漢書
外戚伝 第六十七下
孝元王皇后
孝元王皇后は、成帝の母である。家には合わせて十人の侯、五人の大司馬が出て、外戚の中でこれほど盛んな者はなかった。別に伝がある。
孝成許皇后
孝成許皇后は、大司馬車騎将軍平恩侯許嘉の娘である。元帝は、母の恭哀后が在位期間が短く、霍氏の罪に連座して亡くなったことを悼み悲しんだため、許嘉の娘を選んで皇太子の妃とした。初めて太子の家に入るとき、皇帝は中常侍や黄門など親しい者に付き添わせて送らせ、帰ってきて太子が喜んでいる様子を報告させた。元帝は喜んで側近に言った。「酒を酌んで私を祝え!」側近たちは皆万歳を唱えた。しばらくして男児を一人産んだが、失った。成帝が即位すると、許妃を皇后に立て、また女児を一人産んだが、失った。
初め、皇后の父の許嘉は元帝の時から大司馬車騎将軍として政務を補佐し、すでに八、九年になっていた。成帝が即位すると、また元舅(母方の伯父)の陽平侯王鳳を大司馬大将軍とし、許嘉と並ばせた。杜欽は、先例では皇后の父は皇帝の舅よりも重んじられていたと考え、そこで王鳳を説得して言った。「車騎将軍は非常に貴い方です。将軍は彼を尊重し敬い、その意に背かないようにすべきです。些細なことの積み重ねが、必ず不和の禍いを生じます。慎重でなければなりません。衛将軍(衛青)が蓋侯(王信)よりも盛んになったことは、近世の出来事で、その話はまだ長老の耳に残っています。将軍、どうかお察しください。」しばらくして、皇帝は王鳳に専任で委ねようと考え、ついに許嘉に策書を下して言った。「将軍は家柄も重く身分も尊い。役職の務めによって自ら煩わされるべきではない。黄金二百斤を賜い、特進侯として朝位に就くように。」その後一年余りで許嘉は亡くなり、諡を恭侯といった。
皇后は聡明で、史書(隷書)をよくし、妃となってから即位するまで、常に皇帝の寵愛を受け、後宮の他の者はめったに謁見できなかった。皇太后や皇帝の舅たちは、皇帝に後継ぎがいないことを憂い、当時またしばしば災異の事象があったため、劉向や谷永らは皆、その咎めは後宮にあると述べた。皇帝は彼らの言葉を認めた。そこで椒房や掖廷の費用を削減した。皇后は上疏して言った。
私は粗末な布の衣服と粗末な食事で暮らし、それに幼く愚かで、義理をわきまえず、幸いにも茅葺き屋根の下を離れ、後宮の掃除役を務めることができました。過分な寵愛を蒙り、自分の運命にふさわしくない地位に居り、汚れを修めず、職務を怠り官職を空しくし、幾度も法に背き、制度を越え、流刑に処せられるべき罪に当たり、責任を果たすには及びません。ところが壬寅の日、大長秋が 詔 を受け、「椒房の儀法、御服や輿駕、各官署から調達するもの、および製作するもの、外戚や群臣妾に下賜するものは、すべて竟寧以前の先例の通りとする」と伝えました。私はひそかに考えますに、椒房に入って以来、外戚に下賜したものは一度も先例を越えたことはなく、毎回必ず上奏して決裁を得ており、お調べいただけます。今は確かに時代が異なり制度も違い、長短を補い合って、漢の制度から出ないだけで、細かい点では必ずしも同じにはできないでしょう。竟寧以前と黄龍以前とが、果たして同じだったでしょうか?家吏(皇后付属の役人)が理解せず、今このように一度 詔 を受ければ、私が手も動かせなくなります。今、諸官から調達してはならないと言うのは、おそらく未央宮は私に属さないので、独りで取るべきではないという意味なのでしょう。私の家の府庫も当然得るべきではないと言うのは、私はひそかに疑問に思います。幸いにも湯沐邑を賜って自ら養っており、その中から少し調達するくらい、義理に何の害があってできないのでしょうか?また 詔 書には、服御の製作はすべて竟寧以前の通りとありますが、役人がその意を本当に推し量れず、すぐに私の被服や所作を以前と同様にせざるを得なくさせます。仮に私がある屏風を作ってある所に張りたいと言っても、先例にないと言われ、あるいはできず、必ず 詔 書によって私を責めるでしょう。この二つの事は確かに実行できません。どうか陛下ご覧ください。
役人たちは嫉妬深く頑固で、必ず自分が勝とうとします。幸い私がまだ貴い時でさえ、不急の用事で人を操っていました。まして今日ますます権勢が侵され、またこの 詔 を得て、彼らが人を制約するのに、どうして訴えることができましょうか?陛下は私が椒房にいるのをご覧になりながら、ついに私にわずかな内用さえお与えにならないのでしょうか?もし私的な府庫から少し取らなければ、何を頼りにすればよいのでしょうか?以前の慣例では、中宮(皇后)は左右の者から安い絹織物を私的に奪い、また乗輿の服の絹織物を出させ、 詔 を待って補うと言いながら、後でその中身をごまかしていました。左右の者は多くひそかに怨んでおり、非常に恥ずかしく思っていました。また先例では特牛(雄牛一頭)で祖父母を祀っていましたが、戴侯(許皇后の祖父)と敬侯(許皇后の父)は皆、恩恵を蒙って太牢(牛・羊・豚)で祀ることができました。今は先例に従うべきですが、どうか陛下お哀れみください。
今、官吏が 詔 を受けて記録を読み上げ、ただちに予め言上して皇后に知らせようとするのは、もはや以前のように私的な府庫から何かを取るようなことはできないからである。その萌芽として妾を制約する理由は、人倫の道理を失うことを恐れるからである。今はただ車駕を減らし、また未央宮のように何かを発したり、衣服を賜うことを故事の通りにするだけでよい。その他は確かにあまりに逼迫し急ぎすぎている。どうしたらよいのか。妾は薄命で、端から竟寧(元帝の年号)以前のことに遭遇した。竟寧以前を今の世と比べることは、どうしてできるだろうか。だから、かつては酒肉を外戚に賜うときには、必ず上表してから決裁した。また、かつて杜陵の梁美人には年に一度、酒一石、肉百斤を賜っただけである。妾はそれを非常に少ないと思ったが、田八子に賜うことは確かにこのようであってはならない。事柄は多く、文章で全てを陳べることはできない。自らお目にかかるのを待ち、詳しく申し上げたい。どうか陛下には深くお察しください。
上(成帝)はそこで劉向と谷永の言葉を採用して返答した。
皇帝が皇后に問う。言上された事柄は聞いた。そもそも太陽は多くの陽気の根本であり、天の光の尊いものであり、王者の象徴であり、人君の位である。陰が陽を侵し、その正しい本体を損なうことは、これこそ下が上を陵駕し、妻が夫を乗り越え、賤しい者が貴い者を越える変事ではないか。春秋二百四十二年の間に、変異は数多くあったが、日蝕ほど大きなものはない。漢が興って以来、日蝕もまた 呂后 や霍氏の類いが現れた時に見られた。今の状況から推し量れば、どうしてこのような効験があるだろうか。諸侯は漢の制度に拘束され、牧相(州牧や国相)がこれを執り持っている。どうしてまた 斉 や 趙 の七国の乱のような難が起こり得ようか。将相大臣は誠を抱き忠を秉り、ただ義に従っている。どうしてまた上官桀や博陸侯 霍光 、宣成侯霍氏のような陰謀があろうか。ましてや徒歩の豪傑といえども、 陳勝 や 項梁 の群れのようなものはない。 匈奴 や夷狄といえども、 冒頓 や郅支の類いのようなものはない。方外は内に向かい、百蛮は賓服し、異なる風俗は義を慕い、八州は徳を懐いている。たとえ彼らが邪な意図を抱いていたとしても、まだ憂うるに足らず、ましてやそれが無いのであればなおさらである。夷狄に求めても無く、臣下に求めても無い。微や後宮に当たるのではないか。どうしてこれを塞ごうか。
かつて、建始元年正月に、白気が営室から出た。営室とは、天子の後宮である。正月は尚書において皇極にあたる。皇極とは、王気の極みである。白は西方の気であり、それは春には廃されるべきものである。今、王気の極みの月に、廃されるべき気が後宮から興ったのは、后や妾に懐妊を保ち全うする能力のない者を見て、継嗣の微細を著わし、賤しい者が起こらんとしているからである。その年の九月には、流星が瓜のようで、文昌から出て、紫宮を貫き、尾が委曲して龍のようで、鉤陳に臨んだ。これもまた前の過ちを顕著にし、内にあることを著わしている。その後には、北宮の井戸が溢れ、南へ流れて道理に逆らい、数郡で水が出て、人民を流し殺した。その後には、デマが伝わり互いに驚き震え、女童が宮殿に入ったが、皆誰も気づかなかった。そもそも河は水陰であり、四瀆の長である。今、大いに決壊し、陵邑を没し漂わせたのは、陰気が盛んで盈ち溢れ、経緯を違え紀を絶つ応報が明らかになったのである。また先月には、鼠が木に巣を作り、野鵲が色を変えた。五月庚子の日には、鳥がその巣を泰山の地域で焼いた。『易』に言う、「鳥がその巣を焼くのは、旅人が先に笑い後に号咷する。牛を易(場)で喪うのは凶である」と。これは、王者が民の上に処することは、鳥が巣に処するようなもので、百姓を顧みず憐れまなければ、百姓は背き去ってしまう。それは鳥が自ら巣を焼くようなもので、先には快意で笑い楽しんでも、その後には必ず号泣しても及ばない。百姓がその君を喪うことは、牛がその毛を亡くすようなものである。故に凶と称するのである。泰山は、王者が易姓し代わることを告げる場所である。今、まさに岱宗の山でこのことが起こったのは、甚だ懼るべきことである。三月癸未の日には、大風が西から祖廟を揺さぶり、帷や席を揚げ裂き、樹木を折り抜き、車輦を倒れさせ、檻や屋を毀壊し、災いは宗廟に及んだ。まさに寒心に足る!四月己亥の日には、日蝕が東井で起こり、転旋してなお索(尽き)き、既(すでに蝕み尽くされた状態)と異ならない。己は戊であり、亥はまた水である。陰気の盛んなことを明らかにし、咎は内にある。戊己においては、君体を損ない、皇極において絶世を著わし、禍敗が京都に及ぶことを顕わす。東井においては、変怪が多く備わり、末重(末梢が重い)で益々大きく、来る数が益々甚だしい。形を成した禍いは月ごとに切迫し、救い難い患いは日ごとに次第に深くなる。咎敗がこのように灼然としているのに、どうして軽視できようか。
『書経』に云う、「高宗の肜日に、雊雉(雉が鳴く)有り。祖己曰く、『惟れ先ず王に仮りて其の事を正す』」と。また云う、「休むと雖も休むこと勿れ、惟れ五刑を敬い以て三徳を成す」と。これは即ち椒房や掖庭を戒めよということである。今、皇后に疑わしいこと、不便なことがあれば、その条項を刺し出し、大長秋を使わして来て言上させよ。官吏が法に拘られるのも、どうして過ちと言えようか。そもそも矯枉(曲がりを直す)者は過ぎるのが宜しく、古今同じである。かつ財帛を省き、特牛の祠りは、皇后にとって、徳美を扶助し、華やかな寵愛となるものである。咎の根を除かなければ、災変は相襲い、祖宗さえも血食(祭祀)を受けられなくなる。どうして戴侯(許氏の先祖)を祭ることができようか。伝に云わないか、「約をもってして失う者は鮮ない」と。詳らかにせよ、皇后はその奢りに従おうとするのか。朕もまた孝武皇帝に倣うべきである。そうすれば甘泉宮や建章宮もまた興すことができる。世俗は年ごとに異なり、時勢の変化は日々に移り変わる。事に遭って制を宜しくし、時に因って移るのである。旧きもので非なるものは、どうして放縦に任せられようか。君子の道は、因循を楽み、改作を重んじる。昔、魯人が長府(倉庫)を作ろうとした時、閔子騫が言った、「旧き貫(やり方)のままではどうか。何ぞ必ずしも改作せん」と。これはそれを悪んだのである。『詩経』に云う、「老成人無くとも、尚お典刑有り。曾て是を聴かず、大命以て傾く」と。孝文皇帝は朕の師である。皇太后は皇后の成法である。仮に太后が当時その職にふさわしくなかったとしても、今親しく厚く遇されているのに、どうしてまたそれを越えることができようか。皇后は心を刻み徳を秉り、先后(先帝の后)の制度に違わず、力を誼に勉め行い、婦道に順い称えられ、群事を減省し、謙約を以て右(上位)とせよ。東宮(皇太后)に孝行し、朔望(毎月一日と十五日)の礼を欠かさず、誠を推し永く究め、どうして善くないことがあろうか。名を養い行いを顕わし、以て衆の讙(喧噪)を息め、則を妾たちに垂れ、法有らしめよ。皇后は深く思い、軽んじることなかれ。
この時、大將軍の王鳳が権力を用い、威権は特に盛んであった。その後、三年連続で日蝕があり、事を言上する者はかなり王鳳に帰咎した。そして谷永らは遂にこれを許氏に著わし、許氏は自ら王鳳に庇護されていないことを知った。久しくして、皇后の寵愛もまた益々衰え、後宮には新しい寵愛が多かった。后の姉の平安剛侯夫人の許謁らが、媚道(妖術)を用いて後宮の懐妊している者である王美人や王鳳らを呪詛した。事が発覚し、太后は大いに怒り、官吏に下して拷問させ、許謁らは誅殺され、許后は廃され昭臺宮に処せられ、親属は皆故郷の郡である山陽に帰され、后の弟の子である平恩侯の許旦は封国に就いた。合わせて十四年間立后して廃され、昭臺宮に一年余りいて、さらに長定宮に移された。
その後九年、上(成帝)は許氏を憐れみ、 詔 を下して言った、「仁は遠きを遺わず、誼は親を忘れないと聞く。以前、平安剛侯夫人の許謁が大逆罪に坐し、家属は幸い赦令に蒙り、故郷の郡に帰った。朕は惟うに、平恩戴侯(許広漢)は先帝の外祖父であり、その魂神は廃棄され、祭祀を奉ずる者がいない。これを思うと心から忘れたことがない。平恩侯の許旦および山陽郡にいる親属を還せ」と。この年、廃后は敗れた。先に廃后の姉の許緬が寡居し、定陵侯の淳于長と私通し、そのために彼の小妻となった。淳于長は彼女を欺いて言った、「私は東宮(皇太后)に言上して、再び許后を立てて左皇后とすることができる」と。廃后は許緬を通じてひそかに淳于長に賄賂を贈り、数度手紙をやり取りして報謝した。淳于長の手紙には誖謾(でたらめで不遜なこと)があり、発覚した。天子は廷尉の孔光を使者とし、節を持たせて廃后に薬を賜い、自殺させた。延陵の交道厩の西に葬られた。
孝成帝の班婕妤
孝成皇帝の班婕妤は、帝が即位した初めに選ばれて後宮に入った。最初は少使であったが、やがて大いに寵愛を受け、婕妤となり、増成舎に住んだ。二度館に赴き、男児を産んだが、数か月で失った。成帝が後庭で遊んだとき、かつて婕妤と同輦に乗ろうとしたが、婕妤は辞して言った。「古い絵図を見ると、賢聖の君主には皆名臣が側におり、三代の末主にこそ寵姫がおります。今、同輦に乗ろうとされるのは、それに近いことにはなりませんか。」帝はその言葉を良しとしてやめた。太后はこれを聞き、喜んで言った。「古に樊姫がおり、今に班婕妤がいる。」婕妤は詩経や『窈窕』『徳象』『女師』の篇を誦した。進見して上疏するたびに、古礼に則っていた。
鴻嘉年間以後、帝は次第に内寵を厚くした。婕妤は侍者の李平を進めた。平は寵愛を受け、婕妤に立てられた。帝は言った。「かつて衛皇后も微賤から起こった。」そこで平に衛の姓を賜い、いわゆる衛婕妤である。その後、趙飛 燕 の姉妹もまた微賤から興り、礼制を越え、以前より次第に盛んになった。班婕妤と許皇后はともに寵を失い、進見することも稀になった。鴻嘉三年、趙飛燕が許皇后と班婕妤が媚道を用い、後宮を呪詛し、主上を罵ったと誣告した。許皇后は罪に坐して廃された。班婕妤を尋問すると、婕妤は答えて言った。「妾は聞きます。『死生は命にあり、富貴は天にあり』と。正道を修めてもまだ福を蒙らないのに、邪なことをして何を望みましょうか。鬼神に知があるならば、臣下でない者の訴えは受け入れないでしょう。もし知がなければ、訴えても何の益がありましょうか。故にしません。」帝はその答えを良しとし、憐れんで、黄金百斤を賜った。
趙氏の姉妹は驕慢で嫉妬深く、婕妤は長くいて危険に遭うことを恐れ、太后の長信宮に共に仕えて養うことを願い出た。帝はこれを許した。婕妤は東宮に退き、賦を作って自らを傷み悼んだ。その文辞は次のようである。
祖考の遺徳を受け継ぎし身なれば、何ぞ性命の淑霊なる。薄き身を宮闕に登らせ、下陳として後庭に充つ。聖皇の厚き恵みを蒙り、日月の盛んなる明らかさに当たり、光烈の翕赫なるを揚げ、隆寵を増成に奉ず。既に非位に過ぎたる幸いを受け、ひそかに嘉時に近からんことを庶幾す。毎に寤寐して息を重ね、佩離を申べて自ら思う。女図を陳べて鏡と監とし、女史を顧みて詩を問う。晨婦の戒めを作るを悲しみ、褒・閻の郵となるを哀しむ。皇・英の虞に嫁ぐを美とし、任・姒の周を母とするを栄えたりとす。愚陋なること及ばずといえども、敢えて心を捨ててこれを忘れんや。年歳を歴て悼み懼れ、蕃華の滋えざるを閔む。陽禄と柘館とを痛み、なお繈褓にして災いに離る。豈に妾人の殃咎ならんや。将に天命の求め得ざるか。
白日忽ちに光を移し、遂に晻莫として幽昧となる。なお覆載の厚き徳を被り、罪郵に於いて廃捐せられず。共養を東宮に奉じ、長信の末流に託し、帷幄に於いて共に洒掃し、永く終死を以て期とす。願わくは骨を山足に帰し、松柏の余休に依らん。
重ねて曰く、玄宮に潜みて幽にして清し、応門閉じて禁闥扃る。華殿塵りて玉階苔生い、中庭萋々として緑草生ず。広室陰りて帷幄暗く、房櫳虚しくて風泠泠たり。帷裳に感じて紅羅を発し、紛綷縩として紈素の声す。神眇眇として密靚の処にあり、君御せずして誰が栄えと為さん。俯して丹墀を視れば、君を思いて履綦を思う。仰いで雲屋を視れば、双涕横流す。左右を顧みて和顔し、羽觴を酌んで憂いを銷す。惟れ人生一世、忽ち過ぐること浮の若し。已独り高明を享け、生民の極休に処る。虞精を勉めて極楽し、福禄と期すること無からん。緑衣・白華、古より有り。
成帝が崩御するに至り、婕妤は園陵に奉仕し、薨じた。そこで園中に葬られた。
孝成趙皇后
孝成趙皇后は、もと 長安 の宮人であった。生まれたとき、父母が育てようとしなかったが、三日経っても死ななかったので、やっと養い育てた。成長して、陽阿主の家に属し、歌舞を学び、飛燕と号した。成帝がかつて微行して出て、陽阿主の所に立ち寄り、音楽を奏でた。帝は飛燕を見て喜び、召し入れて宮中に入れ、大いに寵愛した。妹もまた召し入れて、ともに婕妤となり、後宮を傾けるほど貴ばれた。
許皇后が廃されたとき、帝は趙婕妤を立てようとした。皇太后はその出身があまりに微賤であるのを嫌い、難色を示した。太后の姉の子の淳于長が侍中であり、たびたび往来して言葉を伝え、太后の意向を得た。帝は趙婕妤の父の臨を成陽侯に封じた。一か月余り後、ようやく婕妤を皇后に立てた。長が以前に昌陵の造営中止を進言した功績を追認して、定陵侯に封じた。
皇后が立てられた後、寵愛は次第に衰え、弟の趙昭儀が寵愛を一身に受け、昭儀となった。昭陽舎に住み、その中庭は朱色に塗られ、殿上は漆が塗られ、すべての縁は銅の枠に金メッキが施され、白玉の階段、壁の帯にはしばしば黄金の釭が埋め込まれ、その中に藍田の璧を納め、明珠や翠羽で飾られており、後宮ではかつてなかったほどのものであった。姉弟は十数年も寵愛を独占したが、結局いずれも子を産まなかった。
成帝の末年、定陶王が来朝した際、王の祖母の傅太后がひそかに趙皇后と昭儀に賄賂を贈り、定陶王はついに太子となった。
翌年の春、成帝が崩御した。皇帝はもともと強健で、病気はなかった。この時、 楚 思王の劉衍と梁王の劉立が来朝しており、翌朝に辞去する予定で、皇帝は白虎殿に宿泊の準備をさせていた。また左将軍の孔光を丞相に任じようとし、すでに侯の印を刻み、任命の文書も用意していた。夜は平穏無事であったが、夜明け近く、衣をまとおうとして立ち上がった際、衣を失い、言葉を発することができず、昼の刻漏が十刻を過ぎた時に崩御した。民間では趙昭儀のせいだと非難し、皇太后は大司馬の 王莽 、丞相、大 司空 に 詔 を下して言った。「皇帝が急に崩御され、人々が騒ぎ怪しんでいる。掖庭令の輔らは後宮にいて、近くで侍宴していた。御史、丞相、廷尉とともに雑然と尋問し、皇帝の起居や発病の様子を調べよ。」趙昭儀は自殺した。
哀帝が即位すると、趙皇后を皇太后と尊び、太后の弟で侍中・駙馬都尉の趙欽を新成侯に封じた。趙氏で侯となった者は合わせて二人であった。数か月後、司隷の解光が上奏して言った。
臣は聞くところによると、許美人と元の中宮史の曹宮はともに孝成皇帝の御幸を受け、子を産んだが、その子は隠されて姿を消したという。
臣は従事掾の業と史の望を遣わし、状況を知る者である掖庭獄丞の籍武、元の中黄門の王舜・呉恭・靳厳、官婢の曹曉・道房・張棄、元の趙昭儀の御者の于客子・王偏・臧兼らを尋問させた。皆が言うには、曹宮は曹曉の娘で、以前は中宮に属し、学事史として詩に通じ、皇后に教えていた。道房と曹宮は対食の関係にあった。元延元年、中宮が道房に言った。『陛下が曹宮を御幸された。』数か月後、曹曉が殿中に入り、曹宮の腹が大きいのを見て尋ねると、曹宮は言った。『御幸されて身ごもった。』その年の十月中、曹宮は掖庭の牛官令舎で出産し、婢が六人いた。中黄門の田客が 詔 記を持ち、緑色の綈の方形の底の袋に入れ、御史中丞の印で封をして、籍武に与えて言った。『牛官令舎の産婦と新生児、そして婢六人をすべて暴室獄に置け。児が男女どちらか、誰の子かは問うな。』籍武は迎え入れて獄に置いた。曹宮は言った。
『私の児の胞衣をよく隠しておいてくれ。丞はどんな児か知っているのだから!』三日後、田客が 詔 記を持って籍武のところに来て、『児は死んだか?手で書いて木札の裏に答えよ。』と尋ねた。籍武はすぐに書いて答えた。『児は生きており、まだ死んでいない。』しばらくして、田客が出てきて言った。『上と昭儀が大いに怒っている。どうして殺さないのか?』籍武は叩頭して泣きながら言った。
『児を殺さなければ、自分が死ぬことは分かっている。殺しても、やはり死ぬのだ!』すぐに田客を通じて封事を奏上した。『陛下には後継ぎがおられません。子に貴賤はありません。どうかご留意ください!』奏上が入ると、田客が再び 詔 記を持って籍武に与えて言った。『今夜、刻漏が五刻を過ぎたら、児を王舜に渡し、東交掖門で会え。』籍武は田客に尋ねた。『陛下は私の上書をどうお思いか?』田客は言った。『目を見開かれた。』籍武は児を王舜に渡した。王舜は 詔 を受け、児を殿中に入れ、乳母を選んで、『よく児を養え。褒美がある。漏らすな!』と告げた。王舜は張棄を乳母に選んだ。その時、児は生後八、九日であった。三日後、田客が再び 詔 記を持ち、前と同じように封をして籍武に与えた。中には小さな緑の箱が封入されており、記されていた。『籍武に告ぐ。箱の中の物と書状を獄中の婦人に与えよ。籍武自ら臨んで飲ませよ。』籍武が箱を開けると、包まれた薬が二つと、赫蹄(薄い紙)の書状があり、『偉能に告ぐ。この薬を努めて飲め。再び入ることはできない。お前自身が分かるだろう!』と書かれていた。偉能とは曹宮である。曹宮は書状を読み終えると、言った。『やはりか、姉弟で天下を独占しようというのだ!私の児は男だ。額に太い毛があり、孝元皇帝に似ている。今、児はどこにいる?危うく殺されてしまったのだ!どうして長信宮(皇太后)に知られてしまったのか?』曹宮は薬を飲んで死んだ。後で、婢六人が呼び入れられ、出てきて籍武に言った。『昭儀が言うには、「お前たちに罪はない。自ら死ぬか、それとも外の家(実家)に帰るか?」と。私たちは自ら死ぬことを願うと言った。』即座に自縊して死んだ。籍武は皆その状況を表に記して奏上した。張棄が養っていた児は十一日目に、宮長の李南が 詔 書を持って児を連れて行き、どこに置かれたかは分からなくなった。
許美人は以前、上林苑の涿沐館におり、しばしば飾室の中の部屋に召し入れられ、一年に二、三度召され、数か月あるいは半年留まって御幸を受けた。元延二年に懐妊し、その十一月に出産した。 詔 によって靳厳に乳医と五種の薬を合わせた丸薬三つを持たせ、美人のところへ送らせた。後日、于客子、王偏、臧兼は、昭儀が成帝に言うのを聞いた。『いつも私をだまして、宮中から来たと言い、中宮から来たと言うが、許美人の児はどうして中宮で生まれたのか?許氏がまた立后されるというのか!』と恨み、手で自分を打ち、頭で壁や戸柱に打ちつけ、床から自ら地に投げ出し、泣いて食事を取ろうとせず、言った。『今、私をどうするつもりか、帰りたいだけだ!』帝は言った。『今、わざわざ告げたのに、逆に怒るとは!まったく理解できない。』帝も食事を取らなかった。昭儀は言った。『陛下はご自分でそうなさったことをご存じではないか、食事を取らないのはなぜですか?陛下は常々、「決してあなたを裏切らない」とおっしゃっていた。今、美人に子ができて、結局約束を破られた。どういうことですか?』帝は言った。『趙氏のために約束したのだ。だから許氏を立てない。天下に趙氏より上の者が出ないようにする。心配するな!』後に 詔 によって靳厳に緑の袋に入れた書状を許美人に持たせ、靳厳に告げた。『美人が何かお前に渡すものがあるだろう。受け取って来て、飾室の中の簾の南に置け。』美人は葦の箱一合に生んだ児を入れ、封をし、緑の袋に入れた返書を靳厳に渡した。靳厳は箱と書状を持ち、飾室の簾の南に置いて去った。帝と昭儀が座り、于客子に箱の封を解かせた。まだ終わらないうちに、帝は于客子、王偏、臧兼を皆外に出し、自ら戸を閉め、昭儀と二人きりになった。しばらくして戸を開け、于客子、王偏、臧兼を呼び、箱と緑の綈の方形の底の袋に封をさせ、屏風の東に押しやらせた。呉恭が 詔 を受け、箱と方形の底の袋を籍武に持って行き、すべて御史中丞の印で封をして言った。『籍武に告ぐ。箱の中に死んだ児がいる。人目につかない所に埋めよ。人に知られるな。』籍武は獄の楼の塀の下に穴を掘り、そこに埋めた。
元の長定許貴人と、元の成都侯・平阿侯の家の婢であった王業、任孋、公孫習は以前に免ぜられて庶人となっていたが、 詔 によって召し入れられ、昭儀に属して私婢とされた。成帝が崩御し、まだ棺に納められない、慌ただしく悲しんでいる最中、昭儀は自らの罪悪が大きいことを悟り、王業らが元は許氏や王氏の婢であったことを知り、事が漏れるのを恐れて、大婢の羊子らを王業らにそれぞれ十人ほどずつ賜り、その心を慰め、我が家の過失を言いふらさないように言い含めた。
元延二年(紀元前11年)五月、元掖庭令の吾丘遵が武に言った。「掖庭の丞や吏以下は皆、昭儀(趙飛燕)と通じ合っており、語るに足る者は一人もいない。ただ、あなただけに話したいことがある。私は子がなく、あなたには子がいる。あの家(趙氏)は一族を軽んじているから、恐れて言い出せないのではないか?掖庭で天子の寵愛を受けて子を産んだ者はすぐに死に、また薬を飲まされて堕胎させられた者は数知れない。あなたと共に大臣に訴えたいが、票騎将軍(王根)は金銭に貪欲で、事を計るに足りない。どうすれば長信宮(王太后)に聞かせることができるだろうか?」後に遵は病に伏せって、武に言った。「今、私は死ぬ。以前に話した件は、あなた一人ではできないだろう。口外は慎重に。」
いずれも今年四月丙辰の赦令以前のことである。臣が謹んで案ずるに、永光三年(紀元前41年)に男子の忠らが長陵の傅夫人の墓を暴いた事件があった。事態は大赦に遭遇したが、孝元皇帝は 詔 を下して言われた。「これは朕が赦すべきでないことである。」と。徹底的に取り調べて、ことごとく罪に伏させ、天下は当然のことと思った。魯の厳公の夫人が世子を殺した時、斉の桓公が召し出して誅殺し、『春秋』はこれを称えている。趙昭儀は聖朝を傾け乱し、みずから継嗣を滅ぼしたので、その家属は天誅に伏すべきである。以前、平安剛侯の夫人の謁が大逆の罪に連座した時、その同産兄弟も連座すべきであったが、赦令に浴したため、故郡に帰された。今、昭儀の犯した罪は特に悖逆であり、謁よりも重い。それなのにその同産親族は皆、尊貴な地位にあり、帝の近くに侍っている。群臣は心を寒からしめている。これは悪を懲らしめ義を尊び、四方に示すやり方ではない。どうか事を徹底的に究明し、丞相以下に正しい法を議論させてください。
哀帝はそこで新成侯の趙欽と、欽の兄の子である成陽侯の訢を免官し、ともに庶人とし、家族を連れて遼西郡に移住させた。この時、議郎の耿育が上疏して言った。
臣は聞く。継嗣の統を失い、嫡子を廃して庶子を立てることは、聖人の法が禁じ、古今の厳戒とするところである。しかし、大伯は歴が嫡子であることを知り、逡巡して固く譲り、身を呉越に委ねた。これは権変の設けであり、常法にはこだわらず、王季に位を致して聖なる継嗣を尊び、ついに天下を得、子孫がその業を承けて七八百年続き、その功は三王に冠たり、道徳は最も備わっていた。それゆえに尊号が大王(古公亶父)にまで及んだのである。故に世には必ず非常の変があり、それによって初めて非常の謀略が生まれる。孝成皇帝はご自身、継嗣が時に応じて立てられないことを知り、まだ皇子がいないことを思い、万歳の後(崩御後)に国を保てず、権柄の重さが女主に制せられることを慮られた。女主が驕り盛んになれば欲望に限りがなく、少主が幼弱であれば大臣は使いこなせず、世に周公のように抱き負う補佐もいなければ、 社稷 が危うくされ、天下が傾き乱されることを恐れられた。陛下に賢聖で通明の徳、仁孝で子を愛する恩、独見の明をお持ちであり、ご自身で内に決断されることを知っておられた。それゆえに後宮が就館(出産のための館に入ること)へと向かう兆しを断ち、微細な嗣子による禍乱の根を絶ち、陛下に位を致して宗廟を安んじようとされたのである。愚臣はすでに安危を深く援け、金匱の計(国家の大切な計画)を定めることができず、また聖徳を推し演べ、先帝の志を述べることも知らず、かえって宮中を繰り返し調べ、私的な宴席のことを暴露し、先帝を誣いて惑わされた過ちを汚し、寵妾の妬み媚びによる誅罰を成し遂げてしまった。これは賢聖の遠見の明を甚だしく失い、先帝の国を憂うる御心に逆らって背負うことである。
大徳を論ずるには俗に拘らず、大功を立てるには衆に合わない。これこそが孝成皇帝の至極の思慮が万々にも衆臣を超え、陛下の聖徳が盛んに茂って皇天と符合する所以であり、どうして当世の凡庸で器量の小さい臣下たちが及ぶところでしょうか! かつ、君父の美を褒め広めて順い、過ぎ去った過ちを匡正して消し去ることは、古今の通義である。事がその時に当たって固く争わず、禍を未然に防がず、それぞれ言われるままに阿り従い、容れられ媚びることを求めて、晏駕(崩御)の後、尊号が定まり、万事が終わってから、追い及ばないことを探り、幽かで昧い過ちをあばき立てる。これこそ臣の深く痛むところです!
どうか有司に議させ、もし臣の言う通りであるならば、宜しく天下に宣布し、先帝の聖意が起こされた所以を皆に明らかに知らしめてください。そうでなければ、空しく誹謗の議論が上は山陵(先帝の陵墓)に及び、下は後世に流れ、遠くは百蛮に聞こえ、近くは海内に布き渡り、これは先帝が後事を託された御意に甚だしく背きます。そもそも孝子は善く父の志を述べ、善く人の事を成すものです。どうか陛下ご省察ください!
哀帝が太子であった時、趙太后(趙飛燕)の力もかなり得ていたので、ついにその事を徹底的に追及しなかった。傅太后は趙太后に恩を感じ、趙太后もまた心を寄せたので、成帝の母(王太后)および王氏は皆、彼女たちを怨んだ。
哀帝が崩御すると、王莽が太后(太皇太后王政君)に申し上げ、有司に 詔 を下させた。「前皇太后(趙飛燕)と昭儀(趙合徳)はともに帷幄に侍り、姉妹で寵愛を独占して寝所を固め、賊乱の謀を執り、継嗣を残滅して宗廟を危うくし、天に悖り祖に犯し、天下の母たる義がない。皇太后を孝成皇后に貶し、北宮に移住させる。」その後一ヶ月余りして、再び 詔 を下した。「皇后は自ら罪悪が深く大きいことを知り、朝請も疎遠で、婦道を失い、共に養う礼がなく、狼虎のような毒を持ち、宗室の怨むところ、海内の仇敵である。それなのにまだ小君(皇后)の位にあるのは、誠に皇天の心ではない。小を忍ばずして大謀を乱す、恩の已むことのできないものは、義によって断ち切られる。今、皇后を廃して庶人とし、その園(陵園)に就かせる。」この日、彼女は自殺した。合わせて十六年間皇后の位に立って誅殺された。先に童謡があった。「燕燕、尾龚龚、張公子、時相見。木門倉琅根、燕飛來、啄皇孫。皇孫死、燕啄矢。」成帝が微行するたび、常に張放とともにあり、富平侯の家と称したので、張公子と言ったのである。倉琅根とは、宮門の銅鍰(どうかん、門環)のことである。
孝元傅昭儀
孝元傅昭儀は、哀帝の祖母である。父は河内郡温県の人で、早くに亡くなった。母は再嫁して 魏 郡の鄭翁の妻となり、男児の惲を産んだ。昭儀は若い時、上官太后の才人となり、元帝が太子であった時から寵愛を受けて進んだ。元帝が即位すると、婕妤に立てられ、大変寵愛された。人となりは才略があり、人に仕えることを巧みにし、下は宮人左右に至るまで、酒を地に酹いで、皆が彼女の長寿を祈った。一男一女を産み、女は平都公主、男は定陶恭王となった。恭王は才芸があり、特に上(元帝)に愛された。元帝は傅婕妤を重んじたが、馮婕妤もまた寵愛を受け、中山孝王を産んだ。上は後宮の中で二人を特別に扱おうとし、二人とも子が王となったが、上(皇帝)がまだ在世中なので、太后と称することはできなかった。そこで改めて昭儀と号し、印綬を賜い、婕妤の上に位した。その儀を昭かにし、尊んだのである。成帝、哀帝の時代になると、趙昭儀、董昭儀はともに子がなかったが、やはりこの称号を用いた。
元帝が崩御すると、傅昭儀は王に従って国に帰り、定陶太后と称した。その後十年、恭王が 薨去 し、子が代わって王となった。王の母は丁姫といった。傅太后は自ら養育し見守り、成長した頃、成帝には後継ぎがいなかった。その時、中山孝王がいた。元延四年、孝王と定陶王がともに朝廷に入った。傅太后は多くの珍宝を趙昭儀や皇帝の舅である票騎将軍の王根に贈り、ひそかに定陶王のために漢の後継ぎとなるよう求めた。皆、上(皇帝)に子がいないのを見て、あらかじめ結びつきを深めて長く続く計らいをしようと、さらに定陶王を称賛した。上もまた自ら彼を重んじ、翌年、ついに定陶王を召して太子に立てた。この話は哀帝紀にある。一か月余り後、天子は楚孝王の孫の景を定陶王に立て、恭王の後を継がせた。太子は礼を述べようと議したが、少傅の閻崇は『春秋』は父の命をもって祖父の命を廃さず、人の後を継ぐ礼は私的な親に顧みることを得ないとして、礼を述べるべきではないと考えた。太傅の趙玄は礼を述べるべきだと考え、太子はそれに従った。 詔 で礼を述べた理由を問うと、尚書が趙玄を弾劾し、左遷して少府とし、光禄勲の師丹を太傅とした。 詔 で傅太后と太子の母である丁姫に定陶国の邸宅に住むよう命じた。下して有司に議させ、皇太子が傅太后や丁姫と会うことができるかどうかを問うと、有司は奏上して会うことはできないと議した。しばらくして、成帝の母である王太后は傅太后と丁姫に十日に一度太子の家に行かせようとしたが、成帝は「太子は正統を継承し、陛下を共に養うべきであり、再び私的な親に顧みることはできません」と言った。王太后は「太子は幼く、傅太后が抱き養ったのだ。今、太子の家に行くのは乳母の恩情によるものであり、妨げるほどのことではない」と言った。そこで傅太后が太子の家に行くことを許した。丁姫は太子を養育しなかったので、ただ一人許されなかった。
成帝が崩御し、哀帝が即位した。王太后は 詔 を下し、傅太后と丁姫に十日に一度未央宮に来るよう命じた。高昌侯の董宏は意向を推し量り、上書して丁姫を帝太后に立てるべきだと述べた。師丹が弾劾して「董宏は邪な心を抱き朝廷を誤らせ、不道である」と奏上した。上は即位したばかりで謙譲し、師丹の言葉に従って止めた。後に王太后に 詔 を下させ、定陶恭王を恭皇と尊んだ。哀帝はこれによって「春秋に『母は子によって貴くなる』とある」と言い、傅太后を恭皇太后と尊び、丁姫を恭皇后と尊び、それぞれ左右の詹事を置き、食邑は長信宮や中宮と同じとした。恭皇太后の父を追尊して崇祖侯とし、恭皇后の父を褒徳侯とした。その後一年余りして、ついに 詔 を下して「漢家の制度は、親しい者を推し進めて尊ぶ者を顕わにする。定陶恭皇の号はもはや定陶と称すべきではない。恭皇太后を帝太太后と尊び、丁后を帝太后と尊べ」と言った。後にまた帝太太后の号を皇太太后と改め、永信宮と称し、帝太后を中安宮と称し、成帝の母である太皇太后は本来長信宮と称し、成帝の趙后は皇太后とし、合わせて四太后とし、それぞれ少府・太僕を置き、秩禄は皆中二千石とした。恭皇のために京師に寝廟を立て、宣帝の父である悼皇考の制度に比べ、前殿に昭穆の順序を定めた。
傅太后の父の同母弟は四人で、子孟、中叔、子元、幼君といった。子孟の子の喜は大司馬に至り、高武侯に封ぜられた。中叔の子の晏も大司馬となり、孔郷侯に封ぜられた。幼君の子の商は汝昌侯に封ぜられ、太后の父である崇祖侯の後を継ぎ、崇祖を汝昌哀侯と改号した。太后の同母弟の鄭惲は以前に死んでおり、惲の子の業を陽信侯とし、惲を追尊して陽信節侯とした。鄭氏と傅氏で侯となった者は合わせて六人、大司馬は二人、九卿・二千石は六人、侍中や諸曹は十余人いた。
傅太后は尊ばれた後、ますます驕慢になり、成帝の母と話すとき、ついには「 媼 」と呼んだ。中山孝王の母である馮太后とともに元帝に仕え、過去の恨みを思い出し、呪詛の罪に陥れて自殺させた。元寿元年に崩御し、渭陵に合葬され、孝元傅皇后と称された。
定陶丁姫
定陶丁姫は、哀帝の母であり、易の祖師である丁将軍の玄孫である。家は山陽郡瑕丘県にあり、父は廬江太守に至った。初め定陶恭王は先に山陽王となっており、丁氏はその娘を内に入れて姫とした。王后は張氏で、その母の鄭礼は、傅太后の同母弟である。太后は親戚の縁故で、彼女に子があってほしいと思ったが、結局いなかった。ただ丁姫が河平四年に哀帝を生んだ。丁姫が帝太后となると、二人の兄の忠と明がいた。明は帝の舅として陽安侯に封ぜられた。忠は早くに死に、忠の子の満を平周侯に封ぜた。太后の叔父の憲と望がいた。望は左将軍となり、憲は太僕となった。明は大司馬票騎将軍として政務を補佐した。丁氏で侯となった者は合わせて二人、大司馬一人、将軍・九卿・二千石六人、侍中や諸曹も十余人いた。丁氏と傅氏は一、二年の間に急に興り、特に盛んになった。しかし哀帝はあまり権勢を貸さず、その権勢は成帝の世の王氏には及ばなかった。
建平二年、丁太后が崩御した。上は「『詩経』に『生きては別の室、死しては同じ穴』とある。昔、季武子が寝殿を建てたとき、杜氏の墓が西階の下にあったが、合葬を請うて許された。附葬の礼は、周から興った。孝子は亡き者に仕えることを生きている者に仕えるようにする。帝太后は恭皇の園に陵を築くべきである」と言った。大司馬票騎将軍の明を派遣して東に送り、定陶に葬らせた。その貴さは山東を震わせた。
哀帝が崩御し、王莽が政務を執ると、有司に命じて丁氏と傅氏の罪悪を挙げて奏上させた。王莽は太皇太后の 詔 によって皆の官爵を免じ、丁氏は故郷の郡に帰らせた。王莽は傅太后の号を定陶共王の母に貶め、丁太后の号を丁姫と奏上した。
元始五年、王莽はまた「共王の母と丁姫は以前、臣妾の礼を取らず、渭陵に葬られ、冢の高さが元帝の山陵と同じで、帝太后・皇太太后の 璽綬 を懐にして葬られ、礼に応じていない。礼には改葬がある。共王の母と丁姫の冢を発き、その 璽綬 を取り出して消滅させ、共王の母と丁姫を定陶に帰し、共王の冢の次に葬り、丁姫を元の通りに葬ってほしい」と述べた。太后は既に済んだことなので、再び発く必要はないと考えた。王莽が固く争うと、太后は 詔 して「元の棺を用いて槨を作り冢とし、太牢で祀れ」と言った。謁者が護衛して傅太后の冢を発くと、崩れ落ちて数百人を圧死させた。丁姫の槨の戸を開けると、火が出て炎が四、五丈にもなり、吏卒が水をかけて消してやっと中に入ることができ、槨の中の器物を焼き尽くした。
王莽はまた奏上して「以前、共王の母が生きていた時、分を超えて桂宮に住み、皇天は怒り、その正殿に災いを下した。丁姫が死んだ時、葬制を超えて葬り、今、火がその槨を焼いた。これは天が変異を見せて告げているのであり、媵妾のように改めるべきです。臣が以前、丁姫を元の通りに葬るよう奏請したのは、正しくなかった。共王の母と丁姫の棺は皆、梓宮と名付けられ、珠玉の衣は藩妾の服ではない。木棺に替え、珠玉の衣を取り去り、丁姫を媵妾の次に葬ってほしい」と述べた。奏上は許可された。傅太后の棺を開くと、臭いが数里にまで広がった。公卿で在位する者は皆、王莽の意に阿り、銭や布帛を納め、子弟や諸生、四夷の者を派遣し、合わせて十余万人が道具を持ち、将作を助けて共王の母と丁姫の旧冢を掘り平らげ、二十日の間ですべて平らになった。王莽はまたその場所に棘を巡らせて世の戒めとした。その時、数千の燕の群れがいて、土をくわえて丁姫の穴に投げ入れた。丁氏と傅氏が敗れると、孔郷侯の晏は家族を連れて合浦に移され、宗族は皆、故郷の郡に帰った。ただ高武侯の喜だけが全うされ、独自の伝がある。
孝哀傅皇后
孝哀傅皇后は、定陶太后の従弟の娘である。哀帝が定陶王であった時、傅太后は親族の縁を重んじようとして、彼女を娶って王に配した。王が入朝して漢の太子となると、傅氏の娘は妃となった。哀帝が即位した時、成帝の大喪がまだ前殿で行われている最中であったが、傅太后は傅妃の父の晏を孔郷侯に封じ、帝の母方の叔父である陽安侯丁明と同じ日に共に封じた。当時、師丹が諫めて、「天下はそもそも王者の所有するものであり、親戚はどうして富貴になれないことを心配する必要があろうか。しかるにこのように慌ただしく封じることは、その繁栄が長く続かないであろう」と言った。晏が封じられて一か月余り後、傅妃は皇后に立てられた。傅氏が既に盛んになると、晏が最も尊重された。哀帝が崩御すると、王莽が太皇太后に上奏して 詔 を下させ、「定陶共王太后と孔郷侯晏は心を合わせ謀を同じくし、恩を背き本を忘れ、専横に振る舞って軌道を外れ、至尊と同じ称号を用い、終には没後、ついには左座に配祀されるに至り、道理に背き逆らって道を失っている。今、孝哀皇后を退かせて桂宮に移させる」と言った。一か月余り後、さらに孝成趙皇后と共に庶人に廃され、その園に赴いて自殺した。
孝元馮昭儀
孝元馮昭儀は、平帝の祖母である。元帝が即位して二年目に、選ばれて後宮に入った。当時、父の奉世は執金吾であった。昭儀は初め長使となり、数か月で美人に昇進し、その後五年で産殿に入って男子を生み、婕妤に任じられた。当時、父の奉世は右将軍光禄勲であり、奉世の長男の野王は左馮翊であり、父子ともに朝廷に居並び、議論する者はその器量と能力がその地位に相応しいものであり、女寵によるものではないと考えた。そして馮婕妤の内廷での寵愛は傅昭儀と同等であった。
建昭年間、帝は虎圈に行き闘獣を観覧し、後宮の者たちも皆座っていた。熊が檻から逸脱し、欄干をよじ登って殿上に上がろうとした。左右の貴人や傅昭儀らは皆驚いて逃げたが、馮婕妤は真っ直ぐに進み出て熊の前に立ちはだかった。左右の者が熊を撃ち殺した。帝が「人の情としては驚き恐れるものなのに、どうして前に出て熊に立ち向かったのか」と問うと、婕妤は答えて「猛獣は人を得れば止まります。妾は熊が御座に至るのを恐れ、故に身をもってこれを防ぎました」と言った。元帝は嘆賞し、これによって一層敬重した。傅昭儀らは皆恥じ入った。翌年の夏、馮婕妤の男子が信都王に立てられ、婕妤は昭儀として尊ばれた。元帝が崩御すると、信都太后となり、王と共に儲元宮に住んだ。河平年間、王に従って封国に行った。後に中山に移され、これが孝王である。
後に定陶王が太子に召されると、中山王の母方の叔父の参を宜郷侯に封じた。参は、馮太后の末の弟である。この年、孝王が 薨去 し、一人の男子がいて王を継いだが、当時まだ満一歳に達しておらず、目の病気があり、太后が自ら養育して看病し、幾度も祈祷を行って災いを解こうとした。
哀帝が即位すると、中郎謁者の張由を派遣して医者を連れさせ、中山の小王を治療させた。張由は元来、狂易病(躁鬱的な病気)を患っており、病気が発作を起こして怒り、西へ長安に帰ってしまった。尚書が文書で勝手に去った状況を詰問すると、張由は恐れ、そこで誣告して中山太后が上(哀帝)と太后を呪詛していると言った。太后とは即ち傅昭儀であり、元来常々馮太后を怨んでいたため、これによって御史の丁玄に取り調べさせ、侍医や官吏および馮氏の兄弟で封国にいた者百余人をことごとく捕らえ、 洛陽 ・魏郡・鉅鹿に分けて拘禁した。数十日経っても何も得られず、さらに中謁者令の史立と丞相長史・大鴻 臚 丞に共同で審理させた。史立は傅太后の意を受けて、ほとんど封侯を得ようとし、馮太后の妹の習および寡婦の弟嫁の君之を審理し、死者は数十人に及んだ。巫女の劉吾は呪詛を認めた。医者の徐遂成は習と君之に「武帝の時に医者の修氏が武帝を刺し治療して二千万を得ただけだ。今、上(哀帝)を治癒させても封侯は得られない。上を殺して、中山王を代わりに立てさせた方が、封侯を得られるだろう」と言った。史立らは弾劾上奏して、呪詛による謀反、大逆の罪であるとした。馮太后を責問したが、服罪の言葉はなかった。史立が「熊が殿上に上がろうとした時はなんと勇敢であったか、今はどうして怯えているのか」と言うと、太后は左右の者に振り返って言った。「これは宮中の言葉、前代の事柄である。役人がどうして知ることができようか。これは私を陥れようとしているのだ」そして毒を飲んで自殺した。
まだ死んでいないうちに、役人が彼女を誅殺するよう請うたが、上(哀帝)は法に照らして処刑するに忍びず、庶人に廃して雲陽宮に移した。既に死んだ後、役人が再び上奏して「太后は廃される前に死にました」と言った。 詔 により諸侯王太后の礼儀をもって葬った。宜郷侯参、君之、習の夫および子で連座すべき者は、自殺した者もいれば、法により処刑された者もいた。参の娘の弁は孝王の后であり、二人の娘がいたが、役人が上奏して庶人に免じ、馮氏の宗族と共に故郷の郡に帰らせた。張由は先に告発した功により関内侯の爵位を賜り、史立は中太僕に昇進した。
哀帝が崩御すると、大 司徒 の孔光が上奏して「張由は以前に骨肉を誣告し、史立は人を陥れて死刑に至らせ、国家のために天下に怨みを結び、それによって官位の昇進を得、爵位と封邑を獲得しました。幸いに赦令を蒙っていますが、庶人に免じて合浦に移すことを請います」などと言った。
中山衛姬
中山の衛姫は、平帝の母である。父の子豪は、中山の盧奴の人で、官は衛尉に至った。子豪の妹は宣帝の婕妤となり、楚孝王を生んだ。長女はまた元帝の婕妤となり、平陽公主を生んだ。成帝の時、中山孝王に子がなかったので、帝は衛氏が吉祥であるとして、子豪の末娘を孝王に配した。元延四年に平帝を生んだ。
二歳の時、孝王が 薨去 し、代わって王となった。哀帝が崩御し、後嗣がなかったので、太皇太后と新都侯の王莽が中山王を迎えて帝に立てた。王莽は国権を専断しようとし、丁氏・傅氏の行いを戒めとして、帝を成帝の後継とし、母の衛姫と外戚は京師に至るべきでないとした。そこで改めて宗室の桃郷侯の子の成都を中山王に立て、孝王の後を奉じさせ、少傅左将軍の甄豊を遣わして衛姫に 璽綬 を賜い、直ちに中山孝王后に拝し、苦陘県を湯沐邑とした。また帝の舅の衛宝、宝の弟の衛玄に関内侯の爵を賜った。帝の三人の妹に、謁臣は修義君の号を、哉皮は承礼君を、鬲子は尊徳君の号を賜い、それぞれ食邑二千戸を与えた。王莽の長子の王宇は、王莽が衛氏を隔絶することを非とし、久しくして後に禍を受けることを恐れ、ひそかに衛宝と文書を通じて連絡し、衛后に上書して恩を謝し、その際に丁氏・傅氏の旧悪を陳べて、京師に至ることを得させようと教えた。王莽は太皇太后に上奏し、有司に 詔 して言わせた。「中山孝王后は深く人後に為ることの義を分明にし、条陳して故定陶傅太后・丁姫が天に背き理に逆らい、上って僭越な位号を称え、定陶王を信都に移し、共王のために京師に廟を立て、天子の制の如くし、天命を畏れず、聖人の言を侮り、法度を壊乱し、その制に非ざる所に居り、その号に非ざるものを称した。これによって皇天は震怒し、火をもってその殿を焼き、六年の間に大命遂げず、禍殃重なり、ついに孝哀帝にその余災を受けさせ、大いに天心を失い、天命暴に崩じ、また共王の祭祀を絶え廃せしめ、精魂の依帰する所無からしめた。朕惟うに、孝王后は経義を深く説き、聖法を明鏡とし、古人の禍敗と近事の咎殃を懼れ、天命を畏れ、聖言を奉ずるは、これすなわち久しく一国を保ち、長く天禄を獲て、孝王をして永く無疆の祀を享けしむる、福祥の大なる者なり。朕甚だこれを嘉す。夫れ義を褒め善を賞するは、聖王の制なり。中山の故安の戸七千を以て中山后の湯沐邑に益し、加えて賜うこと及び中山王に黄金各百斤を賜い、傅相以下の秩を増すべし」。
衛后は日夜啼泣し、帝に会いたいと思ったが、ただ戸邑を増やすだけであった。王宇はまた上書して京師に至ることを求めるよう教えさせた。ちょうど事が発覚し、王莽は王宇を殺し、衛氏の支属をことごとく誅殺した。衛宝の娘は中山王后であったが、后を免じ、合浦に徙した。ただ衛后だけが存命し、王莽が国を 簒 した後、家人に廃され、後一年余りして卒し、孝王の傍らに葬られた。
孝平王皇后
孝平王皇后は、安漢公太傅大司馬王莽の娘である。平帝が即位した時、九歳で、成帝の母の太皇太后が制を称し、王莽が政を執った。王莽は 霍光 の故事に依り、娘を帝に配そうとしたが、太后はその意に欲せなかった。王莽は変詐を設け、娘を必ず入内させ、それによって自らを重からしめようとした。事は王莽伝にある。太后は已むを得ずこれを許し、長楽少府の夏侯藩、宗正の劉宏、少府の宗伯鳳、 尚書令 の平晏を遣わして納采し、太師の孔光、大 司徒 の馬宮、大 司空 の甄豊、左将軍の孫建、執金吾の尹賞、行太常事太中大夫の劉歆及び太卜、太史令以下四十九人に皮弁素績を賜い、礼を以て雑卜筮し、太牢を以て宗廟に祠り、吉月日を待った。明年の春、大 司徒 の馬宮、大 司空 の甄豊、左将軍の孫建、右将軍の甄邯、光禄大夫の劉歆を遣わし、乗輿法駕を奉じて、安漢公の邸で皇后を迎えた。馬宮、甄豊、劉歆が皇后に璽紱を授け、車に登って警蹕を称し、便時に上林の延寿門より入り、未央宮の前殿に入った。群臣は位に就いて礼を行い、天下に大赦した。父の安漢公の封地を百里に満つるまで益し、皇后を迎え及び礼を行った者、三公以下から騶宰執事の長楽宮、未央宮、安漢公邸にいたる者まで、皆秩を増し、金帛を賜うことそれぞれ差があった。皇后が立って三月、礼を以て高廟に謁見した。父の安漢公の号を宰衡と尊び、位を諸侯王の上とした。公の夫人に功顕君の号を賜い、食邑を与えた。公子の王安を褒新侯に、王臨を賞都侯に封じた。
后が立って一年余り、平帝が崩御した。王莽は孝宣帝の玄孫の嬰を孺子に立て、王莽は帝位を摂し、皇后を皇太后と尊んだ。三年後、王莽が真に即き、嬰を定安公とし、皇太后の号を定安公太后と改めた。太后は時に十八歳で、人となり婉瘱にして節操があった。劉氏が廃されて以来、常に疾を称して朝会しなかった。王莽は敬憚し傷哀して、彼女を嫁がせようとし、乃ち更に号を黄皇室主とし、立国将軍成新公の孫建の世子に襐飾させ医を将いて往きて疾を問わせた。后は大いに怒り、その傍らの侍御を笞鞭した。これによって病を発し、起きることを肯わず、王莽は遂に再び強いることはしなかった。漢兵が王莽を誅し、未央宮を焼いた時、后は言った。「何の面目あって漢家に見えんや!」と。自ら火中に投じて死んだ。
贊
贊に曰く、易は吉凶を著して謙盈の效を言い、天地鬼神より人道に至るまで之に同じからざるはない。夫れ女寵の興るは、至微より起こりて至尊を体し、富貴を窮めても功によらず、これは固より道家の畏るる所、禍福の宗なり。序すに漢の興りより、孝平に終わるまで、外戚後庭の色寵著聞するもの二十余人あり、然れどもその位を保ち家を全うする者は、ただ文・景・武帝の太后及び邛成后の四人のみである。至るところ史良娣、王悼后、許恭哀后は身みな夭折不辜にして、而して家は旧恩に依託し、敢えて縱恣せず、是をもって能く全うす。その余の大なる者は夷滅し、小なる者は放流す。嗚呼! 茲に行事を鑒みれば、変も亦備われり。