金史

列傳第四十六: 胥鼎 侯摯 把胡魯 師安石

胥鼎

胥鼎、字は和之、尚書右丞持国の子である。大定二十八年に進士第に擢げられ、官に入り能を以て称され、累遷して大理丞となった。承安二年、持国が卒し、官を去った。四年、尚書省が起復して著作郎とした。上(章宗)が曰く、「鼎は故家の子であるが、その才は如何。」宰臣が奏して曰く、「人となり甚だ幹済なり。」上曰く、「著作の職は閑であるが、今他に闕が無いので、姑くこれを授けよ。」未だ幾ばくもせず、右司郎中に遷り、工部侍郎に転じた。泰和六年、鼎が急遞鋪の文檄を転送する制度について言上し、上はこれに従い、時に以て便と為した。至甯初め、中都が兵を受け、戸部尚書より参知政事に拝された。

貞祐元年十一月、出でて泰定軍節度使となり、兼ねて兗州管内観察使を領したが、赴任せず、大興府事を知り、兼ねて中都路兵馬都総管となった。二年正月、鼎は在京の貧民で食を欠く者が多いことを以て、法を立てて振救すべきであるとし、乃ち奏して曰く、「京師の官民で貧人を贍給できる者あれば、その贍給した所に応じて官を遷し職を升し、以てこれを勧奨すべし。」遂に権宜の鬻恩例格を定め、進官升職、丁憂の人に挙に応じ仕を求めることを許す、官監戸が良に従うの類、粟草を入れること各々数有り、多くを全活した。四月、尚書右丞に拝され、なお知府事を兼ねた。五月、宣宗が南渡せんとし、留めて汾陽軍節度使とし、兼ねて汾州管内観察使とした。十一月、平陽府事を知り、兼ねて河東南路兵馬都総管、権宣撫使となった。

三年四月、利害に関する十三事を建言し、軍儲を積む、黄河を備える、官を選び獄を讞する、将を簡び卒を練る、鈔法、版籍の類、上は頗る採用した。又言上して曰く、「平陽は歳を再び兵に被り、人戸散亡し、楼櫓の修繕未だ完からず、衣甲器械極めて少なく、庾廩に両月の食無し。夏田は既に兵に蹂躙され、又雨降らず、秋種未だ下さず。復業の残民有りと雖も、皆老幼にして、耕種すること能わず、豈に徴求に足らんや。比来北方の劉伯林が野狐嶺に兵を聚め、将に平陽・絳・解・河中に深入し、遂に河南に抵らんとすと聞く。戦禦に期有り、儲積未だ備わらず、速やかに錯置せざれば、実に社稷生霊の大計に関わる。空名の宣敕一千、紫衣師徳号度牒三千を降し、以て軍儲を補わんことを乞う。」上曰く、「鼎の言う所是なり、有司其れ数に如く亟にこれを給せよ。」

七月、就いて本路宣撫使を拝し、前職を兼ねた。朝廷、代州の戍兵五千を起さんと欲す。鼎上言して曰く、「嶺外の軍は既に皆南徙し、代は辺要たり、正に兵を益して保守すべきに、今更にその力を損なわば、一朝兵至らば、何を以てこれを持ち待たんや。平陽は代を以て藩籬と為す、豈に撤去すべけんや。」尚書省、宜しく請う所の如くすべしと奏し、詔してこれに従う。又言上して曰く、「近く朝廷、臣に清野せしむるの令を下すと聞く、切に臣の所部は乃ち河東南路、太原は則ち北路なり、大兵若し来たらば、必ず北より始まらん。故に清野は当に先ず北にして後に南とすべし。況んや北路の禾稼は早熟し、その野既に清まりなば、兵掠うる所無く、則ち勢当に自ら止まん。然らずんば、南路清まりと雖も、穀草北路に委積せば、是れ兵を資してこれを南に召すなり。臣已に北路宣撫司に移文せり、更に詔を以てこれを諭さんことを乞う。」既にして大兵果たして境を出ず。賜詔してこれを奨諭して曰く、「卿文武の才を以て、兵民の寄せを膺け、往きて方面を鎮め、式に辺防を固くし、坐して朕の憂いを釈く、孰か卿の力の如きはあらん。益々忠勤の節をつとめ、以て綏静の功を収め、予が心を仰いで副い、嗣いて後寵有らん。」尋いで方略を設けて兵を退かしめたる能を以て、官一階を進めた。

十月、鼎上言して曰く、「臣の将いる所の義軍は、皆従来本を背き末に趨く、勇猛兇悍・盗竊亡命の徒なり、苟も訓練統摂の官有りてこれを制せざれば、則ち朋聚党植し、至らざる所無からん。臣に便宜に総領義軍使・副及び弾圧を置くことを許し、仍毎五千人に訓練官一員を設けんことを乞う。ただに預め防閑を為し、畏忌せしむるのみならず、且つ武藝を精熟せしめ、人各々用を為さしめん。」上これに従う。

四年正月、大兵霍・吉・隰の三州を略し、已にして歩騎六万平陽を囲み、急攻すること十余日、鼎兵を遣わして屡々これを却け、且つ上言して曰く、「臣便宜を以て官賞を立て、預め文榜を張り、脅従の人七千有奇を招き還し、つづいて至る者又六千余、倶に複業せしむ。窃かに謂う、凡そ俘われて未だ帰らざる者は、更に方々に招誘すべく、已に帰る者はその居る所に従い便にし、優に存恤を加え、失所せしむること無からしむべし。」制して可とす。二月、枢密副使に拝され、権尚書左丞、平陽に行省す。時に鼎方に抗表して退を求め、上許さず、因って進めてこれを拝し、且つ近侍を遣わして諭して曰く、「卿父子皆朕の知る所、向に卿が執政せし時、人言有るに因り、遂に河東の事を卿に相委ぬ。果たして能く勉力して無虞を保つ。方に国家多難、卿に非ざれば孰か倚るべき者あらん。卿の退くは易し、能く社稷の計を慮わざらんや!今特に卿に是の任を授く、咫尺防秋、更に宜しく意を悉くすべし。」

時に河南の粟麦を興販して河を渡ることを令さず。鼎上言して曰く、「河東は山険多く、平時地利遺さず、夏秋薦しきりに熟すと雖も、猶常に陝西・河南の通販物斛をたのむ。況んや今累ねて兵戎に値い、農民浸しだいに少なく、且つ雨雪無く、食を欠くこと甚だし。又解州に屯兵数多く、糧儲僅かに一月に及ぶ。伏して見るに陝州大陽渡・河中大慶渡皆粟麦を邀阻し、河を過ぐることを令さず。臣軍民安からず、或いは内患を生ぜんことを恐る。伏して朝廷その輸販を聴き、以て解州の急をゆるめんことを望む。」これに従う。

又言上して曰く、「河東は兵革の余、疲民稍々復すと雖も、然れども丁牛既に少なく、耕稼すること能わず、重ねて亢旱蝗螟有り、而して饋餉の須うる所、征科頗る急なり。貧にして依る所無き者は倶に已に食に乏しく、富戸の宿蔵も亦盗に発せられ、蓋し絶無にして僅かに有るが如し、その憔悴亦已に甚だし。有司宜しく朝廷の徳意を奉じ、以て安集を謀るべし。而るに潞州帥府官を遣わして遼・沁諸郡に余粟を捜括し、重賞を懸けて人を誘い告訐せしめ、州県帥府を憚り、鞭箠械系し、所在騒然たり、甚だ憐憫に堪えず。今大兵既に去り、惟冗兵を汰い、浮費を省き、流亡を招集し、農事を勧督すべし。彼是れ務めずして、瘡痍の民をして重ねて茲の苦に罹らしむるは、是れ兵未だ来らずして先ず自ら弊するなり。願わくは朝廷亟にこれを止めよ。若し経費果たして闕くれば、恩例を以て民を勧めて粟を入れしむるは、猶ほ強いて括るにまさらざらんや。」又言上して曰く、「霍州の回牛・夙楼嶺諸厄、戍卒幾四千。今兵既に去りて農事方に興らんとす。臣量りに偵候を留め、余は悉く帰し遣わし、警有れば復た征せんことを乞う。既に民力を休め、且つ県官を省き、万一兵来たらば、亦た禦遏に足らん。一事を挙げて二利を獲ん、臣敢えて以て請う。」詔してこれを趨行せしむ。

又言上して曰く、「河東両路の農民浸いに少なく、而して兵戍益々多し、是を以て毎歳の糧儲常に継がざるを苦しむ。臣切に潞州元帥府に鬻爵の恩例を設くると雖も見る、然れども条目少なく、未だ勧誘の術を尽くさず、故に進献する者幾ばくも無し。宜しくその条を増益し、中都の時の如くし、仍諸路の宣撫司倶に発売することを許すべし、庶幾くは多く貯儲を獲、以て給せざるを済わん。」ここにおいて尚書省更に制を定めて奏し行う。

また言うには、「交鈔は流通してこそ貴いものである。今、諸路の造る額は支出に足らず、もし術をもって回収しなければ、欠誤がないわけではない。行省・行部に民力に応じて徴収させ、軍用を補うべきである。河中宣撫司もまた宝券の支給が既に多く、民が貴ばないので、民の貧富を検分して徴収することを請うている。しかしながら、もし陝西も一様に徴収すれば、そこの所有するものが日に河東に集まることとなり、徴収しないのと何ら異ならない。また河北の宝券は河南での使用を許されないため、ますます滞り、軍需を誤り、争いの端を開くことになろう」と。時に河北の宝券を商旅が携えて南渡し、物価の高騰を招いたため、各路に分けて使用することを許可していたが、胥鼎の言により、これを廃止した。

また言うには、「近ごろ朝廷が義軍を三等に選別するよう命じたので、臣は早速所司に檄を飛ばしたところ、潞州の帥必蘭阿魯帶が言うには、『去歳、初めて帥府を置いた時、既に本軍を検閲し、冗員を除いている。部署は既に定まり、上下も親しんでいるので、向かうところ成功することができた。これらは皆、血戦の余り、幾度も試されて有能な者たちである。しかも父子兄弟が自ら互いに赴き援け合い、それぞれその家を顧みるので、心は一つで力は揃い、離すべき勢いではない。今、必ずこれを分ければ、互いに交代して互いに熟知しないことになろう。国家の糧食の備蓄は常に継続しないことを恐れているが、僥倖や不正を容れるべきではない。ただ本府の兵はそのような者ではないだけである。況んや潞州の北は直ちに異境であり、日ごろから常に戦備を整え、事務はまさに多忙である。このように分け隔てすれば、中下に位置する者は皆、気力を挫かれ心が緩んで用をなさなくなり、恐らくこれによって我が虚実を測られることになろう。かつ義軍は概ね農民であり、既にそれぞれ散って田畑に帰り、時節に応じて力を尽くして耕作している。もしこれを徴集すれば、動かすのに十日を要し、農事は廃れ年貢の収入も失われる。本府の定めるところに従い、軽々しく変易しないことを乞う』と。臣はひそかにその言を是とする」と。時に阿魯帶の上奏も届き、詔して遂にこれを許した。

また言うには、「近ごろ偵察して北兵が同州・耀州に駐屯していることを知り、ひそかに我が東西往来の路を妨げることを憂慮し、早速、河中経略使陀満胡土門に命じて軍を率いて赴援させた。今、兵勢はまさに関を叩かんとしている。この前に臣は嘗て奏聞したことがあるが、北兵は河東・陝西を攻めるのみならず、必ずや河南を進取しようとする。既に陝州行院及び陝西の隣境に移文し、皆に設備を命じたが、恐らく直ちに従って実行しないであろう。河南行院統軍司に詔して、防備の策を議することを乞う」と。上はこれを尚書省に示すと、宰臣が奏上して、「兵は既に関を越えた。ただ遣わした帥臣を厳しく責めて迎撃に急がせ、また胥鼎に命じて兵を増やして河を渡らせ、その肘を掣くべきである」と。制して可とする。既にして胥鼎は大兵が既に関を越えたと聞き、急いで上章して言うには、「臣は国恩を辱うし枢府に列ね、凡そ軍事があれば、皆これに任ずべきである。今、河南に入り、将に畿甸に及ばんとしている。安んじて一方に拠り、朝廷の急を坐視して、自ら奮起して陛下の憂いを少しでも緩めようとしないことがあろうか。去歳、聖訓を頒布し、かつて都城が包囲された時、四方に援けがなかったことを恨みとし、将帥に明らかに勅して、もし京師に警報があれば、各々兵を提げて奔赴せよ、もし至らなければ自ら常刑があると。臣は既に詔を奉じ、先に潞州元帥左監軍必蘭阿魯帶に軍一万を率いさせ、孟州経略使徒單百家に兵五千を率いさせ、便道より河を渡って関・陝に向かわせた。臣は自ら平陽の精兵を率いて直ちに京師に至り、王師と合流しよう」と。また上奏して言うには、「京師は平陽より千五百余里離れている。もし朝廷の命を待って初めて入援を図れば、三旬を経て後に至ることができ、その機を失うことにならぬか。臣は身を以て士卒に先んじ、倍道兼行する」と。上はその志を嘉し、詔して枢府に軍を督して応じさせた。

初め、胥鼎は将として兵を率いて京師に赴援するにあたり、平陽府知事王質に元帥左監軍を権行させ、同知府事完顏僧家奴に右監軍を権行させ、以て河東を鎮守させることを奏請し、従われた。この時、胥鼎は尚書左丞に拝され、枢密副使を兼ねた。この時、大兵は既に陝州を過ぎ、関以西は皆、営柵を列ね、連なり亘ること数十里に及んだ。胥鼎は京畿に近づくことを憂慮し、河東南路の懐州・孟州などの兵を合わせて一万五千を以て、河中より入援し、また遙授河中府判官僕散掃吾出を遣わして軍を率いさせ陝西に向かわせ、力を合わせて防禦させた。かつ北兵が河を扼することを慮り、絳州・解州・吉州・隰州・孟州の経略司に檄を移し、相会して兵を以て夾攻の勢いとさせた。やがて北兵は果たして三門・集津より北に渡って去った。

胥鼎は再び上言して、「兵興以来、河北の潰散した軍兵、流亡した人戸、及び山西・河東の老幼は、皆河南に移徙した。在所に僑居し、それぞれ本業がなく、動揺しやすい。ひそかに有司が妄りに彼此を分け、あるいは追い遣わすことを加え、不安を招くことを慮る。今、兵勢は日増しに盛んとなり、将に畿甸に及ばんとしている。もしまたこの失職の衆を誘いて郷導とさせ、あるいはこれを駆って攻城させれば、ますますその力を助けることにならぬか。朝廷に官を遣わして撫慰させ、及び所司に厳しく防閑を命じ、ほとんど釁を生ぜしめないことを乞う」と。上はその計に従い、監察御史陳規らを安撫捕盗官に充て、郡邑を巡行させた。大兵が平陽に還ると、胥鼎は兵を遣わして拒戦させたが、利あらずして去った。

興定元年正月、上は胥鼎に命じて兵三万五千を選び、陀満胡土門に付して統率させ西征させた。この時、胥鼎は馳せて上奏し、不便であるとし、おおよそ次のように述べた。「北兵が通過した後、民の食糧は供給されず、兵力は未だ完備していない。もしまた出師すれば、糧秣輸送が労となるのみならず、民は流亡し、ますます所を失うことになろう。あるいは宋人が隙に乗じて動けば、またどうしてこれを制することができようか。これは国家社稷の大計に関わる。方今の事勢は、ただ南辺を防備すべきであり、西征は未だ議すべからず」。遂に止めた。この月、平章政事に進拝され、莘国公に封ぜられた。また上奏して言うには、「臣は近ごろ太原・汾州・嵐州の官軍を遣わして西征に備えさせたが、太原路元帥左監軍烏古論德升が状を以て臣に申し上げ、その失計を甚だしく言う。臣愚かながら、徳升の言うところは取るべきであると思う。敢えて具して聞かせる」と。詔して尚書省に付してこれを議させた。語は徳升伝にある。三月、胥鼎は祖父の名が章であるため、職を避けることを乞うたが、詔して従わなかった。

朝廷は胥鼎に詔して兵を挙げて宋を伐たしめ、且つ再び言上することなきを命じ、以て既定の計略を沮害せしめざらしむ。鼎は既に兵を分かち秦・鞏・鳳翔の三路より並び進まんとし、乃ち上書して曰く、「窃かに愚懇を懐き、敢えて自ら黙せず、謹んで利害を条陳し以て聞かしむ。昔、泰和の間、嘗て南伐せし時は、太平の日久しく、百姓富庶にし、馬は蕃え軍は鋭く、所謂万全の挙なり。然れども猶和を急ぎ、兵を偃ぐるを務とせり。大安の後、北兵大挙し、天下騒然たりしこと累年なり。然れども軍馬の気勢、旧に視て纔かに十一のみ。器械の属に至るまで、亦多く損弊し、民間の差役重繁にして、浸く以て疲乏し、而して日々師旅を勤め、遠近動揺す。是れ一敵をも獲ずして自害する者衆し。其の不可なること一なり。今歳、西北の二兵、入境の報なし。此れ憚る所有りて敢えざるに非ず。意うらには、去年北還し、姑く自ら息養するか、然らずんば別部相攻し、我に及ぶ暇あらざるなり。如し王師の南征するを聞かば、隙に乗じて並び至らん。潼関・大河の険有りと雖も、殆んど恃むに足らず。則ち三面敵を受くる者は首尾相救う莫し。後悔を貽すこと無からんや。其の不可なること二なり。凡そ天下に雄たる兵は、必ず其の士馬精強、器械犀利にして、且つ其の不備に出でて後に能く勝を取るなり。宋は泰和より旧好を再修し、兵を練り糧を峙え、営壘を繕修すること、茲に十年なり。又、車駕の汴に至りて益々宋境に近きは、彼必ず朝夕憂懼し、委曲として防がんとす。況んや王師の已に唐・鄧より出づるを聞かば、必ず民を徙して江を渡らしめ、所在清野し、止だ空城を留め、我が軍の得る所無からしめ、徒らに自ら労費するのみ。果たして何の益かあらん。其の不可なること三なり。宋は我が世仇なり。比年、旧疆を恢復し前恥を洗雪せんとの志無きに非ず。特だ吾が威力を畏れ、其の虚実を窺う能わざる故に、未だ敢えて軽挙せざるなり。今、我が軍は皆山西・河北の依る無き人、或いは逃軍を招還し、脅従して帰国せしむる者、大抵烏合の衆にして、素より練習せず。而して遽かに戎に従わしむ。豈に其の決勝を保つことを得んや。其の城を得ると雖も、内に儲蓄無くば、亦何を以てか守らん。練らざる烏合の軍を以て、深く敵境に入り、進めば食を得ず、退けば掠る所無くんば、将に復た遁逃嘯聚して腹心の患と為らん。其の不可なること四なり。兵を発して進討し、敵糧に因らんと欲す。此事必ずしもならざる者なり。軍に随いて転輸せば、則ち又民力の及ぶ所に非ず。辺に沿う人戸は恒産有りと雖も、賦役繁重にして、困憊に勝えず。又、凡そ失業して河南に寓する者は、類皆衣食給せず。貧窮の迫りは、盗の由りて生ずる所なり。如し宋人陰かに為に招募し、厚利を以て誘い、以て郷導と為さしめ、我が不虞を伺いて突いて入寇せば、則ち内に叛民有り、外に勍敵有り。未だ易く図るべからず。其の不可なること五なり。今、春事将に興らんとす。若し兵を進めて還らずんば、必ず農時に違ひ、以て防秋の用を誤らん。此れ社稷の大計なり。豈に疆埸の利害のみならんや。其の不可なること六なり。臣愚かに以為うらくは、止だ材武の将士を遴選し、近辺の州郡に分布し、敵至れば則ち追撃し、去れば則ち力を田に尽くし、以て儲蓄を広むべし。士気益々強く、民心益々固く、国用豊饒に至りて、自ら先業を恢廓し、中興の功を成すべし。一区区の宋、何ぞ平ぐるに足らんや」と。詔して尚書省に付す。宰臣、諸軍既に進むを以て、復た議う可き無しと為し、遂に寝す。

既にして元帥承裔等、宋の大散関を取る。上、鼎に諭して曰く、「得たる大散関は、保つ可ければ則ち保ち、不可ければ則ち焚毀して還れ」と。是に於いて鼎奏す、「臣近く官を遣わして諸帥臣に問わしむ。皆曰く、散関より驀関に至る諸隘は、其の地甚だ遠く、中間堡壘相望み、如し屯を分かたんと欲せば、万人に非ざれば不可なり。則ち又、恆州・虢県の直す数関有り。宋兵皆旧の如く固守す。緩急事有らば、当に復た散関の兵を分散すべし。余衆数少なければ、必ず支うる能わず。而して鳳翔・恆・隴も亦応援無からん。恐らくは両くに之を失わん。且つ比年以来、民力は調度に困し。今方に春にして、農事已に急なり。恐らくは耕墾を妨げん。此の関を焚毀するに若かず。但だ辺隘に屯して以て其の勢を張り、彼或いは来侵せば、互いに応援し力を為し易きなり」と。制して可とす。

二年四月、鼎致仕を乞う。上、近侍を遣わして諭して曰く、「卿の年既に耄る。朕知らざるに非ず。然れども天下の事方に次第有り。卿は旧人なり。姑く宜しく力を勉めて以て之を終うべし」と。鼎、宣宗の細務を親むること多きは、帝王の体に非ざるを以て、乃ち上奏して曰く、「天下の大なる、万機の衆き、銭穀の冗なるは、九重の能く兼ぬる所に非ざれば、則ち必ず有司に付す。天子は大綱を操り、成功を責むるのみ。況んや今多故なるに、豈に細務を躬親すべけんや。惟うらくは陛下、大臣を委任し、坐して成算を収められば、則ち恢復の期遠からざるべし」と。上其の奏を覧て悦ばず、宰臣に謂ひて曰く、「朕惟だ怠る有らんことを恐る。而して鼎の言此くの如きは何ぞや」と。高琪奏して曰く、「聖主は宗廟社稷を心とし、上天の行健の義に法り、庶政を憂勤し、夙夜遑あらず。乃ち太平の階なり。鼎の言是に非ず」と。上之を喜ぶ。

三年正月、上言す、「辺に沿う州府の官には既に資歴月日を減定するの格有り。掌兵及び辺隘を守禦する者に至りては、征行暴露し、艱険を備歴す。宜しく一体に減免し、以て激勧を示すべし」と。之に従う。二月、上言す、「近制、軍前にて功を立て罪を犯すの人、行省・行院・帥府は輒ち誅賞を行うことを得ず。夫れ賞は中より出ずれば則ち恩帰する所有り。茲れ固より至当なり。部分の犯罪に至りては、主将施行することを得ずんば、則ち下畏るる所無くして令行わるるを得ず」と。宰臣之を難ず。上以て枢密院の官に問う。対すること鼎の言の如し。乃ち詔を下し、自今四品以下は皆裁決を得べしと。

時に元帥内族承裔・移剌粘何、宋を伐つ。下す城邑多く焚掠する所有り。是に於いて鼎上言す、「承裔等は詔を奉じて国威を宣揚す。所謂『民を弔い罪を伐つ』者なり。今、大軍已に武休を克ち、将に興元に至らんとす。興元は乃ち漢中・西しょくの喉衿の地なり。帥臣に諭し、得たる城邑は姑く焚掠無く、務めて之を慰撫せんことを乞う。誠に一郡をして貼然たらしめ、秋毫も犯さざらしめば、則ち其の余三十軍は将に攻めずして自ら下らん。若し王師を拒まば、乃ち宜しく戮有るべし」と。上甚だ其の言に是とす。遂に詔して承裔に諭す。鼎は年老を以て屡表を上して致仕を求む。上、宰臣に謂ひて曰く、「胥鼎は老を以て退を求む。朕其の精力未だ衰えざるを観る。已に人を遣わして往き慰諭せしむ。鼎嘗て把胡魯を薦め、以て己を過ぐること遠く甚だしと為し、以て自ら代わらんと欲す。胡魯固より佳なり。人材を駕馭し、機務を処決するに至りては、鼎に及ばざること多し」と。俄にして宋を伐つ功有りて、官一階を遷す。

八月、上奏して言う、「臣は詔を奉じて河東を兼ねて節制する。近頃、晉安帥府が百里の内には桑・棗・果木のみを留め、その他は全て伐採せよと命じた。今は秋の収穫の時節であるのに、この挙動を以て民の事を奪うのは、既に敵を防ぐことができず、しかも民を害するものであり、良策ではない。また一朝にして警急があれば、その伐採した木材は全て取り去ることができようか、敵に資さないようにできるであろうか。他の木は伐採しても、桑・棗・家屋の木は木ではないのか、これは徒労に終わるであろう。臣は既に帥府に下してこれを止めさせたが、左都監完顏閭山はかつて旨を奉じて清野を行ったと言い、臣はそれが適切であるとは思わない」と。詔して胥鼎に便宜を図らしむ。この時、大元の兵が大挙して陝西に入り、鼎は敵情を予測する策を多く立てたが、朝臣の中にはこれを妨げる者もあり、上は樞密院の官に諭して言う、「胥鼎の計画には必ず誤りはない。今後卿らは指図する必要はない」と。まもなくまた諭して遣わし言う、「卿は方面を専制する。凡事は宜しきに従って計画すべきであり、また何もかも逐一中央に復命する必要はなく、徒らに滞るのみである」と。

四年、溫國公に進封され、致仕する。詔を下して諭して言う、「卿はたびたび退任を求めたが、朕が初めに許さなかったのは、その安好を待ち、再び朕のために用いようとしたからである。今、卿の請いに従うが、なおも京師に来て居住し、あるいは大事があれば、諮問して決断を得ることができるようにせよ」と。五年三月、上は近侍を遣わして鼎及び左丞賈益謙に諭して言う、「去る冬より今に至るまで、雨雪が甚だ少なく、民心が安らかでなく、軍用も或いは欠乏し、害が甚だ重い。卿らは皆名臣故老である。今、どう処すべきか。尚書省に召し出して会議させようと思ったが、時の宰相と合わず、面と向かって諫言することが難しいため、邸宅に赴いて問うこととした。その意を尽くして陳べよ、隠すところなかれ」と。元光元年五月、上は宰相に敕して言う、「前平章胥鼎、左丞賈益謙、工部尚書劄裏吉、翰林學士孛迭は、皆致政した老臣であり、国事に練達している。省に招き赴かせて利害を議論させるべきである」と。なお侍官を遣わして四人の者に分かれて諭意を伝えさせた。

六月、晉陽公郭文振が上奏する、「河朔は兵乱を受けて数年になる。以前は皆秋に来て春に去ったが、今は盛暑になっても戻らず、かつ殺戮を好まず、民に耕作を恣にさせている。これは測り難いものである。樞府はたびたび臣に檄を飛ばして府兵を会合させ進戦せよというが、公府は分封と号しながらも、力は実に単弱であり、かつ互いに統轄せず、自らを保つのに暇がない。朝廷が直ちに兵を遣わして援けなければ、臣は人心が河北を挙げて棄てたと謂うことを恐れる。これは甚だ良策ではない。伏して見るに、前平章政事胥鼎は、将相の才を兼ね、威望が甚だ高く、かつて河東に行省した時は、人が喜んで用いられた。今は致仕しているが、精力は未だ衰えていない。重兵を付与し、公府を総制させ、力を合わせて戦い防がせれば、おそらく人皆応じ、恢復しやすいであろう。惟うに陛下、これを図られよ」と。

明年、宣宗崩御し、哀宗即位す。正大二年、起復し、平章政事を拝し、英國公に進封され、尚書省を衛州に行う。鼎は衰病を以て辞す。上は諭して言う、「卿はかつて河東におり、朝廷は卿に倚重した。今、河朔の州郡多く帰附する。卿の図画を須いる。卿は先朝の大臣である。必ずわが事を助けるであろう。大河以北は、卿が皆節制せよ」と。鼎は乃ち力疾して鎮に赴き、来帰する者益々衆し。鼎は病み自ら持つことができず、再び前の請いを申す。優詔して許さず。三年、再び上章して老いを請い、かつ朝中の賢く軍政に練達する者を挙げて自ら代わらしむ。詔して答えて言う、「卿は往時に河東におり、残破孤危で、保つことが容易でなかったが、卿の一到して定まった。卿が鎮を移すまで、敵は再び侵さなかった。何ぞ過ぎて嫌避せんとするや。かつ君臣は均しく一体である。朕が臣下を待つこともまた自ら殊にするわけではない。外の言葉は、過計であろう。況んや余の人の才力で卿に副う者は誰か。卿は年高く久しく外で労した。朕は豈に知らざらんや。但だ国家百年積累の基、河朔億万生霊の命である。卿は勉めて壮図を出し、共に大事を済すべきである」と。鼎は詔を奉じて惶懼し、敢えて退かず。この年七月、薨ず。

鼎は吏事に通達し、度量があり、政を行うに鎮静であり、所在に賢不肖なく皆その歓心を得た。南渡以来、書生で方面を鎮めた者は、鼎ただ一人のみである。

侯摯

侯摯、初めの名は師尹、諱を避けて今の名に改む。字は莘卿、東阿の人。明昌二年の進士、官に入り慷慨として有為なり。承安年間、累遷して山東路鹽使司判官となる。泰和元年、課税が四分増えたことを以て、特命して官を二階遷す。八年七月、官を一階追奪し、降授して長武縣令となる。初め、摯は戶部主事として、王謙と共に西北路の軍儲を規画措置して張煒に代わろうとしたが、摯が上章して本路の財用が実態に合わないと論じたため、ここに至り降除されたのである。貞祐初年、大兵が燕都を囲む。時に摯は中都曲使であり、出て軍を募ることを請う。已にして城をかこんで功あり、右補闕に擢でられる。二年正月、詔して摯と少府監丞李向秀を分かって西山に詣でて招撫せしむ。宣宗南渡し、転じて勸農副使となり、紫荊等の関を提控す。俄かに行六部侍郎に遷る。三年四月、同簽樞密院阿勒根訛論等が以て謂う、「今、車駕は南京に駐蹕す。河南の兵は容易に動かすべからず。且つ兵は多からずとも、将を本とす。侯摯は人に過ぎる才あり。倘し便宜の権を仮し、兵を募り糧を転送させれば、事克からざるなし。尚書に升し、以て永錫・慶壽の両軍を総制せしむべし」と。ここにおいて摯を太常卿と為し、尚書六部事を行わしめ、往来して応給せしむ。

摯は遂に上章して九事を言上した。その第一は、「省部は天下の紀綱を総べる所以であるが、今、随路の宣差便宜・従宜は、往々にして条格を遵奉せず、輒く六部及び三品以下の官に劄付する。これでは紀綱が紊亂しないであろうか。宜しくその弊を革すべし。」というものであった。第二は、「近頃四帥府を置いたが、統べる兵校は衆多でないわけではない。しかしながら勝利を収められないのは、一箇所が敵を受けると、残りは傍観し、未だ嘗て一卒をも発して援けとせず、少しでも小敗を見ると、戈を棄てて遁走するからである。これは師老いて将怯なるが故である。将を将するの道は、惟だ陛下の察する所にある。」というものであった。第三は、「兵を率いて寇を禦ぎ、民を督いて糧を運ぶことは、各々職掌があり、本来兼行すべきではない。然るに帥府は毎に雑進を命じ、累ねて寇の来襲に遇うと、軍は未だ戦わずして丁夫は既に遁走し、行伍錯亂する。これが敗北の原因である。前陣が勝っても、後陣が必ず更えるのは、敵に料られるのを恐れるからであり、況や勝たない場合であろうか。用兵は変を尚び、本来定形はない。今、因循して覆轍を改めない。臣は素より兵を知らないが、妄りに率いよってこの失いを為すと謂う。」というものであった。第四は、「雄・保・安肅諸郡は白溝・易水・西山の險固に拠っているが、今多く闕員であり、また任ずる所の者は皆柔弱で武なく、宜しく勇猛才幹の者を亟ぎ選んで分かちこれを典むべし。」というものであった。第五は、「漳水は衛より海に至るまで、流れに沿って設備し、以て山東を固くし、力を穡す民をして安んじて田畝に服せしむべし。」というものであった。第六は、「近都の州県官吏は往々にして逋逃する。これは往来して敵中に身を失う者が多いのに加え、転輸が頻繁で民力が困弊し、応給が前進せず再び責罰に遭い、秩満になると他処と一体に資考を計るからである。実にその人を負う。乞う、詔して有司に優に等級を定め、以て別異せしむべし。」というものであった。第七は、「兵威振わざる罪は、将帥が軽敵妄挙するにある。例えば近日李英が帥となり、臨陣の際に酒猶未だ醒めず、これによって敗北を取った。臣は謂う、英は既に功無く、その濫注の官爵は並びに宜しく削奪すべし。」というものであった。第八は、「大河の北は、民は稼穡を失い、官は俸給無く、上下安んぜず、皆逃竄を欲している。これに潰散の軍卒が還って相剽掠するを加え、以て平民ますます聊生せず。宜しく優に矜恤を加え、亟ぎこれを招撫すべし。」というものであった。第九は、「從來兵を掌る者は多く世襲の官を用いる。この輩は幼より驕惰で労苦に任ぜず、且つ心胆懦怯で何ぞ倚辦に足らん。宜しくぎょう勇人に過ぎ、衆の推服する所の者を選び、その素行を考えずして用うべし。」というものであった。上は略これを施行した。

時に元帥蒲察七斤が通州を以て叛き、累ねて諜者を遣わして摯を間す。摯はこれに陥れられることを恐れ、上章して自ら弁明した。詔してこれを諭して曰く、「卿は朕が素より知る所、豈に間せられんや。その一意職に於いて、猜嫌を以て自ら沮ぐこと無かれ。」八月、権参知政事となる。俄かに参知政事を拝し、尚書省を河北に行う。先に、摯が言うには、「河北東・西両路は最も要地であるが、真定の守帥胡論出は輒く城を棄てて南奔し、州県危懼す。今、防秋近し、甚だ憂うべきである。臣は願わくは兵を募り、旧部の西山忠義軍と共に往きてこれを安撫せん。」制は可とし、故にこの命有り。十一月、入見す。壬申、宜村にて河神を祭ることを遣わす。十二月、再び尚書省を河北に行う。

四年正月、進んで尚書右丞を拝す。嘗て上言し、宜しく沁水を開きて以て饋運を便にすべしとし、ここに至り、詔して有司にこれを開かしむ。是の時、河北大饑す。摯上言して曰く、「今、河朔饑甚だしく、人至って相食う。観・滄等州では斗米銀十餘両、殍殣相属す。伏して見るに、沿河上下に粟を販って北渡することを許す。然るに毎石官にその八を糴す。彼の商人は物を済すの心あるに非ず、河を渉り往来する所以は、特その厚息を利とするのみ。利既に無ければ、誰か復たこれを為さん。是れ物を済すの名有りと雖も、実に渡す所の物無し。これ渡さざるに何の異ならん。昔、春秋列国各々疆界を列ねたり。然るに晋饑すれば則ち秦これに粟を輸し、秦饑するに及んで、晋これに糴を閉ざす。千古これを譏る。況んや今天下一家、河朔の民は皆陛下の赤子にして、兵革に遭罹し、尤も哀れむべし。豈に坐視してその死を救わざるを忍ぶべけんや。人心惟れ危うし。臣は弄兵の徒、以て藉口して起つことを得んことを恐る。願わくはその糴を止め、民をして輸販せしむるを便とすべし。」詔して尚書省に行わしむ。

時に紅襖賊数万人、臨沂・費県の境に入る。官軍これを敗り、偽宣徽使李寿甫を生擒す。これを訊ねば、則ち云う、その衆は皆楊安児・劉二祖の散亡の余り、今復た聚まりて六万に及び、賊首郝定は兗州泗水の人、百官を署置し、僭って大漢皇帝と称し、既に泰安・滕・兗・単諸州及び萊蕪・新泰等十余県を攻め、又邳州硇子堌を破り、船数百艘を得、近く人を遣わし北に構え南に連なること皆約を成し、行将に河を跨いで乱を為さんとす。摯その言を以て上に聞かせ、且つ曰く、「今、邳・滕の路通ぜず、恐らく実にこの謀有らん。」遂に詔して摯に東平に行省事せしめ、権本路兵馬都総管を以て、以てこれを招誘せしめ、若し従わざれば即ち兵を率いて捕討せしむ。興定元年四月、済南・泰安・滕・兗等州の土賊並びに起ち、肆に剽掠を行い、摯は提控遙授棣州防禦使完顔霆に兵を率いてこれを討たしめ、前後斬首千余、偽元帥石花五・夏全の余党壮士二万人、老幼五万口を招降す。

是の年冬、資徳大夫に昇り、三司使を兼ぬ。二年二月、摯上言す。「山東・河北数たび兵乱に罹り、遺民嗷嗷、実に哀恤すべし。近く朝廷官を遣わし分かち往きて撫輯す。その恵大なり。然れども臣執政に忝く預かり、敢えて継いて行き、以て国家の徳信を宣佈し、疲瘵する者をして少しく蘇るを得しめんことを請う。是れ亦た図報の一なり。」宰臣これを難じたが、間も無く、詔して摯を河北に行省せしめ、兼ねて三司安撫事を行わしむ。既に行きて、又上言して曰く、「臣近く黄陵崗南岸を歴るに、多く貧乏老幼有りて自ら陳う、本河北の農民なるも、敵の驚擾に因り故に南遷して以て避く。今、復た本土に帰り春耕種せんと欲するも、河禁邀阻す。臣謂う、河禁は本より北より来る者を防閑するためのものなり。これは南より往くもの、安んぞ奸を容れん。乞う、有司に実を験して放渡せしむべし。」詔して尚書省に付す。宰臣奏す「宜しく枢府に講究せしむべし」。上曰く、「民饑えて且つ死せんとし、而して尚お次第を為すとは何ぞや。其れ速やかにこれを放たしめよ。」

四月、招撫副使の黄摑阿魯答が密州において李全を破る。初め、賊首の李全は密州及び膠西・高密の諸県を占拠し、摯は兵を督してこれを討たんとした。時に高密の賊陳全ら四人が密かに招撫副使の黄摑阿魯答に白状し、内応を願い出たので、阿魯答は提控の硃琛に兵五百を率いて赴かせた。時に李全及びその党の於忙児は皆城中にあり、官軍が西より来らんとするを聞き、全はひそかに逃れ去り、忙児は為すところを知らず。阿魯答は馳せて城下に至り、鬨の声をあげてこれを迫ると、賊で城壁を守る者八百人は皆降りて降伏を乞い、残りの賊四千人は出奔したので、進軍してこれを邀撃し、首級千を斬り、百余りを俘虜とし、獲たる軍需物資は甚だ多く、遂にその城を回復した。この夜、琛はまた陳全の計を用いて、高密を抜いた。六月、上は諭を遣わして摯に曰く、「卿は王家に勤労し、患難を避けず、相職に身を置きながら往来して山堌水寨の間にあり、農民を保庇して二麦を収穫せしむ。忠恪の意、朕の具に知る所なり。然れども、大臣なり、防秋の際には亦た安地を択んで処らしめ、その計中に堕つることなからしむべし」。摯対えて曰く、「臣は大恩を蒙り、死すとも報いる能わず。然れども聖訓を承り、敢えて奉行せざらんや。長清県の霊岩寺に兵を駐めんと擬す。屋三百余間あり、且つ泰安の天勝寨に連接し、東平・益都の間に介在す。万一兵来らば、足りて相応援すべし」。上はその兵糧を分かつを恐れ、乃ち詔して権に邳州行省に移す。

九月、摯上言す、「東平以東は累ねて残毀を経、邳・海に至っては特に甚だし。海の民戸は曾て百に満たずして屯軍五千、邳の戸は僅かに八百に及び、軍は万を以て計る。古の兵を取るは八家を率と為し、一家軍に充て七家之を給す。猶お生を傷つけ業を廃し、道路に疲るの歎あり。今は兵多くして民足らず、蕭何しょうか・劉晏をして復た生まれしむるも、亦た其の術を施す所無く、況んや臣の如き者、何を為すこと能わんや。伏して見るに、邳・海の間、貧民失業する者甚だ衆く、日に野菜を食らい、依倚する所無し。恐らくはこれに因りて嘯聚し、以て敵の勢いを益さんことを。乞うらくは募選して兵と為し、十月より糧を給し、戍役に充たらしめ、二月に至りてこれを罷め、人に地三十畝を授け、之に種粒を貸して収穫する所を験し、数を量りて之を取り、秋に逮うて復た兵伍に隷せしむ。且つ戦い且つ耕し、公私俱に利あり、亦た望むらくは俘われし民の招集に易からんことを」。詔してこれを施行す。

是の時、枢密院は海州の軍食足らず、転輸に艱しきを以て、奏して内に遷らんことを乞う。詔して摯に問う。摯奏して曰く、「海州は山に連なり海に阻まれ、沂・莒・邳・密と皆辺隅の沖要の地なり。比年以来賊の淵藪と為るは、宋人の資給する故なり。若し棄てて他に徙らば、則ち直ちに東平に抵るまで敵境に非ざるは無く、地大にして気増し、後ち図り難し。臣其の可なるを見ず。且つ朝廷の徙らんと欲する所以の者は、只だ糧儲の給せざるを慮るに止まる。臣請うらくは尽力して規画し、農民を勧喻して時に趨り耕種せしめ、且つ塩を煮て糧に易えしめ、或いは場を宿遷に置き、以て商旅を通ぜしめ、労せずして民力を以て弁ぜしめん。仍お沭陽の地に営屯と為すべき者を択び、兵を分けて護邏せしめば、遷らずと雖も患い無からん」。上其の言を是とし、乃ち止む。

十月、先に、邳州副提控の王汝霖は州の廩将乏しきを以て、其の軍を扇ぎて乱を為さんとす。山東東路転運副使兼同知沂州防御使の程戩は禍の己に及ぶを懼れ、遂に同謀し、因りて宋兵を結びて以て外応と為さんとす。摯聞き、即ち兵を遣わして之を捕え、訊問竟に具に伏す。汝霖及び戩並びに其の党の弾圧の崔栄・副統の韓松・万戸の戚誼等は皆就誅し、是に至りて以て聞かしむ。三年七月、汴京の東・西・南三路行三司を設け、詔して摯に中に居らしめて総べて其の事に当たらしむ。十月、裏城の工畢るを以て、官一階を遷す。四年七月、栄禄大夫に遷り、致仕す。

天興元年正月、起復して大司農と為る。四月、大司農の印を帰し、復た致仕す。八月、復た起して平章政事と為り、蕭国公に封ぜられ、京東路尚書省事を行なう。軍三千を以て舟に就くを張家渡に護送し、行くこと封丘に至り、敵兵覚め、進むこと能わず。諸将卒謀りて戈を倒して南に奔らんとし、数騎を留めて摯を衛わしむ。摯其の謀を知り、遂に馬を下り、坐して諸将に語りて曰く、「敵兵環視す、進退我に在り。汝曹持重を思わず、吾は寧ろ汝曹の手に死せん、乱兵に蹂躙せられ、以て君父の命を辱しむるに忍びず」。諸将諾して止まり、全師を以て還ることを得たり。聞く者之を壮とす。十一月、復た致仕す。汴中に居り、園亭蔡水の濱にあり、日に耆旧と宴飲す。及んで崔立の汴城を以て降るに及び、大兵のために殺さる。

摯は人と為り威厳あり、兵を禦ぐに人敢えて犯す者無し。朝に在りて事に遇えば敢えて言い、又た士を薦むるを喜ぶ。張文挙・雷淵・麻九疇の輩の如きは皆摯より進用せらる。南渡後、宰執の中、人望最も重し。

把胡魯

把胡魯、其の初起詳らかならず。貞祐二年五月、宣宗南遷し、左諫議大夫より擢て御前経歴官と為り、上面諭して之に曰く、「此の行、軍馬は朕自ら之を総ぶ。事利害あれば近侍局に因りて以て聞くべし」。三年十一月、出でて彰化軍節度使と為り、涇州管内観察使を兼ぬ。四年五月、改めて京兆府事を知り、本路兵馬都総管を兼ね、行省参議官を充つ。

興定元年三月、陝西路統軍使を授け、前職を兼ぬ。二年正月、召されて御史中丞と為る。三月、上言す、「国家人の取るは、惟だ進士の選を重しと為し、数備うるを求めず、賢を得るを務む。窃かに見るに今の場会試、考官人の取る氾濫にして、賢を求むるの道に非ず。宜しく其の弊を革し、大定の旧制に依るべし」。詔して尚書省に付し文資官を集めて雑議せしむ。卒に泰和の例に依りて之を行なう。

是の月、参知政事を拝す。六月、詔して権左副元帥と為し、平章の胥鼎と同事して防秋す。三年六月、平涼等処地震す。胡魯因りて上言す、「皇天は言わず、象を以て人に告ぐ。災害の生ずるは、必ず其の故有り。乞うらくは明らかに有司に諭し、天戒を敬畏せしめん」。上嘉納し、右司諫の郭著を遣わして往きて其の跡を閲し、軍民を撫諭せしむ。四年四月、権尚書右丞・左副元帥と為り、京兆に於いて尚書省・元帥府を行なう。時に陝西歳に糧を運びて以て関東を助く。民力浸く困す。胡魯上言す、「若し舟楫を以て渭より河に入り、順流して下らば、庶幾く民力を少しく紓うべし」。之に従う。時に以て便と為す。

五年正月、朝議会州を復た取らんと欲す。胡魯上言す、「臣窃かに之を計るに、月当に米三万石・草九万称を費やし、転運の丁夫十余万人に下らず。此の城一月に抜くべきを仮令せば、其の費已に此の如し。況んや未だ必ずしも然らずや。臨洮路新たに劫掠に遭い、瘡痍未だ復せず。須うる所の芻糧決して弁ずる可からず。慶陽・平涼・鳳翔及び邠・涇・甯・原・恆・隴等州に復た之を取ると雖も、亦た未だ闕無からんことを恐る。今農事将に興らんとす。沿辺の常費已に暇あって給せず。豈に更に十余万人を調べて以て此の軍に餉せんや。果たして之を行なわんと欲せば、則ち数郡の春種尽く廃せん。政らく此の城必ず得たりとすとも、兵を留めて戍守するを免れず。是れ飛挽の役、時無くして已まん。止むべくは承裔に令して軍を定西・鞏州の地にし、民の耕稼を護らしめ、敵の意怠るを俟ち、然る後に之を取らしむべし」。詔して省院に付して曰く、「其の言甚だ当たり。之に従うべし」。

三月、上奏して言う、「敵を防ぐは強兵にあり、強兵は食糧の充足にあり、これが当今の急務である。窃かに見るに、陝以西より、州郡に帥府を置くもの九あり、その部衆は率ね三四千を過ぎず、しかるに長官・校尉こういが猥りに多く、虚しく廩給を糜費し、甚だ謂れ無きものなり。臣は謂う、延安・鳳翔・鞏州は辺境の要地であるから固より旧に従うべきも、徳順・平涼等の処は皆罷去すべきである。河南行院・帥府は沿辺並びに河に沿うものを存し、余も亦罷すべきである」と。制して可とする。

この年の十月、西北の兵三万が延安を攻め、胡魯は元帥完顔合達・元帥納合買住を遣わしてこれを防がせ、遂に延安を保つ。先に、胡魯は西北の兵勢が甚だ大なるを以て、屡々朝廷に兵を請う、上はこれによりて彼を憎む。元光元年正月、遂に参知政事を罷め、河中府知事を以て権安撫使とす。ここにおいて陝西西路転運使夾穀徳新上言して曰く、「臣伏して見るに、河中府知事把胡魯は廉直忠孝にして、公家の利は知りて為さざる無く、実に朝廷の良臣なり。去歳、兵延安に入り、胡魯は将を遣わし兵を調え、城はこれによりて無事たり、功無きに非ず。今合達・買住は各々世封を授けられ、而るに胡魯は改めて河中府知事と為る。切に謂う、方今人を用うる時、謀略の臣をして力を展ぶることを獲ざらしめ、緩急或いは事機を失わん。誠に行省の任を復し、承裔と共に京兆を守らしめ、合達・買住をして延安を捍禦せしめ、以て河南を籓衛せしむれば、則ち内外安んずるなり」と。報いず。

六月、召して大司農と為す。既に汴に至り、遂に上言して曰く、「邇来群盗擾攘し、内に侵し及び、陳・潁は京に去ること四百里に及ばず、民居稀闊にして、農事半ば廃れ、蔡・息の間は十に八九を去る。甫かに大赦を経て、賊益多く起こり、動もすれば数百を数え、牛を駆り舎を焚き、恣に剽掠を行い、田穀熟すと雖も、敢えて獲る者莫し。所在の屯兵は率ね騎士無く、報の至るに比して賊已に遁れ、叢薄深く険しく、復た追襲に難く、則ち徒に形跡を形づくるのみ。今秋成に向かう、奈何ぞ処置を為さざるや」と。八月、復た参知政事を拝す。上これに謂いて曰く、「卿頃に大司農と為り、郡県を巡行す、盗賊如何にして息むべきや」と。対えて曰く、「盗賊の多きは、賦役多きを以てなり。賦役省みれば則ち盗賊息む」と。上曰く、「朕固よりこれを省む」と。胡魯曰く、「行院・帥府のこれを擾るるは如何」と。上曰く、「司農官既に採訪を兼ぬ、自今これに令してこれを禁止せしむべし」と。

初め、胡魯が拝命の日、巡護衛紹王宅都將把九斤来たりて賀す。御史粘割阿裏言う、「九斤は執政の門に遊ぶべからず、胡魯も亦その賀を受くべからず、請う並びにこれを案ずるを」と。ここにおいて詔諭して曰く、「卿昔に陝西に行省し、擅に繫囚を出だす、これは人主の当に行う所にして、臣下の専らにすべきに非ず、人苟も言有らば、その罪豈に除名のみならんや。朕卿の為に地を設け、因って肆赦し、以て衆口を弭ぶ、卿これを知るや?今九斤は職守有り、且つ兵柄を握る、而して恣に門下に至らしむ、法当に責降すべし、朕卿が素に直気有るを重んじ、故に復た曲りて留む。公家の事は但だ履正にして行うべく、人情を取らんと要すれば何ぞ必ずしも爾るや、卿そのこれを戒めよ」と。この年の十二月、進んで尚書右丞を拝す。

元光二年正月、上宰臣に諭して曰く、「陝右の兵将に退かん、当に後図を審らかにすべし、然らずんば今秋又至らん。右丞胡魯は深く彼の中の利害に悉くし、そのこれと共に議せよ」と。尋いで胡魯を陝西に遣わし、行省賽不・合達と宜しきに従い規画せしむ。哀宗即位し、冊立の功有るを以て、進んで平章政事を拝す。正大元年四月、薨ず。詔して右丞相・東平郡王を加贈す。胡魯人と為り忠実にして、国を憂え公に奉ず。及び亡ぶ、朝廷の公宰より、下りて吏民に迨るまで、皆嗟惜す。

師安石

師安石、字は子安、清州の人、本姓は尹氏、国諱を避けて更む。承安五年詞賦進士。人と為り財を軽んじ義を尚ぶ。初め尚書省令史を補す。適に宣宗南遷し、平章完顔承暉を留めて燕都を守らしむ。承暉将に死に就かんとし、遺表を以て安石に托し行在に赴かしむ。安石間道を走り汴に至りて聞かしむ。上これを嘉し、擢て枢密院経歴官と為す。時に哀宗春宮に在り、密院事を領す、遂に見知遇わる。元光二年、累遷して御史中丞と為る。その七月、上章して備禦の二事を言う。その一に曰く、「古より以て国家を安んじ禍乱を息ます所以は、戦・守・避・和の四者に過ぎず。今の計と為るは、守・和を上と為す。所謂守とは、必ず智謀の士を求め、内に戍卒の心を得るに足り、外に敵人の鋭を挫くに足らしめ、彼の攻むる能わざるのみならず、又その隙を伺いてこれを敗る可きなり。その所謂和とは、則ち漢・唐の君固より嘗てこの策を用う、豈に独り今日用うべからざらんや。有司に令して詳議し行わしむるを乞う」と。その二に曰く、「今敵中より来帰する者頗る多し、宜しくその糧餉を豊かにし、その接遇を厚くし、彼果たして肯て我が用いらるるを度り、則ち心力有る者数十人を択び、潜かに往きて以てその余を誘致すべし。来る者既に衆ければ、彼必ず転相猜貳し、然る後に徐に起こりてこれを図らば、則ち中興の功遠からざるなり」と。上嘉納す。

九月、英王守純を劾し附奏実ならざるに坐し、決杖追官せらる。及び哀宗即位し、正大元年、擢て同簽枢密院事と為る。二年、復た御史中丞と為る。三年、工部尚書・権左参政。四年、進んで尚書右丞と為る。五年、台諫近侍張文寿・張仁寿・李麟之を劾す。安石も亦三人を論列して已まず、上怒り甚だしく、旨有りて安石に謂いて曰く、「汝便ち賢相を承取せよ、朕は昏主と為らん、止むのみ」と。是の如き数百言。安石驟に任用を蒙り、遽に摧折に遭い、疽脳に発して死す。上甚だこれを悼惜す。

賛して曰く、宣宗南遷し、天命去れり。当に是の時に忠良の佐・謀勇の将有りと雖も、亦為すに難し。然れども汝礪・行信は内に於いて拯救し、胥鼎・侯摯は外に於いて守禦し、訖くまで宣宗をして亡国を免れしめ、而して哀宗復た十年の久しき有らしむ、人材の人国に益するや是の如きか。胡魯の兵を養い穀を惜しむの論、善し。安石は承暉の托に負かず、遂に見知遇わり、近侍を論列して怒に触れて死す、悲しいかな。