遼史

本紀第五: 世宗

世宗

世宗孝和荘憲皇帝、諱は阮、小字は兀欲。譲国皇帝の長子、母は柔貞皇后蕭氏。帝は儀容豊偉にして、内は寛大、外は厳格、騎射に長じ、施与を好み、人望帰す。太宗はこれを子の如く愛す。会同九年、晋を伐つに従う。

大同元年

大同元年春二月、永康王に封ぜらる。

夏四月丁丑、太宗欒城に崩ず。戊寅、梓宮鎮陽に次ぎ、即ち皇帝の位に即く柩前。甲申、定州に次ぎ、天徳・朔古・解裏等に命じて梓宮を護り先ず上京に赴かしむ。太后帝の即位を聞き、太弟李胡を遣わし兵を率いて之を拒がしむ。

六月甲寅朔、南京に次ぐ。五院夷離堇安端・詳穏劉哥人を馳せて報じ、前鋒たらんことを請う。泰徳泉に至り、李胡の軍に遇い、戦いて之を敗る。上郎君勤徳等を両軍に詣らしめ諭解せしむ。

秋閏七月、潢河に次ぐ。太后・李胡兵を整え横渡にて拒ぎ、数日相持す。屋質の謀を用い、各兵を罷め上京に趨る。既にして太后・李胡復た異謀有るを聞き、祖州に遷す。司徒しと劃設及び楚補裏を誅す。

八月壬午朔、母蕭氏を尊び皇太后と為し、太后の族剌只撒古魯を以て国舅帳と為し、詳穏を立て以て総べしむ。崇徳宮の戸を分ち翼戴の功臣に賜い、及び北院大王窪・南院大王吼に各五十、安摶・楚補に各百。的魯・鉄剌の子孫先に非罪を以て籍没せられたる者は之に帰す。癸未、始めて北院枢密使を置き、安摶を以て之と為す。

九月壬子朔、嗣聖皇帝を懐陵に葬る。丁卯、柴冊の礼を行い、群臣尊号を上りて天授皇帝と曰う。大赦し、大同元年を改めて天禄元年と為す。皇考を追謚して譲国皇帝と曰う。安端を以て東丹国を主たしめ、明王に封じ、察割を泰寧王と為し、劉哥を惕隠と為し、高勲を南院枢密使と為す。

天禄二年

二年春正月、天徳・蕭翰・劉哥・盆都等謀反す。天徳を誅し、蕭翰を杖ち、劉哥を辺に遷し、盆都を罰して轄戛斯国に使わす。漢主劉知遠殂し、子承祐立つ。

夏四月庚辰朔、南唐李朗・王祚を遣わし来たり慰め且つ賀し、兼ねて蠟丸の書を奉じ、漢を攻むるを議す。

秋七月壬申、皇子賢生まる。

冬十月壬午、南京留守魏王趙延壽薨じ、中臺省右相牒哷葛を以て南京留守と為し、燕王に封ず。

十一月、駐蹕して彰武の南に在り。

天祿三年

三年春正月、蕭翰及び公主阿不裏謀反す、翰誅せられ、阿不裏は獄中に瘐死す。庚申、肆赦す。内外の官各一階を進む。

夏六月戊寅、敞史耶律胡離軫を以て北院大王と為す。己卯、惕隱頹昱を漆水郡王に封ず。

秋九月辛丑朔、群臣を召して南伐を議す。

冬十月、諸将を遣わし兵を率いて貝州高老鎮を攻め下し、地を徇いて鄴都・南宮・堂陽に及び、深州刺史史萬山を殺し、俘獲甚だ衆し。

天祿四年

四年春二月辛未、泰寧王察割来朝し、留めて侍せしむ。是の月、政事省を建つ。

三月戊戌朔、南唐趙延嗣・張福等を遣わして来たり、南征の捷を賀す。

秋九月乙丑朔、山西に如く。

冬十月、自ら将として南伐し、安平・内丘・束鹿等の城を攻め下し、大いに獲て還る。

是歳、皇后蕭氏を冊す。

天祿五年

五年春正月癸亥朔、百泉湖に如く。漢の郭威其の主をしいして自立し、国号周と為し、朱憲を遣わして来たり告ぐ。即ち使を遣わして良馬を致す。漢の劉崇太原に自立す。

二月、周が姚漢英・華昭胤を遣わして来朝し、書中の言辞が対等の礼を抗するものだったので、漢英らを留め置いた。

夏五月壬戌朔、太子太傅趙瑩が薨去した。朝儀を一日停止し、汴に帰葬することを命じた。詔して州県の録事参軍・主簿は政事省に委ねて選任登録させた。

六月辛卯朔、劉崇が周に攻撃され、使者を遣わして称し、援軍を乞い、かつ封冊を求めた。ただちに燕王牒哷・枢密使高勛を遣わして冊し、大漢神武皇帝とした。南唐が蔣洪を遣わして来朝し、挙兵して応援することを乞うた。この夏、百泉嶺に避暑した。

九月庚申朔、自ら将として南伐した。壬戌、帰化州祥古山に駐屯した。癸亥、行宮において譲国皇帝を祭った。群臣皆酔ったところ、察割が反逆し、帝は弑され、年三十四であった。応暦元年、顕州西山に葬り、陵を顕陵と曰う。二年、諡して孝和皇帝、廟号を世宗とす。統和二十六年七月、加諡して孝和荘憲皇帝とす。

贊に曰く、世宗は中才の主なり。大統を継ぎ入りて、未だ三年に曾らず、唐丸の書を納るるや、即ち南伐を議し、即ち持重に乏しく、周防に乖く宜しきも、蓋し禍を致すの道有り。然れども孝友寛慈、亦た人君の度有り。未だ師の還らざるに及び、変は沈湎より起こる。豈に哀しまざらんや。