◎営衛志中
○行営
『周官』の土圭の法によれば、日が東にあれば影は夕方に長く風が多い。日が北にあれば影が長く寒さが多い。天地の間において、風土気候はそれぞれ異なり、人々はその間に生まれ、それぞれの便に適応する。王者は天地人三才に因ってこれを節制する。長城以南は、雨多く暑さ多く、その人々は耕作して食とし、桑麻を以て衣とし、宮室に住み、城郭を以て治める。大漠の間は、寒さ多く風多く、牧畜・狩猟・漁撈を以て食とし、皮毛を以て衣とし、時節に従って転徙し、車馬を家とする。これ天時地利の南北を限る所以である。遼国は大漠をことごとく有し、長城の境を漸く包み、宜しきに因って治めを為す。秋冬は寒さを避け、春夏は暑さを避け、水草に随って狩猟漁撈に就き、歳を以て常と為す。四時それぞれに行在所あり、これを「捺鉢」と謂う。
春捺鉢は、鴨子河濼と曰う。皇帝は正月上旬に牙帳を起こし、およそ六十日を経て至る。白鳥未だ至らず、帳を氷上に卓ち、氷を鑿ちて魚を取り、氷解け、乃ち鷹鶻を放って鵝雁を捕らしむ。晨に出で暮に帰り、弋猟に従事す。鴨子河濼は東西二十里、南北三十里、長春州の東北三十五里に在り、四面皆沙堝にして、多くは榆柳杏林なり。皇帝の至る毎に、侍御は皆墨緑色の衣を服し、各々連鎚一柄、鷹食一器、刺鵝錐一枚を備え、濼の周囲に相去ること各五七歩に排立す。皇帝は冠巾し、時服を衣し、玉束帯を系ぎ、上風に於いて之を望む。鵝の在る処に旗を挙げ、探騎馳せて報じ、遠泊は鼓を鳴らす。鵝驚き騰り起これば、左右の囲騎皆幟を挙げて之を麾す。五坊は海東青鶻を擎げ進め、拝して皇帝に授け之を放つ。鶻鵝を擒えて墜つ、勢力加わらず、排立する近き者は、錐を挙げて鵝を刺し、脳を取って以て鶻に飼う。鶻を救う人は例として銀絹を賞す。皇帝頭鵝を得れば、廟に薦め、群臣各々酒果を献じ、楽を挙ぐ。更に相酬酢し、賀語を致し、皆鵝毛を首に挿して以て楽と為す。従人に酒を賜い、其の毛を遍く散ず。弋猟網釣、春尽きて乃ち還る。
夏捺鉢は、常の所無く、多くは吐児山に在り。道宗は毎歳先ず黒山に幸し、聖宗・興宗の陵を拝し、金蓮を賞す。乃ち子河に幸して暑さを避く。吐児山は黒山の東北三百里に在り、饅頭山に近し。黒山は慶州の北十三里に在り、上に池有り、池中に金蓮有り。子河は吐児山の東北三百里に在り。懐州の西山に清涼殿有り、亦た行幸避暑の所と為す。四月中旬に牙帳を起こし、吉地を卜して納涼の所と為し、五月末旬・六月上旬に至る。五旬に居る。北・南の臣僚と国事を議し、暇日は遊猟す。七月中旬に乃ち去る。
秋捺鉢は、伏虎林と曰う。七月中旬、納涼の処より牙帳を起こし、山に入り鹿及び虎を射る。林は永州の西北五十里に在り。嘗て虎有りて林に拠り、居民の牧畜を傷害す。景宗数騎を領して猟す、虎草際に伏し、戦慄して敢えて仰ぎ視ず、上之を捨つ、因って伏虎林と号す。毎歳車駕至る。皇族以下、濼水の側に分布し、夜将に半ばならんとするを伺い、鹿塩水を飲むに、獵人をして角を吹かしめて鹿鳴を效わしめ、既に集まりて之を射る。之を「舐鹼鹿」と謂い、又「呼鹿」と名づく。
冬捺鉢は、広平澱と曰う。永州の東南三十里に在り、本名は白馬澱。東西二十余里、南北十余里。地は甚だ坦夷にして、四望皆沙磧、木多くは榆柳。其の地は沙に富み、冬月稍々暖かく、牙帳多くは此に於いて冬を坐し、北・南の大臣と国事を会議し、時に出でて校猟し武を講じ、兼ねて南宋及び諸国の礼貢を受く。皇帝の牙帳は槍を以て硬寨と為し、毛繩を以て連系す。毎槍の下に黒氈傘一、以て衛士の風雪を庇う。槍の外に小氈帳一層、毎帳五人、各々兵杖を執りて禁囲と為す。南に省方殿有り、殿の北およそ二里を寿寧殿と曰い、皆木柱竹榱、氈を以て蓋と為し、彩絵柱を韜め、錦を以て壁衣と為し、緋繡額を加う。又黄布に繡龍を以て地障と為し、窓・槅皆氈を以て之を為し、黄油絨を以て傅す。基は高さ尺余、両廂の廊廡も亦た氈を以て蓋い、門戸無し。省方殿の北に鹿皮帳有り、帳の次ぎ北に八方公用殿有り。寿寧殿の北に長春帳有り、硬寨を以て衛る。宮は契丹兵四千人を用い、毎日千人を輪番して祗直せしむ。禁囲の外に槍を卓てて寨と為し、夜は則ち槍を抜き移し卓てて御寢帳を禦ぐ。周囲に拒馬を設け、外に鋪を設け、鈴を伝えて宿衛す。
毎歳四時、周りて復た始まる。
皇帝四時に巡守し、契丹の大小内外の臣僚並びに応役次人、及び漢人の宣徽院所管の百司皆従う。漢人の枢密院・中書省は唯だ宰相一員、枢密院の都副承旨二員、令史十人、中書令史一人、御史臺・大理寺より選び一人を摘して扈従す。毎歳正月上旬、車駕行を啓く。宰相以下、還って中京に居守し、漢人の一切の公事を行遣す。官僚を除拜するは、止だ堂帖を行い権差し、会議を行在所に俟ち、旨を取り、誥勅を出給す。文官は県令・録事以下更に奏聞せず、中書の銓選を聴く。武官は須らく奏聞す。五月、納涼の行在所にて、南・北の臣僚会議す。十月、坐冬の行在所にて、亦た之の如し。
部族上
部落を部と曰い、氏族を族と曰う。契丹の故俗、地を分けて居り、族を合して処る。族有りて部と為る者は、五院六院の類是れなり。部有りて族と為る者は、奚王・室韋の類是れなり。部有りて族と為らざる者は、特裏特勉・稍瓦・曷術の類是れなり。族有りて部と為らざる者は、遙輦九帳・皇族三父房是れなり。
奇首八部は高麗・蠕蠕に侵され、僅かに万口を以て元魏に附す。生聚未だ幾ばくもせず、北齊に侵見せられ、男女十万余口を掠む。継いて突厥に逼せらる。高麗に寄処す、万戸を過ぎず。部落離散し、復た古の八部に非ず。別部に突厥に臣附する者有り、隋に内附する者有り、紇臣水に依りて居る。部落漸く衆く、十部に分かれ、地は遼西五百余里有り。唐の世、大賀氏仍って八部と為り、而して松漠・玄州別出し、亦た十部なり。遙輦氏は万栄・可突於の散敗の余を承け、更に八部と為る、然れども遙輦・叠刺別出し、又十部なり。阻午可汗析いて二十部と為り、契丹始めて大なり。遼太祖に至り、九帳・三房の族を析き、更に二十部を列す。聖宗の世、分ちて十有六を置き、増置すること十有八、旧と併せて五十四部と為す。内に抜裏・乙室已の国舅族有り、外に附庸十部有り、盛んなり。
其の氏族知るべき者は、略く『皇族』・『外戚』の二表に具わる。余の五院・六院・乙室部は止だ益古・撒裏本・涅剌を見、烏古部は止だ撒裏卜・涅勒を見、突呂不・突挙部は止だ塔古裏・航斡を見、皆兄弟なり。奚王府部の時瑟・哲裏は、則ち臣主なり。品部に拿女有り、楮特部に窪有り。其の余の世系名字は、皆漫として考うる所無し。
旧『志』に曰く、「契丹の初め、草に居り野に次ぎ、定まれる所無し。涅裏に至りて始めて部族を制し、各分地有り。太祖の興るや、叠剌部の強熾なるを以て、析けて五院・六院と為す。奚六部以下は、多く俘降に因りて置く。兵甲に勝る者は即ち軍籍に著し、諸路の詳穏・統軍・招討司に分隷す。内地に番居する者は、歳時田牧して平莽の間に在り。辺防の糺戸は、生生の資、仰ぎて畜牧に給し、毛を績ぎ湩を飲み、以て衣食と為す。各旧風に安んじ、労事に狃習し、紛華異物を見て遷らず。故に家給し人足り、戎備整完す。卒に四方を虎視し、強は朝し弱は附き、東は蟠木を踰え、西は流沙を越え、率服せざる莫し。部族実に其の爪牙と為すと云ふ。」
古八部:悉萬丹部。何大何部。伏弗郁部。羽陵部。日連部。匹絜部。黎部。吐六於部。
契丹の先、曰く奇首可汗、八子を生む。其の後族属漸く盛んとなり、分かれて八部と為り、松漠の間に居る。今永州木葉山に契丹始祖廟有り、奇首可汗・可敦並びに八子の像在り。潢河の西、土河の北は、奇首可汗の故壌なり。
隋の契丹十部:元魏の末、莫弗賀勿於、高麗・蠕蠕の侵逼を畏れ、車三千乗・衆万口を率いて内附し、乃ち奇首可汗の故壌を去り、白狼水の東に居る。北斉の文宣帝、平州より三道を以て来侵し、男女十余万口を虜へ、諸州に分置す。又突厥に逼せられ、万家居を以て高麗境内に寄処す。隋の開皇四年、諸莫弗賀悉く衆を率いて塞に款き、白狼の故地に居るを聴く。又別部高麗に寄処する者、出伏等と曰ひ、衆を率いて内附し、詔して独奚那頡の北に置く。又別部突厥に臣附する者四千余戸来降し、詔して糧を与へて遣還すも、固く辞して去らず、部落漸く衆く、水草を逐ひて徙り、紇臣水に依りて居る。遼西の正北二百里に在り、其の地東西五百里に亙り、南北三百里。分かれて十部と為るも、其の名を逸す。
唐の大賀氏八部:達稽部、峭落州。紇便部、弾汗州。独活部、無逢州。芬間部、羽陵州。突便部、日連州。芮奚部、徒河州。墜斤部、万丹州。伏部、州二:匹黎・赤山。
唐の太宗、玄州を置き、契丹の大帥據曲を以て刺史と為す。又松漠都督府を置き、窟哥を以て都督と為し、八部を分ち、玄州と並べて十州と為す。則ち十部は其の中に在り。
遙輦氏八部:旦利皆部。乙室活部。実活部。納尾部。頻没部。納会鶏部。集解部。奚嗢部。
唐の開元・天宝の間、大賀氏既に微なりし時、遼の始祖涅裏、迪輦祖裏を立てて阻午可汗と為す。時に契丹は万栄の敗に因り、部落凋散す。即ち故有の族衆を分かちて八部と為す。涅裏の統ぶる所の叠剌部は自ら別部と為り、其の列に与からず。遙輦・叠剌を併せて亦十部なり。
遙輦阻午可汗二十部:耶律七部。審密五部。八部。
涅裏、阻午可汗に相たり、三耶律を分かちて七と為し、二審密を分かちて五と為し、前の八部と併せて二十部と為す。三耶律:一は大賀、二は遙輦、三は世裏、即ち皇族なり。二審密:一は乙室已、二は抜裏、即ち国舅なり。其の分部は皆詳ならず。知るべき者は曰く叠剌、曰く乙室、曰く品、曰く楮特、曰く烏隗、曰く突呂不、曰く捏剌、曰く突挙、又右大部・左大部有り、凡そ十、其二を逸す。大賀・遙輦は析けて六と為り、而して世裏は合して一と為る。此れ叠剌部の終に遙輦の世に至るまで、強くして制す可からざる所以なりと云ふ。