻然たり。

原文子不疑,字居之。以父死非罪,誓不祿仕。藏其父臨終時手書雲:「此去冥路,吾心皓然,剛直之氣,必不下沉。兒可無慮。世亂時艱,努力自護,幽明雖異,寧不見爾。」讀者惻然。

馮璧

原文馮璧

馮璧、字は叔献、真定県の人。幼より穎悟凡ならず、弱冠にして太学生に補わる。承安二年経義進士、制策また優等、調べて莒州軍事判官となり、宰相奏して秘書を校せしめ留む。未だ幾ばくもせず、調べて遼濱主簿となる。県に和糴粟価を未だ給せざる者十余万斛あり、散らして民居に貯え、富人を以てこれを掌らしむ。腐敗有れば則ち民に償いを責む。民殊にこれを苦しむ。璧は漕司に白し、即日にこれを罷む。民大いに悦ぶ。

原文馮璧,字叔獻,真定縣人。幼穎悟不凡,弱冠補太學生。承安二年經義進士,制策複優等,調莒州軍事判官,宰相奏留校秘書。未幾,調遼濱主簿。縣有和糴粟未給價者餘十萬斛,散貯民居,以富人掌之,有腐敗則責償於民,民殊苦之。璧白漕司,即日罷之,民大悅。

泰和四年、鄜州録事に転任した。翌年、蜀を征伐するに当たり、行部の檄を受け軍前検察を充てられ、帥府は書檄の作成を彼に委ねた。章宗は呉曦を招降せんと欲し、詔を下して先ず文告をもってこれを諭し、その後兵を用いよと命じた。蜀人は散関を守って下らず、金兵は多くを殺し捕らえた。璧は言う、「彼の軍は守りを拒むが、その民にまで禍を及ぼすのは、詔旨に背くことにはならないか」と。主帥はこれを恨み、璧に両当の潰卒を招かせた。璧は即日に風州の降伏した官属淡剛・李果を率いて同行した。道中で軍士が得た子女・金帛・牛馬に逢えば、皆これを奪い取って淡剛に付し、その家に帰らせ、軍士には違制の罪をもって決遣した。両当に到着する頃には、軍民三万余人が鼓舞して迎え労い、璧は朝旨をもって慰め遣わした。帰還すると、主帥はその才能を嘉し、奏上して一官を昇進させた。五年、東阿丞より召されて尚書省令史を補し、宗室承暉の推薦により応奉翰林文字を授けられ、兼ねて韓王府記室参軍を帯びた。俄かに太学博士に転じた。至寧初め、忽沙虎が弑逆を為すや、遂に官を去った。

原文泰和四年,調鄜州錄事。明年,伐蜀,行部檄充軍前檢察,帥府以書檄委之。章宗欲招降吳曦,詔先以文告曉之,然後用兵。蜀人守散關不下,金兵殺獲甚眾,璧言:「彼軍拒守而並禍其民,無乃與詔旨相戾乎?」主帥憾之,以璧招兩當潰卒,璧即日率風州已降官屬淡剛、李果偕行。道逢軍士所得子女金帛牛馬皆奪付剛,使歸其家,軍士則以違制決遣之。比到兩當,軍民三萬餘眾鼓舞迎勞,璧以朝旨慰遣之。及還,主帥嘉其能,奏遷一官。五年,自東阿丞召補尚書省令史,用宗室承暉薦授應奉翰林文字,兼韓王府記室參軍。俄轉太學博士。至甯初,忽沙虎弑逆,遂去官。

宣宗が南遷すると、璧は時に兵を避けて東方におり、単父より河を渡り汴梁に詣でた。時の宰相が奏上して前職に復させた。貞祐三年、翰林修撰に遷った。時に山東・河朔の軍六十万余口は、県官の供給に仰ぎ、多くは不逞の輩がその間に名を潜ませていた。詔して璧に監察御史を摂行させ、淘汰して追い払わせた。総領撒合問が四百余口の券を冒したので、弾劾して案を以て上聞し、詔して杖殺させた。故に至る所で争って自首し、減じること半ばに及んだ。再び一官を進めた。初め、監察御史本温は命を受けて孟州における宗室従坦の軍を淘汰したが、軍士は謀叛を企てようとし、本温は懼れて為す所を知らなかった。間もなく旨があり、北軍沈思忠以下四将は衛州に屯し、余衆は果たして叛いて太行に入った。ここにおいて、密院は奏して璧に本温に代わってその事を完遂させた。璧は衛に馳せ至り、四将を召して上意を諭した。思忠らは叛者を挟んで還って奏上することを請うたが、璧は大義を以て責め、将士は慚じて服し、間もなく淘汰に就く者三千人に及んだ。

原文宣宗南遷,璧時避兵東方,由單父渡河詣汴梁,時相奏複前職。貞祐三年,遷翰林修撰。時山東、河朔軍六十余萬口,仰給縣官,率不逞輩竄名其間。詔璧攝監察御史,汰逐之。總領撒合問冒券四百餘口,劾案以聞,詔杖殺之,故所至爭自首,減幾及於半。複進一官。初,監察御史本溫被命汰宗室從坦軍于孟州,軍士欲謀變,本溫懼不知所為。尋有旨,北軍沈思忠以下四將屯衛州,餘眾果叛入太行。於是,密院奏以璧代本溫竟其事。璧馳至衛,召四將喻以上意。思忠等挾叛者請還奏之,璧責以大義,將士慚服,不日就汰者三千人。

六月、大理丞に改め、台官と共に関中を行き、奸臓の甚だしい者商州防禦使宗室重福ら十数人を弾劾奏上した。これより権貴は側目した。

原文六月,改大理丞,與台官行關中,劾奏奸髒之尤者商州防禦使宗室重福等十數人,自是權貴側目。

興定四年、宋人が淮上において使者を拒んだため、兵を遣わして南伐し、詔して京東総帥紇石烈牙吾塔に盱眙を攻めさせたが、牙吾塔は命に従わず、精騎を率いて滁州より宣化を掠め、兵を放って大いに掠奪した。故に兵の至る所原野は蕭条として、絶えて資する所無く、宋人は堅壁して戦わず、遂に功無くして帰還した。行省は牙吾塔が故に節制に違えたと奏上し、詔して璧に金符を佩かせてこれを鞫問させた。璧は馳せて牙吾塔の軍に入り、その金符を奪い、他の将帥に代えて摂行させた。牙吾塔が獄に入ると、兵士が嘩噪し、我が帥に罪無しと声を上げた。璧は怒って牙吾塔を責めて言う、「元帥は兵を以て制使に抗せんとするか。待罪の礼は恐らくかくの如くではあるまい。使者が還って奏上すれば、獄事は完遂できようか」と。牙吾塔は地に伏して死を請うた。璧は言う、「兵法に、進退自ら専断し、機会を失して覆敗に至らしむる者は斬るとある」と。即ちこれを擬して上聞し、時の議論はこれを壮とした。

原文興定四年,以宋人拒使者于淮上,遣兵南伐,詔京東總帥紇石烈牙吾塔攻盱眙,牙吾塔不從命,乃率精騎由滁州略宣化,縱兵大掠。故兵所至原野蕭條,絕無所資,宋人堅壁不戰,乃無功而歸。行省奏牙吾塔故違節制,詔璧佩金符鞫之。璧馳入牙吾塔軍,奪其金符,易以他帥攝。牙吾塔入獄,兵士嘩噪,以吾帥無罪為言,璧怒責牙吾塔曰:「元帥欲以兵抗制使耶?待罪之禮恐不如此,使者還奏,獄能竟乎。」牙吾塔伏地請死,璧曰:「兵法,進退自專,有失機會以致覆敗者斬。」即擬以聞,時議壯之。

十月、礼部員外郎に改め、権右司諫・治書侍御史を兼ねた。詔して時務において先に行うべきことを問うと、璧は六事を上書し、大略に冗食を減じ、選鋒を備え、疑似を緩めて刑を慎み、公廉を択んで吏を検し、屯戍において朘削の弊を革め、権貴において請托の科を厳にすべしと述べた。また自治の策四つを条陳し、賢佞を別ち、賞罰を信じ、聴覧を以て下情を通じ、貶損を以て天戒を謹むべしと謂う。詔して東方の饑饉と盗賊の並び起こるを以て、御史中丞完顔伯嘉を宣慰使とし、監察御史道遠を行き従わせた。道遠は永城令簿の奸贓を発し、伯嘉は令と違和し、令を有司に付し、簿は問わずに釈放した。燕語の際には、また参佐克忠らに台職を許すと約した。璧は皆これを弾劾し、伯嘉は遂に罪を得て去った。

原文十月,改禮部員外郎,權右司諫、治書侍御史。詔問時務所當先者,璧上六事,大略言減冗食,備選鋒,緩疑似以慎刑,擇公廉以檢吏,屯戍革朘削之弊,權貴嚴請托之科。又條自治之策四,謂別賢佞,信賞罰,聽覽以通下情,貶損以謹天戒。詔以東方饑饉,盜賊並起,以御史中丞完顏伯嘉為宣慰使,監察御史道遠從行。道遠發永城令簿奸贓,伯嘉與令有違,付令有司,釋簿不問,燕語之際,又許參佐克忠等台職。璧皆劾之,伯嘉竟得罪去。

初め、諜者が帰德行枢密院に告げて言うには、河朔の叛軍に密かに南渡を謀る者ありと。行院事胡土門・都水監使毛花輦はその人を軽んじ、備えを為さなかった。ある日、紅衲数百が筏を連ねて南渡し、下邑を残破して去った。命じて璧にこれを鞫問させた。璧は二将が疾を托して私を営み、寇の来るを聞きて備えを弛め、且つ来れば戦わず、去れば追わず、法に在りて皆斬に当たるとした。或る者が言うには、「二将は皆寵臣なり。而して都水の者は資累巨万なり。若し禁近に援を求めば、必ずや軽典に従わん。君徒に権貴と怨を結ぶのみで、果たして何の益かあらん」と。璧は歎じて言う、「睢陽の行闕は、東藩の重兵の宿する所なり。門廷の寇すら禦ぐこと能わず、これより大なる者有らば、また何をか望まんや」と。即ち擬した所を具して上聞した。

原文初,諜者告歸德行樞密院言,河朔叛軍有竊謀南渡者,行院事胡土門、都水監使毛花輦易其人,不為備。一日,紅衲數百聯筏南渡,殘下邑而去。命璧鞫之。璧以二將托疾營私,聞寇弛備,且來不戰、去不追,在法皆當斬。或以為言:「二將皆寵臣,而都水者貲累巨萬,若求援禁近,必從輕典。君徒結怨權貴,果何益耶?」璧歎曰:「睢陽行闕,東籓重兵所宿,門廷之寇且不能禦,有大於此者,複何望乎!」即具所擬聞。

四年、刑部郎中に遷った。関中に旱魃があり、詔して璧と吏部侍郎畏忻に冤獄を審理させた。時に河中帥阿虎帯及び僚属十数人は皆、城を棄てた罪で死に当たり、同州の獄に繋がれて報を待っていた。同州の官僚は風旨を承望し、璧にどう処すべきかを問うた。璧は言う、「河中は今日の重地なり。朝議は駐蹕の所と擬す。若しこれを失えば則ち河南・陝西に脣亡びて歯寒しの憂い有らん。彼を宗室勳貴なる故に鎮ましむるに、平居無事の時は民の膏血を竭くして浚築の計を為し、一旦警有れば乃ち遽かに焚蕩して去る。此れを誅せずんば、三尺の法用無し」と。遂に冤無しとして上奏した。

原文四年,遷刑部郎中。關中旱,詔璧與吏部侍郎畏忻審理冤獄。時河中帥阿虎帶及僚屬十數人皆以棄城罪當死,系同州獄待報。同州官僚承望風旨,問璧何以處之,璧曰:「河中今日重地,朝議擬為駐蹕之所,若失此則河南、陝西有脣亡之憂。以彼宗室勳貴故使鎮之,平居無事竭民膏血為浚築計,一旦有警乃遽焚蕩而去,此而不誅,三尺法無用矣。」竟以無冤上之。

冬十月、帰徳治中として出向した。未だ幾ばくもせず、同知保静軍節度使に改めた。また同知集慶軍節度使に改め、官に到るや即ち上章して骸骨を乞い、一官を進めて致仕した。正大九年、河南が破られ、北に帰り、また数年して卒した。年七十九。

原文冬十月,出為歸德治中。未幾,改同知保靜軍節度使。又改同知集慶軍節度使,到官即上章乞骸骨,進一官致仕。正大九年,河南破,北歸,又數年卒,年七十有九。

李献甫

原文李獻甫

李献甫、字は欽用、献能の従弟なり。書伝に博通し、特に『左氏』及び地理学に精しかった。人として幹局有り、心の到る所は則ち人を絶して甚だ遠く、故に時人はその精神満腹と称した。興定五年に進士第に登り、咸陽主簿を歴任し、行台令史に辟召された。正大初め、夏の使が来て和を請うた。朝廷は翰林待制馮延登を遣わして議させ、時に献甫は書表官として従行した。夏の使は口弁有り、延登は屈服させることができず、往来すること数日で定まらず、遂に歳幣を以て言上した。献甫は平らかでなく、傍らより進み出て言う、「夏国と我が国は和好すること百年、今雖も君臣の名を易えて兄弟の国と為すも、兄に幣を輸させんとは、寧ろ拠り所有りや」と。使者は言う、「兄弟のことは暫く論ぜず。宋は歳々我が国に幣二十五万疋を輸す。典故具に在り。君独り知らざるか。金朝必ずや旧好を修めんと欲せば、此の例に非ざれば不可なり」と。献甫は色を為して言う、「使者尚お忍んで言うか。宋は歳幣を以て君が家を餌とし、之に姓を賜い、岸然として君父を自ら居く。夏国の君臣に一も悟る者無し。誠に使者は以て諱いみなとすべきなり。乃ち今公に之を言う。使者果たして能く此の議を主とし、賜姓の例に従わんとせば、弊邑歳に五十万を捐つと雖も、献甫請う、身を以て之に任ぜん」と。夏の使は語塞り、和議は乃ち定まった。後、朝廷その功を録し、慶陽総帥府経歴官を授けた。間もなく長安令に辟召された。京兆行台の在る所、供億甚だ繁く、献甫は之を処するに常に余有るが若く、県民は之に頼って安んず。入って尚書省令史と為る。天興元年、行六部員外郎を充て、守備の策は時に相倚り任じた。功を以て鎮南軍節度副使に遷り、兼ねて右警巡使を帯び、蔡州の難に死す。年四十。

原文李獻甫,字欽用,獻能從弟也。博通書傳,尤精《左氏》及地理學。為人有幹局,心所到則絕人遠甚,故時人稱其精神滿腹。興定五年登進士第,曆咸陽簿,辟行台令史。正大初,夏使來請和,朝廷以翰林待制馮延登往議,時獻甫為書表官,從行。夏使有口辯,延登不能折,往復數日不定,至以歲幣為言,獻甫不能平,從旁進曰:「夏國與我和好百年,今雖易君臣之名為兄弟之國,使兄輸幣,寧有據耶?」使者曰:「兄弟且不論。宋歲輸吾國幣二十五萬疋,典故具在,君獨不知耶?金朝必欲修舊好,非此例不可。」獻甫作色曰:「使者尚忍言耶?宋以歲幣餌君家而賜之姓,岸然以君父自居,夏國君臣無一悟者,誠謂使者當以為諱,乃今公言之。使者果能主此議,以從賜姓之例,弊邑雖歲捐五十萬,獻甫請以身任之。」夏使語塞,和議乃定。後朝廷錄其功,授慶陽總帥府經歷官。尋辟長安令。京兆行台所在,供億甚繁,獻甫處之常若有餘,縣民賴之以安。入為尚書省令史。天興元年,充行六部員外郎,守備之策時相倚任之。以功遷鎮南軍節度副使,兼右警巡使,死于蔡州之難,年四十。

著した文章は『天倪集』と号し、汴京に留めた。献甫死して後、其の家も亦破れ、同年の華陰王元礼が之を購い得て、世に伝えた。

原文所著文章號《天倪集》,留汴京。獻甫死,其家亦破,同年華陰王元禮購得之,傳於世。

雷淵

原文雷淵

雷淵は、字を希顏といい、一字を季默といい、應州渾源の人である。父の思は名の知れた進士で、同知北京轉運使に至り、『易』に注釈を施して世に行われた。淵は庶子であり、年は最も幼く、諸兄から軽んじられた。父が没すると、家に安んじることができず、発憤して太学に入った。衣は破れ履は穿ち、坐る榻に席がなく、自ら足を露わにしているのを恥じ、常に端坐して読書し、賓客を迎え送らず、人々は皆傲慢であると思った。その友の商衡がしばしば弁護し、かつ援助した。後に李之純に従って交わり、ついに名を知られた。至甯元年の詞賦進士甲科に及第し、涇州錄事に任じられ、高庭玉の獄に連座して、ほとんど死にかけた。後に東平に改任され、河朔の重兵の所在するところで、驕れる将と悍ましい卒は外敵を恃みとして重んじられ、行台以下は皆これを慰撫したが、淵は軍中に出入りし、泰然として屈しなかった。数ヶ月も経たぬうちに、里巷の間に淵の像を描くことが多く、たとえ大将といえども新進の書生として遇すことはできなかった。まもなく東阿令に遷り、徐州觀察判官に転じた。興定末、召されて英王府文學兼記室參軍となり、應奉翰林文字に転じた。監察御史に拝され、五事を言上して旨に叶い、また弾劾に権貴を避けず、出て郡邑を巡行し、至るところに威誉があり、奸豪で不法の者は直ちに鞭打ち殺した。蔡州に至り、五百人を杖殺し、当時「雷半千」と号された。このことで訴えられ、罷免された。久しくして、宰相侯摯の推薦により、起用されて太学博士・南京轉運司戶籍判官となり、翰林修撰に遷った。一夕にして急死し、年四十八歳であった。

原文雷淵,字希顏,一字季默,應州渾源人。父思,名進士,仕至同知北京轉運使,注《易》行於世。淵庶出,年最幼,諸兄不齒。父歿,不能安於家,乃發憤入太學。衣弊履穿,坐榻無席,自以跣露,恆兀坐讀書,不迎送賓客,人皆以為倨。其友商衡每為辯之,且周恤焉。後從李之純游,遂知名。登至甯元年詞賦進士甲科,調涇州錄事,坐高庭玉獄,幾死。後改東平,河朔重兵所在,驕將悍卒倚外敵為重,自行台以下皆摩撫之,淵出入軍中,偃然不為屈。不數月,閭巷間多畫淵像,雖大將不敢以新進書生遇之。尋遷東阿令,轉徐州觀察判官。興定末,召為英王府文學兼記室參軍,轉應奉翰林文字。拜監察御史,言五事稱旨,又彈劾不避權貴,出巡郡邑所至有威譽,奸豪不法者立箠殺之。至蔡州,杖殺五百人,時號曰「雷半千」。坐此為人所訟,罷去。久之,用宰相侯摯薦,起為太學博士、南京轉運司戶籍判官,遷翰林修撰。一夕暴卒,年四十八。

正大庚寅の倒回穀の役において、淵はかつて上書して朝臣の孤注の論を破り、援引は深切で、灼然として見易く、兵を主る者がこれを沮み、策はついに行われなかった。人となりは躯幹雄偉で、髯は張り口は哆き、顔は渥丹の如く、眼は望洋の如く、不平に遇うと則ち疾悪の気が顔の間に現れ、あるいは歯を噛んで大罵して止まず、たとえ痛く自ら懲創しても、然れども変えることはできなかった。文章詩を作るに新奇を好んだ。善く交わりを結び、凡そ当途の貴要と布衣の名士で往来しない者はなかった。京師に居るとき、賓客が門に踵を接して去ることがなく、家に余財はなかったが、賓客を待つには甚だ豊腆であった。官に蒞るに名を立てることを好み、初めて第に登り遂平県事を摂行したとき、年少気鋭で、豪右を撃ち、奸伏を発し、一邑大いに震駭し、神明と称された。かつて擅に州の魁吏を笞打ち、州が檄を以て召しても応ぜず、罷免された。後に凡そ一職に居るごとに輒ち震耀したが、またこのために達しなかった。

原文正大庚寅倒回穀之役,淵嘗上書破朝臣孤注之論,引援深切,灼然易見,主兵者沮之,策竟不行。為人軀幹雄偉,髯張口哆,顏渥丹,眼如望洋,遇不平則疾惡之氣見於顏間,或嚼齒大罵不休,雖痛自懲創,然亦不能變也。為文章詩喜新奇。善結交,凡當塗貴要與布衣名士無不往來。居京師,賓客踵門未嘗去舍,家無餘貲,及待賓客甚豐腆。蒞官喜立名,初登第攝遂平縣事,年少氣稅,擊豪右,發奸伏,一邑大震,稱為神明。嘗擅笞州魁吏,州檄召之不應,罷去。後凡居一職輒震耀,亦坐此不達。

程震

原文程震

程震は、字を威卿といい、東勝の人である。その兄の鼎と共に擢第した。震は仕官して能声があった。興定初、詔して百官に県令を挙げさせ、震は陳留を得て、治績は河南第一となり、召されて監察御史に拝され、弾劾に撓むところがなかった。時に皇子の荊王が宰相となり、家僮の輩が勢いに乗じて民を侵したので、震は法を以てこれを弾劾し、奏上して言うには、「荊王は陛下の子として、天下の重任を担う。上は君父を輔け、艱難を共に済すことができない。顧みるに専ら権勢を恃み、典禮を蔑棄し、貨賂を開納し、官吏を進退する。奴隸を縦令して細民を侵漁せしめ、名は和市と為すも、其の実は脅取である。諸々の不法は枚挙に遑がない。陛下は家を正すことができずして、天下を正そうとされるのは、難しいことです」と。ここにおいて、上は荊王を責め、内府の銀を出して物の価を償わせ、大奴で特に不法の者数人を杖打った。未幾、故吏に訴えられて連座し、罷官した。歳余りして、嘔血して卒した。

原文程震,字威卿,東勝人。與其兄鼎俱擢第。震入仕有能聲。興定初,詔百官舉縣令,震得陳留,治為河南第一,召拜監察御史,彈劾無所撓。時皇子荊王為宰相,家僮輩席勢侵民,震以法劾之,奏曰:「荊王以陛下之子,任天下之重。不能上贊君父,同濟艱難。顧乃專恃權勢,蔑棄典禮,開納貨賂,進退官吏。縱令奴隸侵漁細民,名為和市,其實脅取。諸所不法不可枚舉。陛下不能正家,而欲正天下,難矣。」於是,上責荊王,出內府銀以償物直,杖大奴尤不法者數人。未幾,坐為故吏所訟,罷官。歲餘。嘔血卒。

震は人となり剛直で材幹があり、身を忘れて国に殉じ、少しも私与することがなかった。御史となるに及んで、台綱は大いに振るい、この故に小人で側目する者多く、久しく朝に留まること能わず、士論はこれを惜しんだ。

原文震為人剛直有材幹,忘身徇國,不少私與。及為御史,台綱大振,以故小人側目者眾,不能久留於朝,士論惜之。

賛に曰く、韓玉・馮璧・李獻甫・雷淵は、皆、金末の豪傑の士である。邠・涇の変に、玉は兵を募ること旬日にして万人を得た。牙吾塔の兇暴に、璧は王度を以てこれを縄し、ついに敢えて動かなかった。夏人は宋の例を援いて歳幣を邀えんとし、献甫は宋が夏に姓を賜うた一事を以てこれを折衝し、夏使は語塞りて和議が定まった。淵は御史となり、権貴は斂み避けた。古の国士に何ぞ加えん。玉は疑いを以て冤せられ、璧・淵は疾悪甚だしく、議者は酷を以てこれを譏るも、瑕豈に瑜を掩うべけんや。程震は荊を劾して罪に抵り、馮・雷に比蹤するも、然れどもまた群小の齟齬に以て死し、直士の世に容れられざること久しい。ああ。

原文贊曰:韓玉、馮璧、李獻甫、雷淵,皆金季豪傑之士也。邠、涇之變,玉募兵旬日而得萬人。牙吾塔之兇暴,璧以王度繩之,卒不敢動。夏人援宋例以邀歲幣,獻甫以宋賜夏姓一事折之,夏使語塞而和議定。淵為御史,權貴斂避,古之國士何加焉。玉以疑見冤,璧、淵疾惡太甚,議者以酷譏之,瑕豈可以掩瑜哉。程震劾荊抵罪,比蹤馮、雷,然亦以群小齟齬而死,直士之不容於世也久矣。籲!