◎能吏
大公鼎、蕭文、馬人望、耶律鐸魯斡、楊遵勖、王棠
漢は璽書をもって二千石に賜い、唐は刺史・県令を屏風に記して、奨励の手本と示した。故に二史には『循吏』『良吏』の伝がある。遼は太祖の創業より、太宗が燕・薊を撫有し、賢を任じ能を使う道も、ほぼ備わった。しかし朝廷が国官を参置するのみで、州県の吏は多く唐制に従った。歴世既に久しく、選挙は益々厳格となった。時にまた重臣を分遣して境内を巡行させ、賢否を察して進退させた。これにより治民・理財・決獄・弭盗、それぞれに其人あり。その徳政を考うるに、諸の循吏・良吏の列に与するには未だ足らずと雖も、抑また能吏と謂うべきであろう。『能吏伝』を作る。
子の昌齡は左承制。昌嗣は洺州刺史。昌朝は鎮寧軍節度使。
蕭文は字を国華といい、外戚の賢者である。父の直善は安州防禦使。文は志篤く学に力を入れ、喜怒を形にせず。大康初年、秦越国王中丞司事を掌り、才幹を称された。間もなく北面貼黄を知る。王邦彥の子が蔭位を争い、数年決せず、役所が上聞した。上は文に詰問を命じると、直ちに決断した。車駕が宮に還らんとする時、詔を承って儀衛の習練を閲し、執事林林たるも、指顧一の如し。同知奉国軍節度使に遷り、国舅都監を歴任した。寿隆末、易州を知り、兼ねて西南面安撫使となった。高陽は土沃かに民富み、其の邑に吏となる者は、毎度貨に黷り、民甚だ之を苦しんだ。文の至る初め、悉く旧弊を去り、農桑に務め、礼教を崇め、民皆之に化した。時に大旱あり、百姓甚だ憂えたが、文が祈ると即ち雨が降った。属県にまた蝗害があり、捕除を議したが、文は言う、「蝗は天災なり、捕うる何の益かあらん」と。ただ躬を反して自ら責めると、蝗は尽く飛び去り、遺る者も苗を食わず、草莽に散じて烏鵲に食われた。時に長雨止まず、文また祈るに随って晴れた。是の歳、大いに豊作となった。朝廷は文を大用に可しとし、唐古部節度使に遷した。高陽は石に刻んで之を頌した。後に其の終わりを知らず。
馬人望は字を儼叔といい、高祖の胤卿は石晋の青州刺史となり、太宗の兵至るも、堅守して降らなかった。城破れて捕らえられたが、太宗は其の義を以て釈放し、其の族を医巫閭山に移し、因って家を定めた。曾祖父の廷煦は南京留守。祖父の淵は中京副留守。父の詮は中京文思使。人望は穎悟であった。幼くして孤となり、成長して才学を以て称された。咸雍年間、進士に及第し、松山県令となった。歳毎に沢州の官炭を運搬する役が、松山のみに課せられた。人望は中京留守の蕭吐渾に請い、他邑に均しく役せしめた。吐渾は怒り、吏に下し、百日近く拘束した。また引いて詰問すると、人望は屈せず、蕭は喜んで言う、「君民の為に此の如くす、後必ず大用せられん」と。事を以て朝廷に聞こえさせ、悉く其の請いに従った。涿州新城県知事に転じた。県は宋と境を接し、駅道の出づる所である。人望の治め方は擾さず、吏民は畏れ愛した。近臣に宋に聘して還る者あり、帝が外事を問うと、多く之を推薦し、中京度支司塩鉄判官に抜擢された。転じて南京三司度支判官となり、公私共に裕かであった。警巡使に遷る。京城の獄訟は山積したが、人望の処決に一つの冤れる者もなかった。時に戸口を検括することとなり、二十日を待たずして完了した。同知留守の蕭保先は怪しんで之を問うと、人望は言う、「民産を若し括して遺れざれば、他日必ず厚斂の弊を長ずる。大率十に六七を得るは足れり」と。保先は謝して言う、「公の慮り遠し、吾及ばず」と。
先に、枢密使の乙辛が威柄を窃弄し、遂に太子を害した。天祚帝が嗣位するに及び、父の仇を報ぜんとし、人望と蕭報恩を選んで其の事を究めさせた。人望は平心を以て処し、多くを生かした。上京副留守に改められた。時に劇賊の趙鐘哥が宮闕を犯し、宮女・御物を劫掠した。人望は衆を率いて之を捕らえようとし、右臂に矢を受け、艾で灸し、病を押して馳逐した。賊は掠めた物を棄てて遁走した。人望は関津に命じて行旅を譏察させ、其の盗賊を悉く捕獲した。間もなく枢密都承旨に抜擢された。
宰相耶律儼は人望が己と異なることを憎み、南京諸宮提轄制置に遷した。その年のうちに、保靜軍節度使となった。二人の吏が凶暴で、民は虎のように畏れた。人望は彼らに穏やかな顔色を見せ、密かにその事を発覚させ、黥面の上配流した。この年諸処は飢饉に乏しかったが、人望の治める所のみは食糧が欠けず、路上で桴を鳴らす声もなかった。遙かに彰義軍節度使を授けられた。中京度支使に遷り、着任した時は、府の倉庫は皆空であったが、職務について半年で、粟十五万斛、銭二十万繦を蓄積した。左散騎常侍に転じ、累進して樞密直學士となった。間もなく、參知政事に拝され、南京三司使事を判じた。当時銭穀の出納の弊は、燕が最も甚しかった。人望は縑帛を通歴とし、凡そ庫物の出入りは、皆別に帳簿を作らせ、「臨庫」と名付けた。奸人や狡猾な吏は手出しができず、そこで年老いたことを理由に道路で言い触らした。朝廷の議論は察せず、南院宣徽使に改め、老臣を優遇することを示した。一年余りして、天祚帝は手ずから「宣馬宣徽」の四字を書き、詔して召した。到着すると、諭して言った、「卿を老いているとしたのは、誤って聞いたのである。」そこで南院樞密使に拝した。人々は私事で干渉できず、人を用いるには必ず公議で与えるべき者を選んだ。曹勇義、虞仲文の如きはかつて奸人に排斥されたが、人望が推薦し、皆名臣となった。当時民が最も患えたのは、驛遞、馬牛、旗鼓、郷正、廳隸、倉司の役で、破産しても供給できないほどであった。人望は民に出銭させ、官が自ら役を募り、当時便利とされた。久しくして老齢を請い、守司徒、兼侍中をもって致仕した。卒し、諡して文獻といった。
人望は操守があり、喜怒を顔に出さず、未だに付き従って進用を求めたことはなかった。初めて執政に任じられた時、家人がこれを祝った。人望は憂い顔で言った、「得ても喜ばず、失っても憂えぬ。抗うこと甚だ高ければ、排斥されることも必ず酷い。」その畏れ慎む様はこのようであった。
耶律鐸魯斡は、字を乙辛隱といい、季父房の後裔である。廉潔で約を重んじ、義を重んじた。重熙の末、誥院に給事した。咸雍の中、累進して同知南京留守事となった。召された時、部民が懇ろに留めたので、詔を賜って褒賞した。大康の初め、西南面招討使に改め、北面林牙となり、左夷離畢に遷った。大安五年、南府宰相に拝された。壽隆の初め、致仕し、卒した。
鐸魯斡の至る所には名声があり、吏民は畏れ愛した。郷里に退居した時、子の普古が烏古部節度使となり、人を遣わして迎えに来た。到着すると、積み上げられた物が甚だ豊富なのを見た。普古に言った、「親を辞して仕官に入るには、国を豊かにし民を安んずることを事とすべきである。道を枉げて君を欺き、苟もにも貨利を貪るは、我が志ではない。」車を命じて帰った。普古は後に盗賊に殺された。
棠は朝政に練達し、事に臨んで怠らず、政府にあって法度を修明し、名声があった。
論じて曰く、孟子は「民を貴しとし、社稷これに次ぐ」といい、司牧たる者は如何にして心を尽くすべきか。公鼎は堤防修築の役を奏上して罷め民を休ませ、公主の借財を拒んで法を守り、単騎で郡を行き、盗賊を化して良民とし、ほとんど召信臣、杜詩の美に近い。文は易州を知り、雨や日照りに応じて祈り、蝗害も災いとならなかった。人望は民のために囚われることを避けず、度支を判じ、公私ともに豊かにし、また卓然として容易に及ぶべからざるものであった。鐸魯斡は吏に畏れられ民に愛され、楊遵勖は事を決するに流れる如く、真に能吏であった。