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遼史
志第三十: 刑法上
刑とは、兵に始まり礼に終わるものである。太古の時代、民衆は兵を有し、蜂が毒針を持つが如く、自衛のためであった。蚩尤が初めて乱を起こし、民衆が悪逆となり、奸宄が並び起こるに及んで、刑の用いをどうして止めることができようか。帝堯は下民に清く問い、乃ち三后に命じて民のために功を恤み、伯夷は典を降し、民を折るには刑による。故に曰く、刑とは、兵に始まり礼に終わるものである。先王は天地四時に順って六卿を建てた。秋は、刑官であり、時の物を成すに象る。秋は夏より気を受け、春に色を変える、推して知ることができる。
遼は武を用いて国を立て、暴を禁じ奸を戢めるには、刑に先んずるものはない。建国の初めに法を制するには、五服・三就の外に出づるものあり、兵の勢い正に張り、礼の用いるに遑あらざるなり。阻午可汗が宗室雅里の賢を知り、命じて夷離菫と為し刑辟を掌らしむるに及んで、豈に士師の官、賢者でなければ為すべからざるに非ずや。太祖・太宗は疆土を経理し、甲を擐ぐの士は歳に寧居無く、威は厥の愛に克ち、理勢然りなり。子孫相継ぎ、其の法互いに軽重有り;中間に権宜を審らかにし、終わりを礼に以てする能うものは、惟だ景宗・聖宗の二宗を優れたりと為すのみ。
然れども其の刑を制する凡そ四有り:死と曰い、流と曰い、徒と曰い、杖と曰う。死刑には絞・斬・凌遲の属有り、又た籍没の法有り。流刑は罪の軽重を量り、之を辺城部族の地に置き、遠ければ則ち諸境外に投じ、又た遠ければ則ち罰して絶域を使わしむ。徒刑は一に終身と曰い、二に五年と曰い、三に一年半と曰う;終身の者は五百を決し、其の次は百ずつ逓減す;又た黥刺の法有り。杖刑は五十より三百に至り、凡そ杖五十以上の者は、沙袋を以て之を決す;又た木剣・大棒・鉄骨朶の法有り。木剣・大棒の数は三、十五より三十に至る;鉄骨朶の数は、或いは五、或いは七。重罪有る者は、将に沙袋を以て決せんとし、先ず脽骨の上及び四周に之を撃つ。拷訊の具には、麄杖・細杖及び鞭・烙の法有り。麄杖の数は二十;細杖の数は三、三十より六十に至る。鞭・烙の数は、凡そ三十を烙する者は三百を鞭ち、五十を烙する者は五百を鞭つ。被告の諸事、応に伏すべくして服さざる者は、此を以て之を訊く。品官公事誤犯、民年七十以上・十五以下犯罪の者は、聴いて贖を以て論ず。贖銅の数は、杖一百の者は、銭千を輸す。亦た八議・八縦の法有り。籍没の法は、始め太祖が撻馬狘沙里たりし時、痕徳菫可汗の命を奉じ、于越釋魯の遇害の事を按ずるに、其の首悪の家属を瓦里に没入せしむるに始まる。淳欽皇后の時に及び析出し、以て著帳郎君と為し、世宗の詔に至りて之を免ず。其の後内外の戚属及び世官の家、反逆等の罪を犯すは、復た没入す;余人は則ち著帳戸に没す;其の宮分に没入し、臣下に分賜する者も亦た之れ有り。木剣・大棒は、太宗の時に制す。木剣は面平らかにして背隆く、大臣重罪を犯し、寛宥せんと欲すれば則ち之を撃つ。沙袋は、穆宗の時に制す、其の制は熟皮を用いて縫い合わせ、長さ六寸、広さ二寸、柄一尺許り。徒刑の数は重熙制に詳しく、杖刑以下の数は咸雍制に詳し;其の余常用せずして定式無きものは、殫く紀すべからず。
太祖の初年、庶事草創、犯罪する者は軽重を量りて之を決す。其の後諸弟の逆党を治め、権宜に法を立つ。親王従逆の者は、諸甸人に磬かず、或いは高崖に投じて之を殺す;淫乱不軌の者は、五車にて轘殺す;父母に逆らう者は此れに視る;訕詈し上を犯す者は、熟鉄の錐を以て其の口を摏きて之を殺す。従坐する者は、罪の軽重を量りて杖決す。杖には二有り:大なる者は重さ銭五百、小なる者は三百。又た梟磔・生瘞・射鬼箭・砲擲・支解の刑を為す。重法に帰し、民を閑かにして変を為さしめざらしむるのみ。歳癸酉、詔を下して曰く:「朕北征以来、四方の獄訟、積滞頗る多し。今戦を休め民を息めん、群臣其れ朕が意に副い、詳らかに之を決せよ、或いは冤枉有ること無かれ。」乃ち北府宰相蕭敵魯等を命じ分道して疏決せしむ。遼に欽恤の意有る、此れに昉りて見る。神冊六年、諸夷を克定し、上侍臣に謂いて曰く:「凡そ国家の庶務、鉅細各々殊なり、若し憲度明らかならずんば、則ち何を以てか治めん、群下亦た何由か禁を知らん。」乃ち大臣に詔して契丹及び諸夷の法を定めしめ、漢人は則ち律令を以て断じ、仍て鐘院を置きて以て民の冤を通達せしむ。
太宗の時に至り、渤海人を治むるは一に漢法に依り、余は改むる無し。会同四年、皇族の舍利郎君、謀りて通事の解里等を毒せんとし、已に中る者二人、命じて重く之を杖ち、其の妻を厥抜離弭河に流し、薬を造る族を誅す。
世宗天祿二年、天徳・蕭翰・劉哥及び其の弟盆都等謀反す、天徳は誅に伏し、翰を杖ち、劉哥を流し、盆都を遣わして轄戞斯国を使わしむ。夫れ四人之の罪均しくして刑異なり。遼の世、同罪異論する者蓋し多し。
穆宗応曆十二年、国舅帳の郎君蕭延の奴海里、拽剌禿里の年未だ及ばざる女を強いて陵す、法に文無きを以て、之に宮刑を加え、仍て禿里に付して以て奴と為す。因りて令と為すことを著す。十六年、有司に諭して曰く:「先朝より行幸頓次の次、必ず高く標識を立て以て行者を禁ず。比聞く楚古の輩、故らに其の標を低く置き深草の中にし、人の誤って入るを利し、之に因りて財を取る。今より後然る者有らば、死を以て論ず。」然れども帝は酒及び猟を嗜み、政事を恤れず、五坊・掌獣・近侍・奉饍・掌酒人等、獐鹿・野豕・鶻雉の属の亡失傷斃、及び私帰逃亡、告に在りて期を踰え、召して時に至らず、或いは奏対少しく意に如かざるを以て、或いは飲食の細故を以て、或いは犯者の遷怒するに因りて無辜に及び、輒ち炮烙鉄梳の刑を加う。甚だしきは無算に至る。或いは手刃を以て之を刺し、斬撃射燎し、手足を断ち、肩股を爛れさせ、腰脛を折り、口を劃き歯を砕き、尸を野に棄つ。且つ命じて其の地に封を築かしめ、死者百余人に至る。京師に百尺牢を置き以て繫囚を処す。蓋し其の即位未だ久しからず、女巫肖古の言に惑い、人胆を取りて延年薬を合わす、故に人を殺すこと頗る衆し。後其の詐りを悟り、鳴鏑を以て叢射し、騎を以て践み殺す。海里の死に及び、長夜の飲を為し、五坊・掌獣人等及び左右の給事誅戮する者、相継ぎて絶えず。嘗て其の怒りに因りて刑を濫るるを悔い、大臣に切諫を諭すと雖えども;廷に在りて畏懦し、能く匡救する鮮く、諫すると雖えども又た聴く能わず。将に寿哥・念古を殺せんとするに当たり、殿前都点検耶律夷臘葛諫めて曰く:「寿哥等は掌る所の雉を斃し、罪を畏れて亡ぶ、法応に死すべからず。」帝怒り、寿哥等を斬り、之を支解す。命じて有司に尽く鹿人の在繫する者凡そ六十五人を取らしめ、犯す所の重き者四十四人を斬り、余は悉く痛く之を杖つ。中に死を置かんと欲する者あり、王子必摂等の諫に頼りて免るるを得たり。已にして頗徳が鹿を飼うに時ならざるを怒り、傷を致して斃せしむ、遂に之を殺す。季年、暴虐益甚だしく、嘗て太尉化葛に謂いて曰く:「朕酔中に処決当らざる者有らば、醒めて当に覆奏すべし。」徒に之を言う能うのみ、竟に悛むる意無く、故に難に及ぶ。虐りは褻御に止まり、上は大臣に及ばず、下は百姓に及ばずと雖えども、然れども刑法の制、豈に人主の快情縦意の具ならんや。
景宗は潜邸に在りし時、既にその失政を鑑みていた。即位すると、宿衛の職務怠慢により、殿前都点検耶律夷臘葛を斬った。趙王喜隱が囚所より自ら械鎖を外し去り、面会を求めて自ら弁明しようとしたが、帝は言った、「曲直未だ分からず、いずくんぞ獄を出でて自ら弁明するの理あらんや」と。命じて再び彼を縛らせた。やがて自ら囚徒を録囚し、皆を召し出して釈放した。保寧三年、穆宗が鐘院を廃したため、窮民に冤ある者訴える所無きを以て、故に詔してこれを復し、併せて鐘を鋳させ、その上に詔を刻み、廃置した所以の意を記させた。呉王稍が奴僕に訴えられたが、有司が審理を請うた。帝は言った、「朕はその誣告たるを知る。もし訊問すれば、恐らく他の者もこれを倣うであろう」と。命じて斬って示衆に付した。五年、近侍実魯里が誤って神纛に触れ、法に照らせば死罪に当たるが、杖刑に処して釈放した。これにより寛厳相補うこと幾ばくかあった。然しながら賊徒討伐には緩慢で、応暦の逆党はこの時に至って初めて捕らえ誅殺されたのであり、議者はこれを以て帝をやや軽んじた。
聖宗は幼年にして位を嗣ぎ、睿智皇后が称制し、聴断に心を留め、嘗て帝に法律を寛大にすべきことを勧めた。帝が成長し、益々国事に習熟し、治世に意欲的となった。当時、法令を更定すること凡そ十数件、多くは人心に合い、その刑罰の運用もまた詳らかで慎重であった。先に、契丹人と漢人が相毆って致死した場合、その法が軽重不均等であったが、ここに至って一等に科した。統和十二年、詔して契丹人が十悪を犯しても、律を以て断ずるようにした。旧法では、死刑囚の屍を市に三日晒したが、ここに至って一宿すれば収めて埋葬することを許した。二十四年、詔して、主人が謀反大逆及び流罪・死罪を犯さない限り、その奴婢は告発してはならず、もし奴婢が死罪に至る罪を犯した場合は、有司に送ることを許し、その主人は擅に殺してはならないとした。二十九年、旧法では、宰相・節度使の世選の家の子孫が罪を犯した場合、徒刑・杖刑は平民と同様だが、黥面のみは免れていたが、詔して今後はただ罪を犯して黥面に当たる者は、即ち法に準じて同様に科するとした。開泰八年、窃盗の贓が十貫に満ちた場合、首謀者は処死としていたが、その法が重すぎるため、故に二十五貫に増やし、その首謀者は処死、従者は流刑に処することとした。嘗て諸処の刑獄に冤あり、申し雪ぐこと能わざる者は、御史台に赴き陳訴することを許し、官を委ねて覆問させた。往時、大理寺の獄訟で、覆奏に関わるものは、翰林学士・給事中・政事舎人が詳決したが、ここに至って初めて少卿及び正を置いてこれを主管させた。なおその未だ尽くさざるを慮り、自ら囚徒を録囚した。数度にわたり使者を諸道に遣わし冤滞を審決させ、邢抱朴の如き者は、至る所で人々自ら冤無しと為した。
五院部の民に自ら鎧甲を破損した者がおり、その長である仏奴が杖殺した。上はその用法が余りに峻烈であることを怒り、詔して官を奪った。官吏はこの故事により酷であることを敢えてしなくなった。撻剌干乃方十が酔って宮中の事を言ったが、法に照らせば死罪に当たる。特に関の罪を赦した。五院部の民が誤って火を遺し、木葉山の兆域に延焼した。これも死罪に当たるが、杖刑に処して釈放し、因ってこれを法として定めた。敵八哥が初めて薊州の王令謙の家財を窃盗し、発覚した際に刃をもって令謙を刺したが、幸いにも死ななかった。有司は盗罪として擬議し、杖罪を加えるに止めた。また那母古が窃盗を犯すこと十三度、皆情状酌量の余地無しとして、棄市に処すると論じた。因って詔して、今後三度窃盗を犯す者は、額に黥し、三年の徒刑に処し、四度ならば顔に黥し、五年の徒刑に処し、五度に至れば処死するとした。このような措置は、重軽適宜にして、以て訓示するに足りた。近侍の劉哥・烏古斯が嘗て斉王の妻に従って逃亡したが、赦免された。後に千齢節の際に出首したので、乃ち詔して諸近侍・護衛を集めて見せしめに腰斬した。ここにおいて国に僥倖を望む民無く、綱紀は修め挙げられ、官吏多くは職務を奉じ、人々は法を犯すことを重んじた。故に統和年間中、南京及び易・平の二州は獄が空であると報告された。開泰五年に至っては、諸道皆獄が空となり、刑措の風があった。
故事により、枢密使は国家の重務でなければ、嘗て親決せず、凡そ獄訟は夷離畢のみがこれを主管した。蕭合卓・蕭朴が相継いで枢密使となると、専ら吏才を尚び、初めて自ら訴訟を聴くようになった。当時の人は転相してこれを倣い習い、狡智を以て互いに高しとし、風俗はここより衰えた。故に太平六年に詔を下して言った、「朕は国家に契丹・漢人がいることを以て、故に南・北の二院を以て分治するのは、貪枉を去り煩擾を除かんがためである。もし貴賤によって法を異にするならば、怨み必ず生ずる。小民が犯罪すれば、必ずや有司を動かして朝廷に達することはできず、ただ内族・外戚のみが多く恩恃みして賄賂を行い、苟も免れんことを図る。もしこのようであれば、法は廃される。今後より貴戚が事によりて告発された場合は、事の大小を問わず、併せて所在の官司に按問させ、詳細に北院・南院に申し上げ覆問して実を得た上で奏聞せよ。按問せずに軽々しく申し上げ、及び請託を受けて奏言する者は、本犯人の罪を以てその罪に処する」と。七年、中外の大臣に詔して言った、「制条の中に遺漏欠落及び軽重失中のものがあれば、その条を上奏せよ。議して増改するであろう」と。