○耶律韓八 耶律唐古 蕭朮哲(藥師奴) 耶律玦 耶律仆里篤
耶律韓八
韓八平居細務を屑とせず、喜慍形はれず。嘗て乘する所の馬を失ひ、家僮同色の者を以て之に代ふ、數月覺えず。
耶律唐古
耶律唐古、字は敵隱、於越屋質の庶子なり。廉謹にして、善く屬文す。統和二十四年、屋質の安民盜を治むるの法を述べて以て進む、小將軍を補し、西南面巡檢に遷り、豪州刺史・唐古部詳穩を歷任す。科條を嚴しく立て、奸民の馬を宋・夏の界に鬻ぐを禁ず。因りて私販を弭ぎ邊境を安んずるの要を陳ぶ。太后之を嘉し、詔して邊郡に遵行せしめ、令と為して著す。朝議西南の封域を廣めんと欲す、黑山の西、綿亙數千里、唐古言ふ、「戍壘遠きに過ぎ、卒ちに警急有らば、赴援及ばず、良策に非ず。」之に從ふ。西番來侵し、詔して守禦の計を議せしめ、唐古に命じ耕稼を勸督して以て西軍に給せしむ、臚朐河の側に田す、是歲大熟す。明年、鎮州に移屯す、凡そ十四稔、粟數十萬斛を積み、斗米數錢なり。重熙間、隗衍党項部節度使に改む。是に先だち、可敦城を築きて以て西域を鎮む。諸部民を縱ちて畜牧せしむ、反つて寇掠を招く。重熙四年、上疏して曰く、「可敦城を建つる已來、西蕃數へて邊患と為り、每たび遠戍を煩はす。歲月既に久しく、國力耗竭す。故疆を復た守るに若かず、戍役を省罷せん。」報へず。是年、致仕す。其の父屋質の功を石に勒せんことを乞ふ、帝耶律庶成に命じ文を制せしめ、石を上京崇孝寺に勒す。卒す、年七十八。
蕭朮哲
藥師奴
藥師奴、幼くして穎悟、禮法を謹み、祗候郎君を補す。大康中、興聖宮使と為り、累遷して同知殿前點檢司事に至る。上其の宿衛嚴肅なるを嘉し、右夷離畢に遷す。夏王李乾順宋に攻められ、解を求む、帝藥師奴に命じ節を持して宋に使はし、兵を罷め好を通ぜんことを請はしむ、宋之に從ふ。南面林牙を拜し、漢人行宮副部署に改む。乾統初、出でて安東軍節度使と為り、卒す。
耶律玦
耶律玦、字は吾展、遙輦鮮質可汗の後なり。重熙初、召されて國史を修め、符寶郎を補し、累遷して知北院副部署事に至る。入りて太后に見え、後左右を顧みて曰く、「先皇玦必ず偉人と為らんと謂ひし、果たして然り。」樞密副使を除き、出でて西南面招討都監と為り、同簽南京留守事・南面林牙を歷任す。皇弟秦國王遼興軍節度使と為り、玦を以て同知使事と為し、匡正する所多し。十年、復た樞密副使と為る。咸雍初、兼ねて北院副部署と為る。及ぶ秦國王西京留守と為り、玦を請ひて佐と為す、之に從ふ。歲中獄空くこと三たび、召されて孟父房敞穩と為る。玦貨殖を喜ばず、帝其の貧しきを知り、宮戶十を賜ふ。嘗て宰相に謂ひて曰く、「契丹忠正玦に如くは無し、漢人則ち劉伸のみ。然れども熟く之を察するに、玦伸に優れり。」是に先だち、西北諸部久しく平ぐること能はず、上玦を遣はして狀を問はしめ、弛慢なる者を執りて痛く之を繩す。酒疾を以て卒す。
耶律仆里篤
耶律仆里篤、字は燕隱、六院林牙突呂不也の四世孫なり。開泰年間、本班郎君となる。盗賊を捕らえる功績あり、樞密使蕭樸これを推薦し、率府率に遷る。太平年間、同知南院宣徽事となり、累遷して彰聖軍節度使となる。重熙十六年、興中府を治め、獄空を以て聞こゆ。十八年、夏を伐つに当たり、西南面招討使を摂す。十九年、夏人金肅軍を侵すを敗ち、斬首万余級、右武衛上將軍を加えらる。時に辺境近くの群牧数たび寇掠を受け、倒塌嶺都監に遷りてこれを治め、桴鼓鳴らず。二十年、金肅軍事を治む。宰相趙惟節辺城橋道芻粟を総領し、副を請う、帝仆里篤をしてこれを副わしむ、職に称するを以て聞こゆ。清寧初年、長寧・匡義二軍節度使を歴任し、致仕す。咸雍年間に卒す。子阿固質、終に倒塌嶺都監となる。
論じて曰く、韓八は帝の微行に因り、才始めて見售され、及び事を任ぜらるるに及び、落落として大體を知り、上の知に負かず。唐古・術哲は西北辺を經略し、農を勧め粟を積み、士卒を訓練し、敵人敢えて犯さず。玦は忠直を以て上に称せられ、仆裏篤は幹敏を以て宰相の佐となり、鎮に在りて俱に獄空を以て聞こゆ。此の数人者は、豈に特だ甲冑の士のみならんや、抑亦李牧・程不識の亞たるか。