巻64上

 漢書

巻六十四上 厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝

厳助

厳助は、会稽呉の人で、厳夫子の子である。〈張晏が言うには、「夫子とは、厳忌のことである」。〉あるいは一族の子であるとも言われる。〈 師古 が言うには、「また、夫子の族子であるとも言う」。〉郡が賢良を推挙し、百余人が対策に応じたが、武帝は厳助の対策を良しとし、これによってただ一人厳助を抜擢して中大夫とした。後に朱買臣、吾丘寿王、司馬相如、 主父偃 、徐楽、厳安、東方朔、枚皐、膠倉、終軍、厳葱奇らを得て、ともに左右に置いた。この時、四方の夷を征伐し、辺境に郡を設置し、軍旅をたびたび発し、内では制度を改め、朝廷には事多く、しばしば賢良文学の士を推挙した。〈師古が言うには、「婁は、古い屡の字である」。〉公孫弘は徒歩の身から起こり、数年で丞相に至り、東閤を開いて賢人を招き謀議に与からせ、朝見して奏事する際、国家の便宜について述べた。上は厳助らに命じて大臣と弁論させ、内(天子の賓客)と外(公卿大夫)が義理の文をもって相応じた。〈師古が言うには、「中とは天子の賓客、すなわち厳助の輩をいう。外とは公卿大夫をいう」。〉大臣はたびたび屈服した。〈師古が言うには、「計議が助らに及ばず、毎回屈服したという意味である。音は丘勿の反切」。〉その中で特に親しく寵愛された者は、東方朔、枚皐、厳助、吾丘寿王、司馬相如である。相如は常に病気を称して事を避けた。朔と皐は論議の根拠がしっかりしておらず、上は彼らをかなり俳優のように扱った。〈師古が言うには、「論議が従順で、正しさを保持できず、樹木の根柢がないようなものだ」。〉ただ厳助と寿王だけが見いだされて任用され、その中でも厳助が最も先に進んだ。

建元三年、閩越が兵を挙げて東甌を包囲し、東甌が漢に危急を告げた。当時、武帝は年齢二十に満たず、 太尉 たいい の田蚡に問うた。蚡は、越人が互いに攻撃し合うのは彼らの常事であり、またたびたび反覆するので、中国が煩わされて救援に向かうに足らず、 秦 の時以来放棄して属させていない、と考えた。〈師古が言うには、「中華に臣属していないという意味」。〉そこで厳助は蚡を詰問して言った。「ただ力が及ばず救えず、徳が及ばず覆えないことを憂えるだけで、もし本当にできれば、どうして放棄するのか。かつて秦は 咸陽 を挙げて(天下全体を)放棄したのだから、何も越だけのことではない。〈師古が言うには、「挙は総の意味。天下全体、ひいては京師までも放棄したという意味」。〉今、小国が窮迫して危急を告げてきているのに、天子が救いの手を挙げなければ、どこに訴えればよいのか。〈師古が言うには、「振は挙げる、起こすの意味。安は焉んぞ」。〉またどうして万国を子として養うと言えようか」。〈師古が言うには、「子とは、臣子として養うことをいう」。〉上は言った。「 太尉 たいい は計略に与かるに足らない。私は新たに即位したばかりで、虎符を出して郡国の兵を発することを望まない」。そこで厳助に節を持たせて会稽の兵を発させた。会稽太守は法を盾に拒もうとして、兵を発しなかった。〈師古が言うには、「法によって拒んだのは、符験がないためである」。〉厳助はそこで一人の司馬を斬り、天子の意図を諭し告げた。〈師古が言うには、「天子の意図をはっきりと告げ知らせた」。〉ついに兵を発して海を渡り東甌を救援した。到着する前に、閩越は兵を引き上げた。

その後三年、閩越が再び兵を起こして南越を攻撃した。南越は天子との約束を守り、勝手に兵を発することを敢えてせず、上書して報告した。上はその義を重んじ、〈師古が言うには、「多は重んじるの意味」。〉大いに兵を発動し、二人の将軍に兵を率いさせて閩越を誅伐させようとした。淮南王の安が上書して諫めて言った。

陛下が天下に臨み、徳を布き恵を施し、刑罰を緩め、賦斂を薄くし、鰥寡を哀れみ、孤独を恤れみ、耆老を養い、匱乏を救い、盛んな徳は上に高まり、和やかな恩沢は下に行き渡り、近い者は親しみ付き従い、遠い者は徳を慕い、天下は安らかで、〈孟康が言うには、「摂は安らか。音は奴協の反切」。〉人はその生を安んじ、自ら身を終えるまで兵革を見ないと思っています。今、役人が兵を挙げて越を誅伐しようとしていると聞き、臣安はひそかに陛下のためにこれを難事と考えます。〈師古が言うには、「重は難とするの意味」。〉越は、方外の地、髪を切り身体に文様を施す民です。〈晋灼が言うには、「淮南子に『越人は劗髪する』とあり、張揖はこれが古い翦の字であると考えている」。師古が言うには、「劗は翦と同じで、張の説が正しい」。〉冠帯の国の法度をもって治めることはできません。夏・殷・周三代の盛んな時から、胡や越は正朔を受けず、〈師古が言うには、「与は読んで とする」。〉強くなくて服させられず、威がなくて制御できなかったのではなく、居住に適さない土地、牧養できない民であり、中国を煩わせるに足りないと考えたからです。〈師古が言うには、「地は住むことができず、民は牧養できないという意味」。〉それゆえ、古くは封内を甸服とし、〈師古が言うには、「封内とは封圻千里の内をいう。甸服は、王田を治めて祭祀に供える」。〉封外を侯服とし、〈師古が言うには、「封外は千里の外をいう。侯は候(斥候)の意味で、王のための斥候となる」。〉侯衛を賓服とし、〈服虔が言うには、「侯服の外に、さらに衛服がある。賓は王に賓見すること。侯・衛の二服はともに賓である」。〉蛮夷を要服とし、〈師古が言うには、「さらに侯衛の外にあって九州の内に居る。要は、文徳をもって招き寄せるという意味。音は一遙の反切」。〉戎狄を荒服としたのは、〈師古が言うには、「これは九州の外にあるもの。荒は、荒忽として絶遠で、来去が常でないという意味」。〉遠近の情勢が異なるからです。漢が初めて平定されて以来七十二年、呉や越の人が互いに攻撃した例は数えきれませんが、しかし天子は一度も兵を挙げてその地に入ったことはありません。

臣は聞きます。越には城郭や邑里があるわけではなく、谿谷の間、篁竹の中に処り、〈服虔が言うには、「竹の叢。音は皇」。師古が言うには、「竹の田を篁という」。〉水戦に習熟し、舟を使うのに便利で、土地は深く暗く水険が多いため、〈師古が言うには、「昧は暗い。草木が多いという意味」。〉中国の人はその地勢の険阻を知らずにその地に入れば、百人でもその一人に当たらないでしょう。その地を得ても、郡県とすることはできません。攻めても、急に奪取することはできません。地図でその山川の要塞を調べると、相去ることわずか数寸ですが、実際の間は数百千里もあり、〈師古が言うには、「間は中間の意味。あるいは八九百里、あるいは千里」。〉険阻な地形や林叢はすべてを記載できません。〈師古が言うには、「図にすべて載せることができない。著の音は竹助の反切」。〉見た目は易しいようでも、行うのは非常に難しいのです。天下は宗廟の霊威に頼り、国内は大いに寧らかで、白髪の老人は兵革を見ず、〈師古が言うには、「戴白は、白髪が首にあるという意味」。〉民は夫婦が相守り、父子が相保つことができているのは、陛下の徳によるものです。越人は藩臣と名乗りながら、貢酎の奉納は大内に輸送せず、〈応劭が言うには、「越国は僻遠で、珍奇の貢ぎ物や宗廟の祭りにはいずれも与からない。大内は都内で、国家の宝蔵である」。師古が言うには、「百官公卿表に、治粟の属官に都内令丞があると云う」。〉一兵の用も上の事に供給しません。〈師古が言うには、「給は供える」。〉自ら互いに攻撃しているのに陛下が兵を発して救援するのは、これはかえって中国をもって蛮夷を労させることです。〈師古が言うには、「蛮夷の地で中国の人を疲労させる」。〉かつて越人は愚かで軽薄で、約束を背き反覆し、天子の法度を用いないのは、一日の積み重ねではありません。〈師古が言うには、「積は久しい」。〉一度 詔 を奉じなければ、すぐに兵を挙げて誅伐するならば、臣は後々兵革がいつ止む時があるかと恐れます。

間諜の報告によれば、ここ数年は連続して不作が続き、民衆は爵位を売ったり、子を質に入れたりして衣食をつなぎ、陛下の恩沢によって救済され、溝壑に転がり死ぬことは免れている。四年間不作が続き、五年目には再び蝗害が発生し、民衆の生業はまだ回復していない。今、兵を発して数千里を行軍させ、衣服や食糧を携えて越の地に入り、輿轎で山嶺を越え、舟を引きずって水に入り、数百千里を行き、深い林や竹藪に挟まれ、水路は上下で岩にぶつかり、林の中には多くの蝮蛇や猛獣がおり、夏の暑い時期には、嘔吐や下痢、コレラのような病気が次々と発生し、まだ兵を交えず刃を接する前に、死傷者は必ず多いであろう。以前、南海王が反乱を起こした時、陛下の先臣(淮南厲王長)が将軍の間忌(簡忌)に兵を率いてこれを討たせ、その軍を降伏させ、上淦の地に置いた。その後、再び反乱を起こし、ちょうど暑く雨が多い時期で、楼船の兵卒は水上に住み、櫂を打って戦い、戦う前に病気で死んだ者が半数を超えた。年老いた親は涙を流し、孤児は泣き叫び、家は破れ、生業は散り、遺体を千里の外から迎え、骸骨を包んで帰った。悲しみの気配は数年たっても消えず、長老たちは今でもこれを記憶している。まだその地に入る前に、すでに禍はここまで及んでいるのである。

臣が聞くところによれば、軍旅の後には必ず凶年があるという。民衆がそれぞれその愁苦の気持ちをもって陰陽の和を脅かし、天地の精気を感じ、災いの気がそれによって生じるのである。陛下の徳は天地に匹敵し、明るさは日月の象のようであり、恩恵は禽獣にまで及び、草木にまで潤いをもたらし、一人でも飢え寒さで天寿を全うせずに死ぬ者がいれば、心を痛めて悲しむ。今、国内には犬の吠えるような警報もなく、陛下の兵士を死なせ、中原に曝し、山谷に濡らし、辺境の民は早く門を閉め遅く開け、朝を保って夕を待つことができず、臣の安はひそかに陛下のためにこれを憂慮する。

南方の地形に慣れていない者は、多くが越を人口が多く兵力が強いと考え、辺境の城に難題を突きつけることができると思っている。淮南がまだ一国であった時、多くの者が辺境の官吏を務め、臣がひそかに聞いたところでは、中国とは異なっている。高山によって隔てられ、人の足跡が絶え、車道は通じず、天地が内外を隔てているのである。彼らが中国に入るには必ず領水を下らなければならず、領水の山は険しく、石を漂わせ舟を破り、大きな船で食糧を載せて下ることはできない。越人が変事を起こそうとすれば、必ずまず餘干の境界内で田畑を耕し、食糧を蓄積し、それから入って材木を伐り船を造る。辺境の城が守備を厳重にし、越人が材木を伐りに入る者があれば、すぐに捕らえ、その蓄積を焼き払えば、たとえ百越であっても、辺境の城をどうすることもできまい。しかも越人は力が弱く才能も乏しく、陸戦はできず、車騎や弓弩の使い方も知らないが、それでも侵入できないのは、険しい地形を保ち、中国の人間がその水土に耐えられないからである。臣が聞くところによれば、越の甲卒は数十万を下らず、それに入るには、五倍の兵力が必要であり、車を引いて糧食を運ぶ者はその中に含まれない。南方は暑く湿気が多く、夏に近づくと熱病が発生し、水辺に曝され、蝮蛇の毒が生じ、疫病が多く発生し、兵がまだ血を流す前に病死する者が十のうち二、三に及び、たとえ越国を挙げて虜にしても、失ったものを償うには足りないであろう。

私は道端の噂を聞きましたが、閩越王の弟の甲が王を 弑逆 しいぎゃく して殺したとのことです。甲は誅殺されましたが、その民衆はまだ帰属する所がありません。陛下がもし彼らを招き入れ、中国の地に居住させ、重臣を派遣して慰問し、恩徳を施し褒賞を与えて招致なされば、彼らは必ず幼子を抱え老人を支えて聖徳に帰順するでしょう。もし陛下が彼らを利用する必要がなければ、その絶えた世継ぎを継がせ、滅びた国を存続させ、王侯を立てて閩越を飼いならすのです。そうすれば、彼らは必ず身を委ねて藩臣となり、代々貢物を納めて職務を果たすでしょう。陛下は方寸の印と丈二の組綬をもって、遠方の地を鎮撫なされ、一兵も労せず、一戟も損なうことなく、威厳と徳化をともに行き渡らせることができます。今、兵を率いてその地に入れば、彼らは必ず震え恐れ、役人が自分たちを皆殺しにしようとしていると思い、雉や兎のように山林の険阻な地へ逃げ込むでしょう。背を向けて去れば、再び群れをなして集まり、留まって守備すれば、長い年月を経て、兵士は疲れ果て、食糧は尽き果て、男子は耕作や植樹ができず、婦人は紡績や機織りができず、壮丁は軍に従い、老弱者は食糧を輸送し、家にいる者は食がなく、旅に出る者は糧食を持たず、民は兵役に苦しみ、逃亡する者は必ず多く、それに従って誅伐しても、尽くしきれず、盗賊が必ず起こります。

私は古老の言い伝えを聞きましたが、秦の時代に尉の屠睢を派遣して越を攻撃させ、また監の禄に命じて運河を開削し通路を通させました。越人は深い山林や藪の中に逃げ込み、攻撃することができませんでした。軍を留めて空地を守備させましたが、長い時が過ぎ、兵士は疲労困憊し、越人が出撃してきました。秦軍は大敗し、そこで罪人を徴発して守備に当たらせました。この時、内外は騒動し、民衆は疲弊し、出征する者は帰らず、赴く者は戻らず、皆生きる望みを失い、逃亡して互いに従い、群れをなして盗賊となり、ここに山東の乱が始まりました。これは老子の言う「軍隊の駐屯した所には、荊棘が生い茂る」というものです。戦争は凶事であり、一方に急変があれば、四方がそれに従います。私は変事の発生や奸邪の輩の出現が、ここから始まるのではないかと恐れます。『周易』に「高宗が鬼方を討伐し、三年かかってこれを平定した」とあります。鬼方は小さな蛮夷であり、高宗は殷の盛んな天子です。盛んな天子が小さな蛮夷を討伐するのに、三年かかってようやく平定したというのは、軍事行動を軽々しく行ってはならないことを言っているのです。

私は聞きました。天子の軍勢は征伐はあっても戦闘はない、つまり敢えて対抗する者はいないと。もし仮に越人が僥倖を頼みにして、陛下の軍勢の先鋒に逆らったとして、下働きの兵卒の一人でも不備があって帰還するようなことがあれば、たとえ越王の首を取ったとしても、私はひそかに大漢の恥であると思います。陛下は四海を境とし、九州を家とし、八藪を苑とし、長江と漢水を池とし、生ける民すべてを臣妾とされています。人民の多さは百官の供給に十分であり、租税の収入は天子の御用に十分足ります。心を神明に遊ばせ、聖人の道を執り、黼扆を背にし、玉几にもたれかかり、南面して政務を裁断し、天下に号令すれば、四海の内、響き応じない者はありません。陛下が徳恵を垂れて民を覆い潤し、庶民を安住楽業させれば、その恩沢は万世に及び、子孫に伝わり、永遠に施されます。天下の安泰は泰山のように安定し、四方を結びつけているのです。夷狄の地など、一日の暇をつぶすにも足りず、どうして汗馬の労を煩わす必要がありましょうか。『詩経』に「王道は誠に満ち満ちて、徐方はすでに来たり」とあります。これは王道が非常に大きく、遠方の者もこれを慕うというのです。私は聞きました。農夫が働いて君子を養い、愚者が発言して智者が選択すると。私は幸いにも陛下のために藩屏を守り、自らを防壁とすること、これが人臣の任務です。辺境に危急があれば、身の死を惜しんで愚見を尽くさないのは、忠臣ではありません。私はひそかに恐れます。将軍や役人が十万の軍勢を、一介の使者の任務で済ませられることを!

この時、漢軍はついに出動し、嶺を越えましたが、ちょうど閩越王の弟の餘善が王を殺して降伏したため、漢軍は引き上げました。皇帝は淮南王の忠誠心を称え、将兵の功績を褒めたたえ、厳助に命じて南越に天子の意向を諷諭させました。南越王は頓首して言いました。「天子がわざわざ兵を起こして閩越を誅伐してくださったこと、死んでも報いることができません!」すぐに太子を厳助に随行させて入朝させました。

助が帰還すると、また淮南王に諭して言った。「皇帝が淮南王にお尋ねになる。中大夫の玉を使者として上書して事を述べたことを聞いた。朕は先帝の美徳を奉じ、朝早く起き夜遅くまで寝ずに励んでいるが、明察が行き届かず、さらに不徳であるため、このように連年凶作と災害が民衆を苦しめている。この微々たる身をもって、王侯の上に託されているが、国内には飢え寒さに苦しむ民がおり、南夷が互いに侵奪し合い、辺境を騒がしく不安にさせているので、朕は非常に恐れている。今、王が深く考えを巡らせ、太平の世を明らかにして朕の過失を補い、夏・殷・周三代の最も盛んな時代を称え、天と地が接するほど広く、人の足跡の及ぶところはすべて臣従したと述べられたので、はるかに及ばず甚だ恥ずかしい。王の志を嘉し、尽きることがないので、中大夫の助に朕の意を諭させ、王に越の事を告げさせる。」

助は意を諭して言った。「今、大王が屯兵を発して越の事に臨むことについて上書されたので、陛下はわざわざ臣の助を使者として、その事を王に告げさせたのです。王は遠方にお住まいで、事態が切迫して急であったため、王とともにその計画を立てることはできませんでした。朝廷に政治の欠陥があり、王に憂いをかけたことを、陛下は非常に残念に思っておられます。そもそも兵器は凶器であり、明主が重く見て容易に出さないものですが、しかし五帝三王以来、暴虐を禁じ乱れを止めるのに、武力によらないということは聞いたことがありません。漢は天下の宗主として、生殺与奪の権を握り、海内の命運を制しており、危険な者は安泰を望み、乱れた者は治世を仰ぎ望んでいます。今、越の閩王は貪欲で不仁であり、自分の身内を殺し、親戚を離反させ、行ったことの多くは不義であり、またしばしば兵を挙げて百越を侵陵し、隣国を併合して暴虐に強くなり、密かに奇策をめぐらし、尋陽の楼船を焼き討ちし、会稽の地を招き寄せようとし、句践の跡を踏もうとしています。今また、辺境から閩王が両国の兵を率いて南越を撃ったと報告がありました。陛下は万民の安危と長遠の計のために、人をやって諭し告げて、『天下は安寧であり、それぞれ世を継いで民を撫で、互いに併合することを禁ずる』とおっしゃいました。役人は、彼が虎狼のような心で、百越の利を貪り占めようとし、あるいは順逆をわきまえず、明 詔 を奉じないのではないかと疑い、そうなれば会稽や 章には必ず長患いが起こると考えました。しかも天子は誅伐はしても征伐はせず、どうして百姓を労苦させ士卒を苦しめることがあろうか。そこで両将に命じて境上に駐屯させ、威武を震わせ、名声を響かせたのです。駐屯兵はまだ集結しないうちに、天がその心を導き、閩王は命を落とし、すぐに使者を遣わして駐屯を解き、農時を遅らせないようにしました。南越王は甚だ恥じて恩恵に浴し、美徳を蒙り、心を改め行いを変え、自ら使者に従って入朝し謝罪したいと願いましたが、犬馬の病があり、朝服を着ることができず、そこで太子の嬰 斉 を入侍させました。病が癒えたならば、北闕に伏して、大廷を望み、盛徳に報いたいと願っています。閩王は八月に冶南で挙兵し、士卒は疲れ倦み、三王の衆が相謀ってこれを攻め、その弱い弟の余善を利用してその謀を成し遂げました。今、国は空虚で、使者を遣わして符節を奉じ、誰を立てるべきか請い、自ら立つことを敢えず、天子の明 詔 を待っています。この一挙は、一兵の鋭鋒も挫かず、一卒の死も用いずして、閩王は罪に伏し、南越は恩沢に浴し、威は暴王を震わせ、義は危国の存続を図りました。これは陛下の深い計略と遠大な思慮から出たものです。事の効果は目前に現れており、それゆえ臣の助を使者として王の意を諭させたのです。」

そこで淮南王は謝罪して言った。「湯が桀を伐ち、文王が崇を伐ったとしても、誠にこれを超えるものはありません。臣の安が妄りに愚かな意見や狂った言葉を申し上げましたが、陛下は忍んで誅することなく、使者を遣わして臣の安に未だ聞いたことのないことを 詔 してくださり、誠に厚幸に堪えません。」助はこれによって淮南王と結びつき帰還した。上は大いに喜んだ。

助が侍して宴席でくつろいでいると、上は助が郷里にいた時のことを尋ねた。助は答えて言った。「家が貧しく、友人の婿である富人に辱められました。」上は何を望むかと尋ねると、会稽太守になりたいと答えた。そこで会稽太守に任命した。数年経っても良い評判が聞こえてこなかった。上は 詔 書を賜って言った。「会稽太守に 詔 す。卿は承明の廬に飽き、侍従の務めを煩わしく思い、故郷を懐かしんで、郡の吏として出た。会稽は東は海に接し、南は諸越に近く、北は大江に臨んでいる。近頃、久しく音沙汰がないが、具に春秋の義をもって答えよ。蘇秦の縦横の術を用いるな。」助は恐れ、上書して謝罪し、「春秋に、天王が鄭に出居されたのは、母に仕えることができなかったからであり、それゆえ絶縁されたのです。臣が君に仕えることは、子が父母に仕えるのと同じです。臣の助は誅されるべきです。陛下が忍んで誅することなく、三年の計最を奉じたいと願います。」と称した。 詔 して許し、そのまま侍中に留めた。奇異なことがあると、すぐに文章を作らせ、また賦頌を数十篇作らせた。

後に淮南王が来朝した時、助に厚く賄賂を贈り、私的に議論を交わした。淮南王が反乱を起こすと、事は助と連座し、上はその罪を軽く見て、誅することを望まなかった。廷尉の張湯が争い、助は禁門を出入りする腹心の臣でありながら、外で諸侯とこのように私的に交際したのだから、誅さなければ後々治まらないと主張した。助はついに棄市に処せられた。

朱買臣

朱買臣は字を翁子といい、呉の人である。家は貧しく、書物を読むことを好み、産業を営まず、常に薪を刈り、売って食糧を賄い、束ねた薪を担ぎ、歩きながら書物を誦した。その妻も背負って荷物を運びながら付き従ったが、たびたび買臣に道中で歌うなと止めた。買臣はますます激しく歌い、妻はこれを恥じて、去ることを求めた。買臣は笑って言った。「私は五十歳で富貴になるはずだ。今はもう四十を過ぎている。お前は長い間苦労してきたが、私が富貴になるのを待って、お前の功労に報いるよ。」妻は怒って言った。「あなたのような者が、とうとう餓死して溝の中に埋もれるだけです。どうして富貴になれましょうか。」買臣は留めることができず、すぐに去ることを許した。その後、買臣は一人で道中を歌いながら歩き、墓の間で薪を背負っていた。かつての妻とその夫の家族が一緒に墓参りに行き、買臣が飢え寒さに苦しんでいるのを見て、呼び寄せて飯を食べさせ、飲ませた。

数年後、買臣は上計吏に従って卒となり、重車を率いて 長安 に至り、宮門に赴いて上書したが、上書は長い間返答がなかった。公車に待 詔 していたが、食糧や費用が乏しく、上計吏の卒が交替で乞食をした。たまたま同郷の厳助が貴幸を得ており、買臣を推薦した。召し出されて謁見し、春秋を説き、 楚 辞を語ると、帝は大いに喜び、買臣を中大夫に任命し、厳助とともに侍中とした。この時、ちょうど朔方を築いており、公孫弘が諫めて、中国を疲弊させると言った。上は買臣に命じて弘を難詰させた。その言葉は〈弘伝〉にある。後に買臣は事に坐して免官され、長い間を経て、召し出されて待 詔 となった。

この時、東越がたびたび反覆したので、買臣はそれに乗じて言った。「かつての東越王は泉山に拠って守りを固めていました。一人が険要を守れば、千人でも登ることができません。今、東越王がさらに南行に移り住んだと聞きます。泉山から五百里離れ、大沢の中に住んでいます。今、兵を発して海を渡り、まっすぐ泉山を指し、船を並べ兵を列ね、南行を席巻すれば、破滅させることができます。」上は買臣を会稽太守に任命した。上は買臣に言った。「富貴になって故郷に帰らないのは、刺繍の衣を着て夜道を歩くようなものだ。今、お前はどうするか。」買臣は頓首して辞謝した。 詔 して買臣に郡に着いたら、楼船を整え、食糧や水戦の具を備え、 詔 書が到着するのを待って、軍とともに進むように命じた。

初め、買臣が免官されて待 詔 していた時、常に会稽郡の守邸者に寄食していた。太守に任命されると、買臣は古い衣服を着て、その印綬を懐にしまい、歩いて郡邸に帰った。ちょうど上計の時で、会稽の役人たちがちょうど一緒に群れ飲みをしており、買臣を見向きもしなかった。買臣は部屋の中に入り、守邸者と一緒に食事をし、食べ終わりそうになった時、少しその綬を見せた。守邸者は怪しんで、前に進んでその綬を引き、その印を見ると、会稽太守の印章であった。守邸者は驚き、出て上計掾吏に話した。皆酔っており、大声で叫んだ。「でたらめだ!」守邸者は言った。「試しに来て見てみなさい。」買臣の旧知で、もともと買臣を軽んじていた者が中に入って見て、走り戻り、急いで叫んだ。「本当だ!」座中は驚き騒ぎ、守丞に報告し、互いに押し合いながら中庭に整列して拝謁した。買臣はゆっくりと戸口から出た。しばらくすると、長安の厩吏が駟馬車に乗って迎えに来た。買臣は遂に駅伝車に乗って去った。会稽では太守がまもなく到着すると聞き、民衆を発動して道を清め、県の長吏がこぞって送迎し、車は百余乗に及んだ。呉の境界に入ると、かつての妻とその夫が道を整備しているのを見た。買臣は車を停め、命じて後続の車にその夫婦を乗せ、太守の舎に着くと、園中に置き、食糧を与えた。一ヶ月ほど経つと、妻は自ら首を吊って死んだ。買臣はその夫に銭を乞い、埋葬させた。旧知の人々をことごとく召し出して飲食を共にし、かつて恩を受けた者たちには、すべて報いた。

一年余り経つと、買臣は 詔 を受けて兵を率い、横海将軍 韓 説らとともに東越を撃破し、功績があった。召し出されて主爵都尉となり、九卿に列せられた。

数年後、法に坐して免官され、再び丞相長史となった。張湯が御史大夫であった。初め買臣は厳助とともに侍中となり、貴用事していた時、湯はまだ小吏で、買臣らの前を走り回っていた。後に湯が廷尉として淮南の獄を治め、厳助を陥れたので、買臣は湯を怨んだ。買臣が長史となった時、湯はたびたび丞相の事務を代行し、買臣がもともと貴いことを知っていたので、わざと陵辱して屈服させた。買臣が湯に会うと、床に坐ったまま礼をしなかった。買臣は深く怨み、常に彼を死なせようとした。後に遂に湯の陰事を告発し、湯は自殺し、上もまた買臣を誅殺した。買臣の子の山 拊 は官が郡守、右扶風に至った。

吾丘寿王

吾丘寿王は字を子贛といい、 趙 の人である。年少の時、格五に巧みであることで召し出されて待 詔 となった。 詔 して中大夫 董仲舒 に従って春秋を学ばせると、才能が高く道理に通明していた。侍中中郎に遷ったが、法に坐して免官された。上書して罪を謝し、黄門で馬の飼育を願ったが、上は許さなかった。後に辺境を守って寇難を防ぐことを願ったが、また許さなかった。長い間を経て、上疏して 匈奴 を撃つことを願い、 詔 して状況を問うと、寿王の答えが良かったので、再び召し出されて郎とした。

しばらくして昇進し、ちょうど東郡で盗賊が発生したため、東郡都尉に任命された。皇帝は寿王を都尉としたので、太守を置かなかった。この時、軍事が頻繁に起こり、年が豊かでなく、盗賊が多かった。 詔 を下して寿王に璽書を賜り、言うには、「そなたが朕の前にいた時は、知略が車の輻が轂に集まるように集まり、天下に二つとなく、海内に並ぶ者がないと思っていた。ところが、十余りの城の守備を連ね、四千石の重責を任せたところ、職務はことごとく廃れ、盗賊が横行している。以前の評判にまったく見合わないのは、どうしたことか。」寿王は謝罪し、状況を説明した。

再び召されて光禄大夫侍中となった。丞相の公孫弘が上奏して言うには、「民衆に弓弩を携帯させてはなりません。十人の賊が弩を引き絞れば、百人の役人も前に出られず、盗賊はすぐには罪を認めず、逃げおおせる者が多く、害が少なく利が多いため、これが盗賊が増える原因です。民衆に弓弩を携帯させないようにすれば、盗賊は短い武器を持ち、短い武器で戦えば人数が多い方が勝ちます。多くの役人が少数の賊を捕らえれば、その勢いで必ず捕らえられます。盗賊に害があって利がなければ、法を犯す者はなく、刑罰が不用になる道です。愚臣は、民衆に弓弩を携帯させないようにするのがよいと考えます。」皇帝はこの議論を下に回した。寿王が答えて言うには、

臣は聞く、古の時代に五兵を作ったのは、互いに害をなすためではなく、暴虐を禁じ邪悪を討つためである。平穏な時には猛獣を制し非常事態に備え、事ある時には守衛を設け陣を敷くためである。周王室が衰微し、上には明王がなく、諸侯が力を争い、強い者が弱い者を侵し、多い者が少ない者を虐げ、海内が疲弊し、巧みな詐りが並び生じるに至った。それゆえ知者は愚者に陥り、勇者は怯者を威し、ただ勝つことを務めとし、義理を顧みなかった。それゆえ機巧な変化や器械の装飾など、互いに賊害するための道具が数え切れないほどになった。そこで秦が天下を併せ、王道を廃し、私的な議論を立て、詩書を滅ぼして法令を第一とし、仁恩を除いて刑戮を任せ、名城を壊し、豪傑を殺し、甲兵を溶かし、鋒刃を折った。その後、民衆は耰や鋤、箠や梃で互いに打ち合い、法を犯す者がますます多く、盗賊が数え切れず、ついに赭衣(囚人服)が道を塞ぎ、群盗が山に満ち、ついに乱れて滅びた。それゆえ聖王は教化に務めて禁防を省き、それらが頼りにならないことを知っていたのである。

今、陛下は明徳を輝かせ、太平を建て、俊材を挙げ、学官を興し、三公や有司の中には窮巷から、白屋から起用され、土地を裂いて封じられた者もいる。宇内は日に日に教化され、方外も風に従っている。それでもなお盗賊がいるのは、郡国の二千石の罪であって、弓弩を携帯することの過ちではない。礼に言う、男子が生まれると、桑の弓と蓬の矢を持たせてこれを挙げるのは、事ある時に備えることを明示するためである。孔子は言われた、「私は何を執ろうか?射を執ろうか?」大射の礼は、天子から庶人に至るまで、三代の道である。『詩』に「大侯既に抗がり、弓矢斯れ張る。射夫既に同にし、爾が発功を献ず」とあるのは、的中を貴ぶことを言うのである。愚かにも聞く、聖王は射を合わせて教化を明らかにしたのであって、弓矢を禁じたとは聞かない。しかも禁じようとするのは、盗賊が攻撃や略奪に用いるためである。攻撃や略奪の罪は死罪であるが、それでも止まないのは、大奸は重い誅罰をも恐れないからである。臣は恐れる、邪悪な者が弓弩を携帯しても役人が止められず、善良な民が自衛のために法禁に触れるなら、それは賊の威を専有し民の救いを奪うことになる。窃かに考えるに、奸を禁じるのに益なく、先王の典を廃し、学者にその礼を習い行うことを得させないのは、大いに不便である。

上書が奏上されると、皇帝はこれをもって丞相の弘を難じた。弘は屈服して服した。

汾陰で宝鼎が得られると、武帝はこれを嘉し、宗廟に薦見し、甘泉宮に蔵した。群臣は皆、上寿して賀し言うには、「陛下は周の鼎を得られました。」寿王だけは周の鼎ではないと言った。皇帝はこれを聞き、召して問うて言うには、「今、朕は周の鼎を得たが、群臣は皆そうだと言い、寿王だけはそうではないと言う。どうしたことか。説明があれば許し、なければ死罪とする。」寿王が答えて言うには、「臣、どうして説明なしにいられましょうか!臣は聞きます、周の徳は后稷に始まり、公劉に長じ、大王に大となり、文武に成り、周公に顕れた。徳沢は上に明らかで、天下に漏泉のごとく、通じないところはなかった。上天が報応し、鼎は周のために現れたので、周鼎と名付けたのである。今、漢は 高祖 より周を継ぎ、また徳を明らかにし行いを顕わし、恩を布き恵を施し、六合が和同している。陛下に至っては、祖業を恢廓し、功徳はますます盛んで、天瑞が並び至り、珍祥がことごとく現れている。昔、秦の 始皇帝 は自ら彭城で鼎を探したが得られなかった。天は徳ある者に福を与え、宝鼎は自ら出た。これは天が漢に与えたものであり、すなわち漢の宝であって、周の宝ではない。」皇帝は言った、「よろしい。」群臣は皆、万歳を称えた。この日、寿王に黄金十斤を賜った。

後に事に坐して誅殺された。

主父偃

主父偃は、斉国臨菑の人である。長短縦横の術を学び、遅くになって易、春秋、百家の言を学んだ。斉の諸子の間を遊学したが、諸儒生が互いに排斥し、斉に容れられなかった。家は貧しく、借りるものも得られず、北に 燕 、趙、中山を遊んだが、皆厚遇せず、客として甚だ困窮した。諸侯の中に遊ぶに足る者がいないと考え、元光元年、関に入って衛将軍に会った。衛将軍はたびたび皇帝に言上したが、皇帝は省みなかった。資金が乏しく、長く留まり、諸侯の賓客も多く彼を嫌ったため、ついに闕下に上書した。朝に奏上し、夕方に召されて入見した。言上した九つの事柄のうち、八つは律令に関する事柄で、一つは匈奴征伐を諫めることであった。言うには、

臣は聞く、明主は切諫を厭わずして広く観察し、忠臣は重誅を避けずして直諫する。この故に事は策を遺さず、功は万世に流れるのである。今、臣は忠を隠し死を避けて、愚かな計略を呈することを敢えてせず、願わくは陛下幸いに赦して少しこれを察せられんことを。

『司馬法』に曰く、「国は大なりといえども、戦を好めば必ず亡び、天下は平なりといえども、戦を忘れれば必ず危うし」と。天下が既に平定されると、天子は大愷(凱旋の楽)を奏し、春に蒐(狩猟)し秋に獮(狩猟)し、諸侯は春に旅(軍隊)を整え、秋に兵を治める。これは戦いを忘れないためである。かつ怒りは逆徳であり、兵は凶器であり、争いは末節である。古の人君は一たび怒れば必ず屍を伏せ血を流すので、聖王はこれを実行することを重んじた。戦勝に務め、武事を窮めても、後悔しない者はない。

昔、秦の皇帝は戦勝の威勢を任せ、天下を蚕食し、戦国を併呑し、海内を一つにし、功績は三代(夏・殷・周)に並んだ。勝つことに務めて休まず、匈奴を攻めようとした。李斯が諫めて言った、「なりません。匈奴には城郭の住居もなく、物資の貯蔵も守らず、鳥のように移動し、捕らえ制することが難しいのです。軽兵で深く入れば、食糧は必ず尽き、食糧を運搬して行けば、重くて事に及ばない。その地を得ても利益とするに足らず、その民を得ても調和させて守ることはできません。勝てば必ずこれを捨てるのであって、民の父母ではありません。中国を疲弊させ、匈奴に快く思わせるのは、完全な計略ではありません」。秦皇帝は聞き入れず、ついに蒙恬に兵を率いさせて胡を攻めさせ、千里の地を退け、黄河を境とした。土地はもともと沼沢で塩分が多く、五穀が生じない。その後、天下の丁男(成年男子)を徴発して北河を守らせた。兵を暴にし師を露わにして十余年、死者は数え切れず、ついに河を越えて北へ進むことはできなかった。これは果たして人の衆多が足りず、兵器が備わっていなかったからであろうか。その情勢が許さなかったのである。また天下に飛芻輓粟(緊急に飼料と食糧を輸送すること)を行わせ、黄・腄・琅邪など海に面した郡から起こし、北河へ転送輸送した。およそ三十鍾で一石が届く程度であった。男子は懸命に耕作しても糧餉に足らず、女子は紡績しても帷幕に足りなかった。百姓は疲弊し、孤児・寡婦・老人・弱者は互いに養うことができず、路上で死ぬ者が相望み、天下が叛き始めたのである。

高皇帝が天下を平定し、辺境で土地を攻略した時、匈奴が代谷の外に集結していると聞いてこれを撃とうとした。御史の成が諫めて言った、「なりません。匈奴は獣のように集まり鳥のように散り、これを追うのは影を打つようなものです。今、陛下の盛徳をもって匈奴を攻めるのは、臣はひそかに危惧します」。高帝は聞き入れず、ついに代谷に至り、果たして平城の包囲があった。高帝はこれを悔い、劉敬を遣わして和親を結ばせ、その後天下に干戈の事がなくなった。

故に兵法に曰く、「師十万を興せば、日費千金」と。秦は常に数十万の衆を集積したが、たとえ敵軍を覆し将を殺し、 単于 を捕虜にしても、かえって深い怨みを結ぶだけで、天下の費用を償うには足りなかった。匈奴は盗みを行い侵掠することを業とし、天性が本来そうなのである。上は虞・夏・殷・周から、もとよりこれを課役監督せず、禽獣のように畜養し、人として同等に扱わなかった。上(古)を観て虞・夏・殷・周の伝統を見ず、下(近世)に従って近世の過失を踏襲するのは、これが臣の大いに恐れるところであり、百姓が苦しむところである。かつ兵が長く続けば変事が生じ、事が苦しければ思慮が変易する。辺境の民を疲弊愁苦させ、将吏が互いに疑って外(敵国)と内通すれば、故に尉佗・ 章邯 はその私心を成し遂げ、秦の政令は行われず、権力が二人に分かれた。これが得失の効果である。故に周書に曰く、「安危は令を出すに在り、存亡は用いる所に在り」と。願わくは陛下、よく計られてさらにこれを察せられんことを。

この時、徐楽・厳安もともに上書して世務を述べた。上書が奏上されると、上(皇帝)は三人を召し出して言った、「公たちは皆どこにいたのか。どうしてこんなに遅く会えたのだろうか」。そこで主父偃・徐楽・厳安を皆、郎中に任じた。偃はたびたび上疏して事を言い、謁者、中郎、中大夫と昇進した。一年のうちに四度の昇進をした。

偃は上に説いて言った、「古の諸侯は地が百里を超えず、強弱の形勢は制しやすかった。今の諸侯はあるいは城を数十も連ね、地方千里に及び、平時は驕奢で淫乱になりやすく、緊急時はその強さを頼みとして合従し、京師に逆らう。今、法によって削減すれば、逆節が萌し起こる。前日の 晁錯 がそうである。今、諸侯の子弟はあるいは十数人いるが、嫡嗣だけが代わりに立ち、残りはたとえ骨肉でも、尺の地の封もない。すると仁孝の道が宣揚されない。願わくは陛下、諸侯に推恩して子弟に分け与え、土地をもって侯に封じることを許されたい。彼らは皆、望み通りになることを喜び、上は徳を施し、実質的にその国を分割するので、必ず次第に自ら弱体化するでしょう」。そこで上はその計略に従った。また上に説いて言った、「茂陵が初めて建てられたので、天下の豪傑・兼併の家で、民衆を乱す者は皆、茂陵に移住させることができます。内は京師を充実させ、外は奸猾を消滅させる。これがいわゆる誅殺せずして害を除くことです」。上はまたこれに従った。

衛皇后を尊び立て、燕王定国の陰事を暴いたことについて、偃は功績があった。大臣たちは皆その口を恐れ、賄賂は千金に累積した。ある人が偃に説いて言った。「大いに横暴です!」偃は言った。「臣が結髪して遊学して四十余年、身は遂げられず、親は子とせず、兄弟は受け入れず、賓客は私を見捨て、私は困窮の日が久しい。丈夫たるもの、生きて五鼎の食をせずんば、死しては五鼎で烹られるのみだ!私は日暮れの身ゆえ、敢えて倒行逆施するのだ。」

偃は盛んに朔方の地が肥沃で豊饒であり、外は黄河に阻まれ、蒙恬が城を築いて匈奴を駆逐し、内では転輸や戍漕を省き、中国を広め、胡を滅ぼす根本であると述べた。上はその説を覧し、公卿に下して議させたが、皆不便であると言った。公孫弘は言った。「秦の時、かつて三十万の衆を発して北河を築いたが、結局成らず、やがて放棄した。」朱買臣が弘を難詰して屈服させたので、遂に朔方を置いたが、これは元々偃の計略であった。

元朔年間、偃は斉王に内に淫佚の行いがあると上言した。上は偃を斉の相に任命した。斉に至ると、兄弟や賓客をことごとく召し、五百金をばらまいて与え、責めて言った。「初め私が貧しかった時、兄弟は私に衣食を与えず、賓客は私を門内に入れなかった。今、私が斉の相となると、諸君は私を千里も迎えに来る。私は諸君と縁を切る。二度と偃の門に入るな!」そこで人を使って、王が姉と姦通したことを王に突きつけて動揺させた。王はついに逃れられないと思い、燕王のように死罪にされるのを恐れ、遂に自殺した。

偃が初めて布衣であった時、かつて燕、趙を遊歴し、その貴くなってから、燕の事を暴いた。趙王は彼が国の患いとなることを恐れ、上書してその陰事を言おうとしたが、中央に居るため、敢えて発しなかった。彼が斉の相となり、関を出ると、すぐに人を使って上書し、偃が諸侯から金を受け取り、それゆえ諸侯の子弟の多くが封を得られたと告発した。斉王が自殺したと聞くと、上は大いに怒り、偃がその王を脅迫して自殺させたと考え、遂に召し下して吏に治めさせた。偃は諸侯から金を受けたことは認めたが、実際に斉王を脅迫して自殺させたわけではなかった。上は誅殺するのをやめようとしたが、公孫弘が争って言った。「斉王は自殺して後嗣がなく、国は除かれて郡となり、漢に入りました。偃はそもそも首悪です。偃を誅殺しなければ天下に謝罪することはできません。」遂に偃を族誅した。

偃が貴幸の盛んな時、客は数千に及んだが、族誅されて死ぬと、一人として見舞う者はなく、ただ孔車だけが収めて葬った。上はこれを聞き、車を長者とした。

徐樂

徐樂は、燕の無終の人である。上書して言った。

臣は聞く、天下の患いは土崩にあるのであって、瓦解にあるのではない。古今とも同じである。

何を土崩というか。秦の末世がこれである。 陳勝 は千乗の尊さもなく、強固な土地もなく、身は王公大人や名族の後裔でもなく、郷里の称賛もなく、孔丘、曾参、墨子のような賢さも、陶朱、猗頓のような富もなかった。しかし窮巷から起こり、棘矜を奮い起こし、片肌を脱いで大声をあげると、天下は風に従った。この故は何か。民が困窮しているのに主が憐れまず、下が怨んでいるのに上が知らず、風俗が既に乱れているのに政治が修まらない、この三つが陳勝の頼みとした所以である。これを土崩という。故に天下の患いは土崩にあるというのである。

何を瓦解というか。呉、楚、斉、趙の兵がこれである。七国は大逆を謀り、皆万乗の君と称し、帯甲数十万、威は十分にその境内を厳しくし、財は十分にその士民を勧めるに足りた。しかし西に向かって尺寸の地を攘うこともできず、かえって中原で捕らえられた。この故は何か。権力が匹夫より軽く、兵が陳勝より弱かったからではない。当の時、先帝の徳が未だ衰えず、安土楽俗の民が多かったので、諸侯には境外の助けがなかったのである。これを瓦解という。故に天下の患いは瓦解にはないというのである。

このことから見れば、天下に真に土崩の勢いがあるならば、たとえ布衣の貧窮した処士であっても、ある者は首唱して難を起こし、海内を危うくすることができる。陳勝がこれである。まして韓・趙・ 魏 の君主のような者が存続しているならばなおさらであろう。天下がまだ治まっていなくても、真に土崩の勢いがなければ、たとえ強国や精鋭の兵があっても、踵を返す間もなく身を捕らわれることになる。呉楚七国の乱がこれである。まして群臣や百姓が乱を起こすことなどできようか。この二つの事態は、安と危の明らかな要点であり、賢明な君主が留意して深く考察すべきものである。

近ごろ、関東では五穀がたびたび実らず、年が豊かにならず、民は多く窮困に陥っている。これに辺境の事態が重なっている。道理を推し量って観察すれば、民はその住むところに安住できない状態にあるはずである。安住できないから動きやすく、動きやすいということは、土崩の勢いである。だから賢明な君主はただ一人で万物変化の根源を観察し、安危の機微を明らかにし、廟堂の上でこれを修め、まだ形にならない禍患を消し去るのである。その要は、期して天下に土崩の勢いがないようにするだけである。だからたとえ強国や精鋭の兵があっても、陛下が走獣を追い、飛鳥を射ち、遊猟の苑囿を広げ、放縦で気ままな観覧を尽くし、駆け回る楽しみを極めても、平常どおりでよい。金石や絲竹の音が耳から絶えることがなく、帷幄の中の私的な楽しみや俳優や侏儒の笑いが面前に欠けることがなくても、天下に長く続く憂いはない。名君は必ずしも夏の禹や子姓の湯である必要はなく、風俗は必ずしも成王・康王の時代である必要はない。とはいえ、臣はひそかに陛下の天性の資質、寛仁な素養をもって、真に天下を務めとされれば、湯王や文王に並ぶことは難しくなく、成王・康王の時代の風俗が必ずしも復興しないとは限らないと思う。この二つの事態が確立してこそ、その後、尊厳で安泰な実を享受し、広大な名誉を当世に揚げ、天下を親しませ四夷を服従させ、余った恩恵と遺された徳が数世代にわたって盛んとなり、南面して扆に背き、袖を整えて王公に揖拝することができる。これが陛下のなさるべきことである。臣は聞く、王道を図って成し遂げられなくても、その末路はなお安泰をもたらすに足ると。安泰であれば、陛下は何を求めて得られず、何の威厳を成し遂げられず、何を征して服従させられないことがあろうか。