漢書

王貢両龔鮑伝 第四十二

原文

昔、武王が紂を討ち、九鼎を雒邑に遷したとき、伯夷と叔齊はこれを軽んじ、首陽山で餓死し、その禄を食まず、周でさえも盛徳と称えた。しかし孔子はこの二人を賢者とし、「その志を降ろさず、その身を辱めず」と評した。また孟子も言う。「伯夷の風を聞く者は、貪る者も廉潔になり、懦弱な者も志を立てる」「百世の上に奮い立ち、百世の下に行う者で、奮い起こされない者はなく、賢人でなくしてこのようでありえようか!」

原文昔武王伐紂,遷九鼎於雒邑,伯夷、叔齊薄之,餓于首陽,不食其祿,周猶稱盛德焉。然孔子賢此二人,以為「不降其志,不辱其身」也。而孟子亦云:「聞伯夷之風者,貪夫廉,懦夫有立志;」「奮乎百世之上,行乎百世之下莫不興起,非賢人而能若是乎!」

漢が興ると、園公、綺里季、夏黄公、甪里先生がいた。この四人は、秦の時代に、世を避けて商雒の深山に入り、天下の平定を待った。高祖がこれを聞いて召し出したが、来なかった。その後、呂后が留侯の計を用い、皇太子に卑辞と束帛で礼を尽くさせ、安車で迎えて招いた。四人が到着すると、太子に従って謁見し、高祖は客として敬い、太子はこれによって重んじられ、ついに自ら安泰を得た。詳細は留侯伝にある。

原文漢興有園公、綺里季、夏黃公、甪里先生,此四人者,當秦之世,避而入商雒深山,以待天下之定也。自高祖聞而召之,不至。其後呂后用留侯計,使皇太子卑辭束帛致禮,安車迎而致之。四人既至,從太子見,高祖客而敬焉,太子得以為重,遂用自安。語在留侯傳。

その後、谷口に鄭子真(てい ししん)がおり、蜀に厳君平(げん くんぺい)がいた。皆、身を修めて自らを保ち、ふさわしくない服は着ず、ふさわしくない食は食べなかった。成帝の時、元舅の大将軍王鳳が礼を尽くして子真を招聘したが、子真はついに屈せずに生涯を終えた。君平は成都の市で卜筮を行い、「卜筮は卑しい業だが、それによって衆人に恵みを与えることができる。邪悪で正しくない問いがあれば、蓍亀に依って利害を言う。人の子には孝に依って言い、人の弟には順に依って言い、人の臣には忠に依って言い、それぞれその情勢に因って善に導く。私の言うことを従う者は、すでに半数を超えている」と考えた。一日に数人を裁き見、百銭を得て自らを養うのに足りれば、すぐに店を閉めて簾を下ろし、老子を講じた。博覧して通じないことがなく、老子と厳周(荘周)の旨に依って書を著すこと十数万言。楊雄(よう ゆう)は若い時、彼に従って遊学し、その後、京師に出仕して名を顕わし、しばしば朝廷の在位する賢者に対して君平の徳を称えた。杜陵の李彊(り きょう)は平素から雄と親しく、長い後、益州牧となった時、喜んで雄に言った。「私は本当に厳君平を得た」。雄は言った。「君は礼を備えて彼を待て。あの人は会うことはできても、屈服させることはできない」。彊は内心そうではないと思った。蜀に到着し、礼を尽くして会見したが、ついに敢えて従事として任用しようと言い出せず、ついに嘆いて言った。「楊子雲(楊雄)は誠に人を知る者だ」。君平は九十余歳で、ついにその業を以て生涯を終え、蜀人は敬愛し、今に至るまで称えている。また雄が著書して当世の士を論じる時、この二人を称えた。その論に曰く。「或る人が問う。君子は没世して名が称えられないことを憂える。どうして勢いに頼らないのか?名は、卿となることでほぼ得られる。曰く。君子は徳によって名を得ることをほぼ得るのである。梁、斉、楚、趙の君主は富み貴ぶことではないが、どうしてその名を成すことができようか!谷口の鄭子真はその志を屈せず、岩石の下で耕し、名は京師に震い、どうして卿であろうか?どうして卿であろうか?楚の両龔(龔勝・龔舎)の潔白さ、その清らかさよ!蜀の厳(君平)は深く沈潜し、軽々しく現れず、軽々しく得ようとせず、長く幽居してもその操りを改めず、たとえ随侯の珠や和氏の璧であっても、どうしてこれに加えることができようか?これを挙げて推し進める、これもまた宝ではないか!」

原文其後谷口有鄭子真,蜀有嚴君平,皆修身自保,非其服弗服,非其食弗食。成帝時,元舅大將軍王鳳以禮聘子真,子真遂不詘而終。君平卜筮於成都巿,以為「卜筮者賤業,而可以惠眾人。有邪惡非正之問,則依蓍龜為言利害。與人子言依於孝,與人弟言依於順,與人臣言依於忠,各因勢導之以善,從吾言者,已過半矣。」裁日閱數人,得百錢足自養,則閉肆下簾而授老子。博覽亡不通,依老子、嚴周之指著書十餘萬言。楊雄少時從遊學,以而仕京師顯名,數為朝廷在位賢者稱君平德。杜陵李彊素善雄,久之為益州牧,喜謂雄曰:「吾真得嚴君平矣。」雄曰:「君備禮以待之,彼人可見而不可得詘也。」彊心以為不然。及至蜀,致禮與相見,卒不敢言以為從事,乃歎曰:「楊子雲誠知人!」君平年九十餘,遂以其業終,蜀人愛敬,至今稱焉。及雄著書言當世士,稱此二人。其論曰:「或問:君子疾沒世而名不稱,盍勢諸?名,卿可幾。曰:君子德名為幾。梁、齊、楚、趙之君非不富且貴也,惡虖成其名!谷口鄭子真不詘其志,耕於巖石之下,名震於京師,豈其卿?豈其卿?楚兩龔之絜,其清矣乎!蜀嚴湛冥,不作苟見,不治苟得,久幽而不改其操,雖隨、和何以加諸?舉茲以旃,不亦寶乎!」

園公、綺里季、夏黄公、甪里先生、鄭子真、厳君平は皆、かつて仕官したことはなかったが、その風評名声は貪欲を激しく戒め、風俗を励ますに足り、近古の逸民である。王吉、貢禹、両龔の類は、皆、礼譲によって進退したという。

原文自園公、綺里季、夏黃公、甪里先生、鄭子真、嚴君平皆未嘗仕,然其風聲足以激貪厲俗,近古之逸民也。若王吉、貢禹、兩龔之屬,皆以禮讓進退云。

王吉

原文王吉

王吉は字を子陽といい、琅玡郡皋虞県の人である。若い時、明経を学び、郡吏として孝廉に推挙され郎となり、若盧右丞を補任し、雲陽令に遷った。賢良に推挙され昌邑中尉となったが、王(昌邑王劉賀)は遊猟を好み、国中を駆け回り、動作に節度がなかった。吉は上疏して諫めて言った。

原文王吉字子陽,琅玡皋虞人也。少時學明經,以郡吏舉孝廉為郎,補若盧右丞,遷雲陽令。舉賢良為昌邑中尉,而王好遊獵,驅馳國中,動作亡節,吉上疏諫,曰:

臣が聞くところでは、古の師(軍隊)は一日に三十里を行き、吉事の時は五十里を行くという。《詩経》に「風は発発と吹き、車は掲掲と走る。周道を顧みれば、中心は怛し」とある。その解釈に曰く。これは古の風ではない、発発と吹くのは。これは古の車ではない、掲掲と走るのは。おそらくこれを嘆いているのである。今、大王は方与県に行幸され、半日にも満たないうちに二百里を駆け、百姓は耕作や養蚕をかなり妨げられ、道を整備し馬を引いている。臣の愚かな考えでは、民はたびたび労役を課せられるべきではない。昔、召公が職務を述べた時、民事に当たる時節に、棠の木の下に宿って訴訟を聴き裁いた。この時、人々は皆その所を得、後世その仁恩を思い、甘棠の木を伐らないに至った。『甘棠』の詩がこれである。

原文臣聞古者師日行三十里,吉行五十里。《詩》云:「匪風發兮,匪車揭兮,顧瞻周道,中心怛兮。」說曰:是非古之風也,發發者;是非古之車也,揭揭者。蓋傷之也。今者大王幸方與,曾不半日而馳二百里,百姓頗廢耕桑,治道牽馬,臣愚以為民不可數變也。昔召公述職,當民事時,舍於棠下而聽斷焉。是時人皆得其所,後世思其仁恩,至虖不伐甘棠,甘棠之詩是也。

大王は書物や学問を好まず、安逸な遊びを楽しみ、車の轅に寄りかかり手綱を取って、馳せ回ることを止めず、口は叱咤に疲れ、手は鞭や手綱に苦しみ、身は車輿に労する。朝は霧や露を冒し、昼は塵埃を被り、夏は大暑に暴かれ炙られ、冬は風寒にさらされ弱められる。たびたび柔らかく脆い玉のような体を、勤労の煩わしい毒に犯させ、これは寿命を全うする根本ではなく、また仁義を高める道でもありません。

原文大王不好書術而樂逸游,馮式撙銜,馳騁不止,口倦乎叱吒,手苦於箠轡,身勞乎車輿;朝則冒霧露,晝則被塵埃,夏則為大暑之所暴炙,冬則為風寒之所匽薄。數以耎脆之玉體犯勤勞之煩毒,非所以全壽命之宗也,又非所以進仁義之隆也。

広大な屋根の下、細かい毛氈の上で、明師が前に居り、勧めて誦読する者が後ろにいて、上は唐虞の時代を論じ、下は殷周の盛時を及ぼし、仁聖の風を考察し、国を治める道を習い、喜び勇んで憤発し食を忘れ、日々その徳を新たにする楽しみは、ただ手綱や馬具の間にあるだけでしょうか。休む時は俯仰屈伸して体を利し、進退歩趨して足腰を鍛え、新たな気を吸い古い気を吐いて内臓を練り、専意に精を積んで精神を調え、これによって養生すれば、長く生きられないことがありましょうか。大王が誠にこのように留意されれば、心には堯舜の志があり、体には喬松の長寿があり、美しい名声と広い誉れは登って上聞に達し、福禄は集まり社稷は安泰となるでしょう。

原文夫廣夏之下,細旃之上,明師居前,勸誦在後,上論唐虞之際,下及殷周之盛,考仁聖之風,習治國之道,訢訢焉發憤忘食,日新厥德,其樂豈徒銜橛之間哉!休則俛仰詘信以利形,進退步趨以實下,吸新吐故以練臧,專意積精以適神,於以養生,豈不長哉!大王誠留意如此,則心有堯舜之志,體有喬松之壽,美聲廣譽登而上聞,則福祿其轃而社稷安矣。

皇帝は仁聖であり、今なお思慕して怠らず、宮殿・館・園池・狩猟の楽しみには未だ行幸がなく、大王は朝夕これを念い、聖意を承けるべきです。諸侯の骨肉の中で、大王ほど親しい者はなく、大王は血縁では子であり、地位では臣です。一身に二つの責務が加わっており、恩愛と行義にわずかな欠けがあれば、上聞に達し、国を享ける福とはなりません。臣の吉は愚かで愚直ですが、大王がこれを察されることを願います。

原文皇帝仁聖,至今思慕未怠,於宮館囿池弋獵之樂未有所幸,大王宜夙夜念此,以承聖意。諸侯骨肉,莫親大王,大王於屬則子也,於位則臣也,一身而二任之責加焉,恩愛行義孅介有不具者,於以上聞,非饗國之福也。臣吉愚戇,願大王察之。

王の賀は道に従わなかったが、それでもなお吉を敬い礼することを知り、命令を下して言った。「寡人は行いをなして惰りがないわけにはいかないが、中尉は非常に忠実で、たびたび我が過ちを補佐してくれた。謁者の千秋に命じて中尉に牛肉五百斤、酒五石、干し肉五束を賜え。」その後も再び放縦して以前のままだった。吉はたびたび諫めて争い、輔弼の義に大いに適い、民を治めることはなかったが、国中で敬重しない者はなかった。

原文王賀雖不遵道,然猶知敬禮吉,乃下令曰:「寡人造行不能無惰,中慰甚忠,數輔吾過。使謁者千秋賜中尉牛肉五百斤,酒五石,脯五束。」其後復放從自若。吉輒諫爭,甚得輔弼之義,雖不治民,國中莫不敬重焉。

長い時が経ち、昭帝が崩御し、後嗣がなく、大将軍の霍光が政務を執り、大鴻臚と宗正を派遣して昌邑王を迎えた。吉はすぐに上奏して王を戒めて言った。「臣は聞きます、高宗は諒闇(喪に服す)し、三年間言葉を発しなかったと。今、大王は喪事のために召されました。日夜、哭泣し悲哀するのみで、慎んで何かを発してはなりません。また、何も喪事だけではなく、南面する君主として何を言うことがありましょうか。天は言葉を発さないが、四季は巡り、万物は生じます。どうか大王がこれをご明察ください。大将軍は仁愛・勇智・忠信の徳を天下に知られておらず、孝武皇帝に仕えて二十余年、未だ過ちがありません。先帝が群臣を棄てられた時、天下を託され、幼い孤児を寄せられました。大将軍は幼君を襁褓の中に抱きかかえ、政を布き教えを施し、海内は平穏であり、周公や伊尹でもこれ以上はありません。今、帝が崩御して後嗣がなく、大将軍は宗廟に奉ずるに足る者を思いめぐらし、手を引いて大王を立てられました。その仁厚さ、はかり知れないものがあります。臣は願います、大王がこれを敬い仕え、政事はすべてこれを聴き、大王は南面して垂拱なさるだけであります。どうか留意され、常にこれを念頭に置かれますように。」

原文久之,昭帝崩,亡嗣,大將軍霍光秉政,遣大鴻臚宗正迎昌邑王。吉即奏書戒王曰:「臣聞高宗諒闇,三年不言。今大王以喪事徵,宜日夜哭泣悲哀而已,慎毋有所發。且何獨喪事,凡南面之君何言哉?天不言,四時行焉,百物生焉,願大王察之。大將軍仁愛勇智,忠信之德天下莫不聞,事孝武皇帝二十餘年未嘗有過。先帝棄群臣,屬以天下,寄幼孤焉,大將軍抱持幼君襁褓之中,布政施教,海內晏然,雖周公、伊尹亡以加也。今帝崩亡嗣,大將軍惟思可以奉宗廟者,攀援而立大王,其仁厚豈有量哉!臣願大王事之敬之,政事壹聽之,大王垂拱南面而已。願留意,嘗以為念。」

王は到着後、即位して二十余日で淫乱の行いにより廃位された。昌邑の群臣は、国にいた時に王の罪過を挙奏せず、漢朝廷に知らせず、また輔導もできず、王を大悪に陥れた罪で、皆獄に下され誅殺された。ただ吉と郎中令の龔遂だけが、忠直でたびたび諫めて正したため死罪を減じられ、髪を剃られ城旦(土木作業の刑徒)となった。

原文王既到,即位二十餘日以行淫亂廢。昌邑群臣坐在國時不舉奏王罪過,令漢朝不聞知,又不能輔道,陷王大惡,皆下獄誅。唯吉與郎中令龔遂以忠直數諫正得減死,髡為城旦。

再び起用されて益州刺史となったが、病気で官を去り、また博士諫大夫に徴された。この時、宣帝は武帝の故事を大いに修め、宮室・車服は昭帝の時より盛大であった。当時、外戚の許氏・史氏・王氏が貴寵であり、上は自ら政事に親しみ、有能な官吏を任用した。吉は上疏して得失を言い、次のように述べた。

原文起家復為益州刺史,病去官,復徵為博士諫大夫。是時宣帝頗修武帝故事,宮室車服盛於昭帝。時外戚許、史、王氏貴寵,而上躬親政事,任用能吏。吉上疏言得失,曰:

陛下は聖なる資質を躬らされ、万方を統べられ、帝王の図籍は日々前に陳べられ、ただ世務を思い、太平を興さんとされています。詔書が下るごとに、民は喜び、生まれ変わったようです。臣が伏して考えるに、至恩とは言えましょうが、本務とはまだ言えません。

原文陛下躬聖質,總萬方,帝王圖籍日陳于前,惟思世務,將興太平。詔書每下,民欣然若更生。臣伏而思之,可謂至恩,未可謂本務也。

治めようとする君主は代々出るものではなく、公卿は幸いにしてその時に遭遇し、言葉は聴かれ諫言は従われていますが、未だ万世の長策を立て、明主を三代の隆盛に挙げた者はありません。その務めは期会や簿書、獄を断じ訟を聴くことだけであり、これは太平の基ではありません。

原文欲治之主不世出,公卿幸得遭遇其時,言聽諫從,然未有建萬世之長策,舉明主於三代之隆者也。其務在於期會簿書,斷獄聽訟而已,此非太平之基也。

臣は聞きます、聖王が徳を宣べ化を流すには、必ず近くから始めると。朝廷が備わらなければ、治めると言うことは難しく、左右が正しくなければ、遠くを化すことは難しい。民は弱くても勝ちきれず、愚かでも欺くことはできません。聖主が深宮で独り行うことは、正しければ天下が称え誦し、誤れば天下が皆これを言います。行いは近くから発し、必ず遠くに現れます。だから左右を謹んで選び、使う者を審らかに択ぶのです。左右は身を正すためであり、使う者は徳を宣べるためです。『詩経』に「多くの士が盛んに集い、文王はこれによって安寧を得た」とあります。これがその根本です。

原文臣聞聖王宣德流化,必自近始。朝廷不備,難以言治;左右不正,難以化遠。民者,弱而不可勝,愚而不可欺也。聖主獨行於深宮,得則天下稱誦之,失則天下咸言之。行發於近,必見於遠,故謹選左右,審擇所使;左右所以正身也,所使所以宣德也。《詩》云:「濟濟多士,文王以寧。」此其本也。

春秋が大一統を重視する所以は、天下が同じ風俗をなし、九州が共通の規範に従うことにある。ところが今、俗吏が民を治める方法は、礼儀や道徳の規範として代々通用するものがなく、ただ刑法を設けて守らせているだけである。政治を行おうとする者は、何に従えばよいか分からず、自分勝手に解釈し、それぞれ一時的な手段を取り、権謀術数を自在に用いるので、一度方針が変わると元に戻せなくなる。このため、百里ごとに風俗が異なり、千里ごとに習慣が違い、家ごとに政治が異なり、人ごとに服装が違い、詐偽が生じ、刑罰が際限なく、質朴さは日々失われ、恩愛は次第に薄れていく。孔子が「上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない」と言ったのは、空虚な言葉ではない。王者が礼を制定する前には、先王の礼で現在に適するものを引用して用いるのである。臣は願わくば、陛下が天の心を受け継ぎ、大業を起こされ、公卿大臣および儒生たちと共に、古い礼を述べ、王者の制度を明らかにし、一世の民を導いて仁寿の域に至らせてくださいますように。そうすれば、風俗がどうして成康の世に及ばず、寿命がどうして高宗に及ばないことがありましょうか。私はひそかに、当世の風潮で道に合わないものを目にします。謹んで条陳して奏上します。どうか陛下がご裁断なさいますように。

原文春秋所以大一統者,六合同風,九州共貫也。今俗吏所以牧民者,非有禮義科指可世世通行者也,獨設刑法以守之。其欲治者,不知所繇,以意穿鑿,各取一切,權譎自在,故一變之後不可復修也。是以百里不同風,千里不同俗,戶異政,人殊服,詐偽萌生,刑罰亡極,質樸日銷,恩愛寖薄。孔子曰「安上治民,莫善於禮」,非空言也。王者未制禮之時,引先王禮宜於今者而用之。臣願陛下承天心,發大業,與公卿大臣延及儒生,述舊禮,明王制,驅一世之民濟之仁壽之域,則俗何以不若成康,壽何以不若高宗?竊見當世趨務不合於道者,謹條奏,唯陛下財擇焉。

王吉の考えでは、「夫婦は人倫の大綱であり、長寿・短命の萌芽である。世俗では嫁娶が早すぎ、人の親となる道を知らないうちに子をもうけるので、教化が明らかでなく民に夭折が多い。嫁を迎え娘を送るのに節度がないと、貧しい人は間に合わず、子を育てられない。また、漢では列侯が公主を娶り、諸侯は国人が翁主を娶るが、これでは男が女に仕え、夫が婦に屈することになり、陰陽の位を逆にするので、女の乱れが多い。古くは衣服や車馬に貴賤の区別があり、徳を褒め尊卑を分けたが、今は上下が分を越え、各自が勝手に作り、だから貪財利に走り、死を恐れない。周が治世を実現し、刑罰を措いて用いなかったのは、邪悪を冥々のうちに禁じ、悪を未然に防いだからである」という。また言うには、「舜や湯は三公九卿の世襲を用いず、皋陶や伊尹を挙用したので、不仁な者は遠ざかった。今、俗吏が子弟を任用できるようにすると、多くは驕慢で、古今に通じず、功績を積み民を治めるに至っても、民に益がない。これが『伐檀』が作られた所以である。賢人を求める選挙を明らかにし、任子の令を廃止すべきである。外戚や旧知には財貨で厚く報いるべきで、官位につけるべきではない。角抵を廃し、楽府を減らし、尚方を省き、天下に倹約を示すべきである。古くは工人は彫琢したものを作らず、商人は奢侈な品を流通させなかったが、工商が特に賢かったのではなく、政教がそうさせたのである。民は倹約を見れば本業に帰り、本が立てば末も成る」。その主旨はこのようなものであったが、皇帝はその言が迂遠で広すぎると考え、特に寵愛し重用することはなかった。王吉はやがて病気を理由に辞職して琅邪に帰った。

原文吉意以為「夫婦,人倫大綱,夭壽之萌也。世俗嫁娶太早,未知為人父母之道而有子,是以教化不明而民多夭。聘妻送女亡節,則貧人不及,故不舉子。又漢家列侯尚公主,諸侯則國人承翁主,使男事女,夫詘於婦,逆陰陽之位,故多女亂。古者衣服車馬貴賤有章,以褒有德而別尊卑,今上下僭差,人人自制,是以貪財趨利,不畏死亡。周之所以能致治,刑措而不用者,以其禁邪於冥冥,絕惡於未萌也。」又言「舜、湯不用三公九卿之世而舉皋陶、伊尹,不仁者遠。今使俗吏得任子弟,率多驕驁,不通古今,至於積功治人,亡益於民,此伐檀所為作也。宜明選求賢,除任子之令。外家及故人可厚以財,不宜居位。去角抵,減樂府,省尚方,明視天下以儉。古者工不造琱瑑,商不通侈靡,非工商之獨賢,政教使之然也。民見儉則歸本,本立而末成。」其指如此,上以其言迂闊,不甚寵異也。吉遂謝病歸琅邪。

かつて王吉が若く学問していた頃、長安に住んでいた。東隣の家に大きな棗の木があり、枝が王吉の庭に垂れていた。王吉の妻がその棗を取って王吉に食べさせた。王吉は後でそれを知り、妻を離縁した。東隣の家はこれを聞いてその木を切ろうとしたが、近所の人々が共に止め、そこで固く王吉に請うて妻を戻させた。里中の人はこれについて、「東の家に木あり、王陽の妻去る。東の家の棗完し、去りし妻また還る」と言った。彼がこのように志を励ましたのである。

原文始吉少時學問,居長安。東家有大棗樹垂吉庭中,吉婦取棗以啖吉。吉後知之,乃去婦。東家聞而欲伐其樹,鄰里共止之,因固請吉令還婦。里中為之語曰:「東家有樹,王陽婦去;東家棗完,去婦復還。」其厲志如此。

王吉は貢禹と友人であり、世に「王陽が在位すれば、貢公は冠を弾く」と称され、その進退が同じであることを言った。元帝が即位した初め、使者を遣わして貢禹と王吉を召し出した。王吉は年老いており、道中で病死した。皇帝はこれを悼み、再び使者を遣わして弔問し祭祀を行わせた。

原文吉與貢禹為友,世稱「王陽在位,貢公彈冠」,言其取舍同也。元帝初即位,遣使者徵貢禹與吉。吉年老,道病卒,上悼之,復遣使者弔祠云。

初め、王吉は五経を兼ねて通じ、騶氏の春秋に通じ、詩経と論語を教授し、梁丘賀の易説を好み、子の王駿に学ばせた。王駿は孝廉として郎となった。左曹の陳咸が王駿を推薦し、賢明な父子で、経学に明るく行いを修めているので、顕職につけて風俗を励ますべきだと述べた。光禄勲の匡衡もまた王駿に専対の才があると推挙した。諫大夫に昇進し、淮陽憲王を責める使者となった。趙国内史に転じた。王吉が昌邑王の事件に連座して刑罰を受けた後、子孫に王国の吏になるなと戒めていたので、王駿は道中で病気になり、免官されて帰った。再び起用されて幽州刺史となり、司隸校尉に転じ、丞相の匡衡を弾劾して免職させ、少府に転じた。八年後、成帝が大いに重用しようと考え、王駿を京兆尹に出して政事を試させた。これ以前、京兆尹には趙広漢、張敞、王尊、王章がおり、王駿に至って皆能吏の名声があり、故に京師では「前に趙・張あり、後に三王あり」と称した。一方、薛宣が左馮翊から王駿に代わって少府となり、ちょうど御史大夫が空位になった時、谷永が上奏して言った。「聖王は名声を実効に優先させない。考績による用人之法によれば、薛宣の政事は既に試されている」。皇帝はその意見に同意した。薛宣は少府になって一月余りで、いきなり御史大夫に抜擢され、やがて丞相となった。王駿はそこで薛宣に代わって御史大夫となり、共に高位にあった。六年後に病死し、翟方進が王駿に代わって大夫となった。数か月後、薛宣が免職され、翟方進が代わって丞相となった。人々は王駿が侯に封ぜられなかったことを残念がった。王駿が少府の時、妻が死に、それ以後再婚しなかった。ある人が尋ねると、王駿は言った。「徳は曾参に及ばず、子は華や元にも及ばない。どうして再婚できようか」。

原文初,吉兼通五經,能為騶氏春秋,以詩、論語教授,好梁丘賀說易,令子駿受焉。駿以孝廉為郎。左曹陳咸薦駿賢父子,經明行修,宜顯以厲俗。光祿勳匡衡亦舉駿有專對材。遷諫大夫,使責淮陽憲王。遷趙內史。吉坐昌邑王被刑後,戒子孫毋為王國吏,故駿道病,免官歸。起家復為幽州刺史,遷司隸校尉,奏免丞相匡衡,遷少府。八歲,成帝欲大用之,出駿為京兆尹,試以政事。先是京兆有趙廣漢、張敞、王尊、王章,至駿皆有能名,故京師稱曰:「前有趙、張,後有三王。」而薛宣從左馮翊代駿為少府,會御史大夫缺,谷永奏言:「聖王不以名譽加於實效。考績用人之法,薛宣政事已試。」上然其議。宣為少府月餘,遂超御史大夫,至丞相。駿乃代宣為御史大夫,並居位。六歲病卒,翟方進代駿為大夫。數月,薛宣免,遂代為丞相。眾人為駿恨不得封侯。駿為少府時,妻死,因不復娶,或問之,駿曰:「德非曾參,子非華、元,亦何敢娶?」

王駿の子の王崇は父の任子によって郎となり、刺史、郡守を歴任し、治績に能吏の名声があった。建平三年、河南太守から召し出されて御史大夫となって数か月後、この時成帝の舅である安成恭侯の夫人の放が寡居し、長信宮で養われていたが、呪詛の罪で投獄された。王崇が封事を上奏し、放のために弁護した。放の外戚の解氏は王崇と婚姻関係にあり、哀帝は王崇を不忠誠とみなし、詔書で王崇を責めて言った。「朕は君に累世の美名があるので、順序を越えて登用した。在位以来、忠誠をもって国を正したという話は聞かないのに、反って詐偽の言葉を抱き、旧姻の家を救おうとし、大逆の罪を犯し、挙措専恣で法度に従わず、百官に示すべきものがない」。大司農に左遷され、後に衛尉左将軍に転じた。平帝が即位し、王莽が政権を執ると、大司空の彭宣が老衰を理由に辞任し、王崇が代わって大司空となり、扶平侯に封ぜられた。一年余り後、王崇もまた病気を理由に辞任を願い出た。いずれも王莽を避けたのである。王莽は彼を封国に赴かせた。一年余り後、傅婢に毒を盛られて死去し、封国は除かれた。

原文駿子崇以父任為郎,歷刺史、郡守,治有能名。建平三年,以河南太守徵入為御史大夫數月。是時成帝舅安成恭侯夫人放寡居,共養長信宮,坐祝詛下獄,崇奏封事,為放言。放外家解氏與崇為昏,哀帝以崇為不忠誠,策詔崇曰:「朕以君有累世之美,故踰列次。在位以來,忠誠匡國未聞所繇,反懷詐諼之辭,欲以攀救舊姻之家,大逆之辜,舉錯專恣,不遵法度,亡以示百僚。」左遷為大司農,後徙衛尉左將軍。平帝即位,王莽秉政,大司空彭宣乞骸骨罷,崇代為大司空,封扶平侯。歲餘,崇復謝病乞骸骨,皆避王莽,莽遣就國。歲餘,為傅婢所毒,薨,國除。

王吉から王崇に至るまで、代々清廉で名高かったが、才能や器量の評判は次第に父に及ばなくなり、一方で禄位はますます高くなった。皆、車馬や衣服を好み、自分自身を養うことには極めて鮮明であったが、金銀や錦繡の物は持たなかった。転任や移動の際に運ぶものは、わずかな衣類を袋に詰めただけで、余分な財産を蓄えなかった。官を辞めて家居する時も、布衣に粗食であった。天下はその清廉さに感服すると同時にそのぜいたくを怪しんだので、俗に「王陽は黄金を作ることができる」と伝えられた。

原文自吉至崇,世名清廉,然材器名稱稍不能及父,而祿位彌隆。皆好車馬衣服,其自奉養極為鮮明,而亡金銀錦繡之物。及遷徙去處,所載不過囊衣,不畜積餘財。去位家居,亦布衣疏食。天下服其廉而怪其奢,故俗傳「王陽能作黃金」。

貢禹

原文貢禹

貢禹は字を少翁といい、琅邪の人である。経学に明るく行いが清潔であることで著名となり、博士に徴され、涼州刺史となったが、病気で官を去った。再び賢良に挙げられて河南令となった。一年余り後、職務上のことで府の上官に責められ、冠を脱いで謝罪した。貢禹は言った。「冠を一度脱いだら、どうして再び冠をかぶることができようか」。遂に官を去った。

原文貢禹字少翁,琅邪人也。以明經絜行著聞,徵為博士,涼州刺史,病去官。復舉賢良為河南令。歲餘,以職事為府官所責,免冠謝。禹曰:「冠壹免,安復可冠也!」遂去官。

元帝が即位した初め、貢禹を諫大夫に徴し、しばしば虚心に政事について問うた。この時は年穀が実らず、郡国は多く困窮していた。貢禹は上奏して言った。

原文元帝初即位,徵禹為諫大夫,數虛己問以政事。是時年歲不登,郡國多困,禹奏言:

昔の時代には宮殿や住居に規制があり、宮女は九人を超えず、飼い葉を食べる馬は八頭を超えなかった。壁は塗るだけで彫刻せず、木材は磨くだけで刻まず、車や器物にはすべて文様や絵を施さなかった。苑囿(庭園)は数十里を超えず、民衆と共有した。賢者を任用し有能な者を使い、十分の一の税を課し、それ以外の賦役や徴兵、労役はなく、民衆の労役は年に三日を超えず、千里以内は自給自足とし、千里以外はそれぞれ貢物の役目を定めただけだった。それゆえ天下の家々は豊かで人々は満ち足り、賛美の声が一斉に起こったのである。

原文古者宮室有制,宮女不過九人,秣馬不過八匹;牆塗而不琱,木摩而不刻,車輿器物皆不文畫,苑囿不過數十里,與民共之;任賢使能,什一而稅,亡它賦斂繇戍之役,使民歲不過三日,千里之內自給,千里之外各置貢職而已。故天下家給人足,頌聲並作。

高祖、孝文皇帝、孝景皇帝の時代に至っても、古の倹約を踏襲し、宮女は十余人を超えず、厩舎の馬は百余頭だった。孝文皇帝は粗末な絹の衣を着て革の靴を履き、器物には彫刻や文様、金銀の装飾がなかった。後世になると奢侈を競い、次第にますます甚だしくなり、臣下たちも互いに模倣し、衣服や靴、刀剣が君主のものを乱すようになった。君主が朝廷に出たり宗廟に入ったりするとき、人々は区別がつかず、まったくふさわしくなかった。しかし、自分が奢侈で分を越えていると自覚しているわけではなく、ちょうど魯の昭公が「私は何が分を越えているのか?」と言ったようなものである。

原文至高祖、孝文、孝景皇帝,循古節儉,宮女不過十餘,廄馬百餘匹。孝文皇帝衣綈履革,器亡琱文金銀之飾。後世爭為奢侈,轉轉益盛,臣下亦相放效,衣服履恊刀劍亂於主上,主上時臨朝入廟,眾人不能別異,甚非其宜。然非自知奢僭也,猶魯昭公曰:「吾何僭矣?」

今、大夫は諸侯の分を越え、諸侯は天子の分を越え、天子は天道を越えており、その状態は長く続いている。衰退を継ぎ乱れを救い、古の教化を正しく復活させることは、陛下にかかっている。臣の愚かな考えでは、太古のままに完全に倣うことは難しいので、少し古に倣って自ら節制すべきである。『論語』に「君子は礼楽を節することを楽しむ」とある。現在、宮殿はすでに定まっており、どうしようもないが、その他はすべて削減できる。昔、斉の三服官が納める物品は十笥を超えなかったが、現在の斉の三服官ではそれぞれ数千人の工人を抱え、一年の費用は数億万にのぼる。蜀や広漢では金銀器を主管し、それぞれ年に五百万を使う。三工官の費用は五千万、東西の織室も同様である。厩舎の馬が粟を食べるのはほぼ一万頭に及ぶ。臣の禹はかつて東宮に随行したとき、賜わった杯や膳を見たが、すべて文様や絵が施され金銀で装飾されており、臣下に食事を賜うのにふさわしいものではなかった。東宮の費用も数えきれないほどである。天下の民が大いに飢えて死ぬのは、このためである。今、民は大いに飢えて死に、死んでも埋葬されず、犬や豚に食べられている。人々がついに人肉を食うほどなのに、厩舎の馬は粟を食べ、肥えすぎて苦しみ、気性が荒く興奮しやすいので、毎日歩かせて運動させている。王者は天から命を受け、民の父母である。果たしてこのようであるべきだろうか!天は見ていないのか?武帝の時代には、また多くの美女を数千人も取り、後宮を満たした。そして天下を去るとき、昭帝は幼弱で、霍光が専権を握り、礼の正道を知らず、むやみに多くの金銭財物、鳥獣魚鱉牛馬虎豹の生き物、合わせて百九十種類のものをすべて埋蔵した。また、後宮の女たちをすべて園陵に置いたのは、大いに礼を失い、天の心に逆らい、また必ずしも武帝の意にかなうものではなかった。昭帝が崩御すると、霍光はまた同じことを行った。孝宣皇帝の時代に至っても、陛下は何もおっしゃらず、群臣もまた先例に従った。まことに痛ましいことである!それゆえ天下がその風化を受け継ぎ、娶る女が皆大きく度を越え、諸侯の妻妾は数百人に及ぶものもあり、豪富な官吏や民衆が歌い手を養うのは数十人に及び、それゆえ内には怨みを抱く女が多く、外には妻のいない男が多い。また、庶民の葬埋もすべて、地上を空虚にして地下を満たすようなものである。その過ちは上から生じ、すべて大臣が先例に従う罪である。

原文今大夫僭諸侯,諸侯僭天子,天子過天道,其日久矣。承衰救亂,矯復古化,在於陛下。臣愚以為盡如太古難,宜少放古以自節焉。論語曰:「君子樂節禮樂。」方今宮室已定,亡可奈何矣,其餘盡可減損。故時齊三服官輸物不過十笥,方今齊三服官作工各數千人,一歲費數鉅萬。蜀廣漢主金銀器,歲各用五百萬。三工官官費五千萬,東西織室亦然。廄馬食粟將萬匹。臣禹嘗從之東宮,見賜杯案,盡文畫金銀飾,非當所以賜食臣下也。東宮之費亦不可勝計。天下之民所為大飢餓死者,是也。今民大飢而死,死又不葬,為犬豬所食。人至相食,而廄馬食粟,苦其大肥,氣盛怒至,乃日步作之。王者受命於天,為民父母,固當若此乎!天不見邪?武帝時,又多取好女至數千人,以填後宮。及棄天下,昭帝幼弱,霍光專事,不知禮正,妄多臧金錢財物,鳥獸魚鱉牛馬虎豹生禽,凡百九十物,盡瘞臧之,又皆以後宮女置於園陵,大失禮,逆天心,又未必稱武帝意也。昭帝晏駕,光復行之。至孝宣皇帝時,陛下烏有所言,群臣亦隨故事,甚可痛也!故使天下承化,取女皆大過度,諸侯妻妾或至數百人,豪富吏民畜歌者至數十人,是以內多怨女,外多曠夫。及眾庶葬埋,皆虛地上以實地下。其過自上生,皆在大臣循故事之罪也。

どうか陛下には古の道を深く考察し、その倹約に従い、乗り物や衣服、器物を大いに削減し、三分の二を取り除かれるよう。子産は「多少は天命による」と言った。後宮を詳しく調べ、その賢い者を選んで二十人を留め、残りはすべて帰すべきである。また、諸陵園で子のない女は、すべて送り返すべきである。ただ杜陵の宮女は数百人おり、誠に哀れむべきである。厩舎の馬は数十頭を超えないようにすべきである。ただ長安城南の苑地だけを残して田猟の園とし、城の西南から山に至り、西は鄠に至るまでの土地をすべて農地に戻し、貧民に与えるべきである。現在、天下は飢饉にある。大いに自ら損減してこれを救い、天の意にかなうようにすべきではないか?天が聖人を生むのは、万民のためであり、ただ自ら楽しませるためだけではない。それゆえ『詩経』に「天は信じがたい、王となることは容易ではない」「上帝は汝に臨みたもう、お前の心に二心を持つな」とある。「仁に当たっては譲らない」のであり、ただ聖なる心をもって天地と照らし合わせ、古をはかり、臣下と議論すべきではない。もしも意向に迎合し、指図に従い、君主の上下に付き従うならば、臣の禹は誠意を尽くし、愚かな心を尽くさずにはいられない。

原文唯陛下深察古道,從其儉者,大減損乘輿服御器物,三分去二。子產多少有命,審察後宮,擇其賢者留二十人,餘悉歸之。及諸陵園女亡子者,宜悉遣。獨杜陵宮人數百,誠可哀憐也。廄馬可亡過數十匹。獨舍長安城南苑地以為田獵之囿,自城西南至山西至鄠皆復其田,以與貧民。方今天下飢饉,可亡大自損減以救之,稱天意乎?天生聖人,蓋為萬民,非獨使自娛樂而已也。故《詩》曰:「天難諶斯,不易惟王;」「上帝臨女,毋貳爾心。」「當仁不讓」,獨可以聖心參諸天地,揆之往古,不可與臣下議也。若其阿意順指,隨君上下,臣禹不勝拳拳,不敢不盡愚心。

天子はその忠誠を良しとし、詔を下して太僕に穀物を食べる馬を減らさせ、水衡に肉を食べる獣を減らさせ、宜春下苑を削減して貧民に与え、また角抵などの見世物や斉の三服官を廃止した。禹を光禄大夫に昇進させた。

原文天子納善其忠,乃下詔令太僕減食穀馬,水衡減食肉獸,省宜春下苑以與貧民,又罷角抵諸戲及齊三服官。遷禹為光祿大夫。

しばらくして、禹が上書して言った。「臣の禹は年老いて貧窮し、家財は一万銭に満たず、妻子は豆さえ満足に食べられず、粗末な衣服も整っていません。百三十畝の田がありましたが、陛下が過分にも臣を召し出されたので、臣は百畝の田を売って車馬の費用に充てました。都に着き、諫大夫に任じられ、秩禄八百石、月俸九千二百銭を賜わりました。太官から食糧を支給され、また四季のさまざまな絹織物、綿、衣服、酒肉、諸々の果物を賞賜され、ご恩は非常に厚く深いものでした。病気のときには侍医が診療に来られ、陛下の神霊のおかげで、死なずに生き延びることができました。また光禄大夫に任じられ、秩禄二千石、月俸一万二千銭を賜わりました。禄と賞賜がますます多く、家は日々豊かになり、身は日々尊ばれますが、誠に茅屋に住む愚かな臣が受けるべきものではありません。ひそかに思うに、終いに厚恩に報いることができず、日夜慚愧するばかりです。臣の禹は犬馬の齢八十一歳、血気は衰え尽き、耳も目もはっきりせず、もはや補い益すことができず、いわゆる素餐尸禄で朝廷を汚す臣です。家を離れて三千里も離れ、ただ一人の子がおり、年は十二歳で、家にいて臣のために棺やひつぎを用意する者もおりません。誠に恐れるのは、一旦倒れて気力が尽き、再び自ら帰ることができず、宮室の敷物を汚し、骸骨を棄てられ、孤魂となって帰れなくなることです。私の願いを抑えきれず、骸骨を乞い、生きているうちに故郷に帰り、死んでも恨みを残さないようにしたいと願います。」

原文頃之,禹上書曰:「臣禹年老貧窮,家訾不滿萬錢,妻子㐄豆不贍,裋褐不完。有田百三十畝,陛下過意徵臣,臣賣田百畝以供車馬。至,拜為諫大夫,秩八百石,奉錢月九千二百。廩食太官,又蒙賞賜四時雜繒綿絮衣服酒肉諸果物,德厚甚深。疾病侍醫臨治,賴陛下神靈,不死而活。又拜為光祿大夫,秩二千石,奉錢月萬二千。祿賜愈多,家日以益富,身日以益尊,誠非屮茅愚臣所當蒙也。伏自念終亡以報厚恩,日夜慚愧而已。臣禹犬馬之齒八十一,血氣衰竭,耳目不聰明,非復能有補益,所謂素餐尸祿洿朝之臣也。自痛去家三千里,凡有一子,年十二,非有在家為臣具棺槨者也。誠恐一旦蹎仆氣竭,不復自還,洿席薦於宮室,骸骨棄捐,孤魂不歸。不勝私願,願乞骸骨,及身生歸鄉里,死亡所恨。」

天子は答えて言った。「朕は、お前に伯夷の清廉さと史魚の直諫の心があり、経典を守り古に拠り、当世に迎合せず、民のために孜々として励む、俗世には稀な人物であると思い、それゆえお前に親しく近づき、ほとんど国政に参与させようとした。今、まだお前の優れた議論を長く聞くことができていないのに、退こうと言うのは、何か恨みがあるのか?それとも在位の者たちがお前と違うのか?以前、金敞にお前に伝えさせ、お前が生きているうちにお前の子に禄を与えようとしたが、すでに伝えたはずだ。今また子が少ないと言う。王命をもってお前の家を保護するならば、たとえ百人の子がいても何が加わるというのか?伝に『故郷を懐かしむな』とある。必ずしも故郷を思う必要はない。お前はしっかり食事をし、病気に注意して自らを養え。」その後一か月余りして、禹を長信少府に任じた。ちょうど御史大夫の陳万年が死去したので、禹が代わって御史大夫となり、三公の列に加わった。

原文天子報曰:「朕以生有伯夷之廉,史魚之直,守經據古,不阿當世,孳孳於民,俗之所寡,故親近生,幾參國政。今未得久聞生之奇論也,而云欲退,意豈有所恨與?將在位者與生殊乎?往者嘗令金敞語生,欲及生時祿生之子,既已諭矣,今復云子少。夫以王命辨護生家,雖百子何以加?傳曰亡懷土,何必思故鄉!生其強飯慎疾以自輔。」後月餘,以禹為長信少府。會御史大夫陳萬年卒,禹代為御史大夫,列於三公。

禹が在位して以来、たびたび得失を言い、数十回上書した。禹は、古の民には賦算や口銭がなく、武帝が四夷を征伐し、民に重い賦税を課したことから始まり、民は子を産んで三歳になると口銭を納めなければならず、それゆえ民は非常に困窮し、子を産むとすぐに殺すほどで、まことに悲痛であると考えた。七歳で歯が生え替わってから口銭を納めさせ、二十歳になってから算賦を課すようにすべきである。

原文自禹在位,數言得失,書數十上。禹以為古民亡賦算口錢,起武帝征伐四夷,重賦於民,民產子三歲則出口錢,故民重困,至於生子輒殺,甚可悲痛。宜令兒七歲去齒乃出口錢,年二十乃算。

また、古代においては金銭を通貨とせず、専ら農業に力を注いだため、一人の農夫が耕作しなければ、必ず飢えに苦しむ者がいたと言う。今、漢王朝が貨幣を鋳造し、また諸鉄官には皆、役人や兵士、労役者を配置して、山を切り開き銅や鉄を採取しているが、一年の作業に十万人以上が従事している。中程度の農夫が七人を養えるとすれば、これは七十万人が常に飢えに苦しんでいることになる。地を数百丈も掘り、陰気の精華を消耗させれば、大地の蔵は空虚となり、気を含んで雲を生み出すことができなくなる。林木を伐採するにも時節の禁制がなく、水害や旱魃の災いは、これに起因しないとは限らない。五銖銭が始まって以来七十余年、民は私鋳銭の罪で刑罰を受ける者が多く、富者は部屋いっぱいに銭を蓄えても、なお飽き足りない。民心は動揺し、商人は利を求めて東西南北に知恵と巧みさを駆使し、良い衣服と美食を楽しみ、年に十二分の利益を得ながら、租税を納めない。農夫の父子は野原に身を曝し、寒暑を避けず、草を引き、土をかき集め、手足に硬い繭を作り、すでに穀物の租税を納めているのに、さらに藁税を出し、郷や地方の役人の私的な要求は、とても供給しきれない。それゆえ、民は本業を捨てて末業に走り、耕作する者は半分にも満たない。貧民はたとえ田を与えられても、安く売って商売に走り、窮すれば盗賊となる。なぜか。末業の利益が深く、銭に惑わされるからである。このように、奸邪を禁じることができないのは、その根源は皆、銭から起こっている。末業を憎むならばその根本を断つべきであり、珠玉や金銀を採掘し銭を鋳造する官を廃止し、もはやそれらを通貨とすべきではない。市場で販売することを許さず、租銖の法律を除き、租税や禄、賜与は全て布帛や穀物で行うこと。そうすれば、百姓は一様に農業に帰り、古の道に戻すのが適切である。

原文又言古者不以金錢為幣,專意於農,故一夫不耕,必有受其飢者。今漢家鑄錢,及諸鐵官皆置吏卒徒,攻山取銅鐵,一歲功十萬人已上,中農食七人,是七十萬人常受其飢也。鑿地數百丈,銷陰氣之精,地臧空虛,不能含氣出雲,斬伐林木亡有時禁,水旱之災未必不繇此也。自五銖錢起已來七十餘年,民坐盜鑄錢被刑者眾,富人積錢滿室,猶亡厭足。民心搖動,商賈求利,東西南北各用智巧,好衣美食,歲有十二之利,而不出租稅。農夫父子暴露中野,不避寒暑,捽屮杷土,手足胼胝,已奉穀租,又出槁稅,鄉部私求,不可勝供。故民棄本逐末,耕者不能半。貧民雖賜之田,猶賤賣以賈,窮則起為盜賊。何者?末利深而惑於錢也。是以姦邪不可禁,其原皆起於錢也。疾其末者絕其本,宜罷採珠玉金銀鑄錢之官,亡復以為幣。市井勿得販賣,除其租銖之律,租稅祿賜皆以布帛及穀。使百姓壹歸於農,復古道便。

また、諸離宮や長楽宮の衛兵はその大半を減らし、徭役を軽減すべきだと述べた。また、諸官の奴婢十万余人が遊び戯れて何もせず、善良な民から税を取って彼らを養い、年間費用が五六巨万にもなるので、彼らを庶人に免じ、食糧を与え、関東の戍卒に代わって、北方辺境の亭や塞で見張りをさせよと述べた。

原文又言諸離宮及長樂宮衛可減其太半,以寬繇役。又諸官奴婢十萬餘人戲遊亡事,稅良民以給之,歲費五六鉅萬,宜免為庶人,廩食,令代關東戍卒,乘北邊亭塞候望。

また、近臣で諸曹や侍中以上の者は、家で私的に販売して民と利益を争うことを許さず、違反した者は直ちに免官・爵位剥奪とし、官吏に任用されないようにせよと提案した。貢禹はさらに言った。

原文又欲令近臣自諸曹侍中以上,家亡得私販賣,與民爭利,犯者輒免官削爵,不得仕宦。禹又言:

孝文皇帝の時代には、廉潔を尊び、貪汙を賤しみ、商人や入り婿、および贓物罪で処罰された官吏は皆、官吏になることを禁じられた。善を賞し悪を罰し、親戚にもへつらわず、罪が明白な者はその誅罰を受け、疑わしい者は民に委ね、贖罪の法はなかった。それゆえ、命令は行き渡り禁止は守られ、国内は大いに教化され、天下の裁判件数は四百件で、刑罰が不用になるのと変わらなかった。武帝が天下を治め始めた時、賢者を尊び士を用い、数千里にわたって土地を開拓し境域を広げたが、自ら功績が大きく威令が行き渡ったのを見て、遂に嗜欲に従い、費用が不足すると、一時的な変法を行い、法を犯した者に贖罪を許し、穀物を納めた者を官吏に補任した。それゆえ、天下は奢侈に走り、官吏は乱れ民は貧しくなり、盗賊が一斉に起こり、逃亡者が多くなった。郡国はその誅罰を受けるのを恐れ、便利で巧みに文書を書き、計簿に習熟し、上役の官府を欺ける者を選んで、重要な職務に就けた。奸悪が抑えきれなくなると、勇猛で百姓を厳しく取り締まることができ、苛酷で暴虐をもって下を威圧して服従させる者を取って、高位に就けた。それゆえ、義はなくとも財産のある者は世に顕れ、欺瞞に長け文書が巧みな者は朝廷で尊ばれ、道理に背き勇猛な者は官職で貴ばれた。それゆえ、世間の風潮は皆こう言った。「どうして孝悌が必要か。財産が多ければ栄光だ。どうして礼義が必要か。文書ができれば官吏になれる。どうして謹慎が必要か。勇猛であれば官職に就ける。」それゆえ、黥や劓の刑を受け、髪を剃られ首枷をはめられた者でさえ、なお腕まくりして世の中で政治を行い、行いは犬や豚のようでも、家が富み勢力が十分であれば、目で指図し気で使う、それが賢者だとされた。それゆえ、官職に就いて富を築く者を雄傑と呼び、奸悪に身を置いて利益を得る者を壮士と呼び、兄は弟を勧め、父は子を励ます。風俗が壊れ乱れること、ここに至ったのである。その所以を考察すれば、皆、法を犯しても贖罪ができ、士を求めても真の賢者を得られず、丞相や太守が財利を尊び、誅罰が実行されなかったことに起因するのである。

原文孝文皇帝時,貴廉絜,賤貪汙,賈人贅婿及吏坐贓者皆禁錮不得為吏,賞善罰惡,不阿親戚,罪白者伏其誅,疑者以與民,亡贖罪之法,故令行禁止,海內大化,天下斷獄四百,與刑錯亡異。武帝始臨天下,尊賢用士,闢地廣境數千里,自見功大威行,遂從耆欲,用度不足,乃行壹切之變,使犯法者贖罪,入穀者補吏,是以天下奢侈,官亂民貧,盜賊並起,亡命者眾。郡國恐伏其誅,則擇便巧史書習於計簿能欺上府者,以為右職;姦軌不勝,則取勇猛能操切百姓者,以苛暴威服下者,使居大位。故亡義而有財者顯於世,欺謾而善書者尊於朝,誖逆而勇猛者貴於官。故俗皆曰:「何以孝弟為?財多而光榮。何以禮義為?史書而仕宦。何以謹慎為?勇猛而臨官。」故黥劓而髡鉗者猶復攘臂為政於世,行雖犬彘,家富勢足,目指氣使,是為賢耳。故謂居官而置富者為雄桀,處姦而得利者為壯士,兄勸其弟,父勉其子,俗之壞敗,乃至於是!察其所以然者,皆以犯法得贖罪,求士不得真賢,相守崇財利,誅不行之所致也。

今、最高の政治を興し、太平をもたらそうとするならば、贖罪の法を除くべきである。丞相や太守が実情に合わない者を選挙し、あるいは贓物罪を犯した者は、直ちにその誅罰を行い、単に免官するだけでは済まさなければ、皆が善を行おうと争って尽力し、孝悌を尊び、商人を賤しみ、真の賢者を登用し、実直で廉潔な者を挙げるようになり、天下は治まるであろう。孔子は、ただの一匹夫に過ぎないが、道を楽しみ身を正すことを怠らなかったゆえに、四海の内、天下の君主で、孔子の言を微かにして判断の基準としない者はなかった。ましてや、漢の土地の広さ、陛下の徳、南面の尊位にあり、万乗の権力を握り、天地の助けを借りて、世を変え俗を易え、陰陽を調和し、万物を陶冶し、天下を教化して正すことは、流れを決壊させたり堤防を抑えたりするよりも容易である。成康の時代以来、ほぼ千年、政治を行おうとする者は非常に多かったが、太平が再び興らなかったのは、なぜか。法度を捨てて私意に任せ、奢侈が行われ仁義が廃れたからである。

原文今欲興至治,致太平,宜除贖罪之法。相守選舉不以實,及有臧者,輒行其誅,亡但免官,則爭盡力為善,貴孝弟,賤賈人,進真賢,舉實廉,而天下治矣。孔子,匹夫之人耳,以樂道正身不解之故,四海之內,天下之君,微孔子之言亡所折中。況乎以漢地之廣,陛下之德,處南面之尊,秉萬乘之權,因天地之助,其於變世易俗,調和陰陽,陶冶萬物,化正天下,易於決流抑隊。自成康以來,幾且千歲,欲為治者甚眾,然而太平不復興者,何也?以其舍法度而任私意,奢侈行而仁義廢也。

陛下が真に高祖の苦労を深く思い、太宗の治世の法を純粋に守り、自らを正して臣下に範を示し、賢者を選んで自らを補佐させ、忠正な者を登用し進め、奸臣を誅罰に至らしめ、諂佞の者を遠くに放逐し、園陵の女を放出し、倡楽を廃止し、鄭声を絶ち、甲乙の帳を去り、偽り薄っぺらな物を退け、節倹の教化を修め、天下の民を皆、農業に帰らせれば、このように怠らなければ、三王に並び、五帝に及ぶことができる。どうか陛下が留意してご考察くださることを願う。天下の幸いこれに過ぎることはない。

原文陛下誠深念高祖之苦,醇法太宗之治,正己以先下,選賢以自輔,開進忠正,致誅姦臣,遠放諂佞,放出園陵之女,罷倡樂,絕鄭聲,去甲乙之帳,退偽薄之物,修節儉之化,驅天下之民皆歸於農,如此不解,則三王可侔,五帝可及。唯陛下留意省察,天下幸甚。

天子はその議論を下して検討させ、民が子を産んで七歳になってから口銭を納めるようにし、これが始まりとなった。また、上林の宮館でめったに臨幸されないものや、建章宮・甘泉宮の衛兵を減らし、諸侯王の廟の衛兵を半分に減らした。その他の意見は全て従わなかったが、その質朴で率直な意見を賞賛した。貢禹はまた、郡国の廟を廃止し、漢の宗廟の迭毀の礼を定めようと上奏したが、いずれも施行されなかった。

原文天子下其議,令民產子七歲乃出口錢,自此始。又罷上林宮館希幸御者,及省建章、甘泉宮衛卒,減諸侯王廟衛卒省其半。餘雖未盡從,然嘉其質直之意。禹又奏欲罷郡國廟,定漢宗廟迭毀之禮,皆未施行。

御史大夫になって数か月で死去した。天子は百万の銭を賜い、その子を郎とし、官は東郡都尉に至った。貢禹の死後、皇帝はその議論を追憶し、ついに詔を下して郡国の廟を廃止し、迭毀の礼を定めた。詳細は韋玄成伝にある。

原文為御史大夫數月卒,天子賜錢百萬,以其子為郎,官至東郡都尉。禹卒後,上追思其議,竟下詔罷郡國廟,定迭毀之禮。語在韋玄成傳。

両龔

原文兩龔

両龔はともに楚の人である。勝は字を君賓、舍は字を君倩という。二人は互いに友となり、ともに名節で知られたので、世間では楚の両龔と呼んだ。若い頃からともに学問を好み経書に明るく、勝は郡の吏となったが、舍は仕官しなかった。

原文兩龔皆楚人也,勝字君賓,舍字君倩。二人相友,並著名節,故世謂之楚兩龔。少皆好學明經,勝為郡吏,舍不仕。

長い時が経ち、楚王が入朝した際、龔舍の高名を聞き、彼を常侍として招聘した。龔舍はやむを得ず王に従ったが、帰国すると固辞し、学業を終えたいと願い、再び長安へ赴いた。一方、龔勝は郡の役人となり、三度孝廉に推挙されたが、王国の人間であるため宿衛に補せられず、役人に補任されることができなかった。二度尉に、一度丞に任じられたが、龔勝は着任するとすぐに去った。州から茂材に推挙され、重泉県令となったが、病気で官を辞した。大司空の何武と執金吾の閻崇が龔勝を推薦した。哀帝は定陶王であった頃からすでにその名を聞いていたので、諫大夫として招聘した。引見されると、龔勝は龔舍および亢父の甯寿、済陰の侯嘉を推薦した。詔勅により皆が招聘された。龔勝は言った。「ひそかに拝見しますに、国家が医者や巫を招聘する際は、常に車駕を用意します。賢者を招聘する際も、車駕を用意すべきです。」上(哀帝)は言った。「大夫は私車で来たのか?」龔勝は答えた。「はい、そうです。」詔勅により車駕が用意された。龔舍と侯嘉が到着し、ともに諫大夫となった。甯寿は病気と称して来なかった。

原文久之,楚王入朝,聞舍高明,聘舍為常侍,不得已隨王,歸國固辭,願卒學,復至長安。而勝為郡吏,三舉孝廉,以王國人不得宿衛補吏。再為尉,壹為丞,勝輒至官乃去。州舉茂材,為重泉令,病去官。大司空何武、執金吾閻崇薦勝,哀帝自為定陶王固已聞其名,徵為諫大夫。引見,勝薦龔舍及亢父甯壽、濟陰侯嘉,有詔皆徵。勝曰:「竊見國家徵醫巫,常為駕,徵賢者宜駕。」上曰:「大夫乘私車來邪?」勝曰:「唯唯。」有詔為駕。龔舍、侯嘉至,皆為諫大夫。甯壽稱疾不至。

龔勝は諫官の職にあり、たびたび上書して謁見を求め、民衆が貧しく、盗賊が多く、役人が不良で、風俗が薄っぺらく、災異が頻繁に現れていると述べ、憂慮せねばならないと主張した。制度はあまりに奢侈で、刑罰はあまりに厳しく、租税の取り立てはあまりに重い。倹約をもって率先して示すべきである、と。その言は王吉と貢禹の意を祖述するものであった。大夫となって二年余り、丞相司直に転じ、光禄大夫に移り、右扶風を守った。数か月後、皇帝は龔勝が煩雑な事務を処理する官吏ではないと知り、再び龔勝を光禄大夫・諸吏・給事中に戻した。龔勝が董賢が制度を乱していると発言したため、これによって上意に逆らうこととなった。

原文勝居諫官,數上書求見,言百姓貧,盜賊多,吏不良,風俗薄,災異數見,不可不憂。制度泰奢,刑罰泰深,賦斂泰重,宜以儉約先下。其言祖述王吉、貢禹之意。為大夫二歲餘,遷丞相司直,徙光祿大夫,守右扶風。數月,上知勝非撥煩吏,乃復還勝光祿大夫諸吏給事中。勝言董賢亂制度,繇是逆上指。

その後一年余りして、丞相の王嘉が上書して元廷尉の梁相らを推薦した。尚書が弾劾上奏して「事を言うに恣意であり、国を迷わせ君を欺き、不道である」とした。将軍や朝臣に下して議論させたところ、左将軍の公孫禄、司隷の鮑宣、光禄大夫の孔光ら十四人皆が、王嘉は迷国不道の法に応じるべきだと認めた。龔勝だけが意見書を提出して言った。「王嘉の資質性格は邪僻であり、推薦する者は多くが貪婪で残忍な官吏である。三公の地位にありながら、陰陽が調和せず、諸事ともに廃れている。その咎は全て王嘉によるものであり、国を迷わせていることに疑いはない。しかし今、梁相らを推薦した過失は微々たるものである。」日暮れに議論する者たちは解散した。翌朝再び会合が開かれた。左将軍の公孫禄が龔勝に尋ねた。「君の議論は根拠がない。今、上奏すべき段階だが、どうすべきか?」龔勝は言った。「将軍が私の議論を認められないなら、一緒に弾劾してください。」博士の夏侯常は龔勝の公孫禄への応答が不穏当であると見て、立ち上がって龔勝の前に来て言った。「上奏文に言う通りにすべきです。」龔勝は手で夏侯常を押しのけて言った。「行け!」

原文後歲餘,丞相王嘉上書薦故廷尉梁相等,尚書劾奏嘉「言事恣意,迷國罔上,不道。」下將軍中朝者議,左將軍公孫祿、司隸鮑宣、光祿大夫孔光等十四人皆以為嘉應迷國不道法。勝獨書議曰:「嘉資性邪僻,所舉多貪殘吏。位列三公,陰陽不和,諸事並廢,咎皆繇嘉,迷國不疑,今舉相等,過微薄。」日暮議者罷。明旦復會,左將軍祿問勝:「君議亡所據,今奏當上,宜何從?」勝曰:「將軍以勝議不可者,通劾之。」博士夏侯常見勝應祿不和,起至勝前謂曰:「宜如奏所言。」勝以手推常曰:「去!」

数日後、再び会議が開かれ、孝恵皇帝と孝景皇帝の廟を復すべきかどうかが議論された。議論する者たちは皆、復すべきだと言った。龔勝は言った。「礼の通りにすべきです。」夏侯常が再び龔勝に言った。「礼にも変わる時があります。」龔勝は声を荒げて言った。「行け!それは時の変化だ。」夏侯常は憤慨し、龔勝に言った。「私は君をどう見ていると思う?君は少しばかり衆と異なりたいだけで、外見上名声を採ろうとしている。君は申徒狄の類いだ!」

原文後數日,復會議可復孝惠、孝景廟不,議者皆曰宜復。勝曰:「當如禮。」常復謂勝:「禮有變。」勝疾言曰:「去!是時之變。」常恚,謂勝曰:「我視君何若,君欲小與眾異,外以采名,君乃申徒狄屬耳!」

この前に、夏侯常はまた龔勝に、高陵に母を殺した者がいると話していた。龔勝がこれを上申した。尚書が尋ねた。「誰から聞いたか?」龔勝は答えた。「夏侯常からです。」尚書が龔勝に夏侯常を問いたださせた。夏侯常は龔勝を恨み続けており、すぐに応えて言った。「白衣(無官の者)から聞きましたが、君には言うなと戒められていました。事を奏上するのに詳らかでなく、妄りに発言して罪に触れるのです。」龔勝は窮し、尚書に対して返答する言葉がなく、すぐに自らを弾劾上奏し、夏侯常と口論し、朝廷を汚辱したとした。事は御史中丞に下され、召喚して詰問され、弾劾上奏された。「龔勝は二千石の吏、夏侯常は大夫の位にあり、ともに幸いにも給事中となり、議論に参与しているのに、礼義を尊ばず、公門の下で互いに非難し恨み合い、激しい言葉で論争し、怠慢で無礼な振る舞いであり、皆不敬である。」詔勅が下った。「秩をそれぞれ一等貶ずる。」龔勝は謝罪し、骸骨を乞うた。上(哀帝)はさらに賞賜を加え、子の龔博を侍郎とし、龔勝を渤海太守として出向させた。龔勝は病気と称してその官に就くことができないとし、六か月が経って免職となり帰郷した。

原文先是常又為勝道高陵有子殺母者。勝白之,尚書問:「誰受?」對曰:「受夏侯常。」尚書使勝問常,常連恨勝,即應曰:「聞之白衣,戒君勿言也。奏事不詳,妄作觸罪。」勝窮,亡以對尚書,即自劾奏與常爭言,洿辱朝廷。事下御史中丞,召詰問,劾奏「勝吏二千石,常位大夫,皆幸得給事中,與論議,不崇禮義,而居公門下相非恨,疾言辯訟,惰謾亡狀,皆不敬。」制曰:「貶秩各一等。」勝謝罪,乞骸骨。上乃復加賞賜,以子博為侍郎,出勝為渤海太守。勝謝病不任之官,積六月免歸。

(哀帝)は再び龔勝を光禄大夫として招聘した。龔勝は常に病気と称して臥せっていた。たびたび子を使者として上書させて骸骨を乞うたが、ちょうど哀帝が崩御した。

原文上復徵為光祿大夫。勝常稱疾臥。數使子上書乞骸骨,會哀帝崩。

初め、琅邪の邴漢もまた清廉な行いによって招聘され用いられ、京兆尹に至り、後に太中大夫となった。王莽が政権を執ると、龔勝と邴漢はともに骸骨を乞うた。昭帝の時以来、涿郡の韓福が德行によって招聘されて京師に至り、策書と束帛を賜って帰郷させられていた。詔にはこうあった。「朕は官職の事で労するのを憫れむ。その務めは孝悌を修めて郷里を教えることにある。道を行く時は伝舎に宿り、県ごとに酒肉を備え、従者と馬に食事を与えよ。長吏は時折見舞い、常に歳の八月に羊一頭、酒二斛を賜う。不幸にして死した場合は、複衾一枚を賜い、中牢をもって祭祀せよ。」そこで王莽は故事に依り、龔勝と邴漢を送り出すことを上奏した。策書にはこうあった。「惟れ元始二年六月庚寅、光禄大夫・太中大夫の耆艾二人、老病により罷む。太皇太后、謁者僕射を使わし、策詔して曰く、聞くところによれば、古くは有司も年が至れば致仕し、もって恭譲にしてその力を尽くさなかったという。今、大夫は年が至った。朕は官職の事をもって大夫を煩わせるを愍れむ。その上、子あるいは孫、あるいは同産(兄弟)、同産子一人を挙げよ。大夫はその身を修め道を守り、もって高年を終えよ。帛および行道の舎宿を賜い、歳時の羊酒衣衾は、皆韓福の故事の如くせよ。挙げたる子男は皆郎に除す。」そこで龔勝と邴漢は遂に郷里に帰って老いた。邴漢の兄の子の曼容もまた志を養い自ら修め、官は六百石を過ぎることを肯んぜず、すぐに自ら免職して去った。その名声は邴漢を超えていた。

原文初,琅邪邴漢亦以清行徵用,至京兆尹,後為太中大夫。王莽秉政,勝與漢俱乞骸骨。自昭帝時,涿郡韓福以德行徵至京師,賜策書束帛遣歸。詔曰:「朕閔勞以官職之事,其務修孝弟以教鄉里。行道舍傳舍,縣次具酒肉,食從者及馬。長吏以時存問,常以歲八月賜羊一頭,酒二斛。不幸死者,賜複衾一,祠以中牢。」於是王莽依故事,白遣勝、漢。策曰:「惟元始二年六月庚寅,光祿大夫、太中大夫耆艾二人以老病罷。太皇太后使謁者僕射策詔之曰:蓋聞古者有司年至則致仕,所以恭讓而不盡其力也。今大夫年至矣,朕愍以官職之事煩大夫,其上子若孫若同產、同產子一人。大夫其修身守道,以終高年。賜帛及行道舍宿,歲時羊酒衣衾,皆如韓福故事。所上子男皆除為郎。」於是勝、漢遂歸老于鄉里。漢兄子曼容亦養志自修,為官不肯過六百石,輒自免去,其名過出於漢。

初め、龔舍は龔勝の推薦により、諫大夫として招聘されたが、病気で免職となった。再び博士として招聘されたが、また病気で去った。まもなく、哀帝は使者を遣わして楚に至り、龔舍を太山太守に任命した。龔舍の家は武原にあった。使者が県に来て龔舍を請い、朝廷まで来て印綬を授かるようにさせようとした。龔舍は言った。「王者は天下を家とする。どうして必ず県官(朝廷)でなければならないのか?」そこで家で詔勅を受け、そのまま官に赴いた。着任して数か月後、上書して骸骨を乞うた。上(哀帝)は龔舍を招聘し、京兆の東湖の境界まで来たが、龔舍は固く病が重いと称した。天子は使者に印綬を回収させ、龔舍を光禄大夫に任命した。たびたび告(休暇)を賜ったが、龔舍は終に起き上がろうとせず、ついに帰郷させられた。

原文初,龔舍以龔勝薦,徵為諫大夫,病免。復徵為博士,又病去。頃之,哀帝遣使者即楚拜舍為太山太守。舍家居在武原,使者至縣請舍,欲令至廷拜授印綬。舍曰:「王者以天下為家,何必縣官?」遂於家受詔,便道之官。既至數月,上書乞骸骨。上徵舍,至京兆東湖界,固稱病篤。天子使使者收印綬,拜舍為光祿大夫。數賜告,舍終不肯起,乃遣歸。

龔舍もまた五経に通じ、魯詩を教授した。龔舍と龔勝が郷里に帰ると、郡の二千石の長吏は初めて官に着任する際、皆その家を訪れ、師弟の礼の如くした。龔舍は六十八歳で、王莽が居摂していた時に卒した。

原文舍亦通五經,以魯詩教授。舍、勝既歸鄉里,郡二千石長吏初到官皆至其家,如師弟子之禮。舍年六十八,王莽居攝中卒。

王莽が国を簒奪した後、五威将帥を派遣して天下の風俗を行わせ、将帥は自ら羊と酒を携えて龔勝を慰問した。翌年、王莽は使者を派遣して龔勝を講学祭酒に任命しようとしたが、龔勝は病気と称して応じなかった。二年後、王莽は再び使者を派遣し、璽書と太子師友祭酒の印綬を持たせ、安車と駟馬で龔勝を迎え、即座に任命し、上卿の秩禄を与え、先に六か月分の俸禄を支給して身支度を整えさせた。使者は郡太守・県長吏・三老・官属・行義・諸生千人以上を率いて龔勝の里に入り詔を伝えた。使者は龔勝に起き出て迎えさせようとしたが、龔勝は長く門外に立たされたままだった。龔勝は病が重いと称し、寝室の戸の西南の窓の下に床を設け、東を頭にして朝服を着け、帯を締めた。使者が戸に入り、西へ進んで南面して立ち、詔を伝え璽書を渡し、延々と再拝して印綬を奉じ、安車と駟馬を進めた。そして龔勝に進み出て言った。「聖朝は未だ君を忘れたことはなく、制度は未だ定まっていない。君が政事を行うのを待ち、何を施行したいか聞きたいと思い、海内を安んじようとしている。」龔勝は答えた。「私はもともと愚かであり、年老いて病に倒れ、命は朝夕に迫っている。使者について道を上れば、必ずや道中で死に、万分の一にも益するところはない。」使者は説得し、ついには印綬を龔勝の身に付けさせようとしたが、龔勝は押し退けて受けなかった。使者はすぐに上言した。「今は盛夏で暑く、龔勝は病み気力が弱っている。秋の涼しさを待ってから出発させるべきです。」詔があり許可された。使者は五日ごとに太守とともに起居を問い、龔勝の二人の子と門人高暉らに言った。「朝廷は虚心に君を茅土の封をもって待っている。病気とはいえ、伝舎に移るよう動き、行く意思があることを示すべきだ。必ずや子孫に大業を遺すことになろう。」高暉らが使者の言葉を伝えると、龔勝は聞き入れられないと悟り、高暉らに言った。「私は漢家の厚恩を受け、報いることができない。今は年老いて、旦夕に地に入ろうとしている。どうして一身をもって二姓に仕え、地下で故主に会えようか。」龔勝はそこで棺と殯の喪事について命じた。「衣は身に周り、棺は衣に周る。俗に従って私の冢に柏を植え、祠堂を作ってはならない。」言葉を終えると、口を開き飲食することなく、十四日が経って死んだ。死んだ時は七十九歳だった。使者と太守が臨んで殯を行い、複衾を賜り、祭祠は法の通りに行われた。門人で衰絰を着けて喪を治める者は数百人に及んだ。ある老父が弔問に来て、非常に哀しく泣き、やがて言った。「ああ、香草は香りゆえに自ら焼かれ、膏は明るさゆえに自ら消える。龔生はついに天年を全うせず、我々の仲間ではない。」そして急いで出て行き、誰かは分からなかった。龔勝は彭城の廉里に住み、後世に石を刻んでその里門を表した。

原文莽既篡國,遣五威將帥行天下風俗,將帥親奉羊酒存問勝。明年,莽遣使者即拜勝為講學祭酒,勝稱疾不應徵。後二年,莽復遣使者奉璽書,太子師友祭酒印綬,安車駟馬迎勝,即拜,秩上卿,先賜六月祿直以辦裝,使者與郡太守、縣長吏、三老官屬、行義諸生千人以上入勝里致詔。使者欲令勝起迎,久立門外。勝稱病篤,為床室中戶西南牖下,東首加朝服癴紳。使者入戶,西行南面立,致詔付璽書,遷延再拜奉印綬,內安車駟馬,進謂勝曰:「聖朝未嘗忘君,制作未定,待君為政,思聞所欲施行,以安海內。」勝對曰:「素愚,加以年老被病,命在朝夕,隨使君上道,必死道路,無益萬分。」使者要說,至以印綬就加勝身,勝輒推不受。使者即上言:「方盛夏暑熱,勝病少氣,可須秋涼乃發。」有詔許。使者五日壹與太守俱問起居,為勝兩子及門人高暉等言:「朝廷虛心待君以茅土之封,雖疾病,宜動移至傳舍,示有行意,必為子孫遺大業。」暉等白使者語,勝自知不見聽,即謂暉等:「吾受漢家厚恩,亡以報,今年老矣,旦暮入地,誼豈以一身事二姓,下見故主哉?」勝因敕以棺斂喪事:「衣周於身,棺周於衣。勿隨俗動吾冢,種柏,作祠堂。」語畢,遂不復開口飲食,積十四日死,死時七十九矣。使者、太守臨斂,賜複衾祭祠如法。門人衰絰治喪者百數。有老父來弔,哭甚哀,既而曰:「嗟虖!薰以香自燒,膏以明自銷。龔生竟夭天年,非吾徒也。」遂趨而出,莫知其誰。勝居彭城廉里,後世刻石表其里門。

鮑宣

原文鮑宣

鮑宣は字を子都といい、渤海郡高城県の人である。学問を好み経書に明るく、県の郷嗇夫となり、束州丞を守った。後に都尉太守の功曹となり、孝廉に挙げられて郎となったが、病気で官を去り、再び州の従事となった。大司馬衛将軍王商が鮑宣を辟召し、議郎に推薦したが、後に病気で去った。哀帝の初め、大司空何武が鮑宣を西曹掾に任命し、非常に敬重し、諫大夫に推薦し、豫州牧に遷った。一年余りして、丞相司直郭欽が上奏した。「鮑宣の措置は煩雑で苛酷であり、二千石に代わって吏を任命し訴訟を聴き、巡察したことが詔条を超えている。行部の際に伝車に乗り法駕を省き、一馬のみで駕し、宿泊に郷亭を用い、衆人から非難されている。」鮑宣はこれにより免官された。数か月家に帰った後、再び徴されて諫大夫となった。

原文鮑宣字子都,渤海高城人也。好學明經,為縣鄉嗇夫,守束州丞。後為都尉太守功曹,舉孝廉為郎,病去官,復為州從事。大司馬衛將軍王商辟宣,薦為議郎,後以病去。哀帝初,大司空何武除宣為西曹掾,甚敬重焉,薦宣為諫大夫,遷豫州牧。歲餘,丞相司直郭欽奏「宣舉錯煩苛,代二千石署吏聽訟,所察過詔條。行部乘傳去法駕,駕一馬,舍宿鄉亭,為眾所非。」宣坐免。歸家數月,復徵為諫大夫。

鮑宣は官位にあるたびに、常に上書して諫争し、その言葉は文飾が少なく実質が多い。当時、帝の祖母傅太后が成帝の母とともに尊号を称し、親族に封爵することを望んだ。丞相孔光・大司空師丹・何武・大司馬傅喜が最初は正しい議論を執り、傅太后の意に背いたため、皆免官された。丁氏・傅氏の子弟がともに進用され、董賢が寵愛された。鮑宣は諫大夫としてその後を追い、上書して諫めた。

原文宣每居位,常上書諫爭,其言少文多實。是時帝祖母傅太后欲與成帝母俱稱尊號,封爵親屬,丞相孔光、大司空師丹、何武、大司馬傅喜始執正議,失傅太后指,皆免官。丁、傅子弟並進,董賢貴幸,宣以諫大夫從其後,上書諫曰:

私は孝成皇帝の時、外戚が権力を握り、人人が私的な者を引き入れて朝廷を充満させ、賢人の道を妨げ、天下を濁乱し、奢侈が度を超え、百姓を窮困させたため、日食が十回近くも起こり、彗星が四方から起こったのを見ました。危亡の兆しは、陛下がご覧になった通りです。今どうしてかえって以前よりもひどく繰り返されるのでしょうか。朝臣の中には、大儒で骨鯁の、白髪の長老、優れた士で、議論が古今に通じ、人々の心を動かし、国を憂えて飢渇の如き者は、私には見当たりません。外戚の小童や幸臣董賢らを公門省戸の下に厚く遇し、陛下がこれらとともに天地を承け、海内を安んじようとされるのは、非常に難しいことです。今の世俗は、智ならざる者を能あるとし、智ある者を不能とします。昔、堯が四罪を放逐して天下は服従しましたが、今は一吏を除くだけで衆人は皆惑います。古くは人を刑しても尚服従しましたが、今は人を賞してもかえって惑います。請託が奸をなし、群小が日々進みます。国家は空虚で、用度は不足しています。民は流亡し、城郭を離れ、盗賊が一斉に起こり、吏は残賊となり、年々前よりも増えています。

原文竊見孝成皇帝時,外親持權,人人牽引所私以充塞朝廷,妨賢人路,濁亂天下,奢泰亡度,窮困百姓,是以日蝕且十,彗星四起。危亡之徵,陛下所親見也,今柰何反覆劇於前乎!朝臣亡有大儒骨鯁,白首耆艾,魁壘之士;論議通古今,喟然動眾心,憂國如飢渴者,臣未見也。敦外親小童及幸臣董賢等在公門省戶下,陛下欲與此共承天地,安海內,甚難。今世俗謂不智者為能,謂智者為不能。昔堯放四罪而天下服,今除一吏而眾皆惑;古刑人尚服,今賞人反惑。請寄為姦,群小日進。國家空虛,用度不足。民流亡,去城郭,盜賊並起,吏為殘賊,歲增於前。

およそ民には七つの亡(失うもの)があります。陰陽が調和せず、水害旱害が災いとなる、一の亡です。県官が更賦租税を重く責める、二の亡です。貪吏が公務を兼ね、受け取り止まない、三の亡です。豪強大姓が蚕食して飽くことを知らない、四の亡です。苛酷な吏の徭役で、農桑の時を失う、五の亡です。部落に鼓が鳴り、男女が遮断される、六の亡です。盗賊が略奪し、民の財物を取る、七の亡です。七つの亡はまだ我慢できますが、さらに七つの死があります。酷吏に殴打殺害される、一の死です。獄を治めるのが厳しく深刻である、二の死です。冤罪で無辜を陥れる、三の死です。盗賊が横行して発生する、四の死です。怨讐が互いに傷つけ合う、五の死です。凶作で飢餓に陥る、六の死です。時気で疾疫が流行る、七の死です。民に七つの亡があって一つの得がなく、国が安らかであることを望むのは、誠に難しいことです。民に七つの死があって一つの生がなく、刑罰が用いられないことを望むのは、誠に難しいことです。これは公卿守相が貪残で風化を成したことによるのではありませんか。群臣は幸いにも尊官に居り、重禄を食んでいるのに、どうして細民に惻隠の情を加え、陛下の教化を広めることを助けようとするでしょうか。志はただ私家を営み、賓客を称え、奸利をなすだけです。苟くも容れ曲げて従うことを賢とし、拱手して黙して禄を尸することを智とし、私のような者を愚であるとしています。陛下が私を巌穴から抜擢されたのは、誠に毫毛ほどの益があることを期待されたのであり、ただ私に美食を与え、大官に重んじ、高門の地に置こうとされたのではありません。

原文凡民有七亡:陰陽不和,水旱為災,一亡也;縣官重責更賦租稅,二亡也;貪吏並公,受取不已,三亡也;豪強大姓蠶食亡厭,四亡也;苛吏繇役,失農桑時,五亡也;部落鼓鳴,男女遮迣,六亡也;盜賊劫略,取民財物,七亡也。七亡尚可,又有七死:酷吏毆殺,一死也;治獄深刻,二死也;冤陷亡辜,三死也;盜賊橫發,四死也;怨讎相殘,五死也;歲惡飢餓,六死也;時氣疾疫,七死也。民有七亡而無一得,欲望國安,誠難;民有七死而無一生,欲望刑措,誠難。此非公卿守相貪殘成化之所致邪?群臣幸得居尊官,食重祿,豈有肯加惻隱於細民,助陛下流教化者邪?志但在營私家,稱賓客,為姦利而已。以苟容曲從為賢,以拱默尸祿為智,謂如臣宣等為愚。陛下擢臣巖穴,誠冀有益豪毛,豈徒欲使臣美食大官,重高門之地哉!

天下は皇天の天下です。陛下は上は皇天子であり、下は黎庶の父母として、天のために元元を牧養され、これを見るには一様であるべきで、尸鳩の詩に合致すべきです。今、貧民は野菜食も飽き足らず、衣はまた穴が開き、父子夫婦互いに保つことができません。誠に鼻を酸くすべきです。陛下が救わなければ、どこに帰依すればよいのでしょうか。どうして外戚と幸臣董賢だけを私的に養い、大万の数に上るほど多く賞賜し、奴隷や従者、賓客に酒を水のように、肉を霍のようにさせ、蒼頭や廬児までが皆富を成すようにするのでしょうか。これは天意ではありません。また汝昌侯傅商は功績がないのに封ぜられました。官爵は陛下の官爵ではなく、天下の官爵です。陛下がその官でない者を取り、その人でない者を官とし、天が喜び民が服することを望まれるのは、難しいことではありませんか。

原文天下乃皇天之天下也,陛下上為皇天子,下為黎庶父母,為天牧養元元,視之當如一,合尸鳩之詩。今貧民菜食不厭,衣又穿空,父子夫婦不能相保,誠可為酸鼻。陛下不救,將安所歸命乎?奈何獨私養外親與幸臣董賢,多賞賜以大萬數,使奴從賓客漿酒霍肉,蒼頭廬兒皆用致富!非天意也。及汝昌侯傅商亡功而封。夫官爵非陛下之官爵,乃天下之官爵也。陛下取非其官,官非其人,而望天說民服,豈不難哉!

方陽侯の孫寵と宜陵侯の息夫躬は、弁舌で大衆を動かすに足り、強情で独立して用いることができるが、奸人の雄であり、あるいは世に特に甚だしい者である。時宜に応じて罷退させるべきである。また、外戚の幼童で経術に通じていない者は、皆師傅のもとで休養させるのがよい。急いで元大司馬の傅喜を召し出して外戚を統率させよ。元大司空の何武、師丹、元丞相の孔光、元左将軍の彭宣は、経学はいずれも博士を経験し、地位はいずれも三公を歴任し、智謀と威信があり、教化を建て、安危を図ることに参与できる。龔勝が司直となって以来、郡国は皆選挙を慎重に行い、三輔の輸送官は奸を行うことを敢えてせず、大いに委任できる。陛下は以前、小さな我慢ができずに何武らを退けたため、海内は失望した。陛下はなお無功無徳の者を多く容れることができるのに、どうして何武らを我慢できないのか。天下を治める者は天下の心をもって心とすべきであり、自分勝手に快意を得るだけではいけない。上は皇天の譴責を受け、下は黎庶の怨恨を招き、次には諫争の臣が現れる。陛下がもし自らを軽んじて悪臣を厚くしようとしても、天下はなお従わないだろう。臣は愚かで頑なではあるが、多くの禄賜を受け、太官の美食を楽しみ、田宅を広げ、妻子を厚くして、悪人と仇怨を結ばずに身を安んじることを知らないわけではない。誠に大義に迫られ、官は諫争を職務とするので、愚誠を尽くさざるを得ない。どうか陛下には少しばかり神明を留め、五経の文を覧て、聖人の至意を推し量り、天地の戒めを深く思われたい。臣の宣は言葉が訥で鈍く、倦々たる思いに耐えず、ただ死節を尽くすのみである。

原文方陽侯孫寵、宜陵侯息夫躬辯足以移眾,彊可用獨立,姦人之雄,或世尤劇者也,宜以時罷退。及外親幼童未通經術者,皆宜令休就師傅。急徵故大司馬傅喜使領外親。故大司空何武、師丹、故丞相孔光、故左將軍彭宣,經皆更博士,位皆歷三公,智謀威信,可與建教化,圖安危。龔勝為司直,郡國皆慎選舉,三輔委輸官不敢為姦,可大委任也。陛下前以小不忍退武等,海內失望。陛下尚能容亡功德者甚眾,曾不能忍武等邪!治天下者當用天下之心為心,不得自專快意而已也。上之皇天見譴,下之黎庶怨恨,次有諫爭之臣,陛下苟欲自薄而厚惡臣,天下猶不聽也。臣雖愚戇,獨不知多受祿賜,美食太官,廣田宅,厚妻子,不與惡人結讎怨以安身邪?誠迫大義,官以諫爭為職,不敢不竭愚。惟陛下少留神明,覽五經之文,原聖人之至意,深思天地之戒。臣宣吶鈍於辭,不勝惓惓,盡死節而已。

帝は宣が名儒であることを重んじて、寛容に扱った。

原文上以宣名儒,優容之。

この時、郡国で地震があり、民は籌を行くという噂を流し、翌年の正月の朔日に日蝕があった。帝はそこで孔光を召し出し、孫寵と息夫躬を免職し、侍中や諸曹の黄門郎数十人を罷免した。宣は再び上書して言った。

原文是時郡國地震,民訛言行籌,明年正月朔日蝕,上乃徵孔光,免孫寵、息夫躬,罷侍中諸曹黃門郎數十人。宣復上書言:

陛下は天を父として事え、地を母として事え、黎民を子として養っている。即位以来、父は明を損ない、母は震動し、子は噂を言い合って驚き恐れている。今、三始(正月一日)に日蝕が起こったのは、誠に畏れ恐れるべきことである。小民でさえ正月の朔日には器物を壊すのを恐れるのに、ましてや日が欠けることにおいてはなおさらである。陛下は深く内に自らを責め、正殿を避け、直言を挙げ、過失を求め、外戚や傍らにいて素餐(むだ飯を食う)の者を罷退し、孔光を光禄大夫に任命し、孫寵と息夫躬の過悪を発覚させて免官し国に帰らせたので、衆庶は歙然として、喜ばない者はない。天人同心であり、人心が喜べば天意も解けるのである。ところが二月丙戌に、白虹が日に干し、陰りが続いて雨が降らない。これは天に憂いの結び目が解けず、民に怨望が塞がれていないためである。

原文陛下父事天,母事地,子養黎民,即位已來,父虧明,母震動,子訛言相驚恐。今日蝕於三始,誠可畏懼。小民正月朔日尚恐毀敗器物,何況於日虧乎!陛下深內自責,避正殿,舉直言,求過失,罷退外親及旁仄素餐之人,徵拜孔光為光祿大夫,發覺孫寵、息夫躬過惡,免官遣就國,眾庶歙然,莫不說喜。天人同心,人心說則天意解矣。乃二月丙戌,白虹虷日,連陰不雨,此天有憂結未解,民有怨望未塞者也。

侍中駙馬都尉の董賢は本来、葭莩の親(ごく遠い親戚)さえないのに、ただ美しい顔色と諂う言葉で自ら進み出て、賞賜は限度なく、府蔵を尽きるほど与えられ、三つの邸宅を合わせてもまだ小さいとして、さらに暴室を壊した。賢の父子は天子の使者を座らせて将作に邸宅を造らせ、夜回りの吏卒も皆賞賜を得た。墓参りに集会があれば、いつも太官が供給した。海内の貢献は一君を養うべきであるのに、今は反って賢の家に尽きてしまう。これは天意と民意であろうか。天下を長く背負うことはできず、このように厚くすることは、反って彼を害するのである。誠に賢を哀れむならば、天地に過ちを謝し、海内の仇を解き、免官して国に帰らせ、乗輿の器物を収めて県官に返すべきである。このようにすれば、父子でその性命を終えることができる。そうでなければ、海内の仇となって、長く安泰を得る者はない。

原文侍中駙馬都尉董賢本無葭莩之親,但以令色諛言自進,賞賜亡度,竭盡府藏,并合三第尚以為小,復壞暴室。賢父子坐使天子使者將作治第,行夜吏卒皆得賞賜。上冢有會,輒太官為供。海內貢獻當養一君,今反盡之賢家,豈天意與民意邪!天下可久負,厚之如此,反所以害之也。誠欲哀賢,宜為謝過天地,解讎海內,免遣就國,收乘輿器物,還之縣官。如此,可以父子終其性命;不者,海內之所讎,未有得久安者也。

孫寵と息夫躬は国にいるべきではなく、皆免職して天下に示すべきである。また何武、師丹、彭宣、傅喜を召し出し、曠然として民に視点を変えさせ、天心に応え、大政を建立して太平の端を興すべきである。

原文孫寵、息夫躬不宜居國,可皆免以視天下。復徵何武、師丹、彭宣、傅喜,曠然使民易視,以應天心,建立大政,以興太平之端。

高門(宮門)は省戸(宮中の門)から数十歩しか離れていないが、求めて会見し出入りしようとしても、二年経っても省みられない。海辺の僻遠な地から自ら通じようとするのは、遠いことである。どうか数刻の間を賜り、毣毣たる思いを極め尽くさせてください。退いて三泉(地下深く)に入り、死んでも恨みはありません。

原文高門去省戶數十步,求見出入,二年未省,欲使海瀕仄陋自通,遠矣!願賜數刻之間,極竭毣毣之思,退入三泉,死亡所恨。

帝は大きな異変に感じて、宣の言を入れ、何武と彭宣を召し出し、旬月のうちに皆再び三公となった。宣を司隷に任命した。当時、哀帝は司隷校尉をただ司隷と改め、官は司直に比した。

原文上感大異,納宣言,徵何武、彭宣,旬月皆復為三公。拜宣為司隸。時哀帝改司隸校尉但為司隸,官比司直。

丞相の孔光が四時に園陵を行幸する時、官属が法令に従って馳道の中を行った。宣が出会って、吏に命じて丞相の掾史を引き止め、その車馬を没収し、宰相を辱しめた。事が御史に下され、中丞の侍御史が司隷官に来て、従事を捕らえようとしたが、門を閉めて内に入れようとしなかった。宣は使者を閉め出して拒んだ罪により、人臣の礼を失い、大不敬、不道として廷尉の獄に下された。博士弟子の済南の王咸が太学の下で幡を挙げ、「鮑司隷を救いたい者はここに集まれ」と言った。集まった諸生は千余人に上った。朝日に、丞相の孔光を遮って直訴し、丞相の車を行かせず、また宮門を守って上書した。帝はついに宣の罪を死罪一等減じて、髡鉗(こんけん:髪を剃り首枷をはめる刑)とした。宣は刑に処された後、上党に移され、その地は田牧に適し、また豪俊が少なく、容易に長雄となれると考え、遂に長子に家を構えた。

原文丞相孔光四時行園陵,官屬以令行馳道中,宣出逢之,使吏鉤止丞相掾史,沒入其車馬,摧辱宰相。事下御史,中丞侍御史至司隸官,欲捕從事,閉門不肯內。宣坐距閉使者,亡人臣禮,大不敬,不道,下廷尉獄。博士弟子濟南王咸舉幡太學下,曰:「欲救鮑司隸者會此下。」諸生會者千餘人。朝日,遮丞相孔光自言,丞相車不得行,又守闕上書。上遂抵宣罪減死一等,髡鉗。宣既被刑,乃徙之上黨,以為其地宜田牧,又少豪俊,易長雄,遂家于長子。

平帝が即位し、王莽が政権を執ると、陰に国を簒奪する心を持ち、そこで州郡に風聞させて罪法により諸豪傑や、漢に忠直な臣で自分に附かない者を誅殺させた。宣や何武らは皆死んだ。当時、名指しで隴西の辛興を捕らえることになり、興は宣の女婿の許紺と共に宣を訪れ、一飯して去った。宣は事情を知らず、連座して獄に繋がれ、自殺した。

原文平帝即位,王莽秉政,陰有篡國之心,乃風州郡以罪法案誅諸豪桀,及漢忠直臣不附己者,宣及何武等皆死。時名捕隴西辛興,興與宣女婿許紺俱過宣,一飯去,宣不知情,坐繫獄,自殺。

成帝から王莽の時代にかけて、清廉な名声を博した人士として、琅邪にはまた紀逡と王思がおり、斉には薛方子容がおり、太原には郇越臣仲と郇相稚賓がおり、沛郡には唐林子高と唐尊伯高がいた。皆、経書に通じ行いを整えることで世に名声を顕わした。

原文自成帝至王莽時,清名之士,琅邪又有紀逡王思,齊則薛方子容,太原則郇越臣仲、郇相稚賓,沛郡則唐林子高、唐尊伯高,皆以明經飭行顯名於世。

紀逡と両唐(唐林・唐尊)は皆、王莽に仕え、侯に封じられて貴重な地位にあり、公卿の位を歴任した。唐林はたびたび上疏して諫め正し、忠直な節操があった。唐尊はぼろぼろの衣を着て靴の底が抜けた履き物をはき、瓦器で飲食し、またこれを公卿に贈って、虚偽の名声を得た。

原文紀逡、兩唐皆仕王莽,封侯貴重,歷公卿位。唐林數上疏諫正,有忠直節。唐尊衣敝履空,以瓦器飲食,又以歷遺公卿,被虛偽名。

郇越と郇相は、同じ一族の兄弟であり、ともに州郡の孝廉・茂材に推挙されたが、たびたび病気になり、官を去った。郇越は先祖の財産千余万をばらまき、九族や郷里に分け与え施し、志操は特に高かった。郇相は王莽の時代に太子の四友として召し出されたが、病死した。王莽の太子は使者を遣わし、衣と衾を贈って葬儀の助けとしたが、その子は棺にすがって受け取らせず、言った。「亡き父の遺言に、師や友人の葬送の贈り物は受け取るなとあります。今、皇太子には友官としてお仕えしていましたが、それゆえ受け取れません。」 都の人は彼を称えた。

原文郇越、相,同族昆弟也,並舉州郡孝廉茂材,數病,去官。越散其先人訾千餘萬,以分施九族州里,志節尤高。相王莽時徵為太子四友,病死,莽太子遣使裞以衣衾,其子攀棺不聽,曰:「死父遺言,師友之送勿有所受,今於皇太子得託友官,故不受也。」京師稱之。

薛方はかつて郡の掾祭酒を務め、かつて召し出されたが赴かず、王莽が安車で薛方を迎えた時、薛方は使者を通じて辞退して言った。「堯・舜が上にいらっしゃれば、下には巣父・許由がおります。今、明主がまさに唐・虞の徳を盛んにされようとしている時に、小臣は箕山の節操を守りたいのです。」 使者がこのことを報告すると、王莽はその言葉を喜び、無理に招こうとはしなかった。薛方は家にいて経書を教授し、文章を綴ることを好み、詩賦を数十篇著した。

原文薛方嘗為郡掾祭酒,嘗徵不至,及莽以安車迎方,方因使者辭謝曰:「堯舜在上,下有巢由,今明主方隆唐虞之德,小臣欲守箕山之節也。」使者以聞,莽說其言,不強致。方居家以經教授,喜屬文,著詩賦數十篇。

初めに隃麋の郭欽は、哀帝の時に丞相司直となり、豫州牧の鮑宣や京兆尹の薛修らを弾劾して免官させ、また董賢を弾劾し、盧奴令に左遷され、平帝の時に南郡太守に転じた。一方、杜陵の蔣詡元卿は兗州刺史となり、やはり廉潔・正直で名を知られた。王莽が摂政の座につくと、郭欽と蔣詡はともに病気を理由に免官し、郷里に帰り、家に臥して門を出ず、家で亡くなった。

原文始隃麋郭欽,哀帝時為丞相司直,奏免豫州牧鮑宣、京兆尹薛修等,又奏董賢,左遷盧奴令,平帝時遷南郡太守。而杜陵蔣詡元卿為兗州刺史,亦以廉直為名。王莽居攝,欽、詡皆以病免官,歸鄉里,臥不出戶,卒於家。

斉の栗融客卿、北海の禽慶子夏、蘇章游卿、山陽の曹竟子期は皆、儒生であり、官を去って王莽に仕えなかった。王莽が死に、漢の更始帝が曹竟を召し出して丞相とし、侯に封じ、賢人を招き寄せて寇賊を消滅させようとした。曹竟は侯爵を受けなかった。ちょうど赤眉軍が長安に入り、曹竟を降伏させようとしたが、曹竟は手に剣を取って戦い、死んだ。

原文齊栗融客卿、北海禽慶子夏、蘇章游卿、山陽曹竟子期皆儒生,去官不仕於莽。莽死,漢更始徵竟以為丞相,封侯,欲視致賢人,銷寇賊。竟不受侯爵。會赤眉入長安,欲降竟,竟手劍格死。

世祖(光武帝)が即位すると、薛方を召し出したが、道中で病気になり死去した。両龔(龔勝・龔舍)と鮑宣の子孫は皆、表彰され、大官に至った。

原文世祖即位,徵薛方,道病卒。兩龔、鮑宣子孫皆見褒表,至大官。

【賛】

原文【贊】

賛に言う。易経は「君子の道は、或いは出で或いは処り、或いは黙し或いは語る」と言う。これはそれぞれが道の一端を得ていることを言い、草木に譬えれば、区別されるということである。故に言う、山林の士は往って還らず、朝廷の士は入って出でず、この二者はそれぞれ短所がある、と。春秋時代の列国の卿大夫から漢の興隆期の将相名臣に至るまで、禄を貪り寵愛に耽ってその身を滅ぼした者は多い。それゆえ清廉な節操の士はこの時にあって貴ばれるのである。しかし概して多くは自らを治めることはできても人を治めることはできない。王吉・貢禹の才は、龔勝・龔舍より優れている。死を守って善道に従うことでは、龔勝が実践した。堅固ではあるが無理な信義に拘らない点では、薛方がこれに近い。郭欽・蔣詡は遁世を好み汚れず、紀逡・唐林らとは縁を絶った。

原文贊曰:易稱「君子之道,或出或處,或默或語」,言其各得道之一節,譬諸草木,區以別矣。故曰山林之士往而不能反,朝廷之士入而不能出,二者各有所短。春秋列國卿大夫至漢興將相名臣,懷祿耽寵以失其世者多矣!是故清節之士於是為貴。然大率多能自治而不能治人。王、貢之材,優於龔、鮑。守死善道,勝實蹈焉。貞而不諒,薛方近之。郭欽、蔣詡好遯不汙,絕紀、唐矣!