金史

列傳第四十七:完顏素蘭、陳規、許古

完顏素蘭

完顏素蘭、一名は翼、字は伯揚、至寧元年の策論進士である。貞祐初年、累遷して応奉翰林文字となり、権監察御史を兼ねた。二年、宣宗が汴に遷都し、皇太子を燕都に留めたが、後に召還しようとした。素蘭は不可とし、平章の高琪が言うには、「主上がここにおられるのに、太子は従うべきである。それに汝は都城が必ず完保できると保証できるか」と。素蘭は言う、「完保は必ずしも保証できませんが、ただ太子がそこにいれば声勢ともに重みがあり、辺境の要害を守れば都城は憂いがありません。昔、唐の明皇がしょくに幸した時、太子は実に霊武におり、天下の人心を繋ぐためであったのです」と。聞き入れられず、ついに太子を召還して従わせた。

七月、車駕が汴に至ると、素蘭は上書して事を論じ、おおよそ次のように述べた。「昔、東海侯(衛紹王)が在位した時、讒諂を信用し、忠直を疏遠排斥したため、小人が日々進み、君子が日々退き、紀綱は紊亂し、法度はますます廃れた。風が城門の関を折り、火が市里の舎舎を焼いたのは、上天が象を垂れてこれを戒め懼れさせたのである。言う者が君子に親しみ小人を遠ざけ、恐懼修省して天変に応えるよう勧めたが、東海は従わず、ついに滅亡に至った。乱を善く救う者は必ずその乱の生じた由縁を跡づけ、弊を善く革する者は必ずその弊の起こった根源を究める。もし真に大明の黜陟を行って東海の政を革すれば、治安の効果は指日にして待つことができる。陛下が龍興なされたのに、これを思わず、軽々しく南遷を議し、詔が下った日には、士民が相率いて上章して留まるよう請い、出発の日には、風雨が時にあわず、橋梁が数えきれぬほど壊れた。人心と天意もまた見ることができよう。この事は既に過ぎたことで、どうして再び追うことができようか。ただ今後は特に戒慎し、覆車の轍を引いて再び踏むことのないようにすべきである」。

また言う。「国家は一日も兵なくしてはならず、兵は一日も食なくしてはならない。陛下が社稷の計をなされ、宮中の用度を皆貶損に従わせられたのに、有司がまた多く軍官を置き、妄費を顧みないのは、甚だ謂れのないことである。あるいは軍官が多いのは威声を張大するためだというが、臣は窃かにそうは思いません。精選を加えずにただその多さを務めるのでは、緩急あって敵に臨んだ時、用いることができましょうか。かつ中都はただその糧が乏しかったからこそ、車駕をここに至らしめたのである。少し安地を得たからといって、その危険を忘れて備えをしないなら、万一再び前日のようになった時、有司がまた陛下をどこにお連れしようと請うか分かりません」。

三年正月、素蘭が中都から軍事を計議して戻り、上書して謁見を求め、左右を退けるよう乞うた。上は人を遣わして諭して言う、「人を退けて奏事するのは、朕も常にそうしている。近ごろ遊茂が因縁を作って疑いを生じさせる言葉があったので、凡そ引見する時は必ず一近臣を立たせて侍らせている。汝が封章があっても、密にできない心配はない」と。まもなく近侍局に召し出され、紙筆を与えて言いたいことを書かせた。書くこと半ばに及ばないうちに、上は便殿に出禦してこれに会い、左右を悉く去らせ、ただ近侍局直長の趙和和だけがそこにいた。素蘭は奏上して言う、「臣は聞く、興衰治乱は国の常であり、用いる人が如何にあるかによる、と。人を得て用いれば、衰乱であっても尚お扶持することができ、一旦非才であれば、治安もまた乱れる。向こう颭軍の変が起こった時、中都帥府は自ら剿滅するのに十分であったのに、朝廷は移剌刺塔不也らに命じてこれを招誘させ、帥府にその力を尽くさせなかった。既に招くことができず、ますます制することができなくなった。伯徳文哥の叛に至っては、帥府がまさにその権を削ろうと議していたのに、朝廷が旨を伝えて義軍を領させ、文哥はこれによってますますほしいままになり、改除の令を拒んで受けず、不臣の状もまた顕わになった。帥府がまさに収捕しようとしていたのに、朝廷がまたこれを赦し、かつ帥府に隷させない。国家が方面を重臣に託しておきながら、信任せず、かえって叛賊の奸を養うとは、誰が陛下にこの計を画したのか知りません。臣が外から風聞したところでは、皆平章高琪の意であると。惟うに陛下の裁察を」。上は言う、「汝の言うことは皆その通りである。文哥の事は、朕の未だ悉くしないところである。誠に汝の言う通りなら、朕がどうして赦すことがあろうか。それに汝はどうしてこの事が高琪の出したものだと知ったのか」。素蘭は言う、「臣は文哥が永清副提控の劉溫に送った牒文を見ました。'差した人張希韓が南京から至り、副枢平章(高琪)の処分を伝え、既に奏上して文哥を大名行省に隷させ、再び中都帥府の約束に従わないようにさせた'と。溫は即ち帥府に詳しく言上しました。そうすると、罪人と高琪が計略を結んだことは明らかです」。上はうなずいた。素蘭は続けて奏上して言う、「高琪は本来勲労もなく、公望もなかった。以前は死を恐れた故に胡沙虎を擅に誅し、無聊の出でたるものに過ぎなかった。一旦志を得てからは、賢能を妬み、奸党を樹て、国権を窃み弄び、自ら威福を作った。去年、都下の書生樊知一という者が高琪に詣でて言った、'颭軍は信用できず、恐らく終に乱を起こすだろう'と。そこで刀杖で決殺させた。これ以来、再び軍国の利害を言う者はなくなった。宸聡が通じず、下情が達しないのは、皆この人の罪である。颭軍が変を起こした時、党人の塔不也を武寧軍節度使として招きに行かせたが、後に成果がなく、則ちまた武衛軍使とした。塔不也とは何者か、かつ何の功があって、このように重用されるのか。臣が観るに、この賊は紀綱を変乱し、忠良を戕害し、実に国家が平治することを欲しない意がある。昔、東海侯の時、胡沙虎が跋扈して上を無し、天下はこれを知りながら敢えて言わなかった。ただ台官の烏古論徳升、張行信がその悪を弾劾したが、東海は察せず、ついにその禍に遭った。今、高琪の奸は、胡沙虎よりもはるかに過ぎている。台諫は職として言責を負うべきところ、凶威に迫られて、口を噤んで敢えて逆らわない。しかし内外の臣庶はその恣横を見て、扼腕切歯し、一たび刃を剚えんと欲しない者はない。陛下は何を惜しんでこれを去らないのか。臣は言い出せば患いが至ることを知らないわけではないが、顧みるに臣父子は聖朝に迭仕し、久しく厚禄を食み、敢えて安きを偸むことはできない。惟うに陛下が断然としてこれを行えば、社稷の福である」。上は言う、「これは大事である。汝が敢えてこれに及んだのは、甚だ善い」。素蘭はまた奏上する、「丞相の福興は、国の勲旧である。京師に召還して雅俗を鎮めさせ、左丞の彖多に留後の事を付せば、十分です」。上は言う、「卿の言う通りなら、二人は相悪むことはないか」。素蘭は言う、「福興と彖多は同心同徳で、協わないことはありません」。上は言う、「都下の事は殷賑で、恐らく丞相を輟めることはできない」。素蘭は言う、「臣は聞く、朝廷正しければ則ち天下正し、福興を還して根本を正すに如かず、と」。上は言う、「

朕は徐々にこれを考えよう」。素蘭が出ると、上はまた戒めて言う、「今日朕と対したのはただ汝二人だけである。慎んで漏らすな」。その後、上は素蘭が屡々直言を進めるので、命じて再び監察御史に任じた。

四年三月、上言す。「臣が近く外路の官を体問することを命ぜられ、廉潔で有能な者は差遣を擬せず、もし懦弱で不公正な者はこれを罷免し、朝廷に具申して別に擬注を議すべしと。臣が伏して思うに、かの懦弱不公の人は罷去を命ずるといえども、ただ待闕の者をもって代えるに過ぎず、その能否また未だ知るべからず、あるいは反って前官に及ばず、蓋し徒らに選人の虚名ありて、人を得る実跡なし。古語に曰く、『県令その人に非ざれば、百姓その殃を受く』と。今もし後官さらに劣らば、則ち患い滋しく甚だしからん、豈に朝廷の民を恤うるの意ならんや。夫れ守令は治の本なり。乞うらくは随朝の七品、外路の六品以上の官に令して、各々司県の長官に堪えうる者を挙げしめ、なお挙官の姓名を明らかに著し、他日にその能否を察し、賞罰を同定せしめよ。庶幾くはこれ可ならん。議者はあるいは選法を閡し、資品を紊すを以て言うが、これは方今の事が平昔と異なるを知らず、豈に一定の法に拘り、斯の民の病むを坐視して、権宜を以て更定せざるべけんや」と。詔して有司に議して行わしむ。

時に哀宗皇太子たり、春宮に設くる師保贊諭の官多くその人に非ず、ここにおいて素蘭上章して言う。「臣聞く、太子は天下の本なり、天下を治めんと欲すれば先ずその本を正すべし、本を正すの要は他に無く、人を選んでこれを輔翼するに在るのみ。斉に生まるる者は斉言を能くして楚語を能くせず、未だ習わざる故なり。人の性もまたこれを習うに在るのみ。昔、成王繈褓の中に在りて、即ち周・召を命じて師保と為し、その逸の心を戒め、持守の道を告げ、終に文・武の功を光らせ、休を垂れて窮まり無し。欽惟す、陛下天人の心に順い、預め春宮を建つ。皇太子仁孝聰明天資に出で、枢務を総制するは固より綽然として余り有り、倘しくさらに周・召の儔の如き賢を選びて之をして夾輔せしめば、則ち成周の治も足らずして侔うべし」と。上善しと称す。未だ幾ばくもあらず、内侍局直長に擢でられ、尋いで諫議大夫に遷り、侍御史に進む。

興定二年四月、蒲鮮万奴の叛に因り、素蘭を遣わし近侍局副使内族の訛可とともに遼東に赴かしめ、詔を諭して曰く。「万奴の事竟に果たして何如なるかを知らず、卿等到る彼にその詳を得べし、然れども宜しく鉄山に止居すべく、若し復た遠く去らば、則ち朕その耗を得難からん」と。また曰く。「朕訛可の性頗る率易なるを以て、故に特に卿を命じて偕に行かしむ、毎事詳しくこれを議すべし」と。素蘭将に行かんとし、上言して曰く。「臣近く高麗に宣諭して互市を復開する事を請う、詔書を行省の必蘭出に付するを聞く。若し行省をして就きてこれを諭せしむれば、隣境の領受に過ぎず、中間に通ぜざる所有らんことを恐る、聖恩を高麗に達せしめず、高麗もまた由って朝廷の本意を知る無からん。況んや彼世々藩輔と為り、未だ嘗て臣子の礼を闕かず、若し信使を遣わして明らかに恩詔を以てこれを諭し、貸糧・開市の二者必ず一つは済まん。苟しくも俱に従わざれば、則ちその曲彼に在り、然る後に別にこれを図る議すべし」と。上その言を是とし、ここにおいて典客署書表の劉丙を遣わして従行せしむ。及び還りて、翰林待制を授かる。

正大元年正月、詔して群臣を集めて河中府の修復を議す、素蘭と陳規等その未だ可ならざるを奏す、語は『規伝』に在り。是の月、刑部郎中に転ず。時に南陽の人布陳謀反し、坐して繋がるる者数百人、司直の白華、素蘭に言う。「この獄詿誤する者多し、新天子方に寛大を務む、他日必ず再び詔して推問せん、比するに昭雪を得んには、榜笞の下に死する者多からん」と。素蘭、華及び検法の辺沢に命じて当に死すべき、当に免るべき者を分別せしめ、素蘭以て聞こえ、首悪及び偽将相に擬する者数人を坐するに止め、余は悉くこれを釈す。

八月、権戸部侍郎。二年三月、京西司農卿を授かり、俄かに司農大卿に改め、御史中丞に転ず。七年七月、権元帥右都監・参知政事、京兆に行省す。未だ幾ばくもあらず、金安軍節度使に遷り、同・華安撫使を兼ぬ。既にして朝に召し還され、陝に行き至りて囲まれ、久しくして、行在に亡奔す、道中に遇害す。

素蘭官に蒞むに修謹を以て名を得、然れども苛細にして大事を任ずる能わず、輩流に較べて頗る称す可し。近侍局直長に擢でられしより、毎に進言多く補益有り。その父の喪に居り、酒を飲まず、墓に廬すること三年、時論以て難しと為す。

陳規

陳規、字は正叔、絳州稷山の人。明昌五年詞賦進士、南渡して監察御史と為る。貞祐三年十一月、上章して言う。「参政侯摯初めに都西に功を立て、次を用いられざるを得、遂に自ら請うて河北を鎮撫す。陛下遽かに執政を授け、蓋しその報效を責めんと欲するなり。既にして西山に盤桓し、進退能わず、及び闕に召し還され、自ら辞避すべし、乃ち恬然として安居し、倉庫を按閲し、榷酤を規画するに至るは、豈に大臣の宜しく親しむべき所ならんや。方今疆土日蹙し、将帥人に乏しく、士選練せず、冗食猥りに多し、守令貪残、百姓流亡し、盗賊滋しく起こり、災変息まず、則ち当に日夜その故を講求し、陛下に啓告すべきなり、而るに摯未だ嘗てこれに及ばず。伏して願わくは陛下特しく省察を賜い、その才分を量り別に任使を加え、天下の謗を負わしむる無からしめよ」と。報いず。また言う。「警巡使の馮祥は刀筆より進み、他の才能無く、第に惨刻督責を以て事と為す。これによりて職を升す、恐らくは残虐の風を長ぜん、乞うらくは黜退して余の者を励ますべし」と。詔して即ち祥の職を罷め、且つ規に諭して曰く。「卿臣子の分を知り、敢えてかくの如く言う、朕甚だこれを嘉す」と。

四年正月、上言す。「伏して見るに、河沿いに物斛の北渡を悉く禁ず、遂に河北艱食せしめ、人心安からず。昔、秦・晋仇と為り、一たび年饑に遇えば則ち互いに之に粟を輸す。今聖主上に在り、一視同仁、豈に一家の民を以て自ら南北を限り、困餒するを坐視して救わざるべけんや。況んや軍民死を效して敵を禦ぎ、使いて復た食に乏しからば、生また何をか聊かん、人心一たび揺らば、害と為ること細ならず。臣謂う、宜しく大陽・孟津等の渡に官を委して閲視せしめ、河を過ぐるの物、毎石官収することその半を過ぎざらしめば、則ち富めるの家その厚息を利し、輻湊して往かん、庶幾くは公私俱に足らん」と。宰執河南の軍儲を重しと為し、詔して両渡に官を委してその八を取り、二を以て民に与え、春の沢足るに至り、大兵北還し、乃ち規の請いに依る。制可す。

三月、上言す。「臣巡按に因りて徐州に至る。去歳河北に紅襖盗起こり、州節度副使の紇石烈鶴寿を遣わし兵を将いてこれを討つ、而るに乃ち大いに良民の家屬を掠めて驅と為す、甚だ不可なり。乞うらくは明らかに有司に敕し、凡そ鶴寿の虜にせし所は俱に放免せしめ、余の路の軍人本国の人を掠めて驅と為す者も、また乞うらくは一体施行せしめよ。庶幾くは河朔系望する所有らん、上恩極まり已む無からん」と。事尚書省に下り、徐州・帰徳の行院に命じて拘括してこれを放ち、隱匿する者有らば人を掠めて奴婢と為すの法に坐し、なお諸人に告捕を許し、令に依りて賞を給し、虜にせられし人自ら訴うる者もまたこれを賞す。

四月、上奏して言う。「河北の河に臨む州県は、おおよそ一舎(三十里)ごとに一寨を設け、住民を籍して兵とする。数寨ごとに総領官一人を置き、みな宣差従宜を以て名と為す。その人々は大抵皆閑官であり、義軍の長や偏裨の類は特に無頼の輩が多く、徴逐宴飲して下より取給し、日々これを常と為す。及び敵至れば則ち伏匿して出でず、敵去れば騒擾すること初めの如し。この輩の小人に重柄を仮す、朝廷の号令威権、乃ち太だ軽きに過ぎぬか。臣謂う、宜しく皆これを罷め、第に宣撫司に委ねて従宜に措画せしむれば足るなりと。」制して可とする。

七月、上章して言う。

陛下は上聖寛仁の姿を以て、天地否極の運に当たり、広く言路を開きて至論を求め、雖も狂妄失実の者も亦罪に坐さず。臣は耳目の官に忝くし、言うべきの地に居る。苟も緘黙を為さば、何を以てか洪造に仰酬せん。謹んで八事を条陳す。願わくは人微を以てしてこれを廃せず、即ち采る可き無くば、乞う放帰山林して以て屍祿の罪を懲らしめよ。

一には、大臣を責めて以て身に安危を任ぜしむ。今、北兵は辺陲より起こり、深く吾が境に入り、大小の戦に勝捷せざる無く、以て神都覆没し、翠華南狩し、中原の民は肝脳地に塗れ、大河以北は莽として盗区と為る。臣、毎に此れに念及するごとに、驚怛已まず。況んや宰相大臣は皆、社稷生霊の安危に係る所の者なり。豈に陛下の為に憂慮せざらんや。毎朝の奏議は、目前の数条に過ぎず、特だ碎末を以てし、互いに異同を生じ、倶に時を救うの急なる者に非ず。況んや近詔に軍旅の務は専ら枢府に委ね、尚書省は利害を坐視し、泛然として問わず、以て責は己に在らずと為す。其の嫌を避け身を全うするの計に於いては則ち得たりと雖も、社稷生霊は将に何れの所にか頼らん。古語に云う、「疑わば則ち任ずる勿れ、任ずれば則ち疑う勿れ」と。又曰く、「之を謀るには衆を欲し、之を断ずるには独を欲す」と。陛下既に宰相を以て之に任ずるに、豈に其の細に親しむをして其の大を図らざらしめんや。伏して願わくは特だ睿断を同じくし、若し軍伍器械・常程文牘は即ち枢府の専行に聴き、戦守の大計・征討の密謀に至っては皆須らく省院同じく議して可否を為さしむれば、則ち大臣と為る者は知る所責有るを、而して天下は為す可きなり。

二には、台諫を任じて以て耳目を広む。人主には政事の臣有り、議論の臣有り。政事の臣とは宰相執政、陰陽を和し、万物を遂げ、四夷を鎮撫し、百姓を親附し、天子と廟堂の上に経綸する者なり。議論の臣とは諫官御史、天子と曲直を辨し、是非を正す者なり。二者豈に偏く廃す可けんや。昔、唐の文皇、中書門下の入閣議事を制し、皆諫官をして之に随わしめ、失有れば輒ち諫めしむ。国朝、諫官を設くると雖も、徒に員を備うるのみ。毎に奏事に遇うごとに皆回避せしむ。或いは他職を兼ね、或いは省部の差する所と為り、任を終うるまで天顔を覿せず、一言をも出さずして去る者有り。御史有ると雖も、官吏を糾察し、案牘を照刷し、倉庫を巡視するを責むるに過ぎず、其の事利害に関わり或いは政令更革するは、則ち皆機密と為して聞かず。万一、政事の臣胸臆を専任し、威福自由にし、或いは兵を掌る者私見を以て事機を敗るも、陛下安んぞ之を知らんや。伏して願わくは学術䛟博、世務に通曉し、骨鯁敢言する者を遴選して以て台諫と為し、凡そ事利害に関わるは皆預議せしめ、其の或いは当たらざるは悉く論列を聴き、兼職及び省部委差に充つるを許さず。苟も畏れ徇って言わざれば則ち従いて之を黜せよ。

三には、節儉を崇めて以て天意に答う。昔、衛の文公、狄人の国を滅ぼすの余に乗じ、楚丘に徙居す。才だ革車三十両なるに、乃ち躬行儉約し、大帛の冠を冠り、大布の衣を衣、季年に至りて騋牝三千を致し、遂に富庶と為る。漢の文帝、秦・項の戦争の後を承け、四海困窮し、天子鈞駟を具うる能わざるに、乃ち敦樸を示し、身は弋綈を衣、足は革舄を履く。未だ幾ばくもせずして天下富安し、四夷咸く服す。国家、兵興以来、州県残毀し、存する者は復た土寇に擾らされ、独り河南稍々完し。然れども大駕の所在、其の費貲す可からず。天下の奉ずる所を挙げて一路に責むるは、顧みて難からずや。頼むに陛下の慈仁、上天の眷佑に頼り、蝗災の余りに去歳の秋禾・今年の夏麦稍々支持を得たり。夫れ天に応ずる者は要は実を以てし、儉を行う者は天必ず福を降す。切に宮中及び東宮の奉養、平時と異なる無く、随朝の官吏・諸局の承応人も未だ嘗て裁省する所有らざるを見る。貴臣・豪族・掌兵官に至っては、莫だ奢侈を以て相尚とせず、服食車馬惟だ紛華を事とす。今、京師に明金の衣服及び珠玉犀象を鬻ぐ者は日に旧に増す。倶に己を克して厄を消すの道に非ず。願わくは陛下、衛の文公・漢の文帝を法と為し、凡そ奉ずるの物痛く自ら樽節し、冗員を罷め、浮費を減じ、豪侈を戒め、明金服飾を禁戢し、庶くは皇天禍を悔い、太平致す可からん。

四には、守令を選んで以て民心を結ぶ。方今、天下の官吏軍兵の費・転輸営造の労を挙ぐるは、皆河南・陝西に仰給す。之に加うるに連年の蝗旱、百姓饑饉を薦め、賑済を行えば則ち倉廩懸乏し、徴調を免ぜば則ち用度足らず。其の実恵民に及ぼさんと欲すれば、惟だ賢守令を得るのみ。賦役繁殷・期会促迫の際に当たり、若し措画方有れば則ち百姓力省にして易く辦じ、一たび或いは乖謬有れば其の害に勝えざる者有り。況んや県令の弊、今に甚だしきは無し。軍衛監当進納労効に由りて得る者十に八九を居め、其の桀黠なる者は時に乗じて貪縦し、庸懦なる者は権猾吏に帰す。近く雖も官を遣わして廉察し、其の奸濫を治め、其の疲軟を易うるも、然れども代わる者も亦選択に非ず。所謂る狼を除きて虎を得るなり。伏して乞う、明らかに尚書省に勅し、廉潔私無く、才牧民に堪うる者を公選し、以て州府官を補わしむ。仍って県令の選を清くし、及び随朝七品・外任六品以上の官に責めて各々県令に堪うる者一員を保せしめ、他日贓を犯せば並びに従坐せしむ。其の資歴既に正七品に系り、及び見任の県令なる者は、皆寄理を聴き、秩満して升遷を俟たしむ。復た監察をして以て時を以て巡按せしめ、不法及び職に任ぜざる者あれば之を究治せしむれば、則ち実恵民に及び民心固し。

五には、群臣に謀を博くして以て大計を定む。比者、河北の軍戸百余万口を河南に徙す。雖も冗濫を革去すと雖も、而も存する者猶四十二万奇有り。歳に粟三百八十余万斛を支い、以て一路終歳の斂を竭くして、此の耕さず戦わざるの人を贍う能わず。辺事無くとも、亦将に坐して困らん。況んや兵事方に興り、未だ息期を見ざるや。近く沿河に分布し、使いて自ら種殖せしめんと欲す。然れども遊惰の人耕稼を知らず、群飲賭博習以て風と成る。是れ徒に有司を煩わして課租を征索するのみ。数百万の衆を挙げて坐して廩給を糜し、緩むれば則ち用闕け、急げば則ち民疲る。朝廷惟だ此の一事已に処する所を知らず、又何を以てか敵を待たん。是れ蓋し初めに審らかならず、其の後を計らず、以て此の誤を致すなり。初め遷す時に使いて去留其の願う所に従わしめば、則ち来らんと欲する者は是れ自ら贍うに足るの家なり。何ぞ官廩を仮らん。其の留まる者は必ず難を避くるの所有らん。必ずしも強いて遣わす要無く、当に今日措画の難に至らざるべし。古昔、人君将に大事を挙げんとすれば、則ち乃心に謀り、卿士・庶人・卜筮に謀る。乞う、今より凡そ大事有れば必ず省院台諫及び随朝五品以上の官をして同議せしむるを便と為す。

第六に、官賞を重んじて功績ある者を勧めること。陛下が即位されて以来、たびたび恩赦を施して大慶を均しくし、官爵を惜しまず人心を奮い立たせられたが、一任期満たずして十階級も進級し、承応の職に未だ出職せずして既に驃騎将軍・栄禄大夫の官を帯びる者もあり、冗濫の極みはこのように至っている。さらに爵位を売り進献の門を開くならば、堅い甲冑を身に着け鋭い武器を執り、陣中で死を尽くす者は何によって勧められようか。官は本来虚名であり、特に君主の口から出るものであるが、天下の人が極意をもって慕い趨るのは、朝廷がこれを愛重するからである。もし勲労を計らず、朝に一官を授け、暮れに一職を昇進させるならば、人もまたこれを軽んじて慕わなくなるであろう。既に然った事は咎められないが、伏して願わくは陛下が将来を重く惜しみ、公器を尋常の具とせず、功賞を僥倖の乗ずる所となさらないこと。また今の散官は動もすれば三品に至り、有司は遷授に難儀している。八資を減罷する内に階数を量り増やし、美名に改めるのが宜しい。そうすれば官を歴任する者があまりに急驟にならず、国家の恩権もあまりに軽んじられることがないであろう。

第七に、将帥を選んで軍法を明らかにすること。将というものは国の司命であり、天下が安危を頼む所である。万の衆の命を一人に託し、呼吸の間に生死を決する。その任は重くないと言えようか。北兵が国境に入って以来、野戦では全軍ともに災いを受け、城守では郡全体が屠殺される。これらは皆、士卒が単弱で守備が厳しくなかったからであろうか。ただ庸将が用兵の道を知らないだけである。古語に云う、「三辰軌道を外れれば、士を取って相とす。四夷交侵すれば、卒を抜いて将とす」と。今の将帥は、大抵まず出身官品を論じ、あるいは門閥の膏粱の子、あるいは親故に仮託する流れであり、平居では意気自ら高く、敵に遇えば首尾退縮する。将帥が既に自ら畏怯すれば、士卒は誰が肯って前に進もうか。また平時にはしばしば搾取し、その饋献を受け入れ、士卒はこれによって良民を擾乱し制することができない。そして彼らを率いて敵に応ずる時は、途上では前後乱行し、屯次では戸を排し屋を選び、小民を恐喝逼迫し、その求索を恣にする。これをもって彼らが法を畏れ事に死することを責めるのは、難しいことではないか。況んや今、軍官の数が多く、千戸以上に、万戸・副統・都統・副提控があり、十羊九牧で号令が一でなく、動もすれば互いに牽制する。切に聞く、国初に天下を取った時、元帥以下には万戸のみあり、統べる軍士は数万人に下らず、一路を専制した。多ければ難くして選び難く、少なければ易くして精鋭となる。今の軍法では、二十五人ごとに一謀克とし、四謀克で一千戸とし、謀克の下に蒲輦一人・旗鼓司火頭五人あり、その戦いに任ずる者はわずか十八人に過ぎない。また頭目がその壮健な者を選んで使令に給するならば、すなわち一千戸が統べる者は百人に及ばず、その隊伍を成すに足りない。古の良将は常に士卒と甘苦を共にした。今、軍官には既に俸廩があり、また券糧があり、一日の給与は数十人の用を兼ねる。将帥は豊かに飽き足りて余りあり、士卒は飢え寒さに足りず、冗食を裁省して軍士に加えるのとどうであろうか。伏して大臣に明勅を乞い、軍政に通暁する者を精選し、諸路に分かれて詣でさせ、隊伍を編成し、必ず五十人を一謀克とし、四謀克を一千戸とし、五千戸を一万戸とし、これを散将と謂う。万人に一都統を設け、これを大将と謂い、総じて帥府に属させる。数が足りない者は皆これを併合し、その副統・副提控及び軍なく虚設の都統・万戸は悉く罷省する。なお省院大臣及び内外五品以上に勅し、方略優長・武勇出衆・材能将帥に堪える者を各々一二人挙げさせ、官品を限らず、万戸以上の都統・元帥の職に充てる。千戸以下は、軍中に謀略武芸あり衆の服する者を選んで充てる。軍法を申明し、平時教閲し、必ず将帥に奇正虚実の数を明らかにさせ、士卒に坐作進退の節に熟達させる。弓矢鎧仗については自ら負担させ、労苦に習熟させる。もし犯す所あれば、必ず刑し赦さない。そうすれば将帥は人を得、士気は日々振るい、敵に備えることができるであろう。

第八に、士卒を訓練して兵威を振るうこと。昔、周の世宗は常に言われた、「兵は精鋭を貴び多さを貴ばず。百人の農夫でも一の戦士を養うことはできない。どうして民の脂膏を削ってこの無用の卒を養おうか。もし健懦を分かたず、衆は何によって勧められよう」と。そこで大いに軍卒を検閲し、遂に淮南を下し、三関を取った。兵は刃に血ぬらず、選練の力である。唐の魏徴は言った、「兵は道をもってこれを禦するに過ぎない。壮健を禦すれば天下に敵無きに足る。どうして細弱を取って虚数を増やそうか」と。近ごろ凡そ戦うこと多く敗れるのは、兵が少ないからではなく、正にその多さによって健懦を分かたず、故に敵に乗ぜられ、懦者が先に奔り、健者は独り戦うことができず遂に潰える。これが敗を取る所以である。今は、兵事に習熟した公正の官を選差し、既に籍を置いた軍人をその長所に随って類別し試験するのが良い。武芸出衆の者は別に一軍とし、口糧を量り増やし、時を加えて訓練し、等第によってこれを賞する。そうすれば、人人は激勵し、その長所を争って尽くし、衰懦の者にも用いる漸きがあるであろう。昔、唐の文皇が出征する時、常にその軍を上中下に分け、凡そ敵に臨む時はその強弱を観て、下軍を以てその上軍に当たらせ、上軍を以てその中軍に当たらせ、中軍を以てその下軍に当たらせた。敵が下軍に乗ずるも数歩を奔逐するに過ぎず、上軍中軍は既にその二軍に勝つ。これを用いて常に勝った。古の将帥にも懦兵を敵に委ねる者があったが、要は予め分別しておき、混淆させないことにある。

上は上書を覧て喜ばず、詔して尚書省に付して詰問させた。宰執はその諸事を紛更するのを憎み、言う所多く当たらないと謂った。ここにおいて規は惶懼して罪を待ったが、詔諭して曰く、「朕は初め規に山林に放帰するの語あるを以て、故に詰問させたが、乃ち職に任ぜず忌諱を以て辞し、朕がその言を悪んで怒る意と謂った。朕は初め罪を加える意無し。御史台にこれを諭させよ」と。尋いで徐州帥府の経歴官として出された。

正大元年、召されて右司諫と為り、数たび上章して事を言い、尋いで権吏部郎中を兼ねた。時に詔して群臣に河中府の修復を議させた。規は楊雲翼らとともに言った、「河中は今や人の無き境と為り、陝西の民力は疲弊している。修復しても守ることができず、見屯の軍士を以て力に量り補治し、その守るべき時を待って修復するも未だ遅くない」と。これに従った。未だ幾ばくもなく、事に坐して解職された。初め、吏部尚書趙伯成が銓選において吏員出身の王京と進士の王著を開封警巡判官の見闕に填めることに坐し、京に訟えられて免官となり、規もまたこれに坐した。この年十一月、改めて補闕を充てた。十二月、将相が材ならずと言い、且つ数人の可用の者を推薦した。

二年正月、規及び台諫が同奏して五事を上奏した。一、尚書省に樞密院を提控せしめ、大定・明昌の故事の如くすることを乞う。二、親衛軍を簡留すること。三、冗軍を沙汰し、行樞密院・帥府を減ずること。四、大臣を選んで宣撫使と為し、流亡を招集して以て辺防を実にすること。五、官を選び所を置き、一切の省減を議すること。略々これを施行した。

四月、大旱により詔して規に冤滯を審理させた。臨発に上奏して曰く、「今、河南一路に便宜・行院・帥府・従宜凡そ二十箇所あり、陝西に行尚書省・帥府五あり、皆便宜をもって人を殺すことを得る。冤獄はここにあり、州県に在らず」と。また曰く、「雨水時ならざれば審理を責める。然らば職燮理の者は当に如何すべきか」と。上はその言を善しとしたが、為すことができなかった。

十一月、上(宣宗)は完顔素蘭及び陳規を召し入れて謁見し、面と向かって諭して言うには、「宋人が軽々しく国境を侵犯するので、我が方は軽騎兵でこれを襲い、彼らが懲りて和を請い、我が民を休ませようと望んだだけである。宋がもし和議を実行するなら、なお兵を用いようか。卿らはこの意を理解すべきである」と。陳規が進み出て言うには、「帝王の兵は万全を貴びます。昔、光武帝が中興した時、征伐する度に必ず勝利したが、それでもなお『出兵する度に、頭髪が白くなる』と言われました。兵を妄りに動かさないのはこのようなものです」と。上はこれを良しとした。四年三月、上は群臣を召して陝西の情勢について諭して言うには、「今は春で北方の馬は次第に痩せ衰え、秋が深まれば大軍が一斉に攻めて来る。どうやって支えられようか。朕はすでに合達に全力を尽くして一戦を決するよう諭した。卿らはどう思うか」と。また和議は無益であると述べ、撒合輦は和議を強く否定し、賽不は言うには、「今はすでに和平の使者を派遣した。途中で中止できるでしょうか」と。その他は皆無言であったが、陳規だけが進み出て言うには、「兵事は遠くから推し量るのは難しく、百聞は一見に如かず。臣はかつて陝西の官を務め、近年もまたしばしば陝西に赴きましたが、兵士と将軍は冗員で懦弱であり、おそらく用いるに足りず、聖上のご推察のようにはいかないでしょう」と。言葉が終わらないうちに、烏古論四和が言うには、「陳規の言葉は正しくありません。臣は近ごろ陝西に至りましたが、軍士は勇猛で精鋭であり、皆一戦を望んでおります」と。監察御史完顔習顯がこれに従って同調し、上は肯き、また広く和議について述べた。陳規が答えて言うには、「和議は確かに上策ではありませんし、また必ず成るものでもありません。しかし、今の情勢ではやむを得ないことです。仮に彼ら(宋)が従い難くとも、なお将兵を激励して、その変を待つことができます」と。上はこれを正しいとは思わなかった。翌日、また省中で集議させ、和議を廃止しようとしたが、群臣の多くは和議が便利であるとし、そこで行省に詔して斟酌して発遣させたが、結局事は行われなかった。

十月、陳規は右拾遺李大節とともに上章し、同判大睦親事撒合輦が諂佞で、権勢を招き賄賂を受け取り、また不公平な事を行ったことを弾劾した。これによって撒合輦はついに中京留守として出され、朝廷はこれを快とした。五年二月、また李大節とともに三つの事を上言した。「第一に、将帥が出兵する度に近臣に牽制され、専断することができない。第二に、近侍が宣旨を伝えるのに、公然と賄賂を受け取り、朝廷の体面を失っている。一切これを禁絶すべきである。第三に、罪は同じなのに罰が異なる。どうして人を使うことができようか」と。上はこれを嘉納した。

初め、宣宗は文繡署令王寿孫を召して大紅の半身の繍衣を作らせ、かつ陳規に知らせないよう戒めた。完成して献上された時、王寿孫を召して問うて言うには、「かつて陳規の輩に知らせたか」と。王寿孫は頓首して言うには、「臣は禁庭に侍り、凡そ宮中の大小の事は外の者に言うことを敢えません。ましてや親しく聖訓を蒙ったことなどなおさらです」と。上はそこで嘆いて言うには、「陳規がもし知れば、必ず華美な装飾を諫めてくるだろう。私は実にその言葉を恐れている」と。陳規が事を言うのに遠慮がなく、朝廷での声望が非常に重かったので、凡そ宮中で事を行う度に、上は必ず「陳規が何か言うのを恐れる」と言った。一時の近臣の密議は、ただ陳正叔(陳規)を恐れるのみであり、まさに一世の直士であった。後に中京副留守として出されたが、赴任せずに卒去し、士論はこれを惜しんだ。

陳規は博学で文を能くし、詩にも律度があった。人となりは剛毅で質実、古人の風があり、学問に篤く、老いるまで廃さなかった。渾源の劉従益は彼の上奏した八事を見て、嘆いて言うには、「宰相の材である」と。人と時事を論ずる度に憤慨し嘆いたのは、その言が行われないことを傷んだからである。南渡後、諫官として許古・陳規が称えられたが、陳規は攻撃的で直截なことを以て自ら名乗らず、特に重んじられたという。死んだ日、家には一金もなく、知己友人が葬った。子に良臣がいる。

許古

許古、字は道真、汾陽軍節度使致仕の許安仁の子である。明昌五年の詞賦進士に及第した。貞祐初年、左拾遺から監察御史に任ぜられた。当時、宣宗が汴京に遷都し、丞相の朮虎高琪を信任して、恢復の謀がなかった。許古が上章して言うには、

中都が失陥して以来、宗廟社稷・陵墓・宮室府庫から、図籍や重器に至るまで、百年の積累が一朝にして棄てられた。ただ聖主の痛悼の心が最も深く切なるものであり、夙夜思懼して中興の功を建てる所以を、少しも置かないことはなかった。臣下として禄を食み責を負う者が、どうして愧じることがなかろうか。かつて里巷の細民でさえ、なお朝廷が師徒を整訓し、恢復を図ることを仰ぎ望んでいる。しかし今、やっと河を拒んで自保することを聞き、また諸路の軍戸を尽く河南に移した。彼らはすでにその恒産を棄てて自ら生きる術がなく、土着の民はまたその擾乱を被る。臣は誰がこの謀を為したかを知らない。しかしすでにこのようになってしまった以上、ただどう処置するかを議し、軍に妄費がなく、民が困窮に至らないようにすれば良いのである。

臣は聞く、安危の繫るところは一つの宰相にあると。孔子は「危うきに持せず、顛るに扶けずんば、則ち将に焉んぞ用いん」と称された。事勢ここに至るに、執政者が毎度天顔に対し、どうして清問に仰いで答えるのか知らない。今急を要するのは、人を得ることに過ぎない。前御史大夫の裴満德仁、工部尚書の孫徳淵は、忠諒で明敏、大用に堪える。近ごろ皆告老を許されたが、願わくば再び起用して任じれば、必ずや国家に利することを建てることができるだろう。太子太師致仕の孫鐸は、やや衰病しているが、もし大議があればなお召し出すことを賜い、あるいは就いて問うこともできる。人材は古来難しく、凡そ治体を知る者は皆重んじて惜しむべきである。況んやこれらの耆旧を、どうして軽々しく棄てることができようか。もし事に臨んでその心を尽くさず、たとえ心を尽くしても理に明るくなく、得ても益なく、失っても損のない者は、たとえなお壮年であっても、どうして用いることができよう。時に多難であるから、固より碌碌たる徒が員数を備えて屍位素餐し、賢路を塞ぐことを許さない。惟うに陛下の宸衷に剛断を加え、黜陟を一新し、以て天下を幸せにされたい。臣が前に拾遺であった時、すでに嘗て宰相を選ぶ道を備えて論じた。乞うらくは臣の前の奏上と今の言うところを取り、審思を加えられたし。

臣はまた聞く、将は民の司命であり、国家の安危の繫るところである。故に古の人君は必ずその選を重んじ、将となる者もまた必ず天下を己が任とした。将たる者は謀を貴び戦を賤しむ。必ずや賞罰は人をしてこれを信じて疑わず、権謀は人をしてこれに由って知らず、三軍は奔走して号令に従い勝利を取る。そうしてこそ中心誠服して喜んでこれを用いられるのである。近ごろ城守は堅からず、戦に臨めばすぐに敗北する。皆将の才無きが故である。親昵する者に私し、賞罰が公平でなく、衆怨に至り、変が生じるのを恐れて、撫摩慰藉し、一切姑息の事を行う。これによって兵はその将を軽んじ、将はその兵を畏れる。尚どうしてこれに出死力させて敵を防がせることができようか。願わくは腹心の臣及び兵事に通暁する者に、各々知る所を挙げさせ、もし真の才を得れば、優しく寵任を加えれば、戦功を期することができる。例えば河東宣撫使の胥鼎、山東宣撫使の完顔弼、涿州刺史の内族の従坦、昭義節度使の必蘭阿魯帯は、或いは忠勤で勇幹、或いは重厚で謀あり、皆これを用いて方面を捍ぐことができる。

また言うには、

河北の諸路は都城がすでに失われ、軍戸が尽く移されたので、国家が挙げてこれを棄てたと思い、州県の官はしばしば逃奔して河南に来る。所在の地に根拠を定め、期限を立てて送還することを命じ、違反者は再び録用しないことを乞う。未だ任を離れていない者は恩賞を加えることを議し、もし自ら河北で尽力することを願う者もまた陳請を聴き、なお先にこれを賞し、その任期を減ずる。州県の長官と次官は皆軍職を兼ねることを命じ、軍中で才略と胆勇のある者を頭目に選ぶことを許し、あるいは爵命を加えてその心を収め、一府を取る者があれば即座に府の長官を授け、州県もまたこれと同じくし、人をして故土を回復する心を懐かしませる。別に忠実で幹済ある者を派遣し、文檄と官賞を以て諸々の脅従者を招く。彼らはすでに敵の役務に苦しんでいるので、来る者は必ず多く、敵の勢いは自ずから削がれるであろう。有司はこのようにすることを知らず、ただ清野の計を為すのみで、事の緩急にかかわらずただ速やかに成すことを期し、今、晩禾は十のうち七八を損ない、遠近危惧している。謀るところは大いに道理に背いていると言えよう。

また言うには、

京師は諸夏の根本であり、況んや今常に重兵を宿し、緩急征討必ず此れより由る、平時尚お外路よりも優遇し、百姓をして蓄積する所有らしむべし、私室に在りと雖も猶お公家の如しなり。今有司余糧を捜括し、転販する者をして復た敢えて入る無からしむ、宜しく即時に之を止むべし。臣頃に陳言を看読し、其の心を尽くし誠を竭して以て正論を吐く者を見るに、率ね皆草沢の疏賤の人なり、況んや百僚に在りて、豈に国を為に深く憂へ章疏を進むる者無からんや。誠に宜しく中外に明敕し、言を尽くして憚らざるを得しむべし、然らば則ち太平の長策出づるなり。

詔して尚書省に付し、略施行す。

尋いで尚書左司員外郎に遷り、起居注を兼ね、間も無く、右司諫に転ず。時に丞相高琪法を立て、職官犯有る者は皆的決す、古及び左司諫抹撚胡魯剌上言して曰く、「礼義廉恥以て君子を治め、刑罰威獄以て小人を治む、此れ万世易らざる論なり。近者朝廷治を求むるに急にして、有司奏請し権に従ひ法を立つ:職官犯有りて応に贖すべき者も亦多く的決す。夫れ爵禄は以て貴を馭する所以なり、貴辱を免れずんば、則ち卑賤者は又何をか加へん。車駕駐まる所は征行に同じからず、而して凡そ科征の小過は皆軍期を以て之を罪す、已に甚だしきに非ずや。陛下仁恕にして、決して本心に非ず、殆ど有司寛静措安すべきを思はざりて、専ら督責を事とするが故のみ。且つ百官は皆朝廷遴選し、多く文行・武功・閥閲よりして進む、乃ち凡庶と等しければ、則ち爵禄を享くる者も亦足らざるを以て栄と為すべし。抑又大いに慮るべき者有り、上を為す者は将に曰く官猶免れず、民復何をか辞せんと、則ち苛暴の政日に行はる。下を為す者は将に曰く彼既に然り、吾復何をか恥ぢんと、則ち陵犯の心益々肆なり。其の弊豈に言ひ勝へんや。伏して元年の赦恩『刑は大夫に上らず』の文に依り、此の一切の法を削らんことを願ふ、幸甚なり。」と。上初め之を行はんと欲す、而して高琪固執して以て不可と為し、遂に寢す。

四年、右司諫を以て侍御史を兼ぬ。時に大兵潼関を越えて東す、詔して尚書省に百官を集めて議せしむ、古上言して曰く、「兵関を踰えて朝廷甫に知る、此れ蓋し諸将欺蔽の罪なり。然りと雖も、大兵閿郷の境に駐し、数日動かず、意は吾が河南の軍前に逆らひ、陝西の衆其の後を議するを恐れ、或は先づ覘者をして趨向の便を伺はしめ、或は深く人境に入り其の地利に非ざるを以て自ら危しと為すに在り、以て観望し未だ遽かに進まず。此時正に宜しく鋭卒を選募し力を併せて之を撃ち、且つ其の帰路を開くべし、彼既に疑惑し、敵に遇へば必ず走らん、我が衆従ひて之を襲へば、其の破るる必せり。」と。上以て尚書省に示す、高琪其の議を沮み、遂に行はれず。是の月、始めて招賢所を置き、古等をして其の事を領せしむ。

興定元年七月、上宋兵連なりて贛榆・漣水諸県を陥とし、且つ偽檄を獲、辞多く詆斥するを聞き、因りて宰臣に諭して曰く、「宋人禍を構ふること久し、朕姑く含容する者は、衆兵端を開き以て吾が民を労せんことを慮るが故のみ。今数侵せらる、将た何を以て処せん、卿等其れ百官と議せよ。」と。是に於て衆議を都堂に集む、古曰く、「宋人孱弱にして、我を畏ること素より深く、且つ北兵方に強きを知り、将に我を恃みて遮罩と為し、時に跳梁すと雖も、計必ず敢えて深入せず、其の侮嫚の語は、特市井屠沽児の為す所、烏ぞ之を較ふるに足らん。止だ当に有司をして移文せしめ、本朝累ね大造有り、及び聖主生霊を兼愛する意を諭すべし。彼若し知有らば、復た旧好を尋ね、則ち又何をか求む。其れ或は悪を怙て悛まざれば、衆を挙げて之を討つ、顧みて亦未だ晩からず。」と。時に預議する者十余人、或は小異すと雖も大略は則ち一なり、既にして丞相高琪等奏す、「百官の議は、咸兵を厳にし設備を以て逸を待ち労するを請ふ、此れ上策なり。」と。上之を然りとす。時に朝廷諸路の把軍官時に和せずして聴かず、更に相訴訟するを以て、古上言して曰く、「臣以為善なる者は勧め有り、悪なる者は懲らし有り、国の大法なり。苟も善悪聞こえずんば、則ち上下相蒙り、懲勧施す所無し。」と。上嘉納す。

古朝廷宋を伐たんと欲するを以て、上疏諫めて曰く、「昔大定初、宋人宿州を犯し、已にして屡敗す、世宗其の敢えて遽かに乞和せざるを料り、乃ち元帥府に勅し人を遣はして之を議せしめ、是より太平幾三十年。泰和中、韓侂冑妄りに辺釁を開く、章宗駙馬僕撒揆を遣はして之を討たしむ。揆兵興し費重くして久しく支ふること能はざるを慮り、陰に侂冑の族人を遣はし其の祖琦の画像及び家牒を齎し、偽り帰附を為し、以て丘崇に見え、因りて之に継好し、振旅して還る。夫れ世宗・章宗の隆なるに、府庫充実し、天下富庶す、猶先づ俯屈して以て成功に即き、之を祖廟に告げ、之を史冊に書き、万世の美談と為す、今其れ務めざるべけんや。今大兵少しく息み、若し復た南辺事無くんば、則ち太平遠からず。或は専ら威武を用ひて宋人を屈服せしむべしと謂ふは、此れ殆ど虚言にして、実用を究めず。借令時に小捷を獲るとも、亦足らざるを以て賀すべし。彼吾が勢の大なるを見れば、必ず堅守して出でず、我が軍倉卒に得る所無く、須らく還りて糧に就かんとす、彼復た乗じて之を襲はば、我をして戦はんと欲して得ず、退かんと欲して能はざらしむ、則ち休兵の期殆ど未だ見ざるなり。況んや彼江南蓄積の余有り、我は止だ河南一路征斂の弊有り、寒心すべし。願くは陛下隠忍包容し、速に此の策を行ひ、果して通ずれば、則ち大兵之を聞き、亦将に跡を斂めて、吾が掣肘無きが故なり。河南既に息肩を得て、然る後に朔方を経略せば、則ち陛下中興の福を享け、天下涵養の慶に頼らん。惟ふに陛下近功を略し、後患を慮らんことを、幸甚に勝へず。」と。上是の言に然り、即ち古に議和の牒文を草せしむ。既に成る、以て宰臣に示す、宰臣其の哀祈の意有り、自ら微弱を示すと言ふ、遂に用ひず。

監察御史粘割梭失榷貨司同提挙毛端卿貪汚不法を劾す、古詞理繁雑を以て、輒ち為に刪定し、頗る脱漏有り、梭失以て聞こゆ、官一階を削り、職を解く、特めて殿年を免ず。三年正月、尚書省諫官闕員を奏す、因りて古を以て請ふ、上曰く、「朕昨暮方に古を思ひ、而して卿等之に及ぶ、正に朕が意に合ふ、其れ趨召せよ。」と。復た左補闕を拝す。八月、官四階を削り、職を解く。初め、朝廷近侍局直長温敦百家奴及び刑部侍郎奥屯胡撒合を遣はし吉州の民を丹に徙して兵鋒を避けしむ、州民遷を重んじ、道を遮り控訴す、百家奴天子恐らくは百姓を傷けんとの意を以て諭し、且つ晋安の兵将を召して老幼を護り以て行かしめんと令す。衆意兵至れば則ち必ず強ひらるるを見んと、乃ち噪きて州署に入り、百家奴を索めて之を殺す。胡撒合禍を畏れ、矯りて衆情に徇ひ、之と会飲歌楽尽日し、衆肩に舁ぎ導き擁し、歓呼拝謝して去る。既に還り、詔して古と監察御史紇石烈鉄論をして之を鞫せしめ、旨を諭して曰く、「百家奴の死は、皆胡撒合の売る所なり、其れ実を閲して以て聞こえよ。」と。奥屯胡撒合既に獄に下り、上怒り甚だしく、亟に其の情を得て以て典刑を正さんと欲す、而して古等頗る之を寛縱す。胡撒合自縊死す、有司故に出づるを以て罪を論じ、遂に是の罰有り。

哀宗が即位した初め、補闕に召され、まもなく左司諫に遷り、事を言うこと少し昔の時分に及ばず。間もなく致仕し、伊陽に住み、郡守が伊川亭を建てた。古は性来酒を好み、老いても衰えず、しばしば舟に乗って村落の間に出で、留まって飲むことあるいは十数日帰らず、また流れを溯って上るときは、老いも若きも争って舟を挽き、数十里絶えず、その時人に愛慕されることかくの如し。正大七年に卒す、年七十四。古は平生詩及び書を好んで為す、然れども士大夫に重んぜられず、時の論はただその直なることを称するのみ。

天興の間、右司諫陳岢なる者有り、事に遇うては輒ち言い少しも隠すこと無し、上嘗て面して褒めしむ。汴京兵に被るるに及び、屡々封事を上りて得失を言い、請戦の一書は特に剴切なり、その略に云う、「今日の事は、皆陛下の断ぜざるに出で、将相怯懦にして、若し因循して決せずんば、一旦如何とも為す無くんば、君臣相対して涕泣するのみなるを恐る」と。時に切中する病と謂うべし、而して時の相赤盞合喜等之を沮み、策行わるること無し、識者之を惜しむ。岢は字は和之、滄州の人、大安元年の進士。

賛に曰く、宣宗即位し、孜孜として世宗を継述するを志と為す、而して其の為す所一切之に反す。大定に和を講じ、南北治を称し、貞祐に兵を用い、生民塗炭す。石琚相と為り、君臣の間務めて寛厚を行い、高琪政を秉り、儒を悪み吏を喜び、上下苛察す。完顔素蘭首めて琪の悪を攻め、琪必ず紀綱を乱すと謂う。陳規力めて刀筆吏の残虐を言い、風俗を壊さんことを恐る。許古宋と和するを請い、辞極めて忠愛なり。三人の言う所皆時に切中する病有り、古の諍臣の風有り。宣宗其の直なるを知り、而して其の言を用いず、是の如くにして霊に比せんと欲し世宗に斯く、難きかな。