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金史
列傳第四十一:完顏仲元、完顏阿鄰、完顏霆、烏古論長壽、完顏佐・完顏齩住、石抹仲溫、烏古論禮、蒲察阿里、奧屯襄、完顏蒲剌都、夾谷石里哥、朮甲臣嘉、紇石烈桓端、完顏阿里不孫、完顏鐵哥、納蘭胡魯剌
完顏仲元
完顏仲元は、本来の姓は郭氏、中都の人である。大安年間、李雄が兵を募ると、仲元は完顏阿鄰と共に応募し、幾度も功績を挙げた。貞祐三年、阿鄰と共に累功により節度使に至った。仲元は永定軍節度使となり、完顏氏の姓を賜った。仲元の軍は当時最も強力で、「花帽軍」と号し、人は「郭大相公」と呼んで、阿鄰と区別した。間もなく、本路宣撫使を兼ねた。八月、遙かに河間府事を知ることを授けられた。数か月後、済南府事に改められ、山東東路宣撫副使を権知した。
貞祐四年、山東は食糧が不足し、仲元の軍三万は黄河の側か陝右に分屯しようとし、上書して京官への補任を請い、また河朔を回復する策について、宮闕に赴き面陳すべきことを述べた。詔して曰く、「卿兄弟は義旅を鳩集し、所在で功を立て、忠義の誠、皎然として見るべし。朕は参政侯摯が卿と平素厚いことを以て、彼の地に行省することを命じ、応に朕が心を悉くすべし。卿が入見を求めるは、その意固より嘉なるも、東平は正に危うく、正に卿等の相為に声援するに頼る。兵勢稍く緩むを俟ち、即ち軍を徙して河に附き屯駐せしめ、この時卿来るは、蓋し未だ晩からず。尚お力を戮するを思いよ、朕は汝を忘れず」。未だ幾ばくもせず、河北宣撫副使に改められた。
仲元の部将李霆らは積功により刺史・提控に至り、仲元は奏して金牌を賜うことを請い、霆らは皆名将となり、功名は仲元と相埒した。仲元は屡々功績があり、本職を以て従宜招撫使と為し、従坦らの軍と計約して回復を図った。詔して仲元の軍は猥多なりとし、三等に差し、上等は征伐に備え、中下は戍守に給し、懦弱者は皆罷め去らしめた。紅祆賊千余人が漣水県を占拠すると、仲元は提控婁室に兵を率いさせてこれを撃破し、数百を斬首し、祝春を敗走させ、郭偉を生擒し、余衆は奔潰し、遂に漣水県を回復した。仲元は単州経略使を兼ね、婁室は二階を遷され、職一等を昇った。未だ幾ばくもせず、仲元は遙かに帰德府事を知ることを授けられた。
この年の十月、軍を盧氏に移し、商州経略使に改め、権元帥右都監とした。詔して曰く、「商・虢・潼関は実に相連属す、卿は万全の計を思え」。未だ幾ばくもせず、潼関が失守すると、仲元の軍は商・虢に向かい、また嵩・汝に至ったが、皆及ばなかった。仲元は上書して曰く、「去年六月、臣は嘗て朝廷に請い、名将を選んで諸軍を督せしめ、臣は推鋒を得て身士卒に先んじんことを乞うたが、糧儲継がず、竟に行われず。今将に甲を坐して敵を待たんとすれば、則ち師老いて財殫き、日に困弊に就かん」。その大概は西夏を伐って兵勢を張らんことを欲した。また曰く、「陝西一路は最も重地たり、潼関・禁坑及び商州諸隘は倶に預め備うべし。向者中都は、居庸最も要害たりしも、乃ち小嶺・紫荊より繞り出で、我が軍腹背兵を受け、卒く守る能わず。近日禁坑より出で、遂に潼関を失う。精兵を選び分地してこれを戍すべし」。その後乃ち秦・藍の守禦を置き、及び西夏に用兵した。
興定元年、再び単州経略使となり、亀山において宋人二千を破り、また盱眙において歩騎千余を破り、白里港において紅祆を破り、老幼万余を獲たが、皆放ち遣わした。宋人が海州を囲むと、仲元は軍を高橋に置き、提控完顏阿鄰に騎兵を領かせてその後方を繞り出でてこれを夾撃させた。宋兵は解き去った。金帯を賜い、優詔を以て獎諭した。紅祆賊が曹馬城を陥とし、徐・単の間を剽掠した。提控高琬らが分兵してこれを撃ち、生口二千を俘えた。三年、仲元は奏す、「州城既に固く、積糧二十万石、郷義軍万余を集め、併せて閑暇に訓練し、以て守禦に足る。乞うらくは臣が部を率いて河を渡らしめんことを」。詔して宿州に屯し、右都監紇石烈德と同行帥府事を為さしめた。仲元は足疾あり、百日に満ち、詔して曰く、「卿は機務を処置し、将士を撫存す、出兵は李辛をして可ならしめよ」。四年、保静軍節度使を兼ね、尋いで勸農使となった。五年、鎮南節度使となった。
元光元年、鳳翔府事を知った。鳳翔が包囲されると、左監軍石盞合喜が来たりて軍を済した。仲元は合喜に兵事を総べることを譲った。合喜曰く、「公は素より衆心を得たり、必ずしも官位を以て見譲るに及ばず」。仲元は身を以て士卒に先んずることを請い、諸将士に諭して曰く、「凡そ奇功有る者は、即ち承制して超擢すべし」。危急に及ぶや乃ち輒ち四品以下を注した。顏盞蝦蟆は力戦して功最も多く、輒ち通遠軍節度使を授けられた。囲み解け、奏して擅に除拜した罪を請うた。宣宗はその功を嘉し、皆これを許した。元帥右監軍に遷り、河北東路洮委必剌猛安を授けられ、金五十両・重幣十五端・通犀帯を賜い、優詔を以て褒諭された。正大年間、兵部尚書・皇太后衛尉となり、卒した。仲元は将と為り、沈毅にして謀有り、南渡後最も名将と称せられたという。
完顏阿鄰
完顏阿鄰は、本来の姓は郭氏、功績により共に完顏の姓を賜った。大安年間、李雄が兵を募ると、阿鄰は完顏仲元らと共に応募し、幾度も功績を挙げた。宣宗即位、通州防禦使に遷った。宣宗が汴に遷ると、阿鄰は同知河間府事兼清州防禦使に改められ、将として部兵を率い清・滄に駐屯し、山東を控扼した。横海軍節度使に遷り、国姓を賜った。阿鄰は山東路宣撫副使顏盞天澤と相能わず、詔して阿鄰は当に天澤と共に国事を済すべく、偏見を執り妄りに彼此を分つこと無きべしとした。尋いで泰定軍節度使・山東西路宣撫使に改められた。この時、仲元も亦た功労を積み、済南府を知り、完顏の姓を賜り、阿鄰と共に従宜招撫使を加えられ、詔書を以て獎諭され、且つ涿州刺史従坦らの軍と計約して中都を回復せしめんことを令した。ここにおいて、仲元・阿鄰の部兵は猥多なり、詔して三等を以て差第し、上等は征伐に備え、中下は戍守し、懦弱者は罷め去らしめ、量りて地を給してその家を贍わしめた。阿鄰の部する「黄鶴袖軍」で魚台に駐する者は、桀驁にして法に従わず、平民を掠め、商旅を劫し、道路通ぜず、有司は滕州に徙すことを乞うた。詔して阿鄰に就いてこれを処置せしめた。間もなく、泗水県柘溝村において紅祆賊郝定を破り、郝定を生擒して京師に送り斬った。
近制、本朝の姓を賜うるは、凡そ千人を以て敵三千を敗る者は緦麻以上に及び、二千人以上を敗る者は大功以上に及び、千人以上を敗る者はその家に止む。阿鄰は既に姓を賜わり、兄の守楫及び従父兄弟を以て請うた。宰臣は阿鄰の功は一家を賜うに止まると奏す。宣宗は特詔を以てこれを許した。ここに至り仲元は上奏して曰く、「臣は頃に軍旅に在り、才だ微功を立て、遽かに天恩を蒙り、国姓を賜わる。臣が身を殺すを以て能く仰ぎ報ゆるに非ず。族兄徐州譏察副使僧喜・前汾州酒同監三喜・前解州塩管勾添章・守興平県監酒添福は猶お郭氏を姓とす。臣と僧喜らが昔同一家たりしを思い、今両族と為るを念う。完顏阿鄰は臣と同功にして、皇恩の加わる所並びに本族に及び、僧喜ら四人はこの例に依ることを乞う」。許されず。輝州経略使に改められた。
阿鄰は一万五千の兵を有し、詔により五千を東平行省に隷属させようとしたところ、その兵らは泣きながら訴えて云う、「我らは国家の多難に際し、義に奮い相従い、田宅を棄て、親戚を離れ、転戦して此処に至り、共に功を立て、共に郷里に還ることを誓った。今、他軍に分配されんとす、心実に艱苦なり。全軍を以て懐・衛・輝州の間に分駐し、大河を捍蔽せしめ、ただ阿鄰の節制を受けることを乞う」と。阿鄰もまたこれを分かつを欲せず、因ってこれを請うた。宰臣が奏上して云う、「もしこれを聴き容れれば、東平が備えを失うのみならず、他の将もこれを模倣し、皆使うべからざる者とならん」と。宣宗はこれを然りとす。遙授で知河南府事を加え、陝西を応援せしむ。阿鄰は兵八千を将いて西に赴き潼関に至り、京兆が既に包囲され、游騎が華州に至ったと聞く。陝西行院は阿鄰に商・虢に駐軍し、東に向かう路を拒まんことを命ぜんとした。阿鄰は上奏して云う、「臣は本来陝西を援けんとし、難に遇って止まるは、豈に人臣の節ならんや。古より用兵は、歩騎相参じ、乃ち志を得ることを得べし。今は各々所属有り、臨難に救わず、互いに彼此を分つ。今臣の統ぶる所は皆歩卒なり、馬軍千人を賜わらば、則ち京兆の囲み解くに足らん」と。宣宗は皇太子に謂いて云う、「阿鄰は難に赴きて回らず、固より善し。然れども軍勢単弱なり、且つ内地に駐して事変を観、併せて虢州の兵五千をこれに付し、隙に乗じて進ましめよ。卿、この意を以てこれを諭せ」と。
興定元年、元帥右都監に遷り、秦州より出でて宋を伐つ。宋の統制呉筠が皁角堡(角はまた郊と作す)を守り、城は三重、山の巔に拠る。阿鄰は兵を分けてその汲路を絶ち、その外城を克ち、再びその次城を克つ。宋兵は火を放って出で、阿鄰は騎兵を以てこれを邀え、歩卒を遣わしてその後を襲わしむ。宋兵敗れ、呉筠及び将校二百人を生け捕り、馬数百匹、糧万石及び兵甲衣襖を得る。また裴家莊六穀中にて宋兵を破り、五百級を斬り、澗に墜ちて死する者甚だ衆し。また寒山嶺・龍門関・大石渡にてこれを破り、粟二千余石を得る。また稍子嶺にてこれを破り、二千余級を斬首し、百人を生擒す。時に三月、宿麦方に滋え、阿鄰は兵を留めてこれを守る。已にして宋兵大いに至り、金兵敗れ、阿鄰戦没す。金紫光禄大夫・西京留守を贈られる。
完顔霆
完顔霆、本姓は李氏、中都宝坻の人。粗く書を知り、騎射に善く、財を軽んじ施しを好み、郷曲の誉れを得る。貞祐初年、県人共に霆を推して四郷部頭とす。霆は離散を招集し、義兵を糾合し、衆これに頼りて安んず。招撫司その事を奏し、両官を遷す。霆は弟の雲と共に衆数千を率いて固安・永清の間を巡邏し、遙授で宝坻県丞を授かり、義軍都統を充す。劉璋が霆を説き出でて降らんことを勧むると、霆は縛して経略司に送る。三階を遷し、宝坻令を摂し、都提控に昇り、遙授で同知通州軍州事を授かる。
中都食尽き、霆は軍を遣わし分かって清・滄河路を護り、賈船を召募して餉道を通ぜしむ。遙授で同知清州防禦事を授かり、河北路宣撫使完顔仲元に従い清・滄を保つ。遙授で通州刺史・河北東路行軍提控を授かり、金牌を佩ぶ。旧制、宣撫副使乃ち金牌を佩ぶ。仲元奏上して云う、「臣の軍三万、管軍官三人、皆五品に至る。各々金牌を賜わらんことを乞う」と。廷議、霆らは忠勇人に絶するあり、遂にこれに与う。大名路提控に改め、また玉田・三河・香河の三県を取る。濱・棣・淄に徙屯し、副将孫江を留めて滄州を守らしむ。江は滄州を以て王楫に降り、而して江は兵を将いて観州を囲む。霆は乃ち詐りて書を孫江に与え、共に滄州を取らんことを約す。王楫その書を得て、果たして孫江と霆に謀有りと疑い、江を召し還し、これを殺す。霆は乃ち観州を定めて還る。官三階を進め、濱・棣行軍都提控を充す。未だ幾ばくもせず、遙授で同知益都府事を授かり、宣差都提控を加えられ、棣州防禦使に遷り、完顔氏の姓を賜わり、海州に屯す。俄に単州経略司事を権め、宣差総領都提控を充す。
興定元年、泰安・滕・兗に土寇蜂起す。東平行省侯摯、霆を遣わし兵を率いてこれを討たしむ。石花五・夏全の余党二万人、老幼五万口を降し、権海州経略副使を充す。紅祆賊の於忙児が海州を寇すと、霆はこれを撃ち走らす。二年、宋の高太尉兵三万、朐山に駐す。霆の軍糧乏しく、野菜麦苗を采り雑食す。宋兵は朐山に柵をなし、下に湖港を隔つ。霆は港中に暗橋を作り、万戸胡仲珪・副統劉斌に死士を率いさせ暗橋より登山せしめ、霆は兵四千人を率いて山下に趨り、昏時に火を挙げるを期と約し、上下夾撃す。宋兵大敗し、澗に墜ち水に溺れて死する者算うるに勝えず、陣中に高太尉・彭元帥を斬り、余衆潰走す。安化軍節度使に遷り、経略副使は元の如し。その子を以て符宝典書とす。一月余りを経て、宋兵また至る。霆は逆戦し、兵を城外に駐む。夜半、宋人虚に乗じて城を逾え入る。経略使阿不罕奴失剌、兵を率いて戦いを扼し、都統温迪罕五児・副統蒲察永成・蒲察只魯、身を士卒に先んじ、二百余人を殺し、城これに頼りて完し。詔して五児ら各々両階を遷す。
四年、集慶軍節度使に改め、兼ねて同知帰徳府事を帯びる。五年、定国軍節度使に改め、兼ねて同知京兆府事を帯び、その子を抜擢して護衛とす。元光元年、陝西行省白撒奏上して云う、「京兆南山は密邇として宋境に接し、官民その間に遷避する者、慮るに百万人に及ぶ。官を遣わし鎮撫せしめば、庶幾くは他変を生ぜざらん」と。宣宗これを然りとす。十月、霆は本官を以て安撫使と為り、守同知帰徳府惟宏・大司農丞郭皓を副使とし、南山に遷る百姓を分護せしむ。元光二年、卒す。
烏古論長寿
烏古論長寿、臨洮府第五将突門族の人。本姓は包氏、父の永を襲い本族都管と為る。泰和年間宋を伐つに当たり、緋翮翅軍千戸を充し、褷川寨及び祐州・宕昌・辛城子を取り、功により官二階を進む。貞祐初年、夏人会州を攻む。統軍使、征行万戸に署し、副統に昇り、夏人と窄土峡に戦い、先登して陣を陷ち、銀五十両を賞される。東関堡に戦い、功により都統に署し、兼ねて安定・定西・保川・西寧軍馬都弾圧を充す。詔して前後の功を録し、遙授で同知隴州防禦事を授かり、世襲で本族都巡検と為る。三年、今の姓を賜わる。蘭州の程陳僧を攻め、先鋒都統と為る。夏人臨洮を囲み、渭源堡を扼し、内外通ぜず。統軍司、人を募り臨洮の消息を偵候せしむ。長寿応募し、二人を馘り、一人を擒え、臨洮及び夏兵の事勢を問い得る。労により宣武将軍に遷り、遙授で通遠軍節度副使を授かる。諸蕃族及び熟羊寨秦州の逋亡者を招降す。また懐遠大将軍に遷り、提控に昇る。興定元年、夏人大いに隴西に入る。長寿拒戦し、平涼府治中に遷り、兼ねて節度副使を帯び、宣差鞏州規措官を充す。頃くして、遙授で同知鳳翔府事を授かり、兼ねて同知通遠軍節度事を帯び、提控は元の如し。
興定二年、同知臨洮府事に遷る。提控洮州刺史納蘭記僧と分兵して宋を伐つ。長壽は鹽川鎮より進兵し、宋人の守戍者は走って馬頭山に保ち、諸部族の兵を合わせて来て拒ぐ。長壽これを撃ち破り、さらにその援兵四千を荔川寨に破る。すなわち宕昌縣に趨る。宋兵二千を八斜穀に破り、宕昌縣を抜き、西和州に進攻し、先ずその州兵を敗る。明日、木波の兵三千が宋兵と合し、川に依って陣を為す。長壽奮撃し、宋兵は城に入って保ち、堅壁して再び出ず。長壽乃ち還る。凡そ斬首八千、馬二百余、牛羊三萬を獲、器械軍實甚だ多し。納蘭記僧は洮州鐵城堡より出で、しばしば宋人を破り、軍を完うして還る。詔して鳳翔・秦・鞏の宋を伐つ将士を賞し、長壽は遙かに隴安軍節度使を授けられ、同知通遠軍・提控はもと通り。頃いて、長壽は総領都提控に昇り、通遠軍節度使に改む。
夏人は定西を攻む。この時弟の世顯はすでに夏人に降り、夏人は世顯を執って定西城下に至り、長壽に謂いて曰く、「若し速やかに降らざれば、即ち汝の弟を殺さん」と。長壽顧みず、奮戦す。夏兵退く。榮祿大夫を加えられ、金二十五両・重幣三端を賜う。世顯既に降り、二子の公政・重壽は縁坐すべし。宣宗は長壽の定西を守る功を嘉し、公政兄弟を釈し、有司に廩給せしむ。長壽に詔して曰く、「汝久しく戎行に在り、国事に尽忠す。世顯の降るは、必ずや已むを得ざるなり。汝永く国恩を念い、益々自ら効うことを思え」と。未だ幾ばくもせず、夏人はまた會州を攻む。行元帥府事石盞合喜は兵を発して救うも未だ至らず、夏人は兵を移して臨洮に臨む。長壽は精兵五千を定西の険要の間に伏せ、夏兵三万騎を破り、千余人を殺し、馬数百を獲る。夏人はすでに西寧を破り、乃ち定西を犯す。長壽これを撃ち却け、首級三百を斬る。既にして三万騎また至り、城を攻むること甚だ急なり。長壽は城に乗って拒戦し、矢石雨の如し。夏兵の死者数千、創を受くる者衆し。乃ち解きて去る。この歳卒す。
完顏佐・完顏齩住
完顏佐は、本姓は梁氏、初め武清縣の巡檢と為る。完顏齩住は、本姓は李氏、柳口鎮の巡檢と為る。久しくして、佐を以て都統と為し、齩住を副とし、直沽寨に戍る。貞祐二年、颭軍は張暉ら三人を遣わして佐を招かしむ。佐これを執る。翌日、劉永昌は衆二十人を率いて文書を持ち来たり、その年を署して天賜と曰う。佐これを擲ち、衆を麾いて永昌を執り、及び暉らと並びに斬る。宣宗その功を嘉し、佐を奉国上將軍に遷し、遙かに德州防禦使を授け、齩住を鎮国上將軍に遷し、遙かに同知河間府事を授け、皆完顏氏を賜姓す。詔して曰く、「今より忠義かくの如き者有らば、並びに一体に遷授すべし」と。
賛に曰く、古は天子土を胙けて氏を命ず。漢以来乃ち賜姓有り。宣宗は一時の功を賞するに仮り、郭仲元・郭阿鄰は功を以て皆国姓を賜わる。女奚烈資祿・烏古論長壽は皆封疆の臣にして他姓を賜わる。貞祐以後、賜姓に格有り。名を以て人を使う、之を用いるに貴ければ則ち貴く、之を用いるに賤しければ則ち賤し。人をして功を計りて国姓を得しむれば、則ちその貴き者を以て却って賤しと為す。完顏霆・完顏佐は皆国姓を賜わる者、並びに此に附す。
石抹仲溫
石抹仲溫は、本名は老斡、懿州胡土虎猛安の人。護衛十人長・太子僕正に充て、同知武寧軍節度使事・宿直將軍・器物局使を除く。前に武寧に在りて馬鞍を造り直を虧いたるに坐し、章宗これを原し、左衛將軍に改め、左副點檢に遷る。契丹を征して逗留したるに坐し、蔡州防禦使に降る。また召されて左副點檢と為り、知臨洮府事に遷る。泰和の宋を伐つに、青宜可内附す。爵二級を進め、銀二百五十両・重幣十端を賜わる。詔して曰く、「青宜可の来るは、乃ち汝の管内なり。与に労有り。比く青宜可と相合するに、その間の諸事は宜を量りて行え」と。頃いて、諸道兵を進む。仲溫は隴右の歩騎五千を以て鹽川より出づ。八年、兵を罷め、知河中府に改む。崇慶初め、陝西統軍使に遷る。貞祐二年、宋人秦州を攻む。仲溫兵を率いてこれを破る。尋いで本路安撫使に充て、鎮南軍節度使に改む。致仕す。興定三年卒す。
烏古論禮
烏古論禮は、本名は六斤、益都猛安の人。習騎に充て、累擢して近侍局直長と為り、本局副使・左衛副將軍に転ず。沁南軍節度使兗王永成の名馬玉帯を受けしに坐し、杖一百、官を削り職を解く。起きて蒲速碗群牧副使と為り、武庫署令・宿直將軍に改め、また左衛副將軍・順州刺史と為り、累遷して武寧軍節度使と為る。泰和の宋を伐つに、山東路兵馬都統副使兼副統軍・安化軍節度使と為る。八年、宋人盟を請う。兵馬都統官を罷め、仍節度使を以て副統軍を兼ぬ。大安三年、知歸德府兼河南副統軍に改め、歴て知河南府と為る。至寧初め、知太原府事に改む。貞祐二年、河東北路安撫使を兼ぬ。三年、本路宣撫使に充て、頃いて、左副元帥を兼ぬ。四年、太原囲まれる。未だ幾ばくもせず囲み解く。官二階を進む。興定三年卒す。
蒲察阿里
蒲察阿里は、興州路の人。廕を以て官に補せられ、護衛十人長・武器署令に充て、宿直將軍に転じ、右衛副將軍に遷る。宋兵分道鋪を犯す。駅を馳せて辺に赴き、その入るを伺い、伏兵を以てこれを掩う。提點器物局に改む。泰和の宋を伐つに、右副元帥匡に従い副統と為り、宜城縣を攻めてこれを取る。八年、功を以て武衛軍副都指揮使に遷る。大安元年、同知南京留守事と為り、壽州防禦使に徙り、興平軍節度使に遷る。崇慶初め、元帥右都監に遷る。明年、左都監に転ず。時に都城囲まれる。道路梗塞す。阿里は太原より真定に至り、師を率いて赴援し、中山に抵るも進むこと克たず。貞祐二年、大名に移り駐る。河南の鎮防軍を征して再挙を図る。衆既に行うを憚り、而して阿里の之に遇すること厚薄有り。軍変し、害に遇う。衆因りて逃散す。宣宗詔して元帥左都監完顏弼にその軍を安集せしめ、首悪以下を赦し、河南統軍司にさらに撫諭せしむ。
奧屯襄
奧屯襄は、本名は添壽、上京路の人。大定十年、猛安を襲う。丞相襄は辺事に通練なるを挙げ、崇義軍節度副使を授け、烏古里颭詳穩に改め、召されて都水少監・石州刺史と為る。未だ幾ばくもせず、平南蕩江將軍と為り、功を以て壽州防禦使に昇り、河南路副統軍兼同知歸德府事・昌武軍節度使に遷り、仍副統軍を兼ぬ。崇慶改元、元帥左都監と為り、西京を救う。墨穀口に至り、一軍尽く殪る。襄僅かに身を免る。是に坐して名を除かる。明年、上京兵馬使を授かる。宣宗即位す。擢でて遼東路宣撫副使と為る。未だ幾ばくもせず、速頻路節度使に改め、同知上京留守事を兼ぬ。二年二月、元帥右都監と為り、行元帥府事を北京に於いて行う。五月、留守に改め、前職を兼ぬ。俄て宣撫使に遷り留守を兼ぬ。
十一月、詔を下して襄及び遼東路宣撫使蒲鮮萬奴・宣差蒲察五斤に諭して曰く、「上京・遼東は国家の重地なり。卿等が累ね忠勤を効せしを以て、故に腹心を委ぬ。その協力公を尽くし、以て国家の急に殉ぜんことを意う。及んで来奏を詳らかにするに、乃ち大いに然らず。朕将に何をか頼まん。自今より毎事同心し、力を併せて備禦に努めよ。機会一たび失えば、悔ゆるも何ぞ及ばん。且つ師克つは和にあり、善は鈞しく衆に従う。尚ほ前過を懲らし、以て後功を図れ」と。三年正月、襄は北京宣差提控完顏習烈に害せらる。未だ幾もなく、習烈また其の下に殺さる。詔して北京を曲赦す。
完顏蒲剌都
完顏蒲剌都は、西南路按出灰必剌罕猛安の人なり。護衛に充てられ、泰定軍節度副使を除かる。憂いのため官を去り、起復して唐古部族節度副使となり、安国軍に移り、颭詳穩に移り、累官して原州刺史となる。部内の馬を買い直を虧くに坐し、官一階を奪われ、北京兵馬都指揮使・甯遠軍刺史に降り、歴て臨洮府同知・西京留守事を経る。崇慶元年、震武軍節度使に遷り、備禦に功あり、一官を遷る。貞祐初め、東西面経略司を置き、就て西面経略使を充て、上言す、「管内の大和嶺諸隘に兵を屯し、辺要を制す。行元帥府輒ち臣が兵万二千を分かち真定に戍らしむ。余衆は守禦に足らず、近日また精鋭二千七百人を簡びて以て往かしむ。今見兵は万に満たず、老羸なる者十の七八なり。臣の死は固より惜しむに足らず、顧みるに国家の事は慮わざるべからず。新設の経略は西京・太原・河東に移文して軍馬を取るも、大数並びに臣の統ぶる所に非ずと称す」と。詔して真定元帥府に其の精鋭二千七百人を還さしむ。西京・太原・嵐州に警急あれば、約して応援す。州郡皆経略司に属するを欲せず、遂に経略官を罷め、入りて簽樞密院事となり、左副点検に改む。四年、兵部尚書に遷り、興定元年、致仕す。四年、卒す。
夾谷石里哥
夾谷石里哥は、上京路猛安の人なり。明昌五年進士、泰州防禦判官、尚書省令史を補し、歴て臨潢・婆速路都総管判官、累除して刑部主事となり、薊州副提控に改め、大名に軍を駐む。俄かに翰林待制に遷り、宿州提控となる。山東宣撫完顏弼とともに大沫堌を攻む。賊衆千余逆戦す。石里哥騎兵を以て之を撃ち、尽く殪す。提控沒烈北門より入り、遂に劉二祖を擒う。功を以て武衛軍副都指揮使に遷る。前に宿州に在りて良人を掠めて生口とせるに坐し、死に当たるも、特詔して杖八十を決す。洺州防禦使・山東路副統軍に徙す。時に進兵せざるに坐し、妻子を取らんと往きて宿遷す。職を解かる。起ちて東平行軍提控となる。興定元年、宿州にて宋兵を破り、功を以て遙授に安化軍節度使となり、定海軍に移り、卒す。
朮甲臣嘉
朮甲臣嘉は、北京路猛安の人なり、父の謀克を襲ぐ。泰和の宋伐に、陝西完顏綱の麾下に隷す。歴て通州・海州同知軍州事。貞祐二年、武器署丞を除かる。集寧を救いて功あり、河南統軍判官・拱衛直副都指揮使・河南治中に遷り、遙領に綏州刺史兼延安治中となり、就て同知府事に遷り、同知河間府事に改む。興定元年、行樞密院を寿州に置き、寿・泗より淮を渡り宋を伐つ。二年二月、漸湖灘にて宋兵三千を破り、三百級を斬る。詔ありて宋境上を蹂躙し、深く入る毋れと。臣嘉霍丘楂岡村に駐り、軽騎を縦して鈔掠し、積聚を焚毀す。宋の諜者張聰を獲る。宋兵二千が高柳橋に屯し、老幼甚だ衆く、其の寨は両城にして、之を水を以て環らすを知る。臣嘉張聰を持牒して之を招かしむ。従わず。先ず水軍をして径ちに渡りて之を攻めしむ。軍士牛青戈を操りて門卒を刺す。皆披靡して散去す。遂に陴に登る。大軍之に継ぐ。其の寨を夷して還る。梅景村にて宋兵数千に遇う。臣嘉林間に伏兵し、歩卒を以て之を誘致す。伏発し、宋兵潰く。十余里を追奔し、其の将阮世安等五人を生擒し、器仗甚だ衆きを獲る。七月、征南の功を賞し、職一等を升し、元帥右都監に遷り、陝西行省参議官を充てる。四年、兼ねて金安軍節度使となる。五年、延安府事を知るに改め、左都監に転じ、京兆に兵を駐む。元光元年、卒す。
紇石烈桓端
紇石烈桓端は、西南路忽論宋割猛安の人なり、兄の銀朮可謀可を襲ぐ。泰和の宋伐に、行軍万戸を充て、蔡州にて宋兵二千を破り、宣武将軍を加う。寿州より淮を渡り、鷂子嶺にて宋歩騎一万五千を敗り、遂に安豊軍を克つ。軍還り、同知懷遠軍節度事を除かり、権木典颭詳穩を権む。大安三年、西京行省選びて合紮万戸を充て、遙授に同知清州防禦事となり、興平軍節度副使に改め、遙授に顕徳軍節度副使となり、遼東路宣撫司都統に徙す。禦河寨にて移剌留哥の万五千の衆を敗り、車数千両を奪い、万余人を降す。驃騎衛上将軍を加え、遙授に同知順天軍節度事となる。
貞祐二年、宣差副提控となり、同知婆速路兵馬都総管、行府事を兼ぬ。貞祐三年、蒲鮮萬奴咸平・東京沈・澄諸州を取り、及び猛安謀克の人も亦多く之に従う者あり。三月、萬奴歩騎九千婆速近境を侵す。桓端都統溫蒂罕怕哥輦を遣わして之を撃ち却く。四月、また上京城を掠め、都統兀顏缽轄を遣わして拒戦せしむ。萬奴別に五千人を遣わして望雲驛を攻む。都統奧屯馬和尚之を撃つ。都統夾穀合打三叉里にて其の衆数千を破る。五月、都統溫蒂罕福寿大寧鎮にて萬奴の衆を攻め、其の壘を抜き、其の衆殲さる。九月、萬奴の衆九千人宜風及び湯池より出づ。桓端兵を率いて之と戦い、其の衆潰去す。因りて奄吉斡・都麻渾・賓哥・出臺・答愛・顔哥・不灰・活拙・按出・孛徳・烈鄰の十一猛安を招き、復た来附せしむ。其の丁男を択びて軍に補い、城邑の未だ下らざる者を攻む。貞祐四年、桓端王汝弼を遣わし海道より事を奏す。宣宗其の功を嘉し、桓端遼海軍節度使・同知行府事に遷り、宣差提控は故の如し。婆速路溫甲海世襲猛安・権同知府事溫蒂罕哥不靄顕徳軍節度使に遷り、婆速府治中を兼ぬ。権判官・前修起居注裴滿按帯は両階を遷り、二等を升す。王汝弼は四階を遷り、四等を升す。余の将士功ある者は、詔して遼東宣撫に承制して遷賞せしむ。是の歳、邳州刺史に改め、徐州界都提控を充てる。
紅襖賊数万が邳州を攻め、桓端は黄山においてこれを破った。賊が再び来寇し、桓端はその営に迫り、賊は北山に逃れて保ち、追撃してこれを敗り、沂水に溺死する者が甚だ多かった。賊数万が沂州を包囲し、同知防禦事僕散撒合が包囲を突き破って出て救いを求め、桓端は兵を率いてこれに赴いた。撒合は沂州に還り入り、桓端と内外より挟撃し、一万余人を殺し、賊は去った。枢密副使僕散安貞はその功績を上奏し、ついで奏して言うには、「桓端は天資忠実にして、深く計画あり、軍事に通暁し、撒合は勇にして謀あり、皆軍民の心を得たり。乞うらくはこれを擢用せられんことを」と。桓端は金紫光禄大夫に進み、兼ねて同知武寧軍節度事と為り、提控はもと通りと為す。召されて勧農副使と為り、都提控を充て、陳州に屯す。
興定元年、新息より淮を渡り宋を伐ち、中渡店を破り、定城に至り、寡をもって衆を撃ち、戦いて行を留めず。未だ幾ばくもなく、宣差参議官を充て、再び淮を渡り、連ねて宋兵を破り、その将沈俊を獲、武衛軍副都指揮使に遷る。宋人は城を守りて出でず、兵を分けてその山寨水堡を攻め、殺獲甚だ多し。興定二年、鎮南軍節度使に遷り、権元帥右都監を兼ねる。数ヶ月にして、武衛軍都指揮使に改め、なお権右都監を兼ね、息州において行元帥府を開く。
徐州行枢密院石盞女魯歓は剛愎自用なり、詔して桓端に本官をもって権簽枢密院事を兼ねさせ、往きてこれを代わらしむ。四年冬、上言す、「窃かに聞く、宋人と李全と将に力を併せて来攻せんとす、当に予めこれが防備を為すべし」と。枢密院奏して可とし、桓端を召して朝臣と面議せしむ。未だ幾ばくもなく疾あり、太醫の御薬を賜う。五年正月、京師に召し至るも、疾病して入見できず、力疾して奏を草し、大略南北皆兵を用うるに当り、その患いを予め防ぐべきこと、及び河を防ぐ数策を論ず。未だ幾ばくもなく卒す、年四十五。勅して有司に喪事を給せしむ。
完顔阿里不孫
完顔阿里不孫、字は彦成、曷懶路泰申必剌猛安の人なり。明昌五年進士、易州・忻州軍事判官・安豊県令に調ず。尚書省令史を補し、興平軍節度副使を除かれ、応奉翰林文字と為り、修撰に転じ、元帥左監軍紇石烈執中の経歴官を充てる。執中が楚州を囲み、兵を縦して大いに掠奪す、諫めて正さざる罪に坐し、杖五十を決す。大安初め、戸部員外郎・鈞州刺史に改む。執中が西京に行枢密院を開き、再び経歴官と為す。威州刺史に改む。貞祐初め、累遷して国子祭酒に至り、越王・濮王傅を歴任し、同知平陽府事に改め、兼ねて本路宣撫副使と為る。召されて兵部侍郎と為り、翰林侍講学士に遷る。陝西路宣撫副使に改め、元帥左都監に遷る。河平軍節度使・河北西路宣撫副使に改む。御史中丞・遼東宣撫副使に改む。再び一月を閲し、権右副元帥・参知政事・遼東路行尚書省事を兼ね、御衣・廄馬・安山甲を賜わる。上京行省蒲察五斤その功を奏し、金百両・絹百匹を賜わる。
興定元年、真に参知政事を拝し、権右副元帥を兼ね、婆速路において行尚書省・元帥府を開き、承制して刺史以下を除拝す。協わず。是の時、蒲鮮万奴が遼東に拠り、婆速の境を侵掠し、高麗その強を畏れ、糧八万石を助く。上京行省蒲察五斤が入朝し、遼東の兵勢愈々弱く、五斤は江山に肇州を守らせ、江山も亦頗る去就を懐く。及び上京宣撫使蒲察移剌都が陝西行省参議官に改められ、而して伯徳胡土遂に異志有り。宣撫使海奴が制使を迎えず、坐して詔を受け、阿里不孫これを械繫す。頃にして、阿里不孫輒ち矯制して諸道に大赦し、衆乃ち稍く安んじ、而して朝に請罪す。
初め、留哥が広寧に拠り、広寧府事温迪罕青狗が蓋州に居り、妻子は広寧に留まり、伯徳胡土と約して兄弟と為る。青狗の兵は阿里不孫に隷し、内に猜忌して協わず、蒲察移剌都嘗て青狗の阿里不孫に隷せざるを奏す。宣宗乃ち青狗を召すも、青狗詔を受けず、阿里不孫これを殺す。胡土乃ち阿里不孫を怨む。既にして胡土衆を率いて高麗を伐ち、乃ち兵をもって阿里不孫を戕殺す。権左都監納坦裕と監軍温迪罕哥不靄・遙授東平判官参議軍事郭澍、胡土を誅せんと謀るも、未だ発せず、会に上京留守蒲察五斤が副留守夾谷愛答・左右司員外郎抹撚獨魯を遣わして裕に計事せしむ。裕謀を以て二人に告げ、二人諾し、遂に胡土を召して帳中に至らしめてこれを殺す。阿里不孫既に死し、朝廷始めて矯赦の奏疏を得、詔して有司に獎諭せしむ。未だ幾ばくもなく、阿里不孫の乱に死するを聞き、詔して平章政事・芮国公を贈る。納坦裕は真に左都監を授けられ、哥不靄は一階を進められ、愛答・獨魯・郭澍は官を遷し職を升すこと差等有り。
阿里不孫は寛厚にして人を愛し、吏事に敏にして、劇要を治むる能くし、識者はこれを用いて未だ尽くさざるを以てすと云う。
完顔鉄哥
完顔鉄哥、性淳直にして、体貌雄偉、粗く書に通ず。年二十四、父の速頻路曷懶合打猛安を襲う。広威将軍を授かる。下を御するに恵愛有り。廉を察し、臨海軍節度副使を除かれ、底剌颭詳穏に改む。丞相襄が北京に行省を開き、鉄哥は先鋒万戸と為り、功有り。母憂に遭い、服除け、同知武勝軍節度使事に遷り、右副元帥完顔匡の副統を充て、平南蕩江将軍と号す。光化軍を攻め、王統制が歩騎を率いて東門より出で逆戦す、鉄哥これを撃ち却け、鹿角を抜き、門を奪いて以て入り、遂にこれを克つ。襄陽を進攻し、前駆と為り、生口を獲、江の渡るべき所を知り、陰に標を植えて以てこれを識す。大軍至り、鉄哥これを導きて渡らしめ、屡戦して皆捷し、労により官二階を進む。匡が徳安を囲み、鉄哥は総領して城を攻め、徳安南鳳凰台に塁を築き、城に並びて甬道を作り、鵝車・対楼を立ててこれを攻め、張統制の兵を撃ち走らす。時に暑く、還りて鄧州に屯す。兵罷み、官二階を進め、同知臨潢府事に遷り、西南路副招討・宿州防禦使に改む。貞祐二年、枢密使徒単度移剌が鉄哥を都統に充て、中都に入り衛す。東北路招討使に遷り、兼ねて徳昌軍節度使と為る。
蒲鮮万奴が咸平に在り、鉄哥の兵強きを忌み、牒を以てその部の騎兵二千を取らんとし、又泰州の軍三千及び戸口を召して咸平に遷らしむ。鉄哥その異志有るを察し、遣わさず。宣撫使承充が鉄哥を召して上京に赴かしめ、蒲与路を伐たしむ。既に還り、適に万奴が承充に代わり宣撫使と為り、前に軍を発さざる罪を挙げ、獄に下されて害せらる。諡して勇毅と曰う。
納蘭胡魯剌
納蘭胡魯剌は、大名路怕魯歡猛安の人である。性質は淳朴で正直、言葉少なく笑わず、読書を好み、古今に博通した。承安二年、進士第一となり、応奉翰林文字に除せられた。詔を被り臨潢・上京等路において牛を括る。丞相襄は肇州に田を有し、家奴が牛を匿して実を以て聞かせず、即ち械繫してその罪を正し、これを尽く括った。ここにおいて豪民は皆懼れ、敢えて匿す者無し。使い還り、襄はその能を称す。父喪に居り礼を尽くし、御史はその清節を挙ぐ。服除け、修撰に転ず。平章政事僕散端は廉能にして文采有るを挙げ、同知順天軍節度使事に遷り、宋を伐つに従う。労により朝請大夫を加えられ、礼部員外郎・曹州刺史に改む。豪民僕散掃合は定陶間に私渡を立て、逃兵盗劫、皆これが囊橐と為し、累政敢えて問う者莫し。胡魯剌これを捕治し、その党を窮竟し、闔郡肅然たり。沃州に改む。南京路按察副使に改む。貞祐二年、泗州防禦使に改む。召されて吏部侍郎と為り、絳陽軍節度使に遷り、権河東南路宣撫副使を兼ねる。是の時兵興り、胡魯剌は城郭を完うし、器械を繕い、丁壮を料して郷兵と為す。耆老を延問し、儒士を招致し、備禦の策を以て諮る。塩米の儲偫、富民に出粟を勧め、郡これに頼りて完うす。詔を賜い褒諭し、資善大夫を加え、その次子吾申に官す。権経略使に改められ、召さるるも、疾を以て行く能わず、絳州に卒す。
賛に曰く、泰和・貞祐、その間相去ること五年のみ、故に将遺老往々にして在り。高琪君を得て、宿将は皆外に斥けられたり。高汝礪職に任じて、旧臣は皆藩を守る。重任を仮すも、その実これを疏んず。故に石抹仲温以下、以て当時の将校を見る。