金史

列傳第四十三: 程寀・任熊祥・孔璠・范拱・張用直・劉樞・王翛・楊伯雄・蕭貢・溫蒂罕締達・張翰・任天寵

列傳第四十三: 程寀・任熊祥・孔璠・范拱・張用直・劉樞・王翛・楊伯雄・蕭貢・溫蒂罕締達・張翰・任天寵

程寀

原文程寀

程寀は、字を公弼といい、燕の析津の人である。祖父の冀は、遼に仕えて広徳軍節度使となった。冀には六人の男子があり、父子ともに皆科挙に及第し、士族はその家を「程一挙」と号した。冀の次子の四穆は、遼の崇義軍節度使である。寀は、四穆の末子である。幼少より成人のようであった。冠すると、学問に篤く、進士甲科に及第し、累遷して殿中丞となった。天輔七年、太祖が燕に入ると、尚書都官員外郎・錦州安昌令を授けられ、累加して起居郎となり、史館修撰を兼ね、従軍の功労により、少府少監を加えられた。熙宗の時、翰林待制を歴任し、右諫議大夫を兼ねた。寀は上疏して事を論じ、その要旨は次のようであった。「殿前点検司は、古の殿岩環衛の任であり、禁禦を粛正し、天子を尊び、不虞を備えるものである。臣は幸いに清光に近侍し、天子に従って時畋の礼を観る。近ごろ陛下の校猟を見るに、羽衛従臣のすべてが、貴賤を問わず皆弓矢を執って馳逐することを得て、しかるに聖駕は崎嶇たる沙礫の地を行き、加うるに林木叢鬱として、迷いやすい。この日、卯の刻から申の刻に至り、百官ようやく沙漠を出たが、ただ車駕の所在を知らない。遠く望み見ること久しくして、初めて騎馬の者が来て報じ、皇帝は数騎に従って既に行在所に至ったという。窃かに思うに、古の天子は出入に警蹕し、清道して行く。楚の雲夢で畋猟し、漢の長楊で狩猟するに至っても、皆大いに兵衛を陳べて、非常に備えた。陛下は祖宗の付託の重きを膺けながら、どうしてただ数騎とともに林麓沙漠の中に出入し、前に斥候なく、後に羽衛なく、甚だしく禁禦を粛正する意に非ざるか。臣は願わくは陛下熟計せられんことを。後に若し再び猟するときは、予め有司に戒め、猟地を図上させ、その可否を具えさせ、然る後に令して清道して行かしめられたい。沖要にして稍々平らかな地を選び、駐蹕の所とし、忠義爪牙の士を簡抜し、親信腹心の臣に統率させ、左右を警衛せしめられたい。その麋鹿既に来たるを俟ち、然る後に馳射せられたい。なお先に林藪を捜閲させ、明らかに標幟を立て、出入の馳道とせられたい。然らずんば、後恐らくは宗廟社稷の憂いを貽さん。」

原文程寀,字公弼,燕之析津人。祖冀,仕遼廣德軍節度使。冀凡六男,父子皆擢科第,士族號其家為「程一舉」。冀次子四穆,遼崇義軍節度使。寀,四穆之季子也。自幼如成人。及冠,篤學,中進士甲科,累遷殿中丞。天輔七年,太祖入燕,授尚書都官員外郎、錦州安昌令,累加起居郎,為史館修撰,以從軍有勞,加少府少監。熙宗時,曆翰林待制,兼右諫議大夫。寀上疏言事,其略曰:「殿前點檢司,古殿岩環衛之任,所以肅禁禦,尊天子、備不虞也。臣幸得近清光,從天子觀時畋之禮。比見陛下校獵,凡羽衛從臣,無貴賤皆得執弓矢馳逐,而聖駕崎嶇沙礫之地,加之林木叢郁,易以迷失。是日自卯及申,百官始出沙漠,獨不知車駕何在。瞻望久之,始有騎來報,皇帝從數騎已至行在。竊惟古天子出入警蹕,清道而行。至於楚畋雲夢,漢獵長楊,皆大陳兵衛,以備非常。陛下膺祖宗付託之重,奈何獨與數騎出入林麓沙漠之中,前無斥候,後無羽衛,甚非肅禁禦之意也。臣願陛下熟計之。後若複獵,當預戒有司,圖上獵地,具其可否,然後下令清道而行。擇沖要稍平之地,為駐蹕之所,簡忠義爪牙之士,統以親信腹心之臣,警衛左右。俟其麋鹿既來,然後馳射。仍先遣搜閱林藪,明立標幟,為出入之馳道。不然,後恐貽宗朝社稷之憂。」

また曰く、「臣が唐史を伏して読むに、高祖以下を追尊し、諡号は或いは十八字に加えられた。前宋の大中祥符年間もまた十六字に加えられ、亡遼はこれに因り、近ごろ陛下もまた『崇天體道欽明文武聖德』の十字を受けた。臣窃かに謂う、人臣は帰美報上を以て忠と為し、天子は祖考を追崇するを以て孝と為す。太祖武元皇帝は命を受けて基を開き、八年の間に、天下を奄有し、功德茂盛にして、振古未だ前になく、ただ『武元』の二字を諡するは、理或いは未だ安からず、何を以て将来に示さん。臣は願わくは有司に詔して諡号を定議せしめ、以て上は祖宗の在天の霊を慰め、耿光丕烈をして無窮に伝わらしめられたい。」

原文又曰:「臣伏讀唐史,追尊高祖以下,諡號或加至十八字。前宋大中祥符間亦加至十六字,亡遼因之,近陛下亦受'崇天體道欽明文武聖德'十字。臣竊謂人臣以歸美報上為忠,天子以追崇祖考為孝。太祖武元皇帝受命開基,八年之間,奄有天下,功德茂盛,振古無前,止諡'武元'二字,理或未安,何以示將來?臣願詔有司定議諡號,庶幾上慰祖宗在天之靈,使耿光丕烈,傳於無窮。」

また曰く、「古の天子は皆巡狩あり、事無きは非ざりき。或いは風俗を省察し、或いは冤獄を審理し、或いは民の疾苦を問い、以て徳沢を布宣するは、皆巡狩の名なり。国家肇興し、誠に郡国の新民が末を逐い本を棄て、旧染の汚れに習い、奢侈詐偽し、或いは不明の獄あり、僭濫の刑あり、或いは力役時に無く、四民失業するを恐る。今鑾輅方に省み、将に古に憲って事を行わんとす。臣は願わくは天心洞照し、之を長貳に委ね、風俗を厘正し、或いは匭匣を置きて冤枉を申さしめ、或いは郡国に使を遣わし、告げ無き民を問わしめられたい。皆古の巡狩の事なり。昔、漢の昭帝は疾苦を問い、光武は民瘼を求む。かくの如くすれば則ち和気通じ、天下の丕平は坐して待つべし。」

原文又曰:「古者天子皆有巡狩,無非事者。或省察風俗,或審理冤獄,或問民疾苦,以布宣德澤,皆巡狩之名也。國家肇興,誠恐郡國新民,逐末棄本,習舊染之汙,奢侈詐偽,或有不明之獄,僭濫之刑,或力役無時,四民失業。今鑾輅省方,將憲古行事,臣願天心洞照,委之長貳,厘正風俗,或置匭匣,以申冤枉,或遣使郡國,問民無告,皆古巡狩之事。昔漢昭帝問疾苦,光武求民瘼,如此則和氣通,天下丕平可坐而待也。」

また曰く、「臣聞く、善く医する者は他人の肥瘠を視ず、その脈の病むか否かを察するのみ。善く天下を計る者は天下の安危を視ず、その紀綱の理まるか否かを察するのみ。天下は人なり、安危は肥瘠なり、紀綱は脈なり。脈病まざれば瘠くとも害せず、脈病みて肥える者は危うし。是の故に、四肢故無きも、恃むに足らず、脈のみ。天下事無きも、矜るに足らず、綱紀のみ。尚書省は、天子の喉舌の官、綱紀ここに在り。臣は願わくは尚書省に詔し、百官を戒励して各その職を揚げ、以て綱紀を立てしめられたい。吏部天官のごときは賢を進め不肖を退くるを任とす。誠に升黜に科あり、人を得て任ぜば、則ち綱紀理まりて民その賜を受く。前代の興替、未だ嘗て此よりせざるは無し。」

原文又曰:「臣聞,善醫者不視他人之肥瘠,察其脈之病否而已;善計天下者不視天下之安危,察其紀綱理否而已。天下者人也,安危者肥瘠也,紀綱者脈也,脈不病雖瘠不害,脈病而肥者危矣。是故,四肢雖無故,不足恃也,脈而已矣。天下雖無事,不足矜也,綱紀而已矣。尚書省,天子喉舌之官,綱紀在焉。臣願詔尚書省,戒勵百官,各揚其職,以立綱紀。如吏部天官以進賢退不肖為任,誠使升黜有科,任得其人,則綱紀理而民受其賜,前代興替,未始不由此者。」

また曰く、「虞舜は告げずして二妃を娶り。帝嚳は四妃を娶り、天の四星に法る。周の文王は一后・三夫人、嬪禦数あり。淑媛を選求して後宮に充つるは、帝王の制なり。然れども女に美悪無く、宮に入りて妒まれるを見る。陛下嗣續を広めんと欲せば、知らずして告戒せざるべからず。」

原文又曰:「虞舜不告而娶二妃。帝嚳娶四妃,法天之四星。周文王一後、三夫人,嬪禦有數。選求淑媛以充後宮,帝王之制也。然女無美惡,入宮見妒,陛下欲廣嗣續,不可不知而告戒之。」

また曰く、「臣伏して見るに、本朝は四海を富有し、礼楽制度、一として新たならざるは莫し。宮禁の制、未だ厳密ならず、胥吏健卒の輩、皆出入するを得て、呵止する者無く、混雑して別無きに至る。闌入の法有りと雖も、久しく未だ行わず、甚だしく禁衛を厳にし法令を明らかにする意に非ず。陛下知らずして必ず行わざるべからず。」

原文又曰:「臣伏見本朝富有四海,禮樂制度,莫不一新。宮禁之制,尚未嚴密,胥吏健卒之輩,皆得出入,莫有呵止,至淆混而無別。雖有闌入之法,久尚未行,甚非嚴禁衛、明法令之意,陛下不可不知而必行。」

疏が奏上されると、上は嘉してこれを納れ、ここに始めて有司に命じて太祖の尊諡を増上することを議させた。皇統八年十二月、翰林侍講学士より横海軍節度使となり、彰徳軍節度使に移った。官に卒す。年六十二。寀は剛直耿介にして、権貴に諂奉して苟も進まんことを希わず、古の君子の風有り。

原文疏奏,上嘉納之,於是始命有司議增上太祖尊諡。皇統八年十二月,由翰林侍講學士為橫海軍節度使,移彰德軍節度使。卒官,年六十二。寀剛直耿介,不諂奉權貴以希苟進,有古君子之風雲。

任熊祥

原文任熊祥

任熊祥、字は子仁。八代の祖の圜は、後唐の宰相であった。圜の孫の睿は、石晉に従って北遷し、ついに燕の人となった。熊祥は遼の天慶八年に進士第に登り、枢密院令史となった。太祖が燕を平定し、その地を宋に与えると、熊祥は汴に至り、武当丞を授けられた。宋の法では、新たに帰附した官は実務に携わらず、熊祥は郡守の楊皙に言上して曰く、「既に政事に関わらないのであれば、半俸のみを給して親を養うことを請う」と。皙は許さなかったが、その清廉を喜んだ。金人が均州・房州を取ると、熊祥は朝廷に帰順し、再び枢密院令史となった。時に西京留守の高慶裔が院事を摂行し、その意に逆らう者はいなかったが、熊祥はかつてその意に阿って事えることはなかった。その後、杜充・劉筈が燕京行省の同知となり、法制が統一されず、日々異論があったが、熊祥はこれを折衷した。深州刺史・磁州刺史、開封少尹、行台工部郎中、同知汴京留守事を歴任した。天徳初年、山東東路転運使となり、鎮西軍節度使に改めた。この時、詔して徐文・張弘信に東海県を討たせたが、弘信は逗留し、病と称して進まず、杖二百の決罰を受けた。熊祥は詔を受けて会試の主文となり、「事難きを避けざるは臣の職なり」を賦題とした。及び御試に至り、熊祥は再び「賞罰の令、信なること四時の如し」を賦題とし、海陵は大いに喜び、翰林侍読学士とした。大定初年、起用されて太子少師となった。時に契丹の賊の窩斡が勝手に号を称し、北辺で用兵が止まず、上はこれを憂い、詔して公卿百官に招撫・討伐の適宜を議させた。衆は皆異議を唱えたが、熊祥は徐々に進み出て曰く、「陛下は民を労することを憂え、用兵を重んじられるが、恩信をもって招き懐けるに如くはありません」と。上が問うて「誰を行かせることができるか」と。対えて曰く、「臣は老いてはいますが、国の威霊を頼みに、なお一行に堪えます」と。上は曰く、「卿は老いている。煩わすには及ばない」と。七年、再び致仕した。熊祥は母に事えて孝行で知られ、母が没した時、熊祥は年すでに七十であったが、三日間食事を取らず、人皆これを称えた。家で卒した。

原文任熊祥,字子仁。八代祖圜,為後唐宰相。圜孫睿,隨石晉北遷,遂為燕人。熊祥登遼天慶八年進士第,為樞密院令史。太祖平燕,以其地畀宋,熊祥至汴,授武當丞。宋法,新附官不厘務,熊祥言于郡守楊皙曰:「既不與事,請止給半俸以養親。」皙雖不許,而喜其廉。金人取均、房州,熊祥歸朝,複為樞密院令史。時西京留守高慶裔攝院事,無敢忤其意者,熊祥未嘗阿意事之。其後杜充、劉筈同知燕京行省,法制未一,日有異論,熊祥為折衷之。曆深、磁州刺史,開封少尹,行台工部郎中,同知汴京留守事。天德初,為山東東路轉運使,改鎮西軍節度使。是時,詔徐文、張弘信討東海縣,弘信逗遛,稱疾不進,決杖二百。熊祥被詔為會試主文,以「事不避難臣之職」為賦題。及禦試,熊祥複以「賞罰之令信如四時」為賦題,海陵大喜,以為翰林侍讀學士。大定初,起為太子少師。時契丹賊窩斡竊號,北鄙用兵未息,上以為憂,詔公卿百官議所以招伐之宜。眾皆異議,熊祥徐進曰:「陛下以勞民為憂,用兵為重,莫若以恩信招懷之。」上問:「孰可使者?」對曰:「臣雖老,憑國威靈,尚堪一行。」上曰:「卿老矣,無煩為此。」七年,複致仕。熊祥事母以孝聞,母沒時,熊祥年已七十,不食三日,人皆稱之。卒於家。

孔璠

原文孔璠

孔璠、字は文老、至聖文宣王(孔子)の四十九代の孫、故宋の朝奉郎で襲封された端友の弟、端操の子である。齊の阜昌三年に迪功郎を補され、衍聖公を襲封し、祀事を主管した。天会十五年、齊国が廃される。熙宗が即位し、制度礼楽を興し、上京に孔子廟を建立した。天眷三年、詔して孔子の後裔を求め、璠に承奉郎を加え、衍聖公を襲封させ、祀事を奉じさせた。この時、熙宗はしばしば『論語』・『尚書』・『春秋左氏伝』及び諸史・『通歴』・『唐律』を読み、夜更けに至ってやめた。皇統元年三月戊午、上は孔子廟に謁して奠し、北面して再拝し、侍臣を顧みて曰く、「朕は幼年の頃遊びふけり、学問に志すことを知らず、歳月が過ぎ去り、深くこれを悔いる。およそ善を行うには、努めざるべからず。孔子は位なくとも、その道は尊ぶべきであり、万世に高く仰がれるのはこのようなものである」と。皇統三年、璠は卒した。子の拯が襲封し、文林郎を加えられた。

原文孔璠,字文老,至聖文宣王四十九代孫,故宋朝奉郎襲封端友弟端操之子。齊阜昌三年補迪功郎,襲封衍聖公,主管祀事。天會十五年,齊國廢。熙宗即位,興制度禮樂,立孔子廟於上京。天眷三年,詔求孔子後,加璠承奉郎,襲封衍聖公,奉祀事。是時,熙宗頗讀《論語》、《尚書》、《春秋左氏傳》及諸史、《通曆》、《唐律》,乙夜乃罷。皇統元年三月戊午,上謁奠孔子廟,北面再拜,顧謂侍臣曰:「朕幼年遊佚,不知志學,歲月逾邁,深以為悔。大凡為善,不可不勉。孔子雖無位,其道可尊,萬世高仰如此。」皇統三年,璠卒。子拯襲封,加文林郎。

子 拯

原文子 拯

拯、字は元済。天徳二年、衍聖公襲封の俸格を定め、常品より加増された。この歳、国子監を立て、久しくして、拯に承直郎を加えた。大定元年に卒した。弟の総が襲封し、文林郎を加えられた。

原文拯字元濟。天德二年,定襲封衍聖公俸格,有加于常品。是歲立國子監,久之,加拯承直郎。大定元年卒。弟總襲封,加文林郎。

総、字は元会。大定二十年、総を召して京師に至らせ、官を与えようとした。尚書省が奏上して、「総は先聖の祀事を主としております。もし任用すれば、守奉に欠けが生じましょう」と。上は曰く、「その通りである」と。そこで曲阜県令を授けた。明昌元年に卒した。子の元措が襲封し、文林郎を加えられた。

原文總字元會。大定二十年,召總至京師,欲與之官。尚書省奏:「總主先聖祀事,若加任使,守奉有闕。」上曰:「然。」乃授曲阜縣令。明昌元年卒。子元措襲封,加文林郎。

元措、字は夢得。三年四月、詔して曰く、「衍聖公は四品に視すが、階は八品に止まり、相応しくない。超えて中議大夫に遷し、永く令に著すべし」と。四年八月丁未、章宗が釈奠の礼を行い、北面して再拝し、親王・百官・六学生員が陪位した。承安二年正月、詔して元措に曲阜県令を兼ねさせ、なお世襲とした。元措は宣宗・哀宗に歴事し、後に大元に帰順して終わった。

原文元措字夢得。三年四月詔曰:「衍聖公視四品,階止八品,不稱。可超遷中議大夫,永著於令。」四年八月丁未,章宗行釋奠禮,北面再拜,親王、百官、六學生員陪位。承安二年正月,詔元措兼曲阜縣令,仍世襲。元措曆事宣宗、哀宗,後歸大元終焉。

四十八代の端甫という者は、明昌初年、学士の党懐英がその年徳ともに高く、書を読み道を楽しみ、古学に通暁していることを推薦した。召されて京師に至り、特に王沢の榜の及第を賜り、将仕郎・小学教授に除され、主簿の半俸をもって致仕した。

原文四十八代端甫者,明昌初,學士党懷英薦其年德俱高,讀書樂道,該通古學。召至京師,特賜王澤榜及第,除將仕郎、小學教授,以主簿半俸致仕。

范拱

原文范拱

范拱、字は清叔、済南の人。九歳で文を綴ることができ、『易』学に深かった。宋の末年に進士第に登り、広済軍曹に調され、権邦彦が書記に辟召し、学事を摂行させた。劉豫が東平を鎮守した時、拱が謁廟の文を撰すると、豫はこれを奇とし、深く賞識した。拱は『六箴』を献上した。

原文范拱,字清叔,濟南人。九歲能屬文,深于《易》學。宋末登進士第,調廣濟軍曹,權邦彥辟為書記,攝學事。劉豫鎮東平,拱撰謁廟文,豫奇之,深加賞識。拱獻《六箴》。

齊国が建てられ、累進して中書舎人に擢られた。『初政録』十五篇を上奏した。一は『得民』、二は『命将』、三は『簡礼』、四は『納諫』、五は『遠図』、六は『治乱』、七は『挙賢』、八は『守令』、九は『延問』、十は『畏慎』、十一は『節祥瑞』、十二は『戒雷同』、十三は『用人』、十四は『禦将』、十五は『禦軍』である。豫はその説を容れたが、全てを用いることはできなかった。久しくして、権尚書右丞、進んで左丞、兼ねて門下侍郎となった。

原文齊國建,累擢中書舍人。上《初政錄》十五篇:一曰《得民》,二曰《命將》,三曰《簡禮》,四曰《納諫》,五曰《遠圖》,六曰《治亂》,七曰《舉賢》,八曰《守令》,九曰《延問》,十曰《畏慎》,十一曰《節祥瑞》十二曰《戒雷同》,十三曰《用人》,十四曰《禦將》,十五曰《禦軍》。豫納其說而不能盡用也。久之,權尚書右丞,進左丞,兼門下侍郎。

豫は什一の税を民に課し、名は古法としたが、実は収斂であり、刑法は厳急で、官吏が縁故を頼りに暴虐を行った。民は久しく兵革に苦しみ、ますます窮困し、罪に陥る者が多く、境内はこれを苦しんだ。右丞相の張孝純及び拱の兄の侍郎の巽が、極力その弊を言上し、なおも履畝の法に因ることを請うたが、豫は従わなかった。巽は坐して官を貶せられ、これより後は再び敢えて言う者はいなかった。拱は曰く、「私が言えば兄の与党となり、言わなければ百姓は困弊する。私は執政である。寧ろ百姓のために言おう」と。そこで上疏し、その大略は「国家は亡宋の重斂の弊を懲らしめ、什一の税を民に課すのは、本来優恤を務めるためであるが、官吏の奉行が急すぎて、民を駆り立てて禁を犯させており、長久の計ではない」というものであった。豫は即座には従わなかったが、譴責も加えなかった。拱は刑部に命じて諸路で税のために罪に抵る者を条上させると、凡そ千余人に上り、豫はその多さを見て、更に五等税法に改めたが、民はなお重いと感じた。

原文豫以什一稅民,名為古法,其實裒斂,而刑法嚴急,吏夤緣為暴。民久罹兵革,益窮困,陷罪者眾,境內苦之。右丞相張孝純及拱兄侍郎巽,極言其弊,請仍因履畝之法,豫不從。巽坐貶官,自是無複敢言者。拱曰:「吾言之則為党兄,不言則百姓困弊。吾執政也,甯為百姓言之。」乃上疏,其大略以為「國家懲亡宋重斂弊,什一稅民,本務優恤,官吏奉行太急,驅民犯禁,非長久計也」。豫雖未即從,而亦不加譴。拱令刑部條上諸路以稅抵罪者凡千餘人,豫見其多,乃更為五等稅法,民猶以為重也。

齊が廃され、梁王の宗弼が行台省事を領すると、拱はその官属となった。宗弼が百姓の利害を訪ね求めたので、拱は減税を請うた。宗弼はこれに従い、旧額の三分の一を減じ、民はようやく蘇息した。拱は許可を慎んだが、士を推挙し、李南・張輔・劉長言は皆、拱の推薦によるものであった。長言は汝州郟城の酒監から省郎に擢げられたが、人はその進んだ所以を知らず、拱もまた自らは言わなかった。久病を理由に近郡を乞い、淄州刺史に除された。皇統四年、病を理由に退任を求め、通議大夫をもって致仕した。斎居して書を読み、妻子と対することも稀であった。

原文齊廢,梁王宗弼領行台省事,拱為官屬。宗弼訪求百姓利病,拱以減稅為請,宗弼從之,減舊三分之一,民始蘇息。拱慎許可,而推轂士,李南、張輔、劉長言皆拱薦也。長言自汝州郟城酒監擢省郎,人不知其所以進,拱亦不自言也。以久病乞近郡,除淄州刺史。皇統四年,以疾求退,以通議大夫致仕。齋居讀書,罕對妻子。

世宗は済南においてその名を聞いた。大定初年、拱は封事を上奏した。七年、召されて闕に赴き、太常卿に除された。郊祀について議論した。或る者が言うには、前代は長安及び汴・洛に都し、太山・華山等の山を五嶽として列したが、今は既に燕に都しているので、別に五嶽の名を議すべきであると。寺僚は『崧高』の疏の「周は酆鎬に都し、呉嶽を西嶽とした」を取った。拱はこれは正しくないと考え、議の大略は「軒轅は上穀に居し、恒山の西にあり、舜は蒲阪に居し、華山の北にあった。これによって言えば、かつて都した所によって嶽祀を改めたことはない」というものであった。後に遂に改めなかった。拱は嘗て言った、「礼官は礼を守るべきであり、法官は法を守るべきである。漢の張釈之のごときは、よく法を守ったと言えよう」と。故にその議論は確然として移奪すべからざるものであった。九年、再び致仕し、家で卒した。年七十四。

原文世宗在濟南聞其名。大定初,拱上封事。七年,召赴闕,除太常卿。議郊祀。或有言前代都長安及汴、洛,乙太、華等山列為五嶽,今既都燕,當別議五嶽名。寺僚取《崧高》疏「周都酆鎬,以吳嶽為西嶽」。拱以為非是,議略曰:「軒轅居上穀,在恆山之西,舜居蒲阪,在華山之北。以此言之,未嘗據所都而改嶽祀也。」後遂不改。拱嘗言:「禮官當守禮,法官當守法,若漢張釋之可謂能守法矣。」故其議論確然不可移奪。九年,複致仕,卒於家,年七十四。

張用直

原文張用直

張用直は臨潢の人である。若くして学問と品行で称された。遼王宗幹これを聞き、門下に招き置き、海陵(王)とその兄の充はともに彼に師事した。天眷二年、宗室の子弟を教えた功により進士及第を賜り、礼部郎中に任じられた。皇統四年、宣徽判官となり、横海軍節度副使を歴任し、寧州刺史に改めた。海陵が即位すると、召されて簽書徽政院事・太常卿・太子詹事となった。海陵はかつて用直に言った、「朕は経史に博通とはいえないが、少しは聞き及んでいる。これは皆、卿が平素より輔導した力による。太子は今まさに学問に就こうとしている。善く導くがよい。朕父子ともに卿の学問を受けた。これも儒者の栄誉である。」賀宋国正旦使となり、汴で卒去した。海陵は深く悼み惜しみ、使者を遣わしてその喪を迎え護送させ、官が道中の費用を給した。喪が到着すると、親しく臨んで奠し、銭千万を賜った。その養子はわずか七歳であったが、特に武義将軍に授けた。

原文張用直,臨潢人。少以學行稱。遼王宗幹聞之,延置門下,海陵與其兄充皆從之學。天眷二年,以教宗子賜進士及第,除禮部郎中。皇統四年,為宣徽判官,曆橫海軍節度副使,改甯州刺史。海陵即位,召為簽書徽政院事、太常卿、太子詹事。海陵嘗謂用直曰:「朕雖不能博通經史,亦粗有所聞,皆卿平昔輔導之力。太子方就學,宜善導之。朕父子並受卿學,亦儒者之榮也。」為賀宋國正旦使,卒於汴。海陵深悼惜之,遣使迎護其喪,官給道途費。喪至,親臨奠,賜錢千萬。其養子始七歲,特授武義將軍。

劉樞

原文劉樞

劉樞は字を居中といい、通州三河の人である。若くして良家の子として軍に従い、河間に屯した。同輩は皆騎射を好んだが、ただ劉樞だけは経史に心を砕いた。天眷二年の進士に登第し、唐山主簿に任じられた。飛狐令に改まり、蔚州刺史が功を恃んで貪汚し顧みることがなかったため、所属する県邑は皆苦しみ嫌ったが、劉樞は少しも応じなかった。そこで刺史は別の事をあげつらって劉樞を獄に繋ぎ、死に至らせようとした。郡人で劉樞を憐れむ者がおり、劉樞を導いて脱走させ、朝廷に訴え出た。ちょうど廉察使が到着し、守倅以下は皆罪に当たり罷免されたが、ただ劉樞だけは治績が優等に入り、越階して奉直大夫に遷った。張浩が燕京の宮室を営建するにあたり、劉樞を選んで工役を分治させた。尚書刑部員外郎に遷り、太原尹徒単阿裏出虎の反逆の情状を審理し、十日で獄が決した。工部郎中に転じ、さらに本部侍郎に進んだ。正隆末、軍に従って江上から還る。大定初、左司郎中王蔚・右司員外郎王全とともに外補に出され、劉樞は南京路転運使事となった。初め、世宗は劉樞らを再び用いようとしたが、御史台が奏上して言った、「劉樞らは正隆の時、皆巧みに進み、法を敗り政を蝕み、人多く怨み嫉んだ。」上は劉樞らがよく事を処理するとして、なお用い、戒めて言った、「心を改めて過ちを正せば、必ず昇擢を加えよう。そうでなければ、汝らを斥けるぞ。」この時、阿勒根彦忠が南京都転運使であったが、吏事に熟さなかったため、劉樞を用いてこれを補佐させた。山東路転運使に遷り、中都路転運使に改めた。大定四年、官において卒去した。

原文劉樞,字居中,通州三河人。少以良家子從軍,屯河間。同輩皆騎射,獨樞刻意經史。登天眷二年進士,調唐山主簿。改飛狐令,蔚州刺史恃功貪污無所顧忌,屬邑皆厭苦之,樞一無所應,乃摭以他事繫獄,將致之死。郡人有憐樞者,導樞脫走,訴於朝。會廉察使至,守倅而下皆抵罪廢,獨樞治狀入優等,躐遷奉直大夫。張浩營建燕京宮室,選樞分治工役。遷尚書刑部員外郎,鞫治太原尹徒單阿裏出虎反狀,旬日獄具。轉工部郎中,進本部侍郎。正隆末,從軍還自江上。大定初,與左司郎中王蔚、右司員外郎王全俱出補外,樞為南京路轉運使事。初,世宗欲複用樞等,御史台奏:「樞等在正隆時皆以巧進,敗法蠹政,人多怨嫉之。」上以樞等頗幹濟,猶用之,戒之曰:「能悛心改過,必加升擢。不然,則斥汝等矣。」是時,阿勒根彥忠為南京都轉運使,不閑吏事,故用樞以佐之。遷山東路轉運使,改中都路轉運使。大定四年,卒於官。

王翛

原文王翛

王翛は字を翛然といい、涿州の人である。皇統二年の進士第に登り、尚書省令史より同知霸州事に任じられた。累遷して刑部員外郎となった。旧知の者の姦罪について請託した罪に坐し、杖四十を受け、泰定軍節度副使に降授された。四度遷って大興府治中となり、戸部侍郎を授かった。世宗は宰臣に言った、「王翛は以前、外官であった時、剛直な名があったと聞く。今、専ら罪を出して陰徳をなすことに務め、事多く道理に非ずして軽く従うと聞く。また巧みに幸いを求めて安きに偷む。もし果たして剛直ならば、身を忘れて国と為し、正しきを履んで偏り無くすべきである。どうして法を売って福を求めようとするのか。」まもなく密雲など三十六県の猛安もうあん人戸を賑済することを命じられたが、粟三万石余を不正に請い出し、尚書省に奏されて官一階を奪われ、同知北京留守事として出された。上は言った、「人多く王翛を能吏と言うが、朕が観るに、凡事に力を尽くさず、まさに一の老奸である。」二十四年、遼東路転運使に遷った。一年余りして、顕徳軍節度使に改めた。以前、転運使在任中に倉使王祺を引きずり辱めて死に至らしめたことにより、両官を追奪して解職し、勅命により杖七十を受け、鄭州防禦使に降授された。

原文王翛,字翛然,涿州人也。登皇統二年進士第,由尚書省令史除同知霸州事。累遷刑部員外郎。坐請囑故人奸罪,杖四十,降授泰定軍節度副使。四遷大興府治中,授戶部侍郎。世宗謂宰臣曰:「王翛前為外官,聞有剛直名。今聞專務出罪為陰德,事多非理從輕。又巧幸偷安,若果剛直,則當忘身以為國,履正以無偏,何必賣法以徼福耶?」尋命賑濟密雲等三十六縣猛安人戶,冒請粟三萬余石,為尚書省奏奪官一階,出為同知北京留守事。上曰:「人多言王翛能官,以朕觀之,凡事不肯盡力,直一老奸耳。」二十四年,遷遼東路轉運使。歲餘,改顯德軍節度使。以前任轉運使拽辱倉使王祺致死,追兩官解職,敕杖七十,降授鄭州防禦使。

章宗が即位すると、同知大興府事に抜擢された。審録官が奏上して、王翛が前任の顕徳軍において廉潔剛直で、軍吏が行跡を収め、訴訟が無かったと述べた。礼部尚書に遷り、大理卿を兼ねた。宋に使いして還り、ちょうど太師広平郡王徒単貞の改葬があった。貞は章宗の母である孝懿皇后の父である。帝は前代の故事を用い、班剣・鼓吹・羽葆などの儀衛を用いようとした。宰臣は貞が熙宗を弑して誅殺されたことを理由に、難色を示した。そこで詔を下して礼官に議させた。王翛は言った、「晋が丞相王導を葬るに、前後羽葆・鼓吹・武賁・班剣百人を給した。唐以来、大駕鹵簿には班剣があるが、その王公以下の鹵簿には班剣は無く、また羽葆は臣下の用いるべきではない。国朝においても大臣を葬るにこれを用いたことは無い。」上は以前から、唐が大臣李靖らを葬るに皆班剣・羽葆を用いたことを知っており、怒って言った、「典故に無いことは、固より従うべきであるが、用いたとしても礼を過ぎることはない。」ある日、王翛と諫議大夫兼礼部侍郎張暐を詔して殿門に詣らせ、諭して言った、「朝廷の事は、汝ら諫官・礼官こそ弁析すべきである。かつ小民の言でも採用できるものは、朕すら従う。まして卿らにおいておや。今後、事を議するに、ただ尚書省に附和するのみではならない。」

原文章宗即位,擢同知大興府事。審錄官奏,翛前任顯德潔廉剛直,軍吏斂跡,無訟獄。遷禮部尚書,兼大理卿。使宋還,會改葬太師廣平郡王徒單貞。貞,章宗母孝懿皇后父也。帝欲用前代故事,班劍、鼓吹、羽葆等儀衛。宰臣以貞與弑熙宗誅死,意難之。於是詔下禮官議。翛言:「晉葬丞相王導,給前後羽葆、鼓吹、武賁、班劍百人。唐以來,大駕鹵簿有班劍,其王公以下鹵簿並無班劍,兼羽葆非臣下所宜用,國朝葬大臣亦無之。」上先知唐葬大臣李靖等皆用班劍、羽葆,怒曰:「典故所無,固可從,然用之亦不過禮。」一日,詔翛及諫議大夫兼禮部侍郎張暐詣殿門,諭之曰:「朝廷之事,汝諫官、禮官即當辯析。且小民言可采,朕尚從之,況卿等乎?自今議事,毋但附合尚書省。」

明昌二年、知大興府事に改めた。当時、僧徒は多く貴戚の門を遊び歩いていた。王翛はこれを憎み、僧が午後に寺を出ることを禁じた。かつて一僧が禁を犯し、皇姑の大長公主が請うたが、王翛は言った、「主の命を奉じれば、即時にこれを出します。」すぐに僧を召し、杖一百を加えて死に至らしめ、京師は粛然とした。後に故意に人の罪を出した罪に坐し、再び官を削られ解職された。翌年、特に定海軍節度使を授かった。諭旨して言った、「卿は天性が余りに剛く、意のままに事を行い、自ら刑に陥った。もし殿年(高齢)のため降叙するならば、卿が仕官して久しく、頗る執持するところがあることを念い、故に特に罪謫の中から起用し、現職を授ける。かつその地は凶作で民は飢え、盗賊が多い。旧人を用いて鎮撫する必要があり、おそらく安治を得られるであろう。心を尽くして励み、後の効果を図れ。」まもなく、表を上って致仕を乞うた。上は言った、「王翛は能幹な者で、力を得るところが多い。」許さなかった。再び申請し、従った。泰和七年、卒去した。七十五歳。

原文明昌二年,改知大興府事。時僧徒多游貴戚門,翛惡之,乃禁僧午後不得出寺。嘗一僧犯禁,皇姑大長公主為請,翛曰:「奉主命,即令出之。」立召僧,杖一百死,京師肅然。後坐故出人罪,複削官解職。明年,特授定海軍節度使。諭旨曰:「卿賦性太剛,率意行事,乃自陷於刑。若殿年降敘,念卿入仕久,頗有執持,故特起於罪謫之中,授以見職。且彼歲歉民饑,盜賊多,須用舊人鎮撫,庶得安治。勉晝乃心,以圖後效。」未幾,表乞致仕。上曰:「翛能幹者,得力為多。」不許。複申請,從之。泰和七年,卒,年七十五。

王翛の性質は剛厳で、事に臨んで果決であり、吏民はその威を憚り、豪族といえども敢えて犯す者はなかった。承安年間、知大興府事が欠員となった時、詔して宰臣に諭して言った、「王翛のごとき極めて風力ある者を選んで用いるがよい。」このように上に知られていたのである。

原文翛性剛嚴,臨事果決,吏民憚其威,雖豪右不敢犯。承安間,知大興府事闕,詔諭宰臣曰:「可選極有風力如王翛輩者用之。」其為上所知如此。

楊伯雄

原文楊伯雄

楊伯雄は字を希雲といい、真定槁城の人である。八世の祖の彦稠は、後唐の清泰年間に定州兵馬使となった。後に晋主に従って北遷し、遂に臨潢に居住した。父の丘行は、太子左衛率府率であった。

原文楊伯雄,字希雲,真定槁城人。八世祖彥稠,後唐清泰中為定州兵馬使。後隨晉主北遷,遂居臨潢。父丘行,太子左衛率府率。

伯雄は皇統二年の進士に登第した。海陵が中京留守であった時、丘行は幕府にあり、伯雄が省視に来た。海陵は彼を見て、深く器重した。久しくして、韓州軍事判官に任じられた。二賊が商人を詐称し、旅館の主人を欺いて、州の役所に訴え出たが、実は伯雄を襲撃しようとしたのである。伯雄は心にその詐りを覚り、捕らえて詰問し、その党類十余人をも併せて捕らえ、一郡は驚き服した。応奉翰林文字に遷った。この時、海陵は政を執っており、以前から伯雄を知っていたので、時々その邸に来るよう頼んだが、伯雄は承諾しただけで行かなかった。ある日、海陵が怪しんで問うと、答えて言った、「君子は人に知られるには礼をもって進むべきです。付き従い奔走することは、元来の志ではありません。」これによってますます厚く待遇した。

原文伯雄登皇統二年進士,海陵留守中京,丘行在幕府,伯雄來省視,海陵見之,深加器重。久之,調韓州軍事判官。有二盜詐稱賈販,逆旅主人見欺,至州署陳訴,實欲劫取伯雄。伯雄心覺其詐,執而詰之,並獲其党十餘人,一郡駭服。遷應奉翰林文字。是時,海陵執政,自以舊知伯雄,屬之使時時至其第,伯雄諾之而不往也。他日海陵怪問之,對曰:「君子受知于人當以禮進,附麗奔走,非素志也。」由是愈厚待之。

海陵王が簒奪して即位すると、数か月後に右補闕に転じ、起居注の修撰を改めて担当した。海陵王は政治の刷新に鋭意取り組み、議論は毎夜遅くまで及んだ。かつて問うた、「君主が天下を治める道で、何が貴いか」。答えて曰く、「静であることが貴い」。海陵王は黙然とした。翌日、また言った、「私は諸部の猛安を移して辺境に分屯させたが、昨夜の答えは、まさかこれを非静と指したのではないか」。答えて曰く、「兵を移して分屯させ、南北が互いに連携するようにすることは、長遠の策です。いわゆる静とは、かき乱さないことです」。乙夜(夜更け)に、また鬼神のことを問うた。伯雄が進み出て言うには、「漢文帝が賈生を召し出し、夜半に前席して、百姓のことを問わずに鬼神を問うたことは、後世大いにこれを譏っています。陛下が臣の愚陋を顧みず、幸いにも天下の大計に及んでお尋ねくださいますが、鬼神のことは、学んだことがありません」。海陵王は言った、「ただ話せ、長夜の倦怠を紛らわすために」。伯雄はやむを得ず、言った、「臣の家に一巻の書があり、人が死んで再び生き返り、冥官にどうすれば罪を免れるかと問うたことを記しています。答えて言うには、汝は一つの暦を置き、昼間の行いを、夜になって書き記せ。書けないことは、してはならぬことだ、と」。海陵王はこれを聞いて表情を改めた。夏の日、海陵王が瑞雲楼に登って涼をとり、伯雄に詩を賦するよう命じた。その卒章に云う、「六月蒸鬱の到るを知らず、清涼会は万方と同じならんとす」。海陵王は喜び、左右の者に示して言った、「伯雄の言葉には規戒を忘れぬ。人臣たる者はこのようであるべきだ」。再び兵部員外郎に転じた。父の喪に服し、起復して翰林待制となり、起居注修撰を兼ねた。直学士に転じ、再び右諫議大夫に転じ、著作郎を兼ね、起居注修撰はもと通りとした。

原文海陵篡立,數月,遷右補闕,改修起居注。海陵銳於求治,講論每至夜分。嘗問曰:「人君治天下,其道何貴?」對曰:「貴靜。」海陵默然。明日,複謂曰:「我遷諸部猛安分屯邊戍,前夕之對,豈指是為非靜邪?」對曰:「徙兵分屯,使南北相維,長策也。所謂靜者,乃不擾之耳。」乙夜,複問鬼神事。伯雄進曰:「漢文帝召見賈生,夜半前席,不問百姓而問鬼神,後世頗譏之。陛下不以臣愚陋,幸及天下大計,鬼神之事,未之學也。」海陵曰:「但言之,以釋永夜倦思。」伯雄不得已,乃曰:「臣家有一卷書,記人死複生,或問冥官何以免罪,答曰,汝置一曆,白日所為,暮夜書之,不可書者是不可為也。」海陵為之改容。夏日,海陵登瑞雲樓納涼,命伯雄賦詩,其卒章雲:「六月不知蒸鬱到,清涼會與萬方同。」海陵忻然,以示左右曰:「伯雄出語不忘規戒,為人臣當如是矣。」再遷兵部員外郎。丁父憂,起複翰林待制,兼修起居注。遷直學士,再遷右諫議大夫,兼著作郎,修起居注如故。

皇子の慎思阿不が薨去すると、伯雄は同じ宿直の者とひそかに議論したことで罪に坐して責められ、その言葉は『海陵諸子伝』にある。海陵王が江南征伐を議すると、伯雄は奏上した、「晋の武帝が呉を平定した時は、皆将帥に命じました。どうして親しく軍律を総べる労をとる必要がありましょうか」。聞き入れられなかった。そこで起居注の職を落とされ、再び召し出されることはなかった。大定の初め、大興少尹に任じられ、母の喪に服した。顕宗が皇太子となると、東宮の官属が整備され、張浩が伯雄を推薦し、起復して少詹事となった。兄の子の蟠は左賛善となり、言は聴かれ諫めは従われ、当時の論評はこれを栄誉とした。古来の太子の賢・不肖を集めて書とし、『瑤山往鑒』と号して進呈した。また『羽獵』『保成』などの箴を進呈すると、皆嘉納された。再び左諫議大夫・翰林直学士となった。太子詹事に欠員が生じると、宰相がまた伯雄を推挙した。上(世宗)は言った、「伯雄は朕の側を離れることはならぬ。しかし東宮もまた輔導を必要とする」。そこで太子詹事を諫議大夫に兼ねさせた。

原文皇子慎思阿不薨,伯雄坐與同直者竊議被責,語在《海陵諸子傳》。海陵議征江南,伯雄奏:「晉武平吳,皆命將帥,何勞親總戎律?」不聽。乃落起居注,不復召見。大定初,除大興少尹,丁母憂。顯宗為皇太子,遷東宮官屬,張浩薦伯雄,起複少詹事,兄子蟠為左贊善,言聽諫從,時論榮之。集古太子賢不肖為書,號《瑤山往鑒》,進之。及進《羽獵》、《保成》等箴,皆見嘉納。複為左諫議大夫、翰林直學士。會太子詹事闕,宰相複舉伯雄。上曰:「伯雄不可去朕左右,而東宮亦須輔導。」遂以太子詹事兼諫議。

六年、上は西京に行幸し、これに乗じて涼陘へ行き避暑しようとした。伯雄は諫官たちを率いて入諫した。上は言った、「朕はゆっくり考えよう」。伯雄が言い続けると、同列の者たちは皆引き下がり、しばらくしてようやく立ち上がった。この年、涼陘に至ると、巡邏に確かに手落ちがあった。上は伯雄の言葉を思い出し、帰還すると、礼部尚書に転じさせ、近臣に言った、「群臣に幹局のある者は多いが、伯雄のように忠実な者は、皆及ばない」。上は伯雄に言った、「龍逄や比干は皆忠諫して死んだ。もし明君に遇っていたならば、どうしてこのようなことがあろうか」。伯雄は答えて言った、「魏徴が良臣たらんことを願ったのは、まさに明君に遇うことを言ったのです」。そこで振り返って宰相に言った、「『書経』に『汝、面従すること無かれ、退いて後言有ること無かれ』とある。朕は卿らと共に天下を治める。事に可否あれば、即ち面と向かって陳べるべきだ。卿らは卿相の位に至った。まさに道を行い名を揚げる時である。安きに偷み自ら便りとし、一時の僥倖を求めて、後世をどうするつもりか」。群臣は皆万歳を称した。

原文六年,上幸西京,欲因往涼陘避暑,伯雄率眾諫官入諫。上曰:「朕徐思之。」伯雄言之不已,同列皆引退,久之乃起。是年,至涼陘,徼巡果有疏虞。上思伯雄之言,及還,遷禮部尚書,謂近臣曰:「群臣有幹局者眾矣,如伯雄忠實,皆莫及也。」上謂伯雄曰:「龍逄、比干皆以忠諫而死,使遇明君,豈有是哉!」伯雄對曰:「魏徵願為良臣,正謂遇明君耳。」因顧謂宰相曰:「《書》曰:'汝無面從,退有後言。'朕與卿等共治天下,事有可否,即當面陳。卿等致位卿相,正行道揚名之時,偷安自便,徼幸一時,如後世何?」群臣皆稱萬歲。

十二年、沁南軍節度使に改められ、召されて翰林学士承旨となった。丞相の石琚が致仕すると、上が問うた、「誰が卿に代わることができるか」。琚は答えて言った、「伯雄ができます」。当時の論評は琚の推挙が適材を得たとした。再び詹事を権任し、伯雄は知ることを言わずということがなく、匡救すること大いに多かった。後宮の官僚にへつらう者がいると、人々は必ず楊詹事を称してその者を恥じ入らせた。定武軍節度使に任じられ、平陽尹に改められた。先に、張浩が平陽を治めて善政があり、伯雄が尹となると、百姓はこれを称えて言った、「前に張あり、後に楊あり」。河中尹に転じた。卒去、六十五歳。諡は荘献。弟に伯傑・伯仁、族兄に伯淵がいる。

原文十二年,改沁南軍節度使,召為翰林學士承旨。丞相石琚致仕,上問:「誰可代卿者?」琚對曰:「伯雄可。」時論以琚舉得其人。複權詹事,伯雄知無不言,匡救弘多。後宮僚有詭隨者,人必稱楊詹事以愧之。除定武軍節度使,改平陽尹。先是,張浩治平陽,有惠政,及伯雄為尹,百姓稱之,曰:「前有張,後有楊。」徙河中尹。卒,年六十五。諡莊獻。弟伯傑、伯仁,族兄伯淵。

族兄 伯淵

原文族兄 伯淵

伯淵は字を宗之という。父は丘文、遼の中書舎人である。伯淵は早く孤となり、母に仕えて孝行で知られ、財を分かち与えて施しを好み、古書を収集するのを喜んだ。天会の初め、名家の子として尚書省令史に補された。十四年、進士の第を賜り、吏部・礼部の二部主事・御前承応文字を歴任し、任期が満ちると、同知永定軍節度使事に任じられた。召されて司計郎中となった。平定軍の知事となり、廉潔を用い、平州路転運使に転じた。泰安軍の知事となり、善政があり、百姓は石に刻んでその事績を記した。四度転じて山東東路転運使となった。正隆の末、群盗が蜂起ほうきし、州郡はしばしば害を被ったが、済南だけは伯淵によって保全された。大定三年、致仕し、家で卒去した。

原文伯淵字宗之。父丘文,遼中書舍人。伯淵早孤,事母以孝聞,疏財好施,喜收古書。天會初,以名家子補尚書省令史。十四年,賜進士第,曆吏、禮二部主事、御前承應文字,秩滿,除同知永定軍節度使事。召為司計郎中。知平定軍,用廉,遷平州路轉運使。知泰安軍,有惠政,百姓刻石紀其事。四遷山東東路轉運使。正隆末,群盜蜂起,州郡往往罹害,獨濟南賴伯淵保全。大定三年,致仕,卒於家。

蕭貢

原文蕭貢

蕭貢は、字を真卿といい、京兆咸陽の人である。大定二十二年に進士となり、鎮戎州判官、涇陽令、涇州観察判官に任じられた。尚書省令史に補された。旧例では、試補二か月後に補用されるが、貢は数日で、執政が能あると認め、即座に任用した。監察御史に抜擢された。提刑司が涇州に美政ありと奏上したので、北京転運副使に転じた。親が老齢のため、帰って養った。左丞の董師中・右丞の楊伯通がその文学を推薦し、翰林修撰に任じられた。上書して論じた、「近年の弊害は、人材を器量・識見・操行・履歴によって選ばず、文書処理に巧みで、吏議にふれない者を優れているとする。人を用いるのに才能に応じて官職を授けることに努めず、ただ資格順序にこだわる。爵位官職を慎重に与えることに努めず、多くの者が僥倖を求める。守令が才能実績に努めないので、民がその害を被る。伏して望むには、真の才を抜擢して浮薄な風俗を振るい起こし、功績能力を検証して職務を治め、爵位官職を慎重にして僥倖を抑え、守令を重視して国家の根本を厚くすることです。そうしてこそ政治教化は行われ、百事は挙げられます」。詔して詞臣に『唐の董重質を用い郭誼を誅した得失論』を作らせると、貢が第一となり、重い幣帛四端を賜った。貢は時政の五弊、言路の四難を論じ、言葉の意味が切実で的を射ていたため、治書侍御史に改められた。父の喪に服し、起復して右司員外郎に改め、まもなく郎中に転じ、国子祭酒に転じ、太常少卿を兼ね、陳大任と共に『遼史』の刊修に当たった。刑部侍郎に改め、同知大興府事・德州防禦使を歴任し、三度転じて河東北路按察転運使となった。大安の末、彰徳軍節度事に改められた。兵乱が起こり城を守れず、百姓を失った罪に坐し、同知通遠軍節度使に降格された。まもなく静難軍節度使に改め、河東北路・南京路転運使・御史中丞、戸部尚書を歴任した。南京が戒厳となった時、軍需物資の不足の罪に坐したが、詔して問わずに釈放した。興定元年、致仕した。元光二年に卒去、諡は文簡。貢は学問を好み、読書は老いても倦まず、『史記』注百巻がある。

原文蕭貢,字真卿,京兆咸陽人。大定二十二年進士,調鎮戎州判官,涇陽令,涇州觀察判官。補尚書省令史。舊例,試補兩月,乃補用。貢至數日,執政以為能,即用之。擢監察御史。提刑司奏涇州有美政,遷北京轉運副使。親老,歸養。左丞董師中、右丞楊伯通薦其文學,除翰林修撰。上書論:「比年之弊,人才不以器識、操履,巧於案牘,不涉吏議者為工。用人不務因才授官,惟泥資敘。名器不務慎與,人多僥倖。守令不務才實,民罹其害。伏望擢真才以振澆俗,核功能以理職業,慎名器以抑僥倖,重守令以厚邦本。然後政化可行,百事可舉矣。」詔詞臣作《唐用董重質誅郭誼得失論》,貢為第一,賜重幣四端。貢論時政五弊,言路四難,詞意切至,改治書侍御史。丁父憂,起複,改右司員外郎,尋轉郎中,遷國子祭酒,兼太常少卿,與陳大任刊修《遼史》。改刑部侍郎,曆同知大興府事、德州防禦使,三遷河東北路按察轉運使。大安末,改彰德軍節度事。坐兵興不能守城,亡失百姓,降同知通遠軍節度使。未幾,改靜難軍節度使,曆河東北路、南京路轉運使、御史中丞,戶部尚書。南京戒嚴,坐乏軍儲,詔釋不問。興定元年,致仕。元光二年卒,諡文簡。貢好學,讀書至老不倦,有注《史記》一百卷。

溫蒂罕締達

原文溫蒂罕締達

溫蒂罕締達は経史に通暁し、女直じょちょく字の出身をもって、累進して国史院編修官となった。初め、丞相希尹が女直字を制定し、学校を設けて、訛離剌らにこれを教授させた。その後、学ぶ者が次第に盛んとなり、経史を習うようになったので、納合椿年・紇石烈良弼はいずれもこれによって宰相の地位に至った。締達は最も精深と称された。大定十二年、詔して締達の教える生員に詩や策を作らせ、もし文采があれば、才能に応じて任用し、自ら進んで学ぼうとする者は聴許するとした。十三年、女直進士科を設けた。この年、徒單鎰ら二十七人が及第した。十五年、締達は著作佐郎に転じ、編修官宗璧・尚書省訳史阿魯・吏部令史張克忠とともに経書を訳解した。累進して秘書丞となった。十九年、左賛善に改められたが、母が老齢のため養老を求めた。顕宗は内直丞六斤を使わして締達に言わせた、「賛善は、初めこの官を除した時、天子が孤に言われた、『朕は抜きん出た才能を得た。学問が広く通貫している。汝の徳義を補佐させるべきである』と。数日を経ずして、賛善はこの官に除された。自ら徳義に親しく接することができると思い、喜びに堪えない。去ることはならぬ。心に苦しむな」と。久しくして、翰林待制に転じ、卒した。明昌五年、翰林学士承旨を追贈され、諡して文成といった。

原文溫蒂罕締達,該習經史,以女直字出身,累官國史院編修官。初,丞相希尹制女直字,設學校,使訛離剌等教之。其後學者漸盛,轉習經史,故納合椿年、紇石烈良弼皆由此致位宰相。締達最號精深。大定十二年,詔締達所教生員習作詩、策,若有文采,量才任使,其自願從學者聽。十三年,設女直進士科。是歲,徒單鎰等二十七人登第。十五年,締達遷著作佐郎,與編修官宗璧、尚書省譯史阿魯、吏部令史張克忠譯解經書。累遷秘書丞。十九年,改左贊善,以母老求養。顯宗使內直丞六斤謂締達曰:「贊善,初未除此官,天子謂孤曰:'朕得一出倫之才,學問該貫,當令輔汝德義。'既數日,贊善除此官。自謂親炙德義,不勝其喜。未可去也,勿難於懷。」久之,轉翰林待制,卒。明昌五年,贈翰林學士承旨,諡文成。

子の二十は、章宗が即位すると、符宝典書とされ、累進して左諫議大夫となった。貞祐四年、上疏し、おおよそ次のように述べた、「今、辺境の守備は撤去されず、徴発は止まず、州県の長吏は民を愛養することを知らず、租税の徴収を督責し、鞭打ち追い立てて、星火よりも急であり、文書の往来が重複し、その弊害に堪え難い。宜しく有司に命じて務めて簡易に従うべきである。兵乱以来、忠臣烈士、孝子順孫、義夫節婦で、埋もれて知られない者が甚だ多い。史官一人を派遣し、広く採訪させ、褒賞を議することを乞う」と。興定元年、武勝軍節度使に遷り、吏部尚書に改め、開封府知事となった。軍人の家族を城外に出したことを咎められて罪に坐し、杖刑に当たるところ、詔して解職させられた。四年、再び開封府知事となり、また事を以て警巡使完顏金僧奴に依頼した罪に坐し、鄭州防禦使に降格された。間もなく、再び開封府知事となった。

原文子二十,章宗即位,以為符寶典書,累官左諫議大夫。貞祐四年,上疏,略曰:「今邊備未撤,徵調不休,州縣長吏不知愛養其民,督責征科,鞭笞逼迫,急於星火,文移重複,不勝其弊,宜敕有司務從簡易。兵興以來,忠臣烈士,孝子順孫,義夫節婦,湮沒無聞者甚眾,乞遣史官一員,廣為採訪,以議褒嘉。」興定元年,遷武勝軍節度使,改吏部尚書,知開封府。坐縱軍人家屬出城,當杖,詔解職。四年,複知開封府,複坐以事囑警巡使完顏金僧奴,降為鄭州防禦使。未幾,複為知開封府事。

張翰

原文張翰

張翰、字は林卿、忻州秀容の人である。大定二十八年の進士、隰州軍事判官に任じられた。兄弟三人を強盗と誣告する者があったが、翰は微行してその実情を探り、州に申し出て釈放させた。東勝・義豊・会川の県令を歴任し、尚書省令史に補され、戸部主事に除され、監察御史に遷った。母の喪に服し、喪明け後、山東路塩使に転じた。父の喪に服し、喪中起復して尚書省都事・戸部員外郎となった。大安年間、平章政事獨吉思忠・参知政事承裕が行省として辺境を守備した時、翰は左右司郎中を充てられたが、議論が合わず、処置が道理に外れていたので、翰はたびたび諫めたが聞き入れられなかった。承裕が捕らえられた時、衛紹王は翰がかつて発言していたことを知り、召見して慰撫した。登聞鼓院知事に改め、前職を兼ね、侍御史に遷った。貞祐初め、翰林直学士となり、元帥府経歴官を充てた。中都が戒厳となり、物資の調達が切迫していたので、戸部侍郎に改められた。宣宗が汴に遷都するに当たり、翰は扈従の糧秣を真定まで調達し、五事を上書した、「第一は本を強くすること。兵士を集め、豪民を移して南京を充実させるべきであるという。第二は用を足すこと。蔡・汴の旧渠を整備して漕運を通すべきであるという。第三は乱を防ぐこと。義軍を集めて官印を仮に与え、互いに統率させ、不安定な者を安んずるべきであるという。第四は事を省くこと。自立できない県邑は少しずつ併合すべきで、官を省く上に、盗賊の備えも容易になるという。第五は恩を推すこと。恩恵を施して天子の所在を幸いとする意を示すべきであるという」。上はおおよそこれを施行した。翰は元来、煩雑な事務を処理する才能があり、赴任先では常に事を成し遂げた。河平軍節度使・都水監・提控軍馬使に遷り、間もなく戸部尚書に改められた。この時、南京に到着したばかりで、諸事が粗略であったが、翰は計画を立てて処置し、すべて条理があった。この年に卒し、諡して達義といった。

原文張翰,字林卿,忻州秀容人。大定二十八年進士,調隰州軍事判官。有誣昆弟三人為劫者,翰微行廉得其狀,白於州釋之。曆東勝、義豐、會川令,補尚書省令史,除戶部主事,遷監察御史。丁母憂,服闋,調山東路鹽使。丁父憂,起複尚書省都事、戶部員外郎。大安間,平章政事獨吉思忠、參知政事承裕行省戍邊,翰充左右司郎中,論議不相協。處置乖方,翰屢爭之不見省。承裕就逮,衛紹王知翰嘗有言,召見撫慰之。改知登聞鼓院,兼前職,遷侍御史。貞祐初,為翰林直學士,充元帥府經歷官。中都戒嚴,調度方殷,改戶部侍郎。宣宗遷汴,翰規措扈從糧草至真定,上書言五事:「一曰強本。謂當裒兵徒、徙豪民,以實南京。二曰足用。謂當按蔡、汴舊渠以通漕運。三曰防亂。謂當就集義軍假之官印,使相統攝,以安反側。四曰省事。謂縣邑不能自立者宜稍並之,既以省官,且易於備盜。五曰推恩。謂當推恩以示天子所在稱幸之意。」上略施行之。翰雅有治劇才,所至輒辦。遷河平軍節度使、都水監、提控軍馬使,俄改戶部尚書。是時,初至南京,庶事草略,翰經度區處,皆有條理。是歲卒,諡達義。

任天寵

原文任天寵

任天寵、字は清叔、曹州定陶の人である。明昌二年の進士、考城主簿に任じられ、再び威戎県令に遷った。県は旧来の堡寨で、文廟や学舎がなかったので、天寵は廃署を利用して建てた。田畑を争う兄弟がいたが、天寵は理義を説き、委曲周到に諭したので、皆感泣して去った。泰定軍節度判官に転じた。父の喪に服し、喪明け後、崇義軍節度判官に転じた。尚書省令史・右三部検法司正に補され、監察御史に遷った。右司都事に改め、員外郎に遷った。左司諫に改め、左司郎中に転じ、国子祭酒に遷った。貞祐初め、秘書監兼吏部侍郎に転じ、中都路都転運使に改められた。当時、京師は戒厳下にあり、糧食の輸送が困難を極めたが、天寵は全力を尽くして調達に努め、心身を労して細やかに配慮し、私財を出して飢えた者を救い、多くを全活させた。監察御史高夔・劉元規は天寵ら二十人が公明で勤勉、聡明で機敏、才能と幹略があり、百姓を安集できると推挙した。戸部尚書に遷った。三年、中都が守られず、天寵は続いて南京へ向かったが、途中で兵に遭い、死んだ。諡して純粛といった。

原文任天寵,字清叔,曹州定陶人也,明昌二年進士,調考城主簿,再遷威戎縣令。縣故堡寨,無文廟學舍,天寵以廢署建。有兄弟訟田者,天寵諭以理義,委曲周至,皆感泣而去。調泰定軍節度判官。丁父憂,服闋,調崇義軍節度判官。補尚書省令史、右三部檢法司正,遷監察御史。改右司都事,遷員外郎。改左司諫,轉左司郎中,遷國子祭酒。貞祐初,轉秘書監兼吏部侍郎,改中都路都轉運使。時京師戒嚴,糧運艱阻,天寵悉力營辦,曲盡勞瘁,出家貲以濟饑者,全活甚眾。監察御史高夔、劉元規舉天寵二十人公勤明敏,有材幹,可安集百姓。遷戶部尚書。三年,中都不守,天寵繼走南京,中道遇兵,死之。諡純肅。

賛して言う、程寀・任熊祥は遼の進士であり、孔璠・范拱は宋や斉に仕えたが、太祖はいずれも礼遇して接し、金の文治は日に日に盛んとなった。張用直は、海陵親子ともに旧学を並べた。劉樞の練達、王翛の事に強敏、楊伯雄の諷諫に巧みで辞藻に優れ、蕭貢・溫蒂罕締達の文芸が時宜に適っていた。この数人は正隆・大定・明昌の間に相次いで用いられた。張翰・任天寵の経理調度は、宣宗が南遷した際にも、なおその用いるところとなった。金源氏が百余年かけて人材を培植し、その効果を得たことは、ここに大略を見ることができる。

原文贊曰:程寀、任熊祥,遼之進士,孔璠、范拱事宋、事齊,太祖皆見禮遇,而金之文治日以盛矣。張用直,海陵父子並列舊學。劉樞之練達,王翛之強敏于事,楊伯雄之善諷諫、工辭藻,蕭貢、溫蒂罕締達之文藝適時,之數人者迭用於正隆、大定、明昌之間。張翰、任天寵之經理調度,宣宗南遷,猶賴其用焉。金源氏百餘年所以培植人才而獲其效者,於斯可概見矣。