◎地理志三
中京道
大定府
大定県。白霫の故地。諸国の俘虜戸をここに居住させた。
長興県。本来は漢の賓従県。諸部の人をここに居住させた。
帰化県。本来は漢の柳城県の地。
恩州
恩州は、懐徳軍、下州、刺史州である。本来は漢代の新安平県の地であった。太宗が州を建てた。開泰年間に、渤海戸を以てこれを実した。初めは永興宮に隷属し、後に中京に属した。統轄する県は一:
恩化県。開泰年間に渤海人戸を置いた。
惠州
惠州は、恵和軍、中州、刺史州である。本来は唐代の帰義州の地であった。太祖が漢民数百戸を俘虜とし、兎鹿山の下にて、城を創建してこれに居住させ、州を置いた。中京に属し、統轄する県は一:
恵和県。聖宗が上京の惠州の民を移し、諸宮院の落戸・帳戸を徴発して置いた。
高州
三韓県、辰韓は扶余となり、弁韓は新羅となり、馬韓は高麗となる。開泰年間に、聖宗が高麗を伐ち、三国の遺民を俘虜として県を置いた。戸五千。
武安州
武安州は、観察州である。唐代の沃州の地であった。太祖が民を俘虜とし、木葉山の下に居住させ、これに因り城を建てて移住させ、杏埚新城と号した。また遼西戸を以てこれを増やし、新州と改称した。統和八年に現在の名に改めた。初めは刺史州、後に昇格した。黄柏嶺、袅羅水、個没里水がある。中京に属する。統轄する県は一:
沃野県。
利州
阜俗県。唐末、契丹が次第に勢いを増し、奚人を役使し、琵琶川に移住させた。統和四年に県を置いた。初めは彰愍宮に隷属し、後に中京に改めて隷属した。後に州が置かれ、依然として中京に属した。
榆州
和衆県。本来は新黎県の地である。
沢州
沢州は広済軍、下州、刺史の州である。本来は漢の土垠県の地であった。太祖が蔚州の民を捕虜とし、寨を立てて居住させ、陷河の銀を採掘・精錬した。中京留守司に属した。開泰年間に沢州を設置した。松亭関、神山、九宮嶺、石子嶺、泺河、撒河がある。中京に属する。統轄する県は二つである。
神山県。神山は西南にある。
灤河県。本来は漢の徐無県の地である。永興宮に属する。
北安州
北安州は興化軍、上州、刺史の州である。本来は漢の女祁県の地で、上谷郡に属した。晋代には馮跋が占拠した。唐代は奚王府の西省の地であった。聖宗が漢戸を以て北安州を設置した。中京に属する。統轄する県は一つである。
興化県。本来は漢の且居県の地である。
潭州
潭州は広潤軍、下州、刺史の州である。本来は中京の龍山県であり、開泰年間に州を設置し、引き続き中京に属した。統轄する県は一つである。
松山州
松山州は、勝安の地にあり、下州、刺史の治所である。開泰年間に設置された。統和八年に廃止されたが、再び設置された。中京に属する。統轄する県は一つ。
宋の王曾の『上契丹事』に曰く、燕京の北門を出て、望京館に至る。五十里で順州に至る。七十里で檀州に至り、次第に山に入る。五十里で金溝館に至る。館に至る手前は、川原が平らで広く、これを金溝淀という。ここから山に入り、曲がりくねって登り、もはや里程標はなく、ただ馬の行程で日数を数え、おおよその里数を推し量る。九十里で古北口に至る。両側は険しい崖で、わずかに車の軌道を通すことができる。また徳勝嶺を越え、幾重もの盤道を登る。俗に思郷嶺といい、八十里で新館に至る。雕窠嶺、偏槍嶺を過ぎ、四十里で如来館に至る。烏濼河を渡る。東に滦州があり、また摸斗嶺(一名を渡雲嶺)、芹菜嶺を過ぎ、七十里で柳河館に至る。松亭嶺は非常に険峻で、七十里で打造部落館に至る。東南へ五十里行くと牛山館に至る。八十里で鹿児峡館に至る。蝦蟇嶺を過ぎ、九十里で鉄漿館に至る。石子嶺を過ぎ、ここから次第に山を出て、七十里で富谷館に至る。八十里で通天館に至り、二十里で中京大定府に至る。城壁は低く小さく、周囲わずか四里ほどである。門はただ重層の屋根があるだけで、築闍(城門上の楼閣)の構造はない。南門を朱夏門といい、門内には歩廊が通り、多くの坊門がある。また市楼が四つある。天方、大衢、通闤、望阙という。次に大同館に至る。その正北の門を陽徳門、閶闔門という。城内の西南の隅の岡上に寺がある。城南には園圃があり、宴射(宴会と弓射)を行う場所である。古北口を過ぎてからは、住民は草庵や板屋に住み、耕作するが、桑や柘はない。植えるものは皆、畝の上に植え、砂が吹き寄せられて埋まるのを防ぐ。山中には長松が鬱然と茂り、深い谷の中には時折、牛・馬・駱駝を放牧し、青羊や黄豕が多い。
成州
成州は、興府軍、節度使の治所である。晋国長公主が媵戸(陪嫁の戸)をもって設置し、軍を長慶軍と称し、上京に隷属させた。後に軍名を改めた。統轄する県は一つ。
同昌県。
興中府
興中府。本来は霸州彰武軍、節度使の治所である。古くは孤竹国の地。漢の柳城県の地である。慕容皝が柳城の北、竜山の南、福徳の地として、竜城を築き、宮廟を構え、柳城を竜城県と改め、遂に遷都し、和竜宮と号した。慕容垂もまたここに居住したが、後に北跋(北燕)に滅ぼされた。元魏(北魏)がこれを取って遼西郡とした。隋が高保寧を平定し、営州を置いた。煬帝が州を廃して柳城郡を置いた。唐の武徳初年に営州総管府と改め、まもなく都督府とした。万歳通天年間に、李万栄に陥落された。神龍初年に、府を幽州に移した。開元四年に、再び柳城に治所を置いた。八年に、西の漁陽に移した。十年に、柳城に戻した。後に奚に占拠された。太祖が奚を平定し、燕の民を俘虜にし、城を建てようとして、韓知方にその場所を選ばせた。そこで柳城を修復し、霸州彰武軍と号し、節度使を置いた。統和年間に、建・霸・宜・錦・白川等の五州を制置した。まもなく制置を廃し、積慶宮に隷属させた。後に興聖宮に属した。重熙十年に興中府に昇格した。大華山、小華山、香高山、麝香崖があり、天授皇帝の刻石がそこにある。駐龍峪、神射泉、小霊河がある。統轄する州は二つ、県は四つ。
興中県。本来は漢の柳城県の地である。太祖が漢人の民を掠めてここに住まわせ、霸城県を建てた。重熙年間に府を置き、名を改めた。
営丘県。霸城県を分離して設置した。
安德州
安德州は、化平軍、下州、刺史の治所である。霸州の安德県をもって設置し、来属させた。統轄する県は一つ。
安德県。統和八年に、霸城県の東南、竜山、徒河の境の戸を分離して設置した。初めは乾州に隷属し、後に霸州に改属し、州を設置して(安德州に)来属した。
黔州
黔州は、阜昌軍、下州、刺史の州である。本来は漢の遼西郡の地であった。太祖が渤海を平定した際、捕虜とした民戸をここに居住させ、黒水河提轄司に隷属させた。安帝が州を置き、宜州と霸州の二州から漢戸を分けて増やした。初めは永興宮に隷属し、後に中京に改めて隷属し、後に府を置き、ここに属した。統轄する県は一:
盛吉県。太祖が渤海を平定した際、興州盛吉県の民を捕虜として連れてきて居住させ、これにより県を置いた。
宜州
宜州は、崇義軍、上州、節度使の州である。本来は遼西累県の地であった。東丹王が毎秋ここで狩猟を行った。興宗が定州の捕虜民戸をもって州を建てた。墳山があり、松柏が百余里にわたって連なり、薪採りを禁じている。浚河があり、石を積んで堤としている。積慶宮に隷属する。統轄する県は二:
弘政県。世宗が定州の捕虜民戸をもって置いた。民は機織に巧みで、技巧が多い。
聞義県。世宗が置いた。初めは海北州に隷属し、後にここに属した。
錦州
錦州は、臨海軍、中州、節度使の州である。本来は漢の遼東無慮県であった。慕容皝が西楽県を置いた。太祖が漢人の捕虜をもって州を建てた。大胡僧山、小胡僧山、大査牙山、小査牙山、淘河島がある。弘義宮に隷属する。統轄する州は一、県は二:
永楽県。
安昌県。岩州は、保粛軍、下州、刺史の州である。本来は漢の海陽県の地であった。太祖が渤海を平定した際、漢戸を移して興州の境に雑居させ、聖宗がここに城を建てた。弘義宮に隷属し、ここに属した。統轄する県は一:興城県。
川州
弘理県。統和八年に諸宮提轄司の戸をもって置いた。
咸康県。
宜民県。統和年間に設置。
建州
永覇県。
永康県。本来は唐の昌黎県の地。
来州
来州、帰徳軍、下、節度使。聖宗が女直五部が飢饉のため毎年来帰するので、州を置いて居住させた。初めは刺史、後に昇格。永興宮に属す。三州山、六州山、五脂山がある。統轄する州は二つ、県は一つ。
来賓県。本来は唐の来遠県の地。
隰州
隰州、平海軍、下、刺史。慕容皝が集寧県を設置。聖宗が戸口を徴発して信州に移そうとしたが、大雪で進めず、ここに城を築き、設置した。興聖宮に属し、来属す。統轄する県は一つ。
海浜県。本来は漢の県。海に臨み、地は多く塩分を含み、ここに塩場を置く。
遷州
遷州、興善軍、下、刺史。本来は漢の陽楽県の地。聖宗が大延琳を平定し、帰州の民を移して設置し、来属す。箭笴山がある。統轄する県は一つ。
遷民県。
潤州
潤州は、海陽軍に属し、下州、刺史を置く。聖宗が大延琳を平定した際、寧州の民をここに移し、州を設置した。統轄する県は一つである。
海陽県。本来は漢の陽楽県の地であり、潤州に移された。もとは東京城内の渤海民戸であったが、反乱を起こしたため、ここに移された。