耶律休哥
聖宗が即位し、太后が称制すると、休哥に南面の軍務を総括させ、便宜を以て事を行わせた。休哥は戍兵を均等にし、交代で休む法を立て、農桑を勧め、武備を整え、辺境は大いに治まった。統和四年、宋が再び侵攻してきた。その将の範密、楊継業は雲州から出撃し、曹彬、米信は雄州、易州から出撃し、歧溝、涿州を奪い、固安を陥落させ、屯営を置いた。当時、北南院、奚部の兵は未だ到着しておらず、休哥は兵力が少なく、出戦することができなかった。夜には軽騎兵を出して両軍の間に立ち、その手薄な部分を襲って殺し、残りの兵を脅かした。昼には精鋭を以てその勢いを示し、彼らを防禦に疲れさせ、その力を消耗させた。また、林や草むらに伏兵を設け、その糧道を絶った。曹彬らは糧秣の輸送が続かず、白溝に退いて守った。一月余りして、再び来襲した。休哥は軽兵を以てこれに迫り、彼らが草の上で食事をしているのを窺い、隊列から離れて単独で出てくる者を撃ち、戦いながら退却した。これによって南軍は自らを守るのに手一杯で、方陣を組み、両側に塹壕を掘りながら進んだ。軍は渇き、井戸に乏しく、泥水を漉して飲み、凡そ四日かかって涿州に到着した。太后の軍が来たと聞くと、彬らは雨の中を遁走した。太后はさらに鋭卒を加え、追いついた。彼らは力尽き、糧秣の車を巡らして自衛したので、休哥はこれを包囲した。夜になると、彬、信は数騎で逃げ去り、残りの兵は悉く潰走した。易州の東まで追撃し、宋軍がなお数万おり、沙河のほとりで炊事をしていると聞き、兵を急行させてこれを撃った。宋軍は塵を見て逃げ惑い、岸から落ちて踏みつけられて死ぬ者が過半数に及び、沙河はそれによって流れが止まった。太后が旗を返すと、休哥は宋兵の屍を集めて京観を築いた。宋國王に封じられた。また上奏して言った、宋の弱みに乗じて、地を攻略し黄河を境界とすべきであると。上奏文が奏上されたが、採用されなかった。太后が南征したとき、休哥は先鋒となり、望都で宋兵を破った。当時、宋の将劉廷讓が数万騎を率いて海沿いに出撃し、李敬源と合流することを約束し、燕を取ると声言した。休哥はこれを聞き、先に兵を以てその要地を扼した。太后の軍が到着し、交戦して敬源を殺し、廷讓は瀛州に逃げた。七年、宋は劉廷讓らを遣わし、暑さと水害に乗じて易州を攻撃してきた。諸将はこれを恐れたが、ただ休哥のみが鋭卒を率いて沙河の北で迎撃し、数万を殺傷し、計り知れないほどの輜重を鹵獲し、朝廷に献上した。太后はその功を嘉し、詔して拝礼を免除し、名を呼ばないこととした。これより宋は北に向かうことを敢えてしなかった。当時、宋人は子供の泣き声を止めさせようとして、「于越が来たぞ!」と言ったという。
休哥は燕の民が疲弊しているのを慮り、賦役を軽減し、孤児や寡婦を憐れみ、戍兵に戒めて宋の境を犯さず、たとえ馬や牛が北に逃げてきても全て返還させた。遠近の者が教化に帰し、辺境は安寧となった。十六年、薨去した。その夜、雨氷が木に降りた。聖宗は詔して南京に祠堂を建立させた。
休哥の智略は宏大遠大で、敵を料ることは神の如くであった。戦いに勝つごとに、功を諸将に譲ったので、士卒は喜んで彼のために働いた。身をもって百戦を経たが、一度も罪なき者を殺さなかった。二子あり、高八は官が節度使に至り、高十はついに于越となった。孫に馬哥がいる。
附 馬哥
馬哥は、字を訛特懶という。興宗の時、散職で入見し、上が問うた、「卿は仏を奉じているか」。答えて言った、「臣は毎朝、太祖、太宗および先臣の遺訓を誦しており、仏を奉じる暇がありません」。帝は喜んだ。清寧年間、唐古部節度使に遷った。咸雍年間、累遷して匡義軍節度使となった。大康初年、致仕し、卒した。
耶律斜軫
統和の初め、皇太后が摂政となり、ますます信任を受け、北院枢密使となった。時に宋の将軍曹彬・米信が雄州・易州より出撃し、楊継業が代州より出撃した。太后自ら軍を率いて燕を救援し、斜軫を山西路兵馬都統とした。継業は山西の諸郡を陥落させ、それぞれ兵を置いて守らせ、自らは代州に駐屯した。斜軫は定安に至り、賀令図の軍と遭遇し、これを撃破し、五臺まで追撃して数万級を斬首した。翌日、蔚州に至ると、敵は出撃しようとせず、斜軫は帛に書をしたためて城上に射込み、招慰の意を諭した。密かに宋軍が救援に来ると聞き、都監耶律題子に命じて夜間に険阻な地に伏兵を置き、敵の到来を待って発動させた。城を守る者が救援が来たのを見て、突出した。斜軫はその背後を撃ち、二軍ともに潰走し、飛狐まで追撃して二万余級を斬首し、ついに蔚州を奪取した。賀令図・潘美が再び兵を率いて来ると、斜軫は飛狐でこれを迎え撃ち、敗走させた。渾源・応州にいた宋軍は皆、城を棄てて逃走した。斜軫は継業が出兵したと聞き、蕭撻凜に命じて路傍に伏兵を置かせた。翌朝、継業の軍が到着すると、斜軫は大軍を擁して戦闘態勢をとった。継業が麾幟を掲げて前進すると、斜軫は偽って退却した。伏兵が発動し、斜軫が進攻すると、継業は敗走し、狼牙村に至って全軍が潰走した。継業は流れ矢に当たり、捕らえられた。斜軫が責めて言うには、「汝は我が国と勝負を争うこと三十余年、今日何の面目あって相見えんや」と。継業はただ死罪と称するのみであった。初め、継業は宋において驍勇をもって知られ、人は楊無敵と号し、真っ先に辺境を妨害する策を立てた。狼牙村に至り、これを忌み嫌い、避けようとしたが叶わなかった。捕らえられた後、三日にして死んだ。斜軫は帰朝し、功により守太保を加えられた。太后に従って南伐し、軍中にて卒した。太后は自ら哀悼の礼を執り行い、葬具を給した。庶子の狗児は、官は小将軍に至った。
耶律奚低
耶律奚低は、孟父楚國王の後裔である。弓馬に巧みで、攻戦に勇猛であった。景宗の時、多く軍事を任された。統和四年、右皮室詳穏となった。時に宋の将軍楊継業が山西の郡県を陥落させたので、奚低は枢密使斜軫に従ってこれを討伐した。戦うごとに必ず自ら先頭に立ち、矢は虚しく発することなく命中した。継業が朔州の南で敗れ、深い林の中に隠れた。奚低は袍の影を望んで射ると、継業は馬から落ちた。先に、軍令で継業を生け捕りにすべしとあったため、奚低はこの故に功とすることができなかった。後に太后の南伐に従い、しばしば戦績を挙げた。病により卒した。
耶律学古
附 烏不呂
烏不呂は、字を留隠という。厳粛で重厚、膂力があり、文章をよくした。統和年間に宋を討伐し、しばしば軍事を任された。かつて爻直と仲が悪く、ついに言うには、「お前は奴隷の分際で、何を知っているというのか」と。爻直が北院枢密使韓徳譲に訴えた。徳譲は怒って問うには、「お前はどうしてこの奴隷を得たのか」と。烏不呂は答えて言うには、「三父が別籍していた時には容易に得られたものでございます」と。徳譲は笑ってこれを釈放した。後に蕭恒徳に従って蒲盧毛朵部を討伐し、功により東路統軍都監となった。徳譲が大丞相となった時、その才能を推挙して統軍使に任ずるに足るとした。太后は言うには、「烏不呂はかつて卿に対して不遜であったのに、何が善くて推挙するのか」と。徳譲は奏上して言うには、「臣が丞相の位にありながら、臣に対してもなお屈せず、ましてやその他の者に対してはなおさらである。これをもって任用できると知ります。もし任じて用いれば、必ずや諸蕃を鎮撫することができるでしょう」と。太后はこれに従い、金紫崇禄大夫・検校太尉を加えた。ところが弟の国留が罪により逃亡し、烏不呂とその母はともに獄吏に下された。母に禍が及ぶことを恐れ、密かに人を遣わして国留を召し寄せ、欺いて言うには、「太后は事が誣告であると知っている。お前はただ来るだけで、恐れることはない」と。国留が到着すると、役所に送り、誅殺に処せられた。その後、退いて田舎に帰り、病により卒した。
論じて曰く、宋は太原を下した鋭気に乗じて、軍を以て燕を包囲し、続いて曹彬・楊継業らを派遣して分かれて来襲した。この二つの戦役において、遼もまた危うきこと岌岌たり。休哥が高梁において奮撃し、敵兵は奔潰し、斜軫が朔州において継業を生け捕りにし、まもなく旧地を回復した。宋はこれより深く侵入することはなくなり、社稷は固くして辺境は寧らかとなった。古の名将に比べても、恥じるところはない。しかし学古が南京において動揺する者を安んじていなければ、二将の功績もまた成し遂げ難かったであろう。故に国は人を以て重しと曰う、誠に然り。