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遼史
志第三十一: 刑法下
興宗が即位すると、欽哀皇后は初めて志を得て、兄弟が権力を専断した。馮家奴らは欽哀の意を迎え、蕭浞卜らが謀反を企てたと誣告し、嫡后である仁徳皇后にまで連座させた。浞卜ら十余人と、仁徳の姻戚・支援者で罪に坐せられた者四十余人は、皆大辟に処せられ、その家産も没収された。仁徳を上京に幽閉し、やがて人を遣わしてこれを弑した。非命に追い落とされたので、朝廷内外は甚だ憤った。欽哀は後に廃立を謀り、慶州に遷された。迎えて帰還させた後、再び政事に関与するようになったが、その酷虐な振る舞いは思い通りにならなかった。しかし興宗は名声を好み、変革を喜び、また浮屠の法に溺れ、小恵を行うことに努め、たびたび赦宥を下し、死囚を多く釈放した。
重熙元年、詔して職事官の公罪は贖罪を聴許し、私罪は各々本法に従うこととした。子弟及び家人が賄賂を受け取っても、情を知らなければ、犯人だけを罰することとした。以前は、南京三司が銭を溶かして器皿三斤を作ること、銭を携えて南京を出ること十貫、及び盗みで火災の家の物五貫を盗む者は死罪に処していたが、この時より、銅が三斤を超えること、銭を持ち出すこと及び盗んだ物が二十貫以上の場合に死罪とした。二年、有司が奏上して言うには、「元年の詔に曰く、重罪を犯して終身徒刑に処せられる者には、捶楚を加え、さらに顔に黥刑を施すとある。これは一つの罪で三つの刑を具えることになり、黥刑は免ずべきである。職事官及び宰相、節度使の世選の家の子孫が、姦罪を犯して徒刑に至る場合、黥刑を施すか否か審らかでない」と。ただ諭して言うには、「罪を犯して悔い改め自新する者にも、用いるべき人材がある。一度顔に黥を施せば、終身の辱めとなる。朕は甚だこれを憫れむ」と。後に終身徒刑を犯す者は、ただ頸に刺青するのみとした。奴婢が逃亡を犯し、あるいは主人の物を盗んだ場合、主人は勝手にその顔に黥を施してはならず、臂や頸に刺青することは聴許した。窃盗を犯した者は、初めは右臂に刺青し、再犯は左臂、三犯は頸の右、四犯は左、五犯に至っては死罪とした。五年、新たに条制が制定され、詔して有司に朝日にこれを執ることを命じ、さらに諸道に頒行した。太祖以来の法令を編纂し、古制を参考にしたものである。その刑には死、流、杖及び三等の徒刑があり、五凡、五百四十七条から成る。
時に、群牧人が官印を窃用して馬を人に与えた者がおり、法に照らせば死罪であったが、帝は言った。「一頭の馬で二人を殺すのは、あまりに甚だしくはないか」と。死罪を減じて論じた。また兄弟が強盗を犯して死罪に当たる者がいたが、弟が兄に従ったこと、かつ共に子がないことを理由に、特に弟を赦免した。枉法で賄賂を受け取ること、詔書を偽って駅伝を走らせること、御書を偽って学ぶこと、外国の貢物を盗む者に至っては、例によって皆死罪を免じた。郡王貼不の家奴弥里吉がその主人が怨望の言葉を口にしたと告発したが、取り調べても証拠がなく、反坐に当たるはずであった。欽哀皇后の取り成しにより、結局罪を加えず、また主人に引き渡すこともせず、ただ財産を没収したのみであった。寧遠軍節度使蕭白が烏古敵烈都詳穩敵魯の娘を強奪して妻としたが、これも皇后の言葉により死罪を免じ、杖刑を加えて官職を剥奪した。梅里狗丹が酒に酔って人を殺し逃亡したが、永寿節に自首したため、特にその罪を赦した。皇妹秦國公主の誕生日に、帝がその邸宅に行幸した時、伶人の張隋は、もともと宋が派遣した間者であったが、大臣がこれを察知して上奏した。召して詰問すると、自白したので、すぐに釈放した。後に詔して、諸職官が官物を私的に取る者は、正規の盗罪として論ずることとした。諸帳の郎君らが禁地で鹿を射た者は、杖三百を決し、償いは徴収しない。小将軍は杖二百以下。百姓が犯した者は杖三百を決する。聖宗の時代の風は廃れた。
道宗清寧元年、諸宮都部署に詔して言うには、「機密事があれば、直ちに面奏せよ。その他の訴え事は、法に従って施行せよ。誹謗中傷の書を投げ入れる者がおり、それを受け取り読んだ者は皆棄市に処す」と。二年、諸郡の長吏に命じて諸部の例の如く、僚属と共に罪囚を裁決させ、獄中で冤罪死させないようにした。詔を下して言うには、「以前は諸路の死刑は皆朝廷での裁決を待っていたため、訴訟が滞留した。今より強盗で事実が明らかになった者は、直ちに裁決することを聴許する」と。四年、再び左夷離畢に詔して言うには、「先に外路の死刑は、所在の官司で直ちに裁決することを聴許した。しかしその情実を尽くせず、冤罪があるかもしれない。今よりたとえ自白した後でも、なお近隣の官司に覆問させること。冤罪がなければ裁決し、冤罪があれば直ちに詳細を奏上せよ」と。咸雍元年、詔して獄囚に家族のいない者には、食糧を与えることとした。六年、帝は契丹と漢人の風俗が異なり、国法を異なって施行すべきでないと考え、そこで惕隠蘇、枢密使乙辛らに命じて条制を改定させた。律令に合致するものは全てこれを記載し、合致しないものは別に保存した。時に校定官は重熙の旧制に基づき、窃盗の贓物二十五貫で死罪とする一条を、五十貫に増やして死罪とした。また重複する二条を削除し、五百四十五条とした。律から百七十三条を取り、さらに新たに七十一条を創設増補し、総計七百八十九条とし、重編して増補したものは千条余りに至った。皆分類して列挙した。大康年間に制定されたものを基に、さらに律及び条例を参照校合し、三十六条を継ぎ増した。その後事に因って継続して校訂し、大安三年までに、さらに六十七条を増補した。条約が既に煩雑となり、法典を司る者は全てを習得できず、愚民は何を避けるべきか知らず、法を犯す者が多く、役人はこれに乗じて奸を行うことができた。そこで五年に詔して言うには、「法とは民に信を示し、国を治めるに至らしめるものである。天地のように簡易で、四時のように誤りなく、民に避けられるが犯せないものであるべきだ。先に有司に命じて刑法を編纂させたが、朕の意を明らかに体することができず、多くの条目を作り、民を罪に陥れることとした。朕は甚だこれを取らない。今より旧法を再び用い、その他は全て廃止せよ」と。
しかし大康元年より、北院枢密使耶律乙辛らが権力を握った。宮婢の単登らが宣懿皇后を誣告し、乙辛がこれを上奏すると、直ちに乙辛に取り調べを命じ、事実と認められた。上は怒り、伶人の趙惟一を族誅し、高長命を斬首し、その家産を没収し、さらに皇后に自尽を賜った。三年、乙辛はまたその党と謀って昭懐太子を陥れ、密かに右護衛太保耶律查剌に命じ、知枢密院事蕭速撒ら八人が皇太子を立てようと謀っていると告発させた。詔して取り調べたが証拠がなく、速撒、達不也を外任に出し、護衛の撒撥ら六人を流刑に処した。詔して首謀の逆賊を告発した者は重く官職と賞を与え、そうでなければ皆誅戮するとした。乙辛は牌印郎君蕭訛都斡に教唆して自首させ、「臣はかつて速撒らの謀議に加わった」と言わせ、そこで名簿を作成して告発させた。帝はこれを信じ、乙辛らに取り調べさせ、皇太子に杖刑を加えるに至り、宮中の別室に幽閉し、撻不也、撒剌ら三十五人を殺し、さらに速撒らの諸子を殺した。その幼児及び婦女、奴婢、家産は皆没収し、あるいは群臣に分け与えた。燕哥らが太子の自供調書を偽造して上奏すると、上は大いに怒り、太子を廃して上京に移し、乙辛はやがて人を遣わして囚所でこれを弑した。帝はなお悟らず、朝廷上下は再び規律を失った。
天祚帝の乾統元年、大康三年に乙辛の害に預かった者はすべて官爵を復し、籍没された者はこれを出し、流放された者は郷里に還る。二年に至り、初めて乙辛らの墓を発き、棺を剖き尸を戮し、その子孫を誅し、余党の子孫は死を減じて辺に徙し、その家属奴婢は皆被害の家に分賜す。耶律撻不也、蕭達魯古らの如き、党人の特に兇狡なる者は、皆賄賂を以て免る。覆軍失城する者に至りては、第に官を免ずるのみ。行軍将軍耶律涅里ら三人に禁地に鹿を射るの罪あり、皆棄市す。その職官諸局人に過ある者は、鐫降決断の外、悉く軍に従う。賞罰章なく、怨讟日より起り、劇盗相挻き、叛亡踵を接す。天祚大いに恐れ、益々厳酷を以てこれを縄せんと務む。ここに由りて投崖・砲擲・釘割・臠殺の刑復興す。或いは五京に分尸し、甚だしきは至ってその心を取って以て祖廟に献ず。天祚の患を救うに策無く、残忍に流るるに由るとはいえ、また祖宗のこれを啓く所有るに由るなり。
遼の先代は、法を用いるに尚厳なり。その子孫をして皆君人の量有らしめ、自ら択ぶ所を知らしむれば、なお祖宗の謀を貽すの道に非ず。不幸にして一たび昏暴の者有り、少しく引きて以て藉口と為せば、何の至らざる所かあらん。然れども遼の季世、その先代と用刑同じくして、興亡異なるは何ぞや。蓋し創業の君は、これを法未だ定まらざる前に施し、民猶未だ測るを敢えざるなり。亡国の主は、これを法既に定まりたる後に施し、民復何の頼る所か有らん。これその為す所異なるなり。伝に曰く、「新国は典軽し」と。豈に独り権事宜のみならんや。
天祚末年、遊畋度無く、頗る倦勤の意有り。諸子惟だ文妃の生める敖盧斡最も賢なり。蕭奉先は乃ち元妃の兄、深くこれを忌む。会うに文妃の女兄耶律撻曷里に適し、女弟耶律余覩に適す。奉先乃ち余覩らの晋王を立てんことを謀り、天祚を太上皇と尊ばんとすと誣告す。遂に撻曷里及びその妻を戮し、文妃に自尽を賜う。敖盧斡は謀に与せざるを以て免るるを得。天祚の奉聖州に西狩するに及び、また耶律撒八ら敖盧斡を劫き立てんと欲すと為し、遂に撒八を誅し、その党与を尽くす。敖盧斡は人望有るを以て、即日死を賜う。当時従行の百官・諸局承応人及び軍士聞く者は、皆流涕す。
蓋し興宗の時より、遽かに大獄を起こし、仁徳皇后幽所に戕され、遼の政始めて衰う。道宗宣懿皇后を殺し、昭懐太子を遷す。太子尋いで害さる。天祚その父の冤を知り、而して己もまた幾殆う。ここに至りてまた自らその子敖盧斡を殺す。伝に曰く、「厚き所に於いて薄くすれば、薄からざる所無し」と。遼二百余年、骨肉屡相残滅す。天祚荒暴尤も甚だしく、遂に亡ぶに至る。噫!