遼史

志第十一: 地理志五

◎地理志五

○西京道

西京大同府は、陶唐の冀州の領域である。虞の時代にへい州に分かれた。夏の時代には再び冀州に属した。周の『職方』によれば、正北を并州という。戦国時代には趙に属し、武霊王が初めて雲中郡を置いた。秦の時代には代王国に属し、後に平城県となった。魏の時代には新興郡に属した。晋の時代も雁門郡に属した。劉琨が表を奉って猗盧を代王に封じ、平城を都とした。元魏の道武帝はここに都邑を建てた。孝文帝は司州牧と改め、代尹を置き、都を洛邑に遷し、万年と改め、また恒州を置いた。高斉の文宣帝は州を廃して恒安鎮とし、今これを東城といい、まもなく恒州を復した。周は再び恒安鎮とし、朔州と改めた。隋はなお鎮のままとした。唐の武徳四年に北恒州を置き、七年に廃した。貞観十四年、雲中の定襄県をここに移した。永淳元年、黙啜が民の患いとなり、民を朔州に移した。開元十八年、雲州を置いた。天宝元年、雲中郡と改めた。乾元元年、雲州といった。乾符三年、大同軍節度使李国昌の子克用が雲中守捉使となり、防禦使を殺し、州を占拠して上聞した。僖宗は克用を赦し、国昌を大同軍防禦使としたが、命を受けなかった。広明元年、李琢が国昌を攻め、国昌は兵敗し、克用とともに北地に奔った。黄巣が京師に入ると、詔して代北軍を発し、まもなく国昌を赦し、賊を討たせた。克用は三万五千騎を率いて南し、京師を収める功は第一であり、国昌は隴西郡王に封ぜられた。国昌が卒すると、克用は雲州を取った。既にして向かうところ失利し、乃ち卑辞厚礼をもって、太祖と雲州の東城で会し、大いに兵を挙げて梁を攻めんと謀ったが、果たさず。克用の子存勗が梁を滅ぼし、これが唐の荘宗である。同光三年、再び雲州を大同軍節度使とした。晋の高祖こうそが唐に代わり、契丹に援立功あるを以て、山前・代北の地を割いて賂とし、大同は来属し、因って西京を建てた。敵楼・棚櫓を具える。広袤二十里。門は、東を迎春といい、南を朝陽といい、西を定西といい、北を拱極という。元魏の宮垣は城の北面を占め、双闕なお在り。遼は既に都を建て、重地として用い、親王にあらざればこれを主とすること得ず。清寧八年に華厳寺を建て、諸帝の石像・銅像を奉安す。また天王寺・留守司衙あり、南を西省という。北門の東を大同府といい、北門の西を大同駅という。初め大同軍節度とし、重熙十三年に西京に昇格し、府を大同といった。州二、県七を統べる。

大同県。本は大同川の地。重熙十七年、西夏が辺を犯し、雲中県を分けて置く。戸一万。雲中県。趙が置く。沿革は京府と同じ。戸一万。

天成県。本は極塞の地。魏の道武帝が広牧県を置き、唐の武徳五年に定襄県を置き、遼は雲中を分けて置く。京の北一百八十里に在り。戸五千。

長青県。本は白登台の地。冒頓単于が精騎三十余万を縦にして漢の高帝を白登に七日間囲んだのが、即ちここである。遼が初めて県を置く。青陂あり。梁の元帝の『横吹曲』に「朝に青陂を跋し、暮に白登に上る」と云う。東京の北一百一十里に在り。戸四千。

奉義県。本は漢の陶林県の地。後唐の武皇と太祖がここで会した。遼は雲中を分けて置く。戸三千。

懐仁県。本は漢の沙南県。元魏の葛栄の乱に、県廃す。隋の開皇二年に雲内をここに移す。大業二年に大利県を置き、雲州に属し、定襄郡に改属す。隋末、突厥に陥る。李克用が赫連鐸を敗り、ここに兵を駐めた。遼は懐仁と改む。京の南六十里に在り。戸三千。

懐安県。本は漢の夷輿県の地。魏より隋に至るまで、突厥に占拠され、唐が頡利を克つと、県遂に廃して懐荒鎮となす。高勲が燕を鎮め、帰化州文徳県を分けて置くことを奏す。初め奉聖州に隷し、後に来属す。州の西北二百八十里に在り。戸三千。

弘州、博寧軍、下、刺史。東魏の静帝が北霊丘県を置く。唐初、地は突厥に陥り、開元中に横野軍安辺県を置き、天宝の乱に廃し、後に襄陰村となる。統和中、寰州が辺に近く、宋の将潘美に破られたるを以て、これを廃し、乃ちここに弘州を置く。初め軍を永寧といった。桑乾河・白道泉・白登山あり、亦た火焼山といい、火井あり。県二を統べる。

永寧県。戸一万。

順聖県。本は魏の安塞軍、五代の兵乱に廃す。高勲が幽州を鎮め、景宗に永興県を分けて置くことを奏す。初め奉聖州に隷す。州の西北二百八十里に在り。戸三千。

德州、下、刺史。唐の会昌中に西徳店を以て德州を置く。開泰八年、漢戸を以て再び置く。歩落泉・金河山・野狐嶺・白道阪あり。県一。

宣徳県。本来は漢代の桐過県の地であり、雲中郡に属し、後に定襄郡に隷属し、漢末に廃止された。北斉が紫阿鎮を設置した。唐代の会昌年間に県を設置した。戸数三千。

豊州、天徳軍、節度使。秦代は上郡の北境であり、漢代は五原郡に属した。土地は砂礫地で塩分が多く、田畑は少ない。晋の永嘉の乱以後、赫連勃勃に属した。後周が永豊鎮を設置した。隋の開皇年間に永豊県に昇格し、豊州と改称した。大業七年に五原郡となり、義寧元年、太守張遜が奏上して帰順郡と改めた。唐の武徳元年に豊州総管府となった。六年に廃止し、民を白馬県に移し、遂に廃れた。貞観四年に霊州の境を分けて相州都督ととく府を設置し、蕃戸を管轄した。天宝初年に九原郡と改称した。乾元元年に豊州に復し、後に回鶻に帰属した。会昌年間にこれを攻略し、後唐が天徳軍と改めた。太祖の神冊五年に攻め落とし、応天軍と改名し、再び州となった。大塩濼・九十九泉・没越濼・古磧口・青冢(すなわち王昭君の墓)がある。兵事は西南面招討司に属する。管轄する県は二つ:富民県。本来は漢代の臨戎県であり、遼が現在の名に改めた。戸数一千二百。

振武県。本来は漢代の定襄郡盛楽県である。背後に陰山を負い、前面に黄河を帯びる。元魏がかつて盛楽に都したのは、ここである。唐の武徳四年に突厥を攻略し、雲中都督府を建てた。麟徳三年に単于大都督府と改称した。聖暦元年にまた安北都督と改めた。開元七年に東受降城に割属させた。八年に振武軍節度使を設置した。会昌五年に安北都護府となった。後唐の荘宗が兄の嗣本を振武節度使とした。太祖の神冊元年、吐渾を討って帰還する途中、これを攻め、その民をことごとく捕虜として東に移し、郷兵三百人だけを残して防戍させた。後にさらに県となった。

雲内州、開遠軍、下、節度。本来は中受降城の地である。遼の初めに代北雲朔招討司を設置し、雲内州と改めた。清寧初年に昇格した。威塞軍・古可敦城・大同川・天安軍・永済柵・安楽戍・拂雲堆がある。兵事は西南面招討司に属する。管轄する県は二つ:柔服県。

寧人県。天徳軍、本来は中受降城である。唐の開元年間に横塞軍を廃止し、大同川に天安軍を設置した。乾元年間に天徳軍と改称し、永済柵に移転し、現在の治所がこれである。太祖が党項を平定し、遂に天徳を破り、官吏・民衆をことごとく掠奪して東に移した。後に招討司を設置し、次第に町並みが形成されたので、国族(皇族)をもって天徳軍節度使とした。黄河・黒山峪・盧城・威塞軍・秦の長城・唐の長城がある。また牟那山があり、鉗耳觜城がその北にある。

寧辺州、鎮西軍、下、刺史。本来は唐代の隆鎮であり、遼が設置した。兵事は西南面招討司に属する。

奉聖州、武定軍、上、節度。本来は唐代の新州である。後唐が団練使を設置し、山後八軍を総轄し、荘宗が弟の存矩をこれに任じた。軍が乱を起こし、存矩を祁州で殺害し、大将の盧文進を擁して逃亡し帰順した。太祖が新州を攻略すると、荘宗は李嗣源を派遣してこれを奪回した。同光二年に威塞軍に昇格した。石晋の高祖が割譲して献上し、太宗が改めて昇格させた。両河会・温泉・龍門山・涿鹿山がある。東南は南京まで三百里、西北は西京まで四百四十里。兵事は西京都部署司に属する。管轄する州は三つ、県は四つ:永興県。本来は漢代の涿鹿県の地である。黄帝が蚩尤とここで戦った。戸数八千。

礬山県。本来は漢代の軍都県である。山から白緑礬が産出するので、この名がある。礬山・桑乾河がある。州の南六十里にある。戸数三千。

龍門県。龍門山があり、石壁が対峙し、高さ数百尺、これを望むと門のようである。塞外の諸河および沙漠の潦水は、皆ここで海に向かう。雨が降ると俄かに水が十仞を超え、晴れると清く浅く渡ることができる。実に塞北の要衝を扼する地である。州の東北二百八十里にあり、戸数四千。

望雲県。本来は望雲川の地である。景宗がここに潜邸を建て、それによって町並みが形成された。穆宗が崩御すると、景宗が入って国統を継ぎ、御荘と号した。後に望雲県を設置し、直に彰湣宮に隷属させ、ここに附庸させた。州の東北二百六十里にある。戸数一千。

帰化州、雄武軍、上、刺史。本来は漢代の下洛県である。元魏が文徳県と改めた。唐代に武州に昇格し、僖宗が毅州と改めた。後唐の太祖が再び武州とし、明宗がまた毅州とし、潞王が依然として武州とした。晋の高祖が遼に割譲して献上し、現在の名に改めた。桑乾河・会河川・愛陽川・炭山(また陘頭ともいう)がある。涼殿があり、承天皇后がここで涼をとった。山の東北三十里に新涼殿があり、景宗がここで涼をとったが、ただ松棚が数陘あるのみである。断雲嶺は極めて高く険しいので、この名がある。州の西北は西京まで四百五十里。管轄する県は一つ:文徳県。本来は漢代の女祁県の地である。元魏が設置した。戸数一万。

可汗州、清平軍、下、刺史。本来は漢代の潘県であり、元魏で廃止された。北斉が北燕郡を設置し、懐戎県と改めた。隋が郡を廃止し、涿郡に属した。唐の武徳年間に再び北燕州を設置し、県は旧に従った。貞観八年に媯州と改称した。五代の時、奚王の去諸が数千帳を率いて媯州に移住し、自ら別に西奚とし、可汗州と号した。太祖がこれに因襲した。媯泉が城中にあり、舜が二女をここに妃としたと伝わる。また温泉・版泉・磨笄山・鶏鳴山・喬山・歴山がある。管轄する県は一つ:懐来県。本来は懐戎県であり、太祖が改称した。戸数三千。

儒州、縉陽軍、中、刺史。唐代に設置した。後唐の同光二年に新州に隷属させた。太宗が奉聖州と改め、依然として属した。南渓河・沽河・宋王峪・桃峪口がある。管轄する県は一つ:縉山県。本来は漢代の広蜜県の地である。唐の天宝年間に媯川県を割いて設置した。戸数五千。

蔚州、忠順軍、上、節度。《周職方》に、并州の川は漚夷といい、州内の飛狐県にある。趙の襄子が代を滅ぼし、武霊王が代郡を設置した。項羽こううが趙歇を代王に移封し、歇が趙に戻ると、陳余を立てて代王とした。漢の韓信かんしんが余を斬り、再び代郡を設置した。文帝が初め代に封じられた。皆この地である。周の宣帝が初めて蔚州を設置し、隋の開皇年間に廃止した。唐の武徳四年に再び設置した。至徳二年に興唐県と改称した。乾元元年に旧に復した。大中年間、朱邪執宜が刺史となり、功績があり、姓名を李国昌と賜った。子の克用が留後を乞うたが、僖宗は許さなかった。広明初年、国昌を攻め破り、代北に備えがなかったので、太祖が来攻し、これを攻略し、居民を捕虜・掠奪して去った。石晋が地を献上し、忠順軍に昇格し、後に武安軍と改めた。統和四年に宋に帰属したが、まもなくこれを回復し、刺史に降格し、奉聖州に隷属させ、観察に昇格し、再び忠順軍節度となった。兵事は西京都部署司に属する。管轄する県は五つ:霊仙県。唐代に興唐県を設置し、梁が隆化県と改め、後唐の同光初年に再び設置し、晋が現在の名に改めた。戸数二万。

定安県。本来は漢代の東安陽県の地であり、久しく廃止されていた。後唐の太祖が劉仁恭を討伐した時、蔚州に駐屯し、朝霧が暗く深く、占うと深入りは不利であり、ちょうど雷電が大いに起こり、燕軍が解いて去ったのが、ここである。遼が定安県を設置した。西北は州まで六十里。戸数一万。

飛狐県。後周の大象二年に五龍城に広昌県を置く、これなり。隋の仁寿元年に飛狐と改称す。伝うるところに依れば、狐が紫荊嶺において五粒松子を食し、飛仙と成りし故に云う。西北、州に至ること一百四十里。戸五千。

霊丘県。漢代に置く。後漢に省く。東魏に復置し、霊丘郡に属す。隋の開皇年中に郡を罷め来属す。大業初年に代州に改隷す。唐の武徳六年に仍って旧に依る。東北、州に至ること一百八十里。戸三千。

広陵県。本来は漢の延陵県なり。隋唐は鎮州と為す。後唐の同光初年に興唐県を分ちて置く。石晋、遼に割属す。東南、州に至ること四十里。戸三千。

応州、彰国軍、上、節度使。唐の武徳年中に金城県を置き、後に応州と改む。後唐の明宗、州の人なり。天成元年に彰国軍節度使を升め、興唐軍・寰州をこれに隷す。遼、これに因る。北に龍首山、南に雁門あり。兵事は西京都部署司に属す。統ぶる県三:

金城県。本来は漢の陰館県の地なり、漢末に廃して陰館城と為す。隋の大業末年に突厥に陥る。唐、始めて金城県を置き、遼これに因る。戸八千。渾源県。唐に置く。渾源川あり。州の東南一百五十里に在り。戸五千。

河陰県。本来は漢の陰館県の地なり。初め朔州に隷し、清寧年中に来属す。戸三千。

朔州、順義軍、下、節度使。本来は漢の馬邑県の地なり。元魏の孝文帝始めて朔州を置く、今の州の北三百八十里の定襄故城に在り。葛栄の乱に廃す。高斉の天保六年に復置し、今の州の南四十七里の新城に在り。八年に馬邑に徙す、即ち今の城なり。武成帝、北道行台を置く。周の武帝、朔州総管府を置く。隋の大業三年に馬邑郡と改む。唐の武徳四年に朔州を復す。遼、順義軍節度使を升む。兵事は西京都部署司に属す。統ぶる州一、県三:

鄯陽県。本来は漢の定襄県の地なり。建安年中に新興郡を置く。元魏、桑乾郡を置く。高斉、招遠県を置き、郡は仍って旧に依る。隋の開皇三年に郡を罷め、朔州に隷す。大業元年、初めて鄯陽県と名付け、遼これに因る。戸四千。

寧遠県。斉の天保六年、朔州の西に於いて招遠県を置く。唐の乾元元年に今の名に改め、遼これに因る。寧遠鎮あり。東、朔州に至ること八十里。戸二千。

馬邑県。漢に置き雁門郡に属す。唐の開元五年、鄯陽県の東三十里を析きて大同軍を置き、倚郭に馬邑県を置く。南、朔州に至ること四十里。戸三千。

武州、宣威軍、下、刺史。趙の恵王、武川塞を置く。魏、神武県を置く。唐末に武州を置き、後唐に毅州と改む。重熙九年に武州を復し、号して宣威軍と曰う。統ぶる県一:神武県。魏に置く。晋、新城と改む。後唐の太祖、神武川の新城に生まる、これなり。初め朔州に隷し、後に州を置き、並びに寧遠を一県と為して来属す。戸五千。

東勝州、武興軍、下、刺史。隋の開皇七年に勝州を置く。大業五年に榆林郡と改む。唐の貞観五年に南河の地に於いて決勝州を置く、故に此れを東勝州と謂う。天宝七年に又た榆林郡と為す。乾元元年に復た勝州と為す。太祖の神冊元年に振武軍を破り、勝州の民皆河東に趨き、州廃す。晋、代北を割き来たりて献じ、復置す。兵事は西南面招討司に属す。統ぶる県二:

榆林県。河濱県。

金粛州。重熙十二年、西夏を伐ちて置く。燕の民三百戸、防秋軍一千を割きて之を実す。西南面招討司に属す。

河清軍。西夏、遼に帰し、直路を開きて以て上京に趨く。重熙十二年に城を建て、号して河清軍と曰う。民五百戸、防秋兵一千人を徙して之を実す。西南面招討司に属す。