儀衛志四(儀仗)
帝王は居処すれば重門に柝を撃ち、出でれば師兵を以て営衛と為し、人を労し衆を動かすは、豈に已むを得んや。天下の大患は大欲より生じ、遠慮深防せざるを得ざるなり。智英勇傑、魁臣雄藩は是に於いて在り、武備を文物の中に寓す、此れ儀仗の設くる所由なり。金吾・黄麾六軍の仗は、遼は之を晋に受け、晋は之を後唐に受け、後唐は之を梁・唐に受け、其の来るや自ら有り。耶律儼・陳大任の旧《志》に未だ備はらざる者あり、兼ねて《遼朝雑礼》を考うと云ふ。
国仗
王通氏が言うには、舜は毎年四嶽を巡り、民は労苦を訴えず、営衛は省かれ、征求は寡少であった。遼の太祖は匹馬一麾にして、地を斥けて万里、四方を経営し、未だ寧居せず、至る所で楽従せしめ、この道を用いたのである。太宗は中国を兼制し、秦の始皇・漢の武帝の儀文が日に至り、後嗣はこれに因った。旄頭豹尾、五京の間を馳駆し、終歳勤動して、轍跡相尋う。民は労し財は匱え、これが故であろうか。遼は大賀氏の摩会が唐の鼓纛の賜を受けてより、これが国仗となった。その制は甚だ簡にして、太宗が唐・晋を伐つ以前、用いた所は皆是れ此の物なり。篇首に著して、艱難創業の主は、必ずしも厚く其身を衛するものにあらざるを見せんとす。
十二の神纛、十二の旗、十二の鼓、曲柄の華蓋
直柄の華蓋
遙輦氏の末主の遺制により、十二神纛と天子の旗鼓を迎えて太祖の帳前に置いた。諸弟の剌哥らが叛き、勻德實が行宮に放火したので、皇后が曷古魯に命じてこれを救わせたが、天子の旗鼓のみを得た。太宗が即位すると、旗鼓と神纛を殿前に置いた。聖宗は軽車の儀衛を用いて帝山を拝した。
渤海の軍勢は
天顕四年、太宗は遼陽府に幸し、人皇王は乗輿と羽衛を備えて迎へ奉る。乾亨五年、聖宗東巡し、東京留守は儀衛を具へて車駕を迎ふ。是れ故の渤海の儀衛なり。漢仗なり。
大賀失活が唐に入朝し、娑固兄弟がこれを継ぎ、公主を娶り王に封ぜられ、上国の有様を飽くまで観覧した。開元の東封に際しては、邵固が扈従し、また太平の盛観を覧る。ここより朝貢は毎年唐に至る。遼の始祖涅裏が遙輦氏を立て、代々国相となり、目に見え耳に聞き、帝王の容輝を羨望し企てること多年に及んだ。遙輦が鼓纛を太祖の帳前に致すも、何ぞその雄心霸気の睥睨する所に副うに足らんや。その後、梁と交わり唐に聘し、労珝を憚らざりき。太宗に至り、晋を立てて冊礼を要し、汴に入りて法物を収め、然る後に累世の願欲する所を、一挙にしてこれを得たり。太原が命を擅にするも、力敵せざるに非ず、法物を席卷し、先ず中京に致し、山河を槊棄して少しも顧慮せず、その志知るべし。ここにおいて秦・漢以来の帝王文物、ことごとく遼に入る。周・宋は図に按じて更に制すも、乃ち故物に非ず。遼の重んずる所、これその大端なり、故に特記す。
四年、燕京留守儀衛を具し駕を導きて京に入る、上元和殿に御し、百僚朝賀す。是より後、儀衛は常事と為り、史復た書かず。鹵簿儀仗の人馬の数、
歩行して擎執する者二千四百十二人、坐馬して擎執する者二百七十五人、坐馬の楽人二百七十三人、歩行の教坊人七十一人、御馬牽攏官五十二人、御馬二十六匹、官僚馬牽攏官六十六人、坐馬の掛甲人五百九十八人、歩行の掛甲人百六十人、金甲二人、神輿十二人、長寿仙一人、諸職官等三百五人、内侍一人、引稍押衙二人、赤県令一人、府牧一人、府吏二人、少尹一人、司録一人、功曹一人、太常少卿一人、太常丞一人、太常博士一人、司徒一人、太僕卿一人、鴻臚卿一人、大理卿一人、御史大夫一人、侍御史二人、殿中侍御史二人、監察御史一人、兵部尚書一人、兵部侍郎一人、兵部郎中一人、兵部員外郎一人、符宝郎一人、左右諸衛将軍三十五人、左右諸折衝二十一人、左右諸果毅二十八人、尚乗奉御二人、排仗承直二人、左右夾騎二人、都頭六人、主帥十四人(教坊司より差す)、押纛二人、左右金吾四人、虞候佽飛十六人、鼓吹令二人、漏刻生二人、押当官一人、司天監一人、令史一人、司辰一人、統軍六人、千牛備身二人、左右親勲二人、左右郎将四人、左右拾遺二人、左右補闕二人、起居舎人一人、左右諫議大夫二人、給事中書舎人二人、左右散騎常侍二人、門下侍郎二人、中書侍郎二人、鳴鞭二人(内侍より内差)、侍中一人、中書令一人、監門校尉二人、排列官二人、武衛隊正一人、随駕諸司供奉官三十人、三班供奉官六十人、通事舎人四人、御史中丞二人、乗黄丞二人、都尉一人、太僕卿一人、歩行太卜令一人。職官の乗馬三百四匹、進馬四匹、駕車の馬二十八匹。人の数凡そ四千二百三十九、馬の数凡そ千五百二十。
本朝太常卿徐世隆の家に蔵する『遼朝雑礼』より得たる所、かくの如し。儀注の詳なるに至りては、敢えて傅会せずと云う。