孔子は「小道といえども必ず観るべきものあり」と称したが、医卜はこれである。医は夭折を救い、卜は躊躇を決断し、いずれも国に補益があり、民に恵みがある。前史はこれを記録して遺さず、ゆえに伝とする。
直魯古
直魯古は、吐谷渾の人である。初め、太祖が吐谷渾を破ったとき、一人の騎士が嚢を棄てて矢を射返したが、当たらずして去った。追兵が嚢を開いて見ると、中に一人の嬰児を得た。これが直魯古である。捕虜にした者によってその故を問うと、嚢を射た者が嬰児の父であることを知った。代々医術に優れ、馬上で病を見ても、標本を知ることができた。子が人に得られることを欲せず、殺そうとしたのである。これによって太祖に進められ、淳欽皇后がこれを養育した。成長しても医術ができ、専ら鍼灸を事とした。太宗の時、太医として給侍した。かつて『脈訣』『鍼灸書』を撰し、世に行われた。九十歳で卒した。
王白
王白は、冀州の人で、天文に明るく、卜筮を善くし、晋の司天少監であったが、太宗が汴に入ってこれを得た。応暦十九年、王子の只沒が事によって獄に下されたとき、その母が卜を求めた。王白は言った、「この人は王となるべき者で、殺されることはない。過度に憂えるな」と。景宗が即位し、その罪を釈き、寧王に封じた。果たしてその言の如くであった。凡そ禍福を決する多くはこの類である。保寧年間、彰武・興国の二軍節度使を歴任した。『百中歌』を撰し、世に行われた。
魏璘
耶律敵魯
耶律敵魯は、字を撒不碗という。その先祖はもと五院の族で、始めて宮分が置かれたとき、これに隷属した。敵魯は医術に精しく、形色を観察すれば即ち病の原因を知った。診候しなくても、十全の功があった。統和初年、大丞相の韓徳譲に推薦され、官は節度使に至った。初め、枢密使の耶律斜軫の妻に沈痾があった。数人の医者を替えても治せなかった。敵魯がこれを見て言った、「心に蓄熱がある。薬石の及ぶところではない。意をもって療すべきである。その聾であることを利用し、騒がせて狂わせ、毒を泄らせばよい」と。そこで大いに鉦鼓を前に打ち鳴らさせた。翌日果たして狂い、叫び呼び怒り罵り、力尽きて止み、遂に癒えた。治法多くこの類で、人は測り知ることができなかった。八十歳で卒した。
耶律乙不哥
耶律乙不哥は、字を習撚といい、六院郎君の古直の後裔である。幼くして学を好み、特に卜筮に長じ、仕進を楽しまなかった。かつて人のために葬地を選んで言った、「後三日、牛が人に乗り、牛を逐う者が過ぎるならば、即ち土を啓け」と。期日に至り、果たして一人が乳犢を負い、牸牛を引いて過ぎた。その人は言った、「いわゆる『牛が人に乗る』とはこれである」と。遂に土を啓いた。葬って後、吉凶ことごとくその言の如くであった。また鷹を失った者のために占って言った、「鷹は汝が家の東北三十里の濼の西の榆の上にある」と。往ってこれを求めると、果たして得た。当時、占候して験のないことはなかった。
論して曰く、方技は術者である。もしその業を精しくして道に背かなければ、君子は必ずこれを取る。直魯古・王白・耶律敵魯には大なる得失なく、これを録するは宜しい。魏璘は察割のために謀逆を卜い、罨撒葛のために僭立を卜った。罪は赦すべからざるにあり、一寸の長があっても、どうして取るに足りようか。存して削らず、来る者への戒めとする。