遼史

志第十: 地理志四

◎地理志四南京道

南京道

析津府

南京析津府は、もと古の冀州の地である。高陽氏はこれを幽陵と謂い、陶唐は幽都と曰い、有虞は析して幽州とした。商は幽を冀に併せた。周は分ち併せて幽とした。『職方』に、東北は幽州、山鎮は醫巫閭、澤藪は貘養、川は河・泲、浸は淄・時とある。その利は魚・塩、その畜は馬・牛・豕、その穀は黍・稷・稻である。武王は太保奭を燕に封じた。秦はその地を漁陽・上谷・右北平・遼西・遼東の五郡とした。漢は燕国とし、臧荼・盧綰・劉建・劉澤・劉旦を歴封し、嘗て涿郡広陽国を置いた。後漢は広平国広陽郡とし、或いは上谷に合し、復た幽州を置いた。後周は燕及び范陽郡を置き、隋は幽州総管とした。唐は大都督ととく府を置き、范陽節度使と改めた。安祿山・史思明・李懷山・朱滔・劉怦・劉濟が相継いで割拠した。劉總は唐に帰した。張仲武・張允仲に至り、正をもって民を得た。劉仁恭父子が僭称して争い、遂に五代に入った。唐より晋に至り、高祖こうそは遼に援立の労有るを以て、幽州等十六州を割きて献じた。太宗は南京に昇め、又燕京と曰う。

城は方三十六里、高さ三丈、幅広さ一丈五尺。敵楼・戦櫓を具える。八門あり:東は安東・迎春と曰い、南は開陽・丹鳳と曰い、西は顕西・清晋と曰い、北は通天・拱辰と曰う。大内は西南の隅に在り。皇城内に景宗・聖宗の御容殿二つあり、東は宣和と曰い、南は大内と曰う。内門は宣教と曰い、元和と改む;外三門は南端・左掖・右掖と曰う。左掖は万春と改め、右掖は千秋と改む。門に楼閣あり、球場は其の南に在り、東は永平館と為す。皇城西門は顕西と曰い、設けて開かず;北は子北と曰う。西城の頂に涼殿あり、東北の隅に燕角楼あり。坊市・廨舎・寺観は、蓋し書き尽くせず。其の外に、居庸・松亭・榆林の関有り。古北の口、桑乾河・高梁河・石子河・大安山・燕山、中に瑤嶼有り。府は幽都と曰い、軍号は盧龍、開泰元年に軍額を落とす。州六、県十一を統ぶ:

析津県。もと晋の薊県、薊北県と改め、開泰元年今の名に更む。燕の分野旅寅を以て析木の津と為すに因りて、故に名づく。戸二万。

宛平県。もと晋の幽都県、開泰元年今の名に改む。戸二万二千。

昌平県。もと漢の軍都県、後漢は広陽郡に属し、晋は燕国に属し、元魏は東燕州・平昌郡及び昌平県を置く。郡廃し、県は幽州に隷す。京の北九十里に在り。戸七千。

良郷県。燕は中都県と為し、漢は良郷県と改む、旧は涿郡に属す。北斉天保七年に省きて薊県に入れ、武平六年に復た置く。唐聖暦元年に固節鎮と改め、神龍元年に復た良郷県と為す。劉守光は治を此に徙す。南京六十里に在り。戸七千。

潞県。もと漢の旧県、漁陽郡に属す。唐武徳二年に元州を置き、貞観元年に州廃し、復た県と為す。潞水有り。京の東六十里に在り。戸六千。

安次県。もと漢の旧県、漁陽郡に属す。唐武徳四年に東南五十里の石梁城に徙置し、貞観八年に又今の県西五里の常道城に徙し、開元二十三年に又耿就橋行市の南に徙す。京の南一百二十里に在り。戸一万二千。

永清県。もと漢の益昌県、隋は通沢県を置き、唐は武隆県を置き、会昌と改め、天宝初めに永清県と為す。京の南一百五十里に在り。戸五千。

武清県。前漢の雍奴県、漁陽郡に属す。『水経注』に、雍奴とは藪沢の名、四面水有るを雍と曰い、流れざるを奴と曰う。唐天宝初めに武清と改む。京の東南一百五十里に在り。戸一万。

香河県。本来は武清県の孫村である。遼は新倉に塩専売院を設置し、住民が集まり住んだため、武清・三河・潞の三県の戸を分けて設置した。京の東南一百二十里にある。戸七千。

玉河県。本来は泉山の地である。劉仁恭が大安山に宮観を創建し、方士の王若訥に師事して煉丹羽化の術を学んだため、薊県を分けて設置し、これを供給した。京の西四十里にある。戸一千。

漷陰県。本来は漢代の泉山の霍村鎮である。遼は毎年春の終わりに、延芳澱で狩猟を行い、住民が邑を成したため、故漷陰鎮に城を築き、後に県に改めた。京の東南九十里にある。延芳澱は方数百里、春には鵞や鴨が集まり、夏秋には菱や芡が多い。国主が春に狩りをする時、衛士は皆墨緑色の衣を着て、各々連鎚・鷹食・刺鵝錐を持ち、水辺に列をなし、互いに五七歩離れる。上風で鼓を打ち、鵞を驚かせて水面から少し離れさせる。国主自ら海東青鶻を放ってこれを捕らえる。鵞が墜ちると、鶻の力が及ばないのを恐れ、列にいる者が佩錐で鵞を刺し、急いでその脂身を取って鶻に与える。頭鵞を得た者は、例として銀絹を賞賜される。国主・皇族・群臣はそれぞれ分地を持つ。戸五千。

宋の王曾の『上契丹事』に曰く、「雄州の白溝驛から河を渡り、四十里で新城県に至る。古の督亢亭の地である。また七十里で涿州に至る。北に範水・劉李河を渡り、六十里で良郷県に至る。盧溝河を渡り、六十里で幽州に至る。燕京と号す。子城は羅郭の西南に就いてこれを為す。正南は啓夏門と曰い、内に元和殿あり、東門は宣和と曰う。城中の坊闬には皆楼あり。閔忠寺あり、本来は唐の太宗が征遼の陣亡将士のために造ったものである。また開泰寺あり、魏王耶律漢寧が造った。皆朝使を遣わして遊観させる。南門外に於越王の廨あり、宴集の所とする。門外に永平館あり、旧名は碣石館、請和の後にこれを改む。南は即ち桑乾河。

順州

順州、帰化軍、中、刺史。秦は上谷、漢は范陽、北斉は帰徳郡の境。隋の開皇年中、粟末靺鞨が高麗と戦って勝たず、厥稽部の長突地稽が八部の勝兵数千人を率い、扶餘城の西北から挙落して内附し、順州を置いてこれを処した。唐の武徳初年に燕州に改め、会昌年中に帰順州に改め、唐末に仍って順州と為す。温渝河、白遂河あり。曹王山、曹操嘗て此に軍を駐めた。黍谷山、鄒衍が律を吹いた地。南に斉の長城あり。城の東北に華林・天柱の二荘あり、遼は涼殿を建て、春に花を賞し、夏に涼を納む。初め軍は帰寧と曰い、後に名を更む。統べる県一:

懐柔県。唐の貞観六年に置き、五柳城を治め、順義県に改む。開元四年に松漠府弾汗州を置く。開宝元年に帰化郡に改む。乾元元年に今の名に復す。戸五千。

檀州

檀州、武威軍、下、刺史。本来は燕の漁陽郡の地、漢は白檀県と為す。『魏書』:曹公白檀を歴て、柳城に於て烏丸を破る。『続漢書かんじょ』:白檀は右北平に在り。元魏は密雲郡を創め、兼ねて安州を置く。後周は元州に改む。隋の開皇十八年に燕楽・密雲の二県を割いて檀州を置く。唐の天宝元年に密雲郡に改め、乾元元年に檀州に復す。遼は今の軍号を加う。桑溪・鮑丘山・桃花山・螺山あり。統べる県二:

密雲県。本来は漢の白檀県、後漢は以て斤奚を居む。元魏は密雲郡を置き、白檀・要陽・密雲の三県を領す。高斉は郡及び二県を廃し、来属す。戸五千。

行唐県。本来は定州の行唐県。太祖が定州を掠め、行唐を破り、その民を尽く駆り、北は檀州に至り、曠土を択びてこれに居らしめ、凡そ十寨を置き、仍って行唐県と名づく。彰湣宮に隷す。戸三千。

涿州

涿州、永泰軍、上、刺史。漢の高祖六年に燕を分けて涿郡を置き、魏の文帝は范陽郡に改め、晋は范陽国と為し、元魏は復た郡と為す。隋の開皇二年に郡を罷め、幽州に属す。大業三年に幽州を以て涿郡と為し、唐の武徳元年に郡廃され、涿県と為り、七年に范陽県に改め、大暦四年に涿州を置く。石晋は以て太宗に帰す。大房山・六聘山・涿水・楼桑河・横溝河・礼遜河・祁溝河あり。統べる県四:

范陽県。本来は漢の涿県。唐の武徳年中、范陽県に改む。涿水・範水あり。戸一万。

固安県。本来は漢の方城県、先ず広陽国に属す。隋の開皇九年、易州淶水県より移置し、幽州に属し、漢の故安県の名を取る。唐の武徳四年に北義州に属し、治を章信堡に徙す。貞観二年に義州廃され、今の治に移し、復た幽州に属す。州の東南九十里にある。戸一万。

新城縣。本来は漢代の新昌縣である。唐代の大暦四年に固安縣を分割して設置し、後に廃止された。後唐の天成四年に再び范陽縣を分割して設置し、州の南六十里にある。戸数一万。

歸義縣。本来は漢代の易縣の地である。北斉の時に鄚縣に併合された。唐代の武德五年に北義州を設置し、州が廃止された後、再び縣を設置して所属した。民居は巨馬河の南にあり、新城に僑治する。戸数四千。

易州

易州、高陽軍、上、刺史。漢代は易・故安の二縣の地であった。隋が易州を設置し、隋末は上谷郡となった。唐代の武德四年に再び易州とした。天寶元年に上谷郡とし、乾元元年にまた易州に改めた。五代では定州節度使に隷属した。會同九年、孫方簡がその地を以て来附した。應歷九年、周の世宗に奪取され、後に宋に属した。統和七年、これを攻め落とし、高陽軍に昇格した。易水・淶水・狼山・太寧山・白馬山がある。統轄する縣は三つ。

易縣。本来は漢代の縣で、故城は現在の縣の東南六十里にある。北斉の天保七年に廃止された。隋の開皇十六年、故安城の西北隅に縣を設置し、これが現在の縣治である。戸数二万五千。

淶水縣。本来は漢代の道縣で、現在の縣の北一里にある故道城がこれである。元魏の時に故城の南に移し、即ち現在の縣を設置した。北周の大象二年に廃止された。隋の開皇十八年に淶水縣と改めた。州の東四十里にある。淶水がある。戸数二万七千。

容城縣。本来は漢代の縣で、先ず涿郡に属し、故城は雄州の西南にある。唐代の武德五年に北義州に属した。貞観元年に本来の所属に戻った。聖暦二年に全忠縣と改め、天寶元年に再び容城縣と名を改めた。州の東八十里にある。戸民は皆巨馬河の南に居住し、涿州新城縣に僑治する。戸数五千。

薊州

薊州、尚武軍、上、刺史。秦の漁陽・右北平の二郡の地である。隋の開皇年中に玄州総管府に治所を移し、煬帝が漁陽郡と改めた。唐代の武德元年に廃止されて幽州に編入され、開元十八年に分立して薊州とした。統轄する縣は三つ。

漁陽縣。本来は漢代の縣で、漁陽郡に属した。晉代に廃止され、再び設置された。元魏の時に廃止された。唐代は幽州に属し、開元十八年に薊州を設置した。鮑丘水がある。戸数四千。

三河縣。本来は漢代の臨朐縣の地で、唐代の開元四年に潞州を分割して設置した。戸数三千。

玉田縣。本来は春秋時代の無終子國である。漢が無終縣を設置し、右北平郡に属した。元魏の時は漁陽郡の治所となり、廃止された。唐代の武德二年に再び設置した。貞観初年に廃止され、乾封年中に再び設置した。萬歳通天元年に玉田と改名し、営州に属した。開元四年に幽州に属するよう戻り、八年に営州に属し、十一年にまた幽州に属し、十八年に当州に属するようになった。《搜神記》に「雍伯は洛陽らくようの人で、性質孝行、父母が没し、無終山に葬った。山は高さ八十里、上に水がなく、雍伯が飲料水を設置した。飲みに来る者がおり、石一斗を与えると、玉が生じた。因って玉田と名付けた」とある。戸数三千。

景州

景州、清安軍、下、刺史。本来は薊州遵化縣で、重熙年中に設置した。戸数三千。遵化縣、本来は唐代の平州買馬監で、縣として当州に所属するようになった。

平州

平州は、遼興軍、上、節度使を置く。商代は孤竹国であり、春秋時代は山戎国であった。秦代は遼西・右北平の二郡の地となり、漢代もこれを踏襲した。漢末、公孫度がこれを占拠し、子の康、孫の淵に伝わり、魏に帰属した。隋の開皇年間に平州と改め、大業初年に再び郡となった。唐の武徳初年に州と改め、天宝元年に北平郡となった。後唐で再び平州となった。太祖天賛二年にこれを奪取し、定州の捕虜民をその地に交錯して配置した。二州を統轄し、三県を管轄する。

盧龍県。本来は肥如国である。春秋時代、晋が肥を滅ぼし、肥の子が燕に奔り、ここに封を受けた。漢・晋代は遼西郡に属した。元魏では郡の治所とし、兼ねて平州を置いた。北斉では北平郡に属した。隋の開皇年間に肥如を廃し、新置の県に編入した。十八年、新昌を盧龍と改称した。唐代は平州とし、後代もこれに因った。戸数七千。

安喜県。本来は漢代の令支県の地であり、久しく廃されていた。太祖が定州安喜県の捕虜民を置いて設置した。州の東北六十里にある。戸数五千。

望都県。本来は漢代の海陽県であり、久しく廃されていた。太祖が定州望都県の捕虜民を置いて設置した。海陽山がある。県は州の南三十里にあり、戸数三千。

灤州

灤州は、永安軍、中、刺史を置く。本来は古の黄洛城である。灤河が周囲をめぐり、盧龍山の南にある。斉の桓公が山戎を討伐した時、山神の俞を見たのがここである。秦代は右北平郡であった。漢代は石城県となり、後に海陽県と名付けられた。漢末は公孫度の所有となった。晋以後は遼西郡に属した。石晋が地を割譲した時、平州の境内にあった。太祖が捕虜民を置いて設置した。灤州は山を背にし河を帯び、朔漢の形勝の地である。扶蘇泉があり、甚だ甘美で、秦の太子扶蘇が北の長城を築いた時、嘗てここに駐留した。臨榆山があり、峰巒が崛起し、高さ千余仞、下に渝河に臨む。三県を統轄する。義豊県。本来は黄洛の故城である。黄洛水は北の盧龍山より出て、南流して濡水に入る。漢代は遼西郡に属し、久しく廃されていた。唐末に契丹に入り、世宗が県を置いた。戸数四千。馬城県。本来は盧龍県の地である。唐の開元二十八年に分置して県とし、水運を通じさせた。東北に千金冶があり、東に茂郷鎮がある。遼が割いて灤州に隷属させた。州の西南四十里にある。戸数三千。石城県。漢代に設置され、右北平郡に属したが、久しく廃されていた。唐の貞観年間にここに臨渝県を置き、万歳通天元年に石城県と改めた。灤州の南三十里にあり、唐の儀鳳年間の石刻がここにある。現在の県はさらにその南五十里にあり、遼が塩官に就くために移転設置した。戸数三千。

営州

営州は、鄰海軍、下、刺史を置く。本来は商代の孤竹国である。秦代は遼西郡に属した。漢代は昌黎郡となった。前燕の慕容皝がここに都を移した。元魏が営州を立て、昌黎・建徳・遼東・楽浪・冀陽・営丘の六郡を管轄した。後周は高宝寧によって占拠された。隋の開皇年間に州を置き、大業年間に遼西郡と改めた。唐の武徳元年に営州と改め、万歳通天元年に初めて契丹に入った。聖暦二年に漁陽に仮の治所を置いた。開元五年に柳城に治所を戻した。天宝元年に柳城郡と改称した。後唐で再び営州となった。太祖が定州の捕虜民を居住させた。一県を統轄する。広寧県。漢代の柳城県であり、遼西郡に属した。東北は奚・契丹と境を接する。万歳通天元年、契丹の李万栄の支配下に入った。神龍元年に幽州界に移された。開元四年に旧地に復した。遼が現在の名に改めた。戸数三千。