漢書

傅常鄭甘陳段伝 第四十

傅介子

原文傅介子

傅介子は、北地の人である。〈師古が言うには、「〈趙充国伝〉の賛に『義渠の公孫賀、傅介子』とある。すると介子は北地の義渠の人である。」〉従軍して官となった。これより先、亀茲と楼蘭はいずれもかつて漢の使者を殺しており、その話は〈西域伝〉にある。元鳳年間に至り、介子は駿馬監として大宛に使いすることを求め、そこで詔により命じて楼蘭と亀茲の国を責めさせた。

原文傅介子,北地人也,〈師古曰:「〈趙充國傳〉贊云『義渠公孫賀、傅介子』,然則介子北地義渠人也。」〉以從軍爲官。先是龜茲、樓蘭皆甞殺漢使者,〈服虔曰:「龜茲音丘慈。」〉語在〈西域傳〉。至元鳳中,介子以駿馬監求使大宛,因詔令責樓蘭、龜茲國。

介子は楼蘭に至り、その王が匈奴を教えて漢の使者を遮って殺したことを責めて言った。「大軍がまさに来ようとしている。王がもし匈奴を教えていないなら、匈奴の使者が通り過ぎて諸国に至るのに、なぜ言わないのか。」王は謝罪して服し、「匈奴の使者が近頃通り過ぎ、烏孫に至るはずで、途中で亀茲を通り過ぎた。」と言った。介子は亀茲に至り、再びその王を責めると、王も罪に服した。介子が大宛から帰還して亀茲に到着すると、亀茲が「匈奴の使者が烏孫から帰ってきて、ここにいる。」と言った。介子はそこで配下の官吏と兵士を率いて共に匈奴の使者を誅殺した。帰還して事を奏上すると、詔により介子を中郎に任命し、平楽監に昇進させた。

原文介子至樓蘭,責其王敎匈奴遮殺漢使:「大兵方至,王苟不敎匈奴,匈奴使過至諸國,何爲不言?」王謝服,言「匈奴使屬過,〈師古曰:「屬,近也。近始過去。屬音之欲反。」〉當至烏孫,道過龜茲。」介子至龜茲,復責其王,王亦服罪。介子從大宛還到龜茲,龜茲言「匈奴使從烏孫還,在此。」介子因率其吏士共誅斬匈奴使者。還奏事,詔拜介子爲中郎,遷平樂監。

介子は大将軍の霍光に言った。「楼蘭と亀茲はたびたび反覆するのに誅罰しないのでは、懲戒するものがない。私が亀茲を通った時、その王は人に近づき親しみやすく、捕らえやすいです。行ってこれを刺殺し、諸国に威を示したいと思います。」大将軍は言った。「亀茲は道が遠い。まず楼蘭で試してみよ。」そこで上奏して彼を派遣した。

原文介子謂大將軍霍光曰:「樓蘭、龜茲數反覆而不誅,無所懲艾。〈師古曰:「艾讀曰乂。」〉介子過龜茲時,其王近就人,〈師古曰:「附近而親就,言不相猜阻也。」〉易得也,願往刺之,以威示諸國。」大將軍曰:「龜茲道遠,且驗之於樓蘭。」於是白遣之。

介子は士卒と共に金貨と絹織物を持ち、外国に賜るという名目で大いに言いふらした。楼蘭に至ると、楼蘭王は介子に親しくしようとしなかった。介子は偽って立ち去り、その西の国境に至り、通訳を使って言わせた。「漢の使者が黄金と錦繍を持って諸国に行き賜っている。王が受け取りに来なければ、私は西の国に行ってしまう。」すぐに金貨と絹織物を取り出して通訳に見せた。通訳が帰って王に報告すると、王は漢の物を欲しがり、使者に会いに来た。介子は王と座って酒を飲み、品物を見せた。酒を飲んで皆が酔ったところで、介子は王に言った。「天子が私に密かに王に伝えるよう命じられました。」王は立ち上がり、介子について幕舎の中に入り、人を退けて話した。二人の壮士が後ろから刺し、刃が胸で交わり、たちまち死んだ。その貴人や左右の者は皆散り散りに逃げた。介子は告諭して言った。「王は漢に背いた罪がある。天子が私を遣わして王を誅するのだ。以前漢に人質としていた太子を改めて立てるべきである。漢の兵がまさに来ようとしている。動くな。動けば国を滅ぼすぞ。」そこで王の首を持ち帰って宮門に詣でた。公卿や将軍で議論する者は皆その功績を称えた。皇帝はそこで詔を下して言った。「楼蘭王の安帰はかつて匈奴の間諜となり、漢の使者を偵察し遮り、兵を発して衛司馬の安楽、光禄大夫の忠、期門郎の遂成ら三つの輩、および安息と大宛の使者を殺害し略奪し、節と印と献上物を盗み取った。これは天理に甚だ背いている。平楽監の傅介子が節を持って使いし、楼蘭王の安帰の首を誅斬し、北闕に懸けた。これは怨みに対して直をもって報い、軍衆を煩わせなかった。介子を義陽侯に封じ、食邑七百戸を与える。王を刺した兵士は皆侍郎に補任する。」

原文介子與士卒俱齎金幣,揚言以賜外國爲名。至樓蘭,樓蘭王意不親介子,介子陽引去,至其西界,使譯謂曰:「漢使者持黃金錦繡行賜諸國,〈師古曰:「遍往賜之。」〉王不來受,我去之西國矣。」即出金幣以示譯。譯還報王,王貪漢物,來見使者。介子與坐飲,陳物示之。飲酒皆醉,介子謂王曰:「天子使我私報王。」〈師古曰:「謂密有所論。」〉王起隨介子入帳中,屏語,〈師古曰:「屏人而獨共語也。」〉壯士二人從後刺之,刃交匈,立死。其貴人左右皆散走。介子告諭以「王負漢罪,天子遣我來誅王,當更立前太子質在漢者。漢兵方至,毋敢動,動,滅國矣!」遂持王首還詣闕,公卿將軍議者咸嘉其功。上迺下詔曰:「樓蘭王安歸甞爲匈奴閒,候遮漢使者,〈師古曰:「言爲匈奴之閒而候伺。」〉發兵殺略衞司馬安樂、光祿大夫忠、期門郎遂成等三輩,及安息、大宛使,盜取節印獻物,〈晉灼曰:「此安息、大宛遠遣使獻漢,而樓蘭王使人盜取所獻之物也。」師古曰:「節及印,漢使者所賫也。獻物,大宛等使所獻也。樓蘭旣殺漢使,又殺諸國使者。」〉甚逆天理。平樂監傅介子持節使誅斬樓蘭王安歸首,縣之北闕,以直報怨,〈師古曰:「《論語》載孔子言曰『以直報怨,以德報德』,言怨於我者則直道而報之。故詔引之也。」〉不煩師衆。其封介子爲義陽侯,食邑七百戶。士刺王者皆補侍郎。」

介子が薨去すると、子の敞が罪を得て後を継ぐことができず、封国は除かれた。元始年間に、功臣の世を継ぐ者として、介子の曾孫の長を再び義陽侯に封じたが、王莽が敗れると、そこで絶えた。

原文介子薨,子敞有罪不得嗣,國除。元始中,繼功臣世,復封介子曾孫長爲義陽侯,王莽敗,迺絕。

常恵

原文常惠

常恵は、太原の人である。若い時は家が貧しく、自ら奮起して応募し、栘中監の蘇武に従って匈奴に使いし、共に拘留されて十数年、昭帝の時に至ってようやく帰還した。漢はその勤労を嘉し、光禄大夫に任命した。

原文常惠,太原人也。少時家貧,自奮應募,隨栘中監蘇武使匈奴,〈師古曰:「栘中,廄名也,音移。解在〈昭紀〉。」〉并見拘留十餘年,昭帝時迺還。漢嘉其勤勞,拜爲光祿大夫。

この時、烏孫の公主が上書して言うには、「匈奴が騎兵を発して車師(西域の国名)に駐屯させ、車師は匈奴と一つとなり、共に烏孫を侵しています。どうか天子がお救いください」と。漢は兵士と馬を養い、匈奴を討つことを議した。ちょうど昭帝が崩御し、宣帝が即位したばかりの時で、本始二年に常恵を烏孫に派遣した。公主と昆彌(烏孫の王)はともに使者を遣わし、常恵を通じて言うには、「匈奴が大軍を連続して発し烏孫を攻撃し、車延・悪師の地を奪い、その人民を捕らえて去り、使者を遣わして公主を脅迫して求め、漢との連絡を断絶させようとしています。昆彌は国の半分の精鋭兵を発し、自ら人馬五万騎を供給し、力を尽くして匈奴を撃ちたいと願っています。どうか天子が兵を出して公主と昆弥をお救いください」と。そこで漢は大いに十五万騎を発し、五将軍が分かれて出撃した(祁連将軍田広明、蒲類将軍趙充国、武牙将軍田順、度遼将軍范明友、前将軍韓増)。詳細は『匈奴伝』にある。

原文是時,烏孫公主上書言「匈奴發騎田車師,〈師古曰:「車師,西域國名也。」〉車師與匈奴爲一,共侵烏孫,唯天子救之!」漢養士馬,議欲擊匈奴。會昭帝崩,宣帝初即位,本始二年,遣惠使烏孫。公主及昆彌皆遣使,因惠言「匈奴連發大兵擊烏孫,取車延、惡師地,收其人民去,使使脅求公主,〈師古曰:「脅謂以威迫之也。」〉欲隔絕漢。昆彌願發國半精兵,自給人馬五萬騎,盡力擊匈奴。唯天子出兵以救公主、昆彌!」於是漢大發十五萬騎,五將軍分道出,〈師古曰:「祁連將軍田廣明、蒲類將軍趙充國、武牙將軍田順、度遼將軍范明友、前將軍韓增。」〉語在〈匈奴傳〉。

常恵を校尉とし、節を持って烏孫の兵を監督させた。昆弥自ら翖侯以下五万余騎を率い、西方から入って右谷蠡王の本拠地に至り、単于の父の世代の者と、兄嫁の居次(匈奴の女性の称号で、公主のようなもの)を捕らえ、名王・騎将以下三万九千人を捕え、馬・牛・驢・騾・駱駝五万余頭、羊六十万余頭を得たが、烏孫は皆自ら戦利品を取った。常恵は従う吏卒十余人を連れて昆弥に従って帰還したが、烏孫に至らないうちに、烏孫の者が常恵の印綬と節を盗んだ。常恵が帰還すると、自ら誅殺されるべきと思った(印綬と節を失ったのは使命を辱めたことになる)。この時、漢の五将軍は皆功績がなく、天子は常恵が使命を奉じて勝利と捕獲を成し遂げたとして、ついに常恵を長羅侯に封じた。再び常恵を派遣し、金幣を持たせて烏孫の功績のある貴人に賜った。常恵はついでに上奏して、かつて校尉頼丹を殺した亀茲国がまだ誅罰を受けていないので、ついでにこれを討つことを請うたが、宣帝は許さなかった。大将軍霍光は常恵に便宜を図って行動するようほのめかした(前線で専断して行動することを言う)。常恵は吏士五百人とともに烏孫に至り、帰還の途上、西方諸国の兵二万人を徴発し、副使に命じて亀茲以東の国の兵二万人を徴発させ、烏孫の兵七千人と合わせ、三方向から亀茲を攻撃した。兵がまだ合流しないうちに、先に人を遣わしてその王を責め、以前漢の使者を殺した罪状を問いただした。王は謝罪して言うには、「それは私の先王の時代に、貴人姑翼に誤らされたのです。私は罪はありません」と。常恵は言った、「それならば、姑翼を縛って来い。私は王を許そう」。王は姑翼を捕らえて常恵のもとに連れて来た。常恵は彼を斬って帰還した。

原文以惠爲校尉,持節護烏孫兵。昆彌自將翖侯以下五萬餘騎,從西方入至右谷蠡庭,〈師古曰:「谷音鹿。蠡音黎。」〉獲單于父行及嫂居次,〈晉灼曰:「匈奴女號,若言公主也。」師古曰:「行音胡浪反。」〉名王騎將以下三萬九千人,得馬牛驢驘橐佗五萬餘匹,羊六十餘萬頭,烏孫皆自取鹵獲。惠從吏卒十餘人隨昆彌還,未至烏孫,烏孫人盜惠印綬節。惠還,自以當誅。〈師古曰:「謂失印綬及節爲辱命。」〉時漢五將皆無功,天子以惠奉使克獲,遂封惠爲長羅侯。復遣惠持金幣還賜烏孫貴人有功者,惠因奏請龜茲國甞殺校尉賴丹,未伏誅,請便道擊之,宣帝不許。大將軍霍光風惠以便宜從事。〈師古曰:「言至前所專命而行也。風讀曰諷。」〉惠與吏士五百人俱至烏孫,還過,發西國兵二萬人,令副使發龜茲東國二萬人,烏孫兵七千人,從三面攻龜茲,兵未合,先遣人責其王以前殺漢使狀。王謝曰:「迺我先王時爲貴人姑翼所誤耳,我無罪。」惠曰:「即如此,縛姑翼來,吾置王。」〈師古曰:「置猶放。」〉王執姑翼詣惠,惠斬之而還。

後に蘇武に代わって典属国となり、外国の事情に明るく習熟し、勤勉で幾度も功績があった。甘露年間に、後将軍趙充国が薨去すると、天子はついに常恵を右将軍とし、典属国の職はそのままとした。宣帝が崩御すると、常恵は元帝に仕え、三年で薨去し、諡を壮武侯といった。封国は曾孫まで伝わり、建武年間になって絶えた。

原文後代蘇武爲典屬國,明習外國事,勤勞數有功。甘露中,後將軍趙充國薨,天子遂以惠爲右將軍,典屬國如故。宣帝崩,惠事元帝,三歲薨,謚曰壯武侯。傳國至曾孫,建武中迺絕。

鄭吉

原文鄭吉

鄭吉は会稽の人で、兵卒として軍に従い、幾度も西域に出向き、これによって郎となった。鄭吉は人となり強情で意志が強く(強力で意志の固い者)、外国の事情に習熟していた。張騫が西域を通じて以来、李広利の征伐の後、初めて校尉を置き、渠黎に屯田した。宣帝の時代に至り、鄭吉は侍郎として渠黎に屯田し、穀物を蓄積し、ついで諸国の兵を徴発して車師を攻め破り、衛司馬に昇進し、鄯善より西の南道を監督するよう命じられた。

原文鄭吉,會稽人也,以卒伍從軍,數出西域,由是爲郎。吉爲人彊執,〈師古曰:「彊力而有執志者。」〉習外國事。自張騫通西域,李廣利征伐之後,初置校尉,屯田渠黎。至宣帝時,吉以侍郎田渠黎,積穀,因發諸國兵攻破車師,遷衞司馬,使護鄯善以西南道。〈師古曰:「鄯音善。」〉

神爵年間、匈奴が内乱し、日逐王先賢撣が漢に降伏しようとし、人を遣わして鄭吉に連絡した。鄭吉は渠黎・亀茲諸国の五万人を徴発して日逐王を迎え、一万二千人、小王・将十二人が鄭吉に従って河曲に至ったが、かなり逃亡する者がいたので、鄭吉は追ってこれを斬り、ついに(日逐王を)率いて京師に至った。漢は日逐王を帰徳侯に封じた。

原文神爵中,匈奴乖亂,日逐王先賢撣欲降漢,〈師古曰:「撣音纏。」〉使人與吉相聞。吉發渠黎、龜茲諸國五萬人迎日逐王,口萬二千人、小王將十二人隨吉至河曲,頗有亡者,吉追斬之,遂將詣京師。漢封日逐王爲歸德侯。

鄭吉はすでに車師を破り、日逐王を降伏させ、その威勢は西域に震い、ついで車師より西北の道をも合わせて監督したので、都護と号した(南北二道を合わせて監督するので、都という。都は大、総の意)。都護の設置は鄭吉から始まったのである。

原文吉旣破車師,降日逐,威震西域,遂并護車師以西北道,故號都護。〈師古曰:「並護南北二道,故謂之都。都猶大也,緫也。」〉都護之置自吉始焉。

(皇帝)はその功績を賞賛し、詔を下して言った、「西域都護騎都尉鄭吉は、外蛮を慰撫し、威信を宣明し、匈奴の単于の従兄である日逐王の衆を迎え、車師の兜訾城を撃破し、功績は顕著である。鄭吉を安遠侯に封じ、食邑千戸を与える」と。鄭吉はここに西域の中央に拠点を置き幕府を立て(西域の中央というのは、最も諸国の中央に位置し、遠近が均等であることを言う)、烏塁城を治所とし、諸国を鎮撫し、誅伐し懐柔した。漢の号令が西域に布かれたのは、張騫に始まり鄭吉によって完成されたのである。詳細は『西域伝』にある。

原文上嘉其功效,迺下詔曰:「都護西域騎都尉鄭吉,拊循外蠻,宣明威信,〈師古曰:「禮云東夷、北狄、西戎、南蠻,然夷蠻戎狄亦四方之緫稱耳,故史傳又云百蠻也。」〉迎匈奴單于從兄日逐王衆,擊破車師兜訾城,〈師古曰:「訾音子移反。」〉功效茂著。其封吉爲安遠侯,食邑千戶。」吉於是中西域而立莫府,〈師古曰:「中西域者,言最處諸國之中,近遠均也。中音竹仲反。」〉治烏壘城,鎮撫諸國,誅伐懷集之。漢之號令班西域矣,〈師古曰:「班,布也。」〉始自張騫而成於鄭吉。語在〈西域傳〉。

鄭吉が薨去し、諡を繆侯といった。子の光が後を継いだが、薨去し子がなく、封国は除かれた。元始年間に、罪によって絶えていない功臣を記録し、鄭吉の曾孫の永を安遠侯に封じた。

原文吉薨,謚曰繆侯。子光嗣,薨,無子,國除。元始中,錄功臣不以罪絕者,封吉曾孫永爲安遠侯。

甘延寿

原文甘延壽

甘延壽は字を君況といい、北地郡郁郅県の人である。若い頃に良家の子として騎射に優れ、羽林郎となった。石を投げる力や、互いに組み合って地面に据えた棒を引き抜く力は同輩をはるかに凌ぎ、かつて羽林の亭楼を飛び越えたことがあり、これによって郎に昇進した。手搏(弁)の試験を受け、期門となった。その武勇と力量によって寵愛を受け、次第に昇進して遼東太守となったが、免官された。車騎将軍の許嘉が甘延寿を郎中諫大夫に推薦し、西域都護騎都尉として派遣し、副校尉の陳湯と共に郅支単于を誅殺し、義成侯に封じられた。死去すると、壮侯と諡された。封国は曾孫まで伝わったが、王莽が敗れると絶えた。

原文甘延壽字君況,北地郁郅人也。少以良家子善騎射爲羽林,投石拔距絕於等倫,〈應劭曰:「投石,以石投人也。拔距,即下超踰羽林亭樓是也。」張晏曰:「范蠡兵法飛石重十二斤,爲機發,行二百步。延壽有力,能以手投之。拔距,超距也。」師古曰:「投石,應說是也。拔距者,有人連坐相把據地,距以爲堅而能拔取之,皆言其有手掣之力。超踰亭樓,又言其趫捷耳,非拔距也。今人猶有拔爪之戲,蓋拔距之遺法。」〉甞超踰羽林亭樓,由是遷爲郎。試弁,〈孟康曰:「弁,手搏。」〉爲期門,以材力愛幸。稍遷至遼東太守,免官。車騎將軍許嘉薦延壽爲郎中諫大夫,使西域都護騎都尉,與副校尉陳湯共誅斬郅支單于,封義成侯。薨,謚曰壯侯。傳國至曾孫,王莽敗,迺絕。

陳湯

原文陳湯

陳湯は字を子公といい、山陽郡瑕丘県の人である。若い頃から書物を好み、博識で通達し、文章を綴るのが巧みであった。家は貧しく、借金を乞うことに節度がなく、州里から称賛されなかった。西の長安に赴いて官職を求め、太官献食丞となった。数年後、富平侯の張勃が陳湯と交わり、その才能を高く評価した。初元二年、元帝が列侯に茂材を推薦するよう詔を下すと、張勃は陳湯を推薦した。陳湯は昇進を待っていたが、父が死んでも喪に駆けつけず、司隷が陳湯に品行がなく、張勃が事実に基づかずに推薦したと上奏したため、張勃は二百戸を削られる罪に処せられ、ちょうど死去したので、繆侯と諡された。陳湯は獄に下され、審議にかけられた。後に再び推薦されて郎となり、たびたび外国への使者になることを求めた。長い後、西域副校尉に昇進し、甘延寿と共に派遣された。

原文陳湯字子公,山陽瑕丘人也。少好書,博達善屬文。〈師古曰:「屬音之欲反。」〉家貧匄貣無節,〈師古曰:「匄,乞也。貣音吐得反。」〉不爲州里所稱。西至長安求官,得太官獻食丞。數歲,富平侯張勃與湯交,高其能。初元二年,元帝詔列侯舉茂材,勃舉湯。湯待遷,父死不犇喪,〈師古曰:「犇,古奔字。」〉司隷奏湯無循行,勃選舉故不以實,坐削戶二百,會薨,因賜謚曰繆侯。〈師古曰:「以其繆舉人也。」〉湯下獄論。後復以薦爲郎,數求使外國。乆之,遷西域副校尉,與甘延壽俱出。

これより先、宣帝の時、匈奴が内乱し、五人の単于が争って立ち、呼韓邪単于と郅支単于が共に子を人質として送ったので、漢は両方を受け入れた。後に呼韓邪単于が自ら入朝して臣と称し朝見したので、郅支は呼韓邪が敗れて弱体化し漢に降ったため、自力で戻れないのだと考え、ただちに西進して右地を収めた。ちょうど漢が兵を発して呼韓邪単于を送り返したので、郅支はこれによって遂に西進して呼偈、堅昆、丁令を撃破し、三国を併せてそこに都を置いた。漢が呼韓邪を擁護して自分を助けなかったことを怨み、漢の使者の江迺始らを困窮させ辱めた。初元四年、使者を派遣して貢物を献上し、人質の王子を送り返してくれるよう求め、内附を願い出た。漢は衛司馬の谷吉を派遣して送り届けることを議論した。御史大夫の貢禹と博士の匡衡は、『春秋』の義に「夷狄に許すことは一度で満足させない」とあるとして、今、郅支単于の教化への志向は純粋ではなく、所在は極めて遠方であるから、使者にその子を国境まで送って帰還させるべきだと論じた。谷吉が上書して言うには、「中国と夷狄には、つながりを絶やさないという義理があります。今、すでにその子を十年間養い育て、恩恵は非常に厚いのに、空しく絶交して送り返さず、近くの国境から帰還させるのは、見捨てて養わないことを示すもので、彼らに従順な心を持たせません。以前の恩を捨て、後の怨みを生むのは得策ではありません。議論する者は以前の江迺始に敵に対応する術がなく、知恵も勇気も共に尽きて恥辱を招いたのを見て、あらかじめ私のことを心配しています。私は幸いにも強漢の節を持ち、明聖の詔を受け継ぎ、厚い恩を宣べ諭すのですから、彼らは敢えて凶悪にはならないでしょう。もし禽獣のような心を持ち、私に無道を加えるならば、単于は長く大罪を負い、必ず逃げて遠くに留まり、辺境に近づくことはできません。一人の使者を失って百姓を安んじるのは、国の計略であり、私の願いです。どうか単于の庭まで送り届けさせてください。」皇帝はこれを朝臣たちに見せたが、貢禹が再び反対し、谷吉が行けば必ず国のために後悔を招き事を起こすとして、許すべきではないと論じた。右将軍の馮奉世は派遣すべきだとし、皇帝はこれを許可した。到着すると、郅支単于は怒り、ついに谷吉らを殺した。自ら漢に背いたことを悟り、また呼韓邪がますます強くなったと聞くと、遂に西の康居へ奔った。康居王は娘を郅支に娶わせ、郅支も娘を康居王に与えた。康居は郅支を非常に尊敬し、その威光を頼りに諸国を脅かそうとした。郅支はたびたび兵を借りて烏孫を攻撃し、深く侵入して赤谷城まで至り、民を殺害略奪し、家畜を駆り立てた。烏孫は追撃を敢えてせず、西辺は空虚となり、人が住まない地域が千里近くに及んだ。郅支単于は自らを大国とし、威名が尊重され、また勝ちに乗じて驕り、康居王を礼遇せず、怒って康居王の娘や貴人、人民数百人を殺し、ある者は四肢を切断して都頼水の中に投げ込んだ。民衆を徴発して城を築かせ、一日に五百人を動員し、二年かかってようやく完成した。また使者を派遣して闔蘇・大宛諸国に毎年の貢物を要求し、彼らは与えないわけにはいかなかった。漢は三度にわたって使者を康居に派遣し、谷吉らの遺体を求めたが、郅支は使者を困窮させ辱め、詔を奉じようとせず、かえって西域都護を通じて上書して言うには、「困窮の地に居り、強漢に帰属して計略を受け、子を人質として送りたい。」と。その驕慢無礼はこのようなものであった。

原文先是,宣帝時匈奴乖亂,五單于爭立,呼韓邪單于與郅支單于俱遣子入侍,漢兩受之。後呼韓邪單于身入稱臣朝見,郅支以爲呼韓邪破弱降漢,不能自還,即西収右地。會漢發兵送呼韓邪單于,郅支由是遂西破呼偈、堅昆、丁令,〈服虔曰:「呼偈,小國名,在匈奴北。」師古曰:「偈音起厲反。令與零同。」〉兼三國而都之。怨漢擁護呼韓邪而不助己,困辱漢使者江迺始等。初元四年,遣使奉獻,因求侍子,願爲內附。漢議遣衞司馬谷吉送之。御史大夫貢禹、博士匡衡以爲春秋之義「許夷狄者不壹而足」,〈師古曰:「言節制之,不皆稱其所求也。」〉今郅支單于鄉化未醇,〈師古曰:「鄉讀曰嚮。不雜曰醇。醇,一也,厚也。」〉所在絕遠,宜令使者送其子至塞而還。吉上書言:「中國與夷狄有羈縻不絕之義,今旣養全其子十年,德澤甚厚,空絕而不送,近從塞還,示弃捐不畜,〈師古曰:「畜謂愛養也。」〉使無鄉從之心。〈師古曰:「鄉讀曰嚮。嚮從謂向化而從命也。」〉弃前恩,立後怨,不便。議者見前江迺始無應敵之數,知勇俱困,以致恥辱,即豫爲臣憂。臣幸得建彊漢之節,承明聖之詔,宣諭厚恩,不宜敢桀。〈師古曰:「言郅支畏威,當不敢桀黠也。」〉若懷禽獸,加無道於臣,則單于長嬰大罪,〈師古曰:「嬰猶帶也。」〉必遁逃遠舍,〈師古曰:「舍,止也。」〉不敢近邊。沒一使以安百姓,國之計,臣之願也。願送至庭。」〈師古曰:「單于庭。」〉上以示朝者,禹復爭,以爲吉往必爲國取悔生事,不可許。右將軍馮奉世以爲可遣,上許焉。旣至,郅支單于怒,竟殺吉等。自知負漢,又聞呼韓邪益彊,遂西奔康居。康居王以女妻郅支,郅支亦以女予康居王。康居甚尊敬郅支,欲倚其威以脅諸國。〈師古曰:「倚音於綺反。」〉郅支數借兵擊烏孫,深入至赤谷城,殺略民人,敺畜產,〈師古曰:「敺與驅同。下皆類此。」〉烏孫不敢追,西邊空虛,不居者且千里。郅支單于自以大國,威名尊重,又乘勝驕,不爲康居王禮,怒殺康居王女及貴人、人民數百,或支解投都賴水中。〈師古曰:「支解謂解截其四支也。都賴,郅支水名。」〉發民作城,日作五百人,二歲迺已。又遣使責闔蘇、大宛諸國歲遺,〈師古曰:「胡廣云康居北可一千里有國名奄蔡,一名闔蘇。然則闔蘇即奄蔡也。歲遺者,年常所獻遺之物。遺音弋季反。」〉不敢不予。漢遣使三輩至康居求谷吉等死,〈師古曰:「死,尸也。」〉郅支困辱使者,不肯奉詔,而因都護上書言:「居困戹,願歸計彊漢,遣子入侍。」〈師古曰:「故爲此言以調戲也。歸計謂歸附而受計策也。」〉其驕嫚如此。

建昭三年、湯と延寿は西域に出た。湯は人となり沈着で勇敢で大いなる思慮があり、多くの策略をめぐらし、奇功を喜び、城邑や山川を通るたびに、常に登って眺めた。外国を統領することになってから、延寿と謀って言った。「夷狄は強大な種族を畏れ服従するのが、その天性である。西域はもともと匈奴に属していたが、今や郅支単于の威名は遠くまで聞こえ、烏孫や大宛を侵し陵辱し、常に康居のために策をめぐらし、これを降伏させようとしている。もしこの二国を得れば、北は伊列を撃ち、西は安息を取り、南は月氏や山離烏弋を退け、数年の中に、城郭諸国は危うくなるであろう。しかもその人々は剽悍で、戦伐を好み、しばしば勝利を得ている。長く蓄えれば、必ずや西域の患いとなろう。郅支単于は所在が絶遠ではあるが、蛮夷には金城強弩の守りはない。もし屯田の吏士を発し、烏孫の衆兵を率いて従わせ、まっすぐにその城下を指せば、彼らが逃れれば行くところがなく、守れば自らを保つに足りず、千載の功業は一朝にして成し遂げられよう。」延寿もまたもっともだと思い、上奏して請おうとしたが、湯は言った。「国家が公卿と議すれば、大いなる策略は凡庸な者の見るところではなく、事は必ず従わないであろう。」延寿はなおも躊躇して聞き入れなかった。ちょうど彼が長く病んでいた折、湯は独断で制を矯めて城郭諸国の兵と、車師の戊己校尉の屯田吏士を発動した。延寿はこれを聞き、驚いて起き上がり、止めようとした。湯は怒り、剣を押さえて延寿を叱って言った。「大衆はすでに集結した。小僧が衆を沮そうというのか。」延寿はついにこれに従い、行陣を部署し統率し、さらに揚威、白虎、合騎の校を置いた。漢兵と胡兵を合わせて四万余人となり、延寿と湯は上疏して自ら矯制を劾奏し、兵の状況を陳述した。

原文建昭三年,湯與延壽出西域。湯爲人沈勇有大慮,多策謀,喜竒功,〈師古曰:「喜音許吏反。」〉每過城邑山川,常登望。旣領外國,與延壽謀曰:「夷狄畏服大種,其天性也。西域本屬匈奴,今郅支單于威名遠聞,侵陵烏孫、大宛,常爲康居畫計,欲降服之。如得此二國,北擊伊列,西取安息,南排月氏、山離烏弋,數年之閒,城郭諸國危矣。〈服虔曰:「山離烏弋不在三十六國中,去中國二萬里。」師古曰:「謂西城國爲城郭者,言不隨畜牧遷徙,以別於匈奴也。」〉且其人剽悍,〈師古曰:「剽,輕也。悍,勇也。剽音頻妙反,又音匹妙反。悍音胡幹反。」〉好戰伐,數取勝,乆畜之,必爲西域患。郅支單于雖所在絕遠,蠻夷無金城強弩之守,如發屯田吏士,敺從烏孫衆兵,〈師古曰:「敺,帥之令隨從也。」〉直指其城下,彼亡則無所之,守則不足自保,〈師古曰:「之,往也。保,安也。」〉千載之功可一朝而成也。」延壽亦以爲然,欲奏請之,湯曰:「國家與公卿議,大策非凡所見,事必不從。」〈師古曰:「言凡庸之人,不能遠見,故壞其事也。」〉延壽猶與不聽。〈師古曰:「與讀曰豫。」〉會其乆病,湯獨矯制發城郭諸國兵、車師戊己校尉屯田吏士。延壽聞之,驚起,欲止焉。湯怒,按劔叱延壽曰:「大衆已集會,竪子欲沮衆邪?」〈師古曰:「沮,止也,壞也,音才汝反。」〉延壽遂從之,部勒行陳,益置揚威、白虎、合騎之校,〈張晏曰:「西域陳法之名也。」師古曰:「張說非也。一校則別爲一部軍,故稱校耳。湯特新置此等諸校名,以爲威聲也。」〉漢兵胡兵合四萬餘人,延壽、湯上疏自劾奏矯制,陳言兵狀。

即日に軍を率いて分行し、別に六校とし、その三校は南道から怱領を越えて大宛に直行し、その三校は都護自らが将となり、温宿国から発し、北道から赤谷に入り、烏孫を過ぎ、康居の境界を渡り、闐池の西に至った。ところが康居の副王抱闐が数千騎を率い、赤谷城の東を寇し、大昆弥千余人を殺略し、畜産を多く駆り去った。後から漢軍に追いつき、しばしば後方の輜重を寇盗した。湯は胡兵を放ってこれを撃ち、四百六十人を殺し、略奪された民四百七十人を得て、大昆弥に返し、その馬牛羊を軍食に供した。また抱闐の貴人伊奴毒を捕らえた。

原文即日引軍分行,別爲六校,其三校從南道踰怱領徑大宛,其三校都護自將,發溫宿國,從北道入赤谷,過烏孫,涉康居界,至闐池西。而康居副王抱闐將數千騎,〈文穎曰:「闐音填。」〉寇赤谷城東,殺略大昆彌千餘人,敺畜產甚多。從後與漢軍相及,頗寇盜後重。〈師古曰:「重謂輜重也,音直用反。」〉湯縱胡兵擊之,殺四百六十人,得其所略民四百七十人,還付大昆彌,其馬牛羊以給軍食。又捕得抱闐貴人伊奴毒。

康居の東の境界に入り、軍に寇すことを禁じた。密かにその貴人屠墨を呼んで会い、威信をもって諭し、飲んで盟を結び遣わした。まっすぐに行軍を引き、単于の城に至るまで六十里ほどのところで、営を止めた。また康居の貴人貝色の子の男、開牟を捕らえて道案内とした。貝色の子はすなわち屠墨の母の弟で、皆単于を怨んでおり、これによって郅支の内情を詳しく知った。

原文入康居東界,令軍不得爲寇。〈師古曰:「勿抄掠。」〉間呼其貴人屠墨見之,〈師古曰:「間謂密呼也。」〉諭以威信,與飲盟遣去。徑引行,未至單于城可六十里,止營。復捕得康居貴人貝色子男開牟以爲導。貝色子即屠墨母之弟,〈師古曰:「母之弟即謂舅也。」〉皆怨單于,由是具知郅支情。

翌日、行軍を引き、城に至るまで三十里のところで、営を止めた。単于が使者を遣わして問うた。「漢兵はどうして来たのか。」応えて言った。「単于が上書して困窮していると述べ、強漢に帰順することを願い、自ら入朝して謁見したいと申しました。天子は単于が大国を棄て、康居に意を屈したことを哀れみ、故に都護将軍を遣わして単于の妻子を迎えに来たのです。左右が驚き動くのを恐れ、故にまだ城下に至ることを敢えてしません。」使者は数度往来して応答した。延寿と湯はそこでこれを責めた。「我々は単于のために遠く来たというのに、今に至るまで名王や大人が将軍に会って事を受けないのは、どういうことか。なぜ単于は大計を忘れ、客主の礼を失うのか。兵は道遠く来て、人畜は疲れ果て、食糧もまさに尽きようとしている。自ら帰還するすべがないことを恐れる。どうか単于は大臣とよく策を計ってほしい。」

原文明日引行,未至城三十里,止營。單于遣使問:「漢兵何以來?」應曰:「單于上書言居困阸,願歸計彊漢,身入朝見。天子哀閔單于棄大國,屈意康居,故使都護將軍來迎單于妻子,恐左右驚動,故未敢至城下。」使數往來相荅報。延壽、湯因讓之:〈師古曰:「讓,責也。」〉「我爲單于遠來,而至今無名王大人見將軍受事者,〈師古曰:「名王,諸王之貴者。受事,受敎命而供事也。」〉何單于忽大計,〈師古曰:「忽,忘也。」〉失客主之禮也!兵來道遠,人畜罷極,食度且盡,〈師古曰:「罷讀曰疲。度音大各反。」〉恐無以自還,願單于與大臣審計策。」

翌日、前に進んで郅支城の都頼水の上に至り、城から三里離れて、営を布陣して止めた。単于の城の上に五色の幡幟が立ち、数百人が甲を着て城に登り、また百余騎が出て往来し城下を馳せ、歩兵百余人が門を挟んで魚鱗の陣をなし、兵を用いることを講習していた。城上の人が互いに漢軍を招いて「戦え、来い」と言った。百余騎が馳せて営に赴いたが、営は皆弩を張り満たしてこれを指し、騎兵は引き退いた。しばしば吏士を遣わして城門の騎兵・歩兵を射た。騎兵・歩兵は皆入った。延寿と湯は軍に命じて鼓の音を聞いたら皆城下に迫り、四方から城を囲み、それぞれ守るべきところを持ち、塹壕を穿ち、門戸を塞ぎ、大盾を前にし、戟と弩を後ろにし、仰いで城中の楼上の人を射た。楼上の人は下に走った。土城外に重なる木城があり、木城中から射て、かなり外の人を殺傷した。外の人は薪を発して木城を焼いた。夜、数百騎が外に出ようとしたが、迎え撃って射殺した。

原文明日,前至郅支城都賴水上,離城三里,止營傅陳。〈師古曰:「傅讀曰敷。敷,布也。」〉望見單于城上立五采幡織,〈師古曰:「織讀曰幟,音式志反。」〉數百人披甲乘城,〈師古曰:「乘謂登之備守也。」〉又出百餘騎往來馳城下,步兵百餘人夾門魚鱗陳,〈師古曰:「言其相接次,形若魚鱗。」〉講習用兵。城上人更招漢軍曰「鬬來!」〈師古曰:「更,互也,音工行反。」〉百餘騎馳赴營,營皆張弩持滿指之,騎引却。頗遣吏士射城門騎步兵,騎步兵皆入。延壽、湯令軍聞鼓音皆薄城下,〈師古曰:「薄,迫也。」〉四面圍城,各有所守,穿塹,塞門戶,鹵楯爲前,戟弩爲後,卬射城中樓上人,〈師古曰:「卬讀曰仰。」〉樓上人下走。土城外有重木城,從木城中射,頗殺傷外人。外人發薪燒木城。夜,數百騎欲出外,迎射殺之。

当初、単于は漢の兵が来たと聞いて、去ろうとしたが、康居が自分を恨んで漢の内応をしているのではないかと疑い、また烏孫など諸国の兵が皆出動したと聞き、自分には行くところがないと思った。〈師古は言う。「之は往くことである。」〉郅支はすでに出たが、また戻って来て言った。「堅守するに如かず。漢の兵は遠くから来ており、長く攻めることはできない。」単于はそこで鎧を着て楼の上に立ち、諸閼氏夫人数十人も皆弓で外の者を射た。外の者が単于の鼻を射当て、諸夫人も多く死んだ。単于は楼を下りて馬に乗り、転戦しながら大内へ入った。〈師古は言う。「下騎とは楼を下りて馬に乗ることである。伝戦は転戦である。大内は単于の内室である。戦いながら進んで内室に入ったという意味である。」〉夜が半ばを過ぎると、木城が破られ、中にいた者は退いて土城に入り、城壁に登って叫んだ。〈師古は言う。「乗は登ることである。呼は音火故反。次下も同じ。」〉その時、康居の兵一万余騎が十余か所に分かれ、四方から城を取り囲み、これと呼応した。〈師古は言う。「環はめぐること、音は患。和は音胡臥反。」〉夜、数度漢の陣営に突撃したが、〈師古は言う。「犇は古い奔の字である。」〉不利で、その度に退いた。夜明けに、四方から火の手が上がり、官吏と兵士は喜び、大声で叫びながら追撃し、〈師古は言う。「乗は逐うことである。」〉鉦や太鼓の音が地を震わせた。康居の兵は退却した。漢の兵は四方から楯を押し進め、土城中に一斉に突入した。単于と男女百余りは大内に逃げ込んだ。漢の兵は火を放ち、官吏と兵士は争って突入し、単于は傷ついて死んだ。軍候の仮丞である杜勳が単于の首を斬り、漢の使者の節二本と谷吉らが携えていた帛書を得た。鹵獲したものは全て獲得した者に与えられた。〈師古は言う。「畀は与えることである。それぞれ得た者に与えた。畀の音は必寐反。」〉合わせて閼氏、太子、名王以下千五百十八の首級を斬り、百四十五人を生け捕りにし、千余人を降伏させ、城郭諸国から派遣された十五王に分け与えた。〈師古は言う。「賦は班ち与えることである。所発十五王とは、共に郅支王を包囲した諸国の兵を派遣した王のことである。」〉

原文初,單于聞漢兵至,欲去,疑康居怨己,爲漢內應,又聞烏孫諸國兵皆發,自以無所之。〈師古曰:「之,往也。」〉郅支已出,復還,曰:「不如堅守。漢兵遠來,不能乆攻。」單于乃被甲在樓上,諸閼氏夫人數十皆以弓射外人。外人射中單于鼻,諸夫人頗死。單于下騎,傳戰大內。〈師古曰:「下騎謂下樓而騎馬也。傳戰,轉戰也。大內,單于之內室也。言且戰且行而入內室。」〉夜過半,木城穿,中人卻入土城,乘城呼。〈師古曰:「乘,登也。呼音火故反。次下亦同。」〉時康居兵萬餘騎分爲十餘處,四面環城,亦與相應和。〈師古曰:「環,繞也,音患。和音胡卧反。」〉夜,數犇營,〈師古曰:「犇,古奔字也。」〉不利,輒卻。平明,四面火起,吏士喜,大呼乘之,〈師古曰:「乘,逐也。」〉鉦鼔聲動地。康居兵引卻。漢兵四面推鹵楯,並入土城中。單于男女百餘人走入大內。漢兵縱火,吏士爭入,單于被創死。軍候假丞杜勳斬單于首,得漢使節二及谷吉等所齎帛書。諸鹵獲以畀得者。〈師古曰:「畀,予也。各以與所得人。畀音必寐反。」〉凡斬閼氏、太子、名王以下千五百一十八級,生虜百四十五人,降虜千餘人,賦予城郭諸國所發十五王。〈師古曰:「賦謂班與之也。所發十五王,謂所發諸國之兵,共圍郅支王者也。」〉

そこで延寿と湯は上疏して言った。「臣は聞きます。天下の大義は、混然一体となるべきであり、〈師古は言う。「混は同じくすること、音は胡本反。」〉昔には唐虞があり、今には強漢があります。匈奴の呼韓邪単于はすでに北の藩国と称し、ただ郅支単于だけが叛逆し、その罪に服していませんでした。大夏の西において、強漢は自分を臣下にできないと思っていたのです。〈師古は言う。「漢が郅支を臣服させられないと思っていたという意味である。」〉郅支単于の残酷な毒手は民に及び、大いなる悪は天に通じていました。臣延寿、臣湯は義兵を率い、天誅を行い、陛下の神霊に頼り、陰陽共に応じ、天気は清明で、敵陣を陥落させ敵を打ち破り、郅支の首及び名王以下を斬りました。その首を槀街の蛮夷邸の間に懸け示すのが相応しく、〈晋灼は言う。「黄図は長安城門内にある。」師古は言う。「槀街は街の名で、蛮夷邸はこの街にある。邸は、今で言う鴻臚客館のようなものである。崔浩は槀は橐であるべきで、橐街は銅駝街であると考えた。この説は誤りである。銅駝街は雒陽にあり、西京(長安)にはない。」〉万里の彼方に示し、強漢を犯す者は、たとえ遠くとも必ず誅することを明らかにすべきです。」事は有司に下された。丞相の匡衡と御史大夫の繁延寿は、〈師古は言う。「繁の音は蒲何反。」〉「郅支及び名王の首は諸国を経由して運ばれ、〈師古は言う。「更の音は工衡反。」〉蛮夷は皆聞き知っています。月令では春は『骼を掩い胔を埋める』時であり、〈応劭は言う。「禽獣の骨を骼という。骼は大きい。鳥鼠の骨を胔という。胔は憎むべきものである。」臣瓚は言う。「枯骨を骼といい、肉のついた骨を胔という。」師古は言う。「瓚の説が正しい。骼の音は工客反。胔の音は才賜反。」〉懸け示すべきではありません。」と考えた。車騎将軍の許嘉と右将軍の王商は「春秋の夾谷の会では、優施が君を笑ったので、孔子がこれを誅し、〈師古は言う。「夾谷は地名、即ち祝其である。定公十年『公が斉侯と夾谷で会した時、孔子が相事を摂り、斉侯が宮中の楽を奏し、俳優侏儒が前で戯れた。孔子は階を上って言った。「匹夫が諸侯を侮る者は、罪誅に応ずる。」そこで侏儒を斬り、首と足を別々の門から出した。斉侯は恐れ、慚色があった。』施は優人の名である。夾の音は頰。」〉盛夏の時、首と足を別々の門から出しました。十日間懸け示してから埋めるのが相応しい。」と考えた。詔があり、将軍の議が是とされた。

原文於是延壽、湯上疏曰:「臣聞天下之大義,當混爲一,〈師古曰:「混,同也,音胡本反。」〉昔有唐虞,今有彊漢。匈奴呼韓邪單于已稱北藩,唯郅支單于叛逆,未伏其辜,大夏之西,以爲彊漢不能臣也。〈師古曰:「謂漢爲不能使郅支臣服也。」〉郅支單于慘毒行於民,大惡通於天。臣延壽、臣湯將義兵,行天誅,賴陛下神靈,陰陽並應,天氣精明,陷陳克敵,斬郅支首及名王以下。宜縣頭槀街蠻夷邸閒,〈晉灼曰:「黃圖在長安城門內。」師古曰:「槀街,街名,蠻夷邸在此街也。邸,若今鴻臚客館也。崔浩以爲槀當爲橐,橐街即銅駝街也。此說失之。銅駝街在雒陽,西京無也。」〉以示萬里,明犯彊漢者,雖遠必誅。」事下有司。丞相匡衡、御史大夫繁延壽以爲〈師古曰:「繁音蒲何反。」〉「郅支及名王首更歷諸國,〈師古曰:「更音工衡反。」〉蠻夷莫不聞知。月令春『掩骼埋胔』之時,〈應劭曰:「禽獸之骨曰骼。骼,大也。鳥鼠之骨曰胔。胔,可惡也。」臣瓚曰:「枯骨曰骼,有肉曰胔。」師古曰:「瓚說是也。骼音工客反。胔音才賜反。」〉宜勿縣。」車騎將軍許嘉、右將軍王商以爲「春秋夾谷之會,優施笑君,孔子誅之,〈師古曰:「夾谷,地名,即祝其也。定十年『公會齊侯於夾谷,孔子攝相事,齊侯奏宮中之樂,俳優侏儒戲於前,孔子歷階而上曰:「匹夫侮諸侯者,罪應誅。」於是斬侏儒,首足異處,齊侯懼,有慚色。』施者,優人之名。夾音頰。」〉方盛夏,首足異門而出。宜縣十日迺埋之。」有詔將軍議是。

当初、中書令の石顕はかつて姉を延寿に娶せようとしたが、延寿は娶らなかった。また丞相や御史も彼らが詔を偽ったことを憎み、皆湯を許さなかった。〈師古は言う。「与は許すことである。」〉湯は元来貪欲で、鹵獲した財物を塞内に持ち込む際、多くは法に従わなかった。〈師古は言う。「不法とは、私自らこれを取り、軍法に依らないことである。」〉司隷校尉が道上に文書を送り、官吏と兵士を拘束して取り調べた。湯は上疏して言った。「臣は官吏・兵士と共に郅支単于を誅し、幸いにも捕らえ滅ぼすことができ、万里を凱旋しました。〈師古は言う。「師が入ることを振旅という。振は整えること。旅は衆である。」〉使者を遣わして路上で迎え労うべきです。〈師古は言う。「労の音は力到反。」〉今、司隷が逆に拘束して取り調べるのは、これこそ郅支の仇を討つようなものです!」皇帝は直ちに官吏・兵士を釈放し、県に命じて酒食を準備して軍を通過させた。都に着くと、功績を論じたが、石顕と匡衡は「延寿と湯は勝手に軍を起こし詔を偽り、幸いにも誅されなかっただけです。もしさらに爵位と領土を加えるならば、〈師古は言う。「如は若しである。」〉後に使者を奉ずる者が争って危険を冒し僥倖を求め、蛮夷に事を起こし、国のために難を招くことになり、その兆しを開くことはできません。」と考えた。元帝は内心、延寿と湯の功績を称えながらも、衡と顕の議に逆らうことを難しく思い、〈師古は言う。「重は難しとすることである。」〉議論は長く決まらなかった。

原文初,中書令石顯甞欲以姊妻延壽,延壽不取。及丞相、御史亦惡其矯制,皆不與湯。〈師古曰:「與猶許。」〉湯素貪,所鹵獲財物入塞多不法。〈師古曰:「不法者,私自取之,不依軍法。」〉司隷校尉移書道上,繫吏士按驗之。湯上疏言:「臣與吏士共誅郅支單于,幸得禽滅,萬里振旅,〈師古曰:「師入曰振旅。振,整也。旅,衆也。」〉宜有使者迎勞道路。〈師古曰:「勞音力到反。」〉今司隷反逆収繫按驗,是爲郅支報讎也!」上立出吏士,令縣道具酒食以過軍。旣至,論功,石顯、匡衡以爲「延壽、湯擅興師矯制,幸得不誅,如復加爵土,〈師古曰:「如,若也。」〉則後奉使者爭欲乘危徼幸,生事於蠻夷,爲國招難,漸不可開。」元帝內嘉延壽、湯功,而重違衡、顯之議,〈師古曰:「重,難也。」〉議乆不決。

かつて宗正の劉向が上疏して言った。「郅支単于は使者や官吏・兵士を数百人も捕らえて殺し、その事件は外国にまで暴かれ広まり、漢の威厳を傷つけ重みを損なったので、群臣は皆これを憂えていた。陛下は激怒してこれを誅しようとされ、そのお気持ちは一度も忘れたことはなかった。西域都護の延寿と副校尉の湯は聖なるご意志を受け、神霊の加護を頼みとし、百蛮の君長を総率し、城郭諸国の兵を掌握して、百死の危険を冒し、絶域に入り、ついに康居を踏み、五重の城を屠り、歙侯の旗を抜き取り、郅支の首を斬り、その旗を万里の外に掲げ、威を昆山の西に揚げ、谷吉の恥を払い、昭明の功を立てたので、万の夷狄は恐れ伏し、震え恐れぬ者はなかった。呼韓邪単于は郅支がすでに誅されたのを見て、喜びと恐れを抱き、風に従い義に駆け、首を地につけて来賓し、北の藩屏を守り、累世にわたって臣と称することを願った。千年の功を立て、万世の安泰を築くという点で、群臣の勲功はこれより大きいものはない。昔、周の大夫の方叔と吉甫が宣王のために獫狁を誅したので百蛮が従ったが、その詩に『嘽嘽焞焞、霆の如く雷の如し。顕允なる方叔、獫狁を征伐し、蛮荊来たりて威す』とある。《易経》には『嘉き有りて首を折り、其の醜ならざるを獲る』とある。これは首悪の者を誅することを称え、諸々の従わない者たちが皆来従することを言うのである。今、延寿と湯が誅伐して震動させたことは、たとえ《易経》の『首を折る』や、詩の『雷霆』でさえも及ばない。大功を論ずる者は小さな過ちを記録せず、大いなる美を挙げる者は細かい瑕をとがめない。司馬法に『軍の賞は月を踰えず』とあり、民が速やかに善を行う利益を得ることを望むのである。およそ武功を急ぎ、人を用いることを重んじるのである。吉甫が帰還したとき、周は手厚くこれを賜り、その詩に『吉甫宴喜し、既に多く祉を受く。鎬より来たり帰る、我行き永し』とある。千里の鎬でさえまだ遠いとされたのに、まして万里の外では、その労苦は極まったものである!延寿と湯はまだ福を受ける報いを得ていないのに、かえって命を捨てた功績を曲げられ、長く刀筆の吏の前で挫かれている。これは有功の者を勧め、戎士を励ますものではない。昔、斉の桓公は前に周を尊ぶ功績があり、後に項を滅ぼした罪があったが、君子はその功績をもって過失を覆い、その行事を避諱した。武師将軍の李広利は五万の軍を捨て、億万の費用を費やし、四年にわたる労苦を経て、わずかに駿馬三十匹を獲得したに過ぎず、たとえ宛王の毌鼓の首を斬ったとしても、まだ費用を償うには足りず、その私的な罪悪は甚だ多かった。孝武皇帝は万里の征伐であるとして、その過ちを記録せず、ついに両侯・三卿・二千石の官に封じ任じた者は百余人に及んだ。今、康居国は大宛より強く、郅支の名号は宛王より重く、使者を殺した罪は馬を留めたことより甚だしい。それなのに延寿と湯は漢の兵士を煩わせず、一斗の糧食も費やさず、武師将軍と比べれば、その功徳は百倍である。かつて常惠が烏孫に随いてこれを撃たせようとし、鄭吉が自ら来た日逐王を迎えただけで、皆まだ領土を分け与えられ爵位を受けた。だから、威武と勤労を言えば方叔・吉甫より大きく、功績を列ね過失を覆う点では斉の桓公・武師将軍より優れ、近年の事績の功績では安遠侯・長羅侯より高い。それなのに大功はまだ顕著でなく、小さな悪事ばかりが数え並べられている。臣はひそかにこれを痛む!時宜に応じて罪の懸けを解き通籍させ、過ちを除いて咎めず、爵位を尊び寵愛して、有功の者を勧めるべきである。」

原文故宗正劉向上疏曰:「郅支單于囚殺使者吏士以百數,事暴揚外國,傷威毀重,群臣皆閔焉。〈師古曰:「閔,病也。」〉陛下赫然欲誅之,意未甞有忘。西域都護延壽、副校尉湯承聖指,倚神靈,緫百蠻之君,㩜城郭之兵,〈師古曰:「㩜,緫持之也。其字從手。」〉出百死,入絕域,遂蹈康居,屠五重城,搴歙侯之旗,〈師古曰:「搴,拔也,音騫。」〉斬郅支之首,縣旌萬里之外,揚威昆山之西,埽谷吉之恥,立昭明之功,萬夷慴伏,〈師古曰:「慴,恐也,音之涉反。」〉莫不懼震。呼韓邪單于見郅支已誅,且喜且懼,鄉風馳義,〈師古曰:「馳義,慕義驅馳而來也。鄉讀曰嚮。」〉稽首來賔,願守北藩,累世稱臣。立千載之功,建萬世之安,羣臣之勳莫大焉。昔周大夫方叔、吉甫爲宣王誅獫狁而百蠻從,其詩曰:『嘽嘽焞焞,如霆如雷,顯允方叔,征伐獫狁,蠻荊來威。』〈師古曰:「小雅采虯之詩也。嘽嘽,衆也。焞焞,盛也。言車徒旣衆且盛,有如雷霆,故能克定獫狁而令荊土之蠻亦畏威而來也。嘽音他丹反。焞音他回反。」〉《易》曰:『有嘉折首,獲匪其醜。』〈師古曰:「離上九爻辭也。嘉,善也。醜,類也。言王者出征,克勝斬首,多獲非類,故以爲善。」〉言美誅首惡之人,而諸不順者皆來從也。今延壽、湯所誅震,雖易之折首、詩之雷霆不能及也。論大功者不錄小過,舉大美者不疵細瑕。司馬法曰『軍賞不踰月』,欲民速得爲善之利也。蓋急武功,重用人也。吉甫之歸,周厚賜之,其《詩》曰:『吉甫宴喜,旣多受祉,來歸自鎬,我行永乆。』〈師古曰:「《小雅·六月》之詩也。鎬,地名,非豐鎬之鎬。此鎬及方皆在周之北。時獫狁侵鎬及方,至於涇陽。吉甫薄伐,自鎬而還。王以燕禮樂之,多受福賜,以其行役有功,日月長乆故也。」〉千里之鎬猶以爲遠,況萬里之外,其勤至矣!延壽、湯旣未獲受祉之報,反屈捐命之功,久挫於刀筆之前,〈師古曰:「捐棄其軀命,言無所顧也。挫,屈折也。刀筆謂吏也。」〉非所以勸有功厲戎士也。昔齊桓公前有尊周之功,〈師古曰:「謂伐楚責苞茅,及會王太子于首止。」〉後有滅項之罪,〈師古曰:「項,國名也。春秋僖十七年夏,滅項。《公羊傳》曰:『齊滅之也。不言齊,爲桓公諱也。桓常有繼絕存亡之功,故君子爲之諱。』」〉君子以功覆過而爲之諱行事。〈師古曰:「行事謂滅項之事也。」〉貳師將軍李廣利捐五萬之師,靡億萬之費,〈師古曰:「靡,散也,音縻。」〉經四年之勞,而廑獲駿馬三十匹,〈師古曰:「廑與僅同。僅,少也。」〉雖斬宛王毌鼔之首,〈師古曰:「〈西域傳〉作毌寡,而此云毌鼓,鼓寡聲相近,蓋戎狄之言不甚諦也。」〉猶不足以復費,〈師古曰:「復,償也,音扶目反。」〉其私罪惡甚多。孝武以爲萬里征伐,不錄其過,遂封拜兩侯、三卿、二千石百有餘人。今康居國彊於大宛,郅支之號重於宛王,殺使者罪甚於留馬,而延壽、湯不煩漢士,不費斗糧,比於貳師,功德百之。〈師古曰:「百倍勝之。」〉且常惠隨欲擊之烏孫,鄭吉迎自來之日逐,猶皆裂土受爵。故言威武勤勞則大於方叔、吉甫,列功覆過則優於齊桓、貳師,近事之功則高於安遠、長羅,〈師古曰:「安遠侯鄭吉,長羅侯常惠也。」〉而大功未著,小惡數布,臣竊痛之!宜以時解縣通籍,〈孟康曰:「縣,罪未竟也,如言縣罰也。通籍,不禁止,令得出入也。」〉除過勿治,尊寵爵位,以勸有功。」

そこで天子は詔を下して言った。「匈奴の郅支単于は礼義に背き叛逆し、漢の使者・官吏・兵士を留め殺しにし、道理に甚だ逆らった。朕はどうしてこれを忘れようか!ゆったりと構えて征伐しなかったのは、師衆を動かすことを重んじ、将帥を労するのを避けたからであり、故に忍耐して何も言わなかったのである。今、延寿と湯は便宜を見て取り、時利に乗じ、城郭諸国と結び、独断で兵を興し制を矯めてこれを征伐し、天地宗廟の霊威に頼り、郅支単于を誅討し、その首を斬り獲、および閼氏・貴人・名王以下数千人を捕らえた。たとえ義を踰え法を犯したとしても、内では一人の役夫の労役も煩わせず、府庫の蔵を開かず、敵の糧食を利用して軍用を賄い、万里の外に功を立て、威は百蛮に震い、名は四海に顕れた。国のために残賊を除き、兵革の根源を止め、辺境は安泰を得ることができた。それでもなお死傷の患いを免れず、罪は法を奉ずるにあるべきであるが、朕は甚だこれを哀れむ!延寿と湯の罪を赦し、咎めないこととする。」詔して公卿に封爵のことを議させた。議する者は軍法による単于捕斬の令の通りにすべきであるとした。匡衡と石顕は「郅支はもともと逃亡して国を失い、絶域で窃かに号を称したもので、真の単于ではない」と考えた。元帝は安遠侯鄭吉の故事を取って、千戸を封じようとしたが、匡衡と石顕がまた争った。そこで延寿を義成侯に封じ、湯に関内侯の爵を賜い、それぞれ三百戸を食邑とし、さらに黄金百斤を賜った。上帝と宗廟に告げ、天下に大赦を行った。延寿を長水校尉に、湯を射声校尉に任じた。

原文於是天子下詔曰:「匈奴郅支單于背畔禮義,留殺漢使者、吏士,甚逆道理,朕豈忘之哉!所以優游而不征者,重動師衆,〈師古曰:「重,難也。」〉勞將率,故隱忍而未有云也。今延壽、湯睹便宜,乘時利,結城郭諸國,擅興師矯制而征之,賴天地宗廟之靈,誅討郅支單于,斬獲其首,及閼氏貴人名王以下千數。雖踰義干法,〈師古曰:「干,犯也。」〉內不煩一夫之役,不開府庫之臧,因敵之糧以贍軍用,立功萬里之外,威震百蠻,名顯四海。爲國除殘,兵革之原息,邊竟得以安。〈師古曰:「竟讀曰境。」〉然猶不免死亡之患,罪當在於奉憲,朕甚閔之!其赦延壽、湯罪,勿治。」詔公卿議封焉。議者以爲宜如軍法捕斬單于令。匡衡、石顯以爲「郅支本亡逃失國,竊號絕域,非真單于。」元帝取安遠侯鄭吉故事,封千戶,衡、顯復爭。迺封延壽爲義成侯,賜湯爵關內侯,食邑各三百戶,加賜黃金百斤。告上帝、宗廟,大赦天下。拜延壽爲長水校尉,湯爲射聲校尉。

延寿は城門校尉に遷り、護軍都尉となったが、官のまま死去した。成帝が初めて即位したとき、丞相の匡衡がまた上奏して「湯は二千石の吏として奉使し、蛮夷の中で専断し、自らを正してまず下に示すことなく、しかも収めた康居の財物を盗み、官属に『絶域の事は再調査しない』と戒めた。たとえ赦前のことであるとしても、その地位にいるのはふさわしくない」と言った。湯は罪に坐して免官された。

原文延壽遷城門校尉,護軍都尉,薨於官。成帝初即位,丞相衡復奏「湯以吏二千石奉使,顓命蠻夷中,〈師古曰:「顓與專同。」〉不正身以先下,而盜所收康居財物,戒官屬曰絕域事不覆校。雖在赦前,不宜處位。」湯坐免。

その後、陳湯が上書して言うには、康居王の侍子は王子ではないと述べたが、調査検証したところ、実際は王子であった。陳湯は獄に下され、死罪に当たるとされた。太中大夫の谷永が上疏して陳湯を弁護して言った。「臣は聞きます。楚には子玉(得臣)がおり、晋の文公は彼のために席を正さずに座ったと。趙には廉頗と馬服君(趙奢)がおり、強秦も井陘に兵を窺うことができなかったと。近年の漢には郅都と魏尚がおり、匈奴は南の砂漠を向こうとしなかったと。このことから言えば、戦いに勝つ将軍は国の爪牙であり、重んじないわけにはいきません。そもそも『君子は鼓鼙の声を聞けば、将帥の臣を思う』と言われています。ひそかに拝見しますに、関内侯陳湯は、以前に西域都護の副使として派遣され、郅支の無道を憤り、王の誅罰が加えられないことを憂い、策謀を巡らし思いを秘め、義勇奮発し、ついに軍を興して奔り、烏孫を横断し、遥かに都頼に集結し、三重の城を屠り、郅支の首を斬り、十年にわたる逃亡者の誅罰に報い、辺境の吏の宿怨を雪ぎ、威は百蛮に震い、武威は西海に暢びました。漢が建って以来、外征の将軍で、かつてこのような者はおりません。今、陳湯は上言した事柄が正しくなかったという罪で坐し、幽囚され長く拘束され、時が経っても決断されず、法を執る吏は彼を大辟に処そうとしています。昔、白起が秦の将軍であった時、南では郢都を抜き、北では趙括を坑に埋めましたが、わずかな過失のために、杜郵で死を賜り、秦の民は彼を憐れみ、涙を流さない者はいませんでした。今、陳湯は自ら鉞を執り、席を巻くように疾風のごとく、万里の外で血戦し、功を祖廟に薦め、上帝に類を告げ、甲冑を着けた兵士たちはみなその義を慕わない者はいません。上言した事柄を罪とされても、これといった悪事はありません。周書に言います。『人の功を記し、人の過ちを忘れるは、君たるに宜しき者なり』と。犬馬でさえ人に労があれば、帷蓋をかけて葬るという報いを加えるのに、まして国の功臣においておやです。ひそかに恐れるのは、陛下が鼓鼙の声に気づかず、周書の意を察せず、帷蓋をかけるほどの恩恵を忘れ、庸臣として陳湯を遇し、ついに吏の議に従われ、百姓に秦の民のような恨みを抱かせることです。それは死難の臣を励ますことにはなりません。」上書が奏上されると、天子は陳湯を出獄させ、爵位を奪って士伍とした。

原文後湯上書言康居王侍子非王子也。按驗,實王子也。湯下獄當死。太中大夫谷永上疏訟湯曰:「臣聞楚有子玉得臣,文公爲之仄席而坐;〈師古曰:「子玉,楚大夫也,得臣其名也。春秋僖二十八年,子玉帥師與晉文公戰于城濮,楚師敗績。晉師三日館穀,而文公猶有憂色,曰:『得臣猶在,憂未歇也。』及楚殺子玉,公喜而後可知也。《禮記》曰『有憂者仄席而坐』,蓋自貶之。仄,古側字也。」〉趙有廉頗、馬服,彊秦不敢窺兵井陘;〈師古曰:「廉頗,趙將也。馬服君趙屠亦趙將也。井陘之口,趙之西界山險道也。」〉近漢有郅都、魏尚,匈奴不敢南鄉沙幕。〈師古曰:「鄉讀曰嚮。」〉由是言之,戰克之將,國之爪牙,不可不重也。蓋『君子聞鼓鼙之聲,則思將率之臣』。〈師古曰:「禮之樂記曰『鼓鼙之聲讙,讙以立動,動以進衆。君子聽鼓鼙之聲,則思將率之臣』也。」〉竊見關內侯陳湯,前使副西域都護,忿郅支之無道,閔王誅之不加,〈師古曰:「閔,憂也。」〉策慮愊億,〈師古曰:「愊億,憤怒之貌也。愊音皮逼反。」〉義勇奮發,卒興師奔逝,橫厲烏孫,踰集都賴,〈如淳曰:「踰,遠也。遠集郅支都賴水上也。」師古曰:「卒讀曰猝。厲,度也。踰讀曰遙。」〉屠三重城,斬郅支首,報十年之逋誅,〈師古曰:「逋,亡也。」〉雪邊吏之宿恥,威震百蠻,武暢西海,漢元以來,征伐方外之將,未甞有也。今湯坐言事非是,幽囚久繫,歷時不決,執憲之吏欲致之大辟。昔白起爲秦將,南拔郢都,北阬趙括,以纖介之過,賜死杜郵,〈師古曰:「地名也,在咸陽西也。」〉秦民憐之,莫不隕涕。今湯親秉鉞,席卷喋血萬里之外,〈師古曰:「如席之卷。言其疾也。喋血,解在〈文紀〉。」〉薦功祖廟,告類上帝,〈張晏曰:「謂以所征之國事類告天也。」〉介冑之士靡不慕義。以言事爲罪,無赫赫之惡。周書曰:『記人之功,忘人之過,宜爲君者也。』〈師古曰:「尚書之外逸書也。」〉夫犬馬有勞於人,尚加帷蓋之報,〈師古曰:「《禮記》稱孔子云:『敝帷弗棄,爲薶馬也;敝蓋弗棄,爲薶狗也。』」〉況國之功臣者哉!竊恐陛下忽於鼙鼓之聲,不察周書之意,而忘帷蓋之施,庸臣遇湯,卒從吏議,〈師古曰:「以庸臣之禮待遇之也。卒,終也。」〉使百姓介然有秦民之恨,〈師古曰:「介然猶耿耿。」〉非所以厲死難之臣也。」書奏,天子出湯,奪爵爲士伍。

数年後、西域都護の段会宗が烏孫の兵に包囲され、駅騎が上書して、城郭敦煌の兵を発して自らを救うことを願った。丞相の王商、大将軍の王鳳および百官が数日間議論したが決まらなかった。王鳳が言うには「陳湯は多くの策略に長け、外国の事情に通じているので、尋ねるのがよい。」皇帝は陳湯を宣室に召して引見した。陳湯は郅支を撃った時に寒気にあたり病にかかり、両腕が屈伸しなかった。陳湯が入って拝謁すると、詔して拝礼をさせず、会宗の上奏文を見せた。陳湯は辞退して言った。「将相九卿は皆、賢材で道理に通明しておられます。小臣は病弱で、大事を策するには足りません。」皇帝は言った。「国家に急事がある。卿は遠慮せずに。」陳湯は答えて言った。「臣はこれには必ずや憂えることはないと考えます。」皇帝は言った。「どうしてそう言えるのか。」陳湯は言った。「そもそも胡兵は五で漢兵一に当たります。なぜでしょうか。兵刃が朴鈍で、弓弩が利かないからです。今、聞くところによると、かなり漢の技巧を得ているようですが、それでも三で一に当たります。また兵法に言います『客が倍し、主人が半ばして、然る後に敵す』と。今、会宗を包囲している者は人数が会宗に勝つには足りず、陛下はご憂慮なきよう。しかも、兵は軽装で一日五十里、重装で三十里を行きます。今、会宗が城郭敦煌の兵を発しようとしても、時を経てようやく到着するでしょう。これはいわゆる仇を報いる兵であり、急を救う用には立ちません。」皇帝は言った。「ではどうすればよいのか。包囲は必ず解けるのか。いつ頃解けると見込むか。」陳湯は烏孫が瓦合(寄せ集め)で、長く攻め続けられないことを知っており、旧例から数日を超えないと判断したので、それに基づいて答えて言った。「すでに解けました!」指を折って日数を数え、言った。「五日を出ずして、吉報が聞こえるでしょう。」四日経った時、軍書が到着し、すでに包囲が解けたと報告があった。大将軍の王鳳は上奏して陳湯を従事中郎とし、幕府の事はすべて陳湯に決裁させた。陳湯は法令に明るく、事に因って勢いを作ることに長け、進言する説は多く採用された。常に人の金銭を受けて章奏を作成し、ついにこのことで失敗した。

原文後數歲,西域都護段會宗爲烏孫兵所圍,驛騎上書,願發城郭燉煌兵以自救。〈師古曰:「西域城郭諸國及敦煌兵也。」〉丞相王商、大將軍王鳳及百僚議數日不決。鳳言「湯多籌策,習外國事,可問。」上召湯見宣室。湯擊郅支時中寒病,兩臂不詘申。湯入見,有詔毋拜,示以會宗奏。湯辭謝,曰:「將相九卿皆賢材通明,小臣罷癃,〈師古曰:「罷讀曰疲。」〉不足以策大事。」上曰:「國家有急,君其毋讓。」對曰:「臣以爲此必無可憂也。」上曰:「何以言之?」湯曰:「夫胡兵五而當漢兵一,何者?兵刃朴鈍,弓弩不利。今聞頗得漢巧,然猶三而當一。又兵法曰『客倍而主人半然後敵』,今圍會宗者人衆不足以勝會宗,唯陛下勿憂!且兵輕行五十里,重行三十里,今會宗欲發城郭燉煌,歷時迺至,所謂報讎之兵,非救急之用也。」上曰:「奈何?其解可必乎?度何時解?」〈師古曰:「度音徒各反。」〉湯知烏孫瓦合,〈師古曰:「瓦合謂碎瓦之雜居不齊同。」〉不能久攻,故事不過數日,〈師古曰:「故事謂以舊事測之。」〉因對曰:「已解矣!」詘指計其日,曰:「不出五日,當有吉語聞。」〈師古曰:「吉,善也。善謂兵解之事。」〉居四日,軍書到,言已解。大將軍鳳奏以爲從事中郎,莫府事壹決於湯。湯明法令,善因事爲埶,納說多從。常受人金錢作章奏,卒以此敗。

当初、陳湯と将作大匠の解萬年は親しくしていた。元帝の時代から、渭陵ではもう住民を移して陵邑を造営することはなかった。成帝が最初の陵(初陵)の造営を始めて数年後、霸陵の曲亭の南を気に入り、改めてそこに営むことになった。萬年は陳湯と相談し、「武帝の時代、工匠の楊光は自分の仕事ぶりが数回天子の意に適ったことで、自ら将作大匠の地位を得た。また大司農中丞の耿壽昌は杜陵を造営して関内侯の爵位を賜り、将作大匠の乗馬延年は労苦によって秩禄が中二千石となった。今、初陵を造営し、併せて邑居を営めば、大きな功績となり、萬年もまた重い賞賜を受けるだろう。あなた(子公は陳湯の字)の妻の実家は長安にあり、子供たちも長安で生まれ育ち、東方(=関東)を好まない。移住を求めるのが適当で、そうすれば田宅を賜ることができ、共に良いことになる」と考えた。陳湯は内心これに利があると思い、すぐに封事を上奏して言った。「初陵の地は、京師の地の中で最も肥沃で美しく、一つの県を設置することができます。天下の民が諸陵に移住させられてから三十余年になります。関東の富人はますます増え、多くが良田を画策し、貧民を役使しています。初陵に移住させれば、京師を強くし、諸侯を衰弱させることができ、また中流以下の家が貧富を均すことができます。陳湯は妻子と家族を連れて初陵に移住し、天下に先駆けたいと願います。」そこで天子(成帝)は彼の献策に従い、果たして昌陵邑を造営し、後に内郡国の民を移住させた。萬年は自ら請け負って三年で完成できると言ったが、後に結局完成しなかった。群臣の多くがその不便を言う者がいた。下して有司に議させると、皆が言うには、「昌陵は低い所を高い所とし、土を積んで山としていますが、測ってみると便房はまだ平地上にあります。客土(かくど、他所から運んだ土)の中では幽冥の霊を保つことができず、外側が浅くて堅固ではありません。卒徒や工人の費用が巨万の数に上り、脂を燃やす火で夜も作業し、東山から土を取るため、その費用は穀物と同じ価格に達しています。数年も造営を続け、天下が広くその労苦を被り、国家は疲弊し、府蔵は空虚で、下は衆庶に至るまで、熬熬と苦しんでいます。故陵(こりょう、元の陵)は天性(自然の地勢)に因り、真土(しんど、その土地本来の土)に拠り、地勢が高く開け、傍らに祖考(そこう、先祖)が近く、前に既に十年の功績の端緒があります。故陵に戻り復するのが適当で、民を移住させないべきです。」上(成帝)はそこで詔を下して昌陵の造営を中止し、その話は『成紀』にある。丞相と御史は昌陵邑の中の室(建物)を廃するよう請うたが、上奏が裁可されないうちに、人が陳湯に尋ねた。「第宅は撤去されないが、また移住が行われるのではないか?」陳湯は言った。「県官(天子)は暫く群臣の言うことに従って聞き入れるが、それでもまた移住を実行するだろう。」

原文初,湯與將作大匠解萬年相善。自元帝時,渭陵不復徙民起邑。成帝起初陵,數年後,樂霸陵曲亭南,更營之。萬年與湯議,以爲「武帝時工楊光以所作數可意〈師古曰:「可天子之意。」〉自致將作大匠,及大司農中丞耿壽昌造杜陵賜爵關內侯,將作大匠乘馬延年以勞苦秩中二千石;〈師古曰:「姓乘馬,名延年。乘音食孕反。」〉今作初陵而營起邑居,成大功,萬年亦當蒙重賞。子公妻家在長安,兒子生長長安,不樂東方,宜求徙,可得賜田宅,俱善。」湯心利之,即上封事言:「初陵,京師之地,最爲肥美,可立一縣。天下民不徙諸陵三十餘歲矣,關東富人益衆,多規良田,〈師古曰:「規,畫也,自占爲疆界也。」〉役使貧民,可徙初陵,以彊京師,衰弱諸侯,又使中家以下得均貧富。湯願與妻子家屬徙初陵,爲天下先。」於是天子從其計,果起昌陵邑,後徙內郡國民。萬年自詭三年可成,〈師古曰:「詭,責也,自以爲憂責也。」〉後卒不就,〈師古曰:「卒,終也。就亦成也。」〉羣臣多言其不便者。下有司議,皆曰:「昌陵因卑爲高,積土爲山,度便房猶在平地上,〈師古曰:「度音徒各反。」〉客土之中不保幽冥之靈,淺外不固,卒徒工庸以鉅萬數,至㸐脂火夜作,〈師古曰:「㸐,古然字也。」〉取土東山,且與穀同賈。〈師古曰:「賈讀曰價。」〉作治數年,天下徧被其勞,國家罷敝,〈師古曰:「罷讀曰疲。」〉府臧空虛,下至衆庶,熬熬苦之。〈師古曰:「熬熬,衆愁聲。」〉故陵因天性,據真土,處埶高敞,旁近祖考,前又已有十年功緒,〈師古曰:「緒謂端次也。」〉宜還復故陵,勿徙民。」上迺下詔罷昌陵,語在〈成紀〉。丞相御史請廢昌陵邑中室,〈師古曰:「徙人新所起室居。」〉奏未下,人以問湯:「第宅不徹,得毋復發徙?」〈師古曰:「問其不被發徹,更移徙邪?」〉湯曰:「縣官且順聽羣臣言,猶且復發徙之也。」

当時、成都侯の王商が新たに大司馬衞将軍として政を補佐していたが、平素から陳湯と仲が良くなかった。王商はこの言葉を聞き、陳湯が衆を惑わすと上奏し、獄に下して取り調べ、諸々の犯した罪を検証させた。陳湯が以前、騎都尉の王莽のために上書して言ったことには、「父(王莽の父王曼)は早く死に、ただ一人封ぜられず、母の明君は皇太后(王政君)に共に養われ、特に労苦が多い。封じて竟に新都侯とするのが適当です。」後に皇太后の同母弟の苟参が水衡都尉となり、死んだ後、その子の苟伋が侍中となったが、苟参の妻が苟伋のために封爵を求めようとし、陳湯はその金五十斤を受け取り、求めて例に倣って上奏することを約束した。弘農太守の張匡は百万以上に上る贓罪に坐し、狡猾で不道であり、詔によって即時に訊問されることになったが、獄に下されるのを恐れ、人をやって陳湯に報せた。陳湯がその罪を訟えて、冬月を過ぎるまで(=刑の執行を延期させ)得させ、礼金として二百万銭を約束したなど、皆この類いであった。これらの事柄は赦令の発布前のことであった。後、東萊郡で黒い龍が冬に出たので、人が陳湯に尋ねると、陳湯は言った。「これはいわゆる玄門が開くということだ。微行(びこう、身分を隠して行う行幸)が数回出て、出入りが時を定めないので、龍が時ならず出たのだ。」また、再び移住が行われるだろうと言い、伝え言い合う者が十余人いた。丞相と御史は「陳湯は衆を惑わし不道であり、妄りに詐りを称えて上(天子)に異なることを帰し、言うべきでないことを言い、大不敬である」と上奏した。廷尉の趙増寿が議して、「不道の罪には正法(定まった法)がなく、犯した罪の劇易(程度の重軽)によって罪とし、臣下が承って用いるのにその中(適切さ)を失うので、獄を廷尉に移し、比附(ひふ、前例に照らす)するものがない場合は先ず上聞に付し、これによって刑罰を正し、人命を重んじるのである。明主は百姓を哀れみ憫れみ、制書を下して昌陵を中止し吏民を移住させないとし、既に布告した。陳湯が妄りに自分の考えで『また移住が行われるだろう』と言ったのは、少なからず驚動させたが、流布して広まった範囲は少なく、百姓は変事を起こさなかった。衆を惑わしたとは言えない。陳湯が詐りを称え、虚しく然らざる事を設けたのは、言うべきでないことを言ったのであり、大不敬である。」と考えた。制詔して言った。「廷尉の増寿の判断が妥当である。陳湯は以前に郅支単于を討伐した功績がある。その罪を免じて庶人とし、辺境に移せ。」また言った。「故将作大匠の萬年は佞邪で不忠であり、妄りに巧みな詐りを為し、多く賦斂を課し、煩わしい徭役を起こし、卒暴(突然で無理な)な造作を興し、卒徒が罪を被り、死者が連なり属し、毒が衆庶に流れ、海内が怨望した。赦令を蒙ったとはいえ、京師に居住させるのは適当ではない。」そこで陳湯と萬年は共に敦煌に移された。

原文時成都侯商新爲大司馬衞將軍輔政,素不善湯。商聞此語,白湯惑衆,下獄治,按驗諸所犯。湯前爲騎都尉王莽上書言:「父早死,獨不封,母明君共養皇太后,尤勞苦,〈師古曰:「〈莽傳〉言莽母渠,今此云明君。則明君者字也。」〉宜封竟爲新都侯。」後皇太后同母弟苟參爲水衡都尉,死,子伋爲侍中,〈師古曰:「伋音汲。」〉參妻欲爲伋求封,湯受其金五十斤,許爲求比上奏。〈師古曰:「比,例也,音必寐反。」〉弘農太守張匡坐臧百萬以上,狡猾不道,有詔即訊,〈師古曰:「就其所居考問之。」〉恐下獄,使人報湯。湯爲訟罪,得踰冬月,許謝錢二百萬,皆此類也。事在赦前。後東萊郡黑龍冬出,人以問湯,湯曰:「是所謂玄門開。微行數出,出入不時,故龍以非時出也。」又言當復發徙,傳相語者十餘人。丞相御史奏「湯惑衆不道,妄稱詐歸異於上,非所宜言,大不敬。」廷尉增壽議,〈晉灼曰:「增壽,姓趙也。」〉以爲「不道無正法,以所犯劇易爲罪,〈師古曰:「易音弋豉反。」〉臣下承用失其中,故移獄廷尉,〈如淳曰:「如今讞罪輕重。」〉無比者先以聞,〈師古曰:「比謂相比附也。」〉所以正刑罰,重人命也。明主哀憫百姓,下制書罷昌陵勿徙吏民,已申布。湯妄以意相謂且復發徙,雖頗驚動,所流行者少,百姓不爲變,不可謂惑衆。湯稱詐,虛設不然之事,非所宜言,大不敬也。」制曰:「廷尉增壽當是。〈師古曰:「當謂處正其罪也。」〉湯前有討郅支單于功,其免湯爲庶人,徙邊。」又曰:「故將作大匠萬年佞邪不忠,妄爲巧詐,多賦斂,煩繇役,興卒暴之作,〈師古曰:「卒讀曰猝。」〉卒徒蒙辜,死者連屬,〈師古曰:「蒙,被也,屬音之欲反。」〉毒流衆庶,海內怨望。雖蒙赦令,不宜居京師。」於是湯與萬年俱徙敦煌。

久しくして、敦煌太守が上奏した。「陳湯は以前、親しく郅支単于を誅し、威は外国に行き渡りました。辺塞に近づけるのは適当ではありません。」詔によって安定郡に移された。

原文乆之,敦煌太守奏「湯前親誅郅支單于,威行外國,不宜近邊塞。」詔徙安定。

議郎の耿育が上書して便宜を述べ、冤罪を訴えて陳湯のために言った。「延寿と湯は聖なる漢のために深遠な威を揚げ、国家の累年の恥を雪ぎ、絶域の束縛されざる君を討ち、万里の難制の虜を繋いだ。これに比べるものがあろうか!先帝はこれを嘉し、頻りに明詔を下し、その功績を宣べ著わし、年号を改めて歴を垂れ、これを無窮に伝えようとされた。これに応じて、南郡は白虎を献じ、辺境には警備が無かった。時に先帝は病臥されたが、なおも心を留めて忘れず、数度にわたり尚書を使わして丞相を責め問い、その功績の確立を促された。ただ丞相の匡衡だけがこれを退けて認めず、延寿と湯に封ずるも数百戸に過ぎず、これが功臣戦士の失望する所以となった。孝成皇帝は建業の基を承け、征伐の威に乗り、兵革を動かさず、国家に事無かったが、大臣が邪に傾き、讒佞の輩が朝廷にあり、深く本末の難を考えず、未然の戒めを防がず、主威を専らにしようとし、功ある者を排み妬み、湯を塊然として、冤罪を被せて拘囚し、自ら明らかにすることを得ず、遂に無罪のまま、老いて敦煌に棄てられた。正に西域の通道に当たり、威名折衝の臣をして踵を返すや否や身に及び、再び郅支の遺虜に笑われるに至った。誠に悲しむべきことである!今に至るまで外蛮に使する者は、嘗て郅支の誅伐を陳べずして漢国の盛を揚げることはない。人の功を引き合いに出して敵を懼れさせ、人の身を棄てて讒言を快くするとは、痛ましいことではないか!且つ安きに危うきを忘れず、盛んなれば必ず衰えを慮る。今、国家には元来、文帝の累年にわたる節倹による富饒の蓄えも無く、また武帝の推薦延引した梟俊禽敵の臣も無い。ただ一人の陳湯があるのみである!仮に異なる時代で陛下に及ばずとも、尚お国家がその功績を追録し、その墓を封じて表し、後進を勧めることを望む。湯は幸いにも聖世に身を当て、功績が未だ久しからぬうちに、反って邪臣の言を聞き、鞭打ち追い立てられ斥け遠ざけられ、逃亡分散させられ、死して処する所無きに至った。遠くを見る士は、計度せざる者無く、湯の功績は累世及ぶべからず、而して湯の過ちは人情に有る所とし、湯でさえ尚おこのような有様である。たとえ再び筋骨を破絶し、形骸を暴露しても、なお唇舌に制せられ、嫉妒の臣に係虜されるのみである。これが臣が国家のために特に憂慮する所以である。」上書が奏上されると、天子は湯を還し、長安で没した。

原文議郎耿育上書言便宜,因冤訟湯曰:「延壽、湯爲聖漢揚鉤深致遠之威,雪國家累年之恥,討絕域不羈之君,係萬里難制之虜,豈有比哉!先帝嘉之,仍下明詔,〈師古曰:「仍,頻也。」〉宣著其功,改年垂歷,〈師古曰:「謂改年爲竟寧也。不以此事,蓋當其年,上書者附著耳。」〉傳之無窮。應是,南郡獻白虎,邊陲無警備。會先帝寢疾,然猶垂意不忘,數使尚書責問丞相,趣立其功。〈師古曰:「趣讀曰促。」〉獨丞相匡衡排而不予,封延壽、湯數百戶,此功臣戰士所以失望也。孝成皇帝承建業之基,乘征伐之威,兵革不動,國家無事,而大臣傾邪,讒佞在朝,曾不深惟本末之難,以防未然之戒,欲專主威,排妒有功,使湯塊然,〈師古曰:「塊然,獨處之意,如土塊也。音口內反。」〉被冤拘囚,不能自明,卒以無罪,老棄敦煌,正當西域通道,令威名折衝之臣旋踵及身,復爲郅支遺虜所笑,誠可悲也!至今奉使外蠻者,未甞不陳郅支之誅以揚漢國之盛。夫援人之功以懼敵,〈師古曰:「援,引也,音爰。」〉棄人之身以快讒,豈不痛哉!且安不忘危,盛必慮衰,今國家素無文帝累年節儉富饒之畜,〈師古曰:「畜讀曰蓄,謂府庫也。」〉又無武帝薦延梟俊禽敵之臣,〈如淳曰:「薦延,使群臣薦士而延納之。」〉〈師古曰:「梟謂斬其首而縣之也。俊謂敵之魁率,郅支是也。《春秋左氏傳》曰『得俊曰克』。」〉獨有一陳湯耳!假使異世不及陛下,尚望國家追錄其功,封表其墓,以勸後進也。湯幸得身當聖世,功曾未久,反聽邪臣鞭逐斥遠,使亡逃分竄,〈師古曰:「分謂散離也。虞書舜典曰『分北三苗』。」〉死無處所。遠覽之士,莫不計度,〈師古曰:「度音大各反。」〉以爲湯功累世不可及,而湯過人情所有,〈師古曰:「言湯所犯之罪過,人情共有此事耳,非特詭異深可誅責也。」〉湯尚如此,雖復破絕筋骨,暴露形骸,猶復制於脣舌,爲嫉妒之臣所係虜耳。此臣所以爲國家尤戚戚也。」書奏,天子還湯,卒於長安。

死後数年、王莽が安漢公として政を執り、既に内に湯の旧恩を徳とし、又皇太后に諂おうとして、郅支討伐の功績により元帝の廟を尊んで高宗と称した。湯と延寿の前の功績が大なるに賞が薄く、及び候丞の杜勲が賞されなかったことを以て、延寿の孫の遷に千六百戸を加封し、湯を追謚して破胡壮侯とし、湯の子の馮を破胡侯に封じ、勲を討狄侯に封じた。

原文死後數年,王莽爲安漢公秉政,旣內德湯舊恩,又欲讇皇太后,以討郅支功尊元帝廟稱高宗。以湯、延壽前功大賞薄,及候丞杜勳不賞,迺益封延壽孫遷千六百戶,追謚湯曰破胡壯侯,封湯子馮爲破胡侯,勳爲討狄侯。

段会宗

原文段會宗

段会宗は字を子松といい、天水郡上邽県の人である。竟寧年間、杜陵県令として五府に推挙され、西域都護・騎都尉光禄大夫となり、西域はその威信を敬った。三年で任期が満ちて還り、沛郡太守に拝された。単于が朝貢することになったため、鴈門太守に転任した。数年後、法に坐して免官された。西域諸国が上書して会宗を得たいと願い、陽朔年間に再び都護となった。

原文段會宗字子松,天水上邽人也。竟寧中,以杜陵令五府舉爲西域都護、騎都尉光祿大夫,西域敬其威信。三歲,更盡還,〈如淳曰:「邊吏三歲一更,下言終更皆是也。」師古曰:「更,工衡反。其下並同。」〉拜爲沛郡太守。以單于當朝,徙爲鴈門太守。數年,坐法免。西域諸國上書願得會宗,陽朔中復爲都護。

会宗は人となり大節を好み、功名を誇り、谷永と互いに親善した。谷永はその老いて再び遠出することを憐れみ、手紙を与えて戒めて言った。「足下は遠人を安んずる令徳を持ち、再び都護の重職を掌ることになり、甚だ美しいことである!もし子の才をもってすれば、都城に優遊して卿相を取ることもできよう。何ぞ必ずしも昆山の傍らで功を勒し、百蛮を総領し、殊俗を懐柔せんとするのか?子の長ずる所は、愚かにも以て喩えることができない。とはいえ、朋友は言葉を以て送別の贈り物とするものである。敢えて本意を略さざるを得ない。今、漢の徳は隆盛し、遠人は賓伏している。傅介子・鄭吉・甘延寿・陳湯の功績は没歯しても再び見ることはできない。願わくは吾子には旧来の事柄に因循し、奇功を求めず、任期を終えて急ぎ還り、雁門での不遇を補うに足りるようにしてほしい。万里の外にあっては、身を以て根本とする。願わくは愚言を詳しく思案されたい。」

原文會宗爲人好大節,矜功名,與谷永相友善。谷永閔其老復遠出,予書戒曰:「足下以柔遠之令德,〈師古曰:「柔,安也。柔遠,言能安遠人。虞書舜典曰『柔遠能邇』。」〉復典都護之重職,甚休甚休!〈師古曰:「休,美也。」〉若子之材,可優遊都城而取卿相,何必勒功昆山之仄,緫領百蠻,懷柔殊俗?子之所長,愚無以喻。〈師古曰:「言子思慮深長,當不待己曉告也。」〉雖然,朋友以言贈行,敢不略意。〈師古曰:「贈行謂將別相贈也。略意,略陳本意也。」〉方今漢德隆盛,遠人賔伏,傅、鄭、甘、陳之功沒齒不可復見,願吾子因循舊貫,〈師古曰:「貫,事也。」〉毋求竒功,終更亟還,亦足以復雁門之踦。〈應劭曰:「踦,隻也。會宗從沛郡下爲雁門,又坐法免,爲踦隻不偶也。」師古曰:「亟,急也。復猶補也。亟音居力反。踦音居宜反。」〉萬里之外以身爲本。願詳思愚言。」

会宗が出向すると、諸国は子弟を遣わして郊外で迎えた。小昆弥の安日は以前会宗に立てられた者で、その恩徳を感じ、会いに赴こうとしたが、諸翖侯が止めて聞き入れず、遂に亀茲まで行って会った。城郭諸国は甚だ親しみ従った。康居の太子の保蘇匿が衆一万余人を率いて降伏しようとした。会宗は状況を上奏し、漢は衛司馬を遣わして逢迎させた。会宗は戊己校尉の兵を発して司馬に従わせ降伏を受け入れさせた。司馬はその衆を恐れ、降伏者に皆自縛させようとしたため、保蘇匿は怨み、衆を挙げて逃亡した。会宗が任期満了で還ると、戊己校尉の兵を擅発して兵站を欠いた罪により、詔により贖罪とされた。金城太守に拝されたが、病により免官された。

原文會宗旣出。諸國遣子弟郊迎。小昆彌安日前爲會宗所立,德之,〈師古曰:「懷會宗之恩德也。」〉欲往謁,諸翖侯止不聽,遂至龜茲謁。城郭甚親附。〈師古曰:「謂城郭諸國。」〉康居太子保蘇匿率衆萬餘人欲降,會宗奏狀,漢遣衞司馬逢迎。〈師古曰:「迎之於道,隨所到而逢之,故曰逢迎也。」〉會宗發戊己校尉兵隨司馬受降。司馬畏其衆,欲令降者皆自縛,保蘇匿怨望,舉衆亡去。會宗更盡還,以擅發戊己校尉之兵乏興,有詔贖論。拜爲金城太守,以病免。

一年余り後、小昆弥が国民に殺され、諸翖侯が大いに乱れた。会宗を徴して左曹中郎将光禄大夫とし、烏孫を安んじ集めるため派遣し、小昆弥の兄の末振将を立て、その国を定めて還った。

原文歲餘,小昆彌爲國民所殺,諸翖侯大亂。徵會宗爲左曹中郎將光祿大夫,使安輯烏孫,〈師古曰:「輯與集同。」〉立小昆彌兄末振將,〈服虔曰:「人姓名也。」師古曰:「其名也。昆彌之兄不可別舉姓也。」〉定其國而還。

翌年、末振将が大昆弥を殺害したが、ちょうど病死したため、漢は誅罰を加えられなかったことを悔やんだ。元延年間、再び会宗を派遣し、戊己校尉と諸国の兵を動員して、ただちに末振将の太子である番丘を誅殺した。会宗は大軍が烏孫に入ると番丘が驚いて逃亡し、捕えられなくなることを恐れ、動員した兵を墊婁の地に留め置き、精鋭の兵三十人(それぞれ弩を携える者)を選び、まっすぐに昆弥のいる場所へ向かった。番丘を召し出し、「末振将が骨肉を殺し、漢の公主の子孫を殺害したが、誅罰を受ける前に死んだ。使者は詔を受けて番丘を誅するものである」と責め、ただちに手ずから剣で番丘を撃ち殺した。官属以下は驚き恐れ、馬を走らせて帰った。小昆弥の烏犂靡は、末振将の兄の子であり、数千騎の兵を率いて会宗を包囲した。会宗は誅殺に来た意図を説明し、「今、私を包囲して殺したとしても、それは漢の牛の一毛を取るようなものに過ぎない。宛王の郅支の首が槀街に晒されたことは、烏孫も知っているところだ」と言った。昆弥以下は服従し、「末振将が漢に背いたので、その子を誅殺するのは構わないが、ただ私に告げて、彼に飲食を与えさせてやることもできなかったのか?」と言った。会宗は、「あらかじめ昆弥に告げれば、彼を逃がし隠すことになり、それは大罪となる。もし飲食を与えてから私に引き渡せば、骨肉の恩情を傷つけることになる。だから先に告げなかったのだ」と言った。昆弥以下は号泣して兵を引き揚げた。会宗が帰還して事態を奏上すると、公卿たちは会宗が臨機応変に権限を行使し、軽装の兵で烏孫に深く入り、ただちに番丘を誅殺して国威を明らかにしたことを議し、重い賞を加えるべきであるとした。天子は会宗に関内侯の爵位と黄金百斤を賜った。

原文明年,末振將殺大昆彌,會病死,漢恨誅不加。元延中,復遣會宗發戊己校尉諸國兵,即誅末振將太子番丘。〈師古曰:「番音步安反。」〉會宗恐大兵入烏孫,驚番丘,亡逃不可得,即留所發兵墊婁地,〈服虔曰:「墊音墊阸之墊。」鄭氏曰:「婁音羸。」師古曰:「墊音丁念反。婁音樓。」〉選精兵三十弩,〈李竒曰:「三十人,人持一弩。」〉徑至昆彌所在,召番丘,責以「末振將骨肉相殺,殺漢公主子孫,未伏誅而死,使者受詔誅番丘。」即手劔擊殺番丘。官屬以下驚恐,馳歸。小昆彌烏犂靡者,末振將兄子也,勒兵數千騎圍會宗,會宗爲言來誅之意:「今圍守殺我,如取漢牛一毛耳。宛王郅支頭縣槀街,烏孫所知也。」昆彌以下服,曰:「末振將負漢,誅其子可也,獨不可告我,令飲食之邪?」〈師古曰:「飲音於禁反。食讀曰飤。次下亦同。」〉會宗曰:「豫告昆彌,逃匿之,爲大罪。即飲食以付我,傷骨肉恩,故不先告。」昆彌以下號泣罷去。會宗還奏事,公卿議會宗權得便宜,以輕兵深入烏孫,即誅番丘,〈師古曰:「即,就也。」〉宣明國威,宜加重賞。天子賜會宗爵關內侯,黃金百斤。

この時、小昆弥の叔父である卑爰疐が衆を擁して昆弥を害そうとしていたため、漢は再び会宗を派遣して鎮撫させ、都護の孫建と協力させた。翌年、会宗は烏孫の中で病死した。七十五歳であった。城郭諸国は彼のために喪を発し、祠を建てた。

原文是時,小昆彌季父卑爰疐擁衆欲害昆彌,〈師古曰:「疐音竹二反。」〉漢復遣會宗使安輯,與都護孫建并力。明年,會宗病死烏孫中,年七十五矣,城郭諸國爲發喪立祠焉。

【賛】

原文【贊】

賛して言う。元狩年間に張騫が初めて西域に通じて以来、地節年間に至り、鄭吉が都護の称号を建て、王莽の時代に至るまで、合わせて十八人おり、皆、勇略によって選ばれたが、その中で功績のある者はここに詳しく記した。廉襃は恩信をもって称えられ、郭舜は廉平をもって著名となり、孫建は威重をもって顕れた。その他は称えるべきものがない。陳湯は放埒で、自らを収斂せず、ついに困窮を用いるに至った。議論する者は彼を哀れんだので、ここに詳しく列記した。

原文贊曰:自元狩之際,張騫始通西域,至于地節,鄭吉建都護之號,訖王莽世,凡十八人,皆以勇略選,然其有功迹者具此。廉襃以恩信稱,郭舜以廉平著,孫建用威重顯,其餘無稱焉。陳湯儻䓪,〈師古曰:「儻䓪,無行檢也。䓪音蕩。」〉不自收斂,卒用困窮,議者閔之,故備列云。