遼史

列傳第三十六: 卓行

遼朝において国事を共に担うのは、耶律氏と蕭氏の二族のみである。二族の中に、退いて自ら足るを知り、富貴に溺れず、名声や利益に屈せず、頽れた風俗を振るい起こし、薄っぺらな習俗を激しく戒め、嘉尚するに足る者が三人いる。ここに『卓行傳』を作る。

蕭劄剌

蕭劄剌は、字を虚輦といい、北府宰相排押の弟である。性質は孤高で、生業に従わなかった。保寧年間、戚属として推挙され、累進して寧遠軍節度使となった。任期が満ちて郷里に居を構え、淡泊として自ら楽しんだ。統和末年、召されて南京馬歩軍都指揮使となった。病気を理由に退任を求めたが、聞き入れられず、夷離畢に転じた。再び病気を理由に辞任を願い出て、許された。そこで頡山に入り、門を閉ざして出なかった。皇帝はその志を嘉し、再び召さず、劄剌はこれより頡山に家を定めた。親友が訪れることがあっても、終日世務に及ぶ話はしなかった。宴遊に誘われても、拒むことはなかった。一年のうち山に居る日が過半を占め、世俗とは調和しなかった。耶律資忠は彼を重んじ、頡山老人と呼んだ。没した。

耶律官奴

耶律官奴は、字を奚隠といい、林牙斡魯の孫である。沈着で篤実、学識が豊かであり、本朝の世系に詳しかった。酒を好み、安逸を楽しんだ。初め、召されて宿直将軍となった。重熙九年、病気のため官を去った。皇帝は官奴が家柄が尊いことを考慮し、その志を成し遂げさせようと、自ら一路の節度使を選ばせることを許した。官奴は辞して言うには、「臣は愚鈍であり、官使を務めるに堪えません」と。帰義軍節度使を加えられたが、すぐに致仕を請うた。官奴は欧裏部の者蕭哇と親しく、哇が官奴に言うには、「仕えて主君の恩沢を民に及ぼし、大いなる功業を成し遂げることができないなら、どうしてそんなにこせこせとやる必要があろうか。我と汝は林下に居を構え、枕と簟を携え、酒を飲み詩を詠んで自ら楽しもう。官に就かなくとも、何の不足があろうか」と。官奴はこれをよしとした。当時、二人を「二逸」と称した。乾統年間、官奴は没した。

蕭蒲離不

蕭蒲離不は、字を桵懶といい、魏国王蕭恵の四世孫である。父母は早くに亡くなり、祖父兀古匿に養育された。性質は孝悌に厚かった。十三歳の時、兀古匿が没し、自ら早くに父母を失い、さらに祖父の喪に遭ったことを思い、礼を超えて哀しみ衰えたので、一族や郷里の人々は賞賛した。かつて人に言うには、「私は親に終生孝養を尽くすことができなかった。今、誰が私を教え導くというのか。もし自ら努め励まなければ、どうして養育の恩に報いることができようか」と。これより学問に力を入れ、文芸に精通しないものはなかった。乾統年間、兀古匿の縁故により召されたが、応じなかった。常に親しい知人と山水に遊び狩猟し、長物や僕隷を奉養することなく、欣々としていた。ある人が言うには、「貴殿はどうして先代の功名を継ぐことを考えないのか」と。答えて言うには、「自ら量るに先人の業を継ぐには足らず、強仕の年を過ぎて、どうして主君を益し民を庇うことができようか」と。累次にわたり召されたが、皆病気を理由に辞退した。晚年、人事を謝絶し、抹古山に居を占い定め、葷茹を遠ざけ、仏書に心を潜め、有道の者を招いて終日談論した。人が何を得たかと尋ねると、ただ言うには、「深い楽しみがある。ただ六鑿が互いに侵さないのを覚えるのみで、他に知ることはない」と。ある日、衣服を改め、病気もなく逝去した。

論して曰く、隠遁することは固より容易なことではないが、また軽々しく人に与えるべきものでもない。劄剌が職を謝して時務を語らず、官奴が二度にわたり節度使の任を辞し、蒲離不が召されても赴かなかったことは、未だ隠遁者と謂うには足りないが、然しながら当時にあって内外の分を知り、肥遁を甘んじたことは、富貴利達を求めて妻妾に恥じる者よりも、なお優れていると言えようか。故に卓行と称するのは妥当である。