金史

列傳第四十四:張暐、賈益謙、劉炳、朮虎高琪、移剌塔不也

列傳第四十四:張暐、賈益謙、劉炳、朮虎高琪、移剌塔不也

張暐

原文張暐

張暐は、字を明仲といい、莒州日照県の人である。学問は広く通暁していた。正隆五年に進士に及第した。陳留主簿、淄州酒税副使に任じられ、税収が増加し余剰を生んだため、昌楽令に昇進した。永清令に改められ、尚書省令史を補い、太常博士に任じられ、国子助教を兼ねた。父の喪に服し、喪が明けると、山東東路転運副使に任じられ、中央に入って太常丞となり、左賛善大夫を兼ねた。章宗が原王に封ぜられた時、原王府文学を兼ねた。章宗が皇太孫に冊立されると、再び左賛善となり、左諭徳に転じ、太常丞を兼ね、宋国報諭使を充てられた。盱眙に至ると、宋人が宴会への出席を請うたが、張暐は言った。「先帝の御霊がまだ殯宮にあるので、できない。」また賜物を受ける際、舞踏の礼を行わず、宋人はその礼を知ることに感服した。使節から帰還すると、太常少卿に昇進し、起居注の編修を兼ねた。礼部郎中に改められ、起居注の編修は従前の通りであった。右諫議大夫に昇進し、礼部侍郎を兼ねた。

原文張暐,字明仲,莒州日照縣人。博學該通。登正隆五年進士。調陳留主簿、淄州酒稅副使,課增羨,遷昌樂令。改永清令,補尚書省令史,除太常博士,兼國子助教。丁父憂,服除,調山東東路轉運副使,入為太常丞,兼左贊善大夫。章宗封原王,兼原王府文學。章宗冊為皇太孫,複為左贊善,轉左諭德,兼太常丞,充宋國報諭使。至盱眙,宋人請赴宴,暐曰:「大行在殯,未可。」及受賜,不舞蹈,宋人服其知禮。使還,遷太常少卿,兼修起居注。改禮部郎中,修起居注如故。遷右諫議大夫,兼禮部侍郎。

明昌二年、太傅の徒単克寧が薨去した。章宗は自ら焼飯の儀を行おうとした。この時、孝懿皇后の梓宮がまだ殯宮にあった。張暐は上奏した。「聖なる慈愛により、勲臣を追念され、恩礼が盛大で厚いことは、誰もが感奮激励しない者はいません。太祖の時享でさえ、なお臨時に停止されるのです。もし大臣のために焼飯を行われるならば、礼として不安があります。今すでに恩旨が下され、聖意が極めて厚いことは、人々が皆知るところです。どうか典礼に従っていただければ、両全します。」章宗はこれに従った。上封事をした者が提刑司を廃止すべきと述べた。張暐は上疏して言った。「陛下が即位され、民の利に因り、法を改め制度を立てられたことは、おおよそ数十百条に及びます。提刑司の設置は、政事のうちで重要なものです。もし浮ついた議論によって動揺させられるならば、内外ともに信頼を得るものはありません。唐の開元年中、ある者が守令を選任し、採訪使を停止すべきと請うた時、姚崇が『十道の採訪使でさえまだ十分に適任者を得ていない。天下に三百余州あり、県はその数倍多い。どうして守令が皆その職に適うことができようか』と奏上しました。それならば提刑の任は、誠に廃止すべきではなく、その人を選んで用いることが、民衆の大きな利益、国家の長遠な計略です。」そこで漢の刺史六条を挙げて奏上した。上は言った。「卿の言は朕の意と合致する。」

原文明昌二年,太傅徒單克甯薨,章宗欲親為燒飯,是時,孝懿皇后梓宮在殯,暐奏:」仰惟聖慈,追念勳臣,恩禮隆厚,孰不感勸。太祖時享,尚且權停,若為大臣燒飯,禮有未安。今已降恩旨,聖意至厚,人皆知之,乞俯從典禮,則兩全矣。」章宗從之。上封事者言提刑司可罷,暐上疏曰:「陛下即位,因民所利,更法立制,無慮數十百條。提刑之設,政之大者,若為浮議所搖,則內外無所取信。唐開元中,或請選擇守令,停採訪使,姚崇奏'十道採訪猶未盡得人,天下三百餘州,縣多數倍,安得守令皆稱其職?'然則提刑之任,誠不可罷,擇其人而用之,生民之大利,國家之長策也。」因舉漢刺史六條以奏。上曰:「卿言與朕意合。」

礼部尚書に任ぜられた。孫即康が鎬王永中の事件を審理して帰還し奏上した。詔により再審することとなり、群臣が張暐と兵部侍郎の烏古論慶裔を推挙した。上は参知政事の馬琪に命じて張暐に諭させた。「百官が鎬王の事実を審査する者を推挙した。要はその人を屈辱的に抑圧せず、また国法を損なわないことだ。」上は宰臣に対して言った。「鎬王は永蹈よりも軽い。」馬琪は言った。「人臣に『将』はありません。」これによって永中の獄は決着した。霍王の従彝の母は早くに亡くなり、温妃の石抹氏が彼を養育した。明昌六年に温妃が薨去した。上は従彝の喪服について問うた。張暐は奏上した。「慈母には斉衰三年の服、桐の杖に布の冠が礼です。従彝は近親であり、至尊の圧降は臣下と異なります。埋葬以前は白布の衣に絹の頭巾を着用し、埋葬後はただ素服で喪期を終え、朝会には吉服に従うことをお願いします。」上はその奏上に従った。

原文拜禮部尚書。孫即康鞫治鎬王永中事,還奏,有詔複訊,群臣舉暐及兵部侍郎烏古論慶裔。上使參知政事馬琪諭暐曰:「百官舉閱實鎬王事,要勿屈抑其人,亦不可虧損國法。」上因謂宰臣曰:「鎬王視永蹈為輕。」馬琪曰:「人臣無將。」由是永中之獄決矣。霍王從彝母早死,溫妃石抹氏養之,明昌六年溫妃薨,上問從彝喪服。暐奏:「慈母服齊衰三年,桐杖布冠,禮也。從彝近親,至尊壓降與臣下不同,乞於未葬以前服白布衣絹巾,既葬止用素服終制,朝會從吉。」上從其奏。

承安元年八月壬子、上は張暐を内殿に召し出して問うた。「南郊での大祀は、今は費用が足りない。他年まで待つことはできるか。」張暐は言った。「陛下が即位されて今八年になりますが、大礼がまだ行われていません。早急に行うべきです。」上は言った。「北方がまだ平定しておらず、致斎の期間中に、予測できない奏報があったらどうするか。」答えて言った。「どうして予測して大礼を妨げることができましょう。今は黄河が平穏で年も豊かであり、まさにその時です。」上はさらに問うた。「僧道の三年ごとの試験で、八十人に一人を取るのは、少なすぎはしないか。」答えて言った。「この輩は浮食者であり、益なくして損があります。増やすべきではありません。」上は言った。「周の武帝、唐の武宗、後周の世宗はいずれも賢君であったが、その寿命は永くない。偶然とはいえ、何か原因があるようだ。」答えて言った。「三君は枉りを矯めることが過ぎました。今は毀除もせず、崇奉もしない、これが中を得ているのです。」この年、郊祀で上帝を祀った。

原文承安元年八月壬子,上召暐至內殿,問曰:「南郊大祀,今用度不給,俟他年可乎?」暐曰:「陛下即位於今八年,大禮未舉,宜亟行之。」上曰:「北方未寧,致齋之際,有不測奏報何如?」對曰:「豈可逆度而妨大禮。今河平歲豐,正其時也。」上複問曰:「僧道三年一試,八十而取一,不亦少乎?」對曰:「此輩浮食,無益有損,不宜滋益也。」上曰:「周武帝、唐武宗、後周世宗皆賢君,其壽不永,雖曰偶然,似亦有因也。」對曰:「三君矯枉太過。今不毀除、不崇奉,是為得中矣。」是歲,郊見上帝焉。

まもなく、翰林修撰の路鐸が胥持国を再任用すべきでないと論じ、それに付随して董師中が持国や丞相の襄の門を奔走したことに言及した。上は言った。「張暐父子は必ずやこのようではないだろう。」三年、御史大夫となったが、懇願して辞退したが、許されなかった。翌年、奏事が事実に合わない罪に坐し、一官を奪われ、職を解かれた。安武軍節度使として起用された。致仕すると、例により半俸が給されたが、長い間、張暐は再び請求せず、遂に止んだ。

原文頃之,翰林修撰路鐸論胥持國不可再用,因及董師中趨走持國及丞相襄之門,上曰:「張暐父子必不如是也。」三年,為御史大夫,懇辭,不許。明年,坐奏事不實,奪一官,解職。起為安武軍節度使。致仕,例給半俸,久之,暐不復請,遂止。

張暐は妻が亡くなって後は再婚せず、また妾も侍らせず、斎居して子の行簡と古今を講論し、諸孫はその傍らで課誦し、夜半に至ってやめるのを常とした。太常、礼部に二十余年仕え、古今の礼学に最も明るく、家法は士族の模範であった。子に行簡、行信があり、行信は独自に伝がある。

原文暐自妻卒後不復娶,亦無姬侍,齋居與子行簡講論古今,諸孫課誦其側,至夜分乃罷,以為常。曆太常,禮部二十餘年,最明古今禮學,家法為士族儀錶。子行簡、行信,行信自有傳。

子 行簡

原文子 行簡

行簡は字を敬甫という。聡明で悟りが早く、学問に努め、経史に精通していた。大定十九年に進士第一となり、応奉翰林文字に任ぜられた。母の喪に服し、益都に帰って葬り、門を閉ざして読書し、人々はその顔を見ることがなかった。喪が明けると、元の職に復帰した。章宗が即位すると、修撰に転じ、進読陳言文字を務め、太常博士を摂行した。夏国が使者を遣わして陳慰し、大行皇帝の霊殿で祭祀を行いたいと申し出た。行簡は言った。「彼らの陳慰は専ら祭祀ではないので、できない。」朝廷の議論で高麗に横賜の使者を遣わそうとした時、「先に報哀の使者を遣わしたが、彼らは些細な理由で妨害し、かつ侮りの言葉を吐いた。問い合わせて返答を待ってから、横賜しても遅くない。」徒単克寧はその言葉を是とし、深く器重した。翰林修撰に転じ、路伯達とともに進読陳言文字を務め、累進して礼部郎中となった。

原文行簡字敬甫。穎悟力學,淹貫經史。大定十九年進士第一,除應奉翰林文字。丁母憂,歸葬益都,杜門讀書,人莫見其面。服除,複任。章宗即位,轉修撰,進讀陳言文字,攝太常博士。夏國遣使陳慰,欲致祭大行靈殿。行簡曰:「彼陳慰非專祭,不可。」廷議遣使橫賜高麗,「比遣使報哀,彼以細故邀阻,且出嫚言,俟移問還報,橫賜未晚」。徒單克寧韙其言,深器重之。轉翰林修撰,與路伯達俱進讀陳言文字,累遷禮部郎中。

司天臺の劉道用が新暦を改進した。詔により学士院に命じて暦名を改定させた。行簡は奏上して再校測験を乞い、将来の月食に誤差がなければ、その後に名を賜うよう求めた。詔により翰林侍講学士の党懐英らに再校させた。懐英らが校定した道用の新暦は、明昌三年に閏月を置かず、即ち閏月を三月とした。二年十二月十四日に、金星と木星がともに危宿十三度にあったが、道用の暦では十三日として、一日の差があった。三年四月十六日の夜の月食は、時刻が異なっていた。道用は古今の記録を考証せず、事蹟に比べずして、すぐに上進したので、用いることができない。道用は徒一年の罪に当たり贖銅、長行の彭徽ら四人は各々杖八十で罷免された。

原文司天臺劉道用改進新曆,詔學士院更定曆名,行簡奏乞複校測驗,俟將來月食無差,然後賜名。詔翰林侍講學士党懷英等複校。懷英等校定道用新曆:明昌三年不置閏,即以閏月為三月;二年十二月十四日,金木星俱在危十三度,道用曆在十三日,差一日;三年四月十六日夜月食,時刻不同。道用不會考驗古今所記,比登事蹟,輒以上進,不可用。道用當徒一年收贖,長行彭徽等四人各杖八十罷去。

群臣がたびたび尊号を上るよう請うたが、章宗は従わず、四方に示すために詔書を下そうとした。行簡は奏上した。「往年、飢えた民が子を捨て、あるいは人に乞うて与えた。その後、詔書により官が収贖したが、その父母の衣食がやや満たされると、すぐに識別して認め、官もまた彼らに裁断して与えた。この以後、飢饉の年に道路に流離し、人は収養しようとせず、恣にやつれさせ、溝中で餓死させています。近代の災害に備える詔書を見ますに、皆『以後は再び取ってはならない』とあります。今どうかこれに依って施行してください。」上はその言葉を是とし、詔書の中でこれを行った。長い間、同修国史を兼ねた。礼部侍郎、提点司天臺に改められ、直学士となり、同修史は従前の通りであった。

原文群臣屢請上尊號,章宗不從,將下詔以示四方,行簡奏曰:「往年饑民棄子,或丐以與人,其後詔書官為收贖,或其父母衣食稍充,即識認,官亦斷與之。自此以後,饑歲流離道路,人不肯收養,肆為捐瘠,餓死溝中。伏見近代禦災詔書,皆曰'以後不得複取'今乞依此施行。」上是其言,詔書中行之。久之,兼同修國史。改禮部侍郎、提點司天臺,直學士,同修史如故。

行簡が言うには、「唐の制度では、僕射・宰相が任官の初日に、百官が一斉に列をなして祝賀し、宰相は階を降りて答拝した。我が国朝では、皇太子の元正・誕生日に、三師・三公・宰執以下が群官を率いて同班で拝賀し、皇太子は立って受け、再拝して答える。今、尚書省の宰執が任官の初日に、六品以下の官を別の一班として揖賀させ、宰執は座ったまま答揖し、左右司郎中などの五品官が廷揖すると、これも座って答える。臣が思うに、身を坐したまま挙手して答揖するのは、坐して受けるに近い。宰執が賀を受ける礼が、皇太子よりも重いのは、おそらく義に安んじない。別嫌明微は礼の大節である。伏して請う、宰執の任官初日には三品以下の官を同班で賀させ、宰執は起立し、三品官に対する儀式に従って通答揖すべきである。」と。上(章宗)は言った、「この事は何故早く弁正しなかったのか。もし都省が擅行したのであれば、卿の論ずる所は正しい。」行簡は答えて言った、「礼部はかつて古今の典礼を参酌し、儀式を擬定したが、省廷が従わず、すぐに改めて奏上した。」と。尚書省に議させたところ、遂にこれを用いた。宰執の任官初日に、三品以下の群官が通班で賀し、起立して答拝するのは、ここに始まる。

原文行簡言:「唐制,僕射、宰相上日,百官通班致賀,降階答拜。國朝皇太子元正、生日,三師、三公、宰執以下須群官同班拜賀,皇太子立受再答拜。今尚書省宰執上日,分六品以下別為一班揖賀,宰執坐答揖,左右司郎中五品官廷揖,亦坐答之。臣謂身坐舉手答揖,近於坐受也。宰執受賀,其禮乃重于皇太子,鞏于義未安。別嫌明微,禮之大節,伏請宰執上日令三品以下官同班賀,宰執起立,依見三品官儀式通答揖。」上曰:「此事何不早辨正之,如都省擅行,卿論之是矣。」行簡對曰:「禮部蓋嘗參酌古今典禮,擬定儀式,省廷不從,輒改以奏。」下尚書省議,遂用之。宰執上日,三品以下群官通班賀,起立答拜,自此始。

行簡が転対し、典故の学について論じ、太常博士の下に検閲官二員を置き、礼学に通じるが資歴の浅い者をこれに任じ、資歴を積んでから博士に遷すことを請うた。また言った、「今《国朝集礼》はあるが、食貨・官職・兵刑の沿革については成書が無い。会要を定めて、後世に示すことを請う。」と。承安五年、侍講学士に遷り、同修史・提点司天は従前の通りであった。

原文行簡轉對,因論典故之學,乞于太常博士之下置檢閱官二員,通禮學資淺者使為之,積資乃遷博士。又曰:「今雖有《國朝集禮》,至於食貨、官職、兵刑沿革,未有成書,乞定會要,以示無窮。」承安五年,遷侍講學士,同修史、提點司天如故。

泰和二年、宋主の誕生日副使となった。上は誕生日使の完顔かんがん瑭を召して戒めて言った、「卿は国境を越えたら酒を飲むな。何事も行簡の言うことを聞け。」と。行簡には言った、「宋人の行礼は、末節を好む。もし非があれば、皆正さねばならぬ。旧例にあるものは、行わねばならぬ。」と。上はまた言った、「以前の奉使者が淮河を渡る時、毎回中流で境界を分けて渡船を争ったと聞く。これは甚だ礼に非ず。卿は自ら舟人を戒め、かつ宋使に『両国は和好久しい、細故を争って大体を傷つけるべきではない』と告げ、丁寧に諭してこの意を悉くさせよ。」と。四年、詔して言った、「奏事の際には、必ず張行簡を常に左右に置け。」と。

原文泰和二年,為宋主生日副使。上召生日使完顏瑭戒之曰:「卿過界勿飲酒,每事聽于行簡。」謂行簡曰:「宋人行禮,好事末節,苟有非是,皆須正之,舊例所有,不可不至。」上複曰:「頗聞前奉使者過淮,每至中流,即以分界爭渡船,此殊非禮。卿自戒舟人,且語宋使曰:'兩國和好久矣,不宜爭細故傷大體。'丁寧諭之,使悉此意也。」四年,詔曰:「每奏事之際,須令張行簡常在左右。」

五年、群臣が再び尊号を上ることを請うたが、上は許さず、行簡に批答を作らせる詔を下し、ついで行簡に宋の范祖禹が『唐鑑』で尊号の事を論じたことを問うた。行簡は答えて言った、「司馬光もかつて尊号の事を諫めたが、祖禹の言葉の深く至るには及ばない。臣子が生きて君父に諡するのは、頗る惨切に似ているというのである。」と。上は言った、「卿は祖禹の意を用いて答えよ。なお太祖には尊号があったが、太宗は嘗て受けなかったと付け加えよ。」と。行簡は対偶に拘らず、祖禹を引いて微かにその意を示すことを請うた。従われた。その文は深雅で、代言の体をよく得ていた。

原文五年,群臣複請上尊號,上不許,詔行簡作批答,因問行簡宋范祖禹作《唐鑒》論尊號事。行簡對曰:「司馬光亦嘗諫尊號事,不若祖禹之詞深至,以謂臣子生諡君父,頗似慘切。」上曰:「卿用祖禹意答之,仍曰太祖雖有尊號,太宗未嘗受也。」行簡乞不拘對偶,引祖禹以微見其意。從之。其文深雅,甚得代言之體。

順天軍節度使に改めた。上は行簡に言った、「卿は未だ治民を経験していない。今保州に至れば、民の情偽は到底臆測し難い。如何に治めればよいか。」と。対えて言った、「臣は法令を奉行し、敢えて違失せず、獄訟の事は情を以て察し、公吏を鈐制し、豪猾を禁抑し、鎮静を務め、万が一にも及ぶことを期します。」と。上は言った、「在任半年或いは一年で、得た利害を上奏せよ。」と。行簡が保州に到ると、上書して言った、「近来、官田を括って軍に給することを定めたが、また別に給することを告げる者がおり、その告げに従っているので、今に至るも止まない。名は官田といえども、実は民から取って与えるのであり、彼を奪って此に与えるのは、徒らに争端を開くのみである。臣の管轄では既に深沢県の地三百余頃を撥付したが、また水占・沙堿の地が三分の二を占めると告げる。もし悉く従えば、いつ定められよう。臣は月日を限り、再告を許さぬ方が便宜であると考える。」と。尚書省に議させたところ、奏請して言った、「もし実に水占・河塌で耕作不能の地があれば、本路及び運司の佐官が按視し、尚書省が按察司に下して再び同様にさせ、その後改めて撥付すべきである。もし沙堿で瘠薄な地は、既に撥付したものを基準とすべきである。」と。制して言った、「可。」と。

原文改順天軍節度使。上謂行簡曰:「卿未更治民,今至保州,民之情偽,卒難臆度,如何治之則可?」對曰:「臣奉行法令,不敢違失,獄訟之事,以情察之,鈐制公吏,禁抑豪猾,以鎮靜為務,庶幾萬分之一。」上曰:「在任半歲或一年,所得利害上之。」行簡到保州,上書曰:「比者括官田給軍,既一定矣,有告欲別給者,輒從其告,至今未已。名曰官田,實取之民以與之,奪彼與此,徒啟爭端。臣所管已撥深澤縣地三百餘頃,複告水占沙堿者三分之二,若悉從之,何時可定。臣謂當限以月日,不許再告為便。」下尚書省議,奏請:「如實有水占河塌,不可耕種,本路及運司佐官按視,尚書省下按察司複同,然後改撥。若沙堿瘠薄,當准已撥為定。」制曰:「可。」

六年、礼部尚書に召され、侍講・同修国史を兼ねた。秘書監が『太一新暦』を進めたので、詔して行簡に校勘させた。七年、上は中使の馮賢童を遣わし、実封の御札を行簡に賜って言った、「朕は鎬王・鄭王の二王が誤って天常を干し、自らその憂いを招いたことを思う。郊野に槁葬し、多年を経ている。朕は甚だ悼む。前の爵位を追復し、礼を備えて改葬したい。卿は唐の貞観年間に隠太子・巣剌王を追贈した故事、並びに前代の故事を詳しく閲し、密封して奏聞せよ。」と。また言った、「石古乃に威州で地を選ばせて営葬させ、歳時に祭奠し、兼ねて衛王の諸子の中から一人を立てて鄭王の後とし、その祭祀を謹ませたい。この事を行えば、理として詔を降すべきである。卿は詔文の大意を草し、一通り封じて進上せよ。」と。行簡は漢の淮南厲王劉長・楚王劉英、唐の隠太子建成・巣剌王元吉・譙王重福の故事を具えて奏し、併せて詔草を進めた。遂に施行された。累遷して太子太保・翰林学士承旨となり、尚書・修史は従前の通りであった。

原文六年,召為禮部尚書,兼侍講、同修國史。秘書監進《太一新曆》,詔行簡校之。七年,上遣中使馮賢童以實封禦紮賜行簡曰:「朕念鎬、鄭二王誤幹天常,自貽伊戚。槁葬郊野,多歷年所,朕甚悼焉。欲追複前爵,備禮改葬,卿可詳閱唐貞觀追贈隱、巢,並前代故事,密封以聞。」又曰:「欲使石古乃於威州擇地營葬,歲時祭奠,兼命衛王諸子中立一人為鄭王后,謹其祭祀。此事既行,理須降詔,卿草詔文大意,一就封進。」行簡乃具漢淮南厲王長、楚王英、唐隱太子建成、巢剌王元吉、譙王重福故事為奏,並進詔草,遂施行焉。累遷太子太保、翰林學士承旨,尚書、修史如故。

貞祐初年、太子太傅に転じ、議和の事について上書して論じた。その概略は、「東海郡候(衛紹王)が嘗て約和を遣わしたが、細故を較計して遷延し決しなかった。今都城危急である。どうして拒絶できようか。臣は願わくば更に聖慮を留め、荒を包み垢を含んで、生霊を救われんことを。或いは遼・宋が敵国として相対し、歳ごとに幣帛を奉ずる如く、或いは二三年ごとに継ぐように。忠実で弁捷なる人を選び、往ってこれを議させれば、ほぼ成るものがあり、患いを紓くことができましょう。」と。この時、百官の議する者には異同があったが、大概は和親を主としていた。荘献太子の葬後、宮師官を置かず、承旨を二品に昇格して行簡を寵し、兼職は従前の通りであった。

原文貞祐初,轉太子太傅,上書論議和事,其略曰:「東海郡候嘗遣約和,較計細故,遷延不決。今都城危急,豈可拒絕。臣願更留聖慮,包荒含垢,以救生靈。或如遼、宋相為敵國,歲奉幣帛,或二三年以繼。選忠實辨捷之人,往與議之,庶幾有成,可以紓患。」是時,百官議者,雖有異同,大概以和親為主焉。莊獻太子葬後,不置宮師官,升承旨為二品,以寵行簡,兼職如故。

三年七月、朝廷が防秋の兵械を備えるに当たり、内外の職官で丁憂・致仕の者にも、皆弓箭を納めさせた。行簡が上書して言った、「弓箭は全ての者が持つ物ではない。清貧の家や中下の監当、丁憂・致仕の者に、どうして所謂如法の軍器があろうか。今、軍期を以て縛り、弊を補い壞を修めて応命を求めるだけでは、倉卒に製造するのと何が異なろうか。もし随州郡及び猛安もうあん謀克ぼうこくの人戸から拘括し、その佳いものを選んで買い、不足分は職官にその買価を輸納させれば、おそらく擾れることなく事を辦することができましょう。」と。左丞相の僕散端・平章政事の高琪・盡忠・右丞の賈益謙は皆言った、「丁憂・致仕の者はこれを免ずべきである。」と。権参政の烏古論德升は言った、「職官は久しく爵祿を享けてきた。軍興以来、一寸の補いも無かった。況や事が既に行われてまた改めるのは、天下何を以て信を取れようか。」と。この議により、丁憂・致仕の官は結局免ぜられた。この年、卒去した。銀青栄禄大夫を贈られ、諡して文正といった。

原文三年七月,朝廷備防秋兵械,令內外職官不以丁憂致仕,皆納弓箭。行簡上書曰:「弓箭非通有之物,其清貧之家及中下監當,丁憂致仕,安有所謂如法軍器。今繩以軍期,補弊修壞,以求應命而已,與倉猝製造何以異哉。若於隨州郡及猛安謀克人戶拘括,擇其佳者買之,不足則令職輸所買之價,庶不擾而事可辦。」左丞相僕散端、平章政事高琪、盡忠、右丞賈益謙皆曰:「丁憂致仕者可以免此。」權參政烏古論德升曰:「職官久享爵祿,軍興以來,曾無寸補,況事已行而複改,天下何所取信。」是議也,丁憂致仕官竟得免。是歲,卒,贈銀青榮祿大夫,諡文正。

行簡は端愨で慎密であり、人主に知られた。初めて翰林に入ってから、太常・礼部に至るまで、終身貢挙を典し、縉紳はこれを栄とした。弟の行信と数十年同居し、人に間言無かった。著した文章十五巻、『礼例纂』一百二十巻、会同・朝献・禘佩・喪葬について皆記録があり、及び『清台』、『皇華』、『戒厳』、『為善』、『自公』等の記があり、家に蔵された。

原文行簡端愨慎密,為人主所知。自初入翰林,至太常、禮部,典貢舉終身,縉紳以為榮。與弟行信同居數十年,人無間言。所著文章十五卷,《禮例纂》一百二十卷,會同、朝獻、禘佩、喪葬,皆有記錄,及《清台》,《皇華》、《戒嚴》、《為善》、《自公》等記,藏於家。

賛して言う、張暐・行簡は代々礼官となり、代々礼学を習った。その礼を行うや、家庭に行われ、朝廷で講じられ、隣国に施用されて、中度ならざるは無かった。古より官には世掌するものがあり、学には専門がある。金の諸儒臣の中で、張氏父子のみがほぼ古に愧じないと言えようか。

原文贊曰:張暐、行簡世為禮官,世習禮學。其為禮也,行於家庭,講於朝廷,施用於鄰國,無不中度。古者官有世掌,學有專門,金諸儒臣,唯張氏父子庶幾無愧於古乎。

賈益謙

原文賈益謙

賈益謙、字は彦亨、沃州の人である。本名は守謙であったが、哀宗の諱いみなを避けて改めた。大定十年に詞賦の進士となり、州郡に歴任し、能吏として称えられた。明昌年間、尚書省令史として入朝し、累進して左司郎中となった。章宗がこれを諭して言うには、「汝は知除よりこの職に至るまで、左司の事に熟練せざるはない。およそ百官の行止・資歴は固より照勘すべきであり、誤謬を生ぜしめるな。もし武庫署直長の移刺郝が平定州軍事判官より召されて典輿副轄となり、在職わずか五月にして門山県簿尉に降授された。朕が比来貼黄を閲覧するに、行止はともに一十三月と書き記されている。行止すらかくの如く失実ならば、選法をいかんせん。これは汝が心を用いざるが故に然るのである。今しばらく知除掾を杖罰するが、汝は再びこれを犯すな」。

原文賈益謙,字彥亨,沃州人也,本名守謙,避哀宗諱改焉。大定十年詞賦進士,曆仕州郡,以能稱。明昌間,入為尚書省令史,累遷左司郎中。章宗諭之曰:「汝自知除至居是職,左司事不為不練,凡百官行止、資歷固宜照勘,勿使差繆。若武庫署直長移刺郝自平定州軍事判官召為典輿副轄,在職才五月,降授門山縣簿尉。朕比閱貼黃,行止乃俱書作一十三月,行止尚如此失實,其如選法何?蓋是汝不用心致然爾。今姑杖知除掾,汝勿複犯之。」

五年、右諫議大夫となり、上言した。「提刑司の官は監察を派遣して体訪する必要はなく、その任内の行いを根拠とし、その能否を考課して昇黜すべきである」。上は言う。「卿の言は何か見るところがあるのか」。守謙は対えて言う。「提刑官がもし不称職ならば、衆人の知るところであり、かつその職は監察と同等である。臣はこの故に言うのである」。上は嘉納した。この年の夏、上は景明宮に幸して清暑せんとし、守謙は連続して上疏し、これを極諫した。上は後閣に御し、守謙を召し入れて対問し、その旨に適うとして、兼尚書吏部侍郎に進めた。時に鎬王は疑忌により獄に下され、上は甚だ怒り、朝臣に敢えて言う者なし。守謙は上章してその不可を論じ、言は極めて懇切であった。上はこれを諭して言う。「汝が言うには諸王は皆覬心あり、その門に遊ぶ者に横議なきにあらずと。これは何たる言葉ぞ、固より汝を罪すべきである。汝が前に事を言うにも当たる所ありし故に、免ずる」。既にして鎬王の事を議するに上意に違うあり、解職し、官を二階削る。承安元年七月、寧化州刺史に降格する。五年八月、山東路按察使に改め、河北西路転運使に転ず。泰和三年四月、御史中丞として召される。四年三月、定武軍節度使として出る。

原文五年,為右諫議大夫,上言:「提刑司官不須遣監察體訪,宜據其任內行事,考其能否而升黜之。」上曰:「卿之言其有所見乎?」守謙對曰:「提刑官若不稱職,眾所共知,且其職與監察等,臣是故言之。」上嘉納焉。是年夏,上將幸景明宮清暑,守謙連上疏,極諫之。上禦後閣,召守謙入對,稱旨。進兼尚書吏部侍郎。時鎬王以疑忌下獄,上怒甚,朝臣無敢言者。守謙上章論其不可,言極懇切。上諭之曰:「汝言諸王皆有覬心,而遊其門者不無橫議。此何等語,固當罪汝。以汝前言事亦有當處,故免。」既而以議鎬王事有違上意,解職,削官二階。承安元年七月,降為甯化州刺史。五年八月,改為山東路按察使,轉河北西路轉運使。泰和三年四月,召為禦史中丞。四年三月,出為定武軍節度使。

八年六月、再び御史中丞となる。八月、吏部尚書に改める。九月、詔して守謙ら十三員を諸路に分遣し、当該路の按察司官一名とともに民戸の物力を推排せしむ。上は香閣に召見し、これを諭して言う。「朕は卿らを選びて随路に推排せしむ。推収の外、新強・銷乏の戸は、衆を集めて推唱するといえども、銷乏の者は銷し尽くさず、例えば一戸元の物力三百貫、今蠲減二百五十貫しても、なお当たることができざるが如く。新強の者は添え尽くさず、気力を量り存す、例えば一戸に三百貫を添えるに止めて二百貫を添えるの類。卿らは各々心を用いるべし。百姓が賦役に応ずるは、十年の間、利害小さからず。もし委任に称せざれば、治罪軽からざるべし」。まもなく済南府知事として出、河中に移鎮する。大安末、参知政事を拝す。貞祐二年二月、河東南路安撫使に改め、まもなく彰徳府知事となる。

原文八年六月,複為禦史中丞。八月,改吏部尚書。九月,詔守謙等一十三員分詣諸路,與本路按察司官一員同推排民戶物力。上召見於香閣,諭之曰:「朕選卿等隨路推排,除推收外,其新強、銷乏戶,雖集眾推唱,然銷乏者勿銷不盡,如一戶元物力三百貫,今蠲減二百五十貫,猶有不能當。新強者勿添盡,量存氣力,如一戶添三百貫而止添二百貫之類。卿等宜各用心。百姓應當賦役,十年之間,利害非細。苟不稱所委,治罪當不輕也。」尋出知濟南府,移鎮河中。大安末,拜參知政事。貞祐二年二月,改河東南路安撫使,俄知彰德府。

三年、尚書省右丞として召される。時に宣宗が初めて汴梁に遷都せんとし、益謙は乃ち建言する。「汴の形勢は、ただ大河を恃むのみ。今、河朔は兵を受け、群盗並び起こる。宜しく河禁を厳にして不虞に備え、凡そ北より来たりて公憑なき者は、渡るを聴くべからず」。この時、河北の民、河南に遷避する者甚だ衆し。侍御史劉無規が上言する。「僑戸は土民と均しく差役に応ずべし」。上はこれを留中し、自らその意を以て宰臣に問う。丞相の端・平章の尽忠は便りと為す。益謙は言う。「僑戸が役に応ずるは、甚だ計に非ず。蓋し河北の人戸は本より兵を避けて来たるものであり、兵稍々息めば即ち帰るであろう。今、旅寓倉皇の際、以て生くるところなく、もしまた地著者とともに供億に応ずれば、必ず騒動して安居できぬであろう。これ主上の流亡を矜恤する意であろうか」。上は甚だ嘉賞し、言う。「これは朕の意に非ず」。因って元規の章疏を示す。三年八月、尚書左丞に進拝する。四年正月、致仕し、鄭州に居住す。

原文三年,召為尚書省右丞。會宣宗始遷汴梁,益謙乃建言:「汴之形勢,惟恃大河。今河朔受兵,群盜並起,宜嚴河禁以備不虞,凡自北來而無公憑者,勿聽渡。」是時,河北民遷避河南者甚眾。侍御史劉無規上言:「僑戶宜與土民均應差役。」上留中,而自以其意問宰臣。丞相端、平章盡忠以為便。益謙曰:「僑戶應役,甚非計也。蓋河北人戶本避兵而來,兵稍息即歸矣。今旅寓倉皇之際,無以為生,若又與地著者並應供憶,必騷動不能安居矣。豈主上矜恤流亡之意乎。」上甚嘉賞,曰:「此非朕意也。」因出元規章示之。三年八月,進拜尚書左丞。四年正月,致仕,居鄭州。

興定五年正月、尚書省が奏す。「『章宗実録』は既に進呈せり。衛王の事蹟もまた『海陵庶人実録』に依り、纂集成書して後世に示すべし」。制して可とする。初め、胡沙虎が衛王を弑し、宣宗を立てしとき、一時の朝臣は皆衛王は道を失い、天命これ絶つ、虎は実に罪なく、かつ推戴の功ありと謂い、独り張行信が抗章してこれを言うも、報いられず、挙朝遂にこれを諱と為す。ここに至り、史官は益謙が嘗て衛王に事えしを以て、その事を知るべきとし、乃ち編修一人を遣わして鄭に就きこれを訪う。益謙はその旨を知り、これに謂いて言う。「衛王を知るは我に如くはなし。然れども我聞く、海陵弑され世宗立つ、大定三十年、近習能く海陵の蟄悪を暴く者は、輒ち美仕を得たり。故に当時の史官が実録を修するに多く附会せり。衛王の人となりは勤倹にして、名器を慎み惜しみ、その行事を較ぶれば、中材及びがたきこと多し。我は此れを知るのみ。設い我が言を飾りて以てその罪を実とせんと欲するも、我また何ぞ余年を惜しまん」。朝議これに偉ぶ。正大三年、年八十にして薨ず。三子:賢卿・頤卿・翔卿、皆門資を以て仕に入る。

原文興定五年正月,尚書省奏:「《章宗實錄》已進呈,衛王事蹟亦宜依《海陵庶人實錄》,纂集成書,以示後世。」制可。初,胡沙虎弑衛王,立宣宗,一時朝臣皆謂衛王失道,天命絕之,虎實無罪,且有推戴之功,獨張行信抗章言之,不報,舉朝遂以為諱。及是,史官謂益謙嘗事衛王,宜知其事,乃遣編修一人就鄭訪之。益謙知其旨,謂之曰:「知衛王莫如我。然我聞海陵被弑而世宗立,大定三十年,禁近能暴海陵蟄惡者,輒得美仕,故當時史官修實錄多所附會。衛王為人勤儉,慎惜名器,較其行事,中材不及者多矣。吾知此而已,設欲飾吾言以實其罪,吾亦何惜餘年。」朝議偉之。正大三年,年八十,薨。三子:賢卿、頤卿、翔卿,皆以門資入仕。

賛に曰く、賈益謙の衛紹王に対するは、事君の義を尽くすと謂うべし。海陵の事に、君子憾み無きにしも非ず。夫れ正隆の悪を為す、その大なる者を暴くは斯れ亦足る。中綍の醜は、史絶えず書す。誠に益謙の言う如くならば、則ち史も亦富貴を取るの道と為し得るか。噫、その甚だしきや。『伝』に曰く、「廃する者有らざれば、何を以てか興さん」。

原文贊曰:賈益謙于衛紹王,可謂盡事君之義矣。海陵之事,君子不無憾焉。夫正隆之為惡,暴其大者斯亦足矣。中綍之醜,史不絕書,誠如益謙所言,則史亦可為取富貴之道乎?嘻,其甚矣。《傳》曰:「不有廢者,其何以興!」

劉炳

原文劉炳

劉炳、葛城の人。書を読む毎に、前古の忠臣烈士が国家のために策を画し万世の安を慮るを見ては、輒ち歎息し景慕す。貞祐三年、進士第に中り、即日に上書して便宜十事を条陳す:

原文劉炳,葛城人。每讀書,見前古忠臣烈士為國家畫策慮萬世安,輒歎息景慕。貞祐三年,中進士第,即日上書條便宜十事:

その一に曰く、諸王を任じて以て社稷を鎮めしむ。臣が往年を観るに、王師は屡戦屡衄し、率ね皆自ら敗る。承平日久しく、人は兵を知らず、将帥は才なく、既に靖難の謀無く、又効死の節無し。外には持重の名を托し、内には自安の計を為す。驍果を択びて以て自らに随い、疲懦を委ねて以て陣に臨む。陣勢稍々動けば、塵を望んで先ず奔り、士卒これに従いて大いに潰る。朝廷は詰問を加えず、輒ち兵を益す。是を以て法度日々紊れ、倉庾日々虚しく、閭井日々凋み、土地日々蹙まる。大駕の南巡よりこのかた、遠近相望み、益々固志無し。河北に任ずる吏は不幸と為し、逡巡退避し、これに敢えて前る者莫し。昔、唐の天宝の末、洛陽・潼関相次いで失守し、皇輿夜に出ず。向かって太子の霊武に回趨し、諸将に率先せざりせば、則ち西行の士は終に剣南に老いせん。臣願わくは陛下、諸王の英明なる者を択び、天下の兵を総監せしめ、北に重鎮に駐し、檄を遠近に移し、軍政を以て戒めしめよ。則ち四方風を聞く者は皆自ら奮い、前に死して避けざらん。折衝厭難、これより大なるは無し。夫人の情は気を以て激すべく、力を以て使うべからず。一卒先登すれば、則ち万夫斉奮す。これ古人が身教を先にし威令を後にする所以なり。

原文其一曰,任諸王以鎮社稷。臣觀往歲,王師屢戰屢衄,率皆自敗。承平日久,人不知兵,將帥非才,既無靖難之謀,又無效死之節,外托持重之名,而內為自安之計,擇驍果以自隨,委疲懦以臨陣,陣勢稍動,望塵先奔,士卒從而大潰。朝廷不加詰問,輒為益兵。是以法度日紊,倉庾日虛,閭井日凋,土地日蹙。自大駕南巡,遠近相望,益無固志。吏任河北者以為不幸,逡巡退避,莫之敢前。昔唐天寶之末,洛陽、潼關相次失守,皇輿夜出,向非太子回趨靈武,率先諸將,則西行之士當終老於劍南矣。臣願陛下擇諸王之英明者,總監天下之兵,北駐重鎮,移檄遠近,戒以軍政。則四方聞風者皆將自奮,前死不避。折沖厭難,無大於此。夫人情可以氣激不可以力使,一卒先登,則萬夫齊奮,此古人所以先身教而後威令也。

第二に曰く、人心を結び以て基本を固くす。天子の民を恵むは、施与に在らず、その患いを同じくするを除き、利する所に因りてこれを利するに在り。今艱危の後は、恵み為すに易く、その安からんと欲するに因りて慰撫すれば、則ち忠誠親上の心は、当に前日に益々加わるべし。臣はその賦役を寛にし、その号令を信じ、凡そ事便ならざる者は一切停罷せんことを願う。時に重臣を遣わして郡県を行按せしめ、耆老を延見し、その疾苦を問い、廉正を選び、貪残を黜し、貧窮を拯い、孤独を恤い、還定を労来すれば、則ち忠を効し義に徇うて、二志無かるべし。故に曰く、安民は以て義を行うべく、危民は以て乱を為し易し、惟だ陛下留神せよ。

原文二曰,結人心以固基本。天子惠人,不在施予,在於除其同患,因所利而利之。今艱危之後,易於為惠,因其欲安而慰撫之,則忠誠親上之心,當益加於前日。臣願寬其賦役,信其號令,凡事不便者一切停罷。時遣重臣按行郡縣,延見耆老,問其疾苦,選廉正,黜貪殘,拯貧窮,恤孤獨,勞來還定,則效忠徇義,無有二志矣。故曰安民可與行義,危民易與為亂,惟陛下留神。

第三に曰く、人材を広く収めて以て国用に備う。歳寒に備うる者は必ず貂狐を求め、長途に適う者は必ず騏驥を畜う。河南・陝西は、車駕臨幸の地、当に大いに士民の心を慰むる有るべし。その操行民望有る者あらば、稍々擢用し、平居は以て風俗を励まし、緩急は以て駆策に備うべし。新恩を昭示し、民の観聴を易え、陰に天下の心を繋ぐなり。

原文三曰,廣收人材以備國用。備歲寒者必求貂狐,適長途者必畜騏驥。河南、陝西,車駕臨幸,當有以大慰士民之心。其有操行為民望者,稍擢用之,平居可以勵風俗,緩急可以備驅策。昭示新恩,易民觀聽,陰系天下之心也。

第四に曰く、守令を選び以て百姓を安んず。郡守・県令は、天子の恃み以て治と為し、百姓の依り以て命と為す者なり。今衆庶已に弊し、官吏庸暗にして、安利の才無く、貪暴昏乱、奸と市を為し、公には斗粟の賦有り、私には万錢の求有り、遠近囂囂として、控告する所無し。今より才器人に過ぎ、政跡卓異なる者に非ざれば、この職に使うべからず。親勲故旧は、望隆資高と雖も、長吏と為すべからず。則ち賢者は殊用を喜び、益々その能を尽くし、不肖者は愧慕して自ら励まんと思わん。

原文四曰,選守令以安百姓。郡守、縣令,天子所恃以為治,百姓所依以為命者也。今眾庶已弊,官吏庸暗,無安利之才,貪暴昏亂,與奸為市,公有鬥粟之賦,私有萬錢之求,遠近囂囂,無所控告。自今非才器過人,政跡卓異者,不可使在此職。親勳故舊,雖望隆資高,不可使為長吏。則賢者喜於殊用,益盡其能,不肖者愧慕而思自勵矣。

第五に曰く、忠義を褒めて以て臣節を励ます。忠義の士は、身を奮い命を効し、力尽き城破れて少も屈せず。事定まるの後、有司略も省みず、職を棄つる者は顧みて恩貸を以てし、事に死する者は反って録せられず、天下何を慕憚して、自安の計を為さざらんや。臣と為る者に皆殺身の益無きを知らしめ、難に臨みて苟も免るるを得ば、甚だ国家の利に非ざるなり。

原文五曰,褒忠義以勵臣節。忠義之士,奮身效命,力盡城破而不少屈。事定之後,有司略不加省,棄職者顧以恩貸,死事者反不見錄,天下何所慕憚,而不為自安之計邪?使為臣者皆知殺身之無益,臨難可以苟免,甚非國家之利也。

第六に曰く、農を務め本を力めて以て蓄積を広む。これ最強兵富民の要術、当今の急務なり。

原文六曰,務農力本以廣蓄積。此最強兵富民之要術,當今之急務也。

第七に曰く、節儉を崇めて以て財用を省く。今海内虚耗し、田疇荒蕪す、奢を廃し儉に従い以て生民の急を紡ぐは、これに先んずる無し。

原文七曰,崇節儉以省財用。今海內虛耗,田疇荒蕪,廢奢從儉以紓生民之急,無先於此者。

第八に曰く、冗食を去り以て軍費を助く。兵革の後、人物凋喪すること十に四五、郡県の官吏署置旧の如し、甚だ権を審にし弊を救うの道に非ず。

原文八曰,去冗食以助軍費。兵革之後,人物凋喪者十四五,郡縣官吏署置如故,甚非審權救弊之道。

第九に曰く、軍政を修めて以て守戦を習わす。古より名将敵を料り勝を制し、士卒を訓練す、故に湯に赴き火に蹈ますことを得、百戦殆うからず。孔子曰く、「教えざる民を以て戦うは、これを棄つと謂う。」兵法に曰く、「器械利あらざれば、その卒を以て敵に与うるなり。卒服習せざれば、その将を以て敵に与うるなり。将兵を知らざれば、その主を以て敵に与うるなり。主将を択ばざれば、その国を以て敵に与うるなり。」慎まざるべけんや。

原文九曰,修軍政以習守戰。自古名將料敵制勝,訓練士卒,故可使赴湯蹈火,百戰不殆。孔子曰:「以不教民戰,是謂棄之。」兵法曰:「器械不利,以其卒與敵也。卒不服習,以其將與敵也。將不知兵,以其主與敵也。主不擇將,以其國與敵也。」可不慎哉。

第十に曰く、城池を修めて以て守禦に備う。国家を保障するは、惟だ都城と附近数郡のみ。北地守らざれば、これ河朔無きなり、黄河豈に恃むに足らんや。

原文十曰,修城池以備守禦。保障國家,惟都城與附近數郡耳。北地不守,是無河朔矣,黃河豈足恃哉。

書奏す、宣宗之を異とす。復たこれを試みて曰く、「河北の城邑、何の術を以てか保つべし。兵民雑居、何の道を以てか和すべし。鈔法如何にして通ずべし。物価如何にして平らかならん。」炳対えて大略、守将を審かに択べば則ち城邑固く、兵民を侵さざれば則ち兵民和し、斂散相権すれば則ち鈔法通じ、農を勧め賦を薄くすれば則ち物価平らかなるを以てとす。宣宗その言を異とすと雖も、用いる能わず、但だ御史台令史を補うのみ。

原文書奏,宣宗異焉。復試之曰:「河北城邑,何術可保?兵民雜居,何道可和?鈔法如何而通?物價如何而平?」炳對大略以審擇守將則城邑固,兵不侵民則兵民和,斂散相權則鈔法通,勸農薄賦則物價平。宣宗雖異其言,而不能用,但補禦史台令史而已。

論じて曰く、劉炳能く言うの士と謂うべし。宣宗召試し既に対うるを失わず、而も一台の令史を以てこれを賞す、以て士気を倡うるに足らんや。

原文論曰:劉炳可謂能言之士矣。宣宗召試既不失對,而以一台令史賞之,足以倡士氣乎?

朮虎高琪

原文朮虎高琪

朮虎高琪、或いは高乞と作す、西北路猛安の人。大定二十七年護衛に充て、十人長に転じ、出職して河間都総管判官、召されて武衛軍鈐轄と為り、宿直将軍に遷り、建州刺史を除され、同知臨洮府事に改む。泰和六年、宋を伐ち、彰化軍節度副使把回海と共に鞏州諸鎮を備え、宋兵万余り鞏州轆轤嶺より入る、高琪奮撃してこれを破り、銀百両・重彩十端を賜う。青宜可内附し、詔して知府事石抹仲溫に高琪と俱に出界し、青宜可と兵を合して進取せしむ。詔して高琪に曰く、「汝年尚少、近く聞く宋人と力戦奮勇すと、朕甚だこれを嘉す。今仲溫と同行して出界す、もしその功を成さば、高爵厚禄、朕吝しまざるなり。」

原文朮虎高琪,或作高乞,西北路猛安人。大定二十七年充護衛,轉十人長,出職河間都總管判官,召為武衛軍鈐轄,遷宿直將軍,除建州刺史,改同知臨洮府事。泰和六年,伐宋,與彰化軍節度副使把回海備鞏州諸鎮,宋兵萬余自鞏州轆轤嶺入,高琪奮擊破之,賜銀百兩、重彩十端。青宜可內附,詔知府事石抹仲溫與高琪俱出界,與青宜可合兵進取。詔高琪曰:「汝年尚少,近聞與宋人力戰奮勇,朕甚嘉之。今與仲溫同行出界,如其成功,高爵厚祿,朕不吝也。」

詔して呉曦を蜀国王に封じ、高琪を封冊使とす。詔して戒諭して曰く、「卿書を読み事を解す、蜀人も亦威名を識る、財賄を以て心を動かし、大国の体を失うこと無かれ。もし或いは随去の奉職礼に違い事を生ずる有らば、卿喬宇と体察して以て聞かしめよ。」使い還り、都統を加え、平南虎威将軍と号す。

原文詔封吳曦為蜀國王,高琪為封冊使。詔戒諭曰:「卿讀書解事,蜀人亦識威名,勿以財賄動心,失大國體。如或隨去奉職有違禮生事,卿與喬宇體察以聞。」使還,加都統,號平南虎威將軍。

宋の安丙李孝義を遣わし歩騎三万を率いて秦州を攻め、先ず万人を以て皁角堡を囲み、高琪之に赴く。宋兵山谷に陣を列ね、武車を左右翼と為し、弩をその下に伏せて来り逆戦す。既に合し、宋兵陽に却く。高琪軍宋兵の伏するを見て前進を得ず、退き陣を整う、宋兵復た来る。凡そ五戦、宋兵益々堅く、以て志を得べからず。高琪騎を分けて二と為し、出づる者は戦えば則ち止まる者は俟ち、止まる者は出づれば則ち戦う者は還り、還る者は復た出で以て更む。久しくして、蒲察ほさつ桃思剌を遣わし潜かに兵を上山せしめ、山より馳せ下り合撃し、大いに宋兵を破り、首四千級を斬り、数百人を生擒し、李孝義乃ち囲みを解き去る。宋兵三千馬連寨に致り以て湫池を窺う、夾谷福寿を遣わし撃ち走らしめ、七百余級を斬る。

原文宋安丙遣李孝義率步騎三萬攻秦州,先以萬人圍皁角堡,高琪赴之。宋兵列陣山谷,以武車為左右翼,伏弩其下來逆戰。既合,宋兵陽卻。高琪軍見宋兵伏不得前,退整陣,宋兵複來。凡五戰,宋兵益堅,不可以得志。高琪分騎為二,出者戰則止者俟,止者出則戰者還,還者複出以更。久之,遣蒲察桃思剌潛兵上山,自山馳下合擊,大破宋兵,斬首四千級,生擒數百人,李孝義乃解圍去。宋兵三千致馬連寨以窺湫池,遣夾谷福壽擊走之,斬七百餘級。

大安三年、累次昇進して泰州刺史となり、颭軍三千を率いて通玄門外に駐屯した。間もなく、縉山県を鎮州に昇格させ、高琪を防禦使とし、権元帥右都監を兼ねさせ、配下の颭軍にそれぞれ恩賞を与えた。至寧元年八月、尚書左丞完顏綱が兵十万を率いて縉山に行省を置いたが、大敗した。貞祐初年、元帥右監軍に転任した。閏月、詔を高琪に下して曰く、「聞くところでは軍事はすべて中央の裁可を待っているというが、機会を失うことはないか。今後は即時に実行せよ。朕はただ成功を責めるのみである」と。

原文大安三年,累官泰州刺史,以颭軍三千屯通玄門外。未幾,升縉山縣為鎮州,以高琪為防禦使,權元帥右都監,所部颭軍賞賚有差。至甯元年八月,尚書左丞完顏綱將兵十萬行省於縉山,敗績。貞祐初,遷元帥右監軍。閏月,詔高琪曰:「聞軍事皆中覆,得無失機會乎?自今當即行之,朕但責成功耳。」

この月、詔を受けて鎮州から軍を移し中都の南を守備したが、良郷に至って進めず、中都に引き返した。出戦するたびに敗北し、紇石烈執中が戒めて曰く、「汝は連敗している。もし再び勝たなければ、軍法をもって処断する」と。出撃すると果たして敗れ、高琪は誅殺を恐れた。十月辛亥、高琪は軍中から入り、兵を率いて執中の邸宅を包囲し、執中を殺し、その首を掲げて宮門に至り待罪した。宣宗はこれを赦し、左副元帥とし、一行の将士にそれぞれ昇進と恩賞を与えた。丙寅、詔して曰く、「胡沙虎は無君の心を抱き、形跡は露見し、尽く言うべからざるものがある。武衛副使提点近侍局慶山奴、近侍局使斜烈、直長撒合輦は累次奏上し、ようやく慎重に図った。斜烈がこの意を按察判官胡魯に漏らし、胡魯が翰林待制訛出に告げ、訛出が高琪に伝え、今月十五日に胡沙虎を誅戮し終えた。ただ臣民が疑いを抱くことを恐れ、ここに詔書を下し、その旨を隠さない」と。論者は高琪が専断で殺害したため、この詔を下したという。間もなく、平章政事に任じた。

原文是月,被詔自鎮州移軍守禦中都迤南,次良鄉不得前,乃還中都。每出戰輒敗,紇石烈執中戒之曰:「汝連敗矣,若再不勝,當以軍法從事。」及出,果敗,高琪懼誅。十月辛亥,高琪自軍中入,遂以兵圍執中第,殺執中,持其首詣闕待罪。宣宗赦之,以為左副元帥,一行將士遷賞有差。丙寅,詔曰:「胡沙虎畜無君之心,形跡露見,不可盡言。武衛副使提點近侍局慶山奴、近侍局使斜烈、直長撒合輦累曾陳奏,方慎圖之。斜烈漏此意于按察判官胡魯,胡魯以告翰林待制訛出,訛出達于高琪,今月十五日將胡沙虎戮訖。惟茲臣庶將恐有疑,肆降劄書,不匿厥旨。」論者謂高琪專殺,故降此詔。頃之,拜平章政事。

宣宗が馬政について論じ、高琪を顧みて曰く、「往年は西夏から馬を買ったが、今は売ってくれるか」と。対して曰く、「木波は馬を多く飼育しており、買い求めることができる。また辺境の部落の馬を徴発しても、少なくないでしょう」と。宣宗曰く、「辺境の馬をすべて徴発すれば、緊急の際はどうするのか」と。三日を経て、再び奏上して曰く、「河南の鎮防二十余軍を合わせれば、精鋭の騎兵二万を得ることができ、緊急の際にも十分用いることができます」と。宣宗曰く、「馬は多くとも、飼育に法があり、訓練に時がある。詳しく所司に諭し、留意させるようにせよ」と。貞祐二年十一月、宣宗が高琪に問うて曰く、「製造する軍器は往々にして用に耐えぬ。これは誰の罪か」と。対して曰く、「軍器の良し悪しは兵部、材料は戸部、工匠は工部の所管です」と。宣宗曰く、「処置せよ。さもなくば事を敗るであろう」と。宣宗が楊安児のことを問うと、高琪は対して曰く、「賊は険阻な地を占拠しております。臣は主将に石牆で包囲させ、出られぬようにしており、近日中に捕らえるでしょう」と。宣宗曰く、「急攻すべきである。あるいは力戦して包囲を突破されれば、我が軍に必ず傷つく者が出よう」と。

原文宣宗論馬政,顧高琪曰:「往歲市馬西夏,今肯市否?」對曰:「木波畜馬甚多,市之可得,括緣邊部落馬,亦不少矣。」宣宗曰:「盡括邊馬,緩急如之何?」閱三日,複奏曰:「河南鎮防二十余軍,計可得精騎二萬,緩急亦足用。」宣宗曰:「馬雖多,養之有法,習之有時,詳諭所司令加意也。」貞祐二年十一月,宣宗問高琪曰:「所造軍器往往不可用,此誰之罪也?」對曰:「軍器美惡在兵部,材物則戶部,工匠則工部。」宣宗曰:「治之!且將敗事。」宣宗問楊安兒事,高琪對曰:「賊方據險,臣令主將以石牆圍之,勢不得出,擒在旦夕矣。」宣宗曰:「可以急攻,或力戰突圍,我師必有傷者。」

応奉翰林文字完顏素蘭が中都から軍事を議して戻り、上書して謁見を求め、左右を退けることを乞うた。故事によれば、密事を奏上するときは左右を退けるものであった。先に、太府監丞游茂が高琪の威権が重すぎて朝廷内外が畏れていることを常に憂い、入見して人を退け密奏し、その権力を抑制するよう請うた。宣宗曰く、「既に委任した以上、権力が重くならぬはずがあろうか」と。游茂は退出して不安を覚え、再び高琪に取り入ろうと、その邸宅を訪れて上書して曰く、「宰相にはそれ相応の体面があり、これをもって主上の疑いを生じ、天下の議論を招くべきではありません」と。高琪が信じないことを恐れ、さらに曰く、「茂はかつて主上に単独で謁見し、実に相公の権力が重いことを憎んでおられました。相公が茂を用いられるなら、上に疑われず、下に議論されぬようにいたしましょう」と。高琪は游茂がかつて人を退けて奏上したことを聞き、これを疑い、詳細を奏聞した。游茂は死罪と論じられたが、詔により死を免じ、杖一百、除名された。これ以後、人を退けて奏上するときは必ず近臣一人を侍立させた。素蘭が密奏を請うと、近侍局に召し出され、筆硯を与えられ、言いたいことを書かせた。しばらくして、宣宗が便殿に出御してこれに会い、近侍局直長趙和和のみを侍立させた。素蘭は奏上して曰く、「先日、元帥府が伯德文哥の兵権を削ることを議したが、朝廷はかえって詔して義軍を統率させた。改除の命令を拒んで受けず、元帥府がまさに討捕しようとしたところ、朝廷は再びこれを赦し、かつ元帥府に隷属させなかった。誰が陛下にこの計略を画いたのか知らないが、臣が外部で風聞したところでは、すべて平章高琪が出所です」と。宣宗曰く、「汝はどうしてこの事が高琪によることを知ったのか」と。素蘭曰く、「臣は文哥が永清副提控劉温に送った文書に、『使いの張希韓が南京から来て、副枢平章(高琪)の処分として、既に奏上して文哥を大名行省に隷属させ、中都帥府の約束に従うなと命じた』とあるのを見ました。温はすぐに帥府に詳細を報告しました。されば文哥が高琪と計略を結んだことは明らかです」と。上はうなずいた。素蘭はさらに奏上して曰く、「高琪は本来勲望がなく、以前は死を恐れて胡沙虎を擅殺したに過ぎず、その計略は頼るものなきことから出たものです。賢能を妬み、党与を立て、威権を窃弄し、自ら威福をなしております。去年、都下の書生樊知一が高琪を訪れ、颭軍は信用できず、乱を生じる恐れがあると述べました。高琪は刀杖でこれを打ち殺し、これ以後軍国利害を敢えて言う者はなくなりました。その党与の移剌塔不也を武寧軍節度使とし、颭軍を招きましたが、後に功績なく、再び武衛軍使としました。臣が観るに、この賊は紀綱を滅乱し、忠良を戕害し、実に国家が平治することを欲せざる意思があります。惟うに陛下が断然としてこれを処せられれば、社稷の福です」と。宣宗曰く、「朕は徐々に考えよう」と。素蘭が退出するとき、再び戒めて曰く、「慎んで漏らすな」と。

原文應奉翰林文字完顏素蘭自中都議軍事還,上書求見,乞屏左右。故事,有奏密事輒屏左右。先是,太府監丞游茂以高琪威權太重,中外畏之,常以為憂,因入見,屏人密奏,請裁抑之。宣宗曰:「既委任之,權安得不重?」茂退不自安,複欲結高琪,詣其第上書曰:「宰相自有體,豈可以此生人主之疑,招天下之議。」恐高琪不相信,複曰:「茂嘗間見主上,實惡相公權重。相公若能用茂,當使上不疑,而下無所議。」高琪聞茂嘗請間屏人奏事,疑之,乃具以聞。遊茂論死,詔免死,杖一百,除名。自是凡屏人奏事,必令近臣一人侍立。及素蘭請密,召至近侍局,給筆劄,使書所欲言。少頃,宣宗禦便殿見之,惟留近侍局直長趙和和侍立。素蘭奏曰:「日者元帥府議削伯德文哥兵權,朝廷乃詔領義軍。改除之命拒而不受,元帥府方欲討捕,朝廷複赦之,且不令隸元帥府。不知誰為陛下畫此計者,臣自外風聞皆出平章高琪。」宣宗曰:「汝何以知此事出於高琪?」素蘭曰:「臣見文哥與永清副提控劉溫牒雲,差人張希韓至自南京,道副樞平章處分,已奏令文哥隸大名行省,毋遵中都帥府約束。溫即具言于帥府。然則文哥與高琪計結,明矣。」上頷之。素蘭複奏曰:「高琪本無勳望,向以畏死擅殺胡沙虎,計出於無聊耳。妒賢能,樹黨與,竊弄威權,自作威福。去歲,都下書生樊知一詣高琪,言颭軍不可信,恐生亂。高琪以刀杖決殺之,自是無複敢言軍國利害者。使其黨移剌塔不也為武甯軍節度使,招颭軍,已而無功,複以為武衛軍使。以臣觀之,此賊滅亂紀綱,戕害忠良,實有不欲國家平治之意。惟陛下斷然行之,社稷之福也。」宣宗曰:「朕徐思之。」素蘭出,複戒曰:「慎無泄也。」

四年十月、大元の大兵が潼関を奪い、嵩州・汝州の間に駐屯した。待闕台院令史高嶷が上書して曰く、「かつて河朔で敗北したとき、朝廷は時を移さず出撃せず、これが機会を失した第一である。深く我が境に入ったとき、都城の精兵は数十万と憂いなし、もし命を尽くして一戦すれば、必ず今日の憂いはなかった。これが機会を失した第二である。退いた後、追襲を議せず、これが機会を失した第三である。今や関を越え、急いで防禦しなければ、禍患はますます深くなります。平章政事高琪を帥と命じ、衆心を満足させてください」と。返答がなかった。御史台が言うには、「兵が潼関・崤・澠を越え、深く重地に入り、近く西郊に迫っている。彼らは京師に重兵が駐屯していることを知り、再び城門を叩いて戦いを求めず、ただ遊騎で道路を遮断し、別兵で州県を攻撃している。これも京師を困窮させる兆しである。もし専ら城守を事とすれば、中都の危険がまた今日に見られることになろう。況んや公私の蓄積は中都に比べて百分の一にも及ばず、これが臣らが寒心する所以である。京城を攻めずしてその別兵に州県を攻撃させれば、これは火が腹心にありながら、手足の上に移し置くようなもので、同じ一身である。願わくは陛下これを察せられたい。陝西の兵をもって潼関を扼守させ、右副元帥蒲察阿裏不孫と掎角の勢いをなし、在京の勇敢の将十数人を選び、それぞれに精兵数千を与え、状況に応じて伺察させ、戦いながら守り、また河北にも諭し、同じくこれをもって対応させてください」と。詔して尚書省に付したが、高琪は奏上して曰く、「台官は元来軍事に習熟せず、備禦の方略は知るところではありません」と。遂に取り上げられなかった。高琪はただ重兵を南京に駐屯させて自らを固めようとするのみで、州郡が残破しても再び顧みなかった。宣宗はこれに惑わされ、その計略を行いその言を聴き、終には自滅した。

原文四年十月,大元大兵取潼關,次嵩、汝間,待闕台院令史高嶷上書曰:「向者河朔敗績,朝廷不時出應,此失機會一也。及深入吾境,都城精兵無慮數十萬,若效命一戰,必無今日之憂,此失機會二也。既退之後,不議追襲,此失機會三也。今已度關,不亟進禦,患益深矣。乞命平章政事高琪為帥,以厭眾心。」不報。禦史台言:「兵逾潼關、崤、澠,深入重地,近抵西郊。彼知京師屯宿重兵,不復叩城索戰,但以遊騎遮絕道路,而別兵攻擊州縣,是亦困京師之漸也。若專以城守為事,中都之危又將見於今日,況公私蓄積視中都百不及一,此臣等所為寒心也。不攻京城而縱其別攻州縣,是猶火在腹心,撥置於手足之上,均一身也,願陛下察之。請以陝西兵扼拒潼關,與右副元帥蒲察阿裏不孫為掎角之勢,選在京勇敢之將十數人,各付精兵數千,隨宜伺察,且戰且守,複諭河北,亦以此待之。」詔付尚書省,高琪奏曰:「台官素不習兵,備禦方略,非所知也。」遂寢。高琪止欲以重兵屯駐南京以自固,州郡殘破不復恤也。宣宗惑之,計行言聽,終以自斃。

間もなく、尚書右丞相に進み拝され、上奏して言うには、「凡そ監察が糾弾を失した者は本法に従う。もし人使が国に入り、私的に言語を通じ、本国の事情を説き知らせ、宿衛・近侍官・承応人が親王・公主・宰執の家に出入りし、災害により食糧が欠乏し、実情を究明せず、人命を傷つけ、軍需を転運して私的に積載し、及び挙人の試験で関防が厳密でない者は、いずれも確実に杖刑に処す。在京で二度まで犯した者は、台官は監察より一等を減じて贖罪とし、その他は専差者にのみ坐する。任期満了の日に昇降を議定する。もし任期内に漏察の事があり確実に決断すべき者は、格に依って称職とされても、平常に従うのみとし、平常の者は降罰に従う。」詔が許可した。高琪は南京の裏城を修築するよう請うたが、宣宗は言った、「この工事が一旦起これば、民はますます苦しむ。城はたとえ堅固に完成しても、独り安んじることができようか。」

原文未幾,進拜尚書右丞相,奏曰:「凡監察有失糾彈者從本法。若人使入國,私通言語,說知本國事情,宿衛、近侍官、承應人出入親王、公主、宰執之家,災傷闕食,體究不實,致傷人命,轉運軍儲,而有私載,及考試舉人關防不嚴者,並的杖。在京犯至兩次者,台官減監察一等論贖,餘止坐專差者。任滿日議定升降。若任內有漏察之事應的決者,依格雖為稱職,止從平常,平常者從降罰。」制可。高琪請修南京裏城,宣宗曰:「此役一興,民滋病矣。城雖完固,能獨安乎?」

初め、建言者王世安が盱眙・楚州を攻め取る策を献じ、枢密院は世安を招撫使とし、謀略と勇気ある者二三人を選んで共に淮南に往き、紅襖賊及び淮南宋の官を招撫するよう奏請した。宣宗はその奏を許可し、詔して泗州元帥府に人を遣わして同行させた。興定元年正月癸未、宋の賀正旦使が朝辞するに当たり、宣宗は言った、「息州から宋人が漏れ出たと聞くが、これは彼の界の飢民が淮に沿って乱を為すものであり、宋人がどうして敢えて我を犯すことがあろうか。」高琪は伐って疆土を広めるよう請うた。上は言った、「朕はただ祖宗の付された所を守るだけで足りる、どうして外征を事とせん。」高琪は謝して言った、「今雨雪が期に応じるは、皆聖徳の致す所である。しかも小国を包容されんことは、天下の幸い、臣の言は過ぎました。」四月、元帥左都監烏古論慶寿・簽枢密院事完顔賽不を遣わして南辺を経略させたが、間もなくまた詔を下して兵を罷め、然れどもこれより宋と絶つこととなった。

原文初,陳言人王世安獻攻取盱眙、楚州策,樞密院奏乞以世安為招撫使,選謀勇二三人同往淮南,招紅襖賊及淮南宋官。宣宗可其奏,詔泗州元帥府遣人同往。興定元年正月癸未,宋賀正旦使朝辭,宣宗曰:「聞息州透漏宋人,此乃彼界饑民沿淮為亂,宋人何敢犯我?」高琪請伐之以廣疆土。上曰:「朕但能守祖宗所付足矣,安事外討。」高琪謝曰:「今雨雪應期,皆聖德所致。而能包容小國,天下幸甚,臣言過矣。」四月,遣元帥左都監烏古論慶壽、簽樞密院事完顏賽不經略南邊,尋複下詔罷兵,然自是與宋絕矣。

興定元年十月、右司諫許古が宣宗に宋と和議するよう勧め、宣宗は古に牒文を起草させ、宰臣に示したが、高琪は言った、「文辞に哀願の意があり、自ら微弱を示して取るに足りない。」遂に止めた。集賢院諮議官呂鑒が言うには、「南辺に屯兵数十万あり、唐・鄧より寿・泗に至る沿辺の居民は逃亡して尽き、兵士も多く逃亡する者あり、また人煙が絶えて少ない故である。臣はかつて息州の榷場を監するに比し、毎場で獲る所の布帛数千匹・銀数百両、大計すれば布帛数万匹、銀数千両、兵興以来共にこれを失った。軍民に逃亡の弊があり、而して国家は日獲の利を失うは、計ではない。今隆冬厳寒、我が騎兵は駆けるを得、重兵を境上に屯し、馳書してこれを諭すは、誠に大いに便である。もし春の和らぎを俟てば、則ち利は彼にあり、議うこと難し。昔、燕人が趙王を獲たとき、趙は弁士を遣わして説かせたが許さず、一つの牧豎が行くことを請うて、趙王は乃ち還った。孔子が馬を失い、馭卒がこれを得た。人に貴賤なく、苟も事機に中れば、皆以て成功することができる。臣は不肖ながらも、牧豎馭卒の智を効したい、伏して宸断を望む。」詔して尚書省に問うた。高琪は言った、「鑒は狂妄で根拠がないが、その気概は尚ぶべきであり、宜しく陝西行省に付して任用に備えるべし。」詔が許可した。十二月、胥鼎が宋を伐つことを諫め、語は鼎伝にある。高琪は言った、「大軍は既に進んだ、再び議うべきことなし。」遂に止めた。

原文興定元年十月,右司諫許古勸宣宗與宋議和,宣宗命古草牒,以示宰臣,高琪曰:「辭有哀祈之意,自示微弱不足取。遂寢。集賢院諮議官呂鑒言:「南邊屯兵數十萬,自唐、鄧至壽、泗沿邊居民逃亡殆盡,兵士亦多亡者,亦以人煙絕少故也。臣嘗比監息州榷場,每場所獲布帛數千匹、銀數百兩,大計布帛數萬匹,銀數千兩,兵興以來俱失之矣。夫軍民有逃亡之病,而國家失日獲之利,非計也。今隆冬冱寒,吾騎得騁,當重兵屯境上,馳書諭之,誠為大便。若俟春和,則利在於彼,難與議矣。昔燕人獲趙王,趙遣辯士說之,不許,一牧豎請行,趙王乃還。孔子失馬,馭卒得之。人無貴賤,苟中事機,皆可以成功。臣雖不肖,願效牧豎馭卒之智,伏望宸斷。」詔問尚書省。高琪曰:「鑒狂妄無稽,但其氣岸可尚,宜付陝西行省備任使。」制可。十二月,胥鼎諫伐宋,語在鼎傳。高琪曰:「大軍已進,無複可議。」遂寢。

二年、胥鼎が上書して諫めて言うには、「銭穀の煩雑は、九重の兼ねる所にあらず、天子は大綱を総べ、成功を責めるのみである。」高琪は言った、「陛下は上天の健を行う義に法り、庶務を憂い勤め、夙夜に遑あらず、乃ち太平の階である。鼎の言は是ならず。」宣宗は南北に用兵あるを以て、深く憂いとし、右司諫呂造が上章して、「内外の百官に詔して各々封事を上せしめ、直言して諱むことなからしめられんことを乞う。或いは時に召見し、親しく訪問せられん。陛下は博く採り兼ねて聴き、以て群下の情を尽くされば、天下幸いである。」宣宗は嘉納し、詔して百官を集めて河北・陝西の守禦の策を議わせた。高琪は心にこれを忌み、一言も用いなかった。この時、汴京の城裏城を築き、宣宗は高琪に問うて言った、「人言にこの工事は恐らく成就せずというが、如何。」高琪は言った、「終に告成すべし、但だその濠は未だ浚うに及ばざるのみ。」宣宗は言った、「濠なくて可ならんや。」高琪は言った、「苟も城を防ぐに法あれば、正に兵来たるも、臣等は愈々力を効するを得ん。」宣宗は言った、「城に臨むに、曷ぞ此に至らしめざるを善とせざらん。」高琪は答える言葉がなかった。

原文二年,胥鼎上書諫曰:「錢谷之冗,非九重所能兼,天子總大綱,責成功而已。」高琪曰:「陛下法上天行健之義,憂勤庶務,夙夜不遑,乃太平之階也。鼎言非是。」宣宗以南北用兵,深以為憂,右司諫呂造上章:「乞詔內外百官各上封事,直言無諱。或時召見,親為訪問。陛下博采兼聽,以盡群下之情,天下幸甚。」宣宗嘉納,詔集百官議河北、陝西守禦之策。高琪心忌之,不用一言。是時,築汴京城裏城,宣宗問高琪曰:「人言此役恐不能就,如何?」高琪曰:「終當告成,但其濠未及浚耳。」宣宗曰:「無濠可乎?」高琪曰:「苟防城有法,正使兵來,臣等愈得效力。」宣宗曰:「與其臨城,曷若不令至此為善。」高琪無以對。

高琪は宰相となって以来、専ら権寵を固め、威福を擅にし、高汝礪と相唱和した。高琪は機務を主とし、高汝礪は利権を掌り、己に附く者を用い、附かざる者を斥けた。凡そ言事が意に忤い、及び材力を負い或いは己と頡頑する者は、宣宗に対し陽にその才を称え、河北に幹当させ、陰に死地に置いた。枢密元帥を兼ねざる以後、常に兵権を得んと欲し、遂に力を尽くして宣宗に宋を伐つよう勧めた。河北を置いて復た意とせず、凡そ精兵は皆河南に置き、月日を苟且にし、肯えて一卒を出して方面の急に応ぜず。平章政事英王守純はその罪を発さんと欲し、密かに右司員外郎王阿裏・知案蒲鮮石魯剌・令史蒲察胡魯を召してこれを謀った。石魯剌・胡魯は尚書省都事僕散奴失不に告げ、僕散奴失不は高琪に告げた。英王は高琪の党与を懼れ、遂に敢えて発しなかった。間もなく、高琪は奴の賽不にその妻を殺させ、乃ち罪を賽不に帰し、開封府に送って殺して口を滅ぼした。開封府は高琪を畏れ、敢えてその実を発せず、賽不は死罪と論ぜられた。事が覚ると、宣宗は久しく高琪の奸悪を聞いていたので、遂にこの事に因ってこれを誅した。時に興定三年十二月である。尚書省都事僕散奴失不は英王の謀を高琪に告げたことを以て、死罪と論ぜられた。蒲鮮石魯剌・蒲察胡魯は各々杖七十、停職を命ぜられた。

原文高琪自為宰相,專固權寵,擅作威福,與高汝礪相唱和。高琪主機務,高汝礪掌利權,附己者用,不附己者斥。凡言事忤意,及負材力或與己頡頑者,對宣宗陽稱其才,使幹當于河北,陰置之死地。自不兼樞密元帥之後,常欲得兵權,遂力勸宣宗伐宋。置河北不復為意,凡精兵皆置河南,苟且歲月,不肯輒出一卒,以應方面之急。平章政事英王守純欲發其罪,密召右司員外郎王阿裏、知案蒲鮮石魯剌、令史蒲察胡魯謀之。石魯剌、胡魯以告尚書省都事僕散奴失不,僕散奴失不以告高琪。英王懼高琪黨與,遂不敢發。頃之,高琪使奴賽不殺其妻,乃歸罪於賽不,送開封府殺之以滅口。開封府畏高琪,不敢發其實,賽不論死。事覺,宣宗久聞高琪奸惡,遂因此事誅之,時興定三年十二月也。尚書省都事僕散奴失不以英王謀告高琪,論死。蒲鮮石魯剌、蒲察胡魯各杖七十,勒停。

初め、宣宗が南遷せんとする時、颭軍を平州に置かんと欲したが、高琪がこれを難じた。汴に遷るに及び、彖多にこの軍を厚く撫するよう戒めたが、彖多は輒ち颭軍数人を殺し、以て敗に至った。宣宗の末年嘗て言うには、「天下を壊した者は、高琪・彖多である。」終身これを恨みとしたという。

原文初,宣宗將遷南,欲置颭軍于平州,高琪難之。及遷汴,戒彖多厚撫此軍,彖多輒殺颭軍數人,以至於敗。宣宗末年嘗曰:「壞天下者,高琪、彖多也。」終身以為恨雲。

塔不也

原文塔不也

移剌塔不也(イラ・タブヤ)は、東北路の猛安の人である。明昌元年、累進して西上閣門使に至る。二年、父の謀克を襲ぐ。泰和の宋征伐に功あり、遙授で同知慶州事となり、権迪列颭詳穩を兼ねる。父の喪に服すが、起復して西北路招討判官となり、尚輦局使・曹王傅に改まる。貞祐二年、武甯軍節度使に遷り、中都の颭軍を招来せしむるも功なく、平章高琪これを庇い、召して武衛軍都指揮使と為す。応奉翰林文字完顔素蘭嘗て面奏して高琪の党比を論じ、その語は『高琪伝』に在り。尋いで河南府事を知り、副統軍を兼ね、彰化軍節度使に移る。上言す、「山東・河間・大名の猛安人を尽く籍して兵と為し、老弱は城を守り、壮者は防禦に当たらしむべし」と。また言う、「河東は地険しく人勇猛にして、歩兵は天下に冠たり、尽く調発して諸隘を戍らしむべし」と。これに従う。ここより河東の郡県は屯兵少なく、守るべからざるに至る。臨洮府事を知り、陝西副統軍を兼ねるに改まる。貞祐三年十一月、熟羊寨にて夏兵を破る。平章高琪、宰臣を率いて入賀して曰く、「塔不也、少を以て衆を敗るは、蓋し陛下の威徳の致す所なり」と。宣宗曰く、「古より興国は皆忠賢に頼る。今茲の功を立てるは、皆将率諸賢の力なり」と。乃ち塔不也を以て勧農使と為し、平涼府事を知らしめ、階を進めて銀青栄禄大夫と為す。四年、西夏を伐ち、威・霊・安・会等州を攻む。興定元年、慶陽府事を知る。三年、元帥左都監に遷り、卒す。

原文移剌塔不也,東北路猛安人。明昌元年,累官西上閣門使。二年,襲父謀克。泰和伐宋,有功,遙授同知慶州事,權迪列颭詳穩。丁父憂,起複西北路招討判官,改尚輦局使、曹王傅。貞祐二年,遷武甯軍節度使,招徠中都颭軍,無功,平章高琪芘之,召為武衛軍都指揮使。應奉翰林文字完顏素蘭嘗面奏高琪黨比,語在《高琪傳》。尋知河南府事,兼副統軍,徙彰化軍節度使。上言:「盡籍山東、河間、大名猛安人為兵,老弱城守,壯者捍禦。」又言:「河東地險人勇,步兵為天下冠,可盡調以戍諸隘。」從之。自是河東郡縣屯兵少,不可守矣。改知臨洮府事,兼陝西副統軍。貞祐三年十一月,破夏兵於熟羊寨。平章高琪率宰臣入賀曰:「塔不也以少敗眾,蓋陛下威德所致。」宣宗曰:「自古興國皆賴忠賢,今茲立功,皆將率諸賢之力也。」乃以塔不也為勸農使,兼知平涼府事,進階銀青榮祿大夫。四年,伐西夏,攻威、靈、安、會等州。興定元年,知慶陽府事。三年,遷元帥左都監,卒。

論じて曰く、高琪は執中を擅殺し、宣宗その罪を正す能わず、又曲げてこれを弁じ、以て臣下に詔す。その事に就いてこれを論ずれば、人君大臣を誅せんと欲して、近侍と密謀を宮中に為すは、已にその道に非ず。謀りて密ならず、又外臣の知る所と為り、以て敗軍の将に告げ、因りてこれを殺して以て弁と為す、これ後世を欺くべけんや。金の南渡に至るは、譬えば尪羸の病人、元気幾ばくも無し。琪は吏を喜びて儒を悪み、兵を好みて静を厭い、遷颭の議を沮み、和宋の謀を破る、正に繆医の如く、烏喙・附子を投じて、只その亡を速めるのみ。宣宗の擅殺の日に於いて、即ち能く大義を伸べてこれを誅せしめば、何ぞ誤国かくの如くに至らんや。

原文論曰:高琪擅殺執中,宣宗不能正其罪,又曲為之說,以詔臣下。就其事論之,人君欲誅大臣,而與近侍密謀于宮中,已非其道。謀之不密,又為外臣所知,以告敗軍之將,因殺之以為說,此可欺後世邪?金至南渡,譬之尪羸病人,元氣無幾。琪喜吏而惡儒,好兵而厭靜,沮遷颭之議,破和宋之謀,正猶繆醫,投以烏喙、附子,只速其亡耳。使宣宗於擅殺之日,即能伸大義而誅之,何至誤國如是邪。