遼史

列傳第十九: 耶律庶成 楊佶 耶律韓留 楊佶 耶律和尚

○耶律庶成(庶箴 蒲魯)楊皙 耶律韓留 楊佶 耶律和尚

耶律庶成、字は喜隠、小字は陳六、季父房の後裔なり。父は呉九、検校太師。庶成は幼くして学を好み、書は過目して忘れず。遼・漢の文字に通じ、詩に於いて特に巧みなり。重熙の初め、牌印郎君に補せられ、累遷して枢密直学士となる。蕭韓家奴と各々『四時逸楽賦』を進め、帝は賞賛す。初め、契丹の医人は脈を診て薬を審らかにすることを知る者少なく、上は庶成に命じて方脈の書を訳させて行わしむ。これより後、人皆通習し、諸部族といえども医事を知るに至る。時に禁中に入り、疑議に参決す。林牙蕭韓家奴等とともに『実録』及び『礼書』を撰す。枢密副使蕭徳と法令を修定し、上は庶成に詔して曰く、「方今法令は軽重相倫わず。法令は政の先とする所、人命の係る所、慎まざるべからず。卿其れ軽重を審らかに度り、宜しきに従って修定せよ。」庶成は古今を参酌し、訛謬を刊正して、書を成して進む。帝はこれを見て善しとす。庶成、用いられんとする時に、妻胡篤に誣えられ、罪により官を奪われ、「庶耶律」に絀せらる。吐蕃に使いすること凡そ十二年、清寧の間に至りて始めて帰る。帝はその誣えられたるを知り、詔して本族を復し、仍って奪われたる官を遷し、卒す。

庶成は嘗て林牙たりし時、善く卜う者胡呂古に夢に卜われて曰く、「官は林牙に止まり、妻に因って罪を得ん。」と。及び理に置かれるに及び、法に当って離婚すべし。胡篤は恰も身ごもりあり、期に至っても産まずして死す。剖いて視るに、その子は手を以て心を抱く。識者は夫を誣うるの報いと謂う。詩文ありて世に行わる。弟に庶箴あり。

庶箴、字は陳甫、文を属するに巧みなり。重熙中、本族の将軍となる。咸雍元年、東京留守事を同知し、俄かに烏衍突厥部節度使に徙る。九年、薊州事を知る。明年、都林牙に遷る。上表して本国の姓氏を広むるを乞いて曰く、「我が朝創業以来、法制は修明たり。惟だ姓氏は二に分かたるるのみ、耶律と蕭のみなり。始め太祖は契丹大字を制し、諸部郷里の名を取りて、一篇を続け作り、巻末に著す。臣はこれを推し広めて、諸部をして各々姓氏を立てしめ、庶幾くは男女の婚媾、典礼に合うこと有らんことを請う。」帝は旧制は遽かに厘めさるべからずとして、聴かず。大康二年、耶律乙辛を出して中京留守と為す。庶箴は耶律孟簡とともに表して賀す。頃くして、乙辛復た枢密使となり、権を専らにし虐を恣にす。庶箴は私かに乙辛に会い泣いて曰く、「前に表を抗したるは、庶箴の願いに非ざりき。」と。乙辛その言を信じ、乃ち自ら安んずるを得たり。聞く者これを鄙む。八年、致仕し、卒す。子に蒲魯あり。

蒲魯、字は乃展。幼くして聡悟にして学を好み、はじめて七歳にして、契丹大字を誦すべし。漢文を習い、十年に至らざるに、経籍に博通す。重熙中、進士第に挙げらる。主文は国制に契丹の進士を試むるの条無きを以て、上に聞こゆ。庶箴が擅に子をして科目に就かしむるにより、これを鞭つこと二百。尋いで蒲魯を牌印郎君と命ず。詔に応じて詩を賦し、立ち成して進む。帝は嘉賞し、左右を顧みて曰く、「文才かくの如し、必ずや武事は能わざるべし。」と。蒲魯奏して曰く、「臣は自ら義方を蒙り、兼ねて騎射を習い、流輩の中に於いても亦た周旋すべし。」と。帝は未だこれを信ぜず。会うに狩猟に従うに、三矢にして三兎に中つ。帝はこれを奇とし、通進に転ず。是の時、父庶箴嘗て『戒諭詩』を寄す。蒲魯は賦を以て答え、衆その典雅を称す。寵遇漸く隆し。清寧の初めに卒す。

楊皙、字は昌時、安次の人。幼くして『五経』の大義を通ず。聖宗その穎悟を聞き、詔して試みに講ぜしめ、秘書省校書郎を授く。太平十一年、進士乙科に擢げられ、著作佐郎となる。重熙十二年、累遷して枢密都承旨、権度支使となる。登対して旨に称し、枢密副使に進む。長寧軍節度使、山西路転運使、興中府知事を歴任す。清寧の初め、入りて南院枢密使知事となり、姚景行とともに朝政を総べる。柴冊の礼を行わんことを請う。趙国公に封ぜらる。足疾を以て、復た興中府知事となる。咸雍の初め、斉に徙封せられ、召されて同徳功臣・尚書左僕射を賜り、中書令を兼ね、枢密使に拝され、晋に改封せらる。宰相・枢密使両庁の傔従を給せられ、趙王に封ぜらる。屡々帰政を請い、益々保節功臣を賜わり、致仕す。大康五年、例に依り遼西郡王に改めらる。薨ず。

耶律韓留、字は速寧、仲父隋国王の後裔なり。明識有り、行義に篤く、挙措重厚にして、詩を作るに巧みなり。統和間、召されて禦院通進を摂む。開泰三年、稍く遷りて烏古敵烈部都監となり、俄かに詳穏事を知る。敵烈部叛く。宮分軍を将い、枢密使耶律世良に従ってこれを討ち平げ、千牛衛大將軍を加えらる。重熙元年、累遷して同知上京留守に至り、奚六部禿裏太尉に改む。性苟も合わず、枢密使蕭解裏に忌まれる。上は韓留を用いんと欲す。解裏は目病有りて視ること能わずと言い、議は前に寝す。四年、召されて北面林牙と為る。帝曰く、「朕早く卿を用いんと欲す。疾有りと聞く故に、今に至るまで待てり。」と。韓留対えて曰く、「臣昔し目疾有りしは、纔かに数箇月のみ。然れども昏くに至らざるを料る。ただ臣駑拙にして、権貴に事えること能わず。是を以て早く天顔を拝することを獲ず。陛下の聖察に非ざらば、則ち愚臣豈に今日有らんや。」と。詔して『述懐詩』を進む。上は嘉嘆す。将に大用せんとする時に、卒す。

楊佶は、字を正叔といい、南京の人である。幼少より聡明にして並外れ、書を読めば自ら句を成し、識者はこれを奇とした。弱冠にして声名は甚だ盛んとなり、統和二十四年、進士第一に挙げられ、校書郎・大理正を歴任した。開泰六年、儀曹郎に転じ、書命を典掌し、諫議大夫を加えられた。出て易州の知事となり、治めは清簡を尚び、徴発期会は必ず信を守った。入朝して大理少卿となり、累進して翰林学士に至り、文章は体を得ていると称された。八年、燕の地に飢饉と疫病が起こり、民多く流亡し餓死したため、佶を以て南京留守事を同知させ、倉廩を開き、困窮を救い、貧民で子を売った者は労賃を計算してこれを出した。宋は梅詢を遣わして千齢節を賀し、詔して佶に迎送させたが、多く詩を唱和し、詢は毎回称賛した。再び翰林学士となった。重熙元年、翰林学士承旨に昇進した。母の喪に服したが、起復して工部尚書となった。忠順軍節度使、朔武等州観察処置使、天徳軍節度使を歴任し、特進検校太師・同中書門下平章事を加えられ、再び参知政事に拝され、兼ねて南院枢密使を知った。十五年、出て武定軍節度使となった。境内は大旱し、苗稼は将に枯れんとした。職務に就いた夜、雨が潤い足りた。百姓は歌って曰く、「何を以てか我を蘇らす、上天雨を降らす。誰か其れ我を撫する、楊公主たり」。漯陽の水が故道を失い、毎年民の害となっていたので、己の俸禄を以て長橋を創建し、人は渡渉に苦しまなくなった。召し出された時、郡民は轅にすがり泣いて送った。上は清涼殿に御して宴を賜い労い、即日に吏部尚書を除し、兼ねて門下侍郎・同中書門下平章事とした。上曰く、「卿今日何ぞ呂望の文王に遇うに減ぜん」。佶対えて曰く、「呂望は臣に比べ遭際十年の遅き有り」。上悦んだ。其の相位に居るや、賢を進めるを己が任とし、事は大綱を総べ、百司に責成し、人々用いらるるを楽しんだ。三度致政を請い、これを許され、月に銭粟と傔隷を給し、四時に使者を遣わして存問した。卒す。『登瀛集』有りて世に行わる。

耶律和尚は、字を特抹といい、系は季父房に出づ。滑稽を善くす。重熙初め、祗候郎君に補せられる。時に帝は親親に篤く、凡そ三父の後の者、皆父兄の行第を序し、和尚に於いては特に狎愛した。然れども毎に宴飲に侍するに、詼諧と雖も、未だ嘗て一言の過ち有らず、是に由りて上益々之を重んず。積慶・永興宮使を歴任し、累進して同知南院宣徽使事・南面林牙に至る。十六年、出て懐化軍節度使となり、俄かに召されて御史大夫となる。二十三年、大冊に因り、天平軍節度使・検校太師を加えられ、中京路按問使に転じ、卒す。

和尚は雅に美行有り、数たび財を以て親友を恤い、人皆愛重した。然れども酒を嗜み事を為さず、以て故に柄用を獲ざりき。或いは以て言う者有り、答えて曰く、「吾知らざるに非ず、顧みるに人生は風燈石火の如し、飲まざれば将に何を為さん」。晚年は沈湎尤も甚だしく、人「酒仙」と称すと云う。

論じて曰く、庶成は法令を定め、民を治むる者は高下其の手を容れず。庶箴は嘗て姓氏を広むるを表請し、以て典礼を秩せしむと雖も、其の勢に随い俯仰するは、則ち其の子蒲魯に愧ずる有り。楊皙は上に寵遇せられ、王爵を重ねて封ぜられ、而して功業少しも概見せず。然れども民を愛し国を治むるの要を得たるは、其れ楊佶なるかな。