○蕭奪剌、蕭普達、耶律侯哂、耶律古昱、耶律獨攧、蕭韓家、蕭烏野
蕭奪剌は、字を挼懶といい、遙輦窪可汗の宮人である。祖父の涅魯古は北院樞密副使であった。父の撒抹は、字を胡獨堇といい、重熙の初めに祗候郎君に補され、累遷して北面林牙となった。十九年、耶律宜新、蕭蒲奴に従って夏を伐ち、蕭惠が敗績した地に至り、偵候者を捕らえ、人煙の聚落には、多く國人が陷沒して還れない者がいることを知り、ことごとく俘虜として帰還した。大父敞穩に拝され、山北道邊境の事を知った。清寧の初め、西南面、西北路招討使を歴任し、同中書門下平章事を加えられ、卒した。
蕭普達は、字を彈隱という。統和の初め、南院承旨となった。開泰六年、出て烏古部節度使となった。七年、敵烈部が叛いたので、これを討ち平らげ、烏古敵烈部都監に徙った。敵烈の騎卒を遣わして北阻卜の名馬を取って献上させ、詔を賜って褒獎された。重熙の初め、烏古敵烈部都詳穩に改め、諸蕃を討って功があった。普達は邊事に深く練達し、能く人を悦ばせて使うことができた。俘獲したものがあれば、悉く麾下に散じたので、これにより大いに衆心を得た。西南面招討使を歴任した。党項が叛いて西夏に入ったので、普達がこれを討ち、流矢に中り、陣にて歿した。帝はこれを聞き、惜しみ、賻贈を厚く加えた。
耶律古昱は、字を磨魯堇といい、北院林牙突呂不の四世孫である。膂力があり、馳射に巧みであった。開泰年間、烏古敵烈部都監となった。部人の叛くに会い、樞密使耶律世良に従ってこれを討ち平らげ、功を以て西北部を鎮撫することを詔された。種樹、畜牧を教え、数年ならずして、民多く富実となった。中京に盗賊が起こり、古昱を巡邏使に命じ、悉くこれを擒らえた。上は親征して渤海を伐ち、黄皮室軍を将い、敵を破る功があり、累遷して御史中丞となり、尋いで開遠軍節度使を授かり、帰德に鎮を徙した。重熙二十一年、天成軍節度使に改め、官にて卒した。年七十、同中書門下平章事を贈られた。二子あり、宜新、兀沒。
宜新は、重熙年間に蕭惠に従って西夏を討った。惠が敗績したが、宜新の一軍は独り全うし、北院大王に拝された。
蕭烏野は、字を草隱といい、その先は興聖宮分より出で、觀察使塔裏直の孫である。性、孝悌にして、禮法を尚び、雅く鄉黨に称せられた。重熙中、護衛に補され、興宗はその勤恪なるを見て、護衛太保に遷した。清寧九年、耶律仁先を佐けて重元の亂を平らげ、功を以て團練使を加えられた。時に敵烈部は数たび隣部に侵擾され、民多く困弊していたので、烏野を敵烈部節度使に命じ、困窮を恤れ、徭役を省み、数月ならずして、部人は安んじた。尋いで母老いたるを以て、家に帰り養った。母亡くなり、特に哀毀極まりなかった。服闋し、興聖、延慶二宮使を歴任し、卒した。論じて曰く、烏古敵烈は大部なり、奪剌は統軍として、敵に克ち功あり;普達は詳穩に居て、人を悦ばせて使う。西北は重鎮なり、侯哂は邊を巡りて廉を以て称せられ;古昱は鎮撫して民富み;獨攧は金肅に駐して夏人東に獵るを敢えざらしむ。噫!部人内附し、方面以て寧し、朝廷の處置宜しきを得たるとはいえ、諸將の力また何ぞ少なからんや!