耶律沙
耶律沙、字は安隱。その先祖は嘗て遙輦氏に相(宰相)として仕えた。応暦年間、累官して南府宰相となる。景宗即位の際、南面の辺事を総領す。保寧年間、宋が河東を攻むると、沙は兵を将いてこれを救い、功有り、守太保を加えられる。乾亨初年、宋が再び北侵す。沙は兵を将いて間道より白馬嶺に至り、大澗に阻まれ敵に遇う。沙と諸将は後軍の到着を待って戦わんと欲すれども、冀王敵烈・監軍耶律抹只らは急撃すべしと為し、沙はこれを奪う(説得を覆す)こと能わず。敵烈らは先鋒として澗を渡る。未だ半ばならずして宋人に撃たれ、兵潰く。敵烈及びその子蛙哥、沙の子徳裏、令穩都敏、詳穩唐筈ら五将倶に没す。時に北院大王耶律斜軫の兵至り、万矢倶に発し、敵軍始めて退く。沙は太原に向かわんとすれども、時に漢の駙馬都尉盧俊来奔し、太原既に陥ちたるを言う。遂に兵を勒して還る。宋は鋭に乗じて燕を侵し、沙はこれと高梁河に戦い、稍々却く。耶律休哥及び斜軫ら邀撃に遇い、宋軍を敗る。宋主は宵遁し、涿州に至り、微服して驢車に乗じ、間道より走る。上は功を以て前の過ちを釈す。是の年、復た韓匡嗣に従い宋を伐つ。敗績す。帝これを誅せんと欲すれども、皇后の営救にて免る。睿智皇后称制し、召して几杖を賜い、その老を優う。復た宋を伐つに従い、劉廷讓・李敬源の軍を敗り、賜賚優渥なり。統和六年卒す。
耶律抹只
蕭幹
附 討古
討古、字は括寧、性忠簡なり。応暦初年、始めて入侍す。時に冀王敵烈・宣徽使海思謀反す。討古は耶律阿列と密かに上に告ぐ。上その忠を嘉し、詔して朴謹公主に尚す。保寧末、南京統軍使と為る。乾亨初年、宋燕を侵す。討古は北院大王奚底とこれを拒ぐも、克たず、軍潰く。討古ら敢えて復た戦わず、退きて清河に屯す。帝その敗を聞き、使を遣わしてこれを責めて曰く「卿等偵候を厳にせず、兵を用いるに法なく、敵に遇えば即ち敗る。何を以て将と為さんや」と。討古懼る。頃くして援兵至る。討古奮力して以て宋軍を敗る。上その罪を釈し、降して南京侍衛親軍都指揮使と為す。四年卒す。
耶律善補
耶律善補、字は瑤升、孟父楚國王の後なり。純謹にして才智有り。景宗即位の際、千牛衛大將軍を授けられ、大同軍節度使に遷る。宋を伐つに及び、韓匡嗣と耶律沙は兵を将いて東路より進み、善補は南京統軍使として西路より進む。善補、匡嗣の失利を聞き、兵を斂めて還る。乾亨末、宋軍と満城に戦い、伏兵に囲まれる。斜軫これを救い免る。備えを失いしを以て、大杖にて決せらる。統和初年、惕隱と為る。時に宋来たりて侵す。善補都元帥としてこれを逆らうも、敢えて戦わず。故に嶺西の州郡多く陥つ。惕隱を罷む。その叔安端に世宗を匡輔する功有るを以て、上これを湣れみ、善補を征して南府宰相と為し、南院大王に遷す。時に再び挙げて宋を伐たんとし、魏府を攻めんと欲す。衆を召して集議す。将士は魏城に備え無きを以て、皆言う攻むべしと。善補曰く「攻むるは固より易し。然れども城大にして量り難し。若しその城を克せば、士卒俘掠に貪り、勢い必ず遏め難からん。且つ傍らに巨鎮多く、各々援兵を出さば、内に重敵有り。何を以てこれに当たらんや」と。上乃ち止む。善補性懦く、静を守る。凡そ征討に、攻戦を憚り、急ぎ還る。故を以て戦多く利あらず。年七十四にして卒す。
耶律海裏
耶律海裏、字は留隱、令穩拔裏得の長子なり。察割の乱に、その母的魯これに関与す。人を遣わして海裏を召す。海裏これを拒む。乱平ぎ、的魯は子の故を以て免るることを獲たり。海裏儉素にして、声利を喜ばず、射獵を以て自ら娯しむ。閑居すれども、人これを貴官の如く敬す。保寧初年、彰國軍節度使に拝し、惕隱に遷る。秩満ち、疾を称して仕えず。久しくして、復た南院大王と為る。曹彬・米信ら来たりて侵すに及び、海裏に敵を却くる功有り、資忠保義匡國功臣を賜う。帝屡々親征す。海裏南院に在ること十余年、寛静を以て鎮め、戸口増え給う。時に議これ重んず。漆水郡王に封ぜられ、上京留守に遷り、薨ず。詔して家貧しきを以て、葬具を給う。
論曰:高梁・朔州の捷に当たりて、偏裨の将たる沙と抹只の如きは、既に休哥・斜軫に因りて類その功を見る。所謂東隅に失い、桑榆に収むるなり。若し蕭幹・海裏の察割の招きを拒ぎ、討古の海思の変を告げしは、則ち戦功有るのみに止まらず。それ善補の畏懦を視れば、豈に優れざらんや。