程寀
程寀は、字を公弼といい、燕の析津の人である。祖父の冀は、遼に仕えて広徳軍節度使となった。冀には六人の男子があり、父子ともに皆科挙に及第し、士族はその家を「程一挙」と号した。冀の次子の四穆は、遼の崇義軍節度使である。寀は、四穆の末子である。幼少より成人のようであった。冠すると、学問に篤く、進士甲科に及第し、累遷して殿中丞となった。天輔七年、太祖が燕に入ると、尚書都官員外郎・錦州安昌令を授けられ、累加して起居郎となり、史館修撰を兼ね、従軍の功労により、少府少監を加えられた。熙宗の時、翰林待制を歴任し、右諫議大夫を兼ねた。寀は上疏して事を論じ、その要旨は次のようであった。「殿前点検司は、古の殿岩環衛の任であり、禁禦を粛正し、天子を尊び、不虞を備えるものである。臣は幸いに清光に近侍し、天子に従って時畋の礼を観る。近ごろ陛下の校猟を見るに、羽衛従臣のすべてが、貴賤を問わず皆弓矢を執って馳逐することを得て、しかるに聖駕は崎嶇たる沙礫の地を行き、加うるに林木叢鬱として、迷いやすい。この日、卯の刻から申の刻に至り、百官ようやく沙漠を出たが、ただ車駕の所在を知らない。遠く望み見ること久しくして、初めて騎馬の者が来て報じ、皇帝は数騎に従って既に行在所に至ったという。窃かに思うに、古の天子は出入に警蹕し、清道して行く。楚の雲夢で畋猟し、漢の長楊で狩猟するに至っても、皆大いに兵衛を陳べて、非常に備えた。陛下は祖宗の付託の重きを膺けながら、どうしてただ数騎とともに林麓沙漠の中に出入し、前に斥候なく、後に羽衛なく、甚だしく禁禦を粛正する意に非ざるか。臣は願わくは陛下熟計せられんことを。後に若し再び猟するときは、予め有司に戒め、猟地を図上させ、その可否を具えさせ、然る後に令して清道して行かしめられたい。沖要にして稍々平らかな地を選び、駐蹕の所とし、忠義爪牙の士を簡抜し、親信腹心の臣に統率させ、左右を警衛せしめられたい。その麋鹿既に来たるを俟ち、然る後に馳射せられたい。なお先に林藪を捜閲させ、明らかに標幟を立て、出入の馳道とせられたい。然らずんば、後恐らくは宗廟社稷の憂いを貽さん。」
また曰く、「臣が唐史を伏して読むに、高祖以下を追尊し、諡号は或いは十八字に加えられた。前宋の大中祥符年間もまた十六字に加えられ、亡遼はこれに因り、近ごろ陛下もまた『崇天體道欽明文武聖德』の十字を受けた。臣窃かに謂う、人臣は帰美報上を以て忠と為し、天子は祖考を追崇するを以て孝と為す。太祖武元皇帝は命を受けて基を開き、八年の間に、天下を奄有し、功德茂盛にして、振古未だ前になく、ただ『武元』の二字を諡するは、理或いは未だ安からず、何を以て将来に示さん。臣は願わくは有司に詔して諡号を定議せしめ、以て上は祖宗の在天の霊を慰め、耿光丕烈をして無窮に伝わらしめられたい。」
また曰く、「古の天子は皆巡狩あり、事無きは非ざりき。或いは風俗を省察し、或いは冤獄を審理し、或いは民の疾苦を問い、以て徳沢を布宣するは、皆巡狩の名なり。国家肇興し、誠に郡国の新民が末を逐い本を棄て、旧染の汚れに習い、奢侈詐偽し、或いは不明の獄あり、僭濫の刑あり、或いは力役時に無く、四民失業するを恐る。今鑾輅方に省み、将に古に憲って事を行わんとす。臣は願わくは天心洞照し、之を長貳に委ね、風俗を厘正し、或いは匭匣を置きて冤枉を申さしめ、或いは郡国に使を遣わし、告げ無き民を問わしめられたい。皆古の巡狩の事なり。昔、漢の昭帝は疾苦を問い、光武は民瘼を求む。かくの如くすれば則ち和気通じ、天下の丕平は坐して待つべし。」
また曰く、「臣聞く、善く医する者は他人の肥瘠を視ず、その脈の病むか否かを察するのみ。善く天下を計る者は天下の安危を視ず、その紀綱の理まるか否かを察するのみ。天下は人なり、安危は肥瘠なり、紀綱は脈なり。脈病まざれば瘠くとも害せず、脈病みて肥える者は危うし。是の故に、四肢故無きも、恃むに足らず、脈のみ。天下事無きも、矜るに足らず、綱紀のみ。尚書省は、天子の喉舌の官、綱紀ここに在り。臣は願わくは尚書省に詔し、百官を戒励して各その職を揚げ、以て綱紀を立てしめられたい。吏部天官のごときは賢を進め不肖を退くるを任とす。誠に升黜に科あり、人を得て任ぜば、則ち綱紀理まりて民その賜を受く。前代の興替、未だ嘗て此よりせざるは無し。」
また曰く、「虞舜は告げずして二妃を娶り。帝嚳は四妃を娶り、天の四星に法る。周の文王は一后・三夫人、嬪禦数あり。淑媛を選求して後宮に充つるは、帝王の制なり。然れども女に美悪無く、宮に入りて妒まれるを見る。陛下嗣續を広めんと欲せば、知らずして告戒せざるべからず。」
また曰く、「臣伏して見るに、本朝は四海を富有し、礼楽制度、一として新たならざるは莫し。宮禁の制、未だ厳密ならず、胥吏健卒の輩、皆出入するを得て、呵止する者無く、混雑して別無きに至る。闌入の法有りと雖も、久しく未だ行わず、甚だしく禁衛を厳にし法令を明らかにする意に非ず。陛下知らずして必ず行わざるべからず。」
疏が奏上されると、上は嘉してこれを納れ、ここに始めて有司に命じて太祖の尊諡を増上することを議させた。皇統八年十二月、翰林侍講学士より横海軍節度使となり、彰徳軍節度使に移った。官に卒す。年六十二。寀は剛直耿介にして、権貴に諂奉して苟も進まんことを希わず、古の君子の風有り。
任熊祥
任熊祥、字は子仁。八代の祖の圜は、後唐の宰相であった。圜の孫の睿は、石晉に従って北遷し、ついに燕の人となった。熊祥は遼の天慶八年に進士第に登り、枢密院令史となった。太祖が燕を平定し、その地を宋に与えると、熊祥は汴に至り、武当丞を授けられた。宋の法では、新たに帰附した官は実務に携わらず、熊祥は郡守の楊皙に言上して曰く、「既に政事に関わらないのであれば、半俸のみを給して親を養うことを請う」と。皙は許さなかったが、その清廉を喜んだ。金人が均州・房州を取ると、熊祥は朝廷に帰順し、再び枢密院令史となった。時に西京留守の高慶裔が院事を摂行し、その意に逆らう者はいなかったが、熊祥はかつてその意に阿って事えることはなかった。その後、杜充・劉筈が燕京行省の同知となり、法制が統一されず、日々異論があったが、熊祥はこれを折衷した。深州刺史・磁州刺史、開封少尹、行台工部郎中、同知汴京留守事を歴任した。天徳初年、山東東路転運使となり、鎮西軍節度使に改めた。この時、詔して徐文・張弘信に東海県を討たせたが、弘信は逗留し、病と称して進まず、杖二百の決罰を受けた。熊祥は詔を受けて会試の主文となり、「事難きを避けざるは臣の職なり」を賦題とした。及び御試に至り、熊祥は再び「賞罰の令、信なること四時の如し」を賦題とし、海陵は大いに喜び、翰林侍読学士とした。大定初年、起用されて太子少師となった。時に契丹の賊の窩斡が勝手に号を称し、北辺で用兵が止まず、上はこれを憂い、詔して公卿百官に招撫・討伐の適宜を議させた。衆は皆異議を唱えたが、熊祥は徐々に進み出て曰く、「陛下は民を労することを憂え、用兵を重んじられるが、恩信をもって招き懐けるに如くはありません」と。上が問うて「誰を行かせることができるか」と。対えて曰く、「臣は老いてはいますが、国の威霊を頼みに、なお一行に堪えます」と。上は曰く、「卿は老いている。煩わすには及ばない」と。七年、再び致仕した。熊祥は母に事えて孝行で知られ、母が没した時、熊祥は年すでに七十であったが、三日間食事を取らず、人皆これを称えた。家で卒した。
孔璠
子 拯
四十八代の端甫という者は、明昌初年、学士の党懐英がその年徳ともに高く、書を読み道を楽しみ、古学に通暁していることを推薦した。召されて京師に至り、特に王沢の榜の及第を賜り、将仕郎・小学教授に除され、主簿の半俸をもって致仕した。
范拱
范拱、字は清叔、済南の人。九歳で文を綴ることができ、『易』学に深かった。宋の末年に進士第に登り、広済軍曹に調され、権邦彦が書記に辟召し、学事を摂行させた。劉豫が東平を鎮守した時、拱が謁廟の文を撰すると、豫はこれを奇とし、深く賞識した。拱は『六箴』を献上した。
齊国が建てられ、累進して中書舎人に擢られた。『初政録』十五篇を上奏した。一は『得民』、二は『命将』、三は『簡礼』、四は『納諫』、五は『遠図』、六は『治乱』、七は『挙賢』、八は『守令』、九は『延問』、十は『畏慎』、十一は『節祥瑞』、十二は『戒雷同』、十三は『用人』、十四は『禦将』、十五は『禦軍』である。豫はその説を容れたが、全てを用いることはできなかった。久しくして、権尚書右丞、進んで左丞、兼ねて門下侍郎となった。
豫は什一の税を民に課し、名は古法としたが、実は収斂であり、刑法は厳急で、官吏が縁故を頼りに暴虐を行った。民は久しく兵革に苦しみ、ますます窮困し、罪に陥る者が多く、境内はこれを苦しんだ。右丞相の張孝純及び拱の兄の侍郎の巽が、極力その弊を言上し、なおも履畝の法に因ることを請うたが、豫は従わなかった。巽は坐して官を貶せられ、これより後は再び敢えて言う者はいなかった。拱は曰く、「私が言えば兄の与党となり、言わなければ百姓は困弊する。私は執政である。寧ろ百姓のために言おう」と。そこで上疏し、その大略は「国家は亡宋の重斂の弊を懲らしめ、什一の税を民に課すのは、本来優恤を務めるためであるが、官吏の奉行が急すぎて、民を駆り立てて禁を犯させており、長久の計ではない」というものであった。豫は即座には従わなかったが、譴責も加えなかった。拱は刑部に命じて諸路で税のために罪に抵る者を条上させると、凡そ千余人に上り、豫はその多さを見て、更に五等税法に改めたが、民はなお重いと感じた。
齊が廃され、梁王の宗弼が行台省事を領すると、拱はその官属となった。宗弼が百姓の利害を訪ね求めたので、拱は減税を請うた。宗弼はこれに従い、旧額の三分の一を減じ、民はようやく蘇息した。拱は許可を慎んだが、士を推挙し、李南・張輔・劉長言は皆、拱の推薦によるものであった。長言は汝州郟城の酒監から省郎に擢げられたが、人はその進んだ所以を知らず、拱もまた自らは言わなかった。久病を理由に近郡を乞い、淄州刺史に除された。皇統四年、病を理由に退任を求め、通議大夫をもって致仕した。斎居して書を読み、妻子と対することも稀であった。
世宗は済南においてその名を聞いた。大定初年、拱は封事を上奏した。七年、召されて闕に赴き、太常卿に除された。郊祀について議論した。或る者が言うには、前代は長安及び汴・洛に都し、太山・華山等の山を五嶽として列したが、今は既に燕に都しているので、別に五嶽の名を議すべきであると。寺僚は『崧高』の疏の「周は酆鎬に都し、呉嶽を西嶽とした」を取った。拱はこれは正しくないと考え、議の大略は「軒轅は上穀に居し、恒山の西にあり、舜は蒲阪に居し、華山の北にあった。これによって言えば、かつて都した所によって嶽祀を改めたことはない」というものであった。後に遂に改めなかった。拱は嘗て言った、「礼官は礼を守るべきであり、法官は法を守るべきである。漢の張釈之のごときは、よく法を守ったと言えよう」と。故にその議論は確然として移奪すべからざるものであった。九年、再び致仕し、家で卒した。年七十四。
張用直
劉樞
王翛
章宗が即位すると、同知大興府事に抜擢された。審録官が奏上して、王翛が前任の顕徳軍において廉潔剛直で、軍吏が行跡を収め、訴訟が無かったと述べた。礼部尚書に遷り、大理卿を兼ねた。宋に使いして還り、ちょうど太師広平郡王徒単貞の改葬があった。貞は章宗の母である孝懿皇后の父である。帝は前代の故事を用い、班剣・鼓吹・羽葆などの儀衛を用いようとした。宰臣は貞が熙宗を弑して誅殺されたことを理由に、難色を示した。そこで詔を下して礼官に議させた。王翛は言った、「晋が丞相王導を葬るに、前後羽葆・鼓吹・武賁・班剣百人を給した。唐以来、大駕鹵簿には班剣があるが、その王公以下の鹵簿には班剣は無く、また羽葆は臣下の用いるべきではない。国朝においても大臣を葬るにこれを用いたことは無い。」上は以前から、唐が大臣李靖らを葬るに皆班剣・羽葆を用いたことを知っており、怒って言った、「典故に無いことは、固より従うべきであるが、用いたとしても礼を過ぎることはない。」ある日、王翛と諫議大夫兼礼部侍郎張暐を詔して殿門に詣らせ、諭して言った、「朝廷の事は、汝ら諫官・礼官こそ弁析すべきである。かつ小民の言でも採用できるものは、朕すら従う。まして卿らにおいておや。今後、事を議するに、ただ尚書省に附和するのみではならない。」
王翛の性質は剛厳で、事に臨んで果決であり、吏民はその威を憚り、豪族といえども敢えて犯す者はなかった。承安年間、知大興府事が欠員となった時、詔して宰臣に諭して言った、「王翛のごとき極めて風力ある者を選んで用いるがよい。」このように上に知られていたのである。
楊伯雄
楊伯雄は字を希雲といい、真定槁城の人である。八世の祖の彦稠は、後唐の清泰年間に定州兵馬使となった。後に晋主に従って北遷し、遂に臨潢に居住した。父の丘行は、太子左衛率府率であった。
海陵王が簒奪して即位すると、数か月後に右補闕に転じ、起居注の修撰を改めて担当した。海陵王は政治の刷新に鋭意取り組み、議論は毎夜遅くまで及んだ。かつて問うた、「君主が天下を治める道で、何が貴いか」。答えて曰く、「静であることが貴い」。海陵王は黙然とした。翌日、また言った、「私は諸部の猛安を移して辺境に分屯させたが、昨夜の答えは、まさかこれを非静と指したのではないか」。答えて曰く、「兵を移して分屯させ、南北が互いに連携するようにすることは、長遠の策です。いわゆる静とは、かき乱さないことです」。乙夜(夜更け)に、また鬼神のことを問うた。伯雄が進み出て言うには、「漢文帝が賈生を召し出し、夜半に前席して、百姓のことを問わずに鬼神を問うたことは、後世大いにこれを譏っています。陛下が臣の愚陋を顧みず、幸いにも天下の大計に及んでお尋ねくださいますが、鬼神のことは、学んだことがありません」。海陵王は言った、「ただ話せ、長夜の倦怠を紛らわすために」。伯雄はやむを得ず、言った、「臣の家に一巻の書があり、人が死んで再び生き返り、冥官にどうすれば罪を免れるかと問うたことを記しています。答えて言うには、汝は一つの暦を置き、昼間の行いを、夜になって書き記せ。書けないことは、してはならぬことだ、と」。海陵王はこれを聞いて表情を改めた。夏の日、海陵王が瑞雲楼に登って涼をとり、伯雄に詩を賦するよう命じた。その卒章に云う、「六月蒸鬱の到るを知らず、清涼会は万方と同じならんとす」。海陵王は喜び、左右の者に示して言った、「伯雄の言葉には規戒を忘れぬ。人臣たる者はこのようであるべきだ」。再び兵部員外郎に転じた。父の喪に服し、起復して翰林待制となり、起居注修撰を兼ねた。直学士に転じ、再び右諫議大夫に転じ、著作郎を兼ね、起居注修撰はもと通りとした。
皇子の慎思阿不が薨去すると、伯雄は同じ宿直の者とひそかに議論したことで罪に坐して責められ、その言葉は『海陵諸子伝』にある。海陵王が江南征伐を議すると、伯雄は奏上した、「晋の武帝が呉を平定した時は、皆将帥に命じました。どうして親しく軍律を総べる労をとる必要がありましょうか」。聞き入れられなかった。そこで起居注の職を落とされ、再び召し出されることはなかった。大定の初め、大興少尹に任じられ、母の喪に服した。顕宗が皇太子となると、東宮の官属が整備され、張浩が伯雄を推薦し、起復して少詹事となった。兄の子の蟠は左賛善となり、言は聴かれ諫めは従われ、当時の論評はこれを栄誉とした。古来の太子の賢・不肖を集めて書とし、『瑤山往鑒』と号して進呈した。また『羽獵』『保成』などの箴を進呈すると、皆嘉納された。再び左諫議大夫・翰林直学士となった。太子詹事に欠員が生じると、宰相がまた伯雄を推挙した。上(世宗)は言った、「伯雄は朕の側を離れることはならぬ。しかし東宮もまた輔導を必要とする」。そこで太子詹事を諫議大夫に兼ねさせた。
六年、上は西京に行幸し、これに乗じて涼陘へ行き避暑しようとした。伯雄は諫官たちを率いて入諫した。上は言った、「朕はゆっくり考えよう」。伯雄が言い続けると、同列の者たちは皆引き下がり、しばらくしてようやく立ち上がった。この年、涼陘に至ると、巡邏に確かに手落ちがあった。上は伯雄の言葉を思い出し、帰還すると、礼部尚書に転じさせ、近臣に言った、「群臣に幹局のある者は多いが、伯雄のように忠実な者は、皆及ばない」。上は伯雄に言った、「龍逄や比干は皆忠諫して死んだ。もし明君に遇っていたならば、どうしてこのようなことがあろうか」。伯雄は答えて言った、「魏徴が良臣たらんことを願ったのは、まさに明君に遇うことを言ったのです」。そこで振り返って宰相に言った、「『書経』に『汝、面従すること無かれ、退いて後言有ること無かれ』とある。朕は卿らと共に天下を治める。事に可否あれば、即ち面と向かって陳べるべきだ。卿らは卿相の位に至った。まさに道を行い名を揚げる時である。安きに偷み自ら便りとし、一時の僥倖を求めて、後世をどうするつもりか」。群臣は皆万歳を称した。
族兄 伯淵
蕭貢
溫蒂罕締達
張翰
任天寵
賛して言う、程寀・任熊祥は遼の進士であり、孔璠・范拱は宋や斉に仕えたが、太祖はいずれも礼遇して接し、金の文治は日に日に盛んとなった。張用直は、海陵親子ともに旧学を並べた。劉樞の練達、王翛の事に強敏、楊伯雄の諷諫に巧みで辞藻に優れ、蕭貢・溫蒂罕締達の文芸が時宜に適っていた。この数人は正隆・大定・明昌の間に相次いで用いられた。張翰・任天寵の経理調度は、宣宗が南遷した際にも、なおその用いるところとなった。金源氏が百余年かけて人材を培植し、その効果を得たことは、ここに大略を見ることができる。