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遼史
列傳第四十: 姦臣上
◎奸臣上
○耶律乙辛・張孝傑・耶律燕哥・蕭十三
『春秋』は褒貶を行い、善悪を併せて記し、勧懲を示す。故に司馬遷・班固は佞幸・酷吏の伝を立て、欧陽修は則ち奸臣を併せて録し、以て君たる者に鑑とすべきことを知らしめ、臣たる者に戒むべきことを知らしめんとした。これは天地聖賢の心、国家安危の機、治乱の原である。遼は耶律乙辛より以下、奸臣十人、その国を敗るや皆以て戒めとすべきに足る。故に『伝』に列す。
耶律乙辛、字は胡睹袞、五院部の人。父は叠剌、家貧しく、服用に給せず、部人は「窮叠剌」と号した。初め、乙辛の母が妊娠していた時、夜に手で羖羊と搏ち、その角と尾を抜く夢を見た。既に覚えて占うと、術者が言うには「これは吉兆である。羊から角と尾を去れば王の字となる。汝の後に子ありて王となるであろう」と。乙辛が生まれた時、丁度路におり、水がなくて浴せず、車を回して轍を破ると、忽ち湧泉を見た。叠剌は自ら子を得たことを以て、酒を以て慶ぼうとしたが、酒の香りを聞き、草棘の間に二つの榼を得た。因って東を祭った。乙辛は幼くして慧黠であった。嘗て羊を牧して日昃に至り、叠剌がこれを見ると、乙辛は熟睡していた。叠剌が触れて覚ますと、乙辛は怒って言うには「何ぞ急に我を驚かすか!先ほど夢に人手に日月を執らせて我に食わしめ、我は既に月を食い、日を啖うこと半ばにして覚めた。尽く食い尽くさなかったことを惜しむ」と。叠剌はこれより後、牧羊をさせなかった。
成長すると、風儀美しく、外は和やかで内は狡い。重熙年間、文班吏となり、太保の印を掌り、陪従して宮に入った。皇后は乙辛が詳雅で素宦の如きを見て、筆硯吏を補うことを命じた。帝もまたこれを愛し、累遷して護衛太保となった。道宗が即位すると、乙辛が先朝において任用されたことを以て、漢人戸四十を賜い、同知点検司事とし、常に召して疑議を決させ、北院同知に昇進し、枢密副使を歴任した。清寧五年、南院枢密使となり、北院を知ることを改め、趙王に封ぜられた。九年、耶律仁先が南院枢密使となった時、駙馬都尉蕭胡睹は重元の党とし、仁先が朝に在ることを憎み、奏して言うには「仁先は西北路招討使に任ずべし」と。帝はこれに従おうとした。乙辛が奏して言うには「臣新たに国政に参じ、治体を知らず。仁先は先帝の旧臣なり、急に朝廷を離るべからず」と。帝は然りとした。重元の乱が平定されると、北院枢密使に拝され、魏王に進み、匡時翊聖竭忠平乱功臣を賜った。咸雍五年、守太師を加えられた。詔して四方に軍旅ある時は、便宜に事を行うことを許し、勢は中外に震い、門下には饋賂絶えなかった。凡そ阿順する者は薦擢を蒙り、忠直なる者は斥竄せられた。
大康元年、皇太子が初めて朝政に預かり、法度は修明された。乙辛は思いを遂げられず、事を謀って皇后を誣いた。后が既に死ぬと、乙辛は自ら安からず、また太子を害そうとした。隙に乗じて入奏して言うには「帝と后は天地の如く並び位す、中宮豈に空くべけんや」と。その党の駙馬都尉蕭霞抹の妹が美しく賢であることを盛んに称えた。上はこれを信じ、宮に納め、尋いで皇后に冊立した。時に護衛蕭忽古は乙辛の奸状を知り、橋の下に伏して、これを殺そうとした。俄かに暴雨にて橋が壊れ、謀は遂げられず。林牙蕭巖壽が密かに奏して言うには「乙辛は皇太子が政に預かるより、内に疑懼を懐き、また宰相張孝傑と相附会す。異図あるを恐る、要地に居らしむべからず」と。中京留守に出された。乙辛は泣いて人に謂うには「乙辛に過ち無し、讒によりて出される」と。その党の蕭霞抹らはその言を上に聞かせた。上はこれを悔いた。間もなく、蕭巖壽を順義軍節度使に出し、近臣に詔して乙辛を召し戻す事を議させた。北面官属に敢えて言う者無く、耶律撒剌が言うには「初め蕭巖寿の奏によりて乙辛を出だす。若し言うところ当たらずば、宜しく罪に坐すべく、若し当たれば、則ち復召すべからず」と。累諫するも従わず。乃ち復た召して北院枢密使とした。
時に皇太子は母后の故を以て、憂い顔色に見えた。乙辛の党は欣躍して相慶し、讒謗沸騰し、忠良の士は斥逐殆ど尽きた。乙辛は蕭十三の言に因り、夜に蕭得裏特を召して太子を構えることを謀り、護衛太保耶律查剌に命じて耶律撒剌らが同謀して皇太子を立てたと誣告させた。詔して按ずるも跡無くして罷めた。また牌印郎君蕭訛都斡に命じて上に詣で誣首させた。「耶律查剌が先に告げた耶律撒剌等の事は皆実なり、臣も亦その謀に与る。本より乙辛等を殺して太子を立てんと欲す。臣等若し言わざれば、事白くして連坐するを恐る」と。詔して鞫劾させ、乙辛は迫って具伏させた。上は怒り、撒剌及び速撒等を誅することを命じた。乙辛は帝の疑うを恐れ、数人を引き出して庭で詰め、各々に重校を荷わせ、縄をその頸に繫ぎ、気を出すこと能わず、人々はその酷さに堪えず、唯速やかに死ぬことを求めた。反って奏して言うには「別に異辞無し」と。時は暑さ盛りで、屍は瘞むを得ず、以て地臭に至った。乃ち皇太子を上京に囚え、監衛する者は皆その党であった。尋いで蕭達魯古・撒把を遣わして太子を害した。乙辛の党は大喜び、数日間聚飲した。上京留守蕭撻得は卒の報を聞かせた。上は哀悼し、その妻を召そうとしたが、乙辛は陰に人を遣わしてこれを殺し、以てその口を滅ぼした。
五年正月、上は将に狩に出でんとしたが、乙辛は皇孫を留めるよう奏した。上はこれに従おうとした。同知点検蕭兀納が諫めて言うには「陛下若し乙辛に従い皇孫を留めんとせば、皇孫尚幼く、左右人無し。願わくは臣を留めて保護せしめ、不測を防がしめよ」と。遂に皇孫と俱に行った。これにより上は初めて乙辛を疑い、頗るその奸を知った。時に北幸し、将に黒山の平澱に次らんとした時、上は丁度扈従の官属が多く乙辛の後に随うを見て、これを悪み、乙辛を南院大王事を知るに出した。及び例に依り一字王爵を削ぎ、混同王に改めると、意稍々自ら安んじた。及んで闕に赴き入謝すると、帝は即日に遣り返し、興中府事を知るに改めた。七年冬、禁物を外国に鬻ぐに坐し、下して有司に議せしめると、法当に死すべし。乙辛の党耶律燕哥のみが奏して当に八議に入るべしとし、死を減じて論ずるを得、鉄骨朶を以て撃ち、来州に幽した。後に宋に奔らんと謀り及び私に兵甲を蔵する事覚え、縊殺した。乾統二年、冢を発き、その屍を戮した。
張孝傑、建州永霸県の人。家貧しく、学を好んだ。重熙二十四年、進士第一に擢でられた。清寧年間、累遷して枢密直学士となった。咸雍初め、誤って事を奏したことに坐し、惠州刺史に出された。俄かに召して旧職に復し、兼ねて戸部司事を知った。三年、参知政事、同知枢密院事となり、工部侍郎を加えられた。八年、陳国公に封ぜられた。上は孝傑が勤幹なるを以て、数々事を問い、北府宰相とした。漢人として貴幸比ぶるもの無し。大康元年、国姓を賜った。明年秋の狩りに、帝は一日に鹿三十を射り、従官を燕した。酒酣の時、『雲上於天詩』を賦することを命じ、孝傑に詔して御榻の傍に坐らせた。上は『黍離』の詩を誦して「我を知る者は我が心憂うるを謂い、我を知らざる者は我が何を求むるかを謂う」と。孝傑が奏して言うには「今天下太平、陛下何をか憂えん。四海に富み、陛下何をか求めん」と。帝は大いに悦んだ。三年、群臣侍燕の時、上は言うには「先帝は仁先・化葛を用い、以て賢智なり。朕に孝傑・乙辛あり、仁先・化葛に下らず、誠に人を得たり」と。歓飲して夜に至り、乃ち罷めた。
この年の夏、乙辛が皇太子を讒言すると、孝傑も力を合わせて助けた。乙辛が詔を受けて皇太子の党与を糾問した際、忠良を誣告して害したが、その謀略の多くは孝傑によるものであった。乙辛は孝傑が社稷に忠誠であると推薦し、帝は孝傑を狄仁傑に比すべきであるとして、名を仁傑と賜り、海東青鶻の放鷹を許した。六年、乙辛が失脚した後、上もまた孝傑の奸佞に気づき、まもなく武定軍節度使として出された。広済湖の塩を密売し、詔旨を擅に改めた罪により、爵位を削られ安粛州に貶謫され、数年後に帰還した。大安年間、郷里で死去した。乾統初年、棺を剖き屍を戮し、一族の財産を臣下に分け与えた。
孝傑は長く宰相の地位にあり、財貨を貪って飽くことを知らず、時に親戚と会飲して嘗て言うには、「百万両の黄金なくしては、宰相の家とは為し得ない」と。初め、孝傑が及第した時、仏寺に詣でると、忽ち疾風が孝傑の幞頭を吹き飛ばし、浮屠と並ぶ高さまで上がり、地に墜ちて砕けた。老僧が言うには、「この人は必ずや急に貴くなるが、然しながら亦た其の死を得ざるであろう」と。果たして其の言の如くになった。
耶律燕哥は、字を善寧と云い、季父房の後裔である。四世の祖は鐸穩、太祖の異母弟である。父は豁裏斯と云い、官は太師に至った。燕哥は狡猾で佞巧でありながら機敏であった。清寧年間、左護衛太保となった。大康初年、北面林牙に転じた。初め、耶律乙辛が中京留守から再び枢密使となると、燕哥を耳目とし、凡そ聞き見たことは必ず告げさせた。乙辛はこれを愛でて推薦し、帝も亦た賢しと為し、左夷離畢に拝した。皇太子が誣告された時、帝は燕哥を遣わしてこれを訊問させた。太子は燕哥に言うには、「帝には我ただ一人の子、今儲嗣と為り、復た何を求めよう、敢えて此の事を為さんや。公は我と昆弟の行、当に無辜を念い、意を帝に達すべし」と。甚だ懇ろに祈った。蕭十三がこれを聞き、燕哥に言うには、「宜しく太子の言を伏状に易うべし」と。燕哥は頷き、尽く教えられた通りに奏上した。太子が追放され、乙辛が忠良を殺害したことは、多く燕哥の謀略によるもので、契丹行宮都部署となった。五年の夏、南府宰相に拝し、惕隱に遷った。大安三年、西京留守となり、致仕した。寿隆初年、疾を以て卒した。
蕭十三は、蔑古乃部の人である。父は鐸魯幹、歴官して節度使となった。十三は弁舌鋭く狡猾で、人の意を揣摩するに長けていた。清寧年間、年功を以て護衛太保に遷った。大康初年、耶律乙辛が再び枢府に入ると、益々横暴に恣にした。時に十三は乙辛の家に出入りし、朝臣で附かない者を輒ち外任に出させ、十三は宿衛より殿前副点検に遷った。三年の夏、護衛の蕭忽古等が乙辛を謀殺しようとしたが、事が発覚して獄に下った。十三は乙辛に言うには、「今太子猶お在り、臣民心を属す。大王は素より根柢の助け無く、復た皇后を誣するの怨み有り。若し太子立てば、王身を置く所何ぞ。宜しく熟計すべし」と。乙辛は言うには、「吾れ此れを憂うること久し」と。この夜、蕭得裏特を召して太子を陥れる策を謀った。十三の計略が既に行われると、まもなく殿前都点検に遷り、兼ねて同知枢密院事となった。復た蕭訛都幹等に命じて、耶律査剌が前に耶律撒剌等の事を告げたことは皆実であると誣告させ、詔して其事を究めさせた。太子は服さず、別に夷離畢の耶律燕哥を遣わして太子を問わせた。太子は詳しく誣告された経緯を陳述した。十三がこれを聞き、燕哥に言うには、「此くの如く奏すれば、則ち大事去らん。当に其の辞を伏款に易うべし」と。燕哥が入り、十三の言う通りに奏上した。上は大いに怒り、太子を廃した。太子が出立せんとする時、言うには、「我何の罪か是に至る」と。十三は叱って車に登らせ、衛卒に命じて車門を閉めさせた。この年、北院枢密副使に遷り、復た太子を陰に害する計略を陳べ、乙辛はこれに従った。乙辛が南院大王事として出されると、十三も亦た保州統軍使として出され、卒した。乾統年間、棺を剖き屍を戮した。二子:的裏得、念經、皆誅殺に伏した。