完顏素蘭
七月、車駕が汴に至ると、素蘭は上書して事を論じ、おおよそ次のように述べた。「昔、東海侯(衛紹王)が在位した時、讒諂を信用し、忠直を疏遠排斥したため、小人が日々進み、君子が日々退き、紀綱は紊亂し、法度はますます廃れた。風が城門の関を折り、火が市里の舎舎を焼いたのは、上天が象を垂れてこれを戒め懼れさせたのである。言う者が君子に親しみ小人を遠ざけ、恐懼修省して天変に応えるよう勧めたが、東海は従わず、ついに滅亡に至った。乱を善く救う者は必ずその乱の生じた由縁を跡づけ、弊を善く革する者は必ずその弊の起こった根源を究める。もし真に大明の黜陟を行って東海の政を革すれば、治安の効果は指日にして待つことができる。陛下が龍興なされたのに、これを思わず、軽々しく南遷を議し、詔が下った日には、士民が相率いて上章して留まるよう請い、出発の日には、風雨が時にあわず、橋梁が数えきれぬほど壊れた。人心と天意もまた見ることができよう。この事は既に過ぎたことで、どうして再び追うことができようか。ただ今後は特に戒慎し、覆車の轍を引いて再び踏むことのないようにすべきである」。
また言う。「国家は一日も兵なくしてはならず、兵は一日も食なくしてはならない。陛下が社稷の計をなされ、宮中の用度を皆貶損に従わせられたのに、有司がまた多く軍官を置き、妄費を顧みないのは、甚だ謂れのないことである。あるいは軍官が多いのは威声を張大するためだというが、臣は窃かにそうは思いません。精選を加えずにただその多さを務めるのでは、緩急あって敵に臨んだ時、用いることができましょうか。かつ中都はただその糧が乏しかったからこそ、車駕をここに至らしめたのである。少し安地を得たからといって、その危険を忘れて備えをしないなら、万一再び前日のようになった時、有司がまた陛下をどこにお連れしようと請うか分かりません」。
朕は徐々にこれを考えよう」。素蘭が出ると、上はまた戒めて言う、「今日朕と対したのはただ汝二人だけである。慎んで漏らすな」。その後、上は素蘭が屡々直言を進めるので、命じて再び監察御史に任じた。
四年三月、上言す。「臣が近く外路の官を体問することを命ぜられ、廉潔で有能な者は差遣を擬せず、もし懦弱で不公正な者はこれを罷免し、朝廷に具申して別に擬注を議すべしと。臣が伏して思うに、かの懦弱不公の人は罷去を命ずるといえども、ただ待闕の者をもって代えるに過ぎず、その能否また未だ知るべからず、あるいは反って前官に及ばず、蓋し徒らに選人の虚名ありて、人を得る実跡なし。古語に曰く、『県令その人に非ざれば、百姓その殃を受く』と。今もし後官さらに劣らば、則ち患い滋しく甚だしからん、豈に朝廷の民を恤うるの意ならんや。夫れ守令は治の本なり。乞うらくは随朝の七品、外路の六品以上の官に令して、各々司県の長官に堪えうる者を挙げしめ、なお挙官の姓名を明らかに著し、他日にその能否を察し、賞罰を同定せしめよ。庶幾くはこれ可ならん。議者はあるいは選法を閡し、資品を紊すを以て言うが、これは方今の事が平昔と異なるを知らず、豈に一定の法に拘り、斯の民の病むを坐視して、権宜を以て更定せざるべけんや」と。詔して有司に議して行わしむ。
時に哀宗皇太子たり、春宮に設くる師保贊諭の官多くその人に非ず、ここにおいて素蘭上章して言う。「臣聞く、太子は天下の本なり、天下を治めんと欲すれば先ずその本を正すべし、本を正すの要は他に無く、人を選んでこれを輔翼するに在るのみ。斉に生まるる者は斉言を能くして楚語を能くせず、未だ習わざる故なり。人の性もまたこれを習うに在るのみ。昔、成王繈褓の中に在りて、即ち周・召を命じて師保と為し、その逸豫の心を戒め、持守の道を告げ、終に文・武の功を光らせ、休を垂れて窮まり無し。欽惟す、陛下天人の心に順い、預め春宮を建つ。皇太子仁孝聰明天資に出で、枢務を総制するは固より綽然として余り有り、倘しくさらに周・召の儔の如き賢を選びて之をして夾輔せしめば、則ち成周の治も足らずして侔うべし」と。上善しと称す。未だ幾ばくもあらず、内侍局直長に擢でられ、尋いで諫議大夫に遷り、侍御史に進む。
陳規
四年正月、上言す。「伏して見るに、河沿いに物斛の北渡を悉く禁ず、遂に河北艱食せしめ、人心安からず。昔、秦・晋仇と為り、一たび年饑に遇えば則ち互いに之に粟を輸す。今聖主上に在り、一視同仁、豈に一家の民を以て自ら南北を限り、困餒するを坐視して救わざるべけんや。況んや軍民死を效して敵を禦ぎ、使いて復た食に乏しからば、生また何をか聊かん、人心一たび揺らば、害と為ること細ならず。臣謂う、宜しく大陽・孟津等の渡に官を委して閲視せしめ、河を過ぐるの物、毎石官収することその半を過ぎざらしめば、則ち富めるの家その厚息を利し、輻湊して往かん、庶幾くは公私俱に足らん」と。宰執河南の軍儲を重しと為し、詔して両渡に官を委してその八を取り、二を以て民に与え、春の沢足るに至り、大兵北還し、乃ち規の請いに依る。制可す。
三月、上言す。「臣巡按に因りて徐州に至る。去歳河北に紅襖盗起こり、州節度副使の紇石烈鶴寿を遣わし兵を将いてこれを討つ、而るに乃ち大いに良民の家屬を掠めて驅と為す、甚だ不可なり。乞うらくは明らかに有司に敕し、凡そ鶴寿の虜にせし所は俱に放免せしめ、余の路の軍人本国の人を掠めて驅と為す者も、また乞うらくは一体施行せしめよ。庶幾くは河朔系望する所有らん、上恩極まり已む無からん」と。事尚書省に下り、徐州・帰徳の行院に命じて拘括してこれを放ち、隱匿する者有らば人を掠めて奴婢と為すの法に坐し、なお諸人に告捕を許し、令に依りて賞を給し、虜にせられし人自ら訴うる者もまたこれを賞す。
四月、上奏して言う。「河北の河に臨む州県は、おおよそ一舎(三十里)ごとに一寨を設け、住民を籍して兵とする。数寨ごとに総領官一人を置き、みな宣差従宜を以て名と為す。その人々は大抵皆閑官であり、義軍の長や偏裨の類は特に無頼の輩が多く、徴逐宴飲して下より取給し、日々これを常と為す。及び敵至れば則ち伏匿して出でず、敵去れば騒擾すること初めの如し。この輩の小人に重柄を仮す、朝廷の号令威権、乃ち太だ軽きに過ぎぬか。臣謂う、宜しく皆これを罷め、第に宣撫司に委ねて従宜に措画せしむれば足るなりと。」制して可とする。
七月、上章して言う。
陛下は上聖寛仁の姿を以て、天地否極の運に当たり、広く言路を開きて至論を求め、雖も狂妄失実の者も亦罪に坐さず。臣は耳目の官に忝くし、言うべきの地に居る。苟も緘黙を為さば、何を以てか洪造に仰酬せん。謹んで八事を条陳す。願わくは人微を以てしてこれを廃せず、即ち采る可き無くば、乞う放帰山林して以て屍祿の罪を懲らしめよ。
一には、大臣を責めて以て身に安危を任ぜしむ。今、北兵は辺陲より起こり、深く吾が境に入り、大小の戦に勝捷せざる無く、以て神都覆没し、翠華南狩し、中原の民は肝脳地に塗れ、大河以北は莽として盗区と為る。臣、毎に此れに念及するごとに、驚怛已まず。況んや宰相大臣は皆、社稷生霊の安危に係る所の者なり。豈に陛下の為に憂慮せざらんや。毎朝の奏議は、目前の数条に過ぎず、特だ碎末を以てし、互いに異同を生じ、倶に時を救うの急なる者に非ず。況んや近詔に軍旅の務は専ら枢府に委ね、尚書省は利害を坐視し、泛然として問わず、以て責は己に在らずと為す。其の嫌を避け身を全うするの計に於いては則ち得たりと雖も、社稷生霊は将に何れの所にか頼らん。古語に云う、「疑わば則ち任ずる勿れ、任ずれば則ち疑う勿れ」と。又曰く、「之を謀るには衆を欲し、之を断ずるには独を欲す」と。陛下既に宰相を以て之に任ずるに、豈に其の細に親しむをして其の大を図らざらしめんや。伏して願わくは特だ睿断を同じくし、若し軍伍器械・常程文牘は即ち枢府の専行に聴き、戦守の大計・征討の密謀に至っては皆須らく省院同じく議して可否を為さしむれば、則ち大臣と為る者は知る所責有るを、而して天下は為す可きなり。
二には、台諫を任じて以て耳目を広む。人主には政事の臣有り、議論の臣有り。政事の臣とは宰相執政、陰陽を和し、万物を遂げ、四夷を鎮撫し、百姓を親附し、天子と廟堂の上に経綸する者なり。議論の臣とは諫官御史、天子と曲直を辨し、是非を正す者なり。二者豈に偏く廃す可けんや。昔、唐の文皇、中書門下の入閣議事を制し、皆諫官をして之に随わしめ、失有れば輒ち諫めしむ。国朝、諫官を設くると雖も、徒に員を備うるのみ。毎に奏事に遇うごとに皆回避せしむ。或いは他職を兼ね、或いは省部の差する所と為り、任を終うるまで天顔を覿せず、一言をも出さずして去る者有り。御史有ると雖も、官吏を糾察し、案牘を照刷し、倉庫を巡視するを責むるに過ぎず、其の事利害に関わり或いは政令更革するは、則ち皆機密と為して聞かず。万一、政事の臣胸臆を専任し、威福自由にし、或いは兵を掌る者私見を以て事機を敗るも、陛下安んぞ之を知らんや。伏して願わくは学術䛟博、世務に通曉し、骨鯁敢言する者を遴選して以て台諫と為し、凡そ事利害に関わるは皆預議せしめ、其の或いは当たらざるは悉く論列を聴き、兼職及び省部委差に充つるを許さず。苟も畏れ徇って言わざれば則ち従いて之を黜せよ。
三には、節儉を崇めて以て天意に答う。昔、衛の文公、狄人の国を滅ぼすの余に乗じ、楚丘に徙居す。才だ革車三十両なるに、乃ち躬行儉約し、大帛の冠を冠り、大布の衣を衣、季年に至りて騋牝三千を致し、遂に富庶と為る。漢の文帝、秦・項の戦争の後を承け、四海困窮し、天子鈞駟を具うる能わざるに、乃ち敦樸を示し、身は弋綈を衣、足は革舄を履く。未だ幾ばくもせずして天下富安し、四夷咸く服す。国家、兵興以来、州県残毀し、存する者は復た土寇に擾らされ、独り河南稍々完し。然れども大駕の所在、其の費貲す可からず。天下の奉ずる所を挙げて一路に責むるは、顧みて難からずや。頼むに陛下の慈仁、上天の眷佑に頼り、蝗災の余りに去歳の秋禾・今年の夏麦稍々支持を得たり。夫れ天に応ずる者は要は実を以てし、儉を行う者は天必ず福を降す。切に宮中及び東宮の奉養、平時と異なる無く、随朝の官吏・諸局の承応人も未だ嘗て裁省する所有らざるを見る。貴臣・豪族・掌兵官に至っては、莫だ奢侈を以て相尚とせず、服食車馬惟だ紛華を事とす。今、京師に明金の衣服及び珠玉犀象を鬻ぐ者は日に旧に増す。倶に己を克して厄を消すの道に非ず。願わくは陛下、衛の文公・漢の文帝を法と為し、凡そ奉ずるの物痛く自ら樽節し、冗員を罷め、浮費を減じ、豪侈を戒め、明金服飾を禁戢し、庶くは皇天禍を悔い、太平致す可からん。
四には、守令を選んで以て民心を結ぶ。方今、天下の官吏軍兵の費・転輸営造の労を挙ぐるは、皆河南・陝西に仰給す。之に加うるに連年の蝗旱、百姓饑饉を薦め、賑済を行えば則ち倉廩懸乏し、徴調を免ぜば則ち用度足らず。其の実恵民に及ぼさんと欲すれば、惟だ賢守令を得るのみ。賦役繁殷・期会促迫の際に当たり、若し措画方有れば則ち百姓力省にして易く辦じ、一たび或いは乖謬有れば其の害に勝えざる者有り。況んや県令の弊、今に甚だしきは無し。軍衛監当進納労効に由りて得る者十に八九を居め、其の桀黠なる者は時に乗じて貪縦し、庸懦なる者は権猾吏に帰す。近く雖も官を遣わして廉察し、其の奸濫を治め、其の疲軟を易うるも、然れども代わる者も亦選択に非ず。所謂る狼を除きて虎を得るなり。伏して乞う、明らかに尚書省に勅し、廉潔私無く、才牧民に堪うる者を公選し、以て州府官を補わしむ。仍って県令の選を清くし、及び随朝七品・外任六品以上の官に責めて各々県令に堪うる者一員を保せしめ、他日贓を犯せば並びに従坐せしむ。其の資歴既に正七品に系り、及び見任の県令なる者は、皆寄理を聴き、秩満して升遷を俟たしむ。復た監察をして以て時を以て巡按せしめ、不法及び職に任ぜざる者あれば之を究治せしむれば、則ち実恵民に及び民心固し。
五には、群臣に謀を博くして以て大計を定む。比者、河北の軍戸百余万口を河南に徙す。雖も冗濫を革去すと雖も、而も存する者猶四十二万奇有り。歳に粟三百八十余万斛を支い、以て一路終歳の斂を竭くして、此の耕さず戦わざるの人を贍う能わず。辺事無くとも、亦将に坐して困らん。況んや兵事方に興り、未だ息期を見ざるや。近く沿河に分布し、使いて自ら種殖せしめんと欲す。然れども遊惰の人耕稼を知らず、群飲賭博習以て風と成る。是れ徒に有司を煩わして課租を征索するのみ。数百万の衆を挙げて坐して廩給を糜し、緩むれば則ち用闕け、急げば則ち民疲る。朝廷惟だ此の一事已に処する所を知らず、又何を以てか敵を待たん。是れ蓋し初めに審らかならず、其の後を計らず、以て此の誤を致すなり。初め遷す時に使いて去留其の願う所に従わしめば、則ち来らんと欲する者は是れ自ら贍うに足るの家なり。何ぞ官廩を仮らん。其の留まる者は必ず難を避くるの所有らん。必ずしも強いて遣わす要無く、当に今日措画の難に至らざるべし。古昔、人君将に大事を挙げんとすれば、則ち乃心に謀り、卿士・庶人・卜筮に謀る。乞う、今より凡そ大事有れば必ず省院台諫及び随朝五品以上の官をして同議せしむるを便と為す。
上は上書を覧て喜ばず、詔して尚書省に付して詰問させた。宰執はその諸事を紛更するのを憎み、言う所多く当たらないと謂った。ここにおいて規は惶懼して罪を待ったが、詔諭して曰く、「朕は初め規に山林に放帰するの語あるを以て、故に詰問させたが、乃ち職に任ぜず忌諱を以て辞し、朕がその言を悪んで怒る意と謂った。朕は初め罪を加える意無し。御史台にこれを諭させよ」と。尋いで徐州帥府の経歴官として出された。
四月、大旱により詔して規に冤滯を審理させた。臨発に上奏して曰く、「今、河南一路に便宜・行院・帥府・従宜凡そ二十箇所あり、陝西に行尚書省・帥府五あり、皆便宜をもって人を殺すことを得る。冤獄はここにあり、州県に在らず」と。また曰く、「雨水時ならざれば審理を責める。然らば職燮理の者は当に如何すべきか」と。上はその言を善しとしたが、為すことができなかった。
十一月、上(宣宗)は完顔素蘭及び陳規を召し入れて謁見し、面と向かって諭して言うには、「宋人が軽々しく国境を侵犯するので、我が方は軽騎兵でこれを襲い、彼らが懲りて和を請い、我が民を休ませようと望んだだけである。宋がもし和議を実行するなら、なお兵を用いようか。卿らはこの意を理解すべきである」と。陳規が進み出て言うには、「帝王の兵は万全を貴びます。昔、光武帝が中興した時、征伐する度に必ず勝利したが、それでもなお『出兵する度に、頭髪が白くなる』と言われました。兵を妄りに動かさないのはこのようなものです」と。上はこれを良しとした。四年三月、上は群臣を召して陝西の情勢について諭して言うには、「今は春で北方の馬は次第に痩せ衰え、秋が深まれば大軍が一斉に攻めて来る。どうやって支えられようか。朕はすでに合達に全力を尽くして一戦を決するよう諭した。卿らはどう思うか」と。また和議は無益であると述べ、撒合輦は和議を強く否定し、賽不は言うには、「今はすでに和平の使者を派遣した。途中で中止できるでしょうか」と。その他は皆無言であったが、陳規だけが進み出て言うには、「兵事は遠くから推し量るのは難しく、百聞は一見に如かず。臣はかつて陝西の官を務め、近年もまたしばしば陝西に赴きましたが、兵士と将軍は冗員で懦弱であり、おそらく用いるに足りず、聖上のご推察のようにはいかないでしょう」と。言葉が終わらないうちに、烏古論四和が言うには、「陳規の言葉は正しくありません。臣は近ごろ陝西に至りましたが、軍士は勇猛で精鋭であり、皆一戦を望んでおります」と。監察御史完顔習顯がこれに従って同調し、上は肯き、また広く和議について述べた。陳規が答えて言うには、「和議は確かに上策ではありませんし、また必ず成るものでもありません。しかし、今の情勢ではやむを得ないことです。仮に彼ら(宋)が従い難くとも、なお将兵を激励して、その変を待つことができます」と。上はこれを正しいとは思わなかった。翌日、また省中で集議させ、和議を廃止しようとしたが、群臣の多くは和議が便利であるとし、そこで行省に詔して斟酌して発遣させたが、結局事は行われなかった。
初め、宣宗は文繡署令王寿孫を召して大紅の半身の繍衣を作らせ、かつ陳規に知らせないよう戒めた。完成して献上された時、王寿孫を召して問うて言うには、「かつて陳規の輩に知らせたか」と。王寿孫は頓首して言うには、「臣は禁庭に侍り、凡そ宮中の大小の事は外の者に言うことを敢えません。ましてや親しく聖訓を蒙ったことなどなおさらです」と。上はそこで嘆いて言うには、「陳規がもし知れば、必ず華美な装飾を諫めてくるだろう。私は実にその言葉を恐れている」と。陳規が事を言うのに遠慮がなく、朝廷での声望が非常に重かったので、凡そ宮中で事を行う度に、上は必ず「陳規が何か言うのを恐れる」と言った。一時の近臣の密議は、ただ陳正叔(陳規)を恐れるのみであり、まさに一世の直士であった。後に中京副留守として出されたが、赴任せずに卒去し、士論はこれを惜しんだ。
陳規は博学で文を能くし、詩にも律度があった。人となりは剛毅で質実、古人の風があり、学問に篤く、老いるまで廃さなかった。渾源の劉従益は彼の上奏した八事を見て、嘆いて言うには、「宰相の材である」と。人と時事を論ずる度に憤慨し嘆いたのは、その言が行われないことを傷んだからである。南渡後、諫官として許古・陳規が称えられたが、陳規は攻撃的で直截なことを以て自ら名乗らず、特に重んじられたという。死んだ日、家には一金もなく、知己友人が葬った。子に良臣がいる。
許古
許古、字は道真、汾陽軍節度使致仕の許安仁の子である。明昌五年の詞賦進士に及第した。貞祐初年、左拾遺から監察御史に任ぜられた。当時、宣宗が汴京に遷都し、丞相の朮虎高琪を信任して、恢復の謀がなかった。許古が上章して言うには、
中都が失陥して以来、宗廟社稷・陵墓・宮室府庫から、図籍や重器に至るまで、百年の積累が一朝にして棄てられた。ただ聖主の痛悼の心が最も深く切なるものであり、夙夜思懼して中興の功を建てる所以を、少しも置かないことはなかった。臣下として禄を食み責を負う者が、どうして愧じることがなかろうか。かつて里巷の細民でさえ、なお朝廷が師徒を整訓し、恢復を図ることを仰ぎ望んでいる。しかし今、やっと河を拒んで自保することを聞き、また諸路の軍戸を尽く河南に移した。彼らはすでにその恒産を棄てて自ら生きる術がなく、土着の民はまたその擾乱を被る。臣は誰がこの謀を為したかを知らない。しかしすでにこのようになってしまった以上、ただどう処置するかを議し、軍に妄費がなく、民が困窮に至らないようにすれば良いのである。
臣は聞く、安危の繫るところは一つの宰相にあると。孔子は「危うきに持せず、顛るに扶けずんば、則ち将に焉んぞ用いん」と称された。事勢ここに至るに、執政者が毎度天顔に対し、どうして清問に仰いで答えるのか知らない。今急を要するのは、人を得ることに過ぎない。前御史大夫の裴満德仁、工部尚書の孫徳淵は、忠諒で明敏、大用に堪える。近ごろ皆告老を許されたが、願わくば再び起用して任じれば、必ずや国家に利することを建てることができるだろう。太子太師致仕の孫鐸は、やや衰病しているが、もし大議があればなお召し出すことを賜い、あるいは就いて問うこともできる。人材は古来難しく、凡そ治体を知る者は皆重んじて惜しむべきである。況んやこれらの耆旧を、どうして軽々しく棄てることができようか。もし事に臨んでその心を尽くさず、たとえ心を尽くしても理に明るくなく、得ても益なく、失っても損のない者は、たとえなお壮年であっても、どうして用いることができよう。時に多難であるから、固より碌碌たる徒が員数を備えて屍位素餐し、賢路を塞ぐことを許さない。惟うに陛下の宸衷に剛断を加え、黜陟を一新し、以て天下を幸せにされたい。臣が前に拾遺であった時、すでに嘗て宰相を選ぶ道を備えて論じた。乞うらくは臣の前の奏上と今の言うところを取り、審思を加えられたし。
臣はまた聞く、将は民の司命であり、国家の安危の繫るところである。故に古の人君は必ずその選を重んじ、将となる者もまた必ず天下を己が任とした。将たる者は謀を貴び戦を賤しむ。必ずや賞罰は人をしてこれを信じて疑わず、権謀は人をしてこれに由って知らず、三軍は奔走して号令に従い勝利を取る。そうしてこそ中心誠服して喜んでこれを用いられるのである。近ごろ城守は堅からず、戦に臨めばすぐに敗北する。皆将の才無きが故である。親昵する者に私し、賞罰が公平でなく、衆怨に至り、変が生じるのを恐れて、撫摩慰藉し、一切姑息の事を行う。これによって兵はその将を軽んじ、将はその兵を畏れる。尚どうしてこれに出死力させて敵を防がせることができようか。願わくは腹心の臣及び兵事に通暁する者に、各々知る所を挙げさせ、もし真の才を得れば、優しく寵任を加えれば、戦功を期することができる。例えば河東宣撫使の胥鼎、山東宣撫使の完顔弼、涿州刺史の内族の従坦、昭義節度使の必蘭阿魯帯は、或いは忠勤で勇幹、或いは重厚で謀あり、皆これを用いて方面を捍ぐことができる。
また言うには、
河北の諸路は都城がすでに失われ、軍戸が尽く移されたので、国家が挙げてこれを棄てたと思い、州県の官はしばしば逃奔して河南に来る。所在の地に根拠を定め、期限を立てて送還することを命じ、違反者は再び録用しないことを乞う。未だ任を離れていない者は恩賞を加えることを議し、もし自ら河北で尽力することを願う者もまた陳請を聴き、なお先にこれを賞し、その任期を減ずる。州県の長官と次官は皆軍職を兼ねることを命じ、軍中で才略と胆勇のある者を頭目に選ぶことを許し、あるいは爵命を加えてその心を収め、一府を取る者があれば即座に府の長官を授け、州県もまたこれと同じくし、人をして故土を回復する心を懐かしませる。別に忠実で幹済ある者を派遣し、文檄と官賞を以て諸々の脅従者を招く。彼らはすでに敵の役務に苦しんでいるので、来る者は必ず多く、敵の勢いは自ずから削がれるであろう。有司はこのようにすることを知らず、ただ清野の計を為すのみで、事の緩急にかかわらずただ速やかに成すことを期し、今、晩禾は十のうち七八を損ない、遠近危惧している。謀るところは大いに道理に背いていると言えよう。
また言うには、
京師は諸夏の根本であり、況んや今常に重兵を宿し、緩急征討必ず此れより由る、平時尚お外路よりも優遇し、百姓をして蓄積する所有らしむべし、私室に在りと雖も猶お公家の如しなり。今有司余糧を捜括し、転販する者をして復た敢えて入る無からしむ、宜しく即時に之を止むべし。臣頃に陳言を看読し、其の心を尽くし誠を竭して以て正論を吐く者を見るに、率ね皆草沢の疏賤の人なり、況んや百僚に在りて、豈に国を為に深く憂へ章疏を進むる者無からんや。誠に宜しく中外に明敕し、言を尽くして憚らざるを得しむべし、然らば則ち太平の長策出づるなり。
詔して尚書省に付し、略施行す。
四年、右司諫を以て侍御史を兼ぬ。時に大兵潼関を越えて東す、詔して尚書省に百官を集めて議せしむ、古上言して曰く、「兵関を踰えて朝廷甫に知る、此れ蓋し諸将欺蔽の罪なり。然りと雖も、大兵閿郷の境に駐し、数日動かず、意は吾が河南の軍前に逆らひ、陝西の衆其の後を議するを恐れ、或は先づ覘者をして趨向の便を伺はしめ、或は深く人境に入り其の地利に非ざるを以て自ら危しと為すに在り、以て観望し未だ遽かに進まず。此時正に宜しく鋭卒を選募し力を併せて之を撃ち、且つ其の帰路を開くべし、彼既に疑惑し、敵に遇へば必ず走らん、我が衆従ひて之を襲へば、其の破るる必せり。」と。上以て尚書省に示す、高琪其の議を沮み、遂に行はれず。是の月、始めて招賢所を置き、古等をして其の事を領せしむ。
古朝廷宋を伐たんと欲するを以て、上疏諫めて曰く、「昔大定初、宋人宿州を犯し、已にして屡敗す、世宗其の敢えて遽かに乞和せざるを料り、乃ち元帥府に勅し人を遣はして之を議せしめ、是より太平幾三十年。泰和中、韓侂冑妄りに辺釁を開く、章宗駙馬僕撒揆を遣はして之を討たしむ。揆兵興し費重くして久しく支ふること能はざるを慮り、陰に侂冑の族人を遣はし其の祖琦の画像及び家牒を齎し、偽り帰附を為し、以て丘崇に見え、因りて之に継好し、振旅して還る。夫れ世宗・章宗の隆なるに、府庫充実し、天下富庶す、猶先づ俯屈して以て成功に即き、之を祖廟に告げ、之を史冊に書き、万世の美談と為す、今其れ務めざるべけんや。今大兵少しく息み、若し復た南辺事無くんば、則ち太平遠からず。或は専ら威武を用ひて宋人を屈服せしむべしと謂ふは、此れ殆ど虚言にして、実用を究めず。借令時に小捷を獲るとも、亦足らざるを以て賀すべし。彼吾が勢の大なるを見れば、必ず堅守して出でず、我が軍倉卒に得る所無く、須らく還りて糧に就かんとす、彼復た乗じて之を襲はば、我をして戦はんと欲して得ず、退かんと欲して能はざらしむ、則ち休兵の期殆ど未だ見ざるなり。況んや彼江南蓄積の余有り、我は止だ河南一路征斂の弊有り、寒心すべし。願くは陛下隠忍包容し、速に此の策を行ひ、果して通ずれば、則ち大兵之を聞き、亦将に跡を斂めて、吾が掣肘無きが故なり。河南既に息肩を得て、然る後に朔方を経略せば、則ち陛下中興の福を享け、天下涵養の慶に頼らん。惟ふに陛下近功を略し、後患を慮らんことを、幸甚に勝へず。」と。上是の言に然り、即ち古に議和の牒文を草せしむ。既に成る、以て宰臣に示す、宰臣其の哀祈の意有り、自ら微弱を示すと言ふ、遂に用ひず。
哀宗が即位した初め、補闕に召され、まもなく左司諫に遷り、事を言うこと少し昔の時分に及ばず。間もなく致仕し、伊陽に住み、郡守が伊川亭を建てた。古は性来酒を好み、老いても衰えず、しばしば舟に乗って村落の間に出で、留まって飲むことあるいは十数日帰らず、また流れを溯って上るときは、老いも若きも争って舟を挽き、数十里絶えず、その時人に愛慕されることかくの如し。正大七年に卒す、年七十四。古は平生詩及び書を好んで為す、然れども士大夫に重んぜられず、時の論はただその直なることを称するのみ。
賛に曰く、宣宗即位し、孜孜として世宗を継述するを志と為す、而して其の為す所一切之に反す。大定に和を講じ、南北治を称し、貞祐に兵を用い、生民塗炭す。石琚相と為り、君臣の間務めて寛厚を行い、高琪政を秉り、儒を悪み吏を喜び、上下苛察す。完顔素蘭首めて琪の悪を攻め、琪必ず紀綱を乱すと謂う。陳規力めて刀筆吏の残虐を言い、風俗を壊さんことを恐る。許古宋と和するを請い、辞極めて忠愛なり。三人の言う所皆時に切中する病有り、古の諍臣の風有り。宣宗其の直なるを知り、而して其の言を用いず、是の如くにして霊に比せんと欲し世宗に斯く、難きかな。