遼史

列傳第二十七: 耶律斡特剌 孩里 竇景庸 耶律引吉 楊績 趙徽 王觀 耶律喜孫

○耶律斡特剌、孩裏、竇景庸、耶律引吉、楊績、趙徽、王觀、耶律喜孫

耶律斡特剌は、字を乙辛隱といい、許國王寅底石の六世孫である。若い頃は官禄を好まず、四十一歳にして初めて本班郎君に補せられた。時に樞密使耶律乙辛が権を擅にし、忠良を讒害したので、斡特剌は禍が及ぶことを恐れ、深く自らを抑え畏れた。大康年間、宿直官となり、左・右護衛太保を歴任した。大安元年、燕王傅に昇進し、左夷離畢に転じた。四年、北院樞密副使に改める。帝は詩を賜ってこれを褒め、知北院樞密使事に遷し、翼聖佐義功臣を賜った。北阻卜の酋長磨古斯が叛くと、斡特剌は兵を率いて進討した。天が大雪となるに会い、磨古斯の四別部を破り、千余級を斬首し、西北路招討使に拝され、漆水郡王に封ぜられ、宣力守正功臣を加賜された。まもなく南府宰相に拝された。また閘古胡裏扒部を討ち、これを破り、召されて契丹行宮都部署となった。先に、北・南府に訴訟があれば、各州府はこれを審理することができたが、近年は、樞密の檄を奉じなければ、審問することができず、このため訴訟者は滞留していた。斡特剌は旧制の如くにするよう奏請し、許された。壽隆五年、再び西北路招討使となり、耶睹刮部を討ち、捕虜・斬首甚だ多く、馬・駱駝・牛・羊各数万を獲た。明年、磨古斯を擒え、守太保を加えられ、奉國匡化功臣を賜った。乾統初め、致仕を乞うたが、許されず、ただ招討を罷めるのみであった。再び南院樞密使を兼ね、混同郡王に封ぜられた。北院樞密使に遷り、守太師を加えられ、推誠贊治功臣を賜った。致仕し、薨じ、謚して敬肅といった。

孩裏は、字を胡輦といい、回鶻の人である。その先祖は太祖の時に来貢し、留まることを願い、よって任用された。孩裏は重熙年間に近侍長を歴任した。清寧九年、重元の乱を討って功があり、金吾衛上將軍を加えられ、平亂功臣を賜った。累遷して殿前都點檢となり、宿衛厳粛をもって称された。大康初め、守太子太保を加えられた。二年、同中書門下平章事を加えられた。三年、同知南院宣徽使事に改める。時に耶律乙辛が中京を出守するに当たり、孩裏は入朝して賀した。及び再召を議するに及び、その不可を陳じた。後に乙辛が再び樞府に入ると、孩裏を出して廣利軍節度使とした。及び皇太子が誣せられると、孩裏は連坐すべきところであったが、詔して問わないこととした。大安初め、品達魯虢部節度使を歴任した。壽隆五年、病があり、自ら「我が数は既に尽きた」と言い、医薬を退け、卒した。年七十七。孩裏は平素より浮屠を信じていた。清寧初め、上に従って狩猟し、馬から落ち、気絶して蘇った。初め二人の者が引き連れて一つの城に至り、宮室は宏敞で、緋袍を着た人が殿上に坐し、左右に侍を列ね、孩裏を導いて階を昇らせた。牘を持つ者がこれに示して言うには、「本来は大腹骨欲を取るべきところ、誤って汝を執った」と。牘の上に「官は使相に至り、壽七十七」と書かれていた。しばらくして還り、これを大壑に押し落として目覚めた。道宗はこれを聞き、その事を記すことを命じた。後に皆験した。

竇景庸は、中京の人で、中書令振の子である。聰敏で学を好んだ。清寧年間、進士に及第し、秘書省校書郎を授かり、累遷して少府少監となった。咸雍六年、樞密直學士を授かり、まもなく漢人行宮副部署事を知る。大安初め、南院樞密副使に遷り、國史を監修し、樞密院事を知り、同德功臣を賜り、陳國公に封ぜられた。病があり、表を奉って致仕を請うたが、聞き入れられず、太子太保を加えられ、武定軍節度使を授かった。冤滞を審決し、軽重宜しきを得て、獄空を以て聞こえた。七年、中京留守に拝された。九年に薨じ、謚して肅憲といった。子の瑜は、三司副使である。

耶律引吉は、字を阿括といい、品部の人である。父の雙古は、西辺を二十余年鎮め、治めるところ厳粛を尚び、貨利を殖やさず、時に多くこれを称した。引吉は寅畏して義を好んだ。蔭により官に補せられ、累遷して東京副留守・北樞密院侍御となった。時に蕭革・蕭圖古辭らが佞をもって任用され、爵を売り賄を受けていたが、引吉は直道を以てその間に処し、阿唯すること無かった。客省使に改める。時に朝廷は使者を遣わして三京の隱戸を検括したが得られず、引吉を以ってこれに代え、数千余戸を得た。時に昭懷太子が北南院事を知り、引吉を選んで輔導とした。樞密使乙辛が太子を傾けようとし、引吉が側にいるのを憎み、これを出して奏し、群牧林牙とした。大康元年、乙辛が牧地の賜与を請うたが、引吉は奏して言うには、「今牧地は褊狭で、畜産は蕃息せず、どうして臣下に分賜できようか」と。帝はよって止めた。乙辛はこれによりますますこれを嫉み、懷德軍節度使に除し、漠北猾水馬群太保に転じ、卒した。

楊績は、良鄉の人である。太平十一年に進士及第し、累遷して南院樞密副使となった。杜防・韓知白らと共に進士に堂帖を擅に給し、長寧軍節度使に降格され、涿州知事に転じた。清寧初め、參知政事に拝され、同知樞密院事を兼ね、南府宰相となった。九年、重元の乱を聞き、姚景行と共に勤王し、上はこれを嘉した。十年、興中府知事となる。咸雍初め、入朝して樞密院事を知る。二年、致仕を乞うたが、許されず、南院樞密使に拝された。帝は績を旧臣として、特に詔して燕見し、古今の治乱、人臣の邪正を論じた。帝は言う、「方今の群臣で忠直なのは、耶律玦・劉伸のみである。しかし伸は玦の剛介には及ばない」と。績は拝賀して言う、「何れの代に賢無からんや、世乱れば則ち独り其の身を善くし、主聖ければ則ち兼ねて天下を済わす。陛下は邪正を銖分し、升黜分明にして、天下幸甚である」と。累表して帰ることを告げたが、許されず、趙王に封ぜられた。大康年間、例により遼西王に改める。致仕し、守太保を加えられ、薨じた。子の貴忠は、興中府知事である。

趙徽は、南京の人である。重熙五年、甲科に擢でられ、累遷して大理正となった。清寧二年、銅州人が妄りに三教を毀ったので、徽はこれを按鞫し、状を以て聞こえ、旨に称した。煩劇を歴任し、能名有り。累遷して翰林學士承旨となった。咸雍初め、度支使となる。三年、參知政事に拝された。出て武定軍節度使となり、交代の際、軍民が留まることを請うた。後に同知樞密院事となり、南府宰相・門下侍郎・平章事を兼ねた。致仕し、卒した。追贈して中書令とし、謚して文憲といった。

王觀は、南京の人である。博学で才弁有り。重熙七年、進士乙科に中る。興宗が崩じると、夏國報哀使を充てた。還り、給事中を除された。咸雍初め、翰林學士に遷る。五年、乾文閣學士を兼ねる。七年、南院樞密副使に改め、國姓を賜り、參知政事となり、南院樞密事を知ることを兼ねた。矯制して私第を修めた罪に坐し、爵を削られて民とされ、卒した。

耶律喜孫は、字を盈隱といい、永興宮分の人である。興宗が東宮に在った時、嘗て左右に居て輔導した。聖宗が大漸すると、喜孫は馮家奴と共に仁德皇后が宰相蕭浞卜らと謀逆したことを告げた。及び欽哀が皇太后として称制すると、喜孫は特に寵任された。重熙年間、その子の涅哥が近侍となり、事に坐して誅せられた。帝は喜孫に翼戴の功有り、かつその子が罪死したことを悼み、その官を世襲させようとしたが、喜孫には出ずる部が無かった。よって馬の印文に品部の号有るを見て、その部に隷させ、南府宰相に拝した。まもなく出て東北路詳穩となり、卒した。

論ずるに、孩裏・引吉の臣たるや、乙辛の権を擅にし、蕭革の貪黷なる日に当たり、同じ官に在りながらも、正を以て自ら処し、少しも阿唯せず、その人に過ぐること遠し。伝に曰く、「歳寒くして松柏の後に凋むるを知る」と。二子はこれ有り。若し斡特剌の戦功、竇景庸の獄を讞ずる、楊績の忠告は、亦た賢なるかな。