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遼史
列傳第二十八: 蕭兀納 耶律儼 劉伸 耶律胡呂
○蕭兀納耶律儼劉伸耶律胡呂
蕭兀納は、一名を撻不也、字は特免、六院部の人である。その先祖は嘗て西南面拽剌を務めた。兀納は魁偉で簡重、騎射に長じた。清寧の初め、兄の図獨が事有りて入見し、帝が族人の中で用いるべき者を問うと、図獨は兀納を以て答えたので、祗候郎君に補された。近侍敞史に遷り、護衛太保を務めた。大康の初め、北院宣徽使となった。時に乙辛は既に太子を害し、因って宋魏國王和魯斡の子の淳を儲嗣とすべきであると進言した。群臣は敢えて言う者なく、唯兀納及び夷離畢の蕭陶隗が諫めて曰く、「嫡を捨てて立てず、是れ国を以て人に与えるなり」と。帝は猶豫して決せず。五年、帝が狩猟に出ると、乙辛は皇孫を留めるよう請うた。帝は従おうとした。兀納が奏して曰く、「窃かに聞く、車駕出遊し、将に皇孫を留めんとす。苟くも保護の人に非ざれば、他変有るを恐る。果たして留むるならば、臣は左右に侍することを請う」と。帝乃ち悟り、皇孫に従行を命じた。此れより乙辛を疑い始めた。間もなく、同知南院樞密使事となり、乙辛・淳等を出した。帝は其の忠を嘉し、蘭陵郡王に封じ、人は古の社稷の臣に近しと謂った。殿前都點檢を授けられた。上は王師儒・耶律固等に謂って曰く、「兀納は忠純なり、狄仁傑が唐を輔け、屋質が穆宗を立てたと雖も、以て過ぐるは無し。卿等宜しく燕王に知らしむべし」と。是より兀納に燕王を輔導せしめ、益々優寵を見る。大安の初め、詔して越國公主に尚せしめんとしたが、兀納は固く辞した。南院樞密使に改め、掾史は宜しく歳月を以て叙を行うべきことを奏請し、従われた。壽隆元年、北府宰相に拝された。
初め、天祚帝が潜邸に在った時、兀納は数度直言を以て旨に忤った。及んで嗣位すると、遼興軍節度使に出され、太傅を守った。佛殿小底の王華が兀納が内府の犀角を借りたと誣ったので、詔してこれを鞫らしめた。兀納は奏して曰く、「臣は先朝に在り、詔して日ごとに帑銭十万を取って私費とすことを許されましたが、臣は妄りに一銭も取ったことはありません。肯んで犀角を借りましょうか」と。天祚帝は愈々怒り、太傅の官を奪い、寧邊州刺史に降とし、尋いで臨海軍節度使に改めた。兀納は上書して曰く、「蕭海裏が亡走して女直に入って以来、彼らは朝廷を軽んずる心あり、宜しく兵を益して不虞に備うべし」と。報いられず。天慶元年、黄龍府事を知り、東北路統軍使に改め、再び上書して曰く、「臣の治める所は女直と境を接し、其の為す所を観るに、其の志小さからず。宜しく其の未だ発せざるに先んじ、兵を挙げてこれを図るべし」と。奏章は数度上ったが、皆聴かれなかった。及んで金兵が来侵し、寧江州にて戦い、其の孫の移敵蹇が之に死し、兀納は退走して城に入った。官属を留めて守禦せしめ、自ら三百騎を以て混同江を渡り西し、城は遂に陥落した。後に蕭敵裏と共に長濼にて金兵を拒ぎ、軍敗れたるを以て官を免ぜられた。五年、天祚帝が親征し、兀納は殿し、再び敗績した。数日後に乃ち百官と共に入見し、上京留守を授けられた。六年、耶律章奴が叛き、来たりて京城を攻む。兀納は府庫を発して士卒に賚い、逆順を諭し、城池を完うし、死を以て拒戦した。章奴は得る所無くして去った。功を以て副元帥を授けられ、尋いで契丹都宮使となった。天祚帝は兀納が先朝の重臣にして、定策の勲有るを以て、毎に政を問うて延見したが、兀納の対する所甚だ切直であった。上は優容したが、終に用いる能わず。疾を以て卒し、年七十。
耶律儼は、字は若思、析津の人である。本姓は李氏。父の仲禧は、重熙年中に始めて仕えた。清寧の初め、同知南院宣徽使事となった。四年、鴨子・混同の二水の間に城を築き、北院宣徽使に拝された。咸雍の初め、誤って事を奏した罪に坐し、榆州刺史に出された。俄かに詔して旧職に復し、漢人行宮都部署に遷った。六年、国姓を賜り、韓國公に封ぜられ、南院樞密使に改められた。時に樞臣の乙辛等が皇太子を誣陷し、詔して仲禧に乙辛と共にこれを鞫らしめたが、蔓衍して無辜を引き、未だ嘗て雪正すること無かった。乙辛は仲禧が任用に堪えると推薦し、廣德軍節度使に拝され、再び南院樞密使となり、卒し、謚して欽惠と曰う。
儼は儀観秀整、学を好み、詩名有り、咸雍の進士第に登った。著作佐郎を守り、中書省令史を補し、勤敏を以て称された。大康の初め、都部署判官・将作少監を歴任した。後に両府が奏事し、群臣の優劣を論ずるに、唯儼の才俊を称えた。少府少監に改め、大理正を知り、紫を賜った。六年、大理少卿に遷り、奏讞は詳平であった。明年、大理卿に昇った。父の憂に服したが、喪服を奪われ、同簽部署司事となった。大安の初め、景州刺史となった。胥徒を糾し、豪猾を禁じ、老を撫で貧を恤れ、数月ならずして善政流播し、郡人は石を刻み徳を頌した。二年、御史中丞に改め、詔して上京の滞獄を按ずるに、多く平反した。同知宣徽院事となり、大理寺を提点した。六年冬、山西路都轉運使に改められた。垢弊を刮剔し、課額を奏定し、州県の俸給を益し、事皆施行された。壽隆の初め、樞密直學士を授けられた。母の憂に服して官を去ったが、尋いで召されて旧職に復した。宋が夏を攻め、李乾順が使を遣わして和解を求めると、帝は儼をして宋に如かしめてこれを平げしめ、参知政事に拝した。六年、駕幸して鴛鴦濼に至り、内殿に召して政事を訪ねた。
帝は晚年倦勤し、人を用いるに自ら択ぶ能わず、各々に骰子を擲たしめ、采の勝つ者を以て官とした。儼は嘗て勝采を得た。上曰く、「上相の徴なり」と。知樞密院事に遷し、経邦佐運功臣を賜り、越國公に封ぜられた。『皇朝實錄』七十巻を修した。帝の大漸に際し、儼は北院樞密使の阿思と共に顧命を受けた。乾統三年、秦國に徙封された。六年、漆水郡王に封ぜられた。天慶年中、疾を以て、小車に乗って入朝することを命ぜられた。疾甚だしく、太醫を遣わして視せしめた。薨じ、尚父を贈られ、謚して忠懿と曰う。
儼は素より廉潔にして、一芥も人に取らざりき。経籍は一覧して誦す。又善く人主の意を伺う。妻の邢氏は美色有り、常に禁中に出入りした。儼は之に教えて曰く、「慎んで上意を失う勿れ」と。是れにより権寵益々固し。三子有り: 処貞は太常少卿、処廉は同知中京留守事、処能は少府少監。
劉伸は、字は濟時、宛平の人である。少にして穎悟、長じて辞翰を以て聞こえた。重熙五年、進士第に登り、彰武軍節度使掌書記・大理正を歴任した。獄を奏するに因り、上が恰も近臣と語り、顧みなかったので、伸が進みて曰く、「臣聞く、古より帝王は必ず民命を重んずと。願わくは陛下、臣の奏を省みたまえ」と。上は大いに驚異し、樞密都承旨に擢で、権中京副留守とした。詔して富民を徙して春・泰二州を実さんとしたが、伸は以て不可とし、奏してこれを罷めしめた。大理少卿に遷り、人冤れずと為した。大理卿に昇り、西京副留守に改めた。父の憂に服し、喪を終え、三司副使となり、諫議大夫を加えられ、大理寺を提点した。伸が法を明らかにして恕あるを以て、冤獄を案じて全活する者衆く、南京副留守に徙った。俄かに崇義軍節度使に改め、政務簡静、民用擾れず、烏鵲同巢の異を致し、優詔を以てこれを褒めた。戸部使に改め、歳入の羨余銭三十万緡を献じ、南院樞密副使に拝された。
道宗は嘗て大臣に謂ひて曰く、「今の忠直なる者は、耶律玦と劉伸のみなり」と。宰相楊績は其の人を得たるを賀す。参知政事に拝す。上諭して之に曰く、「卿、宰相を憚ること勿れ」と。時に北院枢密使乙辛の勢焰方に熾なり、伸奏して曰く、「臣、乙辛に於て尚ほ畏れず、何ぞ宰相を畏れんや」と。乙辛之を銜み、相与に排詆し、出でて保静軍節度使と為る。上終に大用せんと欲し、守太子太保を加へ、上京留守に遷す。乙辛事を以て鎮雄武に徙し、復た崇義軍節度使を以て致仕す。適に燕・薊の民饑ふ、伸と致政の趙徽・韓造と日々に糜粥を以て済ひ、活かす所算に勝へず。大安二年卒す、上震悼し、賻贈を加等す。
耶律胡呂、字は蘇撒、弘義宮分の人。其の先は欲穩、太祖を佐けて功有り、叠烈部の夷離堇と為る。父は楊五、左監門衛大将軍。胡呂は性謙謹、人に於て適莫無し。重熙の末、寝殿小底を補ふ。善職を以て、屢華要を更め、千牛衛大将軍に遷る。大安の中、北阻卜の酋長磨魯斯叛く、招討都監と為り、耶律那也と率て精騎二千を以て之を討平し、功を以て漢人行宮副部署と為り、兼ねて太和宮事を知る。致仕し、同中書門下平章事を加へ、卒す。
論じて曰く、兀納は道宗の昏惑の會に當り、皇孫を擁佑し、乙辛の奸計をして復た逞ふるを得ざらしめ、而して遼の祚を以て續けしむ、之を屋質の穆宗を立つるに比す、溢美に非ず。儼は俊才を以て政に蒞み、至る所能譽有り、遼史を纂述し、一代の治亂を具ふ、亦勤めたりと云ふ可し、但だ其の寵を固むる、礼を以て家を正す能はざるを、惜しむ哉。劉伸三たび大理と為り、民冤抑無く、一たび戸部に登り、上下兼ねて裕なり、至りて耶律玦と並び稱せられて忠直と為る、亦宜ならずや。