楊雲翼
その年九月、上は雲翼及び戸部尚書の夔、翰林学士の秉文を内殿に召し、皆に座を賜い、講和の策について問うた。ある者は力戦を主張したため、上は俯首して不機嫌となった。雲翼は徐々に『孟子』の事大・事小の説き方でこれを解き、かつ言った、「今日どう計らうべきか。生民に休息を与えることが、すなわち社稷の福である」と。上の表情はようやく和らいだ。
十一月、御史中丞に改めた。宗室の承立が権参知政事となり、京兆で行尚書省事を務めていたが、大臣がその不法を言上した。詔して雲翼に就いてこれを審問させた。獄が決すると、朝廷で奏上して言った、「承立の罪状はいずれも些細な事柄で、問うに足りない。以前、大軍が平涼以西を掠め、数州が破られた際、承立は強兵を擁しながら、傍観して進まなかった。鄜延の帥臣である完顔合達は孤城をもって敵の衝に当たり、屡々戦績を立てた。その功はこの如くであり、承立の罪はあの如し。願わくは陛下がその功罪を明らかにして誅賞され、天下に勧懲を知らしめられたい。その他の小過失は、追咎するに足りない」と。承立はこれにより免官となり、合達は遂に機務を掌ることとなった。
翌年、益政院が設けられ、雲翼がその選首となった。召見される度に座を賜い、名を呼ばれなかった。時に『尚書』を講じたが、雲翼は帝王の学問は経生のように章句を分け析する必要はなく、国の大綱を知るだけで十分であると説いた。そこで「賢を任じ」「邪を去る」、「治と同道する」「乱と同事する」、「汝の心に逆らう言あり」「汝の志に順う言あり」など数条を挙げ、全て正心誠意に基づいて、詳細明瞭に解説した。上は聞き入れて倦むことを忘れた。まもなく『亀鑑万年録』、『聖学』、『聖孝』などの類、凡そ二十篇を進呈した。
当時の朝廷の士は、廷議の際に多くは言い尽くさず、顔色を窺いながら曖昧な態度を取り、次第に習俗となっていた。ある日、経筵が終わると、雲翼は言った、「人臣には君に仕える礼があり、君に仕える義がある。礼とは、君の路馬の歯を数えず、その芻を蹴れば罰せられ、君の門に入れば趨り、君の几杖を見れば起ち、君の命で召されれば車を待たずに行き、命を受ければ家に宿らないことである。これらは皆、君に仕える礼であり、人臣が尽くすべきものである。しかし、国家の利害、生民の休戚を逐一陳べるならば、先に言った礼は単なる虚器に過ぎない。君が可と言っても、否とする者がいればその否を献じ、君が否と言っても、可とする者がいればその可を献じる。言うことが従われなくても、裾を引いたり、檻を折ったり、鞅を断ったり、輪を軔するようなことがあっても顧みない。その時、姑くも君に仕える虚礼に従い、君に仕える大義を知らなければ、国家は何を頼りとしようか」と。上は顔色を変えて言った、「卿でなければ、朕はこの言葉を聞かなかったであろう」。雲翼はかつて風痹を患い、この頃やや快方に向かっていた。上は自ら快癒の方法を問うと、答えて言った、「ただ心を治めるのみです。心が和らげば邪気は干すことができません。国を治めることも同じで、人君がまずその心を正せば、朝廷の百官は皆一様に正しくなります」。上は驚き、これが医を借りた諫言であると悟った。
夏人が既に通好した後、その徽猷閣学士の李弁を遣わして互市を議させたが、往復しても決まらなかった。朝廷が雲翼を派遣して議させると、ようやく定まった。五年に卒去した。享年五十九。諡は文献。
雲翼は天性高雅にして重厚、自ら律すること甚だ厳しく、人に接するには寛容であり、人と交わるには分義が定まっており、死生禍福に少しも変ずることがなかった。国家の事については、知る限りを言わないことはなかった。貞祐年間、兵を主管する者が外敵を防ぐことができず、宋に償いを取ろうとしたため、連年南伐を行った。これを言う者がいると、宋に有利なことをしていると言われるか、あるいは宋と謀っていると疑われた。宰相執政に至っては、他の事は何でも言うが、南伐のことだけは一言も及ぼさなかった。雲翼は進言して言うには、「国家の憂慮は、淮南を得る前にあるのではなく、既に淮南を得た後にある。淮南が平定されれば、江の北はすべて戦場となり、進んで舟楫の間に利を争えば、強弓良馬も十分に駆使できなくなる恐れがある。彼らがもし江を扼して駐屯し、淮に潜んで師を出して糧道を断ち、あるいは水を決して淮南の地を貯水させれば、我が軍はどうして後始末をうまくつけられようか」と。時全が南伐を提唱した時、宣宗が朝臣に問うと、雲翼は言った、「朝臣は概ね諂諛の言葉ばかりで、天下には治乱があり、国勢には強弱があり、今はただ治を言って乱を言わず、強を言って弱を言わず、勝を言って負を言わない、これが議論が偏る所以である。臣は両面から申し上げたい。宋に事を構えようとするのは、その土地を貪るのではなく、ただ西北に警報がある時に南もまた引き留められることを恐れ、そうなれば我々は三面から敵を受けることになるので、我が軍が勢いに乗じて先に動き、その進出を阻もうとするのである。仮に宋人が淮を失っても、敢えて来襲しないならば、これが戦勝の利である。たとえ予想通りになったとしても、その利は必ずしも確実ではない。彼らの江の南は土地がまだ広く、淮南がなくとも数万の兵を集めて、我々に警報があるのを見て出師することができないだろうか。戦って勝ったとしてもそうであり、もし勝たなければ害はどうなるか。また我々は騎兵で彼らの歩兵に当たるので、道理から言えば万全であるべきだが、臣はなお頼りにできない恐れがある。今の事勢は泰和の時とは異なる。泰和では冬に征伐したが、今我々は夏に行こうとしている、これが天時の違いである。冬は水が涸れて陸地が多く、夏は水が溢れて道がぬかるむ、これが地利の違いである。泰和では天下の全力を挙げ、颭軍を駆って前鋒としたが、今それができるか?これが人事の違いである。議論する者はただ泰和の容易さを見て、今日の困難を知らない。夏人を見てみよう、かつて西辺にいた弓箭手は、敵に遇えばすぐに戦い、裸になって射たもので、彼らは敗走する暇もなかったが、今では我が城を陥とし守臣を虜にし、我が軍を破り主将を捕らえる。昔は我々をあのように畏れ、今は我々をこのように侮る。夏人が既に昔日でないのに、どうして宋人だけが昔日のままであると言えようか。願わくは陛下には勝つことの利を考え、また敗れることの害をも考え、甘言に悦びず、後悔を残さないでいただきたい」と。上奏は回答されなかった。時全は果たして淮上で大敗し、一軍全滅した。宣宗は諸将を責めて言った、「私にどういう面目があって楊雲翼に会えようか」。
河朔の民十一人が遊騎に迫られ、河を泳いで南に渡り、役人が罪を論じて死刑に当たるとしたが、雲翼は言った、「法が私渡りを重くするのは、奸偽を防ぐためである。今、平民が兵に迫られ、河に奔り入ったのは、死を逃れるための策である。今、敵に死なずして法に死なせれば、後にはただ敵に従うだけである」と。宣宗は悟り、すべて釈放した。哀宗は河南が旱魃に見舞われたため、詔を下して官に冤獄を処理させたが、陝西には及ばなかった。雲翼は言った、「天地人は一体であり、今、人の一肢が病を受ければ四体が安らかでなくなる。どうして専ら病を受けたところを治して、その余りを置いておけようか」と。朝廷はこれを是とした。
司天監が『太乙新暦』を進上した者がおり、尚書省が雲翼に参訂を命じると、その合わないところ二十余条を摘出し、暦家はこれを称えた。著した文集若干巻、校訂した『大金礼儀』若干巻、『続通鑑』若干巻、『周礼弁』一篇、『左氏』『荘』『列』の賦各一篇、『五星聚井弁』一篇、『県象賦』一篇、『勾股機要』『象数雑説』などは家に蔵された。
趙秉文
大安初年、北兵が南に向かい、秉文と待制趙資道を召して辺備の策を論じさせると、秉文は言った、「今、我が軍は宣徳に集結しているが、城は小さく、その外に営を列ね、暑雨にさらされ、器械は弛緩し敗れ、人は病み、秋になって敵が来れば不利になるであろう。臨潢の一軍を遣わしてその虚を衝けば、山西の包囲は解けるであろう。兵法にいう『其の意表に出で、其の必ず救わんとするを攻む』というものである」と。衛王は用いず、その秋、宣徳が果たして敗戦を伝えた。まもなく兵部郎中となり、翰林修撰を兼ね、やがて翰林直学士に転じた。
貞祐初年、時事として実行可能な三つのことを建言した。一つは遷都、二つは河の導き、三つは封建である。朝廷はおおよそこれを施行した。翌年、上書して国家のために残破した一州を守り、朝廷の民を恤れむ意を宣布したいと願い、かつ言った、「陛下、書生は兵を知らないと思わないでいただきたい。顔真卿、張巡、許遠らが身を国に許したのも、書生である」と。また言った、「臣が死んで国に益があるなら、座して廩禄を費やす無用の人であるより勝っている」と。上は言った、「秉文の志は確かに尊ぶべきであるが、今、翰苑は特に人を得難い。卿は宿儒であり、左右にいるべきである」と。許さなかった。四年、翰林侍講学士に拝され、言った、「宝券が滞塞するのは、朝廷が初め更張を議した時、市肆がすでに妄りにそれが用いられないと伝え、それによって抑えつけられ、次第に廃絶に至ったからである。臣の愚見では、回易務を立て、市道に通じた近上の職官にこれを掌らせ、銀鈔粟麦縑帛の類を与え、その高低を権衡して出納させるのがよい」と。詔して役人に議して施行させた。
五年、再び礼部尚書となり、入朝して謝す。上曰く、「卿は春秋高し。文章の故を以て、須らくまた卿を用いんとす。」秉文は身の厚恩を受くるを以て、自ら効うる所なし。忠言を開き、聖慮を広めんことを願い、毎に進見して従容として上に言い、人主は儉勤すべく、兵刑を慎むべく、以て天を祈り命を永くする所以なり、と。上嘉納す。哀宗即位し、再び致仕を乞うも、許さず。翰林学士に改め、国史同修、兼ねて益政院説書官となる。上嗣徳初めに在り、日々経史に親しみ以て自ら裨益すべく、『無逸直解』『貞観政要』『申鑒』を各一通進む。
正大九年正月、汴京戒厳す。上命じて秉文に赦文を為さしめ、悔悟哀痛の意を布宣せしむ。秉文は事を指し義を陳べ、辞情ともに尽くす。兵退くに及び、大臣賀を称えんと欲し、かつ表を為すことを命ず。秉文曰く、「『春秋』に『新宮火、三日哭』と。今園陵此の如し、礼を以てこれを酌めば、慰むべく賀すべからず。」遂に已む。時に年すでに老い、日々時事を憂いとし、食息の頃といえども忘るる能わず。毎に一事民に便ならしむべきを聞き、一士擢用すべきを聞けば、大なるは則ち章を拝し、小なるは則ち当路の者に言い、殷勤鄭重、自ら已む能わず。三月、『開興改元詔』を草す。閭巷の間皆よく伝誦し、洛陽の人詔を拝し畢り、挙城痛哭す。その人を感ずること此の如し。是の年五月壬辰、卒す。年七十四。積官資善大夫・上護軍・天水郡侯に至る。
正大の間、楊雲翼とともに『亀鑑万年録』を作りて上る。また進講に因り、雲翼と共に古来の治術を集め、号して『君臣政要』と為し一編に編みて進む。秉文は幼より老に至るまで未だ嘗て一日も書を廃せず。著す所に『易叢説』十巻、『中庸説』一巻、『揚子発微』一巻、『太玄箋賛』六巻、『文中子類説』一巻、『南華略釈』一巻、『列子補注』一巻、『論語』『孟子』の解を刪集して各十巻、『資暇録』十五巻、著する文章号して『滏水集』と為すもの三十巻。
秉文の文は辨析に長け、極めて言わんと欲する所に至りて止み、縄墨を以て自ら拘わらず。七言長詩は筆勢縦放、一律に拘わらず。律詩は壮麗、小詩は精絶、多く近体を以てこれを為し、五言古詩に至っては沈鬱頓挫たり。字画は則ち草書特に遒勁なり。朝使河・湟より至る者多く言う、夏人秉文及び王庭筠の起居の状を問う、と。その四方に重んぜらるること此の如し。
人となり至誠楽易、人と交わりて崖岸を立てず、未だ嘗て大名を以て自ら居せず。五朝に仕え、六卿の官に至り、自らの奉養は寒士の如し。楊雲翼嘗て秉文と代わりて文柄を掌る。時人「楊趙」と号す。然れども晚年頗る禅語を以て自ら汚し、人また以て秉文の恨みと為す。
賛に曰く、楊雲翼・趙秉文は金朝の士の巨擘たり。その文墨論議および政事に皆伝うるに足るものあり。雲翼の宋を伐つを諫むる一疏、宣宗聴かざると雖も、この心何ぞ景略に愧じん。庭筠の累、秉文の為す所、この事大いに高允に愧ず。
韓玉
韓玉、字は温甫、その先祖は相の人。曾祖錫は金に仕え、済南尹を以て致仕す。玉は明昌五年経義・辞賦両科の進士、翰林に入り応奉となる。応制に一日百篇、文に点を加えず。また『元勲伝』を作り、旨に称し、章宗歎じて曰く、「勲臣何の幸いか、この家の伝を作るを得んや!」泰和中、通州潞水の漕渠を開通せんことを建言し、船運を以て都に至らしむ。二階を升り、同知陝西東路転運使事を授かる。
子不疑、字は居之。父の死罪に非ざるを以て、祿仕せざるを誓う。その父の臨終時の手書を蔵す。云く、「此れ冥路に去る、吾が心皓然たり。剛直の気は必ずや下沈せじ。児慮る無かるべし。世乱時艱、努力自ら護れ。幽明異なりと雖も、寧く爾を見ざらんや」と。読む者惻然たり。
馮璧
泰和四年、鄜州録事に転任した。翌年、蜀を征伐するに当たり、行部の檄を受け軍前検察を充てられ、帥府は書檄の作成を彼に委ねた。章宗は呉曦を招降せんと欲し、詔を下して先ず文告をもってこれを諭し、その後兵を用いよと命じた。蜀人は散関を守って下らず、金兵は多くを殺し捕らえた。璧は言う、「彼の軍は守りを拒むが、その民にまで禍を及ぼすのは、詔旨に背くことにはならないか」と。主帥はこれを恨み、璧に両当の潰卒を招かせた。璧は即日に風州の降伏した官属淡剛・李果を率いて同行した。道中で軍士が得た子女・金帛・牛馬に逢えば、皆これを奪い取って淡剛に付し、その家に帰らせ、軍士には違制の罪をもって決遣した。両当に到着する頃には、軍民三万余人が鼓舞して迎え労い、璧は朝旨をもって慰め遣わした。帰還すると、主帥はその才能を嘉し、奏上して一官を昇進させた。五年、東阿丞より召されて尚書省令史を補し、宗室承暉の推薦により応奉翰林文字を授けられ、兼ねて韓王府記室参軍を帯びた。俄かに太学博士に転じた。至寧初め、忽沙虎が弑逆を為すや、遂に官を去った。
六月、大理丞に改め、台官と共に関中を行き、奸臓の甚だしい者商州防禦使宗室重福ら十数人を弾劾奏上した。これより権貴は側目した。
興定四年、宋人が淮上において使者を拒んだため、兵を遣わして南伐し、詔して京東総帥紇石烈牙吾塔に盱眙を攻めさせたが、牙吾塔は命に従わず、精騎を率いて滁州より宣化を掠め、兵を放って大いに掠奪した。故に兵の至る所原野は蕭条として、絶えて資する所無く、宋人は堅壁して戦わず、遂に功無くして帰還した。行省は牙吾塔が故に節制に違えたと奏上し、詔して璧に金符を佩かせてこれを鞫問させた。璧は馳せて牙吾塔の軍に入り、その金符を奪い、他の将帥に代えて摂行させた。牙吾塔が獄に入ると、兵士が嘩噪し、我が帥に罪無しと声を上げた。璧は怒って牙吾塔を責めて言う、「元帥は兵を以て制使に抗せんとするか。待罪の礼は恐らくかくの如くではあるまい。使者が還って奏上すれば、獄事は完遂できようか」と。牙吾塔は地に伏して死を請うた。璧は言う、「兵法に、進退自ら専断し、機会を失して覆敗に至らしむる者は斬るとある」と。即ちこれを擬して上聞し、時の議論はこれを壮とした。
十月、礼部員外郎に改め、権右司諫・治書侍御史を兼ねた。詔して時務において先に行うべきことを問うと、璧は六事を上書し、大略に冗食を減じ、選鋒を備え、疑似を緩めて刑を慎み、公廉を択んで吏を検し、屯戍において朘削の弊を革め、権貴において請托の科を厳にすべしと述べた。また自治の策四つを条陳し、賢佞を別ち、賞罰を信じ、聴覧を以て下情を通じ、貶損を以て天戒を謹むべしと謂う。詔して東方の饑饉と盗賊の並び起こるを以て、御史中丞完顔伯嘉を宣慰使とし、監察御史道遠を行き従わせた。道遠は永城令簿の奸贓を発し、伯嘉は令と違和し、令を有司に付し、簿は問わずに釈放した。燕語の際には、また参佐克忠らに台職を許すと約した。璧は皆これを弾劾し、伯嘉は遂に罪を得て去った。
初め、諜者が帰德行枢密院に告げて言うには、河朔の叛軍に密かに南渡を謀る者ありと。行院事胡土門・都水監使毛花輦はその人を軽んじ、備えを為さなかった。ある日、紅衲数百が筏を連ねて南渡し、下邑を残破して去った。命じて璧にこれを鞫問させた。璧は二将が疾を托して私を営み、寇の来るを聞きて備えを弛め、且つ来れば戦わず、去れば追わず、法に在りて皆斬に当たるとした。或る者が言うには、「二将は皆寵臣なり。而して都水の者は資累巨万なり。若し禁近に援を求めば、必ずや軽典に従わん。君徒に権貴と怨を結ぶのみで、果たして何の益かあらん」と。璧は歎じて言う、「睢陽の行闕は、東藩の重兵の宿する所なり。門廷の寇すら禦ぐこと能わず、これより大なる者有らば、また何をか望まんや」と。即ち擬した所を具して上聞した。
四年、刑部郎中に遷った。関中に旱魃があり、詔して璧と吏部侍郎畏忻に冤獄を審理させた。時に河中帥阿虎帯及び僚属十数人は皆、城を棄てた罪で死に当たり、同州の獄に繋がれて報を待っていた。同州の官僚は風旨を承望し、璧にどう処すべきかを問うた。璧は言う、「河中は今日の重地なり。朝議は駐蹕の所と擬す。若しこれを失えば則ち河南・陝西に脣亡びて歯寒しの憂い有らん。彼を宗室勳貴なる故に鎮ましむるに、平居無事の時は民の膏血を竭くして浚築の計を為し、一旦警有れば乃ち遽かに焚蕩して去る。此れを誅せずんば、三尺の法用無し」と。遂に冤無しとして上奏した。
冬十月、帰徳治中として出向した。未だ幾ばくもせず、同知保静軍節度使に改めた。また同知集慶軍節度使に改め、官に到るや即ち上章して骸骨を乞い、一官を進めて致仕した。正大九年、河南が破られ、北に帰り、また数年して卒した。年七十九。
李献甫
著した文章は『天倪集』と号し、汴京に留めた。献甫死して後、其の家も亦破れ、同年の華陰王元礼が之を購い得て、世に伝えた。
雷淵
正大庚寅の倒回穀の役において、淵はかつて上書して朝臣の孤注の論を破り、援引は深切で、灼然として見易く、兵を主る者がこれを沮み、策はついに行われなかった。人となりは躯幹雄偉で、髯は張り口は哆き、顔は渥丹の如く、眼は望洋の如く、不平に遇うと則ち疾悪の気が顔の間に現れ、あるいは歯を噛んで大罵して止まず、たとえ痛く自ら懲創しても、然れども変えることはできなかった。文章詩を作るに新奇を好んだ。善く交わりを結び、凡そ当途の貴要と布衣の名士で往来しない者はなかった。京師に居るとき、賓客が門に踵を接して去ることがなく、家に余財はなかったが、賓客を待つには甚だ豊腆であった。官に蒞るに名を立てることを好み、初めて第に登り遂平県事を摂行したとき、年少気鋭で、豪右を撃ち、奸伏を発し、一邑大いに震駭し、神明と称された。かつて擅に州の魁吏を笞打ち、州が檄を以て召しても応ぜず、罷免された。後に凡そ一職に居るごとに輒ち震耀したが、またこのために達しなかった。
程震
震は人となり剛直で材幹があり、身を忘れて国に殉じ、少しも私与することがなかった。御史となるに及んで、台綱は大いに振るい、この故に小人で側目する者多く、久しく朝に留まること能わず、士論はこれを惜しんだ。
賛に曰く、韓玉・馮璧・李獻甫・雷淵は、皆、金末の豪傑の士である。邠・涇の変に、玉は兵を募ること旬日にして万人を得た。牙吾塔の兇暴に、璧は王度を以てこれを縄し、ついに敢えて動かなかった。夏人は宋の例を援いて歳幣を邀えんとし、献甫は宋が夏に姓を賜うた一事を以てこれを折衝し、夏使は語塞りて和議が定まった。淵は御史となり、権貴は斂み避けた。古の国士に何ぞ加えん。玉は疑いを以て冤せられ、璧・淵は疾悪甚だしく、議者は酷を以てこれを譏るも、瑕豈に瑜を掩うべけんや。程震は荊を劾して罪に抵り、馮・雷に比蹤するも、然れどもまた群小の齟齬に以て死し、直士の世に容れられざること久しい。ああ。