金史

列伝第四十五:高汝礪 張行信

高汝礪

高汝礪、字は岩夫、応州金城の人である。大定十九年の進士に及第し、官に臨んで有能の名声があった。明昌五年九月、章宗が宰執に詔して、中外において刺史となるべき者を挙奏させ、上自ら欠員を閲覧して点注し、両員が同挙した者を抜擢して用いることとした。ここにおいて、汝礪は同知絳陽軍節度事より起用されて石州刺史となった。承安元年七月、入朝して左司郎中となった。ある日紫宸殿で奏事したとき、侍臣は皆回避しており、上の用いていた涼扇が突然案の下に落ちたが、汝礪は職務でないとして敢えて取って進上しなかった。奏事が終わると、上は宰臣に言った、「高汝礪が扇を進上しなかったのは、体(礼儀作法)を知っていると言えよう」。

間もなく、左諫議大夫に抜擢された。賦調や軍需のため、郡県の役人の中に適任でない者がおり、追胥や走卒が事の急なるを利して賄賂を図り取るのは、民の害となることが甚だしかったので、建言した、「今後もし兵士の徴発調達に因って犯す者があれば、『推排受財法』に準じてこれを治めることを請う。これによって小人に畏懼する所があらしめたい」。二年六月、制度を定め、軍前の差発に因って財を受ける者は、一貫以下は二年の徒刑、以上は三年の徒刑、十貫は死罪に処することとし、これは汝礪の言に従ったものである。時に奏事に遇うと、台臣もまた回避を命じられたので、汝礪は上言した、「国家が諫臣を置いて侍従に備えるのは、時政を周知して得失に参画させんがためであり、ただ行列に並ばせるだけではない。故に唐の制度では、凡そ中書・門下及び三品以上が閣に入る時は、必ず諫官を遣わして随わせ、政事を予め聞かせ、開陳説諫することを期待した。今、省台以下は、朝奏事に遇うと一切回避し、諸々の侍衛の臣と共に進退する。殿廷で論議する事柄を初めから聞くことができず、それが既に行われた後も、その始末を詳らかにしない。事が行われてから諫めるのは、これまた難しい。顧みるに諫職は何のためか。もし人材でないと言うなら、人を選べばよい。言責を担わせておきながらこのように疎遠にすることはできない。今後より、役人が奏事する際には諫官が予め聞くことができるようにし、少しでも補うことを望む。また修注の職は言動を記録することを掌るが、これと一体であるべきである」。上はこれに従った。

また言った、「昨年十月に推排の法を行おうとしたが、すぐに時期を過ぎたとして止められた。誠に聖上の民を愛する深さを知る。切に聞くところによれば、周の制度では、歳時に民の衆寡を定め、物の多少を辨じ、その数を小司徒しとに入れて、政教を施し、征令を行う。三年ごとに天下を大比し、これを按じて定法とした。伏して大定四年の通検以来、今に至るまで三十余年、その間に二度推排を行ったが、その浮財物力は、一時の小民の言葉を憑みとして増減し、役人はただ速やかに定めることを務めて、その実を推究しなかった。これによって豪強で力ある者は符同して幸いに免れ、貧弱で援けの少ない者は抑え屈せられて訴えるところがない。況んや近年以来、辺境でたびたび調発があり、貧戸はますます多い。もしただ例によって推排するのみならば、昨年の条理が既に行われ、人々が通知しているので、恐らくは新たに強くなった家が予め狡猾な者に請託し、その時には同調して推唱することを望むであろう。あるいは虚偽に貧しきを装い、故意に産業を低価で質入れし、及び財物を他所に移し置き、一時的に営運を止める。このような奸弊が百端あって、物力の均一を望むのは難しい。この弊を革めようとするなら、実情に基づいて通検するに如くはない。予め役人に命じて大定四年の条理を照らし勘案させ、厳しく罪賞を立て、日を截って期限を立て、関防して禁約する。その間に軽重を加えるべきものがあれば斟酌して行い、煩瑣を去って簡易に就き、騒擾を戒めて鎮静を事とし、富者が苟も避けることができず、困窮する者が少し息づくことを望めるようにすれば、賦税は容易に整い、人は不均の患いを免れるであろう」。詔して尚書省に辺境の事が収まるのを待って行わせた。

この年の十月、上は尚書省に諭し、官を遣わして各路に民力を通検させ、戸部尚書賈執剛と汝礪に先んじて在都の両警巡院を推排させ、諸路の差し出した官にこれを法と視させた。間もなく同知大興府事となった。四年十二月、陝西東路転運使となった。泰和元年七月、西京路転運使に改めた。二年正月、北京臨潢府路按察使となった。四年二月、河北西路転運使に遷った。十一月、中都路都転運使に進んだ。

六年六月、戸部尚書に拝された。時に鈔法が流通せず、汝礪は事に随って上言し、多くを更定したので、民は甚だ便利とした。その言葉は『食貨志』にある。上はその議を嘉し、尚書省に敕して言った、「内外の百官は司掌することが異なる。比詔に応じて事を言う者は千数を啻ではないが、皆各司の利害に通達せず、漫然と陳説し、詳尽にすることができない。近くはただ戸部尚書高汝礪が、本部の数事を論じ、ことごとく事柄に切実で、皆既に行われた。内外の百司に諭して各々利害を究明して挙明させよ。もし挙げるべきでありながら直ちに申し聞けず、上司の挙行に至らしめた場合は、その罰を量って制せよ」。

貞祐二年六月、宣宗が南遷し、邯鄲に次いだとき、汝礪を参知政事に拝した。湯陰に次いだとき、上は汴京の穀価が高騰していると聞き、扈従の人々が至ればますます高くなることを慮り、宰臣にどう処するかを問うた。皆は留守司に命じて規制することを請うたが、汝礪のみが言った、「物価の高低は朝夕にも異なることがある。しかし、買いが多く売りが少なければ高くなる。諸路の人が河南に輻湊し、買う者が既に多いので、どうして高くならないことがあろうか。もしこれを禁止すれば、物を持つ家は皆閉じて出さず、商旅の転販もまた城に入らなくなり、買う者はますます急ぎ高さはますます甚だしくなるであろう。事には難易があり、知らざるべからず。今、少なくて得難いものは穀物であり、多くて致し易いものは鈔である。自らその難きを先にし、その易きを後にすべきである。多方に開導し、務めて粟を出させて鈔に替えさせれば、穀価は自ら平らかになるであろう」。上はこれに従った。

三年五月、朝廷が河北の軍戸の家眷を河南に移徙することを議したとき、その軍を留めて郡県を守衛させようとした。汝礪は言った、「この事が果たして行われるなら、ただ豪強の家に便利なだけで、貧戸はどうして移徙できようか。況んや安土にして遷りを重んずるは、人の情である。今、尽く河南に赴かせようとするが、彼らは一旦その田園を去り、老幼を扶け携え、道路を駆け馳せ、流離して所を失うのは、豈に哀れむべからざらんや。且つ過ぎ行く百姓が軍戸が尽く移るのを見れば、必ず驚き疑い、国家が彼我を分別していると言い、その心はどうして動揺しないことがあろうか。況んや軍人は既にその家を去り、他人を護衛させようとするのは、情をもって推し量れば、その肯んじて心を尽くさないことは必至である。民は至って愚かであるが神妙である。衛護の意を告げても、また信じないであろう。徒らに交わって乱れ、共に安んずることができない。これはその利害の係るところが甚だ重い。先ず諸道の元帥府・宣撫司・総管府に熟論して可否を論ぜしめ、もし疑うべきことがなければ、その後施行することを乞う」。返答がなかった。

軍戸が既に移住したので、土地を調査して分配授与しようとしたが、未だ定論がなかった。上(皇帝)は尚書省に詔して曰く、「北兵(モンゴル軍)が河南に迫っているため、諸路の軍戸を全て動員して共に防衛を図った。今既に到着したので、食糧は必ず与えるべきだが、彼らを処遇する方法がない。役人を分遣して長老を集めて尋ねさせよ。租税を増やすか、あるいは田地を与えるか、この二つのうちどちらが便利か。」また汝礪にもこれを諭した。やがて派遣された役人が言うには、「農民は皆、近年租税が既に重いので、もし更に増やされれば、力が実に足りず、官田を再び耕作することを敢えてせず、軍に与えることを願う。」そこで汝礪は上奏した、「軍戸の移住は一時的な事柄である。民が官田を耕作することは長遠の計である。河南の民地と官田は、数がほぼ半々である。また官田を全て耕作している家も多く、墳墓や屋敷・井戸もその中にある。概ね皆貧民であり、一旦これを奪えば、どうして自活できようか。小民は動かしやすく安んじ難く、一時的に租税を避けるために、このような言葉を言ったのである。いざ他人に与えられれば、即ち前日の主人が、今は客となり、後悔しないことがあろうか。後悔すれば忿怒の心が生じる。山東で土地を割り当てた時のように、肥沃な田地は全て権勢家に入り、痩せた悪地が貧しい戸に付与された。軍には益なく、民には損害があり、互いに憎悪し合うこととなり、今もまだ終わっていない。前の事は遠くなく、十分な明らかな戒めである。ただ官租を倍増して、軍糧の半分を給し、更に官有の荒田や牧馬草地を量を計って彼らに付与し、自ら耕作させれば、百姓は失業の苦しみを免れ、官司も民を虐げることを必ずしも行わなくて済む。また河南の田地は最も麦に適し、今は雨が十分に降り、正に播種の時である。民が疑って歳計を誤ることを誠に恐れるので、早く決すべきである。」上はその請いを従った。

まもなく尚書右丞に遷った。時に上は軍戸の田地を撥付すべきであり、時機を逃さず耕墾させようとしたが、汝礪は再び上奏して言った、「官有の荒田及び牧馬地は、民が密かに耕作している者が多い。今は正に麦を植える時であり、彼らは人に与えられることを知れば、必ず皆放棄して去るであろう。軍戸が得ても、既に時機を過ぎており、無駄に荒廃するだけである。もし耕作が終わってから撥付し、収穫を量って収め、軍の儲蓄を補えば、公私共に便利である。九月まで尽くしてから役人を派遣することを乞う。」十月、汝礪は言った、「今河北から河南に移住した軍戸はほぼ百万口に上り、一人一日に米一升を給するなら、一年で三百六十万石となり、その半額を支給しても粟三百万石を支払う。河南の租地は計二十四万頃で、歳征の粟はわずか百五十六万余石である。経費の外に倍徴して給することを更に乞い、併せて官有の閑田及び牧馬地で耕作可能なものを彼らに与えよ。」上奏は許可された。そこで右司諫馮開らを分遣して諸郡に赴かせて給与させ、一人三十畝とし、汝礪がこれを総括した。やがて土地調査官が戻り、皆言うには、「田地の面積は甚だ少なく、かつ痩せて悪く耕作できない。耕作可能なものを計算して均等に与えれば、一人当たり得るのは僅かであり、また僻遠の地では移住せざるを得ず、軍人は皆不便と考える。」汝礪は遂に上に言上し、詔して有司にこれを止めさせ、ただ軍糧の半分を給し、半分は実価で折支することとした。

四年正月、尚書左丞に拝され、連続して上表して致仕を乞うたが、皆優詔で許さなかった。時に朝廷が河北に兵を発して民の麦刈りを護衛することを議し、民間に流言があって官が全て取り上げると言った。上は聞き、宰職に問うて曰く、「どうすればよいか。」高琪らは上奏した、「もし枢密院に兵を遣わして要衝に駐屯させ、土賊を鎮圧し、なお逃戸の田地を収めることを許せば、軍民両便である。あるいは緊急の事態があれば、軍士も必ず心を尽くすであろう。」汝礪は曰く、「甚だ計略に非ず。河朔の民が食とする所は、ただこの麦のみである。今既に流言があり、更に兵を以て往けば、これはますます彼らを疑惧させることである。そのままに任せるよりは、宣撫司に無頼を禁じさせ、侵擾しないようにさせれば足りる。逃戸の田地は有司に収めさせ、以て軍儲を充てることもできよう。」そこで詔して戸部員外郎裴満蒲剌都を遣わして田数を検閲させ、及び民が兵を発することを願うか否かを訪わせた。戻って奏上して曰く、「臣は西は懐・孟より、東は曹・単に至り、麦の苗は苦しくも多くなく、諸農民に訊ねれば、往々にして自ら義軍となっている。臣は即ち朝廷が兵を発しようとする意を宣布したが、皆感戴して願わなかった。」そこでこれを罷めた。

汝礪は数度致仕を乞うても許されないので、乃ち上言して曰く、「非常の功を立てるには、必ず非常の人を待つ。今大兵が既に退いたのは、正に関隘を修繕し、兵士を訓練する時であり、機敏で経綸の才ある者を得て予め籌画させ、中興を助けさせねばならない。伏して見るに、尚書左丞兼行枢密副使胥鼎は、才が衆長を擅にし、身が数器を兼ねておられる。召還して朝省に還すことを乞う。」従わなかった。時に高琪は言事者の意見に従い、毎年民田を検閲して租を徴収しようとし、朝廷がこれに従おうとした。汝礪は言った、「臣は聞く、大国を治める者は小鮮を烹るが如しと、最も政事の善き喩えである。国朝は大定の通検以後、十年に一度物力を推排するが、それは簡静を貴び民を労することを重んじるからである。今言事者は河北のように毎年実種の田を調査し、数え上げて徴斂することを請うが、これは平時の通検であり、人の視聴を驚かせて不安にさせるのではないか。且つ河南と河北は事体が異なる。河北は累次劫掠を受け、戸口は亡匿し、田畑は荒廃し、差調は元の額に依り難いので、この権宜の法を行ったのであり、軍儲が多くならず、且つ土地が少なくて見やすいからである。河南は車駕の巡幸以来、百姓が集まり、凡そ閑田及び逃戸の棄てた所は、耕作がほぼ行き渡り、各々元の戸に承けて租を納め、その徴斂する所は皆通推の額に準じており、軍馬が益々多くなっても、未だ欠誤したことがない。どうして一概に動揺させるべきか。もし豪右が隠匿して征賦を逃れることを恐れるなら、有司が検括しても豈に全て実情であろうか。ただ賞罰を厳しく立て、自首を許し、及び人に告発・捕縛を聴き、犯した者は軍儲を盗んだ罪に坐し、土地は告発者に与えれば、自ずから人に懼れを知らせ、租賦は悉く官に入り、何ぞ是の紛紛たることを為す必要があろう。抑々また大いに不可なることが三つある。もし毎年検括すれば、夏田は春に量り、秋田は夏に量り、中間の雑種もまた随時に量るので、一年中少しも休息がなく、民は厭って避け、耕作は時を失い、あるいはただ肥沃な所のみを耕して残りを棄てれば、収穫は旧のままで輸納は益々少なくなる。これ一不可である。検括の時、県官は家々戸々に至ることができず、里胥が暗に賄賂を通じ、上下其の手を為し、虚しく文書を作り、真実を失う。これ二不可である。民田と軍田が犬牙錯綜し、彼らが或いは密かに軍人と結んで互いに冒乱し、朝廷はただ有司の籍に憑るのみである。仮に臨時に元の額より少なければ、資儲の欠誤は必至である。これ三不可である。夫れ朝廷が事を挙げるには、必ず行うことを務め、既に行ってまた中止するのは、是れ豈に善き計略であろうか。」議は遂に止んだ。

興定元年十月、上疏して曰く、「言者、姑く宋人と議和して以て辺民を息まんことを請う。切に非計と為す。宋人は詐り多く実無く、文移を往来せしむるも、辺備は未だ敢えて遽かに撤かず。備既に撤かざれば、則ち議和するも否も蓋し異なること無し。或いは復た浮辞を以て蔓らし、礼例の外に別に求索有り、言不遜に渉り、将に之を如何にせん。或いは曰く、『大定の間も亦た嘗て先に使を遣わす。今何ぞ不可ならんや』と。切に謂う、時殊なり事異なり、例を以て言うべからず。昔、海陵の師は名を出すこと無く、曲は我に在り。是を以て世宗即位し、首に高忠建等を遣わして宋主に報諭し、淮甸の侵す所を罷めて以て旧好を修む。彼随に使を遣わして来たり、書辞慢易にして、復た表を奉り臣と称せず、故疆を還し、兄弟の国と為らんことを願う。其の枢密院と我が帥府と時として書問を通ずるも、而して侵軼未だ嘗て已まざりき。既にして征西元帥合喜、宋将呉璘・姚良輔を徳順・原州に敗り、右丞相僕散忠義・右副元帥紇石烈志寧、李世輔を宿州に敗り、首を斬ること五万、兵威大いに振う。世宗、宰臣に謂いて曰く、『昔、宋人、言う、使を遣わして和を請わんと。吾が無備に乗じて遂に宿州を攻む。今我が軍の為に大いに敗れ、殺戮過当たり、故に敢えて復た問を通ぜず。朕、南北の生霊の久しく兵に困るを哀しみ、本より民を息まんと欲す。何ぞ細故を較えん。其れ帥府をして書を宋人に移し、以て和好を議せしめよ』と。宋果たして使を遣わして和を告ぐ。当時の堂堂たる勢を以てし、又辺患無く、竟に其の表を奉り臣と称するの礼を免す。今、宋は信を棄て盟に背き、我が辺鄙を侵す。是れ曲彼に在り。彼若し和を請わば、理に於いて順なり。豈に先ず此の議を発して自ら弱きを示すべきや。徒に益無きのみならず、反って謗侮を招くのみなるを恐る」と。

十一月、汝礪言う、「臣聞く、国は民を以て基と為し、民は財を以て本と為す。是を以て王者は必ず先ず基本を愛養す。国家の調発、河南を重しと為す。徴する所の税租、率ね常に旧の三倍。今、省部、歳収の通宝、支うる所に敷かざるを計り、乃ち民間に於いて桑皮故紙銭七千万貫を科斂して以て之を補う。近く通宝稍々滞るを以てし、又た両倍を加う。河南の人戸、農民三の二を居む。今税租猶お多く未だ足らざるに、而して此の令復た出づ。彼、当に輸すべき租を糶さざれば、則ち必ず其の食を減じて以て之に応ぜん。夫れ事に難易有り、勢に緩急有り。今急用にして難得なる者は、芻糧なり。民力に出づ、其の来り有限なり、緩かに図るべし。而して易く為すべき者は、鈔法なり。国家に行わる、其の変窮まり無し。向者大鈔滞り、更めて小鈔と為す。小鈔弊れ、改めて宝券と為す。宝券行わず、易えて通宝と為す。権に従い変を制す、皆上に由る。尚何を以て民を煩わすを為さんや。彼、力を悉くして以て軍儲を奉ずる已に不足を患う。而して又た通宝を添征す。苟くも給すること能わざれば、則ち逃亡有らん。民逃亡すれば則ち農事廃す。兵食何よりか得ん。有司遠図を究めずして近効を貪り、本原を固めずして末節を較う。誠に軍儲・鈔法両ながら妨げ有らんことを恐る。臣、鈔法に意を為さざるに非ず、省部に故らに相違するに非ざるなり。但だ鈔法稍々滞り物価稍々増すの害軽く、民生安からず軍儲給せざるの害重きを以てするのみ。惟うに陛下、外に事勢を度り、俯して臣言を察し、特命を以て有司に減免せしめよ。則ち群心和悦し、而して未だ足らざる租望み有らん」と。

時に朝廷、賈仝・苗道潤等相攻めて和せざるを以てし、将に州県を分ち畀え、別に名号を署して以て之を処せんとす。汝礪上書して曰く、「甚だ計に非ず。蓋し河北の諸帥、多くは本土の義軍、一時権りに隊長と為る。亦た先に嘗て叛亡する者有り。素より朝に宦えて、礼義を知り、名分を識る人の若くは非ざるなり。貪暴にして法に不法、蓋し怪しむに足らざるなり。朝廷、時方に多故なるを以てし、姑く牢籠して之を用い、庶幾くは遣民少しく安息を得しめんとす。彼互いに攻劫すれば則ち勢い浸く弱く、勢力既に弱ければ則ち朝廷制し易し。今若し地を分かちて之を与え、州県の官吏輒ち署置を得、民戸の税賦擅に徴収するを得ば、則ち地広き者は日に益々強く、狭き者は日に益々弱し。久しうして、弱者皆強きに併せられ、強者の地は復た奪うべからず。是れ朝廷愈々制し難きなり。昔、唐、河朔の地を分かちて諸叛将に授く。史臣、其の孽萌を護養して以て其の禍を成すと謂う。此れ今日の大戒と為すべし。姑く行省をして羈縻和輯し、方方を牽制し、之をして逞うることを得ざらしむるに若かず。異時に辺事稍々息み、気力漸く完うせば、若輩又何ぞ患うるに足らんや」と。議遂に寝す。

上嘗て汝礪に謂いて曰く、「朕、毎に卿の朝に侍するを見るに、其の労に任えざるを恐れ、殿下に坐するを許す。而して卿終に従わざるは何ぞや。夫れ君臣相遇う、貴ぶ所は誠実に在り。小謹区区、朕固より較えず」と。汝礪、君臣の分甚だ厳しきを以てし、敢えて命を受かず。

三年、河南頗る豊稔、民間多く粟を積む。汝礪乃ち奏して曰く、「国家の務、食に重きは莫し。今、所在屯兵益々衆く、而して新城を修築する其の費亦広し。此の豊年に及びて方方を営弁せざれば、防秋の際或いは軍興に乏しからん。河南州府に於いて其の物価の低昂を験し、権宜に式を立て、凡そ内外四品以下の雑正班散官及び承廕人、当に暴使監官の功酬を免じ、或いは僧道官の師徳号度牒・寺観院額等、並びに之を買うことを聴かしめよ。司県官に能く輸粟を勧誘して三千石に至らしむる者有らば、将来注授するに升本の榜首と為し、五千石以上は官一階を遷し、万石以上は職一等を升め、並びに見闕に注せよ。庶幾くは人勧慕を知り、多く収穫する所有らん」と。上之に従う。

同提挙榷貨司の王三錫が油の専売を建議し、高琪は費用が切迫していることを理由に、帝にその実施を勧めた。汝礪が上奏して言うには、「古に専売の法はなく、漢代以来初めて塩・鉄・酒の専売と均輸の官を置き、経費を補助した。末流には舟車を算し、間架に税を課するに至り、利益を徴収する方法は既に尽きていたが、それでも油の専売は聞いたことがない。およそ油は世の共用するもので、利益が公に帰すれば害は民に及び、故に古今を通じて論じられず、また煩瑣を嫌い煩擾を重んじないのである。国家は軍興以来、河南一路の歳入税租は倍加に止まらず、さらに定額徴収の諸銭や臨時の雑役があり、民から出ないものはなく、さらに油の専売を議すれば、歳に銀数十万両を収めることになろう。そもそも国は民を本とし、この際に民を重ねて困窮させてよいのか。もし三錫の議に従えば、これは世に行き渡る貨を専売の貨とし、私家の常用する物を禁物とし、古来行われなかった法を良法とするもので、切に聖朝が取るべきでないと考える。もし果たして行えば、その害は五つある。臣が申し上げる。河南の州県に務を九百余所立て、官を千八百余員設けることになろうが、胥吏や労働の徒はこれに含まれない。費用が既に計り知れず、さらに屋宇を構え、作具を買い上げれば、公私ともに擾乱され、言い尽くせない。提点官司には昇降決罰の法があり、その課が一度欠ければ必ず抑配の弊が生じ、小民は害を受け、ますます耐えられなくなる。これが一つの害である。油の貴賤は場所によって揃わず、商旅が転販して有無を相易するからこそ、その価格は常に平らかで、人は容易に得るのである。今既に官を設けてそれぞれ分地を持ち、侵犯する者は罪に処せば、貴い処は常に貴く、賤しい処は常に賤しくなる。これが二つ目の害である。民家は日用に躬自で買うことができず、転売する者が利息を増せば、価格は貴くならざるを得ず、使用は難しくなる。これが三つ目の害である。塩・鉄・酒・酢は公私の造る所が異なり、区別しやすいが、油だけはそうではなく、識別し難い。今私造する者を刑に処し、捕らえて告げる者に賞を与えれば、無頼の輩がこれに乗じて良民を誣告し、罪に陥れることになろう。これが四つ目の害である。油戸が設けた屋宇・作具は、用いた銭が既に多く、有司は業を按じて物力を推定し、差賦を与えている。今その具を奪い、その業を廃して差賦を前に如くすれば、どうして自活できようか。これが五つ目の害である。ただ廃止するのが便利である。」帝はこれを是としたが、高琪の意に逆らうことを重んじ、詔して百官を尚書省に集めて議させた。戸部尚書高夔・工部侍郎粘割荊山・知開封府事溫蒂罕二十ら二十六人は高琪と同じく議し、礼部尚書楊雲翼・翰林侍読学士趙秉文・南京路転運使趙瑄・吏部侍郎趙伯成・刑部郎中姬世英・右司諫郭著・提挙倉場使時戩は皆不可とした。帝は言った、「古に行われなかったことを今行えば、また一事を生むことになる。これを罷めよ。」

十月、金鼎一つと重幣三を賜う。四年三月、平章政事に拝し、間もなく尚書右丞相に進拝し、国史を監修し、寿国公に封ぜられる。五年二月、表を上して致政を乞うたが、許されなかった。九月、帝は汝礪に諭して言った、「昨日視朝し、午時に至ってようやく罷めた。卿は老いて、久しく立つに任じない。奏事が終わり、璽を用いる際には、先に退いて座るがよい。労して疾を致し、かえって議政を妨げることを恐れる。」この月、また致仕を乞うた。帝は諭して言った、「丞相の礼は尽きた。しかし今の廷臣で誰が丞相のようであろうか。必ず去らんと求めるのか。しばらく留まって朕を輔けるがよい。」十月、栄禄大夫に越階して遷し、なお諭して言った、「丞相はたびたび去ることを求めるが、朕は社稷の事が重いゆえ、堅く留める。丞相は老いたが、官はまだ二品に至っていない。故に特に二階を昇進させる。」十二月、帝はまた諭して言った、「先に朕は卿が年老いたので、視朝の日に侍立するのが労であると思い、璽を用いる時に廊下に退いて座るよう命じたが、卿はこれに背き、また終朝侍立した。はたして有司が榻を設けなかったのか。卿は朕の意に従うよう努めよ。」元光元年四月、汝礪が跪いて奏事すると、帝は起つよう命じて言った、「卿は大臣である。言うところは皆社稷の計である。朕が卿に責めるのは、ただ誠を尽くすことにあり、何事か細かな謹みを要しよう。今後再びこのようなことはするな。」

七月、帝は宰臣に言った、「昔、世宗が甚だ倹約であると言う者がいたが、ある者は言う、そうでなければどうして広く蓄積を得られようか、と。章宗の時は用度が甚だ多かったが、欠乏することがなかったのは、先朝が遺したものがあったからである。」汝礪は進言して言った、「倹約は帝王の大徳である。陛下がこれに言及されるのは、天下の福である。」九月、帝はまた宰臣に言った、「功ある者は微かな過ちがあっても寛容すべきであり、功なき者はどうして寛容できようか。しかし功ある者は人に誹謗議論されやすい。凡そ功過を以て朕に言う者があれば、朕は必ず深くその実を求め、近侍が言うことであっても軽々しく信じず、また一己の愛憎に従ったこともない。」汝礪は対して言った、「公は明を生み、偏は暗を生む。凡そ人は多く愛憎に従い、公議に合わない。陛下は聖明であるから、このようでいられるのである。」

二年正月、また致政を乞うた。帝は面諭して言った、「今もし卿に従えば、始終の道が共に尽き、卿にとっては甚だ安らかであり、朕にとっても美事である。しかし時は方に多事であり、朕もまた不徳である。正に旧人の輔佐に頼っているので、卿の高志を遂げさせることができないのである。」汝礪は固く辞したが、結局許されず、帝は言った、「朕は人が毀誉することを聞くたびに、必ずその実を求める。」汝礪は対して言った、「昔、斉の威王は即墨大夫を封じ、阿大夫及び左右で嘗て毀誉した者を烹った。これにより群臣は恐懼し、敢えて非を飾る者なく、斉国は大いに治まった。陛下がこれに言及されるので、治安は期待できる。」二月、帝は汝礪が高齢であるため、朝拝を免じ、侍立が久しければ殿下で憩うようにし、なお有司に榻を設けるよう敕した。三月、また致仕を乞うたが、また優詔で許されなかった。帝は群臣に言った、「人に才あって事に任じられるが、心を処するのが正しくない者は、終に貴ぶに足りない。」汝礪は対して言った、「その心が正しくなくて才でこれを補えば、いわゆる虎に翼を添えるものであり、古の聖人であっても容易に知り難い。」帝は然りとした。他日また宰臣に言った、「凡そ人が心を善良に処し、行いを忠実にするのは、これが得難いのである。もし言葉が巧みで心が偽りであれば、また何の用があろう。しかし善良な者は、人は多く平常と見做す。」汝礪は対して言った、「人材は完全なものは少なく、またその長所に随って取るのである。」帝は然りとした。五月、帝は宰執に京城の楼櫓を修完する事を問うた。汝礪は奏して、「用いるものは皆大木であり、顧みるに今は得難く、方に計置を命じている。」帝は言った、「朕の宮中の別殿に用いるべきものがあれば、即ちそれを用いよ。」汝礪は毀つべきでないと対えたが、帝は言った、「居住する所以外は、毀っても何の害があろうか。民を労して遠くから致すよりはまさっている。」

哀宗が初めて即位すると、諫官が汝礪が君を欺き位に固執し、天下が共に嫉むところであると言い、百官を励ますためにこれを罷黜すべきであると上奏した。哀宗は言った、「昔、恵帝が言う、私は高帝に及ばず、先帝の法を守るべきである、と。汝礪は先帝が立てて相とした者である。またどうして罷黜できようか。」また匿名の書を投じる者がいて、「高某が退かなければこれを殺す」と書いてあった。汝礪はこれにより老齢を理由に退くことを告げたが、優詔で許されなかった。正大元年三月、薨去。七十一歳。宣宗の廟に配享された。

人となり慎密廉潔で、人主の知遇を得ることができたが、格法を守り、黙して事を避けることを旨とした。故に相となって十余年、譴責を受けたことがなかった。貪恋して去らず、当時の士論はこれを頗る譏ったという。

張行信

張行信は、字を信甫といい、先名は行忠であったが、荘献太子の諱を避けて改めた。行簡の弟である。大定二十八年に進士に及第し、累官して銅山令となった。明昌元年、廉潔を以て抜擢され監察御史を授かった。泰和三年、同知山東西路転運使となり、まもなく河東路按察司事を簽した。四年四月、泰和殿に召し出されて謁見し、行信は二事を言上した。一つは、旧例に従って吏目を移転させて民害を除くこと、一つは、徐・邳の地は低湿で麦に適しているので、粟の税を麦で納めることを許して民の便を図ることである。上はその言を是とし、尚書省に議して施行させた。崇慶二年、左諫議大夫となった。時に胡沙虎は既に除名されて民となっていたが、権貴に賄賂を贈り、再び進用されようとしていた。挙朝敢えて言う者なく、行信は乃ち上章して言うには、「胡沙虎は残忍凶悖で、跋扈強梁、近習に媚び結んで称誉を図る。その廃黜されて以来、士庶歓喜せざるはない。今若し再用せば、害が前日より更に甚だしくなることを恐れるのみならず、況んや利害の機、これより大なるものがある」と。書を再上したが、報いられなかった。胡沙虎がしいしいぎゃくをなすに及んで、人々は甚だ危ぶんだが、行信は坦然として顧みなかった。

その歳の九月、宣宗が即位し、元号を貞祐と改めた。行信は皇嗣が未だ立てられず、以て天下の望みを繋ぐものなしとして、上疏して言うには、「古より人君即位するや、必ず太子を立てて儲副とし、必ず詔を下して中外に告ぐ。窃かに見るに、皇長子は趨朝する毎に、東宮の儀衛を用い、丹墀に至れば、還って諸王の班に列なる。況や既に侍臣を除かれながら、今未だその礼を定めず、名正しからず言順わざるというべし。昔、漢文帝元年、首めて子の啓を立てて太子としたのは、祖廟を尊び、社稷を重んずる所以である。願わくは大臣と詳議し、前代の故事を酌み、早く明詔を下し、その位を定め、宮僚を慎選し、徳器を輔成せられんことを。そうすれば天下幸甚である」と。上は嘉納した。

胡沙虎が誅せられると、上封事して刑賞を正すことを言い、その文辞は『胡沙虎伝』に載せられている。また言うには、「兵興以来、将帥はその人を得ることが甚だ難しい。願わくは陛下、重臣に各々知る所を挙げさせ、才果たして用いるべきならば、即ち召見を賜い、褒顕獎諭し、その自ら効するを令せば、必ず奮命して国に報いる者あらん。昔、李牧が趙の将となるや、軍功爵賞皆自ら専断し、出でて攻め入り守るに中覆に従わず、遂に能く北に大敵を破り、西に強秦を抑えた。今、将を命ずるに若し文法をもって拘縄せず、中旨をもって牽制せず、委任責成し、その智能を尽くすを得させば、則ち克復の功望みあり」と。上はその言を善とした。時に方に王守信・賈耐児なる者を抜擢して将としていたが、皆鄙俗不材で兵律を弁えず。行信はその国を誤るを懼れ、上疏して言うには、「『易』に『国を開き家を承くるに小人を用いる勿れ』と称す。聖人が以て後世に垂戒する所以は、厳なること此の如し。今、大兵縦横し、人情洶懼す。敵に応じ理を興すは、賢智ならざれば能わざるなり。狂子庸流、猥りに抜擢を蒙り、機務に参預するは、甚だ謂れ無し」と。ここにおいて上は皆これを罷免した。権元帥右都監の内族訛可が兵五千を率いて通州で糧を護送したが、兵に遇うや輒ち潰えた。行信は上章して言うには、「兵を禦ぐの道は、賞罰に過ぐるはなく、その臨敵するに慕う所ありて進むを楽しましめ、畏るる所ありて退くを敢えざらしめ、然る後に将士命を用いて功成るべし。若し訛可が敗衄せば、宜しく明らかにその罪を正すべし。朝廷寛容にして一切問わざれば、臣は兵を禦ぐの道尽くさざるを恐る」と。詔して報じて曰く、「卿の意具に悉す。訛可等は已に獄に下せり」と。

時に中都は兵を受け、方に使を遣わして和を請わんとし、兵を握る者は畏縮して敢えて戦わず、曰く、「和事を壊すを恐る」と。行信は上言して言うには、「和と戦の二事は本より相い干さず、使を奉ずる者は自ら専らに和を議し、兵を将うる者は惟だ戦を主とすべきのみ。豈に和事を以て辞とすべきや。崇慶以来、皆和を以て誤る。若し我が軍時に肯て進戦し、稍々その鋒を挫かば、則ち和事成ることも久し。頃、北使既に来たりしも、然るに猶東京を破り、河東を略す。今、我が使方に行かんとし、将帥輒ち兵を按じて動かず、和議に卒に益無し。事勢益々急なり、芻糧益々艱し。和の成否蓋し未だ知るべからず。豈に門を閉ざして坐守し、弊を待つべきや。宜しく士馬尚ほ壮んなるに及び、猛将鋭兵を択び、転輸を防衛し、往来拒戦して、之を少しく沮ましめば、則ち附近の蓄積皆京師に入り、和議亦不日に成るべし」と。上は心にその善なるを知りながらも行う能わず。

二年三月、朝廷が糧を括るが民心を失うを恐れて、上書して言うには、「近日、朝廷は大興府知事の胥鼎に軍食を便宜計畫せしめしに、鼎は因って奏して人の粟を納めて官を買うことを許す。既にして又、参知政事の奥屯忠孝を遣わして官民の糧を括らしむ。戸に二月分を存し、余は悉く官に輸するを令し、爵級銀鈔を以て酬う。時に粟ある者は或いは先ず数を鼎に具し、未だ官に入れざるあり。忠孝は又多く得て以て己が功を明らかにせんと欲し、凡そ鼎の籍したる者はその数を除かず。民甚だこれを苦しむ。今、米価踊貴し、糴う所無し。民糧は僅かに二月分にして又これを奪わば、将に有司を咎むるのみならず、亦朝廷の察せざるを怨まん。大兵近し、人方に危懼す。若し又聊かする所無くんば、或いは他の変を生ぜん。則ち得る所は損ずる所に償わず」と。上は深くその言を善とし、即ち命じて近臣と往きて審処せしむ。仍って忠孝に諭して曰く、「極めて卿の公に尽心するを知る。然れども国家本より糧を得んと欲す。今既に得たり。姑く人便に従うべし」と。四月、山東東路按察使に遷り、転運使を兼ね、仍って本路宣撫副使を権す。将に行かんとして、入見を求め、上は便殿に御してこれに会う。奏して曰く、「臣伏して見るに、奥屯忠孝は詐を飾りて忠ならず、事に臨みて惨刻、胡沙虎と党を為す」と。その罪を歴数し、且つ曰く、「事無き時猶一相の非才を容れ難し。況んや今多故なるに、斯人をして政に与からしむべきや。願わくは即ちこれを罷められんことを」と。上曰く、「朕即位の始め、大臣を進退するは自ら礼を以てすべし。卿その親知に語り、諷して去るを求めしむべし」と。行信は右司郎中の把胡魯に告げて忠孝に白す。忠孝は恤みせず。

三年二月、安武軍節度使に改め、冀州管内観察使を兼ねる。着任早々、即ち上書して四事を言上す。その一は、「楊安児の賊党は旦夕に捕縛されるべく、蓋し慮るに足らず。今日の急務は、ただ人心を収めるに在るのみ。先に官軍が賊を討つに当たり、善悪を分かたず、一概に誅戮し、その資産を奪い、その婦女を掠め、重ねて居民に疑畏を生ぜしめ、山林に逃げ聚まる。今宜しく有司に明らかに勅し、厳しく約束せしめ、平民を劫掠せしむることなからしむべし。かくすれば則ち百姓に安からざる心なく、奸人の誑かし脅す計は行われず、その勢い次第に消滅すべし。」

その二は、「兵乱の後より、郡県の官豪多くは義徒を糾集し、土寇を摧撃する能く、朝廷は本処の職任を授くるも、未だ幾ばくもせずして人を遣わしてこれを代う。旧者は人の素より服する所、新者は必ずしも皆才ならず、緩急の間に、釁を啓き事を敗る。今より郡県に員を闕くは、乞うらくは尚書省に人を選び擬注せしむべし。その旧官、民の便安とする者は宜しく就いて任使を加うべく、もし資級未だ及ばざれば、その職を摂せしめ、功有るを待って正授すべし。庶幾くは人その才を尽くし、事立ち易からん。」

その三は、「軍を掌る官、敢えて進戦する者は十に一二無し。その或いはこれ有る者は、即ち当に功を立てることを責むべく、宜しく他の職を授くるべからず。」

その四は、「山東の軍儲は皆爵を鬻ぐことによりて得たる所、及び或いは敕牒を持ちて仕を求むる者あり、選曹は等級を以て鬻ぐべからざる者有れば、往々駁退す。鬻ぐべからざるを鬻ぐは、有司の罪なり、彼何ぞ責めんや。況んや海岱の重地、群寇未だ平らかならず、田野に収むる所無く、倉廩に積む所無し。一旦軍餉給せず、復た爵を鬻がんと欲すれば、その誰かこれを信ぜん。」朝廷多くその議を用う。八月、召されて吏部尚書と為る。九月、戸部尚書に改む。十二月、礼部尚書に転じ、同修国史を兼ねる。

四年二月、太子少保と為り、前職を兼ねる。時に尚書省奏す、「遼東宣撫副使完顔海奴言う、参議官王澮嘗て言う、本朝は高辛を紹ぎ、黄帝の後なり。昔、漢祖は陶唐を祖とし、唐祖は老子を祖とし、皆廟を立てたり。我が朝今に至るまで百年、黄帝に廟を立てず、漢・唐に愧じざらんや。」又云う、「本朝初め興るや、旗幟尚赤く、その火徳なること明らかなり。主徳の祀、闕けて講ぜず、また礼経の祭祀を重んずる意に非ず。臣、澮に聞く所かくの如し、朝廷に乞うらくはその事を議せられんことを。」詔して有司に問わしむ。行信奏して曰く、「按ずるに『始祖実録』はただ高麗より来たるのみを称し、高辛より出づと聞かず。今の拠りて黄帝廟を立てんと欲する所、黄帝は高辛の祖なり、仮にこれを紹ぐと曰わば、当に木徳と為るべく、今乃ち火徳と言う、また何を謂うぞ。況んや国初、太祖に訓有り、完顔部多く白を尚ぶに因り、又金の変ぜざるを取って、乃ち大金を以て国号と為し、未だ嘗て徳運に及んで議せず。近く章宗の朝に至り始めて百僚を集めてこれを議し、亡宋の火行の絶えたるを継ぎ、土徳と定め、以て宗廟に告げ天下に詔す。顧みるに澮の言う所は特なる狂妄者の言のみ。」上これ是とす。

八月、上将に太廟に祔享せんとし、詔して世宗の十六拝の礼に依らしむ。行信と礼官と儀注を参定し、上言して宜しく四十四拝の礼に従うべしとす。上嘉納す。語は『礼志』に在り。祭畢りて、行信に宝券二万貫・重幣下端を賜い、諭して曰く、「太廟の拝礼、朕初め世宗の行う所に依らんと欲す。卿進みて奏章を上し、随室に祝を読むことを備述し、殊に理に中る。向い卿の言無かりせば、朕幾くんぞこれを失わんとす。故に特に是を以て旌賞す。自今より毎事更に宜しく心を尽くすべし。」是の年十二月、行信父暐の卒するを以て、官を去る。

興定元年三月、旧職に起復し、参知政事を権む。六月、真に参知政事を拝す。時に高琪相と為り、権を専らにし事を用い、己に附かざる者を悪み、衣冠の士動もすれば窘辱に遭う。惟だ行信のみ屡々旧制を引きて力その非を抵す。会に宋兵境を侵す。朝廷使を遣わし詳問せんと議す。高琪等は体を失うと以為う。行信独り上疏して曰く、「今使を遣わすを以て当たらずと為す、臣切にこれを惑う。議者の曰わざるは、『使を遣わせば則ち先ず弱を示す。その或いは報ぜず、報じて遜わざれば、則ち愈々国体を失う。』臣独り然らずと以為う。彼吾が釁隙に乗じ、数たび侵掠を肆にす。辺臣兵を以てこれを退くも復た来たる。我が大国、辞を以て責めずして兵を以て敵す、これ弱を示さざるや。問いて報ぜず、報じて遜わざるに至っては、曲自ら彼に在り、我に何の損かあらん。昔、大定の初め、彼嘗て順を犯せり。世宗は丞相烏者を行省として汴に在らしむるも、実に元帥撒合輦をして先ず辞を為してこれを詰めしむ。彼遂に罪に伏せり。その後、宋主国書を奪い取る。朝廷復た兵を加えんと欲す。丞相婁室独り不可と以為う。刑部尚書梁肅命を銜んで往くに及び、尋いでまた屈せり。章宗の時に在りては、倡狂最も甚だし。猶お先ず理問して後に兵を用う。然らば則ち使を遣わし詳問するは正に国家の故事、何ぞ体を失うこと有らん。且つ国歩多艱、戍兵久しく滋し、休息する所以を思わずして、民力を如何にせん。臣書生、甚だ高論無し。然れども事機会に当たれば、敢えてその愚を罄さざるを得ず。惟うらくは陛下これを察せられんことを。」上復た尚書省に議せしむ。高琪等奏す、「行信の言う所固より旧制に遵う。然れども今日の事は昔と同からず。」詔して姑くこれを待つ。已にして高汝礪もまた上言して先ず使を遣わすは便ならずとす。議遂に寝す。語は汝礪伝に在り。

初めに、張行信が言うには、「今の法では、職官が罪を論ぜられる場合、多くは的決(実際の刑罰執行)に従う。伏して見るに、大定年間に世宗の勅旨があり、職官が故意に聖旨に違反した場合、徒年・杖数ともに的決とされた。しかしその後三十余年、有司が罪を論ずるに当たり、一度もこれを引用したことがない。これは、永続的な例とすべき事柄ではないからである。どうか詳しく定めてほしい」と。行信が退出した後、上(皇帝)はその上奏文を尚書省に下した。この時になって、宰臣が奏上した。「今後、奏定条の指揮に違反し、及び諸条格に当たり、違制旨の罪に当たる者は、その徒年・杖数は贖銅(銅銭で贖うこと)を論ずるのがよい。特に詔旨を奉じて違反した者は、大定の例に依るべきである」と。制可された。行信が去って間もなく、上は宰臣に諭して言った。「張行信が降格左遷されて以来、卿らは黙り込んでしまった。これは全くよろしくない。行信の件は、卿らもよく知っている。まさか彼のことを言ったからというわけではあるまい。今後は各々言うべきことを尽くし、再び畏れ憚ることがあってはならない」と。

行信が涇州に着任した当初、すぐに上書して言った。「馬は甲兵の根本である。今、軍旅が未だ止まず、馬政を緩めることはできない。臣が涇州に到着して以来、陝西の豪民が多く河州で買い付け、内地に転売し、利益は百倍にも及ぶと聞く。また、省が差し向けた買馬官である平涼府判官の烏古論桓端が洮州で買い付け、銀百鋌でほぼ千匹の馬を得たと見聞した。生羌の木波などの諸部の蕃族人戸は畜牧が非常に盛んであるという。以前に派遣された官が、あるいはその価格を抑え、あるいは勢力を以て奪い取ったため、その和を失い、かつ常に銀が少ないことを患い、多くを得ることができなかったのである。また、蕃地では今年の秋は不作であり、馬を売って得た銀で直ちに粟を買っていると聞く。冬から春にかけては必ず食糧が不足し、馬価は非常に安くなるであろう。どうか有司に命じて、銀と粟を洮州・河州などに運ばせ、烏古論桓端のように蕃情に通じ、時勢の変化に通達した者を選任して貿易させよ。もし銀一万両を投じれば、良馬千匹を得ることができよう。機会を失うべきではない。どうか朝廷は速やかにこれを図られよ」と。

また言った。「近ごろ、辺境の戦士が功績を立てた際、朝廷は使者を派遣して宣諭し、官爵や賞賜を与え、皆聖恩に感戴し、死力を尽くさんと願っている。これはまさに激励の方法を得たものである。しかし、使者への贈り物として馬や金を贈ることが常習化しているのは、臣の理解しがたいところである。大定年間には、かつて送宣の礼を立て、五品以上にはそれぞれ定数があったが、後に結局廃止された。況んや今の時務は昔と異なるのに、六品以下や単に散官に昇進するだけの者までもが、贈り物を免れず、あるいは調達できなければ、部下から徴収してこれに応じ、それによって罪を得る者さえいる。あの軍士たちは死力を尽くして功績を立て、わずかに恩賞を蒙るのに、かえって贈り物を苦にしている。これは果たして朝廷の意図するところであろうか。どうか有司に命じて、大定の例に依り、時務を考慮して明らかに等級を立て、取り立てるにも与えるにも限度を設け、大義を損なわないようにさせよ。そうすれば上下ともに満足するであろう」と。

また言った。「近ごろ、県令を保挙すると、特にその俸給を増やすと聞く。これは朝廷が民のためにする善意である。しかし関以西では、まだ着任した者がいない。遠方の民が期待しないわけにはいかない。まさか推挙する者がまだ少なく、不足しているということではあるまいか。どうか内外の職事官に詔を下し、さらに広く選挙を行わせ、その欠員を補い、天下が均しくその恩恵を受けるようにせよ。また、県丞・主簿・県尉も皆民に接する官であるのに、俸給を増やさないのは、彼らが自らを養うに足りず、どうしてその侵奪を禁じることができようか。あるいは国用が今まさに不足しているから、無駄な出費をすべきではないと言うが、それは全く違う。吏の俸禄を重んずるのは、もとより彼らに民を擾乱させないためである。民が安んじれば国は安定する。どうして無駄な出費と言えようか。もし冗食を削減し、無用の人を養わなければ、何が不足を患うことがあろうか。今、一人の軍人が兵役に就くと、その家族全員に食糧を給与し、軍人が死亡すると、その子弟に給与する。これは士心を感悦させ、国のために尽力させるためである。しかし、男丁がおらず、その妻や娘にまで給与するのは、これは何ということであろうか。大駕が南巡して以来、養われている者はすでに数年になる。口を開けて食を待ち、農民を困窮させている。国家の糧食の備蓄は、常に不足を患っている。それなのに、この老幼数千万口を長く養い、冗食による無駄な出費がまさにここにあるのである。もし直ちにこれを廃止すれば、彼らが行き場を失うことを恐れるならば、年月を限って、自ら計らわせ、期限が来たら廃止すれば、また何と言えようか」と。上は多くこれを採り入れた。

元光元年正月、保大軍節度使に遷り、兼ねて鄜州管内観察使を務めた。二月、静難軍節度使に改め、兼ねて邠州管内観察使を務めた。間もなく、致仕した。哀宗が即位すると、旧臣を徴用し、尚書左丞として起用された。事を言うのは以前に及ばず、人望はかなり減じた。まもなく再び致仕して家に居り、ただ書物を写して子孫を教えることを事とし、汴城の東に園池を修築し、亭を築いて「静隠」と号した。時に侯摯らと共にその中で遊び詩を詠んだ。正大八年二月乙丑、嵩山の崇福宮で薨去した。享年六十九。初めて嵩山に遊んだ時、かつて「我が意はこの山を主としたい」と言った。果たしてここで終わった。

人となりは純正で真率、飾り立てることをせず、二度宰相の位に登ったが、ほとんど官に就いていないかのようであった。事に遇えばすぐに発言し、畏れ避けることがなく、毎度上(皇帝)の前で奏事する際、傍らの者は顔色を変えたが、行信は平然としていた。薨去の日には、平素甚だしく嫉妬していた者でさえも、「正しき人亡くなりぬ」と言った。初めて汴京に来た時、父の張暐は御史大夫で致仕していたが、まだ健在で、兄の張行簡は翰林学士承旨、行信は礼部尚書であり、諸子・諸甥は多く科挙に合格して官に就き、当世にこれほどのことはなかった。

賛に曰く、高汝礪は身を清慎に保ち、事柄に練達し、長く宰相の位に居た。大夫や士に軽蔑されたが、人主の寵遇は衰えなかった。張行信は志を磨き、直言して憚らず、言うことに避忌がなかった。しかし一旦政途に加わると、多く坎坷に遭い、その再び用いられた時には、事を論ずるのが以前にやや及ばなかった。まさか高汝礪を真に倣うべきものとしたのであろうか。宣宗が宋を伐ったのは、もとより万全の策ではなく、張行信は諫め、高汝礪は諫めず、また和議を阻んだ。胡沙虎の悪が未だ顕著でない時、張行信は二度上疏してこれを弾劾した。高汝礪は紇石烈執中(胡沙虎)と共に事に当たり、人はその党附を疑った。優劣はここに概ね見ることができる。