漢書

霍光金日磾伝 第三十八

霍光

原文霍光

霍光は字を子孟といい、驃騎将軍霍去病の弟である。父の中孺は、河東郡平陽県の人で、県の役人として平陽侯の家に仕え、侍女の衛少児と密通して去病を生んだ。中孺は役目を終えて家に帰り、妻を娶って霍光を生み、それ以来まったく音信不通になった。長い時が経ち、少児の妹の子夫が武帝の寵愛を受けて皇后に立てられると、去病は皇后の姉の子として貴重な存在となった。成人した後、去病は自らの父が霍中孺であることを知ったが、まだ尋ね求める機会がなかった。ちょうど驃騎将軍として匈奴を討つことになり、河東郡を通りかかった。河東太守が郊外で出迎え、弩と矢を背負って先導し、平陽県の宿舎に至ると、役人を遣わして霍中孺を迎えさせた。中孺は小走りに入って拝謁し、将軍(去病)は迎えて拝礼し、ひざまずいて言った。「去病は早くから自分が父上のご子息であることを知りませんでした。」中孺は地に伏して頭を叩き、「老臣が将軍に命を託すことができたのは、これぞ天の力でございます」と言った。去病は中孺のために大いに田畑・屋敷・奴婢を買い与えて去った。帰還の際、再びそこを通りかかり、霍光を連れて西の長安へ向かった。この時、霍光は十余歳で、去病は霍光を郎に任じ、次第に諸曹・侍中に昇進させた。去病の死後、霍光は奉車都尉・光禄大夫となり、外出の際には車を奉じ、宮中では左右に侍し、禁中の門を出入りすること二十余年、小心謹慎で、一度も過ちを犯さず、非常に親信された。

原文霍光字子孟,票騎將軍去病弟也。父中孺,〈師古曰:「中讀曰仲。」〉河東平陽人也,以縣吏給事平陽侯家,〈師古曰:「縣遣吏於侯家供事也。」〉與侍者衞少兒私通而生去病。中孺吏畢歸家,娶婦生光,因絕不相聞。乆之,少兒女弟子夫得幸於武帝,立爲皇后,去病以皇后姊子貴幸。旣壯大,迺自知父爲霍中孺,未及求問。會爲票騎將軍擊匈奴,道出河東,河東太守郊迎,負弩矢先驅,〈師古曰:「郊迎,迎於郊界之上也。先驅者,導其路也。」〉至平陽傳舍,遣吏迎霍中孺。中孺趨入拜謁,將軍迎拜,因跪曰:「去病不早自知爲大人遺體也。」中孺扶服叩頭,〈師古曰:「服音蒲北反。」〉曰:「老臣得託命將軍,此天力也。」去病大爲中孺買田宅奴婢而去。還,復過焉,迺將光西至長安,時年十餘歲,任光爲郎,稍遷諸曹侍中。去病死後,光爲奉車都尉光祿大夫,出則奉車,入侍左右,出入禁闥二十餘年,〈師古曰:「宮中小門謂之闥。」〉小心謹慎,未甞有過,甚見親信。

征和二年、衛太子が江充に敗れ、燕王劉旦と広陵王劉胥はともに過失が多かった。この時、帝(武帝)は年老いており、寵姫の鉤弋宮の趙婕妤に男子がいた。帝は心の中で彼を後継ぎにしようと考え、大臣に補佐させようとした。群臣を観察すると、霍光のみが重任に堪え、社稷を委ねることができると見た。帝は黄門の画工に命じて、周公が成王を背負って諸侯に朝見する図を描かせ、霍光に賜った。後元二年の春、帝が五柞宮に行幸し、病が重くなると、霍光は涙を流して尋ねた。「もし万一のことがあれば、誰を後継ぎとすべきでしょうか。」帝は言った。「卿は以前の絵の意味がわからなかったのか。幼い子を立て、卿が周公のことを行え。」霍光は頓首して辞退し、「臣は金日磾には及びません」と言った。日磾もまた、「臣は外国人であり、霍光には及びません」と言った。帝は霍光を大司馬大将軍とし、日磾を車騎将軍とし、太僕の上官桀を左将軍とし、捜粟都尉の桑弘羊を御史大夫とし、皆を寝室の床下で拝命させ、遺詔を受けて幼い君主を補佐させた。翌日、武帝が崩御し、太子が尊号を継いだ。これが孝昭皇帝である。帝は八歳で、政事はすべて霍光が決断した。

原文征和二年,衞太子爲江充所敗,而燕王旦、廣陵王胥皆多過失。是時上年老,寵姬鈎弋趙倢伃有男,〈師古曰:「倢伃居鉤弋宮,故稱之。」〉上心欲以爲嗣,命大臣輔之。察羣臣唯光任大重,可屬社稷。〈師古曰:「任,堪也。屬,委也。任音壬。屬音之欲反。」〉上迺使黃門畫者畫周公負成王朝諸侯以賜光。〈師古曰:「黃門之署,職任親近,以供天子,百物在焉,故亦有畫工。」〉後元二年春,上游五柞宮,病篤,光涕泣問曰:「如有不諱,誰當嗣者?」〈師古曰:「不諱,言不可諱也。」〉上曰:「君未諭前畫意邪?〈師古曰:「諭,曉也。」〉立少子,君行周公之事。」光頓首讓曰:「臣不如金日磾。」日磾亦曰:「臣外國人,不如光。」上以光爲大司馬大將軍,日磾爲車騎將軍,及太僕上官桀爲左將軍,搜粟都尉桑弘羊爲御史大夫,皆拜卧內牀下,〈師古曰:「於天子所卧床前拜職。」〉受遺詔輔少主。明日,武帝崩,太子襲尊號,是爲孝昭皇帝。帝年八歲,政事壹決於光。

これに先立ち、後元元年、侍中僕射の莽何羅と弟の重合侯莽通が謀反を企てた。当時、霍光と金日磾、上官桀らが共にこれを誅殺したが、功績はまだ記録されていなかった。武帝が病んだ時、封印した詔書に「帝が崩御したらこの書を開いて従え」と書き、遺詔で金日磾を秺侯に、上官桀を安陽侯に、霍光を博陸侯に封じた。いずれも以前に反乱者を捕らえた功績による封であった。当時、衛尉王莽の子の王忽が侍中として仕えており、言いふらした。「帝が崩御された時、私は常に側にいたが、どうして三人を封ずる遺詔などあったものか。連中が勝手に貴くなっただけだ。」霍光はこれを聞き、王莽を厳しく責めた。王莽は毒酒で王忽を殺した。

原文先是,後元元年,侍中僕射莽何羅與弟重合侯通謀爲逆,〈師古曰:「莽音莫戶反。」〉時光與金日磾、上官桀等共誅之,功未錄。武帝病,封璽書曰:「帝崩發書以從事。」遺詔封金日磾爲秺侯,上官桀爲安陽侯,光爲博陸侯,〈文穎曰:「博,大。陸,平。取其嘉名,無此縣也,食邑北海河東城。」師古曰:「蓋亦取鄉聚之名以爲國號,非必縣也,公孫弘平津鄉則是矣。」〉皆以前捕反者功封。時衞尉王莽子男忽侍中,〈師古曰:「即右將軍王莽也。其子名忽。」〉揚語曰:〈師古曰:「揚謂宣唱之。」〉「帝崩,忽常在左右,安得遺詔封三子事!〈師古曰:「安猶焉。」〉羣兒自相貴耳。」光聞之,切讓王莽,〈師古曰:「切,深也。讓,責也。」〉莽酖殺忽。

霍光の人物は沈着で細やかであり、身長はわずか七尺三寸、色白で、眉目が離れており、美しいひげを生やしていた。殿門を出入りするたびに、立ち止まる場所や進む場所が常に一定しており、郎僕射がこっそりと観察して覚えても、寸分の狂いもなかった。その天性が端正であったのはこのようなものである。幼い君主を補佐し始めた当初は、政事は自分から発し、天下はその風采を聞き知りたいと思った。殿中に怪異があったことがあり、一夜、群臣が互いに驚き騒いだ。霍光は尚符璽郎を呼び寄せた。郎は霍光に璽を渡そうとしなかった。霍光が奪おうとすると、郎は剣に手をかけ、「私の首は得られても、璽は得られません」と言った。霍光は彼の行為を非常に義として認めた。翌日、詔を下してこの郎の官位を二等増やした。民衆は霍光を称賛しない者はなかった。

原文光爲人沈靜詳審,長財七尺三寸,〈師古曰:「財與纔同。」〉白晢,疏眉目,美須䫇。〈師古曰:「晢,潔白也。䫇,頰毛也。晢音先歷反。䫇音人占反。」〉每出入下殿門,止進有常處,郎僕射竊識視之,不失尺寸,〈師古曰:「識,記也,音式志反。」〉其資性端正如此。初輔幼主,政自己出,〈師古曰:「自,從也。」〉天下想聞其風采。〈師古曰:「采,文采。」〉殿中甞有怪,一夜羣臣相驚,光召尚符璽郎,〈師古曰:「恐有變難,故欲收取璽。」〉郎不肯授光。光欲奪之,郎按劔曰:「臣頭可得,璽不可得也!」光甚誼之。明日,詔增此郎秩二等。衆庶莫不多光。〈師古曰:「多猶重也。以此事爲多足重也。」〉

霍光は左将軍上官桀と婚姻関係を結んで親しくし、霍光の長女は上官桀の子の上官安の妻となった。上官安に娘がおり、年齢が帝(昭帝)と釣り合った。上官桀は帝の姉の鄂邑蓋主を通じて上官安の娘を後宮に入れて婕妤とし、数か月後に皇后に立てた。父の上官安は驃騎将軍となり、桑楽侯に封じられた。霍光が休暇で出ている時は、上官桀が代わって入り、政事を決裁した。上官桀父子はすでに尊貴で勢いがあり、長公主(蓋主)に恩義を感じていた。公主は私生活が整っておらず、河間の丁外人を寵愛していた。上官桀と上官安は丁外人のために封を求め、国家の故事である列侯が公主と結婚する例に倣おうとしたが、霍光は許さなかった。また、丁外人のために光禄大夫を求め、召し出されるようにしようとしたが、またも許さなかった。長公主はこのことで霍光を大いに怨んだ。上官桀と上官安もたびたび丁外人のために官爵を求めたが得られず、恥じ入った。先帝(武帝)の時から、上官桀はすでに九卿であり、地位は霍光の上にあった。父子ともに将軍となり、皇后の親族としての重みを持ち、皇后は上官安の実の娘であり、霍光はその外祖父にあたるのに、かえって朝廷の政事を専断した。これによって霍光と権力を争うようになった。

原文光與左將軍桀結婚相親,光長女爲桀子安妻。有女年與帝相配,〈晉灼曰:「漢語光嫡妻東閭氏生安夫人,昭后之母也。」〉桀因帝姊鄂邑蓋主內安女後宮爲倢伃,〈師古曰:「鄂邑,所食邑,爲蓋侯所尚,故云蓋主也。」〉數月立爲皇后。父安爲票騎將軍,封桑樂侯。光時休沐出,桀輒入代光決事。桀父子旣尊盛,而德長公主。〈師古曰:「懷其恩德也。」〉公主內行不修,近幸河間丁外人。桀、安欲爲外人求封,幸依國家故事以列侯尚公主者,光不許。又爲外人求光祿大夫,欲令得召見,又不許。長主大以是怨光。而桀、安數爲外人求官爵弗能得,亦慙。自先帝時,桀已爲九卿,位在光右。〈師古曰:「右,上也。」〉及父子並爲將軍,有椒房中宮之重,〈師古曰:「椒房殿,皇后所居。」〉皇后親安女,光迺其外祖,而顧專制朝事,〈師古曰:「顧猶反也。」〉繇是與光爭權。〈師古曰:「繇讀與由同。」〉

燕王旦(劉旦)は自ら昭帝の兄であることを恃み、常に怨みの思いを抱いていた。また、御史大夫の桑弘羊が酒の専売制や塩・鉄の専売を創設し、国家のために利益を興したが、その功績を誇り、子弟に官職を得させようとしたが叶わず、霍光を恨んでいた。そこで蓋主、上官桀、上官安および桑弘羊は皆、燕王旦と内通して謀議を巡らし、偽って人を使い、燕王の名で上書させた。その内容は、「霍光が郎官や羽林軍を率いて都で演習を行い、道中では警戒を厳重にし、太官に先に食膳を準備させた。また、蘇武が以前匈奴に使いし、二十年間拘留されても降伏せず、帰国してからは典属国に任ぜられただけなのに、大將軍の長史である楊敞は功績がないのに搜粟都尉に任ぜられた。さらに、勝手に幕府の校尉を増員した。霍光は専権をほしいままにし、思いのままに振る舞い、非常の変事が疑われる。臣旦(劉旦)は願わくば符璽を返上し、宮中に入って宿衛し、姦臣の変事を監察したい」というものであった。彼らは霍光が休暇で出仕しない日を窺って、この上書を奏上した。上官桀は宮中からこの件を下して処理させようとし、桑弘羊は諸大臣と共に霍光を拘束し退けようとした。上書が奏上されると、帝(昭帝)は下して処理させようとしなかった。

原文燕王旦自以昭帝兄,常懷怨望。及御史大夫桑弘羊建造酒榷鹽鐵,爲國興利,伐其功,〈師古曰:「伐,矜也。」〉欲爲子弟得官,亦怨恨光。於是蓋主、上官桀、安及弘羊皆與燕王旦通謀,詐令人爲燕王上書,言「光出都肄郎羽林,〈孟康曰:「都,試也。肄,習也。」師古曰:「謂緫閱試習武備也。」〉道上稱䟆,太官先置。〈師古曰:「供飲食之具。」〉又引蘇武前使匈奴,拘留二十年不降,還迺爲典屬國,而大將軍長史敞亡功爲搜粟都尉。〈師古曰:「楊敞也。」〉又擅調益莫府校尉。〈師古曰:「調,選也。莫府,大將軍府也。調音徒釣反。」〉光專權自恣,疑有非常。臣旦願歸符璽,入宿衞,察姦臣變。」候司光出沐日奏之。桀欲從中下其事,〈師古曰:「下謂下有司也,音胡稼反。」〉桑弘羊當與諸大臣共執退光。書奏,帝不肯下。

翌朝、霍光はこのことを聞き、画室に留まって入朝しなかった。帝が「大將軍はどこにいるのか」と問うと、左將軍の上官桀が答えて言った。「燕王がその罪を告発したため、敢えて入朝できないのです。」詔があって大將軍を召すと、霍光は入朝し、冠を脱いで頓首して謝罪した。帝は言った。「將軍は冠を着けなさい。朕はこの上書が偽りであると知っている。將軍に罪はない。」霍光が「陛下はどうしてそれをご存知ですか」と問うと、帝は言った。「將軍が廣明亭に行き、郎官を閲兵したのはつい最近のことだ。校尉を選任してからまだ十日も経っていないのに、燕王がどうしてそれを知り得ようか。また、將軍が悪事を働くのに、校尉など必要としないだろう。」この時、帝は十四歳であった。尚書や左右の者たちは皆驚いたが、上書した者は果たして逃亡しており、捕縛が急がれた。上官桀らは恐れ、帝に「些細な事は徹底的に追求するに足りません」と申し上げたが、帝は聞き入れなかった。

原文明旦,光聞之,止畫室中不入。〈如淳曰:「近臣所止計畫之室也,或曰彫畫之室。」師古曰:「彫畫是也。」〉上問「大將軍安在?」左將軍桀對曰:「以燕王告其罪,故不敢入。」有詔召大將軍。光入,免冠頓首謝,上曰:「將軍冠。〈師古曰:「令復著冠也。」〉朕知是書詐也,將軍亡罪。」光曰:「陛下何以知之?」上曰:「將軍之廣明,都郎屬耳。〈師古曰:「之,往也。廣明,亭名也。屬耳,近耳也。屬音之欲反。」〉調校尉以來未能十日,燕王何以得知之?且將軍爲非,不須校尉。」〈文穎曰:「帝云將軍欲反,不由一校尉。」〉是時帝年十四,尚書左右皆驚,而上書者果亡,捕之甚急。桀等懼,白上小事不足遂,〈師古曰:「遂猶竟也。不須窮竟也。」〉上不聽。

その後、上官桀の仲間で霍光を讒言する者がいると、帝は直ちに怒って言った。「大將軍は忠臣であり、先帝が朕を輔けるよう任じられた方だ。敢えて誹謗する者は罰する。」これ以来、上官桀らは敢えて再び言上せず、かえって謀って長公主に酒宴を設けさせ霍光を招き、伏兵を置いて撃ち殺し、その機に乗じて帝を廃し、燕王を迎えて天子に立てようとした。事が発覚すると、霍光は上官桀、上官安、桑弘羊、丁外人の宗族をことごとく誅殺した。燕王と蓋主は皆自殺した。霍光の威勢は海内に震動した。昭帝が元服すると、遂に霍光に政事を委任し、十三年に至るまで、百姓は豊かになり、四方の夷狄は服属した。

原文後桀黨與有譖光者,上輒怒曰:「大將軍忠臣,先帝所屬以輔朕身,〈師古曰:「屬,委也,音之欲反。其下亦同。」〉敢有毀者坐之。」自是桀等不敢復言,迺謀令長公主置酒請光,伏兵格殺之,因廢帝,迎立燕王爲天子。事發覺,光盡誅桀、安、弘羊、外人宗族。燕王、蓋主皆自殺。光威震海內。昭帝旣冠,遂委任光,訖十三年,百姓充實,四夷賔服。

元平元年、昭帝が崩御し、後嗣がなかった。武帝の六人の男子のうち、ただ広陵王胥だけが存命で、群臣が誰を立てるべきか議論し、皆広陵王を推した。王はもともと行いが道に外れており、先帝に用いられなかった。霍光は内心安らかでなかった。郎官に上書する者がいて言うには、「周の太王が太伯を廃して王季を立て、文王が伯邑考を退けて武王を立てられたように、ただその人材が適しているかどうかによるのであり、たとえ長を廃して少を立ててもよいのです。広陵王は宗廟を継ぐことはできません。」この言葉は霍光の意に合った。霍光はこの上書を丞相の楊敞らに見せ、その郎官を抜擢して九江太守とし、即日に皇太后の詔を奉じて、行大鴻臚事の少府楽成、宗正の劉德、光禄大夫の丙吉、中郎将の利漢を使者として昌邑王賀を迎えに行かせた。

原文元平元年,昭帝崩,亡嗣。武帝六男獨有廣陵王胥在,羣臣議所立,咸持廣陵王。王本以行失道,先帝所不用。光內不自安。郎有上書言「周太王廢太伯立王季,文王舍伯邑考立武王,唯在所宜,〈師古曰:「太伯者,王季之兄。伯邑考,文王長子也。」〉雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗廟。」言合光意。光以其書視丞相敞等,〈師古曰:「視讀曰示。敞即楊敞也。」〉擢郎爲九江太守,即日承皇太后詔,遣行大鴻臚事少府樂成、宗正德、光祿大夫吉、中郎將利漢迎昌邑王賀。

賀は武帝の孫で、昌邑哀王の子である。到着すると、即位したが、淫乱な行いをした。霍光は憂い憤り、独り親しい旧吏である大司農の田延年に問うた。延年は言った。「將軍は国家の柱石です。もしこの人物が不適当とお考えなら、どうして太后に建議なさらず、改めて賢者を選んで立てられないのですか。」霍光が「今そうしようと思うが、古に嘗てこのようなことがあったか」と問うと、延年は言った。「伊尹が殷の宰相として、太甲を廃して宗廟を安んじ、後世はその忠誠を称えました。將軍もしこれを行えば、これも漢の伊尹です。」霍光はそこで延年を引見して給事中とし、密かに車騎將軍の張安世と図り計らい、遂に丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士を召集して未央宮で会議した。霍光が言った。「昌邑王の行いは昏乱で、社稷を危うくする恐れがある。どうすればよいか。」群臣は皆驚き愕然として顔色を失い、敢えて発言する者もなく、ただ唯々とするばかりであった。田延年が進み出て、席を離れ剣に手をかけながら言った。「先帝は幼い孤児(昭帝)を將軍に託し、天下を將軍に預けられた。それは將軍が忠賢で、劉氏を安んじることができるとお考えだったからです。今、群下の心は沸き立ち、社稷が傾かんとしています。かつ漢が伝える諡に常に『孝』の字を用いるのは、長く天下を保ち、宗廟に血食が絶えないようにするためです。もし漢家の祭祀が絶えるようなことがあれば、將軍は死んでも、何の面目があって地下で先帝にお会いできましょうか。今日の議論は、ぐずぐずしている暇はありません。群臣で後に応じる者があれば、臣が請うて剣で斬りましょう。」霍光は謝して言った。「九卿(田延年)が光を責めるのはもっともです。天下が騒然として不安であり、光がその難を受けるべきです。」そこで議する者たちは皆叩頭して言った。「万姓の命は將軍にあります。ただ大將軍のご命令に従います。」

原文賀者,武帝孫,昌邑哀王子也。旣至,即位,行淫亂。光憂懣,〈師古曰:「懣音滿,又音悶。」〉獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰:「將軍爲國柱石,〈師古曰:「柱者,梁下之柱;石者,承柱之礎也。言大臣負國重任,如屋之柱及其石也。」〉審此人不可,何不建白太后,〈師古曰:「立議而白之。」〉更選賢而立之?」光曰:「今欲如是,於古甞有此否?」〈師古曰:「光不涉學,故有此問也。」〉延年曰:「伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。〈師古曰:「商書太甲篇曰『太甲旣立,弗明,伊尹放諸桐』是也。」〉將軍若能行此,亦漢之伊尹也。」光迺引延年給事中,陰與車騎將軍張安世圖計,〈師古曰:「圖,謀也。」〉遂召丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士會議未央宮。光曰:「昌邑王行昬亂,恐危社稷,如何?」羣臣皆驚鄂失色,〈師古曰:「凡言鄂者,皆謂阻礙不依順也,後字作愕,其義亦同。」〉莫敢發言,但唯唯而已。田延年前,離席按劔,曰:「先帝屬將軍以幼孤,寄將軍以天下,以將軍忠賢能安劉氏也。今羣下鼎沸,社稷將傾,且漢之傳謚常爲孝者,以長有天下,令宗廟血食也。如令漢家絕祀,〈師古曰:「如,若也。」〉將軍雖死,何面目見先帝於地下乎?今日之議,不得旋踵。〈師古曰:「宜速決。」〉羣臣後應者,臣請劔斬之。」光謝曰:「九卿責光是也。天下匈匈不安,光當受難。」〈師古曰:「受其憂責也。」〉於是議者皆叩頭,曰:「萬姓之命在於將軍,唯大將軍令。」〈師古曰:「言一聽之也。」〉

霍光はすぐに群臣とともに太后に拝謁し、昌邑王が宗廟を継承できない事情を詳しく述べた。皇太后は車駕を未央宮の承明殿に進め、諸々の禁門に昌邑王の群臣を入れないよう詔を下した。王が太后に朝見して帰り、輦に乗って温室に戻ろうとすると、中黄門の宦官たちがそれぞれ門扉を持ち、王が入ると門を閉ざし、昌邑王の群臣は入ることができなかった。王が「どうしたのか」と言うと、大将軍(霍光)が跪いて言った。「皇太后の詔があり、昌邑王の群臣を入れないことになっております。」王は言った。「ゆっくりしろ、どうしてこのように人を驚かせるのか!」霍光は昌邑王の群臣をすべて追い出させ、金馬門の外に置いた。車騎将軍の張安世が羽林騎を率いて二百余人を捕らえ縛り、すべて廷尉の詔獄に送った。かつての昭帝の侍中で中臣の者に王を監視させた。霍光は左右の者に命じた。「厳重に宿衛せよ。もし突然の死や自殺があれば、私が天下に背き、主君を殺したという汚名を負うことになる。」王はまだ自分が廃位されることを知らず、左右の者に言った。「私の旧臣である従官たちがどうして罪を得たというのか、大将軍が彼らをすべて拘束するとは。」しばらくして、太后の詔があり王を召した。王は召されたと聞き、内心恐れ、言った。「私はどうして罪を得て召されるというのか!」太后は珠で飾った短衣を着て、盛装して武帳の中に座り、侍御数百人みな武器を持ち、期門の武士が階に戟を立て、殿下にずらりと並んだ。群臣が順番に殿上に上がり、昌邑王を召して前に伏して詔を聴かせた。霍光と群臣が連名で王を弾劾し、尚書令が奏文を読み上げた。

原文光即與羣臣俱見白太后,具陳昌邑王不可以承宗廟狀。皇太后迺車駕幸未央承明殿,詔諸禁門毋內昌邑羣臣。王入朝太后還,乘輦欲歸溫室,中黃門宦者各持門扇,王入,門閉,昌邑羣臣不得入。王曰:「何爲?」大將軍跪曰:「有皇太后詔,毋內昌邑羣臣。」王曰:「徐之,何迺驚人如是!」光使盡驅出昌邑羣臣,置金馬門外。車騎將軍安世將羽林騎收縛二百餘人,皆送廷尉詔獄。令故昭帝侍中中臣侍守王。光勑左右:「謹宿衞,卒有物故自裁,令我負天下,有殺主名。」〈師古曰:「卒讀曰猝。物故,死也。自裁,自殺也。」〉王尚未自知當廢,謂左右:「我故羣臣從官安得罪,〈師古曰:「安,焉也。」〉而大將軍盡繫之乎?」頃之,有太后詔召王。王聞召,意恐,迺曰:「我安得罪而召我哉!」太后被珠襦,〈如淳曰:「以珠飾襦也。」晉灼曰:「貫珠以爲襦,形若今革襦矣。」師古曰:「晉說是也。」〉盛服坐武帳中,侍御數百人皆持兵,期門武士陛戟,〈師古曰:「陛戟謂執戟以衞陛下也。」〉陳列殿下。羣臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。光與羣臣連名奏王,尚書令讀奏曰:

丞相の臣敞(楊敞)、大司馬大将軍の臣光(霍光)、車騎将軍の臣安世(張安世)、度遼将軍の臣明友(范明友)、前将軍の臣増(韓増)、後将軍の臣充国(趙充国)、御史大夫の臣誼(蔡誼)、宜春侯の臣譚(王譚)、当塗侯の臣聖(魏聖)、随桃侯の臣昌楽(趙昌楽)、杜侯の臣屠耆堂、太僕の臣延年(杜延年)、太常の臣昌(蘇昌)、大司農の臣延年(田延年)、宗正の臣徳(劉徳)、少府の臣楽成(史楽成)、廷尉の臣光(李光)、執金吾の臣延寿(李延寿)、大鴻臚の臣賢(韋賢)、左馮翊の臣広明(田広明)、右扶風の臣徳(周徳)、長信少府の臣嘉(姓不詳)、典属国の臣武(蘇武)、京輔都尉の臣広漢(趙広漢)、司隷校尉の臣辟兵(姓不詳)、諸吏文学光禄大夫の臣遷(王遷)、臣畸(宋畸)、臣吉(景吉)、臣賜、臣管、臣勝、臣梁、臣長幸(いずれも姓不詳)、臣夏侯勝、太中大夫の臣徳(姓不詳)、臣卬(趙卬)が、命を顧みず申し上げます皇太后陛下に。臣敞らは頓首して死罪を申し上げます。天子が宗廟を永く保ち、海内を統一して治めるのは、慈孝と礼誼と賞罰を根本とするからであります。孝昭皇帝は早く天下を棄てられ、後嗣がございませんでした。臣敞らが協議いたしましたところ、礼に「人の後を継ぐ者はその子となる」とありますので、昌邑王が後を継ぐべきでありました。そこで宗正、大鴻臚、光禄大夫に命じて節を持たせ、使者として昌邑王を召し出し、喪の主とさせました。ところが王は斬縗の喪服を着ながらも、悲しみ哀しむ心がなく、礼誼を廃し、道中では菜食にせず、従官に命じて女子を略奪させ、衣車に乗せ、自分が泊まる伝舎の中に入れさせました。都に到着して謁見した後、皇太子に立てられると、常にひそかに鶏や豚を買って食べました。皇帝の信璽と行璽を大行皇帝(昭帝)の御前で受け取り、控えの間に戻ると、すぐに璽を開封して封をしませんでした。従官が交替で節を持ち、昌邑から連れてきた従官の騶宰や官奴二百余人を引き入れ、常に彼らと禁中の門内で戯れました。自ら符璽署に行って節十六本を取り出し、朝夕の哭臨の際には、従官に交替で節を持たせて従わせました。手紙を書いて「皇帝、侍中の君卿に問う。中御府令の高昌に命じて黄金千斤を持たせ、君卿に賜う。十人の妻を娶るように」としました。大行皇帝の御霊が前殿にあるのに、楽府の楽器を取り出し、昌邑から連れてきた楽人を引き入れ、鼓を打ち歌を歌い、俳優の芸をさせました。葬送の儀式が終わって戻ると、前殿に上がり、鐘や磬を打ち鳴らし、泰一神や宗廟の楽人を召し出し、輦道の牟首に連れて行き、鼓吹や歌舞をさせ、あらゆる楽を奏でさせました。長安厨に命じて三太牢の供え物を整えさせ、閣道の室の中で祠りを行い、祀りが終わると、従官とともに飲み食いしました。法駕に乗り、皮軒や鸞旗を立て、北宮や桂宮を駆け巡り、猪や虎を弄び闘わせました。皇太后の御小馬車を召し出し、官奴に乗り回らせ、掖庭の中で遊戯させました。孝昭皇帝の宮人であった蒙らと淫乱の行いをし、掖庭令に詔して「敢えて漏らす者は腰斬に処す」と命じました。

原文丞相臣敞、〈師古曰:「楊敞也。」〉大司馬大將軍臣光、車騎將軍臣安世、〈師古曰:「張子孺。」〉度遼將軍臣明友、〈師古曰:「范明友。」〉前將軍臣增、〈師古曰:「韓增。」〉後將軍臣充國、〈師古曰:「趙充國。」〉御史大夫臣誼、〈師古曰:「蔡誼。」〉宜春侯臣譚、〈師古曰:「王訢子。」〉當塗侯臣聖、〈師古曰:「姓魏也。」〉隨桃侯臣昌樂、〈師古曰:「姓趙,故蒼梧王趙光子。」〉杜侯臣屠耆堂、〈師古曰:「故胡人。」〉太僕臣延年、〈師古曰:「杜延年。」〉太常臣昌、〈師古曰:「蒲侯蘇昌。」〉大司農臣延年、〈師古曰:「田延年。」〉宗正臣德、〈師古曰:「劉向父。」〉少府臣樂成、〈師古曰:「姓史也。」〉廷尉臣光、〈師古曰:「李光。」〉執金吾臣延壽、〈師古曰:「李延壽。」〉大鴻臚臣賢、〈師古曰:「韋賢。」〉左馮翊臣廣明、〈師古曰:「田廣明。」〉右扶風臣德、〈師古曰:「周德。」〉長信少府臣嘉、〈師古曰:「不知姓。」〉典屬國臣武、〈師古曰:「蘇武。」〉京輔都尉臣廣漢、〈師古曰:「趙廣漢。」〉司隷校尉臣辟兵、〈師古曰:「不知姓。」〉諸吏文學光祿大夫臣遷、〈師古曰:「王遷。」〉臣畸、〈師古曰:「宋畸。」〉臣吉、〈師古曰:「景吉。」〉臣賜、臣管、臣勝、臣梁、臣長幸、〈師古曰:「並不知姓也。」〉臣夏侯勝、〈李竒曰:「同官同名,故以姓別也。」〉太中大夫臣德、〈師古曰:「不知姓。」〉臣卬〈師古曰:「趙充國子也。」〉昧死言皇太后陛下:臣敞等頓首死罪。天子所以永保宗廟緫壹海內者,以慈孝禮誼賞罰爲本。孝昭皇帝早棄天下,亡嗣,臣敞等議,禮曰「爲人後者爲之子也」,昌邑王宜嗣後,遣宗正、大鴻臚、光祿大夫奉節使徵昌邑王典喪。服斬縗,〈師古曰:「典喪服,言爲喪主也。斬縗,謂縗裳下不緶,直斬割之而已。緶音步千反。」〉亡悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,〈師古曰:「素食,菜食無肉也。言王在道常肉食,非居喪之制也。而鄭康成解喪服素食云『平常之食』,失之遠矣。素食,義亦見〈王莽傳〉。」〉使從官略女子載衣車,內所居傳舍。始至謁見,立爲皇太子,常私買雞豚以食。受皇帝信璽、行璽大行前,〈孟康曰:「漢初有三璽,天子之璽自佩,行璽、信璽在符節臺。大行前,昭帝柩前也。」韋昭曰:「大行,不反之辭也。」〉就次發璽不封。〈師古曰:「璽旣國器,常當緘封,而王於大行前受之,退還所次,遂爾發漏,更不封之,得令凡人皆見,言不重慎也。」〉從官更持節,〈師古曰:「更音工衡反。次下亦同。」〉引內昌邑從官騶宰官奴二百餘人,常與居禁闥內敖戲。自之符璽取節十六,〈師古曰:「之,往也。自往至署取節也。」〉朝暮臨,〈師古曰:「臨,哭臨也,音力禁反。」〉令從官更持節從。〈師古曰:「更互執節,從至哭臨之所。」〉爲書曰「皇帝問侍中君卿:〈師古曰:「昌邑之侍中名君卿也。」〉使中御府令高昌奉黃金千斤,賜君卿取十妻。」大行在前殿,發樂府樂器,引內昌邑樂人,擊鼓歌吹作俳倡。〈師古曰:「俳優,諧戲也。倡,樂人也。俳音排。」〉會下還,上前殿,〈如淳曰:「下謂柩之入冢。葬還不居喪位,便處前殿也。」師古曰:「下音胡稼反。」〉擊鐘磬,召內泰壹宗廟樂人輦道牟首,〈鄭氏曰:「祭泰壹神樂人也。」孟康曰:「牟首,地名也,上有觀。」如淳曰:「輦道,閣道也。牟首,屏面也。以屏面自隔,無哀戚也。」臣瓚曰:「牟首,池名也,在上林苑中。方在衰絰而輦游於池,言無哀戚也。」師古曰:「召泰壹樂人,內之於輦道牟首而鼓吹歌舞也。牟首,瓚說是也。屏面之說,失之遠矣。又左思吳都賦云『長塗牟首』,劉逵以爲牟首閣道有室屋也,此說更無所出。或者思及逵據此『輦道牟首』便誤用之乎?」〉鼓吹歌舞,悉奏衆樂。發長安厨三太牢具祠閣室中,〈如淳曰:「黃圖北出中門有長安厨,故謂之厨城門。閣室,閣道之有室者。不知禱何淫祀也。」〉祀已,與從官飲啗。〈師古曰:「啗,食也,音徒敢反。」〉駕法駕,皮軒鸞旗,驅馳北宮、桂宮,〈師古曰:「皮軒鸞旗皆法駕所陳也。北宮、桂宮並在未央宮北。」〉弄彘鬬虎。召皇太后御小馬車,〈張晏曰:「皇太后所駕遊宮中輦車也。漢廄有果下馬,高三尺,以駕輦。」師古曰:「小馬可於果樹下乘之,故號果下馬。」〉使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令敢泄言要斬。

太后は言われた。「やめなさい。人臣たる者がこのようにまで乱れることがあろうか!」王は席を離れて伏した。尚書令が再び読み上げた。

原文太后曰:「止!〈師古曰:「令且止讀奏。」〉爲人臣子當悖亂如是邪!」〈師古曰:「責王也。悖,乖也,音布內反。」〉王離席伏。尚書令復讀曰:

諸侯王・列侯・二千石の綬(印綬)および墨綬・黄綬を取り上げて、昌邑の郎官となっている免奴(解放された奴隷)に合わせて佩用させた。(師古が言うには、「免奴とは、解放されて良人となった者をいう」)節の上部の黄色い旄(飾り毛)を赤に変えた。(師古が言うには、「劉屈氂が戾太子と戦った時、節の上に黄色い旄を加え、それが常となった。賀(劉賀)が今勝手にこれを改めた」)御府(宮中の宝物庫)の金銭・刀剣・玉器・彩りの絹織物を取り出し、共に遊戯する者たちに賞賜した。従官や官奴と夜を徹して酒を飲み、酒に耽溺した。(師古が言うには、「湛は沈と読み、また耽とも読む。沈沔とは、荒れ迷うことである」)太官(食膳を司る官)に詔して、天子の食事を以前通りに供進させようとした。食監(食膳の監督官)が奏上して、喪服を脱いでいないので、以前の食事を口にすることはできないと述べた。(師古が言うには、「釋とは解き放つことである」)再び太官に詔して、急いで準備させ、食監を通さないようにした。(師古が言うには、「趣は促と読む。關は由である」)太官は準備することができず、すぐに従官を出して鶏や豚を買わせ、詔して殿門から中に入れさせ、これを常とした。(師古が言うには、「内は入れることである。毎日のように常に鶏や豚を入れさせた」)独りで夜に温室殿に九賓の礼を設け、(師古が言うには、「温室の中で九賓の礼を設けたのである。九賓の解説は〈叔孫通伝〉にある」)姉婿の昌邑関内侯を引見した。祖宗の廟(宗廟)の祭祀を行わないうちに、璽書(皇帝の印のある文書)を作り、使者に節を持たせて、三太牢(牛・羊・豚の犠牲各三頭)をもって昌邑哀王の園廟(陵園の廟)を祭祀させ、(師古が言うには、「当時は喪服中であったので、宗廟を祭祀しないうちに私的に昌邑哀王を祭ったのである」)嗣子皇帝と称した。璽綬を受けて以来二十七日の間に、使者が縦横に行き交い、(如淳が言うには、「旁午とは分布することである」師古が言うには、「一縦一横を旁午といい、交錯するというような意味である」)節を持って諸官署に詔を伝え、徴発を行わせ、合わせて千百二十七件に及んだ。文学・光禄大夫の夏侯勝らおよび侍中の傅嘉がたびたび過失を諫めたので、人をやって夏侯勝を文書で責めさせ、(師古が言うには、「簿は歩戸の反切。簿責とは、文書によってことごとく責めることである」)傅嘉を縛って獄に繋いだ。荒淫で心を惑わし、帝王の礼儀を失い、漢の制度を乱した。臣の敞らはたびたび諫めたが、改めず、(師古が言うには、「更は改めることである」)日増しにひどくなるばかりで、社稷を危うくし、天下を不安にさせる恐れがある。

原文取諸侯王列侯二千石綬及墨綬黃綬以并佩昌邑郎官者免奴。〈師古曰:「免奴謂免放爲良人者。」〉變易節上黃旄以赤。〈師古曰:「以劉屈氂與戾太子戰,加節上黃旄,遂以爲常。賀今輒改之。」〉發御府金錢刀劔玉器采繒,賞賜所與遊戲者。與從官官奴夜飲,湛沔於酒。〈師古曰:「湛讀曰沈,又讀曰耽。沈沔,荒迷也。」〉詔太官上乘輿食如故。食監奏未釋服未可御故食,〈師古曰:「釋謂解脫也。」〉復詔太官趣具,無關食監。〈師古曰:「趣讀曰促。關,由也。」〉太官不敢具,即使從官出買雞豚,詔殿門內,以爲常。〈師古曰:「內,入也。令每日常入雞豚也。」〉獨夜設九賔溫室,〈師古曰:「於溫室中設九賔之禮也。九賔,解在〈叔孫通傳〉。」〉延見姊夫昌邑關內侯。祖宗廟祠未舉,爲璽書使使者持節,以三太牢祠昌邑哀王園廟,〈師古曰:「時在喪服,故未祠宗廟而私祭昌邑哀王也。」〉稱嗣子皇帝。受璽以來二十七日,使者旁午,〈如淳曰:「旁午,分布也。」師古曰:「一從一橫爲旁午,猶言交橫也。」〉持節詔諸官署徵發,凡千一百二十七事。文學光祿大夫夏侯勝等及侍中傅嘉數進諫以過失,使人簿責勝,〈師古曰:「簿音步戶反。簿責,以文簿具責之。」〉縛嘉繫獄。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,〈師古曰:「更,改也。」〉日以益甚,恐危社稷,天下不安。

臣の敞らは謹んで博士の臣の霸、臣の雋舍、(晉灼が言うには、「雋は姓、舍は名である。下に臣の虞舍があるので、姓で区別した」師古が言うには、「雋は辭阮の反切、また字阮の反切とも読む」)臣の德、臣の虞舍、臣の射、臣の倉と議し、皆が言うには、「高皇帝(高祖)は功業を建てて漢の太祖となり、孝文皇帝は慈仁で節倹な太宗となられた。今、陛下は孝昭皇帝の後を嗣がれているのに、淫らで邪な行いをなさり、法に従わない。『詩経』に『籍曰く未知と、亦既に子を抱く』とある。(師古が言うには、「大雅・抑の詩である。衞の武公が厲王を刺したものである。籍は仮の意。これは、仮に人が王はまだ幼少で何も知らないと言っても、すでに成長して子を抱いているのだから、実は幼少ではないという意味である」)五辟(五刑)の類いで、不孝より大きいものはない。(師古が言うには、「五辟は即ち五刑である。辟は頻亦の反切」)周の襄王は母に仕えることができず、『春秋』に『天王出でて鄭に居る』とあるのは、不孝のゆえに出奔したのであり、天下から絶たれたのである。(師古が言うには、「襄王は恵王の子である。僖公二十四年の経文に『天王出でて鄭に居る』と書かれている。『公羊伝』に『王者に外はない。これが出ると言うのはなぜか。母に能くせざるなり』とある。繇は由と同じ」)宗廟は君主よりも重い。陛下は高廟(高祖の廟)から天命を受けておられないので、天の序列を継ぎ、祖宗の廟を奉じ、万姓を子とすることはできない。廃すべきである」臣は、有司の御史大夫の臣の誼、宗正の臣の德、太常の臣の昌に、太祝と共に一太牢(牛・羊・豚の犠牲各一頭)を整えさせ、高廟に告祭することを請う。臣の敞らは昧死をもって奏聞する。

原文臣敞等謹與博士臣霸、臣雋舍、〈晉灼曰:「雋姓,舍名也。下有臣虞舍,故以姓別之。」師古曰:「雋音辭阮反,又音字阮反。」〉臣德、臣虞舍、臣射、臣倉議,皆曰:「高皇帝建功業爲漢太祖,孝文皇帝慈仁節儉爲太宗,今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。〈師古曰:「軌,法也。辟讀曰僻。」〉《詩》云:『籍曰未知,亦旣抱子。』〈師古曰:「大雅抑之詩。衞武公刺厲王也。籍,假也。此言假令人云王尚幼少,未有所知,亦已長大而抱子矣,實不幼少也。」〉五辟之屬,莫大不孝。〈師古曰:「五辟即五刑也。辟音頻亦反。」〉周襄王不能事母,《春秋》曰『天王出居于鄭』,繇不孝出之,絕之於天下也。〈師古曰:「襄王,惠王子也。僖二十四年經書『天王出居于鄭』。《公羊傳》曰:『王者無外,此其言出何?不能乎母也。』繇讀與由同。」〉宗廟重於君,陛下未見命高廟,不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢。」臣請有司御史大夫臣誼、宗正臣德、太常臣昌與太祝以一太牢具,告祠高廟。臣敞等昧死以聞。

皇太后は詔して言った。「よろしい」

原文皇太后詔曰:「可。」

霍光は王(劉賀)に起立して詔を受けるよう命じた。王は言った。「天子には争臣(諫める臣)が七人いれば、たとえ無道であっても天下を失わないと聞いている」(師古が言うには、「孝経の言葉を引いている」)霍光は言った。「皇太后の詔によって廃されるのであって、どうして天子たりえようか!」そこで、すぐにその手を取って、(師古が言うには、「即は就くことである」)その璽組(璽の紐)を解き外し、太后に奉上し、王を扶けて殿を下りさせ、金馬門を出た。群臣は付き従って送った。王は西を向いて拝礼し、言った。「愚かで頑なで、漢の事を任せられる者ではありません」起き上がって副車(天子の乗り物の副車)に乗った。大将軍の霍光は昌邑邸まで送り、謝罪して言った。「王の行いは自ら天に絶たれたものです。臣らは愚かで臆病で、身を殺して恩徳に報いることができませんでした。臣は寧ろ王に背いても、社稷に背くことはできません。願わくば王は自らを大切になさってください。臣は永久に左右に侍ることはありません」(師古が言うには、「再び左右で侍見することができないと言っている」)霍光は涙を流して去った。群臣が奏上して言った。「古くは廃され放逐された人は遠方に屏け、政事に関わらせませんでした。(師古が言うには、「政令に関与しないという意味」)王の賀を漢中の房陵県に移すことを請います」太后は詔して賀を昌邑に帰らせ、湯沐邑(沐浴料として与える領地)二千戸を賜った。昌邑の群臣は、輔導の義を失い、王を悪に陥れた罪に坐し、霍光は二百余人をことごとく誅殺した。刑場に出て死ぬ時、市中で号呼して言った。(師古が言うには、「呼は火故の反切」)「断ずるに当たりて断ぜざれば、反ってその乱れを受く」(師古が言うには、「霍光らを早く殺さなかったことを悔いているのである」)

原文光令王起拜受詔,王曰:「聞天子有爭臣七人,雖無道不失天下。」〈師古曰:「引孝經之言。」〉光曰:「皇太后詔廢,安得天子!」迺即持其手,〈師古曰:「即,就也。」〉解脫其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,羣臣隨送。王西面拜,曰:「愚戇不任漢事。」起就乘輿副車。大將軍光送至昌邑邸,光謝曰:「王行自絕於天,臣等駑怯,不能殺身報德。臣寧負王,不敢負社稷。願王自愛,臣長不復左右。」〈師古曰:「言不復得侍見於左右。」〉光涕泣而去。羣臣奏言:「古者廢放之人屏於遠方,不及以政,〈師古曰:「言不豫政令。」〉請徙王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戶。昌邑羣臣坐亡輔導之誼,陷王於惡,光悉誅殺二百餘人。出死,號呼巿中曰:〈師古曰:「呼音火故反。」〉「當斷不斷,反受其亂。」〈師古曰:「悔不早殺光等也。」〉

霍光は庭中に坐し、丞相以下を集めて、擁立する者を議定した。広陵王(劉胥)は以前に用いられず、また燕剌王(劉旦)は反逆して誅殺され、その子は議の中に含まれなかった。近親ではただ衞太子(劉拠)の孫で皇曾孫と号する者が民間におり、皆がそのことを称え述べていた。霍光はそこで再び丞相の敞らと共に上奏して言った。「『礼記』に『人の道は親を親しむが故に祖を尊び、祖を尊ぶが故に宗(宗族)を敬う』とあります。太宗(孝昭皇帝)には嗣子がなく、支子の子孫の賢者を選んで嗣とします。孝武皇帝の曾孫の病已は、武帝の時に詔があって掖庭(宮人の住む所)で養育され、今年十八歳になります。師について『詩経』・『論語』・『孝経』を受け、自ら節倹を実行し、慈仁で人を愛するので、孝昭皇帝の後を嗣ぎ、祖宗の廟を奉じ、万姓を子とすることができます。臣は昧死をもって奏聞します」皇太后は詔して言った。「よろしい」霍光は宗正の劉德を曾孫の家のある尚冠里に遣わし、沐浴させて御衣を賜い、太僕に軨獵車(軽便な車)で曾孫を迎えさせて宗正府で斎戒させ、未央宮に入って皇太后に拝謁させ、陽武侯に封じた。(師古が言うには、「解説はともに〈宣帝紀〉にある。軨は零の音」)ほどなく霍光は皇帝の璽綬を奉上し、高廟に謁した。これが孝宣皇帝である。翌年、詔を下して言った。「徳ある者を褒め、元功(第一の功労)を賞するのは、古今通ずる道理である。大司馬大将軍の霍光は宿衛(宮中の警護)に忠正で、徳を宣べ恩を明らかにし、節を守り義を執って、宗廟を安んじた。河北・東武陽を以て霍光に一万七千戸を加増して封邑とせよ」以前からの食邑と合わせて二万戸となった。賞賜は前後して黄金七千斤、銭六千万、雑色の絹織物三万匹、奴婢百七十人、馬二千匹、甲第一区(第一等の邸宅一区画)に及んだ。

原文光坐庭中,會丞相以下議定所立。廣陵王已前不用,及燕剌王反誅,其子不在議中。近親唯有衞太子孫號皇曾孫在民間,咸稱述焉。光遂復與丞相敞等上奏曰:「《禮》曰『人道親親故尊祖,尊祖故敬宗。』太宗亡嗣,擇支子孫賢者爲嗣。孝武皇帝曾孫病已,武帝時有詔掖庭養視,至今年十八,師受《詩》、《論語》、《孝經》,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞。」皇太后詔曰:「可。」光遣宗正劉德至曾孫家尚冠里,洗沐賜御衣,太僕以軨獵車迎曾孫就齋宗正府,入未央宮見皇太后,封爲陽武侯。〈師古曰:「解並在〈宣紀〉。軨音零。」〉已而光奉上皇帝璽綬,謁于高廟,是爲孝宣皇帝。明年,下詔曰:「夫襃有德,賞元功,古今通誼也。大司馬大將軍光宿衞忠正,宣德明恩,守節秉誼,以安宗廟。其以河北、東武陽益封光萬七千戶。」與故所食凡二萬戶。賞賜前後黃金七千斤,錢六千萬,雜繒三萬疋,奴婢百七十人,馬二千疋,甲第一區。

昭帝の時から、霍光の子の禹および兄の孫の雲は皆中郎将となり、雲の弟の山は奉車都尉・侍中となり、胡越の兵を統率した。霍光の二人の娘婿は東西宮(未央宮と長楽宮)の衛尉となり、兄弟や諸婿、外孫らは皆奉朝請(朝参の資格)を得て、諸曹の大夫、騎都尉、給事中となった。党と親族は連なり合い、朝廷に根拠を張った。霍光は後元(武帝の最後の年号)以来、万機(政務)を執り行い、皇帝(宣帝)が即位すると、政権を返上した。皇帝は謙譲して受けず、諸事は皆まず霍光に関白してから、天子に奏上した。霍光が朝見するたびに、皇帝は虚心に顔を引き締め、礼を尽くして下ることを極めた。(師古が言うには、「下は胡稼の反切」)

原文自昭帝時,光子禹及兄孫雲皆中郎將,雲弟山奉車都尉侍中,領胡越兵。光兩女壻爲東西宮衞尉,昆弟諸壻外孫皆奉朝請,爲諸曹大夫,騎都尉,給事中。黨親連體,根據於朝廷。光自後元秉持萬機,及上即位,迺歸政。上謙讓不受,諸事皆先關白光,然後奏御天子。光每朝見,上虛己斂容,禮下之已甚。〈師古曰:「下音胡稼反。」〉

霍光が政権を執って前後二十年、地節二年の春に病が重くなった。皇帝の車駕が自ら霍光の病を見舞い、皇帝は彼のために涙を流した。霍光は上書して恩に感謝し言った。「国邑三千戸を分け、兄の孫で奉車都尉の霍山を列侯に封じて、兄の票騎将軍霍去病の祭祀を奉じさせたい。」事は丞相と御史に下され、その日に霍光の子の霍禹を右将軍に任命した。

原文光秉政前後二十年,地節二年春病篤,車駕自臨問光病,上爲之涕泣。光上書謝恩曰:「願分國邑三千戶,以封兄孫奉車都尉山爲列侯,奉兄票騎將軍去病祀。」事下丞相御史,即日拜光子禹爲右將軍。

霍光が薨去すると、皇帝と皇太后が親しく霍光の喪に臨んだ。太中大夫の任宣と侍御史五人に節を持たせて喪事を護らせた。中二千石が墓所に幕府を設けた。金銭、絹織物、綿、刺繡の被を百領賜った。衣類五十箱、璧、真珠、玉衣、梓宮、便房、黄腸題湊をそれぞれ一具ずつ、樅の木の外蔵槨を十五具賜った。東園の温明は、すべて天子の制度と同じであった。霍光の屍柩を轀輬車に載せ、黄屋左纛を立て、材官・軽車・北軍の五校の兵士を発して軍列を整え茂陵まで至り、その葬送を行った。諡して宣成侯といった。三河の卒を発して封土を穿ち、塚と祠堂を築き、園邑三百家を置き、長と丞を置いて旧法の通りに奉守させた。

原文光薨,上及皇太后親臨光喪。太中大夫任宣與侍御史五人持節護喪事。中二千石治莫府冢上。〈如淳曰:「典爲冢者。」〉賜金錢、繒絮,繡被百領。衣五十篋,璧珠璣玉衣,〈師古曰:「漢儀注以玉爲襦,如鎧狀連綴之,以黃金爲縷,要已下玉爲札,長尺,廣二寸半爲甲,下至足,亦綴以黃金鏤。」〉梓宮、〈服虔曰:「棺也。」師古曰:「以梓木爲之,親身之棺也。爲天子制,故亦稱梓宮。」〉便房、黃膓題湊各一具,〈服虔曰:「便房,藏中便坐也。」蘇林曰:「以柏木黃心致累棺外,故曰黃腸。木頭皆內向,故曰題湊。」如淳曰:「漢儀注天子陵中明中高丈二尺四寸,周二丈,內梓宮,次楩槨,柏黃腸題湊。」師古曰:「便房,小曲室也。如氏以爲楩木名,非也。」〉樅木外臧椁十五具。〈服虔曰:「在正臧外,婢妾臧也。或曰厨廄之屬也。」蘇林曰:「樅木,柏葉松身。」師古曰:「《爾雅》及《毛詩傳》並云樅木松葉柏身,檜木乃柏葉松身耳。蘇說非也。樅音七庸反。檜音工闊反,字亦作栝。」〉東園溫明,〈服虔曰:「東園處此器,形如方漆桶,開一面,漆畫之,以鏡置其中,以懸屍上,大斂并蓋之。」師古曰:「東園,署名也,屬少府。其署主作此器也。」〉皆如乘輿制度。載光尸柩以轀輬車,〈文穎曰:「轀輬車,如今喪轜車也。」孟康曰:「如衣車有窗牖,閉之則溫,開之則涼,故名之轀輬車也。」臣瓚曰:「秦始皇道崩,祕其事,載以轀輬車,百官奏事如故,此不得是轜車類也。案杜延年奏,載霍光柩以輬車,駕大廄白虎駟,以轀車駕大廄白鹿駟爲倅。」師古曰:「轀輬本安車也,可以卧息。後因載喪,飾以柳翣,故遂爲喪車耳。轀者密閉,輬者旁開窗牖,各別一乘,隨事爲名。後人旣專以載喪,又去其一,緫爲藩飾,而合二名呼之耳。倅,副也,音千內反。」〉黃屋左纛,〈師古曰:「解在高紀也。」〉發材官輕車北軍五校士軍陳至茂陵,以送其葬。謚曰宣成侯。發三河卒穿復土,起冢祠堂,置園邑三百家,長丞奉守如舊法。

葬儀が終わると、霍山を楽平侯に封じ、奉車都尉として尚書事を領させた。天子は霍光の功徳を思い、詔を下して言った。「故大司馬大将軍博陸侯は、宿衛として孝武皇帝に三十有余年仕え、孝昭皇帝を輔佐すること十余年、大難に遭い、自ら義を執り、三公九卿大夫を率いて万世の冊を定めて社稷を安んじ、天下の民衆は皆康寧を得た。功徳は盛大であり、朕は甚だこれを嘉する。その後世を復し、その爵邑を疇とし、世々賦役に関与せず、その功は蕭相国の如し。」翌年の夏、太子の外祖父である許広漢を平恩侯に封じた。また詔を下して言った。「宣成侯霍光は宿衛として忠正であり、国家に勤労した。善を善として後世に及ぼすので、その兄の孫で中郎将の霍雲を冠陽侯に封じる。」

原文旣葬,封山爲樂平侯,以奉車都尉領尚書事。天子思光功德,下詔曰:「故大司馬大將軍愽陸侯宿衞孝武皇帝三十有餘年,輔孝昭皇帝十有餘年,遭大難,躬秉誼,率三公九卿大夫定萬世冊以安社稷,天下蒸庶咸以康寧。功德茂盛,朕甚嘉之。復其後世,疇其爵邑,〈應劭曰:「疇,等也。」師古曰:「復音方目反。」〉世世無有所與,功如蕭相國。」〈師古曰:「與讀曰豫。」〉明年夏,封太子外祖父許廣漢爲平恩侯。復下詔曰:「宣成侯光宿衞忠正,勤勞國家。善善及後世,〈師古曰:「善善者,謂襃寵善人也。」〉其封光兄孫中郎將雲爲冠陽侯。」

霍禹が既に博陸侯を嗣ぐと、大夫人の霍顕は霍光の時に自ら造った墓域の制度を改めて奢侈に大きくした。三山の闕を起こし、神道を築き、北は昭霊に臨み、南は承恩に出て、祠室を盛大に飾り、輦閣を永巷に通じ属させ、良人や婢妾を幽閉して守らせた。広く第室を造営し、天子の乗る輦を作り、刺繡の茵馮を加えて描き、黄金で塗り、革と綿で輪を薦め、侍婢に五采の絲で霍顕の車を牽引させ、第中で遊戯した。初め、霍光は監奴の馮子都を寵愛し、常に彼と事を計った。霍顕が寡居すると、子都と淫乱した。一方、霍禹と霍山も共に第宅を繕治し、平楽館で馬を走らせて馳逐した。霍雲は朝請すべき時に、しばしば病と称して私的に外出し、多くの賓客を従え、黄山の苑中で囲みを張って狩猟し、蒼頭奴に朝謁に行かせ、敢えて譴責する者はいなかった。そして霍顕と諸女は、昼夜を問わず長信宮殿に出入りし、期限や度合いがなかった。

原文禹旣嗣爲博陸侯,大夫人顯改光時所自造塋制而侈大之。〈師古曰:「塋,墓域也,音營。」〉起三山闕,築神道,北臨昭靈,南出承恩,〈服虔曰:「昭靈、承恩,皆館名也。」李竒曰:「昭靈,高祖母冢園也。」文穎曰:「承恩,宣平侯冢園也。」師古曰:「服說是也,文、李並失之。」〉盛飾祠室,輦閣通屬永巷,而幽良人婢妾守之。〈晉灼曰:「閣道乃通屬至永巷中也。」師古曰:「此亦其冢上作輦閣之道及永巷也,非謂掖庭之永巷也。」〉廣治第室,作乘輿輦,加畫繡絪馮,黃金塗,〈如淳曰:「絪亦茵。馮謂所馮者也,以黃金塗飾之。」師古曰:「茵,蓐也,以繡爲茵馮而黃金塗輿輦也。」〉韋絮薦輪,〈晉灼曰:「御輦以韋緣輪,著之以絮。」師古曰:「取其行安,不搖動也。著音張呂反。」〉侍婢以五采絲輓顯,游戲第中。〈師古曰:「輓謂牽引車輦也,音晚。」〉初,光愛幸監奴馮子都,常與計事,及顯寡居,與子都亂。〈晉灼曰:「漢語東閭氏亡,顯以婢代立,素與馮殷姦也。」師古曰:「監奴,謂奴之監知家務者也,殷者,子都之名。」〉而禹、山亦並繕治第宅,走馬馳逐平樂館。雲當朝請,數稱病私出,〈師古曰:「請音才姓反。」〉多從賔客,張圍獵黃山苑中,使蒼頭奴上朝謁,〈文穎曰:「朝當用謁,不自行而令奴上謁者也。」師古曰:「上謁,若今參見尊貴而通名也。」〉莫敢譴者。而顯及諸女,晝夜出入長信宮殿中,亡期度。〈師古曰:「長信宮,上官太后所居。」〉

宣帝は民間にいた頃から、霍氏の尊盛が長く続いていることを聞き知っており、内心快く思っていなかった。霍光が亡くなると、皇帝は初めて自ら朝政を親裁し、御史大夫の魏相を給事中とした。霍顕は霍禹、霍雲、霍山に言った。「お前たちは大將軍(霍光)の残した事業を継ごうと努めない。今、大夫(魏相)が給事中となり、他人が一言でも讒言すれば、お前たちは再び自分を救うことができるのか?」その後、両家(霍氏と御史大夫家)の下僕が道を争い、霍氏の下僕が御史府に入り、大夫(魏相)の門を踏み躙ろうとした。御史(魏相の部下)が叩頭して謝罪したので、ようやく去った。人がこのことを霍氏に告げると、霍顕らは初めて憂慮し始めた。ちょうど魏大夫が丞相となり、しばしば内宴で謁見し、事柄を奏上した。平恩侯(許広漢)と侍中の金安上らは、直接に宮中(省中)に出入りした。当時、霍山は相変わらず尚書を領していたが、皇帝は吏民が封事(密封した上奏文)を奏上することを許し、尚書を通さないようにした。群臣が進見する時も、それぞれ単独で往来した。そこで霍氏はこれを非常に憎んだ。

原文宣帝自在民間聞知霍氏尊盛日久,內不能善。光薨,上始躬親朝政,御史大夫魏相給事中。顯謂禹、雲、山:「女曹不務奉大將軍餘業,〈師古曰:「女音汝。曹,輩也。」〉今大夫給事中,他人壹間,女能復自救邪?」〈師古曰:「間音居莧反。」〉後兩家奴爭道,〈師古曰:「謂霍氏及御史家。」〉霍氏奴入御史府,欲躢大夫門,御史爲叩頭謝,迺去。人以謂霍氏,〈師古曰:「告語也。」〉顯等始知憂。會魏大夫爲丞相,數燕見言事。平恩侯與侍中金安上等徑出入省中。時霍山自若領尚書,〈師古曰:「自若猶言如故也。」〉上令吏民得奏封事,不關尚書,羣臣進見獨往來,〈師古曰:「謂各各得盡言於上也。」〉於是霍氏甚惡之。

宣帝が即位した当初、微賤の頃の許妃を皇后に立てた。霍顕は自分の末娘の霍成君を可愛がり、彼女を貴くしたいと思い、密かに乳医の淳于衍に毒薬を使わせて許后を殺害させ、その機に乗じて霍光に成君を後宮に入れて、代わりに皇后に立てるよう勧めた。この話は『外戚伝』にある。最初、許后が急死した時、役人は医者たちを捕らえ、淳于衍を侍疾の任に不備があったとして不道の罪で弾劾し、獄に下した。役人の取り調べが厳しくなると、霍顕は事が露見するのを恐れ、すぐに実情をすべて霍光に話した。霍光は大いに驚き、自ら発覚させて挙げようとしたが、忍びず、ためらった。ちょうど上奏文が上がった時、霍光はその末尾に「衍は論ずるなかれ」と書き添えた。霍光が亡くなった後、この話が少しずつ漏れ始めた。そこで皇帝は初めてこれを聞いたが、まだ確かめず、霍光の娘婿である度遼将軍・未央衛尉・平陵侯の范明友を光禄勲に転任させ、次の娘婿である諸吏中郎将・羽林監の任勝を安定太守として出させた。数か月後、さらに霍光の姉婿である給事中・光禄大夫の張朔を蜀郡太守として出し、孫婿の中郎将の王漢を武威太守とした。まもなく、さらに霍光の長女の婿である長楽衛尉の鄧広漢を少府に転任させた。また霍禹を大司馬としたが、小冠をかぶらせ、印綬はなく、彼の右将軍としての屯兵官属を罷免し、ただ霍禹の官名だけを霍光と同じく大司馬とした。また范明友の度遼将軍の印綬を没収し、ただ光禄勲とした。また霍光の中女の婿である趙平が散騎・騎都尉・光禄大夫として屯兵を率いていたが、彼の騎都尉の印綬も没収した。胡越騎、羽林、および両宮の衛将で屯兵を率いていた者たちは、すべて親信の許氏、史氏の子弟と取り替えた。

原文宣帝始立,立微時許妃爲皇后。顯愛小女成君,欲貴之,私使乳醫淳于衍行毒藥殺許后,〈師古曰:「乳醫,視產乳之疾者。乳音而樹反。」〉因勸光內成君,代立爲后。語在〈外戚傳〉。始許后暴崩,吏捕諸醫,劾衍侍疾亡狀不道,下獄。吏簿問急,〈師古曰:「簿音步戶反。」〉顯恐事敗,即具以實語光。光大驚,欲自發舉,不忍,猶與。〈師古曰:「猶與,不決也。與讀曰豫。」〉會奏上,因署衍勿論。〈師古曰:「署者,題其奏後也。」〉光薨後,語稍泄。於是上始聞之而未察,〈師古曰:「未知其虛實。」〉迺徙光女壻度遼將軍未央衞尉平陵侯范明友爲光祿勳,次壻諸吏中郎將羽林監任勝出爲安定太守。數月,復出光姊壻給事中光祿大夫張朔爲蜀郡太守,羣孫壻中郎將王漢爲武威太守。頃之,復徙光長女壻長樂衞尉鄧廣漢爲少府。更以禹爲大司馬,冠小冠,亡印綬,罷其右將軍屯兵官屬,特使禹官名與光俱大司馬者。〈蘇林曰:「特,但也。」〉又收范明友度遼將軍印綬,但爲光祿勳。及光中女壻趙平爲散騎騎都尉光祿大夫將屯兵,又收平騎都尉印綬。諸領胡越騎、羽林及兩宮衞將屯兵,悉易以所親信許、史子弟代之。

霍禹は大司馬となったが、病気と称した。霍禹の元の長史であった任宣が見舞いに来ると、霍禹は言った。「私に何の病気があろうか。天子は我が家の将軍(霍光)がいなければここまでにはなれなかった。今、将軍の墓の土もまだ乾かないうちに、我が家をことごとく遠ざけ、逆に許氏、史氏を任用し、我々の印綬を奪い、人に死ぬ間際に省みることもさせないとは。」任宣は霍禹の恨みと怨みが深いのを見て、言った。「大將軍の時代がどうして再び行えようか。国権を握り、生殺与奪の権を手中にしていた。廷尉の李种、王平、左馮翊の賈勝胡、そして車丞相(丞相の車千秋)の娘婿である少府の徐仁はみな、将軍の意に逆らった罪で獄に下され死んだ。使者楽成(史楽成)のような小さい家柄の者が将軍の寵愛を受けて、九卿にまでなり侯に封じられた。百官以下はただ馮子都、王子方ら(霍光の家奴)に仕え、丞相など眼中になかった。それぞれ時というものがある。今、許氏、史氏は天子の骨肉であり、貴くなるのはまさに当然である。大司馬がこのことで怨恨を抱こうとするのは、愚かだと思う。」霍禹は黙り込んだ。数日後、出仕して政務を執った。

原文禹爲大司馬,稱病。禹故長史任宣候問,禹曰:「我何病?縣官非我家將軍不得至是,〈如淳曰:「縣官謂天子。」〉今將軍墳墓未乾,盡外我家,〈師古曰:「外謂疏斥之。」〉反任許、史,奪我印綬,令人不省死。」〈師古曰:「不自省有過也。」〉宣見禹恨望深,〈師古曰:「望,怨也。」〉迺謂曰:「大將軍時何可復行!〈師古曰:「言今何得復如此也。」〉持國權柄,殺生在手中。廷尉李种、王平、〈師古曰:「种音沖。」〉左馮翊賈勝胡及車丞相女壻少府徐仁皆坐逆將軍意下獄死。使樂成小家子得幸將軍,至九卿封侯。〈師古曰:「即上所云少府樂成者也。使者,其姓也,字或作史。」〉百官以下但事馮子都、王子方等,〈服虔曰:「皆光奴。」〉視丞相亡如也。〈師古曰:「亡如猶言無所象似也。」〉各自有時,今許、史自天子骨肉,貴正宜耳。大司馬欲用是怨恨,愚以爲不可。」禹默然。數日,起視事。

霍顕と霍禹、霍山、霍雲は自分たちの勢力が日々侵され削られるのを見て、しばしば顔を合わせて泣き、互いに怨んだ。霍山が言った。「今、丞相(魏相)が権力を握り、天子は彼を信じ、大將軍時代の法令をことごとく変え、公田を貧民に与え、大將軍の過失をあばき立てている。また、多くの儒生は貧乏人の子で、遠方から来て飢え寒さに苦しみ、でたらめな説や狂った言葉を言うのを好み、忌諱を避けず、大將軍は常に彼らを仇敵のように憎んでいた。今、陛下は諸儒生と語るのを好み、各自に書面で事柄に対処させているが、多くは我が家のことを言っている。かつて上書して『大將軍の時代は主が弱く臣が強く、専制して権力を擅にし、今その子孫が権力を握り、兄弟はますます驕り高ぶって、宗廟を危うくする恐れがある』と言い、災異がしばしば現れるのはすべてこのためだと言う者がいた。その言葉は極めて痛烈で、私はその上書を屏して奏上しなかった。その後、上書する者はますます狡猾になり、ことごとく封事で奏上し、すぐに中書令が取りに来て、尚書を通さない。ますます人を信用しない。」霍顕が言った。「丞相はしばしば我が家のことを言うが、我々に罪はないのか?」霍山は言った。「丞相は廉潔で公正だ。どうして罪があるだろうか。我が家の兄弟や諸婿は多くが慎みがない。また、民間で霍氏が許皇后を毒殺したと噂されているが、本当にあるのか?」霍顕は恐れ慌てて、すぐに実情をすべて霍山、霍雲、霍禹に告げた。霍山、霍雲、霍禹は驚いて言った。「そうだったのか。なぜ早く我々に告げなかったのか。天子が諸婿を離散させ斥逐したのは、このためだったのだ。これは大事だ。誅罰は小さくない。どうすればよいか?」そこで初めて邪な謀議を始めた。

原文顯及禹、山、雲自見日侵削,數相對啼泣,自怨。山曰:「今丞相用事,縣官信之,盡變易大將軍時法令,以公田賦與貧民,發揚大將軍過失。又諸儒生多窶人子,〈師古曰:「窶,貧而無禮,音其羽反。」〉遠客飢寒,喜妄說狂言,〈師古曰:「喜音許吏反。」〉不避忌諱,大將軍常讎之,〈師古曰:「言嫉之如仇讎也。」〉今陛下好與諸儒生語,人人自使書對事,多言我家者。甞有上書言大將軍時主弱臣強,專制擅權,今其子孫用事,昆弟益驕恣,恐危宗廟,灾異數見,盡爲是也。其言絕痛,山屏不奏其書。後上書者益黠,盡奏封事,輒下中書令出取之,不關尚書,益不信人。」顯曰:「丞相數言我家,獨無罪乎?」山曰:「丞相廉正,安得罪?我家昆弟諸壻多不謹。又聞民間讙言霍氏毒殺許皇后,〈師古曰:「讙,衆聲也,音許爰反。」〉寧有是邪?」顯恐急,即具以實告山、雲、禹。山、雲、禹驚曰:「如是,何不早告禹等!縣官離散斥逐諸壻,用是故也。此大事,誅罰不小,柰何?」於是始有邪謀矣。

初め、趙平の食客の石夏は天官(天文)に詳しく、趙平に言った。「熒惑星が御星を守っている。御星は太僕・奉車都尉(霍山が兼ねていた)の星だ。罷免されなければ死ぬ。」趙平は内心、霍山らを憂えた。霍雲の舅の李竟の親しい張赦が、霍雲の家が慌ただしいのを見て、李竟に言った。「今、丞相と平恩侯が権力を握っている。太夫人(霍顕)に太后(上官太后)に言わせて、まずこの二人を誅殺させなさい。陛下を移すことも、太后の手にかかっている。」長安の男子の張章がこのことを告発し、事件は廷尉に下された。執金吾が張赦、石夏らを捕らえようとしたが、後に詔があり、捕らえるのを止めさせた。霍山らはますます恐れ、互いに言った。「これは天子が太后を重んじているから、事件を追及しないのだ。しかし悪い兆候はすでに現れている。さらに許后を弑した事件もある。陛下は寛仁であっても、側近たちが許さないだろう。長く経てばやはり発覚する。発覚すれば族誅される。先手を打った方がよい。」そこで諸女にそれぞれ帰って夫に報告させると、皆言った。「どこに逃げ避けられようか?」

原文初,趙平客石夏善爲天官,〈師古曰:「曉星文者。」〉語平曰:「熒惑守御星,御星,太僕奉車都尉也,不黜則死。」平內憂山等。雲舅李竟所善張赦見雲家卒卒,〈師古曰:「卒讀曰猝,怱遽之貌也。」〉謂竟曰:「今丞相與平恩侯用事,可令太夫人言太后,先誅此兩人。移徙陛下,在太后耳。」長安男子張章告之,事下廷尉。執金吾捕張赦、石夏等,後有詔止勿捕。山等愈恐,相謂曰:「此縣官重太后,故不竟也。〈師古曰:「重,難也。竟,窮竟其事也。」〉然惡端已見,又有弒許后事,陛下雖寬仁,恐左右不聽,乆之猶發,發即族矣,不如先也。」〈師古曰:「言先反。」〉遂令諸女各歸報其夫,皆曰:「安所相避?」〈師古曰:「言無處相避,當受禍也。」〉

ちょうど李竟が諸侯王と交際した罪で捕らえられ、供述の中で霍氏に言及したため、詔勅が下って霍雲と霍山は宿衛の任にふさわしくないとして、官職を免じられ邸宅に戻された。霍光の娘たちが上官太后に対して無礼な振る舞いをし、〈服虔が言うには、「霍光の娘たちは自分たちが上官太后の姨母にあたると思い込み、彼女に対して無礼な態度をとった」という。〉馮子都がたびたび法を犯したので、皇帝はこれらのことをまとめて霍氏を責めた。〈師古が言うには、「総じてこの事柄をもって彼らを責めたのである」という。〉霍山や霍禹らは非常に恐れた。顕(霍光の妻)は夢の中で、邸内の井戸の水が溢れて庭に流れ出し、かまどが木の上にあるのを見た。また、大将軍(霍光)が顕に「子供たちが捕らえられるのを知っているか?〈師古が言うには、「子供たちが捕らえられるかどうか知っているか」という意味である。〉急いで捕らえよ」と言う夢を見た。〈蘇林が言うには、「早く捕らえよ」という。師古が言うには、「亟は居力反と読む」という。〉邸内で鼠が急に増え、人とぶつかり、尾で地面を引っ掻いた。フクロウがたびたび邸の前の木の上で鳴いた。〈師古が言うには、「鴞は不吉な声で鳴く鳥である。古くは建物が高大であれば、広く殿と呼んだのであって、天子の宮中に限らない。この言葉は〈黄霸伝〉にも見える。鴞は羽驕反と読む」という。〉邸の門が自然に壊れた。霍雲の尚冠里にある邸宅の中門も壊れた。路地の端にいる人々が皆、霍雲の家の屋根の上に人がいて、瓦を剥がして地面に投げているのを見たが、近づいて見ると誰もおらず、非常に怪しんだ。霍禹は車騎の音が騒がしく近づいて自分を捕らえに来る夢を見て、一家は憂い悩んだ。霍山が言った。「丞相(魏相)が勝手に宗廟の供え物である子羊、兎、蛙を減らした。〈如淳が言うには、「高后(呂后)の時代に制定された法令で、敢えて宗廟について勝手に議論する者は棄市に処すとある」という。師古が言うには、「羔、菟、鼃は祭祀に供えるものである」という。〉これをもって罪とすることができる。」謀って、太后(上官太后)に博平君(宣帝の外祖母)のために酒宴を設けさせ、〈文穎が言うには、「宣帝の外祖母である」という。〉丞相、平恩侯(許広漢)以下を招き、范明友と鄧広漢に太后の詔命を奉じさせて引き出して斬らせ、その機に乗じて天子を廃して霍禹を立てようと計画した。約束は決まったがまだ実行に移さないうちに、霍雲は玄菟太守に任命され、太中大夫の任宣は代郡太守に任命された。霍山はまた秘書を書き写した罪に問われ、顕は上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭を納めて霍山の罪を贖おうとした。上書は受理されたが聞き入れられなかった。〈師古が言うには、「許さなかったのである」という。〉ちょうど事が発覚し、霍雲、霍山、范明友は自殺し、顕、霍禹、鄧広漢らは捕らえられた。霍禹は腰斬に処され、顕と霍光の娘たちや兄弟たちは皆、棄市に処された。ただ霍后(霍光の娘で宣帝の皇后)だけは廃されて昭台宮に置かれた。霍氏と連座して誅殺され滅ぼされた者は数千家に及んだ。

原文會李竟坐與諸侯王交通,辭語及霍氏,有詔雲、山不宜宿衞,免就第。光諸女遇太后無禮,〈服虔曰:「光諸女自以於上官太后爲姨母,遇之無禮。」〉馮子都數犯法,上并以爲讓,〈師古曰:「揔以此事責之也。」〉山、禹等甚恐。顯夢第中井水溢流庭下,竈居樹上,又夢大將軍謂顯曰:「知捕兒不?〈師古曰:「知兒見捕否?」〉亟下捕之。」〈蘇林曰:「且疾下捕之。」師古曰:「亟音居力反。」〉第中鼠暴多,與人相觸,以尾畫地。鴞數鳴殿前樹上。〈師古曰:「鴞,惡聲之鳥也。古者室屋高大,則通呼爲殿耳,非止天子宮中。其語亦見〈黃霸傳〉。鴞音羽驕反。」〉第門自壞。雲尚冠里宅中門亦壞。巷端人共見有人居雲屋上,徹瓦投地,就視,亡有,大怪之。禹夢車騎聲正讙來捕禹,舉家憂愁。山曰:「丞相擅減宗廟羔、菟、鼃,〈如淳曰:「高后時定令,敢有擅議宗廟者,棄市。」師古曰:「羔、菟、鼃所以供祭也。」〉可以此罪也。」謀令太后爲博平君置酒,〈文穎曰:「宣帝外祖母也。」〉召丞相、平恩侯以下,使范明友、鄧廣漢承太后制引斬之,因廢天子而立禹。約定未發,雲拜爲玄菟太守,太中大夫任宣爲代郡太守。山又坐寫祕書,顯爲上書獻城西第,入馬千匹以贖山罪。書報聞。〈師古曰:「不許之。」〉會事發覺,雲、山、明友自殺,顯、禹、廣漢等捕得。禹要斬,顯及諸女昆弟皆弃市。唯獨霍后廢處昭臺宮。與霍氏相連坐誅滅者數千家。

皇帝はそこで詔を下して言った。「以前、東織室の令史である張赦が魏郡の豪族である李竟を使者として冠陽侯霍雲に、大逆を謀るよう伝えさせた。〈師古が言うには、「解釈は〈宣帝紀〉にある」という。〉朕は大将軍(霍光)の故をもって、このことを抑えて公にせず、彼らが自ら改めることを望んだ。今、大司馬博陸侯霍禹とその母である宣成侯夫人の顕、および従兄弟の子である冠陽侯霍雲、楽平侯霍山、諸姉妹とその婿たちが大逆を謀り、百姓を惑わそうとした。宗廟の神霊の加護により、先んじて発覚し、ことごとくその罪に伏した。〈師古が言うには、「事が発覚して捕らえられたのである」という。〉朕はこれを非常に悲しむ。霍氏に惑わされた者で、丙申の日以前のことであり、官吏に発覚していない者は、皆、赦免する。男子の張章が先に発覚し、期門の董忠に告げ、董忠が左曹の楊惲に告げ、楊惲が侍中の金安上に告げた。楊惲は召し出されて事情を尋ねられ答え、後に張章が上書して報告した。侍中の史高と金安上が共にこの事を発案し、〈師古が言うには、「共に発案したという意味である」という。〉霍氏が禁中に入ることを許さず、ついにその謀を成し遂げさせなかった。〈師古が言うには、「遂は成すことである」という。〉皆、功績は同等である。〈晉灼が言うには、「讎は等しいことである」という。師古が言うには、「その功績が同等であるという意味である」という。〉張章を博成侯に、董忠を高昌侯に、楊惲を平通侯に、金安上を都成侯に、史高を楽陵侯に封ずる。」

原文上迺下詔曰:「迺者東織室令史張赦使魏郡豪李竟報冠陽侯雲謀爲大逆,〈師古曰:「解在〈宣紀〉也。」〉朕以大將軍故,抑而不揚,兾其自新。今大司馬博陸侯禹與母宣成侯夫人顯及從昆弟子冠陽侯雲、樂平侯山諸姊妺壻謀爲大逆,欲詿誤百姓。賴宗廟神靈,先發得,咸伏其辜,〈師古曰:「事發而捕得。」〉朕甚悼之。諸爲霍氏所詿誤,事在丙申前,未發覺在吏者,皆赦除之。男子張章先發覺,以語期門董忠,忠告左曹楊惲,惲告侍中金安上。惲召見對狀,後章上書以聞。侍中史高與金安上建發其事,〈師古曰:「言共立意發之也。」〉言無入霍氏禁闥,卒不得遂其謀,〈師古曰:「遂,成也。」〉皆讎有功。〈晉灼曰:「讎,等也。」師古曰:「言其功相等類也。」〉封章爲博成侯,忠高昌侯,惲平通侯,安上都成侯,高樂陵侯。」

初め、霍氏が奢侈であった時、茂陵の徐生が言った。「霍氏は必ず滅びる。奢れば驕り、驕れば必ず主君を侮る。主君を侮る者は、逆の道を行く者である。人の上に立つ者は、衆人は必ずこれを害そうとする。〈師古が言うには、「右は上である」という。〉霍氏が権力を握る日が長く、これを害そうとする者は多い。天下の者がこれを害そうとしているのに、さらに逆の道を行くならば、滅びないでどうして待てようか!」そこで上疏して言った。「霍氏は非常に盛んである。陛下がもし彼らを愛し厚遇されるならば、時宜に応じて抑制し、滅亡に至らせないようにすべきです。」上書は三度なされたが、その都度受理されただけで聞き入れられなかった。その後、霍氏が誅滅され、霍氏を告発した者は皆、封侯された。ある人が徐生のために上書して言った。「臣は聞きます。ある客人が主人の家を訪れた時、そのかまどがまっすぐな煙突で、傍らに薪が積んであるのを見て、客人は主人に、煙突を曲げるようにし、薪を遠くに移すように言いました。そうしなければ火災になるだろうと。主人は黙って答えませんでした。間もなくその家は確かに火事になり、近隣の人々が共に救い、幸いにして鎮火しました。そこで主人は牛を殺して酒を設け、隣人たちに感謝し、火傷を負った者を上座に座らせ、〈師古が言うには、「灼とは焼かれた者をいう。行は胡郎反と読む」という。〉残りの者はそれぞれ功績の順に座りましたが、煙突を曲げるように言った者を招きませんでした。ある人が主人に言いました。『もし以前に客の言葉を聞いていたならば、牛や酒を費やすこともなく、終始火災の心配もなかったでしょう。〈師古が言うには、「郷は嚮と読む。次も同じである」という。〉今、功績を論じて賓客を招くのに、煙突を曲げ薪を移すことを勧めた者は恩恵を受けず、頭を焦がし額を爛れさせた者が上客となるのですか?』主人はそこで悟ってその人を招きました。今、茂陵の徐福がたびたび上書して霍氏に変事があるだろうから、防ぎ絶つべきだと述べています。もし以前に徐福の説が行われていたならば、国は領土を分け爵位を出す費用がなく、臣下は逆乱を起こして誅滅される敗亡もなかったでしょう。過ぎ去った事は既にそうなってしまいましたが、徐福だけがその功績を受けていません。どうか陛下がこれを明らかにされ、薪を移し煙突を曲げる策を貴び、焦げた髪や爛れた額の者よりも上に置かれるようお願いします。」〈師古が言うには、「右は上である」という。〉皇帝はそこで徐福に帛十匹を賜い、後に郎とした。

原文初,霍氏奢侈,茂陵徐生曰:「霍氏必亡。夫奢則不遜,不遜必侮上。侮上者,逆道也。在人之右,衆必害之。〈師古曰:「右,上也。」〉霍氏秉權日乆,害之者多矣。天下害之,而又行以逆道,不亡何待!」迺上疏言「霍氏泰盛,陛下即愛厚之,宜以時抑制,無使至亡。」書三上,輒報聞。其後霍氏誅滅,而告霍氏者皆封。人爲徐生上書曰:「臣聞客有過主人者,見其竈直突,傍有積薪,客謂主人,更爲曲突,遠徙其薪,不者且有火患。主人默然不應。俄而家果失火,鄰里共救之,幸而得息。於是殺牛置酒,謝其鄰人,灼爛者在於上行,〈師古曰:「灼謂被燒炙者也。行音胡郎反。」〉餘各以功次坐,而不錄言曲突者。人謂主人曰:『鄉使聽客之言,不費牛酒,終亡火患。〈師古曰:「鄉讀曰嚮。次下亦同也。」〉今論功而請賔,曲突徙薪亡恩澤,燋頭爛額爲上客耶?』主人迺寤而請之。今茂陵徐福數上書言霍氏且有變,宜防絕之。鄉使福說得行,則國亡裂土出爵之費,臣亡逆亂誅滅之敗。往事旣已,而福獨不蒙其功,唯陛下察之,貴徙薪曲突之策,使居焦髮灼爛之右。」〈師古曰:「右,上也。」〉上迺賜福帛十疋,後以爲郎。

宣帝が初めて即位した時、高廟に謁見した。大将軍の霍光が車に陪乗すると、皇帝は内心畏れ憚り、まるで背中に芒刺があるかのようであった。後に車騎将軍の張安世が霍光に代わって陪乗すると、天子は体を伸ばしてくつろぎ、非常に安心して親しんだ。〈師古が言うには、「肆は放つこと、伸ばすことである。近は鉅靳反と読む」という。〉霍光が死んでその宗族がことごとく誅殺されたので、世間ではこう言い伝えた。「威が主君を震わせる者は養われず、霍氏の禍は陪乗に始まった。」〈師古が言うには、「萌は始めて生ずることである」という。〉

原文宣帝始立,謁見高廟,大將軍光從驂乘,上內嚴憚之,若有芒刺在背。後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。〈師古曰:「肆,放也,展也。近音鉅靳反。」〉及光身死而宗族竟誅,故俗傳之曰:「威震主者不畜,霍氏之禍萌於驂乘。」〈師古曰:「萌謂始生也。」〉

成帝の時代に至り、霍光のために墓守百戸を置き、吏卒が祭祀を執り行った。元始二年、霍光の従父兄弟の曾孫である金陽を博陸侯に封じ、千戸とした。

原文至成帝時,爲光置守冢百家,吏卒奉祠焉。元始二年,封光從父昆弟曾孫陽爲博陸侯,千戶。

金日磾

原文金日磾

金日磾は字を翁叔といい、〈師古が言うには、「磾は丁奚反と読む」という。〉もともと匈奴の休屠王の太子であった。〈師古が言うには、「休は許蚪反と読む。屠は儲と読む」という。〉武帝の元狩年間、驃騎将軍の霍去病が兵を率いて匈奴の右地を撃ち、多くを斬首し、休屠王の祭天金人を捕獲した。その夏、驃騎将軍は再び西進して居延を過ぎ、祁連山を攻め、大いに勝利して捕獲した。そこで単于は昆邪王と休屠王が西方にいて漢に多く敗れたことを怨み、〈師古が言うには、「昆は下門反と読む」という。〉両王を召し出して誅殺しようとした。昆邪王と休屠王は恐れ、漢に降伏しようと謀った。休屠王は後悔したが、昆邪王は彼を殺し、その衆を併せて漢に降った。昆邪王は列侯に封ぜられた。金日磾は父が降伏せずに殺されたため、母の閼氏や弟の金倫と共に官に没収され、黄門に送られて馬を飼うことになり、その時十四歳であった。

原文金日磾字翁叔,〈師古曰:「磾音丁奚反。」〉本匈奴休屠王太子也。〈師古曰:「休音許蚪反。屠音儲。」〉武帝元狩中,票騎將軍霍去病將兵擊匈奴右地,多斬首,虜獲休屠王祭天金人。其夏,票騎復西過居延,攻祁連山,大克獲。於是單于怨昆邪、休屠居西方多爲漢所破,〈師古曰:「昆音下門反。」〉召其王欲誅之。昆邪、休屠恐,謀降漢。休屠王後悔,昆邪王殺之,并將其衆降漢。封昆邪王爲列侯。日磾以父不降見殺,與母閼氏、弟倫俱沒入官,輸黃門養馬,時年十四矣。

長いことしてから、武帝が遊宴の際に馬を見る時、〈師古が言うには、「ちょうど宴遊の時に、諸々の馬を召し出して検閲した」〉後宮の者たちが側に満ちていた。日磾ら数十人が馬を引いて殿下を通り過ぎると、誰もがこっそりと見る者がいたが、〈師古が言うには、「宮人を見た」〉日磾に至ってはただ一人敢えて見なかった。日磾は身長八尺二寸、容貌が非常に厳かで、馬もまた肥えて立派であったため、上(武帝)は不思議に思って彼に問うと、彼は詳しく本来の事情を答えた。上は彼を珍しいと思い、その日に湯沐(沐浴)の衣冠を賜り、馬監に任命し、侍中・駙馬都尉・光禄大夫に昇進させた。日磾はすでに側近となったが、いまだかつて過失がなく、上は彼を非常に信頼し寵愛し、賞賜は千金を累ね、外出時には驂乗(副車に同乗)し、宮中では左右に侍った。貴戚たちは多くこっそりと怨みを言い、「陛下はでたらめに胡人の子供を得て、かえって彼を貴び重んじている!」と言った。上はこれを聞き、ますます厚遇した。

原文乆之,武帝游宴見馬,〈師古曰:「方於宴游之時,而召閱諸馬。」〉後宮滿側。日磾等數十人牽馬過殿下,莫不竊視,〈師古曰:「視宮人。」〉至日磾獨不敢。日磾長八尺二寸,容貌甚嚴,馬又肥好,上異而問之,具以本狀對。上竒焉,即日賜湯沐衣冠,拜爲馬監,遷侍中駙馬都尉光祿大夫。日磾旣親近,未甞有過失,上甚信愛之,賞賜累千金,出則驂乘,入侍左右。貴戚多竊怨,曰:「陛下妄得一胡兒,反貴重之!」上聞,愈厚焉。

日磾の母は二人の息子を教え諭し、非常に規律正しかったので、上はこれを聞いて褒め称えた。彼女が病死すると、詔を下して甘泉宮にその絵を描かせ、「休屠王閼氏」と記した。〈師古が言うには、「その絵に題字した」〉日磾は絵を見るたびにいつも拝礼し、それに向かって涙を流し、その後ようやく立ち去った。〈師古が言うには、「郷は嚮と読む」〉日磾の二人の息子は皆可愛がられ、帝の弄兒(寵愛する子供)となり、常に傍らにいた。弄兒が時には後ろから上(武帝)の首を抱くと、〈師古が言うには、「擁は抱くこと」〉日磾が前にいて、それを見て目で睨んだ。〈師古が言うには、「目は、怒って見ること」〉弄兒は走りながら泣いて言った。「お父さんが怒った。」上は日磾に「なぜわが子を怒るのか」と言った。その後、弄兒が成長し、慎みがなく、殿下で宮人と戯れているのを、日磾がたまたま見て、その淫らな行いを憎み、遂に弄兒を殺した。弄兒は日磾の長子であった。上はこれを聞いて大いに怒ったが、日磾は頓首して謝罪し、弄兒を殺した理由を詳しく述べた。上は非常に哀れに思い、そのために泣き、その後は心の中で日磾を敬うようになった。

原文日磾母敎誨兩子,甚有法度,上聞而嘉之。病死,詔圖畫於甘泉宮,署曰「休屠王閼氏」。〈師古曰:「題其畫。」〉日磾每見畫常拜,鄉之涕泣,然後迺去。〈師古曰:「鄉讀曰嚮。」〉日磾子二人皆愛,爲帝弄兒,常在旁側。弄兒或自後擁上項,〈師古曰:「擁,抱也。」〉日磾在前,見而目之。〈師古曰:「目,視怒也。」〉弄兒走且啼曰:「翁怒。」上謂日磾「何怒吾兒爲?」其後弄兒壯大,不謹,自殿下與宮人戲,日磾適見之,惡其淫亂,遂殺弄兒。弄兒即日磾長子也。上聞之大怒,日磾頓首謝,具言所以殺弄兒狀。上甚哀,爲之泣,已而心敬日磾。

初め、莽何羅は江充と仲が良かったが、江充が衛太子を陥れて敗北させると、何羅の弟の通は太子誅殺の時に力戦して封を受けた。後に上(武帝)が太子の無実を知ると、江充の宗族や仲間を誅滅した。何羅兄弟は災いが及ぶことを恐れ、〈師古が言うには、「及は禍が及ぶことをいう」〉遂に謀反を企てた。日磾は彼らの様子が普通でないのを見て、内心疑い、ひそかに一人で彼らの動静を観察し、彼らと共に殿上に上がり下りした。〈師古が言うには、「殿に上がり下りすること」〉何羅もまた日磾の意図に気づいたため、長い間実行できなかった。この時、上は林光宮に行幸していた。〈服虔が言うには、「甘泉は別名を林光という」師古が言うには、「秦の林光宮は胡亥が造り、漢はその傍らにまた甘泉宮を建てた」〉日磾は少し病気で廬(控えの部屋)に寝ていた。〈師古が言うには、「殿中に設けられた休憩所を廬という」〉何羅は通と末弟の安成と共に詔を偽って夜に出て、共に使者を殺し、兵を起こした。翌朝、上(武帝)がまだ起きていない時、何羅が何の理由もなく外から入ってきた。〈師古が言うには、「亡何は無故と言うのと同じ」〉日磾は便所に向かおうとして心が動き、〈師古が言うには、「奏は向かうこと。日磾がちょうど便所に向かおうとして心が動いた」〉すぐに中に入って内戸の下に座った。しばらくして、何羅が袖に白刃を隠して東の廂から上がってきて、〈師古が言うには、「刃物を衣の袖の中に置いた。褏は古い袖の字」〉日磾を見ると、顔色が変わり、走って寝所に向かって入ろうとしたが、〈師古が言うには、「趨は趣と読む。卧内は天子の寝所」〉歩く途中で宝瑟に触れて倒れた。日磾は何羅を抱き捕えることができ、そこで声を伝えて叫んだ。「莽何羅が謀反だ!」〈師古が言うには、「傳は声を伝えて叫ぶこと」〉上は驚いて起き上がり、側近たちが刃を抜いて格闘しようとしたが、上は日磾も一緒に傷つけることを恐れ、〈師古が言うには、「中は竹仲反と読む」〉格闘するなと止めた。日磾は何羅の首を掴んで殿下に投げ落とし、〈孟康が言うには、「胡は互と読む。捽胡は、今で言う相撲の臥輪のようなものだ」晉灼が言うには、「胡は首筋のこと。その首筋を掴んで殿下に投げ落とす」師古が言うには、「晉の説が正しい。捽は才乞反と読む」〉捕らえて縛り上げ、徹底的に調べて皆罪を認めた。これによって忠孝の節義が顕著になった。〈師古が言うには、「繇は由と同じ」〉

原文初,莽何羅與江充相善,及充敗衞太子,何羅弟通用誅太子時力戰得封。後上知太子冤,迺夷滅充宗族黨與。何羅兄弟懼及,〈師古曰:「及謂及於禍也。」〉遂謀爲逆。日磾視其志意有非常,心疑之,陰獨察其動靜,與俱上下。〈師古曰:「上下於殿也。」〉何羅亦覺日磾意,以故乆不得發。是時上行幸林光宮,〈服虔曰:「甘泉一名林光。」師古曰:「秦之林光宮,胡亥所造,漢又於其旁起甘泉宮。」〉日磾小疾卧廬。〈師古曰:「殿中所止曰廬。」〉何羅與通及小弟安成矯制夜出,共殺使者,發兵。明旦,上未起,何羅亡何從外入。〈師古曰:「亡何猶言無故也。」〉日磾奏厠心動,〈師古曰:「奏,向也。日磾方向厠而心動。」〉立入坐內戶下。須臾,何羅褏白刃從東箱上,〈師古曰:「置刃於衣褏中也。褏,古袖字。」〉見日磾,色變,走趨卧內欲入,〈師古曰:「趨讀曰趣,嚮也。卧內,天子卧處。」〉行觸寶瑟,僵。日磾得抱何羅,因傳曰:「莽何羅反!」〈師古曰:「傳謂傳聲而唱之。」〉上驚起,左右拔刃欲格之,上恐并中日磾,〈師古曰:「中音竹仲反。」〉止勿格。日磾捽胡投何羅殿下,〈孟康曰:「胡音互。捽胡,若今相僻卧輪之類也。」晉灼曰:「胡,頸也,捽其頸而投殿下也。」師古曰:「晉說是也。捽音才乞反。」〉得禽縛之,窮治皆伏辜。繇是著忠孝節。〈師古曰:「繇讀與由同。」〉

日磾は側近にいるようになってから、目を逆らって見ないことが数十年に及んだ。〈師古が言うには、「忤は逆らうこと」〉賜わった宮女にも、近づこうとしなかった。上は彼の娘を後宮に入れようとしたが、彼は承知しなかった。その篤実で慎重な様子はこのようであり、〈師古が言うには、「篤は厚いこと」〉上は特に彼を珍しいと思った。上(武帝)が病気になった時、霍光に幼い君主を補佐することを託すと、〈師古が言うには、「屬は之欲反と読む」〉霍光は日磾に譲った。日磾は言った。「臣は外国人です。それに匈奴に漢を軽んじさせてしまいます。」そこで霍光の副官となった。霍光は娘を日磾の後継ぎの賞に嫁がせた。初め、武帝の遺詔によって莽何羅討伐の功績で日磾を秺侯に封じようとしたが、〈師古が言うには、「秺は丁故反と読む」〉日磾は帝が幼いことを理由に封を受けなかった。補佐政治をして一年余り、病気が重くなり、大将軍霍光が上奏して日磾を封じ、寝たまま印綬を授けた。その日、薨去し、葬具と冢地を賜り、軽車と甲冑を着けた兵士が送り、軍列が茂陵まで続き、謚を敬侯といった。

原文日磾自在左右,目不忤視者數十年。〈師古曰:「忤,逆也。」〉賜出宮女,不敢近。上欲內其女後宮,不肯。其篤慎如此,〈師古曰:「篤,厚也。」〉上尤竒異之。及上病,屬霍光以輔少主,〈師古曰:「屬音之欲反。」〉光讓日磾。日磾曰:「臣外國人,且使匈奴輕漢。」於是遂爲光副。光以女妻日磾嗣子賞。初,武帝遺詔以討莽何羅功封日磾爲秺侯,〈師古曰:「秺音丁故反。」〉日磾以帝少不受封。輔政歲餘,病困,大將軍光白封日磾,卧授印綬。一日,薨,賜葬具冢地,送以輕車介士,軍陳至茂陵,謚曰敬侯。

日磾の二人の息子、賞と建は、共に侍中となり、昭帝とほぼ同年で、共に寝起きした。賞は奉車都尉、建は駙馬都尉となった。賞が侯を継いだ時、二つの印綬を佩びると、上(昭帝)は霍将軍に言った。「金氏兄弟二人に、ともに二つの印綬を佩びさせてはどうか?」霍光は答えて言った。「賞は父を継いで侯となっただけです。」上は笑って言った。「侯に封じるかどうかは、私と将軍次第ではないか?」霍光は言った。「先帝の約束で、功績があって初めて侯に封じられるのです。」この時、二人はともに八九歳であった。宣帝が即位すると、賞は太僕となり、霍氏に事件の兆しがあった時、妻と離縁することを上奏した。〈師古が言うには、「萌牙とは、端緒が始まったことを言い、草が生え始めるようなもの」〉上もまた自ら哀れに思い、ただ一人連座を免れた。元帝の時、光禄勲となり、薨去し、子がおらず、封国は除かれた。元始年間に絶えた家を継がせ、建の孫の当を秺侯に封じ、日磾の後を祀らせた。

原文日磾兩子,賞、建,俱侍中,與昭帝略同年,共卧起。賞爲奉車、建駙馬都尉。及賞嗣侯,佩兩綬,上謂霍將軍曰:「金氏兄弟兩人不可使俱兩綬邪?」霍光對曰:「賞自嗣父爲侯耳。」上笑曰:「侯不在我與將軍乎?」光曰:「先帝之約,有功迺得封侯。」時年俱八九歲。宣帝即位,賞爲太僕,霍氏有事萌牙,上書去妻。〈師古曰:「萌牙者,言始有端緒,若草之始生。」〉上亦自哀之,獨得不坐。元帝時爲光祿勳,薨,亡子,國除。元始中繼絕世,封建孫當爲秺侯,奉日磾後。

初め、日磾が率いて共に降伏した弟の倫は、字を少卿といい、黄門郎となり、早くに亡くなった。日磾の二人の息子は栄えたが、孫の代になると衰え、一方で倫の子孫は遂に栄え、子の安上が初めて貴顕となり侯に封じられた。

原文初,日磾所將俱降弟倫,字少卿,爲黃門郎,早卒。日磾兩子貴,及孫則衰矣,而倫後嗣遂盛,子安上始貴顯封侯。

安上は字を子侯といい、若くして侍中となり、誠実で篤実で知恵があり、宣帝に愛された。楚王延寿の謀反の計画を発覚させるのにかなり関与し、〈師古が言うには、「與は豫と読む」〉関内侯の爵位を賜り、食邑三百戸を与えられた。後に霍氏が謀反を起こすと、安上は宮中の大小の門に伝令して禁じ、霍氏の親族を中に入れず、〈師古が言うには、「禁は止めること。門闥は宮中の大小の門。声を伝えて諸々の門を止めた」〉都成侯に封じられ、建章衛尉に至った。薨去し、杜陵に冢塋を賜り、謚を敬侯といった。四人の子、常、敞、岑、明がいた。

原文安上字子侯,少爲侍中,惇篤有智,宣帝愛之。頗與發舉楚王延壽反謀,〈師古曰:「與讀曰豫。」〉賜爵關內侯,食邑三百戶。後霍氏反,安上傳禁門闥,無內霍氏親屬,〈師古曰:「禁,止也。門闥,宮中大小之門也。傳聲而止諸門闥也。」〉封爲都成侯,至建章衞尉。薨,賜冢塋杜陵,謚曰敬侯。四子,常、敞、岑、明。

岑と明はともに諸曹中郎将となり、常に光禄大夫を務めた。元帝が太子であった時、敞は中庶子となり、寵愛を受けた。帝が即位すると、騎都尉光禄大夫、中郎将侍中となった。元帝が崩御すると、故事により近臣は皆陵に従って園郎となるが、敞は代々忠孝の名があり、太后の詔によって成帝に仕えるために留められ、奉車水衡都尉となり、ついに衛尉に至った。敞は人となり正直で、敢えて顔色を犯すことを恐れず、左右の者は彼を恐れたが、ただ天子も彼を扱いにくいと感じた。病が重くなると、上は使者を遣わして何を望むかを尋ねさせ、弟の岑を託した。上は岑を召し出し、使主客に任命した。敞の子の涉はもと左曹であったが、上は涉を侍中に任命し、幸いにも緑車に乗せて衛尉の邸宅まで送らせた。ほどなくして敞は死去した。敞には三人の子、涉、参、饒がいた。

原文岑、明皆爲諸曹中郎將,常光祿大夫。元帝爲太子時,敞爲中庶子,幸有寵,帝即位,爲騎都尉光祿大夫,中郎將侍中。元帝崩,故事,近臣皆隨陵爲園郎,敞以世名忠孝,太后詔留侍成帝,爲奉車水衡都尉,至衞尉。敞爲人正直,敢犯顏色,左右憚之,唯上亦難焉。〈師古曰:「臣下皆敬憚,唯有天子一人,亦難之。」〉病甚,上使使者問所欲,以弟岑爲託。上召岑,拜爲使主客。〈服虔曰:「官名,屬鴻臚,主胡客也。」〉敞子涉本爲左曹,上拜涉爲侍中,使待幸綠車載送衞尉舍。〈李竒曰:「輦綠車,常設以待幸也。臨敞病困,拜子爲侍中,以此車送,欲敞見其榮寵也。」如淳曰:「幸綠車常置左右以待召載皇孫,今遣涉歸,以皇孫車載之,寵之也。」晉灼曰:「漢注綠車名皇孫車,太子有子乘以從。」師古曰:「如、晉二說是也。」〉須臾卒。敞三子,涉、參、饒。

涉は経書に明るく倹約を旨とし、諸儒に称賛された。成帝の時に侍中騎都尉となり、三輔の胡越騎を統率した。哀帝が即位すると、奉車都尉となり、長信少府に至った。一方、参は匈奴に使いし、匈奴中郎将、越騎校尉、関内都尉、安定太守、東海太守となった。饒は越騎校尉となった。

原文涉明經儉節,諸儒稱之。成帝時爲侍中騎都尉,領三輔胡越騎。〈師古曰:「胡越騎之在三輔者,若長水、長楊、宣曲之屬是也。」〉哀帝即位,爲奉車都尉,至長信少府。而參使匈奴,匈奴中郎將,〈師古曰:「以其出使匈奴,故拜爲匈奴中郎將也。」〉越騎校尉,關內都尉,安定、東海太守。饒爲越騎校尉。

涉には二人の子、湯と融がおり、ともに侍中諸曹将大夫となった。一方、涉の従父弟の欽は明経に挙げられ、太子門大夫となり、哀帝が即位すると、太中大夫給事中となった。欽の従父弟の遷は尚書令となり、兄弟が権力を握った。帝の祖母の傅太后が崩御すると、欽は葬送の監督を命じられ、職務を立派に果たしたため、泰山太守、弘農太守に抜擢され、威名を轟かせた。平帝が即位すると、大司馬司直、京兆尹に召された。帝は幼かったため、師友を選んで置き、大司徒の孔光は経書に明るく行いが高潔であるとして孔氏の師とされ、京兆尹の金欽は家柄が忠孝であるとして金氏の友とされた。欽は光禄大夫侍中に転じ、秩は中二千石となり、都成侯に封じられた。

原文涉兩子,湯、融,皆侍中諸曹將大夫。〈師古曰:「將亦謂中郎將也。」〉而涉之從父弟欽舉明經,爲太子門大夫,哀帝即位,爲太中大夫給事中,欽從父弟遷爲尚書令,兄弟用事。帝祖母傅太后崩,欽使護作,〈師古曰:「監主葬送之事也。」〉職辦,擢爲泰山、弘農太守,著威名。平帝即位,徵爲大司馬司直、京兆尹。帝年幼,選置師友,大司徒孔光以明經高行爲孔氏師,京兆尹金欽以家世忠孝爲金氏友。徙光祿大夫侍中,秩中二千石,封都成侯。

当時、王莽は平帝の外戚である衛氏を誅殺したばかりであり、礼に明るい少府の宗伯鳳を召し出して、後継者となる者の道理について説かせ、公卿、将軍、侍中、朝臣を皆聴講させた。これは内には平帝を戒め、外には百姓の議論を塞ぐためであった。欽は一族の兄弟である秺侯の当とともに封ぜられることになった。初め、当の曾祖父の日磾は子の節侯賞に伝え、欽の祖父の安上は子の夷侯常に伝えたが、いずれも子がなく、国は絶えた。そこで莽は欽と当を封じて、その後を継がせた。当の母の南は、莽の母の功顕君の同母弟であった。当は南の名を大行に上奏して太夫人とした。欽はこれに便乗して当に言った。「詔書は日磾の功績を述べているが、賞についての言葉はない。当は孫として祖父を継ぐ者と名乗っているのだから、当然、自分の父と祖父のために廟を建てるべきである。賞はもと国君であったから、大夫にその祭祀を主宰させればよい。」その時、甄邯が傍らにおり、朝廷で欽を叱責し、弾劾して上奏した。「欽は幸いにも経術に通じていることで、抜擢されて帷幄に侍し、重ねて厚恩を受け、爵号を襲封している。聖朝が代々後継者となる者の道理を重んじていることを知っているはずである。以前、故定陶太后が根本に背き天に逆らい、孝哀帝はその福を得られなかった。近ごろ呂寛、衛宝がまた奸謀を企て、ついに反逆に至り、皆その罪に伏した。太皇太后はこれを懲らしめ悼み恐れ、天に逆らった咎、聖を誣い法を曲げた大乱の災いを、誠心誠意天の心を奉じ、明らかな聖制に従い、後継者となる者の道理に専一となり、天下の命を安んじようとされ、たびたび正殿に臨み、群臣を引見して礼経を講習されている。孫が祖を継ぐとは、正統を失わず重責を担う者をいうのである。賞は日磾の後を継ぎ、後に君となったのであり、大宗の重責を担っている。これは礼にいう『祖を尊ぶが故に宗を敬う』であり、大宗は絶えてはならないのである。欽は自分と当が同じ道理でともに拝命されることを知りながら、しばしば殿省の中で大言壮語し、当に云々と教えている。当がもしその言葉通りにするならば、欽もまた自分の父のために廟を建て、夷侯常の廟に入らないことになるであろう。進退の言葉が異なり、衆心を大いに惑わせ、国の大綱を乱し、禍乱の根源を開き、祖を誣いる不孝、これ以上の罪はない。特に大臣としてあるべき姿ではなく、大不敬である。秺侯の当が母の南を太夫人として上奏したのは、礼を失い不敬である。」莽は太后に上奏し、四輔、公卿、大夫、博士、議郎に下して議させると、皆が「欽は時を移さず罪に就くべきである」と言った。謁者が欽を召して詔獄に下すと、欽は自殺した。邯は国の体制を正し、私情を挟むことなく、忠孝が特に顕著であるとして、千戸を加増して封ぜられた。また、長信少府の涉の子で右曹の湯を都成侯に改めて封じた。湯は封を受けた日、敢えて家に帰らず、後継者となる者の道理を明らかにした。加増封の後、莽はまた欽の弟の遵を用い、侯に封じ、九卿の位に至らせた。

原文時王莽新誅平帝外家衞氏,召明禮少府宗伯鳳〈如淳曰:「宗伯,姓。」〉入說爲人後之誼,白令公卿、將軍、侍中、朝臣並聽,〈師古曰:「白令皆聽之。」〉欲以內厲平帝而外塞百姓之議。〈師古曰;「塞,止也。」〉欽與族昆弟秺侯當俱封。初,當曾祖父日磾傳子節侯賞,而欽祖父安上傳子夷侯常,皆亡子,國絕,故莽封欽、當奉其後。當母南即莽母功顯君同產弟也。當上南大行爲太夫人。〈文穎曰:「南,名也。大行,官名也。當上名狀於大行也。」鄧展曰:「當上南爲太夫人,恃莽姨母故耳。爲父立廟,非也。」〉欽因緣謂當:「詔書陳日磾功,亡有賞語。當名爲以孫繼祖也,自當爲父、祖父立廟。〈晉灼曰:「當是賞弟建之孫,此言自當爲其父及祖父建立廟也。」〉賞故國君,使大夫主其祭。」〈如淳曰;「以賞故國君,使大夫掌其祭事。」臣瓚曰:「當是支庶上繼大宗,不得顧其外親也。而欽見當母南爲太夫人,遂尊其父祖以續日磾,不復爲後賞,而令大夫主賞祭事。」師古曰:「瓚說是也。」〉時甄邯在旁,庭叱欽,〈師古曰:「於朝庭中叱之也。」〉因劾奏曰:「欽幸得以通經術,超擢侍帷幄,重蒙厚恩,〈師古曰:「重音直用反。」〉封襲爵號,知聖朝以世有爲人後之誼。前遭故定陶太后背本逆天,孝哀不獲厥福,迺者呂寬、衞寶復造姦謀,至於反逆,咸伏厥辜。太皇太后懲艾悼懼,〈師古曰:「艾讀曰乂。乂,創也。」〉逆天之咎,非聖誣法,大亂之殃,誠欲奉承天心,遵明聖制,專壹爲後之誼,以安天下之命,數臨正殿,延見羣臣,講習禮經。孫繼祖者,謂亡正統持重者也。賞見嗣日磾,後成爲君,持大宗重,則禮所謂『尊祖故敬宗』,大宗不可以絕者也。欽自知與當俱拜同誼,即數揚言殿省中,敎當云云。〈師古曰:「云云者,多言也。謂上所陳以孫繼祖也。」〉當即如其言,則欽亦欲爲父明立廟而不入夷侯常廟矣。進退異言,頗惑衆心,亂國大綱,開禍亂原,誣祖不孝,罪莫大焉。尤非大臣所宜,大不敬。秺侯當上母南爲太夫人,失禮不敬。」莽白太后,下四輔、公卿、大夫、博士、議郎,皆曰:「欽宜以時即罪。」〈師古曰:「即,就也。」〉謁者召欽詣詔獄,欽自殺。邯以綱紀國體,亡所阿私,忠孝尤著,益封千戶。更封長信少府涉子右曹湯爲都成侯。湯受封日,不敢還歸家,以明爲人後之誼。益封之後,莽復用欽弟遵,封侯,歷九卿位。

原文

賛に曰く、霍光は結髪(少年)の頃から内廷に仕え、階闥(宮中の階段と門)の間から起ち上がり、確固として志を抱き、忠義の心が主君に見えた。幼い皇帝の託(遺託)を受け、漢王室の命運を託され、廟堂(朝廷)に当たり、幼君を擁護し、燕王を打ち倒し、上官桀を打ち倒し、権勢を利用して敵を制し、その忠誠を成し遂げた。廃立(皇帝の廃立)の際に臨み、大節(節義)を守って奪われることがなく、遂に国家を正し、社稷を安んじた。昭帝を擁護し宣帝を立てるにあたり、霍光は師保(太師・太保)の任にあり、周公や阿衡(伊尹)であっても、これにどうして勝ることができようか。しかし霍光は学問がなく術策を知らず、大理(根本的な道理)に暗く、妻の陰謀を隠し、娘を皇后に立て、溺れ沈むような満ち溢れる欲望にふけり、それによって覆滅の禍いを増し、死んでわずか三年で、宗族は誅殺され滅ぼされた。哀れなことよ。昔、霍叔が晋に封ぜられ、晋はすなわち河東である。霍光はその子孫であろうか。金日磾は夷狄の滅んだ国の出身で、漢の朝廷に捕虜として仕えたが、篤実で敬虔な心で主君を悟らせ、忠信を自ら顕わし、功績を立てて上将の位に至り、封国を後嗣に伝え、代々忠孝の名を挙げ、七代にわたって内侍(宮中に仕える官)となった。なんと盛んなことか。もとは休屠が金人を作って祭天の主としたので、それによって金の姓を賜ったという。

原文贊曰:霍光以結髮內侍,起於階闥之閒,確然秉志,誼形於主。〈師古曰:「形,見也。」〉受襁褓之託,任漢室之寄,當廟堂,擁幼君,摧燕王,仆上官,〈師古曰:「仆,頓也,音赴。」〉因權制敵,以成其忠。處廢置之際,臨大節而不可奪,遂匡國家,安社稷。擁昭立宣,光爲師保,雖周公、阿衡,何以加此!〈師古曰:「阿衡,伊尹官號也。阿,倚也。衡,平也。言天子所倚,群下取平也。」〉然光不學亡術,闇於大理,陰妻邪謀,〈晉灼曰:「不揚其過也。」〉立女爲后,湛溺盈溢之欲,〈師古曰:「湛讀曰沈。」〉以增顛覆之禍,死財三年,〈師古曰:「財與纔同。」〉宗族誅夷,哀哉!昔霍叔封於晉,〈師古曰:「霍叔,文王之子,武王之弟也。」〉晉即河東,光豈其苗裔乎?金日磾夷狄亡國,羈虜漢庭,而以篤敬寤主,忠信自著,勒功上將,傳國後嗣,世名忠孝,七世內侍,何其盛也!本以休屠作金人爲祭天主,故因賜姓金氏云。